過去の書類を整理し、個人情報保護に触れる可能性のあるものや、また自身のメモ類などを大量にシュレッダーに掛けた。途中シュレッダーがオーバーヒートするほどの量であった。
一応、書類内容を再点検しながらのことなので、書かれた過去の出来事が一々蘇って来たりする。
大体、過去の出来事を思い起こすことというのは、どんなに明朗な事柄であったとしても、一抹のうら哀しさが拭い切れないものだ。
40代という、仕事で繁忙を極めた頃は、さすがに "メモ" を残さずには済まなかったようであり、当時、流行っていた "システム手帳" を愛用していた。
まだ、モバイルPCなぞという便利なものもなかったため、専ら "手書き" のメモに頼り切っていたようだ。
まだ、老眼には程遠く目は達者であったことや、根が凝り性だということもあり、細かい文字でぎっしりと手帳のページを埋めていた。また、使い勝手を良くすべく、自己流のフォーマットのページを作ったりもしており、いかにも仕事人間であったことを再確認させる。
一応、書類内容を再点検しながらのことなので、書かれた過去の出来事が一々蘇って来たりする。
大体、過去の出来事を思い起こすことというのは、どんなに明朗な事柄であったとしても、一抹のうら哀しさが拭い切れないものだ。
40代という、仕事で繁忙を極めた頃は、さすがに "メモ" を残さずには済まなかったようであり、当時、流行っていた "システム手帳" を愛用していた。
まだ、モバイルPCなぞという便利なものもなかったため、専ら "手書き" のメモに頼り切っていたようだ。
まだ、老眼には程遠く目は達者であったことや、根が凝り性だということもあり、細かい文字でぎっしりと手帳のページを埋めていた。また、使い勝手を良くすべく、自己流のフォーマットのページを作ったりもしており、いかにも仕事人間であったことを再確認させる。
もはや、忘れかかっている仕事関連の人たちの名や社名が、廃棄処理で急ぐ気分とは裏腹に、次々と目に飛び込んでくる。暇でしょうがない時であれば、ひとつひとつの記憶に付き合うこともしようが、それらは次々にシュレッダーの回転刃の中へと消えていく。
この間、不要なモノや書籍その他をいろいろと廃棄してきたが、そうした作業を続けていると、昔のように何かと中身にこだわってその対象と "付き合う" というアクションが抑制されるようになったようだ。
ほとんど "瞬時に" "要・不要" を峻別して処理するようになったかのようである。というか、 "不要" への判断傾向が強化されたかのようである。
以前にも書いたかと思うが、こうした "不要" への判断傾向の強化は、やはり、時代環境の激変、さらに言えば、環境激変の極めつきである100年に一度という大激震が大きく影響していそうな気がしている。
よほどのものでない限り、 "今後、役に立つだろう" と思わせはしなくなったようなのである。手にする過去の情報に対して、こうした類のものももはや陽の目を見ることはないのだろうな......、という思いに傾いてしまうのである。
過去は過去で、その時には精一杯ベストを尽くし、そして熱くもなったのだから、それはそれでいいではないか、という思いも立ち上がってはくる。しかし、どうしても全身を浸す気分は、何とも打ち消し難い "虚しさ" だと言うべきかもしれない。
ただ、こう感じるのは "間違い" なのだろうと思っている。過去は過去、現在は現在、そして将来は将来で、それぞれみな掛け替えのない独自な存在であるに違いないからだ。過去は、現在や将来を "予約的に" 設(しつら)えると決まったものではない。現在もまた "予約的に" 将来を設えるわけでもなかろう。つまり、過去・現在・将来という流れは、決して一直線ではないばかりか、まして法則的な継続性なぞを持つものでもなさそうだからである。
確実なことは、現在、今を、 "不安ながらにどう熱く生きるのか" ということだけであろう。そして、そのことに一心不乱となれれば幸せということなのであろう...... (2009.06.17)
この間、不要なモノや書籍その他をいろいろと廃棄してきたが、そうした作業を続けていると、昔のように何かと中身にこだわってその対象と "付き合う" というアクションが抑制されるようになったようだ。
ほとんど "瞬時に" "要・不要" を峻別して処理するようになったかのようである。というか、 "不要" への判断傾向が強化されたかのようである。
以前にも書いたかと思うが、こうした "不要" への判断傾向の強化は、やはり、時代環境の激変、さらに言えば、環境激変の極めつきである100年に一度という大激震が大きく影響していそうな気がしている。
よほどのものでない限り、 "今後、役に立つだろう" と思わせはしなくなったようなのである。手にする過去の情報に対して、こうした類のものももはや陽の目を見ることはないのだろうな......、という思いに傾いてしまうのである。
過去は過去で、その時には精一杯ベストを尽くし、そして熱くもなったのだから、それはそれでいいではないか、という思いも立ち上がってはくる。しかし、どうしても全身を浸す気分は、何とも打ち消し難い "虚しさ" だと言うべきかもしれない。
ただ、こう感じるのは "間違い" なのだろうと思っている。過去は過去、現在は現在、そして将来は将来で、それぞれみな掛け替えのない独自な存在であるに違いないからだ。過去は、現在や将来を "予約的に" 設(しつら)えると決まったものではない。現在もまた "予約的に" 将来を設えるわけでもなかろう。つまり、過去・現在・将来という流れは、決して一直線ではないばかりか、まして法則的な継続性なぞを持つものでもなさそうだからである。
確実なことは、現在、今を、 "不安ながらにどう熱く生きるのか" ということだけであろう。そして、そのことに一心不乱となれれば幸せということなのであろう...... (2009.06.17)
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