肩の痛みがどうこうと言っている割には、このところ重労働(?)で汗だくとなっている。事務所内の模様替えその他で、何十キロもある物を持ち上げたり、移動させたりとして、ただでさえ蒸し暑い昨今、しばしば滝のように汗を流している。
多分、物を持ち上げたりして力を使う筋肉と、右肩の痛みの症状をもたらしている筋肉や神経とは別系統なのかもしれないと思っている。作業をしている際はさほど気にしないで済んでいるからだ。
むしろ、ありったけの力をこめて力仕事をするというのはその時はもちろん辛いものがあるが、一段落したりすると "爽快感" さえ覚えたりする。
そんな時、落語の中の言い回しではないが、 "極楽の余り風" のような気持ちの良い風を受けたりすると、 "身体が達者" だということは何と幸せなことだろうかと痛感したりする。
多分、物を持ち上げたりして力を使う筋肉と、右肩の痛みの症状をもたらしている筋肉や神経とは別系統なのかもしれないと思っている。作業をしている際はさほど気にしないで済んでいるからだ。
むしろ、ありったけの力をこめて力仕事をするというのはその時はもちろん辛いものがあるが、一段落したりすると "爽快感" さえ覚えたりする。
そんな時、落語の中の言い回しではないが、 "極楽の余り風" のような気持ちの良い風を受けたりすると、 "身体が達者" だということは何と幸せなことだろうかと痛感したりする。
昨日は、感覚や判断の "基準値" を正すという点で、最悪の事態、その例として "禁固刑" なり "懲役刑" なりの身に成り果てたと想像すること、といった唐突な表現をしたが、もっと平凡な表現をするならば、 "身体が達者" でありさえすればそれでいいじゃないか、という思いに至るということになろうか。
不運にも、四六時中、身体の痛みに苛まれて闘病生活を送っている人々は少なくないはずである。まあ、そこまでではなくとも、健康に関する不安で脅かされている人たちも大勢いるだろう。
だから、そうした不幸な人たちのことを念頭に置き続けるならば、とりあえず "身体が達者" であることだけで、満足感がこみ上げてくるというものではなかろうか。平凡さの中に目立たなく埋もれている "幸運" というものを自覚することが、結構、大事なことなのかもしれない。何だか、 "日本昔ばなし" のようなニュアンスではあるが...... (2009.07.09)
不運にも、四六時中、身体の痛みに苛まれて闘病生活を送っている人々は少なくないはずである。まあ、そこまでではなくとも、健康に関する不安で脅かされている人たちも大勢いるだろう。
だから、そうした不幸な人たちのことを念頭に置き続けるならば、とりあえず "身体が達者" であることだけで、満足感がこみ上げてくるというものではなかろうか。平凡さの中に目立たなく埋もれている "幸運" というものを自覚することが、結構、大事なことなのかもしれない。何だか、 "日本昔ばなし" のようなニュアンスではあるが...... (2009.07.09)
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