つい先日、高齢なある方からの小包が届いた。一体何だろうかと訝しく思ったが、包みを開けてみてさらに驚いた。
もう何十年も前に、自分がその方に描いて贈った油絵が三点入っていたのであった。それも立派な額縁付きである。
どういうことなのだろうかと添付された封筒の手紙を読んでさらに驚きは増した。つまり、高齢なその方は、そろそろ "身辺整理" をしなければならない歳だとおっしゃっていたのである。
長年、楽しませてもらってきた "貴重な絵" を手放すのは名残惜しいことこの上ないのだけれど、自分の目が及ばぬことになった時に "粗末に" 扱われることを望まないので、ご本人にお戻しするのが礼儀だとおっしゃっておられたのである。
元よりそうした方ではあったのだが、ここまで、古風で律儀な方だったのかと、身が震えるような思いにさせられた。
さっそくお礼の電話を差し上げてお話をした限りでは、以前と何も変わらない矍鑠(かくしゃく)としたご様子でひと先ずは安心させられた。
しかし、さすがだなあ、と感心させられたものだ。老い行く自身を冷静に見つめて、その状況でのご自身の思いというものをしっかりとご自身の手で守りとおそうとされる姿勢、礼儀というありふれた言葉を単純に流さずに自身の思いを充溢させる姿に胸を打たれずにはいられなかったのだ。
もう何十年も前に、自分がその方に描いて贈った油絵が三点入っていたのであった。それも立派な額縁付きである。
どういうことなのだろうかと添付された封筒の手紙を読んでさらに驚きは増した。つまり、高齢なその方は、そろそろ "身辺整理" をしなければならない歳だとおっしゃっていたのである。
長年、楽しませてもらってきた "貴重な絵" を手放すのは名残惜しいことこの上ないのだけれど、自分の目が及ばぬことになった時に "粗末に" 扱われることを望まないので、ご本人にお戻しするのが礼儀だとおっしゃっておられたのである。
元よりそうした方ではあったのだが、ここまで、古風で律儀な方だったのかと、身が震えるような思いにさせられた。
さっそくお礼の電話を差し上げてお話をした限りでは、以前と何も変わらない矍鑠(かくしゃく)としたご様子でひと先ずは安心させられた。
しかし、さすがだなあ、と感心させられたものだ。老い行く自身を冷静に見つめて、その状況でのご自身の思いというものをしっかりとご自身の手で守りとおそうとされる姿勢、礼儀というありふれた言葉を単純に流さずに自身の思いを充溢させる姿に胸を打たれずにはいられなかったのだ。
感じ入り、考えさせられたことは二点あった。
一つは、果たして自分はその歳となった際、後続の者たちに対して同じような心細やかで誠意が溢れた姿勢がとれるものかどうか、という点であった。とてもできまい。少なくとも、今現在のような "荒んだ" 精神状況ではとてもとてもできないだろう、という恥ずかしい思いに襲われるのだった。
そして、もう一点は、 "この出来事" は、きちんと "主体的に" 受けとめなくてはいけない、という思いだったかもしれない。
今の自分は、やはり目先の事柄に固執して、まったく世界を見る "パースペクティブ" を失ってしまっている。どんなに格好をつけても、右往左往の場当たり的行動を重ねているにしか過ぎない。そうした思いが込み上げてきたものであった。
そんな思いの中で浮かんできたイメージは、カメラのレンズの種類であった。もっと視界を広げられる "広角レンズ" のような視野を取り戻さなければならない......、というようなことを考えていた。
現在の自分の視野というのは、まるで "マクロ・レンズ(接写用レンズ)" のごとくであり、狭隘な視界だけをしか対象としていないようだ。しかも性能が悪く、像が歪んでいそうだと......。
自分で、これはまずいと思いながらも大きく舵を切ることもできずに惰性に流されていることは否めない。
そんな自分であり続けるならば、きっと、その方のようなお歳となったとしても、あくせくした現在の自分と何ら変わらず、いやもっと醜悪となっていそうな気がしたものであった。
とにかく、時代環境がどんなふうであろうとも、だからと言って "だからしょうがない" と決め込むことは避けたいと思えた。何のためといって、その方のように、自分の人生を "澄んだ眼" で見つめ、それに伴った "澄んだ心境" に是非なりたい、と思えたからかもしれない...... (2009.05.25)
一つは、果たして自分はその歳となった際、後続の者たちに対して同じような心細やかで誠意が溢れた姿勢がとれるものかどうか、という点であった。とてもできまい。少なくとも、今現在のような "荒んだ" 精神状況ではとてもとてもできないだろう、という恥ずかしい思いに襲われるのだった。
そして、もう一点は、 "この出来事" は、きちんと "主体的に" 受けとめなくてはいけない、という思いだったかもしれない。
今の自分は、やはり目先の事柄に固執して、まったく世界を見る "パースペクティブ" を失ってしまっている。どんなに格好をつけても、右往左往の場当たり的行動を重ねているにしか過ぎない。そうした思いが込み上げてきたものであった。
そんな思いの中で浮かんできたイメージは、カメラのレンズの種類であった。もっと視界を広げられる "広角レンズ" のような視野を取り戻さなければならない......、というようなことを考えていた。
現在の自分の視野というのは、まるで "マクロ・レンズ(接写用レンズ)" のごとくであり、狭隘な視界だけをしか対象としていないようだ。しかも性能が悪く、像が歪んでいそうだと......。
自分で、これはまずいと思いながらも大きく舵を切ることもできずに惰性に流されていることは否めない。
そんな自分であり続けるならば、きっと、その方のようなお歳となったとしても、あくせくした現在の自分と何ら変わらず、いやもっと醜悪となっていそうな気がしたものであった。
とにかく、時代環境がどんなふうであろうとも、だからと言って "だからしょうがない" と決め込むことは避けたいと思えた。何のためといって、その方のように、自分の人生を "澄んだ眼" で見つめ、それに伴った "澄んだ心境" に是非なりたい、と思えたからかもしれない...... (2009.05.25)
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