"カスタマイズ" という言葉をよく耳にする。
好みや個性、独自性が強調される風潮があれば当然ながら、自己の状況に見合った "カスタマイズ" という "改変" があったとしても何の不思議もない。
ただ、この "カスタマイズ" というアクションにも一定の "ルール" がありそうだし、そんなウルセェーこと言うなよ、というならば、まさに "自己責任" という杓子定規な言葉を引き受ける覚悟がいりそうだ。
そうした事情を呑み込まずに、 "自己流" に勝手なことをしておいて、手に負えなくなったら、さぁーて、と言って頼る相手探しに奔走するとしたら、みっともないことこの上なかろう。
好みや個性、独自性が強調される風潮があれば当然ながら、自己の状況に見合った "カスタマイズ" という "改変" があったとしても何の不思議もない。
ただ、この "カスタマイズ" というアクションにも一定の "ルール" がありそうだし、そんなウルセェーこと言うなよ、というならば、まさに "自己責任" という杓子定規な言葉を引き受ける覚悟がいりそうだ。
そうした事情を呑み込まずに、 "自己流" に勝手なことをしておいて、手に負えなくなったら、さぁーて、と言って頼る相手探しに奔走するとしたら、みっともないことこの上なかろう。
しかし、世の中には、こうした "みっともない人たち" が相変わらず少なくない。
ところで、機械好きな男の子ならば、子どもの頃に手近なところにあった目覚まし時計などを "ヒヤヒヤ" もので分解した覚えがあるのではなかろうか。
これなどは "カスタマイズ" をしようなぞという大それた意図はなくとも、この種のリスキーなアクションのはずである。
もちろん、この時に感じる "ヒヤヒヤ" は、分解するのはよしとして、もしも元通りに再構築できなかったらどうしよう......、というものであろう。往々にして、ネジが1、2本余ってしまったり、それどころかどうしても現状復帰にこぎつけることができなかったりするからである。
ところが、こういう "ヒヤヒヤ" 感というのは、恐れの一種であるには違いないが、考えようによっては "充実感" でもありそうだ。つまり、とりあえず現状復帰への道(=分解の手順)を知っているのは自分自身のみであり、見事に再構築できたならば、自身の能力を存分に自覚することができるからである。その逆もまた真ではあろうが......。
世の中の "みっともない人たち" というのは、誰だって望むであろう "自身の能力を存分に自覚したい" という欲求に身を任せながら、リスクをリスクとして背負わない。それが "みっともない" と言うのである。
"ヒヤヒヤ" するのであれば、手堅く現状復帰への道を思い出しやすくするためのメモを残しておくとか、そもそも当該対象の部分は、 "カスタマイズ" をしても他に影響を及ぼさない部分かどうかを事前に良く調べてみたり、リスクを小さくしておく手立てはいくらでもありそうだ。なのに、そうした手順を面倒くさがって、着手への衝動だけに身を任せるから、子どもっぽいというか、動物的であり、 "みっともない" わけである。
まあ、こうした "カスタマイズ" が、個人的な趣味趣向の範囲で行われる分にはさほど迷惑を被る人も生まれないであろう。
しかし、これぞ "みっともない" と思われるのは、自分自身しか知らないかたちで改変し "カスタマイズ" した結果、思わぬ "不具合" が発生してしまい、匙を投げてメーカーやベンダーに泣きつくようなケースなのだ。
かつて、PCショップで "自作PC" というコンセプトを打ち出していた頃には、お客さんの中に、結構、こうした "みっともない" オタクがいないではなかった。まあ、想定されていたことでもあったため目くじらを立てることもなかった。
だが、まともなはずのビジネス界でも、今なおこうした "みっともない" 方々がいらっしゃるようなので、今日はこんなことを題材にしたのであった...... (2009.03.08)
ところで、機械好きな男の子ならば、子どもの頃に手近なところにあった目覚まし時計などを "ヒヤヒヤ" もので分解した覚えがあるのではなかろうか。
これなどは "カスタマイズ" をしようなぞという大それた意図はなくとも、この種のリスキーなアクションのはずである。
もちろん、この時に感じる "ヒヤヒヤ" は、分解するのはよしとして、もしも元通りに再構築できなかったらどうしよう......、というものであろう。往々にして、ネジが1、2本余ってしまったり、それどころかどうしても現状復帰にこぎつけることができなかったりするからである。
ところが、こういう "ヒヤヒヤ" 感というのは、恐れの一種であるには違いないが、考えようによっては "充実感" でもありそうだ。つまり、とりあえず現状復帰への道(=分解の手順)を知っているのは自分自身のみであり、見事に再構築できたならば、自身の能力を存分に自覚することができるからである。その逆もまた真ではあろうが......。
世の中の "みっともない人たち" というのは、誰だって望むであろう "自身の能力を存分に自覚したい" という欲求に身を任せながら、リスクをリスクとして背負わない。それが "みっともない" と言うのである。
"ヒヤヒヤ" するのであれば、手堅く現状復帰への道を思い出しやすくするためのメモを残しておくとか、そもそも当該対象の部分は、 "カスタマイズ" をしても他に影響を及ぼさない部分かどうかを事前に良く調べてみたり、リスクを小さくしておく手立てはいくらでもありそうだ。なのに、そうした手順を面倒くさがって、着手への衝動だけに身を任せるから、子どもっぽいというか、動物的であり、 "みっともない" わけである。
まあ、こうした "カスタマイズ" が、個人的な趣味趣向の範囲で行われる分にはさほど迷惑を被る人も生まれないであろう。
しかし、これぞ "みっともない" と思われるのは、自分自身しか知らないかたちで改変し "カスタマイズ" した結果、思わぬ "不具合" が発生してしまい、匙を投げてメーカーやベンダーに泣きつくようなケースなのだ。
かつて、PCショップで "自作PC" というコンセプトを打ち出していた頃には、お客さんの中に、結構、こうした "みっともない" オタクがいないではなかった。まあ、想定されていたことでもあったため目くじらを立てることもなかった。
だが、まともなはずのビジネス界でも、今なおこうした "みっともない" 方々がいらっしゃるようなので、今日はこんなことを題材にしたのであった...... (2009.03.08)
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