今日のような天気を "台風一過の晴天" というのだろう。大気の "塵(じん)" も吹き飛ばされてしまったようで、濁りのない紺碧の空が広がった。
朝から陽射しも良好で、ウォーキングの際には心地良い眩(まぶ)しさに見舞われた。
こんなふうに、人の心も人の世も、日毎、パーフェクトな "リフレッシュ" が徹底されたならば、どんなにか喜ばしいことだろうか......、と、ふと思った。
近頃の自然は、人間が姑息さを束にして甚振(いたぶ)り続けるものだから、かなり神経質で癇癪(かんしゃく)持ちになってしまったようだ。動物虐待による動物たちに現れた異変と変わらない。
もとより "意思のない自然" であるから、善し悪しにかかわらずその仕業の大半は人間の仕業に帰着すると言うほかないのであろう。
次第に猛威を振るうようになった昨今の台風にせよ、人間の仕業以外ではない地球温暖化現象に起因していると見なせば、自然のせいだ、として知らん振りを決め込むわけにはゆかないはずだ。
しかし、そんな "被害者" の位置にあるような自然であっても、癇癪を起こした後には今日のような "非の打ち所のない" 天候をもたらすのだから、何か、自然の "ノーマル" さを思わずにはいられなかった。
おそらく、この国の人間たちは、こうした亜熱帯の自然の概して穏やかで人の良い(?)振る舞いに馴染み、自分たちの穏やかな "気質" を作り上げてきたに違いない、とそう思ったりした。
しかし、今や、人々の "気質" や心は変わり果てている。何がどうだとあげつらう以前に、日毎、人々に訪れる朝には、人々の "気分" は "リフレッシュ" されているのだろうか? 本来はそうでなくてはならないはずだ。どんなに辛い夜があろうとも、睡眠という "救世主" によって "リフレッシュ" ないしは "リセット" されるのが、 "自然に寄り添って生きる人間" の特権であったはずだ。
こうしたことに思いを馳せる時に常に想起するのは、以下の文面である。
<「ああ、もういっそ、悪徳者として生き伸びてやろうか。村には私の家が在る。羊も居る。妹夫婦は、まさか私を村から追い出すような事はしないだろう。正義だの、信実だの、愛だの、考えてみれば、くだらない。人を殺して自分が生きる。それが人間世界の定法ではなかったか。ああ、何もかも、ばかばかしい。私は、醜い裏切り者だ。どうとも、勝手にするがよい。やんぬる哉(かな)。――四肢を投げ出して、うとうと、まどろんでしまった。
ふと耳に、潺々(せんせん)、水の流れる音が聞えた。そっと頭をもたげ、息を呑んで耳をすました。すぐ足もとで、水が流れているらしい。よろよろ起き上って、見ると、岩の裂目から滾々(こんこん)と、何か小さく囁(ささや)きながら清水が湧き出ているのである。その泉に吸い込まれるようにメロスは身をかがめた。水を両手で掬(すく)って、一くち飲んだ。ほうと長い溜息が出て、夢から覚めたような気がした。歩ける。行こう。肉体の疲労恢復(かいふく)と共に、わずかながら希望が生れた。義務遂行の希望である。わが身を殺して、名誉を守る希望である。斜陽は赤い光を、樹々の葉に投じ、葉も枝も燃えるばかりに輝いている。日没までには、まだ間がある。私を、待っている人があるのだ。少しも疑わず、静かに期待してくれている人があるのだ。私は、信じられている。私の命なぞは、問題ではない。死んでお詫び、などと気のいい事は言って居られぬ。私は、信頼に報いなければならぬ。いまはただその一事だ。走れ! メロス。」(太宰治『走れメロス』より)>(当日誌 2004.11.29 <睡眠と夢は人間を"recreate"「復活再生!」させる!?>)
ここにある<肉体の疲労恢復(かいふく)と共に、わずかながら希望が生れた。>というくだりには、 "自然に寄り添って生きる人間" のみに与えられた "リフレッシュ" の技、 "睡眠" という奇跡の技が "黙示" されているかのようである。ちなみに当時の自分には次のように思えたものだった。
<人にとって眠りとは、 "recreate" の最たるものだと思うが、その意味は単に休養、気晴らしというよりも、「復活再生!」とでも言っていいのかもしれない。
PCでいえば "reset" に値するのだろうが、 "reset" の場合は単に初期化されるに留まるが、睡眠= "recreate" の場合には、新たな活力とでも言うべきものがチャージ(充電)されるようにも思える。>(同上)
だから、 "リフレッシュ" や "復活再生!" をゲットできる "睡眠" を大事にしましょう、とメディア風の安直なことが言いたいわけではない。
いや、十全たる "睡眠" をとること自体が現代人にとっては結構難しいことでありそうで、これもまた重要なテーマだとは実感している。
ただ、 "自然に寄り添って生きる" ことから、 "記号に寄り添って生きる" ことへと大胆にモード変換をしてしまっている人間にとって、 "リフレッシュ" や "復活再生!" という課題は、気分というものに限定したところで、結構、厄介なことなのかもしれない。
現代人は「脳化社会」の中に生きていると喝破した養老孟司氏がどこかで、昨日の自分なぞいるはずもないのに、現代人はそれを必死で追い、継続させようとしている......、と書かれておられた。
「脳化社会」という "記号化社会" では、<走れ! メロス>の "奇跡" は、かなり起こりにくいのかもしれない。ちなみに、おいしそうな<「走れメロンパン」>(「走れメロンパン・斜陽羹...太宰グッズ、少量販売でも人気」/asahi.com 2009.10.27)ということであれば...... (2009.10.27)
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