このところは、差し当たって課題としてきた技術的テーマに "のめり込んで" いる。何度も書いているが、こうしたワケのわからない異常事態にあっては、右往左往するヒマがあったら、とにかくこれぞと思う対象に "のめり込む" 姿勢となることこそがベターな過ごし方だと考えてきたからだ。ベストの選択なぞは、後になってからわかるもので、リアルタイムではベターだと思えればそれでよいはずだろう。
その甲斐あってか、少し前までは濃霧が掛かったように見えなかった技術的事柄が、まるで "謎解き" でもされたかのように見えてくる。ここまで来ればしめたものだと感じたりしている。
そうなると、その "のめり込み" が決して苦にならず、まるで "ペースメーカー" のような気さえしてくるから不思議である。
その甲斐あってか、少し前までは濃霧が掛かったように見えなかった技術的事柄が、まるで "謎解き" でもされたかのように見えてくる。ここまで来ればしめたものだと感じたりしている。
そうなると、その "のめり込み" が決して苦にならず、まるで "ペースメーカー" のような気さえしてくるから不思議である。
そんなことで、 "わかる" ということはどういうことかと、ふと思いを巡らす。
そう言えば、昨日も触れた辺見氏は、おもしろいことを語っていた。話をする、会話をすることの妙味は、自分自身や他者の、まさに独自な "マチエール" が了解できたりできなかったりすることだ、と。
つまり、個人としての自分が個人としての他者の "固有な事情" (それを辺見氏は "マチエール" と表現していた。 "クオリア[ by 茂木健一郎 ]" だと言ってもいいのかもしれない)を "わかる" こと、また他者が自身のそれを "わかる" ということは、ほとんど不可能に近いことだというのである。まさにそのとおりなのであろう。
"わかる" という行為の前提には、たとえその対象が人であれ、モノの仕組みであれ、理論であれ、一筋縄ではゆかない "亀裂" が控えているのだと思える。たとえれば、生物における、自他を区別する本能的な機能である "拒絶反応" のような感じさえする。
だから通り一遍にその "亀裂" をおざなりにする限りにおいては、その "亀裂" を超えることはほとんど不可能であるに違いない。
もっとも、そんな "亀裂" があることさえ知らない場合には、対岸へと渡れた "つもり" となったり、此岸(しがん)に渡ってもらった "つもり" となったりという、実にお目出度い境地で終わってしまうのであろう。それも悪くはなさそうだが、それが通用する空間は日毎に狭まっているようだ。
他者のもとの "マチエール" や、 "クオリア" が、パーフェクトに共感できないまでも、それをそれとしてかろうじて了解できそうになった時、はじめて "わかるような気がしてくる" のかも知れない。そのことは、人ではないモノという対象に対しても同じことが言えるのではなかろうか。
人が何かを "わかる" ということはおこがましいことなのであり、 "わかるような気がしてくる" というのが精々のところであるのかもしれない。
そして、人に対しても、モノに対しても、バカチョン的に "わかろう" とすれば、ほぼ確実に足元を掬われるのではないかと感じている。残念ながら、このご時世では "足元を掬われている" ことにすら気づかず、肩で風切って闊歩している御仁たちが多いわけであるが...... (2009.02.25)
そう言えば、昨日も触れた辺見氏は、おもしろいことを語っていた。話をする、会話をすることの妙味は、自分自身や他者の、まさに独自な "マチエール" が了解できたりできなかったりすることだ、と。
つまり、個人としての自分が個人としての他者の "固有な事情" (それを辺見氏は "マチエール" と表現していた。 "クオリア[ by 茂木健一郎 ]" だと言ってもいいのかもしれない)を "わかる" こと、また他者が自身のそれを "わかる" ということは、ほとんど不可能に近いことだというのである。まさにそのとおりなのであろう。
"わかる" という行為の前提には、たとえその対象が人であれ、モノの仕組みであれ、理論であれ、一筋縄ではゆかない "亀裂" が控えているのだと思える。たとえれば、生物における、自他を区別する本能的な機能である "拒絶反応" のような感じさえする。
だから通り一遍にその "亀裂" をおざなりにする限りにおいては、その "亀裂" を超えることはほとんど不可能であるに違いない。
もっとも、そんな "亀裂" があることさえ知らない場合には、対岸へと渡れた "つもり" となったり、此岸(しがん)に渡ってもらった "つもり" となったりという、実にお目出度い境地で終わってしまうのであろう。それも悪くはなさそうだが、それが通用する空間は日毎に狭まっているようだ。
他者のもとの "マチエール" や、 "クオリア" が、パーフェクトに共感できないまでも、それをそれとしてかろうじて了解できそうになった時、はじめて "わかるような気がしてくる" のかも知れない。そのことは、人ではないモノという対象に対しても同じことが言えるのではなかろうか。
人が何かを "わかる" ということはおこがましいことなのであり、 "わかるような気がしてくる" というのが精々のところであるのかもしれない。
そして、人に対しても、モノに対しても、バカチョン的に "わかろう" とすれば、ほぼ確実に足元を掬われるのではないかと感じている。残念ながら、このご時世では "足元を掬われている" ことにすら気づかず、肩で風切って闊歩している御仁たちが多いわけであるが...... (2009.02.25)
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