湿気を含む空気だと "臭い、香り" が伝わり易いのだろうか。梅の花の香りまでは漂ってこないが、周辺の植物などの何気ない香りが漂い、そんなことからも気候が変わりつつあることを知らされる。
今日も小雨となっているし、どうもここ一週間ほどは雨模様が続くようだ。冷えた空気での雨というのはいただけないが、気温が10度前後での雨(春雨?)だと、気分にも "潤い" めいたものが与えられるような気がしている。
冷たく乾燥した空気だと "臭い、香り" を運ぶこともできないのだろうか。よくはわからないが、それらの要素は一定の気温と湿気とともに漂い、人や動物の "嗅覚" に届くのかもしれない。そう考えると、これからの季節、とりわけ小雨混じりの日々などは、植物たちが織り成す春の香りが気分を和ませてもくれるのだろう......。
あえて、 "臭い、香り" にこだわるのは、これらが "記憶" を呼び覚ます重要な刺激だと実感するからである。この点はかねてより体感的に気づいていたが、どうも少なからぬ脳科学者たちもこの事実をあちこちで指摘しているようだ。
記号情報で飛躍的発展を遂げた人間も、動物としての基本構造は、今なおしっかりと内蔵しているわけであるが、その動物たちにとっては、 "嗅覚" は重要な "生存ツール" のはずであり、その関係から "嗅覚" にまつわる "記憶" はかなり刻印が深いのではなかろうかと推測できる。
先日も、南極の皇帝ペンギンたちの生態に関するTV番組を観た際、彼らが何千、何万組という数の親子の群れの中でその固有の関係を識別するのが "臭い" だと伝えられていた。 "臭い" と固体のアイデンティティ(ID)とが一体化しているのだと了解される。 "DNA鑑識" の水準にも匹敵する "嗅覚" パワーが動物に内在しているのは、ただただ驚かされるばかりであった。
今日も小雨となっているし、どうもここ一週間ほどは雨模様が続くようだ。冷えた空気での雨というのはいただけないが、気温が10度前後での雨(春雨?)だと、気分にも "潤い" めいたものが与えられるような気がしている。
冷たく乾燥した空気だと "臭い、香り" を運ぶこともできないのだろうか。よくはわからないが、それらの要素は一定の気温と湿気とともに漂い、人や動物の "嗅覚" に届くのかもしれない。そう考えると、これからの季節、とりわけ小雨混じりの日々などは、植物たちが織り成す春の香りが気分を和ませてもくれるのだろう......。
あえて、 "臭い、香り" にこだわるのは、これらが "記憶" を呼び覚ます重要な刺激だと実感するからである。この点はかねてより体感的に気づいていたが、どうも少なからぬ脳科学者たちもこの事実をあちこちで指摘しているようだ。
記号情報で飛躍的発展を遂げた人間も、動物としての基本構造は、今なおしっかりと内蔵しているわけであるが、その動物たちにとっては、 "嗅覚" は重要な "生存ツール" のはずであり、その関係から "嗅覚" にまつわる "記憶" はかなり刻印が深いのではなかろうかと推測できる。
先日も、南極の皇帝ペンギンたちの生態に関するTV番組を観た際、彼らが何千、何万組という数の親子の群れの中でその固有の関係を識別するのが "臭い" だと伝えられていた。 "臭い" と固体のアイデンティティ(ID)とが一体化しているのだと了解される。 "DNA鑑識" の水準にも匹敵する "嗅覚" パワーが動物に内在しているのは、ただただ驚かされるばかりであった。
昨日、唐突に "内なる声" という言葉を使ったが、その背景のひとつには、こうした動物に内在する本能的なパワーへの畏敬の念が潜んでいるのかもしれない。
動物たちは、 "情報社会" を構築できない、しないその分、おのがボディに内在する持ち前の本能的パワーを研ぎ澄ますことだけに注力し続けている。
そして、彼らのそれを現代人は往々にして "愚かしい" と見るわけである。が、その反面、それでは人間たちは、輝かしい "情報社会" を構築しつつ、あらゆる点で生存の危機可能性を克服しているのか......、という思いも禁じえないのではなかろうか。
もっとも、この期に及んで、現代文明の到達点である "情報社会" の基本構造に "楯突く" ことは、言うまでもなく無謀過ぎるに違いなかろう。
ただ、注目しておくべきは、現時点で諸科学に残されている小さくない課題は、 "脳や心の問題" をはじめとした、この辺の "人間の内なる部分" であるに違いないという点なのである。
また、穿った言い方をするならば、現代文明が成立するために、方法論としてあえて視野の外に置き続けてきたのがこの "人間の内なる部分" であったのかもしれない、と推定できなくもない。
"嗅覚" 情報という、いかにも "ダサイ(クサイ)" 範疇の課題が、ひょっとしたら現代文明が遭遇している難問に突破口を開く、そのヒントを与えるのだろうか...... (2010.02.27)
動物たちは、 "情報社会" を構築できない、しないその分、おのがボディに内在する持ち前の本能的パワーを研ぎ澄ますことだけに注力し続けている。
そして、彼らのそれを現代人は往々にして "愚かしい" と見るわけである。が、その反面、それでは人間たちは、輝かしい "情報社会" を構築しつつ、あらゆる点で生存の危機可能性を克服しているのか......、という思いも禁じえないのではなかろうか。
もっとも、この期に及んで、現代文明の到達点である "情報社会" の基本構造に "楯突く" ことは、言うまでもなく無謀過ぎるに違いなかろう。
ただ、注目しておくべきは、現時点で諸科学に残されている小さくない課題は、 "脳や心の問題" をはじめとした、この辺の "人間の内なる部分" であるに違いないという点なのである。
また、穿った言い方をするならば、現代文明が成立するために、方法論としてあえて視野の外に置き続けてきたのがこの "人間の内なる部分" であったのかもしれない、と推定できなくもない。
"嗅覚" 情報という、いかにも "ダサイ(クサイ)" 範疇の課題が、ひょっとしたら現代文明が遭遇している難問に突破口を開く、そのヒントを与えるのだろうか...... (2010.02.27)
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