"忘却" という生理的メカニズム( 防衛機制?)が、 "今を生きる" 生きものにとっては、あながち軽視できない仕組みであることを一昨日書いた。
多分このメカニズムは、生きものが、現実的環境で生き残るという生存のために、限られたパワーから少しでも "ムダ" なエネルギーを消費しないようにと、いわば "エコノミカル" な戦略戦術を選択している......、と言えるのかもしれない。
思い起こすのは、いつぞや観てなるほどと頷いたことがある、 "赤ちゃん" に秘められた能力に関するTV番組である。
生まれて間もない "赤ちゃん" は、これから遭遇するであろうあらゆる現実環境のために、大人以上の幅広い "潜在力" を秘めているらしい。たとえば、確か、 "音声" を聞き分ける能力にしても、まさに万国の言語 "音声" に対して反応できる "潜在力" を持っているという。
これに対して、成人は母国語の "音声" はもちろん微細に聞き取れる能力を高めているが、他国の言語の "音声" に関しては、特に特殊な発音部分などについては "聞き流し" して単なる "音" と解するようになっているらしい。 "英語耳" とか何とか言われて話題にされるのは、その辺の事情に関係しているものと思われる。
このほかにも、日常的動作(運動神経)にしても、あらゆる可能性から、人間として行動するにあたっては差し当たって "ムダ" だと見なされた(誰かが見なしたというよりも、この辺は、DNA情報の発現であるのかもしれない)運動神経は "機能不可" となって行くのだという。
まるで、PCにアプリケーション・ソフトをインストールする際の、ユーザーの好みによって取捨選択できるオプション機能のような印象さえ受ける。
多分このメカニズムは、生きものが、現実的環境で生き残るという生存のために、限られたパワーから少しでも "ムダ" なエネルギーを消費しないようにと、いわば "エコノミカル" な戦略戦術を選択している......、と言えるのかもしれない。
思い起こすのは、いつぞや観てなるほどと頷いたことがある、 "赤ちゃん" に秘められた能力に関するTV番組である。
生まれて間もない "赤ちゃん" は、これから遭遇するであろうあらゆる現実環境のために、大人以上の幅広い "潜在力" を秘めているらしい。たとえば、確か、 "音声" を聞き分ける能力にしても、まさに万国の言語 "音声" に対して反応できる "潜在力" を持っているという。
これに対して、成人は母国語の "音声" はもちろん微細に聞き取れる能力を高めているが、他国の言語の "音声" に関しては、特に特殊な発音部分などについては "聞き流し" して単なる "音" と解するようになっているらしい。 "英語耳" とか何とか言われて話題にされるのは、その辺の事情に関係しているものと思われる。
このほかにも、日常的動作(運動神経)にしても、あらゆる可能性から、人間として行動するにあたっては差し当たって "ムダ" だと見なされた(誰かが見なしたというよりも、この辺は、DNA情報の発現であるのかもしれない)運動神経は "機能不可" となって行くのだという。
まるで、PCにアプリケーション・ソフトをインストールする際の、ユーザーの好みによって取捨選択できるオプション機能のような印象さえ受ける。
何を言おうとしているのかと言うと、 "今を生きる" 生きもののリアルな課題とは、自身に秘められた、あらゆる意味でのパワーには限界があるため、それらをもってリアルな課題を合理的に遂行しようとするならば、自ずから "取捨選択" に至らざるを得ない、という点なのである。
だから、 "記憶" と "忘却" という両側面の相反するかのような機能にしても、実は、その "仕分け基準" があるとするならば、その "今を生きる" という最大関心事それ自体なのではなかろうかと思える。そして、これは別に、何ら特別の事ではなさそうだ。
人間(あるいは生きもの)は、 "今を生きる" という厳しい課題の遂行に資する限りにおいて、 "記憶" を深めたり、広げたりする一方で、そうではない、またはそれを阻害するような事柄に関しては、 "自然に"、"合理的に" 脳活動から遠ざけ、そしてやがて "忘却" の域へと "姥捨て" る、ということになっているのであろう。
したがって、極端な言い方をするならば、 "失念" してしまったことは、その程度の重要性しかない......、少なくとも "今を生きる" という "仕分け基準" からすればそういうことになりそうである。 "忘れたこと" を、必死で思い出そうとする必要はないのだ、と......。
しかし、本当にこれでいいのだろうか? と、やや首を傾げて考えさせられないわけではない。もう少し異なった観点がありそうだし、どこかに間違いもありそうではないか、と......。
恐らく、 "今を生きる" という課題が "仕分け基準" と見なされること自体には問題はなかろうと思える。しかし、 "今を生きる" という課題の、その内実は決して自明のことではなさそうである。まさに "ぴんきり" なのではなかろうか。動物のごとく生きるレベルから、理想などを目指して生きるレベルまで......。
たぶん、動物のごとく "今を生きる" 者にとっての "記憶" は、極端に言えば、その種の内容で塗りつぶされているのかもしれない。そして、それ以外の事柄は、 "忘却" の暗闇に封印されてしまうのであろう。
また逆に、 "今の生き方" を大きく変えた時、たとえば "改心・悔悛" (?)した時、 "忘却" の暗闇に封印されていた芳しい種類の "記憶" が、沸々と蘇って来る......、というようなことも大いにありそうな気がする。
"記憶" や "忘却" とは、それ自体固定的に存在し得るものではなさそうな気がしている。まさに、 "今を生きる" という "生き方" の在り様が、それらの内実をかなり拘束しているのではなかろうか。
人間は、その苦境を "記憶" や "忘却" によって助けられることがしばしばあり得るのは事実だろう。しかし、最も重要なことが、 "今を生きる" という "生き方" の在り様をリアルタイムに検証し続けること、それに変わりはないと思える...... (2010.03.21)
だから、 "記憶" と "忘却" という両側面の相反するかのような機能にしても、実は、その "仕分け基準" があるとするならば、その "今を生きる" という最大関心事それ自体なのではなかろうかと思える。そして、これは別に、何ら特別の事ではなさそうだ。
人間(あるいは生きもの)は、 "今を生きる" という厳しい課題の遂行に資する限りにおいて、 "記憶" を深めたり、広げたりする一方で、そうではない、またはそれを阻害するような事柄に関しては、 "自然に"、"合理的に" 脳活動から遠ざけ、そしてやがて "忘却" の域へと "姥捨て" る、ということになっているのであろう。
したがって、極端な言い方をするならば、 "失念" してしまったことは、その程度の重要性しかない......、少なくとも "今を生きる" という "仕分け基準" からすればそういうことになりそうである。 "忘れたこと" を、必死で思い出そうとする必要はないのだ、と......。
しかし、本当にこれでいいのだろうか? と、やや首を傾げて考えさせられないわけではない。もう少し異なった観点がありそうだし、どこかに間違いもありそうではないか、と......。
恐らく、 "今を生きる" という課題が "仕分け基準" と見なされること自体には問題はなかろうと思える。しかし、 "今を生きる" という課題の、その内実は決して自明のことではなさそうである。まさに "ぴんきり" なのではなかろうか。動物のごとく生きるレベルから、理想などを目指して生きるレベルまで......。
たぶん、動物のごとく "今を生きる" 者にとっての "記憶" は、極端に言えば、その種の内容で塗りつぶされているのかもしれない。そして、それ以外の事柄は、 "忘却" の暗闇に封印されてしまうのであろう。
また逆に、 "今の生き方" を大きく変えた時、たとえば "改心・悔悛" (?)した時、 "忘却" の暗闇に封印されていた芳しい種類の "記憶" が、沸々と蘇って来る......、というようなことも大いにありそうな気がする。
"記憶" や "忘却" とは、それ自体固定的に存在し得るものではなさそうな気がしている。まさに、 "今を生きる" という "生き方" の在り様が、それらの内実をかなり拘束しているのではなかろうか。
人間は、その苦境を "記憶" や "忘却" によって助けられることがしばしばあり得るのは事実だろう。しかし、最も重要なことが、 "今を生きる" という "生き方" の在り様をリアルタイムに検証し続けること、それに変わりはないと思える...... (2010.03.21)
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