"ソーシャルメディア" を "相対化" する眼差しがジワジワと広がっているような気配を感じる。そりゃそうなのかもしれない......。
マスメディアでは、"ソーシャルメディア" の本質論なんぞは踏み倒し、もっぱら "マーケティング( or マネタイズ )" ジャンルに視線を定めつつ、どの企業がどんな新製品ツールをリリースしたとか、どんな新サービスを始めたとかという "ごみネタ" ばかりの "御用取材" に明け暮れていたのでは、たとえ "ソーシャルメディア" に好意的な者とて "興醒め気分" になりそうである。
また、それを埋め合わせる程に、一般利用者間での "交流" に内実が伴っていれば話は別となろうが、この辺についても現状では "?" がつきまとっていないとは言えない......。
かく言う自分も、"そんな気分" に浸されながら昨日はややクールな記事を書いたりした。( c.f. "ソーシャルメディア"は平凡な事実に立ち返るべし!"前提"があってこそ活きる!( 当誌 2012.02.15 ) )
まだ "ピーク超え" したと言うには早い気もするが、"熱し易く、醒め易い" 国民性や昨今流行り(?)の急速な "持ち上げ、突き落とし" 現象(マスメディアの "マッチポンプ" 的習性?)という傾向を踏まえれば、あながち見当外れではないのかもしれない......。
こんな空気を見透かしたかのように、下記引用サイト記事:「発信箱:ネット革命の正体=伊藤智永(ジュネーブ支局)/毎日新聞/2012.02.15」 は、"ソーシャルメディア" を "シニカル" に扱き下ろしている。
およそ "65%" 程度の共感(?)を込めて引用しておきたい......。
発信箱:ネット革命の正体=伊藤智永(ジュネーブ支局)
妻は時々、何気なく名言を口にする。
「メールとかツイッターができてから、中途半端な人間関係が増えたのよねえ」
身内、親友、友人、同僚、隣人、知人、知り合い、他人......。なるほど、インターネットがなかったころはもっと丁寧だった人との微妙な間合いが、がさつになった。
車の運転で人格が変わる(本性を現す?)人がいるように、ネットもあまり安易に発信できるせいか、妙になれなれしかったり、突然敵に変わったり、せわしない。
確かに、交信圏は、速くて、広い。でも、やりとりの中身は、短く、安手で、はかない。その二つの特徴を併せ持つ人の網目が今日、地球上をくまなく覆っている。
去年の今ごろ、カイロの広場にいた。独裁政権を倒した何十万もの人々を街頭に呼び出したのは、ネットの力だという。
歓喜の渦は感動的だったが、片っ端から話を聞くうちに困惑した。人々は軍政を楽観し、民主化や自由の中身を語れない。群衆の強大さと一人一人の無邪気さに落差がありすぎた。1年たってもエジプトは、革命の目標を探してさまよっている。
アラブに限らない。4年前の米大統領選を「ネット選挙」で制したオバマ氏は、今や「成果を出せない大統領」とけなされる始末。昨年秋、ネットを介して世界中に広がった「ウォール街を占拠せよ」運動は、街頭から先の道順を見つけられない。
ネットは「ノー」や「イエス」の単純な標語で、人々を一時の興奮に駆り立てても、一人一人が新しい居場所に落ち着ける、次の秩序は作れないのではないか。
決めつけは早すぎるが、いまだにネットのユートピアを妄信するのも鈍感すぎる。
さて、流行のフェイスブック。妻の感想は「自分が幸せな人だけがやるものね」。自己顕示メディアの正体か。 ( 発信箱:ネット革命の正体=伊藤智永(ジュネーブ支局)/毎日新聞/2012.02.15 )
確かに "決めつけは早すぎる" かとは思われる。
と言うのも、"ソーシャルメディア" が真価を発揮するには相応の時間経過が不可欠であるからだ。また、"ソーシャルメディア" が秘めた "後戻りしないボトムアップ力" という点もある。
ただ、現代という時代環境では、"スピード" というものが馬鹿にならないようだ。"ソーシャルメディア" の一般利用者層の "成熟速度" に増して、マスメディアが一方的な "刷り込み"( 急速な "持ち上げ、突き落とし" )を行使し続けるならば、"ソーシャルメディア" の進展は混沌とした歩みになるのかもしれない...... (2012.02.16)
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