昨夜は久々に "定番" の夢の、そのひとつを見た。
そのひとつというわけだから、 "定番" とも言えそうなよく見る夢は複数あることになる。いずれも楽しいものというよりも、その反対のものばかりである。
おそらく、あまり好ましいとは言えないような精神状況が複数パターンあって、それらが複数レパートリーの夢、 "定番" を誘い出しているのだろう。
昨晩のそれは、その中でもかなり "頑固なもの" であり、よくもまあ懲りずに "放映(?)" し続けるものだと感心してしまう。もう、何十回となく見た覚えがある。ただ、いつも書くように、夢の中の世界では "批判意識" が一切無い。そのために、いつも "ロードショー:封切り" として甘受することになる。
そのひとつというわけだから、 "定番" とも言えそうなよく見る夢は複数あることになる。いずれも楽しいものというよりも、その反対のものばかりである。
おそらく、あまり好ましいとは言えないような精神状況が複数パターンあって、それらが複数レパートリーの夢、 "定番" を誘い出しているのだろう。
昨晩のそれは、その中でもかなり "頑固なもの" であり、よくもまあ懲りずに "放映(?)" し続けるものだと感心してしまう。もう、何十回となく見た覚えがある。ただ、いつも書くように、夢の中の世界では "批判意識" が一切無い。そのために、いつも "ロードショー:封切り" として甘受することになる。
明日提出しなければならない "論文" があり、四百字詰め原稿用紙で50枚程度のもの、といっても枚数さえ揃えば良いというものであるはずはなく、内容が問題である。
ところが、夢の中では、もう夕刻になろうかと思えるにもかかわらず、未だ "ナッシング" の状態なのである。
もう、気分は焦りと不安でパニック状態となっていた。まさに、どう "でっち上げる" のかという途方もないことだけを思案しているのだ。
何を書くのか、というようなまともな思考はまるでない。
ただし、これも夢の特異性のようであるが、夢というのはストーリーが常に "断片的" なのであり、この夢は "切迫感" が所与の "テーマ" となっているからなのか、その "テーマ" を弱めるような思考回路は一切働かない按配となっているのだ。
覚醒時であれば、目の前の課題に対しては、それを打開すべく論理的に迫ってみたり、何らかの方策を見つけようと考えるわけだが、そんな論理性が見事に脱落している。
考えといえば、いつだったかの経験のことを頼りなく思い起こす程度であった。その経験がいつのことを指しているのか定かではないのだが、何でも四百字詰め原稿用紙一枚を書き埋めるのに、最低30分は掛かったはずだから、25時間は掛かる勘定だ......。なのにもう夕刻となっていて、その所要時間の半分をも切り始めている、と......。
つまり、夢の中での考えというのは、 "下手な考え休むに似たり" のことわざ以上に役立たずなのであり、所与の "テーマ" の基調となっている心理・感情をただ増幅させることだけに向けて働いているかのようなのだ。
困り切ってしまったところで、幸いにも眼が覚めた。トイレから戻った自分は、現実にはそんなムチャクチャなノルマを課されているわけではないことに安堵したのだが、他方で、このまま眠って先ほどの夢の現場に戻ってしまったのじゃぁまずいなぁ、なんぞと警戒したりしていた......。
ところで、これを書いていて気づいたことがある。
夢というのは、心理的・感情的な "断片的" イメージであり、しかもそれらに対してまともな "論理的思考" が迫れない、そんなもののようだという点に関することなのである。
というのは、われわれの日常の覚醒時の状態は、果たしてこれとは対照的に "論理的思考" が貫かれ、心理的・感情的な "断片的" イメージに押し流されないで生活しているのであろうか、と疑問視してみたのである。
そうであると信じつつも、その実態においては、まるで夢の中での脱思考的、没心理・感情的な、そんな状況の流れに身を任せているのではなかろうか、と。
少なくとも、現代のわれわれの日常生活環境は、 "思考停止" と心理的・感情的な "断片的" イメージの凌駕を特徴とする、そんなメディア環境によって包囲されているからなのである...... (2009.12.15)
ところが、夢の中では、もう夕刻になろうかと思えるにもかかわらず、未だ "ナッシング" の状態なのである。
もう、気分は焦りと不安でパニック状態となっていた。まさに、どう "でっち上げる" のかという途方もないことだけを思案しているのだ。
何を書くのか、というようなまともな思考はまるでない。
ただし、これも夢の特異性のようであるが、夢というのはストーリーが常に "断片的" なのであり、この夢は "切迫感" が所与の "テーマ" となっているからなのか、その "テーマ" を弱めるような思考回路は一切働かない按配となっているのだ。
覚醒時であれば、目の前の課題に対しては、それを打開すべく論理的に迫ってみたり、何らかの方策を見つけようと考えるわけだが、そんな論理性が見事に脱落している。
考えといえば、いつだったかの経験のことを頼りなく思い起こす程度であった。その経験がいつのことを指しているのか定かではないのだが、何でも四百字詰め原稿用紙一枚を書き埋めるのに、最低30分は掛かったはずだから、25時間は掛かる勘定だ......。なのにもう夕刻となっていて、その所要時間の半分をも切り始めている、と......。
つまり、夢の中での考えというのは、 "下手な考え休むに似たり" のことわざ以上に役立たずなのであり、所与の "テーマ" の基調となっている心理・感情をただ増幅させることだけに向けて働いているかのようなのだ。
困り切ってしまったところで、幸いにも眼が覚めた。トイレから戻った自分は、現実にはそんなムチャクチャなノルマを課されているわけではないことに安堵したのだが、他方で、このまま眠って先ほどの夢の現場に戻ってしまったのじゃぁまずいなぁ、なんぞと警戒したりしていた......。
ところで、これを書いていて気づいたことがある。
夢というのは、心理的・感情的な "断片的" イメージであり、しかもそれらに対してまともな "論理的思考" が迫れない、そんなもののようだという点に関することなのである。
というのは、われわれの日常の覚醒時の状態は、果たしてこれとは対照的に "論理的思考" が貫かれ、心理的・感情的な "断片的" イメージに押し流されないで生活しているのであろうか、と疑問視してみたのである。
そうであると信じつつも、その実態においては、まるで夢の中での脱思考的、没心理・感情的な、そんな状況の流れに身を任せているのではなかろうか、と。
少なくとも、現代のわれわれの日常生活環境は、 "思考停止" と心理的・感情的な "断片的" イメージの凌駕を特徴とする、そんなメディア環境によって包囲されているからなのである...... (2009.12.15)
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