"儲からなくなった資本主義" という表現が印象的であった。昨晩、TVで観たとある経済番組のことである。
資本主義何百年の歴史を鳥瞰すると、やはり "不死身" の資本主義経済といえども、確実に収益性を低迷させてきたという。経済のグローバリズム化傾向自体が、それを打破せんとしてむしろ最終局面に入っているとかだそうだ。
また、今回の世界的金融危機は、何よりもそうした "儲からなくなった資本主義" があがきながら編み出した金融経済の、いわば当然の帰結だとも語られていた。
語り手は、三菱UFJの水野和夫経済アナリストであり、落ち着いた説得力のある語り口であった。米国のあり方をしっかりと "相対化" しながらの分析は、とかく米国寄りの経済アナリストたちの軽薄さに比べると、視界の広さと読みの深さとを窺わせた。
資本主義何百年の歴史を鳥瞰すると、やはり "不死身" の資本主義経済といえども、確実に収益性を低迷させてきたという。経済のグローバリズム化傾向自体が、それを打破せんとしてむしろ最終局面に入っているとかだそうだ。
また、今回の世界的金融危機は、何よりもそうした "儲からなくなった資本主義" があがきながら編み出した金融経済の、いわば当然の帰結だとも語られていた。
語り手は、三菱UFJの水野和夫経済アナリストであり、落ち着いた説得力のある語り口であった。米国のあり方をしっかりと "相対化" しながらの分析は、とかく米国寄りの経済アナリストたちの軽薄さに比べると、視界の広さと読みの深さとを窺わせた。
話題は多岐に上り、十分に考えさせられたものであったが、その中でひとつだけを取り上げるとすれば、やはり、 "儲からなくなった資本主義" という観点になろうか。
資本主義という経済原理は、ほぼ "不滅" だという表現がなされて来たことを思い起こしたりするのである。つまり、資本主義のあり方は、次から次へと "新手" が組み込まれ "成長" して、原理の限界と見える状況を突破して行く、というような捉え方である。
確かに、歴史上の初期の頃のヨーロッパで始まった商業資本主義、産業資本主義は、さまざまな形態をとりながら今日にまで至って来た。
上記番組のパネリストのある者が奇しくも発言していたが、 "成長し続けるもの" と言えば聞こえはいいけれど、それは "病的" だと言うべきではないか、と。つまり、 "癌細胞" の異常さと同じであって、健全な細胞が "代謝" のために成長のサイクルから離脱するのに対して、 "成長し続ける" というのはやはり "病気" なのだ、と。
この表現が当たっているかどうかは別として、現在、世界中の経済が大混乱に巻き込まれ、大災害に至っている状況を目の当たりにしているわれわれとしては、かなり共感を覚えるものがありそうである。
こんなに馬鹿げた金融危機に帰結した現代の金融経済構造、やはりそれは、変容を遂げて生き長らえてきた資本主義の末裔以外ではないからである。
さらに、こうした現代の金融経済構造へと舵を切らせたのも、資本主義の歴史的変容の中で生じた "儲からなくなった資本主義" という契機、それが後押ししていたと思われてならないわけである。
この "儲からなくなった資本主義" という現象こそは、言ってみれば資本主義という原理が内在した "限界" だったのではなかろうか。どんな社会経済原理も、当然、地域と時代という制約の中でしか機能できないはずであろう。
具体的に言えば、 "安く仕入れて、高く売る" という経済活動の原理中の原理にしても、それが成立し機能して行くためには相応の歴史的環境がなくてはならない。しかし、安く仕入れていた "原油" は暴騰するし、安い人件費を生み出していた地域間、国家間の賃金格差だってみるみるうちに縮まるのが歴史的推移ということだ。
まして、市場が、グローバリズムという現象で地球規模に拡大するならば、簡単に言うならば "安く仕入れる" ターゲットなぞは無くなって行くのが道理ではなかろうか。
自分は、TVの<開運! なんでも鑑定団>という番組を観ながら、いつも思うのであるが、この番組のために、おそらく "掘り出し物" と評される骨董はめっきり少なくなってしまったはずだ、と。 "安く仕入れる" の典型でもありそうな "掘り出し物" が無くなってしまったかのような現状、それが、 "儲からなくなった資本主義" という表現と妙に重なってしまうのである。
こうした状況は、どちらかと言えば "モノの世界" により当てはまり、これを超えた "ソフトの世界(ソフト化経済)" では、別の事情(ウィン&ウィン?)が展開するとも言われてきたりした。そう言えば、<任天堂>の大躍進が気にならないわけでもない。
しかし、 "儲からなくなった資本主義" という歴史的到達点では、それを放置しておくと、 "とんでもない危機" がいとも簡単に発生してしまうという事実だけは見逃せないようだ...... (2009.05.08)
資本主義という経済原理は、ほぼ "不滅" だという表現がなされて来たことを思い起こしたりするのである。つまり、資本主義のあり方は、次から次へと "新手" が組み込まれ "成長" して、原理の限界と見える状況を突破して行く、というような捉え方である。
確かに、歴史上の初期の頃のヨーロッパで始まった商業資本主義、産業資本主義は、さまざまな形態をとりながら今日にまで至って来た。
上記番組のパネリストのある者が奇しくも発言していたが、 "成長し続けるもの" と言えば聞こえはいいけれど、それは "病的" だと言うべきではないか、と。つまり、 "癌細胞" の異常さと同じであって、健全な細胞が "代謝" のために成長のサイクルから離脱するのに対して、 "成長し続ける" というのはやはり "病気" なのだ、と。
この表現が当たっているかどうかは別として、現在、世界中の経済が大混乱に巻き込まれ、大災害に至っている状況を目の当たりにしているわれわれとしては、かなり共感を覚えるものがありそうである。
こんなに馬鹿げた金融危機に帰結した現代の金融経済構造、やはりそれは、変容を遂げて生き長らえてきた資本主義の末裔以外ではないからである。
さらに、こうした現代の金融経済構造へと舵を切らせたのも、資本主義の歴史的変容の中で生じた "儲からなくなった資本主義" という契機、それが後押ししていたと思われてならないわけである。
この "儲からなくなった資本主義" という現象こそは、言ってみれば資本主義という原理が内在した "限界" だったのではなかろうか。どんな社会経済原理も、当然、地域と時代という制約の中でしか機能できないはずであろう。
具体的に言えば、 "安く仕入れて、高く売る" という経済活動の原理中の原理にしても、それが成立し機能して行くためには相応の歴史的環境がなくてはならない。しかし、安く仕入れていた "原油" は暴騰するし、安い人件費を生み出していた地域間、国家間の賃金格差だってみるみるうちに縮まるのが歴史的推移ということだ。
まして、市場が、グローバリズムという現象で地球規模に拡大するならば、簡単に言うならば "安く仕入れる" ターゲットなぞは無くなって行くのが道理ではなかろうか。
自分は、TVの<開運! なんでも鑑定団>という番組を観ながら、いつも思うのであるが、この番組のために、おそらく "掘り出し物" と評される骨董はめっきり少なくなってしまったはずだ、と。 "安く仕入れる" の典型でもありそうな "掘り出し物" が無くなってしまったかのような現状、それが、 "儲からなくなった資本主義" という表現と妙に重なってしまうのである。
こうした状況は、どちらかと言えば "モノの世界" により当てはまり、これを超えた "ソフトの世界(ソフト化経済)" では、別の事情(ウィン&ウィン?)が展開するとも言われてきたりした。そう言えば、<任天堂>の大躍進が気にならないわけでもない。
しかし、 "儲からなくなった資本主義" という歴史的到達点では、それを放置しておくと、 "とんでもない危機" がいとも簡単に発生してしまうという事実だけは見逃せないようだ...... (2009.05.08)
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