昨日はあんなにどしゃ降りであったのに、今日はガラリと変わっての晴天だ。ゴールデンウイークに期待をかけている人たちは胸をほっと撫で下ろしているのだろうか。
天候がどう変わろうと自分のような立場の者には一向に関係ないわけだが、それでも初夏のようなこうした天候だと、やはり気分が支えられる思いがするものである。
しかし、昨今のこの地球上の出来事は "不穏さ一色" で染め上げられているかのようだ。世界的な金融危機の混乱が収まってもいないうちから、 "豚インフル" とかという不気味なインフルエンザが広がろうとしているらしい。これもまた "迅速な対応" によって、一刻を争う事態を的確に制圧してもらいたいものである。
<豚インフルエンザ(2009年4月25日)A型インフルエンザウイルス感染による豚の呼吸器疾患。豚で定期的に大流行するが致死率は低い。通常は人に感染しないが、豚を直接触った人の感染が散発的に発生、人から人への感染例もある。症状は通常のインフルエンザと似た発熱やせき、嘔吐(おうと)など。豚は、人や鳥のインフルエンザウイルスにも感染し、豚を介した新型インフルエンザ発生の可能性が指摘されている。十分加熱すればウイルスは死滅し、豚肉を食べても感染しないとされる。1976年に米国の陸軍施設で集団感染が発生し1人が死亡。>(共同通信)
天候がどう変わろうと自分のような立場の者には一向に関係ないわけだが、それでも初夏のようなこうした天候だと、やはり気分が支えられる思いがするものである。
しかし、昨今のこの地球上の出来事は "不穏さ一色" で染め上げられているかのようだ。世界的な金融危機の混乱が収まってもいないうちから、 "豚インフル" とかという不気味なインフルエンザが広がろうとしているらしい。これもまた "迅速な対応" によって、一刻を争う事態を的確に制圧してもらいたいものである。
<豚インフルエンザ(2009年4月25日)A型インフルエンザウイルス感染による豚の呼吸器疾患。豚で定期的に大流行するが致死率は低い。通常は人に感染しないが、豚を直接触った人の感染が散発的に発生、人から人への感染例もある。症状は通常のインフルエンザと似た発熱やせき、嘔吐(おうと)など。豚は、人や鳥のインフルエンザウイルスにも感染し、豚を介した新型インフルエンザ発生の可能性が指摘されている。十分加熱すればウイルスは死滅し、豚肉を食べても感染しないとされる。1976年に米国の陸軍施設で集団感染が発生し1人が死亡。>(共同通信)
昨日は、<現代には、ざっくりといって大きな二つの原因があるその一つは、 "個人の孤立化" であり、もう一つは、 "超スピード化した環境変化" である>と書き、後者については触れなかった。が、さっそくその "事例" が発生してしまったかのようだ。
現代は、情報が瞬時に伝播する環境であるとともに、人やモノの移動も易々となされるのが現代の環境である。これらの環境こそが、 "超スピード化した環境変化" の実体をなしていると考えられる。そして、この趨勢は、善悪の基準なぞ関係なく、あらゆる事柄を、時間と空間とを超越するかのごとく伝えたり、運んだり、そして変化させたりする。
今、 "善悪の基準なぞ関係なく" と書いたが、実際は、 "善いこと" は広まりにくく、 "悪い事(悪事)" こそが瞬く間に伝播してしまうのかもしれない。
そう言えば、ことわざにも "悪事、千里を走る" というのがあった。悪い噂や評判はたちまちのうちに広まってしまうということだ。しかし、現代では、世界に拡延するのは噂どころではなく、当の "悪事" なり "ウイルス" なりの本体そのものが大移動を遂げてしまう。そのためのインフラが整備されてしまっているからである。まさしく、 "ボーダレス" な地球環境となってしまった。
たぶん、こうした歴史的な事情をネガティブな面だけで受けとめるのは間違いであろうとは思う。ただし、時代の環境変化の恩恵は概して "先行の利" を狙う者たちによって奪われてしまいがちなのも事実だ。その結果、変化の恩恵が広く行き渡らないことも起こるし、もっと懸念されるのは、環境変化がもたらす可能性自体がゆがめられてしまうことも往々にして起こることであろう。
以前、 "デジタル・デバイド" という言葉が注目を集めた。時代の恩恵のひとつであるコンピュータなどのデジタル・ツールが、それらを使いこなす者とそうでない者との間に差別的な障壁を作る可能性があることを憂えた言葉であった。
こうした危惧は常につきまとうものなのかもしれない。それというのも、社会や世界の現実は、技術環境の進展だけで改善されるものであろうはずがないし、また、制度改革の名によって問題がはぐらかされることだって起こり得る。
いや、今、この国を覆っている動きの特徴は、環境変化を口実にして "タテマエ" だけ辻褄合わせをしようとする "名目主義" の動きが跋扈(ばっこ)していることなのかもしれない。
毎日毎日、 "実のない無内容なターム" を吐き出し続けて役割を果たしているつもりでいるマス・メディアは、本来の目的からすれば完全に "詰んでいる" のであろう。また、こうしたマス・メディアなくしては体裁さえさえ失うに違いない政治自体も、とっくに "詰んでいる" と見た方がいいのかもしれない。
"詰んでいる" はずの存在が蠢いているのだと仮定するならば、目に入る事象は実によく飲み込めたりするのである...... (2009.04.26)
現代は、情報が瞬時に伝播する環境であるとともに、人やモノの移動も易々となされるのが現代の環境である。これらの環境こそが、 "超スピード化した環境変化" の実体をなしていると考えられる。そして、この趨勢は、善悪の基準なぞ関係なく、あらゆる事柄を、時間と空間とを超越するかのごとく伝えたり、運んだり、そして変化させたりする。
今、 "善悪の基準なぞ関係なく" と書いたが、実際は、 "善いこと" は広まりにくく、 "悪い事(悪事)" こそが瞬く間に伝播してしまうのかもしれない。
そう言えば、ことわざにも "悪事、千里を走る" というのがあった。悪い噂や評判はたちまちのうちに広まってしまうということだ。しかし、現代では、世界に拡延するのは噂どころではなく、当の "悪事" なり "ウイルス" なりの本体そのものが大移動を遂げてしまう。そのためのインフラが整備されてしまっているからである。まさしく、 "ボーダレス" な地球環境となってしまった。
たぶん、こうした歴史的な事情をネガティブな面だけで受けとめるのは間違いであろうとは思う。ただし、時代の環境変化の恩恵は概して "先行の利" を狙う者たちによって奪われてしまいがちなのも事実だ。その結果、変化の恩恵が広く行き渡らないことも起こるし、もっと懸念されるのは、環境変化がもたらす可能性自体がゆがめられてしまうことも往々にして起こることであろう。
以前、 "デジタル・デバイド" という言葉が注目を集めた。時代の恩恵のひとつであるコンピュータなどのデジタル・ツールが、それらを使いこなす者とそうでない者との間に差別的な障壁を作る可能性があることを憂えた言葉であった。
こうした危惧は常につきまとうものなのかもしれない。それというのも、社会や世界の現実は、技術環境の進展だけで改善されるものであろうはずがないし、また、制度改革の名によって問題がはぐらかされることだって起こり得る。
いや、今、この国を覆っている動きの特徴は、環境変化を口実にして "タテマエ" だけ辻褄合わせをしようとする "名目主義" の動きが跋扈(ばっこ)していることなのかもしれない。
毎日毎日、 "実のない無内容なターム" を吐き出し続けて役割を果たしているつもりでいるマス・メディアは、本来の目的からすれば完全に "詰んでいる" のであろう。また、こうしたマス・メディアなくしては体裁さえさえ失うに違いない政治自体も、とっくに "詰んでいる" と見た方がいいのかもしれない。
"詰んでいる" はずの存在が蠢いているのだと仮定するならば、目に入る事象は実によく飲み込めたりするのである...... (2009.04.26)
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