ただ、むしろたまには読み返してみた方が良さそうだとは思ってきた。まだ、同じテーマを同じように繰り返して書くほどには "ぼけ" てはいないつもりだが、自身の日々の関心のあり様がどう変化しているのかしていないのかとか、関心事に対する思考の深さが深まっているのかそうでもないのかなどを自覚することはあって良いに違いなかろう。
今日、他の理由もあって、早8年に渡る日誌をざっとチェックしてみた。とりあえず、副産物として、ページのスクリプトのバグのいくつかを発見でき、修正に至ったことが挙げられようか。
そのほかには、先ず第一に、ダラダラと冗漫な文章の多いことが気になった。日頃気にならないわけでもなかったものの、それにしても読む側に身を置いてみると、やはり苛立つ。考えながら書いているからやむを得ないと言えばそうだが、もっと単純明快さの追求に留意すべきかと思えた。それが直ちに可能なのかどうかは甚だ難しいところだとは感じているが、反省点であることは間違いない。
第二に、その点と関係していると思われるが、一日に書くことは "一テーマ" に絞った挙句、それをどう深めるのかに注力すべきだろう、とも再認識した。その方が読む立場、あるいは読み返した際にも、その方がわかりやすく、そして再利用もし易いはずだ。
純粋なブログに形式を変えた時にも、その "一ページ・一テーマ" が理想のブログ形式を十分に意識したはずではあったのだが......。
しかし、これは、言うは易く行うは難しのひとつに違いない。どちらかと言えば、ダラダラと書きながら考えてみて、はじめてテーマらしきものに遭遇するというのが、残念ながらの実情だったりしてきたからだ。
ただ、最近、次のようなことを考えたことがあった。
現在のような、何から何までが超スピードで流れ行く環境にあっては、これまでのどんな時代よりも "状況認識" をスピーディーに進めたり、直面する事態やその本質を暫定的ではあっても瞬時に掴む必要性がますます高まっている、と。
それは、そうありたいという願望というよりも、そうでなければ考えるという行為が徒労に終わりかねないといった差し迫ったものであった。
昔から "巧遅拙速" という言葉がある。その重要さは物事によりけりだという考えもある。しかし、むしろ考えてみるべきは、現代のような時代環境にあっては、 "巧" というもの自体が一体何を意味するのかについての再吟味なのかもしれないと思ったりもする。十全な正解ではなくとも、それを目指す近似値としての解であるならば、 "速" の状態でフィックスしてみること、それが現代における "巧" であるのかもしれないと感じないわけでもない。
そして、そのためにも自分なりの "直感" を研ぎ澄ますとともに、その視点で思考を "整序" し切れるような、そんな訓練をし続けるべきか、と。
こうした課題に気づいてみるならば、この日誌の改善こそは、格好の材料ではないかと思えてくるのであった...... (2008.11.24)
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