毎日歩いているウォーキングコースだが、カメラを携えて歩くとまた気分が変わる。
今日は久しぶりに良い天気だったので、デジカメを持ち出してのウォーキングとなった。毎日これといって変わりばえがしない歩き方をしていると、後で思い起こすとほとんど何も覚えていない様なこともあったりする。我ながら愕然とするのであるが、記憶力がどうのこうのというよりも、決まったコースを決まったように歩くと何の注意力の思考も必要としないのだから何も覚えていなくて当然なのかもしれない。
これが、"思考のエコノミー"というものなのであろう。つまり、考える必要のないことは考えないで済まし、余計なエネルギー消費を抑えるという脳の"サボり"すなわち脳の"活動節約(エコノミー)"だと言える。
これはこれで意味のあることなのだが、歳を重ねると"度を越す"ようになるから始末に負えない。これではマンネリ感が募るばかりとなっていくぶん寂しい気分となる。だからと言って、ルーチンワークをしているのにいつもハラハラドキドキしていたのでは身が持たないことも確かだ。
今日は久しぶりに良い天気だったので、デジカメを持ち出してのウォーキングとなった。毎日これといって変わりばえがしない歩き方をしていると、後で思い起こすとほとんど何も覚えていない様なこともあったりする。我ながら愕然とするのであるが、記憶力がどうのこうのというよりも、決まったコースを決まったように歩くと何の注意力の思考も必要としないのだから何も覚えていなくて当然なのかもしれない。
これが、"思考のエコノミー"というものなのであろう。つまり、考える必要のないことは考えないで済まし、余計なエネルギー消費を抑えるという脳の"サボり"すなわち脳の"活動節約(エコノミー)"だと言える。
これはこれで意味のあることなのだが、歳を重ねると"度を越す"ようになるから始末に負えない。これではマンネリ感が募るばかりとなっていくぶん寂しい気分となる。だからと言って、ルーチンワークをしているのにいつもハラハラドキドキしていたのでは身が持たないことも確かだ。
しかし、1時間弱も歩いて記憶に残ることがほとんどないというのもどうかと思える。朝一のウォーキングだけに体も感覚も眠気模様であることは否定できない。それにしても、日々異なった印象を受けたいと思うし、それが当然ではないかと思える。
こんなことを感じ始めてから、定まったコースを変えてみようかと考えもした。本来はそうすべきなのだろうが、それはそれで面倒なので思いついたのが、"別の目"=カメラを携えて歩くという次善策だったのだ。
そういえば、ここしばらくカメラをいじることからは離れてしまっていた。だいたいこういうことが多いのが自分である。趣味だともいえる好きなことでもしばし手つかずになると、大いに間をあけてしまうのである。そして手をつけ始めると、"凝り性"さながらにのめり込むのである。
そこで今日は、愛用のデジカメを携えて歩くことにした。すると不思議なもので、いつもの見慣れた光景がやや異なって目に映り始めたのである。写真にするとどうなるか、という"カメラ視点"がその都度働くことで見慣れた光景が別ように見えたのかもしれない。こうでなくてはいけない、と妙に感じ入ったのであった。
折から、道路わきの木々はすっかり紅葉したり落葉して、風情のある姿になっていた。そんな光景を、どんなアングルにすれば見栄えがするかと立ち止まって考えることがしばしばであった。おかげで、2倍の所要時間を費やしてしまった。
極端なことを言えば、生きているということは環境の変化に逐次対応すること、そして環境は常に変化するのだから、常に新しい光景を目にして"ハラハラ、ドキドキ"することのはずである。
そんなことは当たり前だと思えるが、実は、(文明の中での)日常生活はこの事実を極端に排斥しているようにも思えるのである。"便利さ追及"と"効率追求"という現代人の疑う余地のないポリシーは、思考や感覚の"エコノミー"を追求しながら、新鮮な感覚を放棄し、加えて、その都度考えるという自然な行動様式を台無しにしているのかもしれない。
昨夜のテレビ番組(NHK「クローズアップ現代」/『"言語力"が危ない~衰える 話す書く力』)では、大人も子供も含めて"言語力の衰えがさまざまな領域で問題になっている"という時代現象が注目されていた。
今更という感も否めないが、この時代現象は確かに由々しき問題 であるに違いない。以前から気にはなっていたが、これほどまでに"悪化する"とは思いもよらなかった。また、後日時間をかけて考えてみたいと思うが、今日書いたことも些細なことだが一身上に起きている同種類の問題ではないかと思ったのである...... (2009.11.26)
こんなことを感じ始めてから、定まったコースを変えてみようかと考えもした。本来はそうすべきなのだろうが、それはそれで面倒なので思いついたのが、"別の目"=カメラを携えて歩くという次善策だったのだ。
そういえば、ここしばらくカメラをいじることからは離れてしまっていた。だいたいこういうことが多いのが自分である。趣味だともいえる好きなことでもしばし手つかずになると、大いに間をあけてしまうのである。そして手をつけ始めると、"凝り性"さながらにのめり込むのである。
そこで今日は、愛用のデジカメを携えて歩くことにした。すると不思議なもので、いつもの見慣れた光景がやや異なって目に映り始めたのである。写真にするとどうなるか、という"カメラ視点"がその都度働くことで見慣れた光景が別ように見えたのかもしれない。こうでなくてはいけない、と妙に感じ入ったのであった。
折から、道路わきの木々はすっかり紅葉したり落葉して、風情のある姿になっていた。そんな光景を、どんなアングルにすれば見栄えがするかと立ち止まって考えることがしばしばであった。おかげで、2倍の所要時間を費やしてしまった。
極端なことを言えば、生きているということは環境の変化に逐次対応すること、そして環境は常に変化するのだから、常に新しい光景を目にして"ハラハラ、ドキドキ"することのはずである。
そんなことは当たり前だと思えるが、実は、(文明の中での)日常生活はこの事実を極端に排斥しているようにも思えるのである。"便利さ追及"と"効率追求"という現代人の疑う余地のないポリシーは、思考や感覚の"エコノミー"を追求しながら、新鮮な感覚を放棄し、加えて、その都度考えるという自然な行動様式を台無しにしているのかもしれない。
昨夜のテレビ番組(NHK「クローズアップ現代」/『"言語力"が危ない~衰える 話す書く力』)では、大人も子供も含めて"言語力の衰えがさまざまな領域で問題になっている"という時代現象が注目されていた。
今更という感も否めないが、この時代現象は確かに由々しき問題 であるに違いない。以前から気にはなっていたが、これほどまでに"悪化する"とは思いもよらなかった。また、後日時間をかけて考えてみたいと思うが、今日書いたことも些細なことだが一身上に起きている同種類の問題ではないかと思ったのである...... (2009.11.26)
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