かねてから、モノが売れるのは "価格の安さ" からだけではなかろうと思い続けてきた。だから、過激な "価格競争" へと突き進む現状を、一方では了解しつつもどこか違和感を禁じ得ない面もあった。
もちろん、 "デフレ" への突入という最悪の事態に対する懸念もあるが、そもそも "安ければ買う" という心理が信用し切れないのだ。安く買ったとしてもそのモノに "満足できない" となれば意味がない。また、かつてのような "モノ不足時代" であれば、ひとに譲って喜ばれたり、抜け目のない人ならば "再販" で利ざやを稼いだりすることもできたかもしれない。
しかし、今は違う。商品はその価値をどんどん目減りさせているのだから、まるで "ババ抜き" のババのようにあるいは "不幸の手紙" のように、一刻も早く "手放したい" 、そんな対象と成り果てているかのようだ。
だから、 "よほどのモノ" でない限りは背負い(しょい)込みたくはないという空気が支配的であろう。たとえば、不況の際には繁盛すると言われてきたリサイクル・ショップでも、売れないリスクをたっぷりとカウントして買取(仕入れ)価格は極端に引き下げているのが現状のようだ。
もちろん、 "デフレ" への突入という最悪の事態に対する懸念もあるが、そもそも "安ければ買う" という心理が信用し切れないのだ。安く買ったとしてもそのモノに "満足できない" となれば意味がない。また、かつてのような "モノ不足時代" であれば、ひとに譲って喜ばれたり、抜け目のない人ならば "再販" で利ざやを稼いだりすることもできたかもしれない。
しかし、今は違う。商品はその価値をどんどん目減りさせているのだから、まるで "ババ抜き" のババのようにあるいは "不幸の手紙" のように、一刻も早く "手放したい" 、そんな対象と成り果てているかのようだ。
だから、 "よほどのモノ" でない限りは背負い(しょい)込みたくはないという空気が支配的であろう。たとえば、不況の際には繁盛すると言われてきたリサイクル・ショップでも、売れないリスクをたっぷりとカウントして買取(仕入れ)価格は極端に引き下げているのが現状のようだ。
この時代環境で "モノが売れる" ためには、端的に言えば、消費者への強力な "訴求力" がなくてはならない。何かというと、その商品を "買うための大義名分" だということになりそうだ。
もとより現在の消費者は、 "モノを買わない" ことを "大原則" としているはずだろう。買いたくないというよりも、ある種の呪縛心理に作用されていそうだ。つまり、自分や家族などの身の回りの者が "納得" できたり、 "賛同" してもらえたりするものでなければ "執行停止!" (必殺「仕分け」人?)とするという非情な動機に動かされているかのようである。そんな動機が埋め込まれてしまったかのようである。
自分を振り返っても、ショップなどで気になる商品を手にした時に、家内が言うかもしれない、そんなもの必要なの? という言葉が脳裏をよぎる。別に "蓮舫" のような仕事熱心な "詰問調" ではないとしても、その声を想像するだけで、手に取った商品をおもむろに棚に戻すといった小心ぶりに成り果てたものだ。
そんな場合に、いや、これはね、わが家のね、......のために無くてはならないのだよ......、なんぞというような理屈めいたものがあれば話の流れを変え得る。それを "買うための大義名分" と言ってみたのである。
要するに、従来からあった "欲しいから買う" という単刀直入、かつシンプルな動機は、それだけでは何とも影が薄く、一人立ちできなくなってしまったに違いない。
いわば、当ご時世の象徴的存在とも言うべき、<開運!何でも鑑定団>ならぬ "買うまい!何でも「仕分け」団" を、無難にやり過ごさなければならないのだ。そんな "縛り" の問題が、いつの間にか現代マーケティング・ジャンルで急浮上してきた......。いや昔からあったのかなぁ? とすれば、ますます無視できなくなってしまったと言い直すべきか......( "買うための大義名分" 問題で、明日に続きそう?) (2009.11.20)
もとより現在の消費者は、 "モノを買わない" ことを "大原則" としているはずだろう。買いたくないというよりも、ある種の呪縛心理に作用されていそうだ。つまり、自分や家族などの身の回りの者が "納得" できたり、 "賛同" してもらえたりするものでなければ "執行停止!" (必殺「仕分け」人?)とするという非情な動機に動かされているかのようである。そんな動機が埋め込まれてしまったかのようである。
自分を振り返っても、ショップなどで気になる商品を手にした時に、家内が言うかもしれない、そんなもの必要なの? という言葉が脳裏をよぎる。別に "蓮舫" のような仕事熱心な "詰問調" ではないとしても、その声を想像するだけで、手に取った商品をおもむろに棚に戻すといった小心ぶりに成り果てたものだ。
そんな場合に、いや、これはね、わが家のね、......のために無くてはならないのだよ......、なんぞというような理屈めいたものがあれば話の流れを変え得る。それを "買うための大義名分" と言ってみたのである。
要するに、従来からあった "欲しいから買う" という単刀直入、かつシンプルな動機は、それだけでは何とも影が薄く、一人立ちできなくなってしまったに違いない。
いわば、当ご時世の象徴的存在とも言うべき、<開運!何でも鑑定団>ならぬ "買うまい!何でも「仕分け」団" を、無難にやり過ごさなければならないのだ。そんな "縛り" の問題が、いつの間にか現代マーケティング・ジャンルで急浮上してきた......。いや昔からあったのかなぁ? とすれば、ますます無視できなくなってしまったと言い直すべきか......( "買うための大義名分" 問題で、明日に続きそう?) (2009.11.20)
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