ナイーブな言い方をして、 "幸せ" というものは、もちろんモノの所有の "量的大小" に直結するものでもないし、さりとて "情報量" や "思考量" に相関するものでもなかろう。
TVコマーシャルのごとく、幸せってなんだっけ、なんだっけ、と問えば余計に "混乱" させられるのかもしれない。
そう、われわれは、 "幸せ" ばかりではないのだが、大事なことについてはことごとく "混乱" し、撹乱させられる、そんな環境のただ中に置かれているようだ。
思うに(ナイーブに思うに)、 "幸せ" とは、何をおいてもそれを感じる自身の "感度" 、 "自家装置" の "感度" を外しては考えられない心の現象なのであろう。
そして、その "感度" は "自生的" なものであることが最上なのかもしれないと思ったりする。余りにも、現代のわれわれは、 "自生的" な "感度" をあれこれと弄り回し過ぎ、あるいは手の込んだ加工に及び過ぎるのかもしれない。
その最右翼にあるのは、こともあろうに "自生的" な "感度" を、 "ケミカルな薬物" の反応を借りて手懐ける(覚せい剤、麻薬などと言った薬物依存)と言った乱暴であろう。
それは論外としても、 "幸せ" への "自生的" な "感度" を軽蔑し、馬鹿にして、結局は右往左往することに明け暮れているのが哀しい現状なのかもしれない。
こうした視点を、まさに "ナイーブ過ぎる! 現代人はもっと複雑な現実を抱えているのだ!" とおっしゃる向きには、だったら金輪際 "幸せ" なんぞという言葉とは無縁でいらっしゃい、と言うべきか。
要するに、現代のわれわれは、 "過剰装備" をしているかのようである。 "所有欲" を巡っては、この高度市場経済環境によって "ほぼ無理矢理" に "過剰増幅" させられており、また "情報" への関心にしても同様の "ロジック" によって "過剰増幅" させられていると言えるのかもしれない。
おそらく、その "ロジック" とは、 "塩水のロジック" なのであり、 "飲めば飲むほど喉が渇く" という意地の悪い因果を持つものなのであろう。そんなことで、現代人は常に "喉の渇き" から "モノを求め" 、 "情報を求め" て、いつしか、自分でも始末に負えないほどの "過剰装備" を抱え込んでしまった......。そこには、 "自生的" な "感度" ならば備え持つところの "自足感" なぞは片鱗も無くなっている......。
こうした "塩水のロジック" は、 "所有欲" に関しては多くが語られてきたかのように思うが、 "情報" への関心、収集について、あるいは "考えること" については "聖域" 扱いがなされてさほど言及されてこなかったような気もする。
しかし、 "情報産業" をしっかりと傘下に収めているこの高度市場経済環境にあっては、ほぼ同様の事情が貫徹されていると見なした方が自然なのかと思える。
確かに、自身の独自な頭脳活動によって "考えること" は、決して色褪せるものではないし、その重要さが損なわれることもないはずである。
が、 "過剰" とも思える情報が飛び交う環境にあって、しかもその "情報" は何らかの "ひも付き" であったりするわけだから、一々真に受けて処理していたのならば、 "副作用" の方が大きく、身が持たなくなるのも当然かもしれない。
"考える人" ほど、ストレスに苛まれ、間が悪ければ "妄想" の域にまで引き込まれたりするのもあながち喜劇だとばかりは言えない......。
今朝、新聞を読んでいて、次のような目を引く広告記事があった。
まだ、書籍本体のチェックには至っていないが、<「休脳」のススメ>という "キャッチ・コピー" が "ナ~ルホド!" と思った次第なのである。
確かに、ただ頭を使って考えればいい、というものでもないかもしれない。「下手な考え休むに似たり」ということわざもあったりする...... (2010.04.02)
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