人の脳活動にはやはり "モード" とでも呼ぶべき柔軟性があるようだ。たぶん、脳は脳でいかに効率的に(エコノミカルに)活動すべきかを "健気に" 日夜追及しているのであろう。
要するに、あらゆる対象に等しくエネルギーを分散消費するようなことを避けて、当事者にとって最優先課題だと思われるような問題や対象に力を注ぐという態勢をとろうとしているのではないかということだ。
よく言われる "火事場のバカ力" というのは、これもまた脳をはじめとする人の身体の態勢が、緊急時にはありったけの力プラスαを可能とさせ、その代わり、平静時には、七割八割がたのエネルギー消費で賄うということなのであろう。
今ここで関心を持っているのは、力の発揮の大小というよりも、それを叶えるためなのであろうか、 "関心を向ける対象を常に限定" しようとしているかのように働く脳活動の特徴なのである。
冒頭で "モード" と言ったのは、そうした傾向のことであり、つまり考えるエネルギーを費やすべき対象を臨機応変に選別しながら、そしてそれにふさわしい視点や方法を同時に選び、効率よく考えようとする傾向のことである。
こうしたことは、当事者が自覚するしないにかかわらず、ほとんど自動的に(自然に)行っているようだ。
要するに、あらゆる対象に等しくエネルギーを分散消費するようなことを避けて、当事者にとって最優先課題だと思われるような問題や対象に力を注ぐという態勢をとろうとしているのではないかということだ。
よく言われる "火事場のバカ力" というのは、これもまた脳をはじめとする人の身体の態勢が、緊急時にはありったけの力プラスαを可能とさせ、その代わり、平静時には、七割八割がたのエネルギー消費で賄うということなのであろう。
今ここで関心を持っているのは、力の発揮の大小というよりも、それを叶えるためなのであろうか、 "関心を向ける対象を常に限定" しようとしているかのように働く脳活動の特徴なのである。
冒頭で "モード" と言ったのは、そうした傾向のことであり、つまり考えるエネルギーを費やすべき対象を臨機応変に選別しながら、そしてそれにふさわしい視点や方法を同時に選び、効率よく考えようとする傾向のことである。
こうしたことは、当事者が自覚するしないにかかわらず、ほとんど自動的に(自然に)行っているようだ。
なぜこんなことを問題にするかというと、こうした脳活動の傾向は、まさに優れた "柔軟性" だと言っていいわけだが、同時に、 "別の特徴" といわば一対のセットになっているような気がするからなのである。
その "別の特徴" というのは、当面の関心対象以外の事柄をとりあえず等閑視(なおざりし)するということ、さらに極端な場合には失念、忘却にさえ至るという点である。
それが当面の関心事に "夢中となって他を忘れる" という現象なのだろうと思える。誰でもが日常的に経験することのはずだ。
ところで自分なぞは、何かに関心を持つ際、いわゆる "熱しやすく冷め易い" という嫌いがないわけではない。その分、 "熱くなっている時" は猛烈に対象に埋没し、また集中力も発揮できているのかもしれない。 " ~ モード" に突入しているということになるのだろうが、その時には、別な時に埋没した別の " ~ モード" で得た記憶はかなり不鮮明となってしまっていることに気づく。こんなにも "記憶力" が悪かったかと落ち込んだりもする。
しかし、よく考えてみるとさほど落ち込むこともないほどに、いわば自然なことなのだろうと思ったりもするわけである。すべての事柄に関して、かつて集中力を発揮した時と同様のテンションでの記憶を保持していたら、とても脳はもたないのではなかろうか。
何かとあわただしい状況にあっては、あれもやらなくてはならず、これもこなさなければならないと目まぐるしく思考の "モード" をクイック・チェンジしなければならないことになる。
そんな際であるから、自身の記憶力の不確かさを嘆くことにもなる。確かに、加齢による度忘れという現象がないわけではないが、そればかりでもなくて、上記のような構造的な事情もありそうだと慰めているわけである。
これらへの対策としては、当該の対象に対してご無沙汰とならずに時折目を向けて、脳に対して注意を喚起しておくことが必須だと考えている。以前の書いたように、脳というものは、世の中に蔓延している "現金な人" 以上に "現金なもの" であり、ちょいととある対象が姿を見せないと、それは忘却のゴーサインだと勝手に解釈して処理して行くようである。その傾向は、脳が冷酷だというよりも、持てる力を最大限に発揮しようと "健気に" がんばっているということなのであろうか...... (2009.05.26)
その "別の特徴" というのは、当面の関心対象以外の事柄をとりあえず等閑視(なおざりし)するということ、さらに極端な場合には失念、忘却にさえ至るという点である。
それが当面の関心事に "夢中となって他を忘れる" という現象なのだろうと思える。誰でもが日常的に経験することのはずだ。
ところで自分なぞは、何かに関心を持つ際、いわゆる "熱しやすく冷め易い" という嫌いがないわけではない。その分、 "熱くなっている時" は猛烈に対象に埋没し、また集中力も発揮できているのかもしれない。 " ~ モード" に突入しているということになるのだろうが、その時には、別な時に埋没した別の " ~ モード" で得た記憶はかなり不鮮明となってしまっていることに気づく。こんなにも "記憶力" が悪かったかと落ち込んだりもする。
しかし、よく考えてみるとさほど落ち込むこともないほどに、いわば自然なことなのだろうと思ったりもするわけである。すべての事柄に関して、かつて集中力を発揮した時と同様のテンションでの記憶を保持していたら、とても脳はもたないのではなかろうか。
何かとあわただしい状況にあっては、あれもやらなくてはならず、これもこなさなければならないと目まぐるしく思考の "モード" をクイック・チェンジしなければならないことになる。
そんな際であるから、自身の記憶力の不確かさを嘆くことにもなる。確かに、加齢による度忘れという現象がないわけではないが、そればかりでもなくて、上記のような構造的な事情もありそうだと慰めているわけである。
これらへの対策としては、当該の対象に対してご無沙汰とならずに時折目を向けて、脳に対して注意を喚起しておくことが必須だと考えている。以前の書いたように、脳というものは、世の中に蔓延している "現金な人" 以上に "現金なもの" であり、ちょいととある対象が姿を見せないと、それは忘却のゴーサインだと勝手に解釈して処理して行くようである。その傾向は、脳が冷酷だというよりも、持てる力を最大限に発揮しようと "健気に" がんばっているということなのであろうか...... (2009.05.26)
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