それは、自分が降りるバス停のひとつ前のバス停での光景であった。
前方のドアからの乗降客の移動が終わったにもかかわらず、バスは停車したままであった。日頃、あまりバスに乗らない、いや外出さえめっきり減って "巣ごもり=引きこもり" に近い状態である自分は、何事かと首をかしげてしまった。
すると、中央のドアが開けられ、なおかつ運転手が運転席を立って、前のドアから出てくるや、中央ドアに面して何やら "作業" を始めたのだった。
ようやく、それが何を意味しているかが合点できた。中央ドアには、 "車椅子" 乗降者のための "折りたたみ式のスロープ" が設置されていたのである。
運転手は、それを "セッティング" するために運転席を離れたのであった。手際良く、その装置を外の歩道方面に引き出し、あっという間に車内から歩道へのなだらかなスロープを完成させた。
その後、その運転手は車内に入り、 "車椅子" で乗り込んでいたひとりの女性乗客の車椅子の取っ手を操作して、慎重にその "車椅子" と女性とを歩道側へ移動させた。運転手とその女性の双方が「ありがとうございました」と言っているのが聞こえてきた。
前方のドアからの乗降客の移動が終わったにもかかわらず、バスは停車したままであった。日頃、あまりバスに乗らない、いや外出さえめっきり減って "巣ごもり=引きこもり" に近い状態である自分は、何事かと首をかしげてしまった。
すると、中央のドアが開けられ、なおかつ運転手が運転席を立って、前のドアから出てくるや、中央ドアに面して何やら "作業" を始めたのだった。
ようやく、それが何を意味しているかが合点できた。中央ドアには、 "車椅子" 乗降者のための "折りたたみ式のスロープ" が設置されていたのである。
運転手は、それを "セッティング" するために運転席を離れたのであった。手際良く、その装置を外の歩道方面に引き出し、あっという間に車内から歩道へのなだらかなスロープを完成させた。
その後、その運転手は車内に入り、 "車椅子" で乗り込んでいたひとりの女性乗客の車椅子の取っ手を操作して、慎重にその "車椅子" と女性とを歩道側へ移動させた。運転手とその女性の双方が「ありがとうございました」と言っているのが聞こえてきた。
自分は、ちょっとした "衝撃" を受けたものだった。
確かに、こうした光景を見るのが初めてだったということもある。しかし、 "理由" はそんなことではなかったのだ。
バスの中で、所在なく "とある事" を考えていた自分だったのだが、そのたどたどしい考え事に対して、まるで "天啓" のごときシャープな光景が目の当たりに広がったからなのである。
"人は独りでは生きられない" という事実、そして、そればかりかその裏側の "必然的事実" となるはずのものとして "人は人を支援しつつ生きる" ということ、これがその "天啓" の意味であったわけだ。
毎年自分は、松の内(元日~七日)の間に "川崎大師" に参詣することを恒例としてきた。今どき、 "神頼み" でもあるまい......、とは百も承知している。しかし、取りやめをして不可解な "祟り" でもあっては......、という非合理な弱気が潜んでいたのであろうか、ここまで続けてきた。
が、 "初詣" はともかく、もう、 "護摩" を焚いて "御札" を戴くという "思い入れ" には終止符を打とう! ただし、 "とおりゃんせ" の歌詞ではないが、去年の分の "御札" は、「御札を納めに参ります」とするのが礼儀だろうと思ったのだ。
ところで、昨今はめっきり "出不精" となった自分である。ことによったら今流行りの "巣ごもり=引きこもり" 体質にでもなってしまったのかと懸念するくらいである。
で、今日は、気乗りしない気分を引き立てて、往復3時間の遠足をしたのだった。気分をなだめるために、イヤホーン・ラジオやサウンド・メディアなどのプライベート・グッズを持参した。
ところで、人込みの中でイヤホーンなどによって他者たちの存在を "希薄化" させてみると、確かに人込み特有の "うざったらしさ" が相対化される。しかも、今日は防寒のためのあごまで埋まるようなマフラーに、新型インフル感染防止のためのマスクまでしていたので、 "人込み相対化効果" はてきめんであったか......。
だが、そんなふうな状況に自分を置いてみると、ある事実に気づかざるを得なかった。人込みの中での他者たちの存在の "希薄化" を図っていたのは、決して自分だけではなく、ほぼすべての群集各位が皆同じではないか、という点なのである。
ヘッドフォーンをしている若い者、ケータイ画面に見入って個人作業に没頭している者、そして車内光景の定番である深い居眠り光景......。要するに、群集各位は "他者たちの存在感" に無関心であるどころか、むしろ極力 "抹消" すべく鋭意努力なさっているかに、見えたものだった。
これが、大都市の人込みでの個々人の実態なのに違いない、と実感するとともに、そうでなければ "やってゆけない" のが現実なのかもしれない、とも思えた。
この間、 "時間の観念" に関して、 "〈コンサマトリー〉(現時充足的)" 視点というテーマにこだわってきた。要するに、いろいろな水準はあろうが、 "現時(=今)" を基点としたり、最優先する視点のことである。
ところが、これとパラレルな形で顕著となっているものがもうひとつあり、それは "現自(自己)充足的" と文字(もじ)ることもできそうである。平たく言えば、 "個人主義" 、 "自己中心主義" とも言えそうだが、内容はかなり強烈となっており、 "他者という存在(感)" を "抹消・超越" しようとする願望......、とでも言えそうか。
現代環境にあってこれは別に今始まった奇異なことではなかろう。ネットやゲーム世界の環境で当事者たちにもたらされる "全能感" というものは、 "他者という存在(感)" が "抹消・超越" できるように仕掛けられているがゆえであり、こうした "電脳仕掛け" に馴染んでしまうならば、現実の他者たちの存在は、 "無関心・無視・蔑ろ" という従来からの "緩いレベル" を飛び越えて、 "ナッシング" のレベル、位置にまで引き下げられているのかもしれない。
電車内での "化粧" 作業から "飲食" 行為なぞは、こう考えなければ理解できないはずだろう。そして、 "ナッシング" であるはずの存在が、その姿を現すならば、まるでゲームで "バグ" の痕跡が表示された時のように、 "うざったらしい" ということにもなるのかもしれない......。
こうしたまるで "出口を失った" かのような "現自(自己)充足的" 現象について、当惑気味に思いを巡らせていたその時だったのである。冒頭で書いた、乗り合わせたバスで "折りたたみ式のスロープ" の一件での淡々とした "共生の光景" を眼にしたのは...... (2010.01.07)
確かに、こうした光景を見るのが初めてだったということもある。しかし、 "理由" はそんなことではなかったのだ。
バスの中で、所在なく "とある事" を考えていた自分だったのだが、そのたどたどしい考え事に対して、まるで "天啓" のごときシャープな光景が目の当たりに広がったからなのである。
"人は独りでは生きられない" という事実、そして、そればかりかその裏側の "必然的事実" となるはずのものとして "人は人を支援しつつ生きる" ということ、これがその "天啓" の意味であったわけだ。
毎年自分は、松の内(元日~七日)の間に "川崎大師" に参詣することを恒例としてきた。今どき、 "神頼み" でもあるまい......、とは百も承知している。しかし、取りやめをして不可解な "祟り" でもあっては......、という非合理な弱気が潜んでいたのであろうか、ここまで続けてきた。
が、 "初詣" はともかく、もう、 "護摩" を焚いて "御札" を戴くという "思い入れ" には終止符を打とう! ただし、 "とおりゃんせ" の歌詞ではないが、去年の分の "御札" は、「御札を納めに参ります」とするのが礼儀だろうと思ったのだ。
ところで、昨今はめっきり "出不精" となった自分である。ことによったら今流行りの "巣ごもり=引きこもり" 体質にでもなってしまったのかと懸念するくらいである。
で、今日は、気乗りしない気分を引き立てて、往復3時間の遠足をしたのだった。気分をなだめるために、イヤホーン・ラジオやサウンド・メディアなどのプライベート・グッズを持参した。
ところで、人込みの中でイヤホーンなどによって他者たちの存在を "希薄化" させてみると、確かに人込み特有の "うざったらしさ" が相対化される。しかも、今日は防寒のためのあごまで埋まるようなマフラーに、新型インフル感染防止のためのマスクまでしていたので、 "人込み相対化効果" はてきめんであったか......。
だが、そんなふうな状況に自分を置いてみると、ある事実に気づかざるを得なかった。人込みの中での他者たちの存在の "希薄化" を図っていたのは、決して自分だけではなく、ほぼすべての群集各位が皆同じではないか、という点なのである。
ヘッドフォーンをしている若い者、ケータイ画面に見入って個人作業に没頭している者、そして車内光景の定番である深い居眠り光景......。要するに、群集各位は "他者たちの存在感" に無関心であるどころか、むしろ極力 "抹消" すべく鋭意努力なさっているかに、見えたものだった。
これが、大都市の人込みでの個々人の実態なのに違いない、と実感するとともに、そうでなければ "やってゆけない" のが現実なのかもしれない、とも思えた。
この間、 "時間の観念" に関して、 "〈コンサマトリー〉(現時充足的)" 視点というテーマにこだわってきた。要するに、いろいろな水準はあろうが、 "現時(=今)" を基点としたり、最優先する視点のことである。
ところが、これとパラレルな形で顕著となっているものがもうひとつあり、それは "現自(自己)充足的" と文字(もじ)ることもできそうである。平たく言えば、 "個人主義" 、 "自己中心主義" とも言えそうだが、内容はかなり強烈となっており、 "他者という存在(感)" を "抹消・超越" しようとする願望......、とでも言えそうか。
現代環境にあってこれは別に今始まった奇異なことではなかろう。ネットやゲーム世界の環境で当事者たちにもたらされる "全能感" というものは、 "他者という存在(感)" が "抹消・超越" できるように仕掛けられているがゆえであり、こうした "電脳仕掛け" に馴染んでしまうならば、現実の他者たちの存在は、 "無関心・無視・蔑ろ" という従来からの "緩いレベル" を飛び越えて、 "ナッシング" のレベル、位置にまで引き下げられているのかもしれない。
電車内での "化粧" 作業から "飲食" 行為なぞは、こう考えなければ理解できないはずだろう。そして、 "ナッシング" であるはずの存在が、その姿を現すならば、まるでゲームで "バグ" の痕跡が表示された時のように、 "うざったらしい" ということにもなるのかもしれない......。
こうしたまるで "出口を失った" かのような "現自(自己)充足的" 現象について、当惑気味に思いを巡らせていたその時だったのである。冒頭で書いた、乗り合わせたバスで "折りたたみ式のスロープ" の一件での淡々とした "共生の光景" を眼にしたのは...... (2010.01.07)
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