以前に、妙なことを考えたことがあった。もっとも常に妙なことを考えようとしているようではあるが......。
何かの拍子に、利き腕は右利きの自分なのであるが、左手を頻繁に使って "両利き" となるよう訓練しておいた方がいいのかな......、と思ったことがあった。別にそれで何かをしようと積極的な意図があったわけではなく、もし、右手が不自由になったらさぞかし困るだろうという取り越し苦労の気持ちからだったようだ。
同様に、昨晩、入浴していてつまらないことに思い至ったものだった。
掌を握って拳を作り、先ず小指を立てる。次に、薬指を立てる。すると、薬指は立つことは立つわけだが、小指の "直立姿勢" ほどには立たない。角度にしてみると、45度くらいでフリーズしている。あれっ、以前からこんな風だったかな? と、入浴中はヒマでしかないから、妙に悩んだりした。右手と同様に左手も薬指は惨めな日陰者といった状態であることを今さらながら気づく。
それで、その薬指をむきになってムリやり立てようとしてみると、腕の内側の腱が突っ張るような痛みが走る。まるで、身体の方から、そいつはムリなんですよ、そういうものなんですよ、と諭されているような気分となったりした。
何かの拍子に、利き腕は右利きの自分なのであるが、左手を頻繁に使って "両利き" となるよう訓練しておいた方がいいのかな......、と思ったことがあった。別にそれで何かをしようと積極的な意図があったわけではなく、もし、右手が不自由になったらさぞかし困るだろうという取り越し苦労の気持ちからだったようだ。
同様に、昨晩、入浴していてつまらないことに思い至ったものだった。
掌を握って拳を作り、先ず小指を立てる。次に、薬指を立てる。すると、薬指は立つことは立つわけだが、小指の "直立姿勢" ほどには立たない。角度にしてみると、45度くらいでフリーズしている。あれっ、以前からこんな風だったかな? と、入浴中はヒマでしかないから、妙に悩んだりした。右手と同様に左手も薬指は惨めな日陰者といった状態であることを今さらながら気づく。
それで、その薬指をむきになってムリやり立てようとしてみると、腕の内側の腱が突っ張るような痛みが走る。まるで、身体の方から、そいつはムリなんですよ、そういうものなんですよ、と諭されているような気分となったりした。
こんなバカバカしいことに関心を向けるのは、どこかに、 "リハビリ・トレーニング" が視野に入っているからなのかもしれない。
つまり、いろいろなケースがあろうけれども、 "リハビリ" というのは、脳や神経の作用によって筋肉動作が不自由になったり、あるいは、長い生活習慣の過程で固着してそうなってしまった状態を、様々な意図的な "辛い" 動作によって克服することのはずだ。
それは結構 "辛い" ことであるに違いないと、常々想像してきたものである。
そして、その "辛い" ことの中心にあるのは、その "是正" 動作について、脳からの指令というものがほとんど無力でありそうな点ではなかろうか。
先ほどのバカバカしい例に戻るならば、薬指に向かって、小指のように毅然と立ちなさい! と脳が考え、指示したとしても何の意味もないわけである。むしろ、薬指を "他力的" に立たせる動作を繰り返してやり、脳に "フィードバック" を掛けてやることの方が効果的なのかもしれない。
実につまらないことを書いている。それで、意味がありそうなことを言うならば、脳による指令・指示というのは、以外に "虚弱" なのではないか、という点なのである。
確かに、脳機能は、積極的に働きかければ "無限" に近いほど様々なパワーを発揮するようでもある。右利きを左利きのようにすることもその例になるのだろう。
しかし、ここで重要なことは、 "積極的に働きかければ" という点であるに違いない。そうしなければ、むしろ脳というものは自身の可能性を眠らせてしまい、 "限定された機能" のみで力を発揮しようとするもののようだ。それは、別に、脳が怠け者だということではなくて、それが脳活動の "エコノミー" ポリシーでありそうだ。
この辺の事情は、脳と身体との関係のみならず、脳の専門機能である思考それ自体においても十分に当てはまっているはずだ。いや、鬱病や認知症などを想定するならば、こちらの分野の方が要注意なのかもしれない。
こうした "道理" を考えてみると、脳やその他の部分の老化がもはや他人事ではなくなってきた者として、さてさて、どのように自身の脳や身体を "調教" すべきかと考えたりもするわけである。
また、妙なアナロジーで言うならば、 "社会の脳" とも言えそうな "政治(政府)" にしたところが、 "積極的に働きかければ" まともにもなろうけれど、そうでなければ体たらくに陥るのは自然なことであるのかもしれない...... (2009.03.27)
つまり、いろいろなケースがあろうけれども、 "リハビリ" というのは、脳や神経の作用によって筋肉動作が不自由になったり、あるいは、長い生活習慣の過程で固着してそうなってしまった状態を、様々な意図的な "辛い" 動作によって克服することのはずだ。
それは結構 "辛い" ことであるに違いないと、常々想像してきたものである。
そして、その "辛い" ことの中心にあるのは、その "是正" 動作について、脳からの指令というものがほとんど無力でありそうな点ではなかろうか。
先ほどのバカバカしい例に戻るならば、薬指に向かって、小指のように毅然と立ちなさい! と脳が考え、指示したとしても何の意味もないわけである。むしろ、薬指を "他力的" に立たせる動作を繰り返してやり、脳に "フィードバック" を掛けてやることの方が効果的なのかもしれない。
実につまらないことを書いている。それで、意味がありそうなことを言うならば、脳による指令・指示というのは、以外に "虚弱" なのではないか、という点なのである。
確かに、脳機能は、積極的に働きかければ "無限" に近いほど様々なパワーを発揮するようでもある。右利きを左利きのようにすることもその例になるのだろう。
しかし、ここで重要なことは、 "積極的に働きかければ" という点であるに違いない。そうしなければ、むしろ脳というものは自身の可能性を眠らせてしまい、 "限定された機能" のみで力を発揮しようとするもののようだ。それは、別に、脳が怠け者だということではなくて、それが脳活動の "エコノミー" ポリシーでありそうだ。
この辺の事情は、脳と身体との関係のみならず、脳の専門機能である思考それ自体においても十分に当てはまっているはずだ。いや、鬱病や認知症などを想定するならば、こちらの分野の方が要注意なのかもしれない。
こうした "道理" を考えてみると、脳やその他の部分の老化がもはや他人事ではなくなってきた者として、さてさて、どのように自身の脳や身体を "調教" すべきかと考えたりもするわけである。
また、妙なアナロジーで言うならば、 "社会の脳" とも言えそうな "政治(政府)" にしたところが、 "積極的に働きかければ" まともにもなろうけれど、そうでなければ体たらくに陥るのは自然なことであるのかもしれない...... (2009.03.27)
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