"記憶" というものは実に不思議なものだ。さらに、それと "夢" とが絡み合うとなおさら不思議度が増すかのようである。脳の、記憶のどこにそんなイメージが格納されていたのかと不思議がらざるを得ない。昨夜の "夢" を思い起こすと、そんなことを考えてしまう。
その書店は、旧街道に向かって上る坂の突き当たりにあった。当時の自分は子ども――小・中学生、そして高校生――であったためによくは覚えていないが、確か向かって右の一角でタバコも販売していたようなそんな書店である。その旧街道の両側には、木造の古い店舗が肩を寄せ合うように並んでいた。場所は北品川、もう何十年も前に住んでいた懐かしいところである。
当時の個人商店の書店というものはそんな小さな規模が当たり前であった。そして、店内の照明も、現在のように多くの蛍光灯がこうこうと照らすような明るさではなく、概して薄暗い。その薄暗さと新刊書籍が漂わせる印刷インクの匂いが書店独特の雰囲気をかもし出していた。
その書店は、旧街道に向かって上る坂の突き当たりにあった。当時の自分は子ども――小・中学生、そして高校生――であったためによくは覚えていないが、確か向かって右の一角でタバコも販売していたようなそんな書店である。その旧街道の両側には、木造の古い店舗が肩を寄せ合うように並んでいた。場所は北品川、もう何十年も前に住んでいた懐かしいところである。
当時の個人商店の書店というものはそんな小さな規模が当たり前であった。そして、店内の照明も、現在のように多くの蛍光灯がこうこうと照らすような明るさではなく、概して薄暗い。その薄暗さと新刊書籍が漂わせる印刷インクの匂いが書店独特の雰囲気をかもし出していた。
昨夜の夢では、その書店の正面奥の薄暗い書棚に向かって自分は何やら目当ての本を探しているようだった。
その正面奥の書棚は、その手前に店の主人などがやっと歩けるほどの細い板の間廊下があったようにも記憶している。だから、上段の書籍を手に取ろうとすれば、その板の間廊下に這い上がる格好をしなければならなかったり......。
多分、他の書棚とは区別されたかのようなそこには、比較的高価な書籍、あまり手垢で汚したくない書籍が並べられていたものと思われる。画集であったり、専門書であったり、あるいは全集ものとかであったか。
夢の中の自分は、その書棚で、イギリスの著作家の誰だったかの評論集の対訳本を、かなり執拗に探しているようだった。ああこれは違うか、ああこれも違うかと何度も書棚から本を取り出しては戻す仕草をしていた。
その本にこだわっていたのは、何故だかそれが "語学力アップ" には最適なのだという思い込みがあったかのようだった。
そうして思い返すと、その夢に登場していた自分は、どうも高校生であった自分なのだろう。
高校当時の自分は、若さに翻弄されるように心を彷徨わせ、いわゆる学業に身が入らなかったようだ。ドジな学習に明け暮れ、 "堪え性" があれば向上するに決まっている科目などがズタズタのありさまであった。
英語科目もそのひとつであり、そこで起死回生をはかるべく、著された内容が興味深ければきっと "堪え性" も立ち上がるはずだ、といった算段があったのではないかと、今そんなことを推測している......。
この辺から、 "記憶" や "夢" というものの不思議な構造について考えることになる。
というのは、おそらく、夢の中の(高校生の?)自分も "語学力アップ" について思い悩んでいたはずではあるが、夢を振り返ってみると夢を見ていたこの自分は、夢の中の詰襟学生服姿の自身の姿を確認できてはいないのである......。確かに、その "彼" を取り囲むセピア色でもしていそうな光景は、状況からしてその "彼" が高校生の頃の自分であることはほぼ間違いないと思われた。現に、夢の中で思い悩んでいるその内容もそうであると思えた。しかし、夢の中では、自身の姿は決して現れない(のが定石)。
が、その "彼" とは、当時の自分ではなくて、現時点での自分自身なのではなかろうかという直感が拭い切れない。そして、現時点での自分自身にある、 "語学力アップ" というような何かに対する悩ましいほどの願望が、過去の記憶の中を "キーワード検索" するようにして、そうして "ヒット" したものが、夢となって生じたのではなかろうか、と......。
まあ、必ずしも夢というものはそんなにロジカルなものでもなさそうではあるが、 "感情" の内容における "キーワード検索" はそこそこ成立するかのようである...... (2009.10.13)
その正面奥の書棚は、その手前に店の主人などがやっと歩けるほどの細い板の間廊下があったようにも記憶している。だから、上段の書籍を手に取ろうとすれば、その板の間廊下に這い上がる格好をしなければならなかったり......。
多分、他の書棚とは区別されたかのようなそこには、比較的高価な書籍、あまり手垢で汚したくない書籍が並べられていたものと思われる。画集であったり、専門書であったり、あるいは全集ものとかであったか。
夢の中の自分は、その書棚で、イギリスの著作家の誰だったかの評論集の対訳本を、かなり執拗に探しているようだった。ああこれは違うか、ああこれも違うかと何度も書棚から本を取り出しては戻す仕草をしていた。
その本にこだわっていたのは、何故だかそれが "語学力アップ" には最適なのだという思い込みがあったかのようだった。
そうして思い返すと、その夢に登場していた自分は、どうも高校生であった自分なのだろう。
高校当時の自分は、若さに翻弄されるように心を彷徨わせ、いわゆる学業に身が入らなかったようだ。ドジな学習に明け暮れ、 "堪え性" があれば向上するに決まっている科目などがズタズタのありさまであった。
英語科目もそのひとつであり、そこで起死回生をはかるべく、著された内容が興味深ければきっと "堪え性" も立ち上がるはずだ、といった算段があったのではないかと、今そんなことを推測している......。
この辺から、 "記憶" や "夢" というものの不思議な構造について考えることになる。
というのは、おそらく、夢の中の(高校生の?)自分も "語学力アップ" について思い悩んでいたはずではあるが、夢を振り返ってみると夢を見ていたこの自分は、夢の中の詰襟学生服姿の自身の姿を確認できてはいないのである......。確かに、その "彼" を取り囲むセピア色でもしていそうな光景は、状況からしてその "彼" が高校生の頃の自分であることはほぼ間違いないと思われた。現に、夢の中で思い悩んでいるその内容もそうであると思えた。しかし、夢の中では、自身の姿は決して現れない(のが定石)。
が、その "彼" とは、当時の自分ではなくて、現時点での自分自身なのではなかろうかという直感が拭い切れない。そして、現時点での自分自身にある、 "語学力アップ" というような何かに対する悩ましいほどの願望が、過去の記憶の中を "キーワード検索" するようにして、そうして "ヒット" したものが、夢となって生じたのではなかろうか、と......。
まあ、必ずしも夢というものはそんなにロジカルなものでもなさそうではあるが、 "感情" の内容における "キーワード検索" はそこそこ成立するかのようである...... (2009.10.13)
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