久しぶりに、かつて使っていた「音声入力ソフト」を再び使い始めている。
特にきっかけがあったわけではない。むしろ、せっかく使い始めたのにも関わらずいつの間にか途中で止めたのが、惜しいくらいであった。
振り返ってみると、中断したにはそれなりの理由があったようだ。こんな日誌を書く際に、この「ソフト」を使おうとすれば、わけのわからないことを口にしなければならない。当人は良いとしても、これを耳にする周囲の人間は、いったい何をモソモソといっているのかと、不審に思うに違いなかろう。
そう思うと、気恥ずかしさが先に立ってしまう。そして周囲に人がいないのを見計らっていたりすると、いつの間にかキーボード入力の方が、手っ取り早くてラクだと思ってしまったのかもしれない。
そもそもこのソフトに注目したのには、二つの動機があった。
その一つは、不測の事故などで手だとか目だとかの怪我をして、キーボード入力がかなわなくなった時、音声だけで入力できれば、これ幸いだと思えたことである。そんなケースは、あまり考えたくは無いわけだが、たぶん、そんな時にこそこうした日誌を書きたくてうずうずするに違いないと思われた。
二つ目は、前向きの発想であった。キーボード入力よりも、「音声入力」の方が言うまでもなく効率的だと思えたからである。音声にした言葉が即座に文書化されてしまうのだから、それは効率的に決まっていよう。
ただし、そうなるためにはかなりの訓練が必要とはなる。相手はコンピューター(プログラム)である。そのコンピューターに、思い通りのことをさせようと思えば、様々なことを教え込まなければならないわけだ。
特にきっかけがあったわけではない。むしろ、せっかく使い始めたのにも関わらずいつの間にか途中で止めたのが、惜しいくらいであった。
振り返ってみると、中断したにはそれなりの理由があったようだ。こんな日誌を書く際に、この「ソフト」を使おうとすれば、わけのわからないことを口にしなければならない。当人は良いとしても、これを耳にする周囲の人間は、いったい何をモソモソといっているのかと、不審に思うに違いなかろう。
そう思うと、気恥ずかしさが先に立ってしまう。そして周囲に人がいないのを見計らっていたりすると、いつの間にかキーボード入力の方が、手っ取り早くてラクだと思ってしまったのかもしれない。
そもそもこのソフトに注目したのには、二つの動機があった。
その一つは、不測の事故などで手だとか目だとかの怪我をして、キーボード入力がかなわなくなった時、音声だけで入力できれば、これ幸いだと思えたことである。そんなケースは、あまり考えたくは無いわけだが、たぶん、そんな時にこそこうした日誌を書きたくてうずうずするに違いないと思われた。
二つ目は、前向きの発想であった。キーボード入力よりも、「音声入力」の方が言うまでもなく効率的だと思えたからである。音声にした言葉が即座に文書化されてしまうのだから、それは効率的に決まっていよう。
ただし、そうなるためにはかなりの訓練が必要とはなる。相手はコンピューター(プログラム)である。そのコンピューターに、思い通りのことをさせようと思えば、様々なことを教え込まなければならないわけだ。
まずは、話し手である自分(音声、口調、イントネーション、ボキャブラリー......)を自分として認識させるために、一定程度のトレーニングを行わなければならない。このトレーニングは、コンピューターに対してと、自分自身に対してという二重の意味を持つそんなトレーニングなのである。
ただ、この部分は「ソフト」の性能自体に大きくかかわっており、幸い、現在使用中の「ソフト」は、比較的「お利巧さん」なので助かっている。
このほかにも、日頃キーボードを使ってカーソル操作をしているその作業すべてを、音声だけで、肩代わりさせようというのだから、音声としてのさまざまな「コマンド」を駆使しなければならない。それらをマスターしてかからなければ、作業はスムーズには進まないのである。この部分では、まだまだ上手く対処できておらず、ぎくしゃくとした段階にとどまっている。まさにこれは、慣れの問題というほかない。
残念なのは、かつてこの辺について結構苦労して覚えたにもかかわらず、長い間放置してきたため、すっかり忘れてしまっているのだ。まぁ、追々に、習熟していきたいと考えている。
ところで、こうしたことをしていると、過去のとあることを思い出す。
若い頃、大学院で研究生活をしていた頃のことである。教授から皮肉を言われたものであった。
「君は話しはうまいが、文章を書く段になるとどうして小難しくなるんだ?」と。
今でも、その名残をなしとはしないが、当時は、自身でも恐れ入るほどに硬い文章にとりつかれていたものだった。 "話すように書く" という作法をどんなにか羨ましく思ったか知れない。
今こうして「ディクテーション」をしている背景には、ひょっとしたら当時のそんな苦い思いが、横たわっているのかもしれない...... (2009.11.25)
ただ、この部分は「ソフト」の性能自体に大きくかかわっており、幸い、現在使用中の「ソフト」は、比較的「お利巧さん」なので助かっている。
このほかにも、日頃キーボードを使ってカーソル操作をしているその作業すべてを、音声だけで、肩代わりさせようというのだから、音声としてのさまざまな「コマンド」を駆使しなければならない。それらをマスターしてかからなければ、作業はスムーズには進まないのである。この部分では、まだまだ上手く対処できておらず、ぎくしゃくとした段階にとどまっている。まさにこれは、慣れの問題というほかない。
残念なのは、かつてこの辺について結構苦労して覚えたにもかかわらず、長い間放置してきたため、すっかり忘れてしまっているのだ。まぁ、追々に、習熟していきたいと考えている。
ところで、こうしたことをしていると、過去のとあることを思い出す。
若い頃、大学院で研究生活をしていた頃のことである。教授から皮肉を言われたものであった。
「君は話しはうまいが、文章を書く段になるとどうして小難しくなるんだ?」と。
今でも、その名残をなしとはしないが、当時は、自身でも恐れ入るほどに硬い文章にとりつかれていたものだった。 "話すように書く" という作法をどんなにか羨ましく思ったか知れない。
今こうして「ディクテーション」をしている背景には、ひょっとしたら当時のそんな苦い思いが、横たわっているのかもしれない...... (2009.11.25)
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