ある人と話をしていたら、その彼が言ったものだった。
「景気が悪い時はじたばたせずに "縮み込んでいる" のが一番かもしれませんよ」と。要するに、何とかしようと、 "ムダ玉" を打つようなことはせずに、とことん "出(出費)" を絞り込んで "冬眠" でもするかのような体制がいい、というのである。
十分に道理に叶っていそうだと感じさせられた。とは言っても、中には、そんなことはできないという事情があったりしそうだということも想像できるし、実感できる。
むしろ "冬眠" ができて悪状況を往なせる会社というのは少ないのかもしれない。多くの零細規模の会社は、平常時でも、いわゆる "自転車操業" という経営状況であろうから、じっとしているわけには行かないのが実情のはずであろう。
「景気が悪い時はじたばたせずに "縮み込んでいる" のが一番かもしれませんよ」と。要するに、何とかしようと、 "ムダ玉" を打つようなことはせずに、とことん "出(出費)" を絞り込んで "冬眠" でもするかのような体制がいい、というのである。
十分に道理に叶っていそうだと感じさせられた。とは言っても、中には、そんなことはできないという事情があったりしそうだということも想像できるし、実感できる。
むしろ "冬眠" ができて悪状況を往なせる会社というのは少ないのかもしれない。多くの零細規模の会社は、平常時でも、いわゆる "自転車操業" という経営状況であろうから、じっとしているわけには行かないのが実情のはずであろう。
そこから、流通・小売業では、原価を割った在庫処分売りに出てみたり、またモノ作り業種でもとんでもない原価割れを承知で仕事の確保に走ったりもする。
モノが安くなる状態は、消費者にとってはありがたくないことはない。手持ち金が見る見るうちに目減りしているはずの消費者は、まさに生活防衛とばかりに "破格" の安売り商品に群がる。
しかし、この推移こそが、 "デフレ" 傾向なのであり、 "破格" の安売り商品を提供する側、そしてその上流の会社群は、結局、ますますの苦境に立たされ、そしてその結果 "従業員へのしわ寄せ" を行わざるを得なくなる。つまり、安売り商品で帳尻を合わせようとした消費者一般の手持ち金が、時間差で攻撃されることになってしまうわけだ。
こうした悲惨な悪循環にならない手立てはないものかと思案せざるを得ない。しかし、早々妙案が転がっているわけもなかろう。みんな、為す術(すべ)を失ってしまい、好むと好まざるにかかわらず、 "縮み込んでいる" のが実情のようである。
ただ、 "縮み込み方" にはひょっとしたら二通りがあるのかもしれない。
その一つは、ほとんど意味を見出せない "自己満足" 的方策。
以前にも書いた覚えがあるが、最近、朝の通勤時にクルマを走らせていると、至るところでサラリーマン風の人たちが箒とちり取りとを携えて、自社の店舗の周囲を清掃している光景を見かける。しかも頻繁にである。年配の管理職クラスの人たちの姿も目に入ったりする。
それはそれでいいのだけれど、朝の通勤で込み合う道路に、そうした人たちがひょこひょこと踏み込んだりするのが危険だと感じないわけでもない。もっと道路が空いている時間帯に実施したらどう? と皮肉の一つも言いたくなる。そうも行かないのは、そうしたキャンペーンが、文字通り、地域貢献のアピールでもあるからなのだろう。
もうひとつ、これこそが内実を持っていると思えるのだが、それは、 "スタデイ" であり "研究" だということになる。
そんな暢気なことをしている場合じゃない、もっと "即効性のあること" をすべきだ、という思いは重々わかる。しかし、そうした "即効性のあること" が無いからこそ問題化している状況なのではないのだろうか。
ここは、部分的には "ダメモト" の覚悟も添えつつ、来るべき時機が来たならば奏功するはずの "パワーの溜め" にこそ、発生してしまった余力を注ぐべきなのであろう。見え透いた "クリーン・キャンペーン" なんぞよりずっといい...... (2009.04.27)
モノが安くなる状態は、消費者にとってはありがたくないことはない。手持ち金が見る見るうちに目減りしているはずの消費者は、まさに生活防衛とばかりに "破格" の安売り商品に群がる。
しかし、この推移こそが、 "デフレ" 傾向なのであり、 "破格" の安売り商品を提供する側、そしてその上流の会社群は、結局、ますますの苦境に立たされ、そしてその結果 "従業員へのしわ寄せ" を行わざるを得なくなる。つまり、安売り商品で帳尻を合わせようとした消費者一般の手持ち金が、時間差で攻撃されることになってしまうわけだ。
こうした悲惨な悪循環にならない手立てはないものかと思案せざるを得ない。しかし、早々妙案が転がっているわけもなかろう。みんな、為す術(すべ)を失ってしまい、好むと好まざるにかかわらず、 "縮み込んでいる" のが実情のようである。
ただ、 "縮み込み方" にはひょっとしたら二通りがあるのかもしれない。
その一つは、ほとんど意味を見出せない "自己満足" 的方策。
以前にも書いた覚えがあるが、最近、朝の通勤時にクルマを走らせていると、至るところでサラリーマン風の人たちが箒とちり取りとを携えて、自社の店舗の周囲を清掃している光景を見かける。しかも頻繁にである。年配の管理職クラスの人たちの姿も目に入ったりする。
それはそれでいいのだけれど、朝の通勤で込み合う道路に、そうした人たちがひょこひょこと踏み込んだりするのが危険だと感じないわけでもない。もっと道路が空いている時間帯に実施したらどう? と皮肉の一つも言いたくなる。そうも行かないのは、そうしたキャンペーンが、文字通り、地域貢献のアピールでもあるからなのだろう。
もうひとつ、これこそが内実を持っていると思えるのだが、それは、 "スタデイ" であり "研究" だということになる。
そんな暢気なことをしている場合じゃない、もっと "即効性のあること" をすべきだ、という思いは重々わかる。しかし、そうした "即効性のあること" が無いからこそ問題化している状況なのではないのだろうか。
ここは、部分的には "ダメモト" の覚悟も添えつつ、来るべき時機が来たならば奏功するはずの "パワーの溜め" にこそ、発生してしまった余力を注ぐべきなのであろう。見え透いた "クリーン・キャンペーン" なんぞよりずっといい...... (2009.04.27)
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