"クリーン" さが求められるのは、 "政治とカネ" で汚れた "政界" だけではないわけだ。今、専ら話題となっているのは、言うまでもなく "角界" での "底なし沼汚染" だということになる。
"大相撲" は、日本人にとってはどこか "心の癒し" につながる伝統文化ではなかったかと思えてならない。
その一端は、午後遅くTV中継から流れるのどかでのんびりとした雰囲気の "呼出(よびだし)" (大相撲での取組の際に力士を呼び上げる「呼び上げ」や土俵整備から太鼓叩きなど、競技の進行を行う者。)の響きであろうし、 "場所" ごとに味わえる季節感もいいものだ。また、どちらかと言うと力士たちの "寡黙" な様子も、他のスポーツ選手たちのタレント顔負けのプレゼン的口調に比べて、古き日本人たちの感性に馴染みもする。
生活世界が極端に世知辛く変化して、人々の伝統的な感性が疎んじられるかのような風潮の中で、 "大相撲" という伝統文化だけは、 "土俵際" で堪えて踏ん張っていたかのような気がしていた。と言うか、そうあって欲しいという人々の期待を担って来た。
が、ここに来て、 "角界" は立て続くの不祥事で、人々の感性を逆撫でしつつ幻滅させるばかりか、最も貴重なであるはずの国民的人気(受け皿)を損ないつつある。
決して、高が "伝統文化" だとして侮ってはならないであろう。グローバル時代であるからこそ、堅持すべき "伝統文化" は、 "種の絶滅" を回避して、聡明な構えと体制とによって維持されるべきなのではなかろうか。
恐らく、現時点のグローバル時代の序章段階を通り越した後には、確実に各国に固有の "伝統文化" がバリューアップされる時代が来るに違いなかろう。グローバル・コンポーネントだけで埋め尽くされてしまった文化的空間が、味気ないがゆえに忌避されることになるに違いなかろう。
まあそこまで先読みをすることもないかもしれないが、グローバル時代が不可避な環境となっているからこそ、国民的人気(受け皿)によって支えられている "伝統文化" は、 "絶滅品種" の動植物と同様に真摯に保護されるべきだと思えるわけだ。と言っても、単なる "過保護" に陥り、本質を損ないながら "贅肉部分" のみを肥大化させるという "愚" は避けたいものである。
<新潟日報のコラム「ここまでくると、もう土俵を割ったと言った方がいい」/新潟日報 日報抄/2010年6月18日
「角界刷新へ協会は土俵際だ」。不祥事が続く大相撲の惨状を評するとき、便利な相撲用語ではある。でも、ここまでくると、もう土俵を割ったと言った方がいい。相撲協会は自ら砂かぶり席まで転がり落ち、のたうち回っている
▼新潟市出身の時太山の暴行死事件があったのは3年前だ。あれからどれだけ多くの不祥事で土俵が汚されたことか。大麻や暴行事件があった。巡業をサボってサッカーをしていた横綱朝青龍は、飲酒暴行で2月に引退した。協会は外部理事らを入れ、世間の批判をかわそうとしたが、根っこが腐っていた
▼暴力団幹部が「砂かぶり」と呼ばれる特等席で観戦できたのは、親方2人が入場券を手配したためだった。今度は協会の内部調査に現役力士や親方ら65人が「賭け事の経験あり」と答えた。大関琴光喜はじめ、29人は野球賭博に手を染めていた
▼野球賭博の多くは暴力団が仕切る。賭けは1週間ごとの月曜日決済で、「熱くなると(賭け金は)1試合300万はいく」(北尾トロ著「怪しいお仕事!」)。ナイトゲームの賭けの締め切りは午後5時ごろという
▼「巨人か、阪神か」。本場所の土俵上に、「野球」で頭がいっぱいの力士がごろごろいたことになる。これでは「八百長相撲」のうわさが絶えるはずもない
▼きのうは大嶽親方と時太山がいた時津風部屋の豊ノ島が協会の聴取を受けた。でも、その結果を何も話さない。暴行死事件の教訓はどうなったのか。綱紀なき "底なし沼"に土俵が沈んでいく。協会は公益法人を返上し裸一貫から出直すしかない。>(新潟日報 日報抄/2010年6月18日)
やはり、 "公益法人 相撲協会" に対する一大決心の "大手術" が避けられないものと思われる...... (2010.06.19)
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