<認知症の人のためのケア技術「ユマニチュード」> という言葉を耳にしたことがあるかもしれない。 多分、今後ますます注目を浴びる言葉であり、概念なのだろうと思われる。
◆ 参照 当誌過去の "ユマニチュード" 関連記事
○ <フランス発、認知症の人のためのケア技術「ユマニチュード」が注目を浴びている。体力や道具は不要。ただ、4つのポイントを心がけるだけで、介護する人は驚くほどラクになり、介護される人は快適に、穏やかになる/ 「ユマニチュード」とは、フランス語の造語で「人であることを尊重する」という意味 認知症の人のためのケア技術/ 認知症の患者さんをあまり動かさない従来の医療現場の常識を覆し、介護者が患者さんの力を引き出しながらケアすることで、介護される人は穏やかになり、介護する人はラクになるという、いい結果を引き出す/ 4つのポイント
1.見つめる
同じ目の高さで、20センチ程度の距離で、チラ見ではなく、0.4秒以上じっと見つめる。見下ろされていると相手に感じさせず、お互いの関係が平等であることを伝える。
2.話しかける
低めのトーンで柔らかな抑揚で話す。「お元気そう」といったポジティブな内容で。また、「今、腕を拭きますよ」と、行っている動作の内容を"実況"し、頻繁に話しかけると、相手は安心する。
3.触れる
ゆっくりなでるように、広い面積をやさしく触れ続ける。腕は、上から力まかせにつかんだり、引っ張ったりせず、下から支えるようにサポートし、相手を労わっていることを伝える。
4.立つことをサポート
寝かせたままにせず、できるだけ、「立つ」「歩く」サポートを行う。最期までその人らしく、を大切にする、ユマニチュードの考え方の原点になっている> ( 福音にも値するはずの"認知症ケア技術"の基本!「ユマニチュード」"4つのポイント"!/当誌 2014.05.06 )
今回注目する下記引用サイト記事 : 認知症で攻撃的な人いない 向き合う~認知症ケア技法「ユマニチュード」考案者 イヴ・ジネストさん(2)/日本経済新聞/2018.04.30 - 02:00 は、 <認知症の高齢者は暴力的だろうか? 暴力的というのはケアしようとするとき、ひっかいたり、暴言を吐いたり、拒否したりすることでケアの実施が困難となる行動だ。 私は「認知症の高齢者で攻撃的な人はいない」と思っている。私たちが相手を「攻撃的だ」と感じてしまうのはどういうときだろうか? 例えば自分が誰かに腕をつかまれることを想像してみてほしい。認知症であれ、誰であれ、自分がつかまれた時には相手からの強制的な意図を感じる。まして掃除をするみたいに体を洗浄されれば、ケアを暴力的で不快に感じるのは当然だ> と報じている。
<......認知する能力が低下しても、人の感情は最期まで残る。つまり不快なメッセージは認識でき、その不快な状況から身を守るために抵抗する。認知症の人の暴力的な行為は攻撃ではなく、自分を守ろうとしているだけだ。むしろ攻撃しているのはケアする側なのだ。 「認知症の高齢者に原因がある」と考えてしまうのは、ケアする側に「相手にとって常にいいことをしているはずだ」という思い込みがあるからだ。実際はそうではないことをケアする人は自覚する必要がある。 触れる部位にも適切な順番がある。ケアをする際には、まず社会的に触ってもいいニュートラルな体の部位に手を置く。看護学校では顔を拭くことから始めるように教えるが、相手とよい関係を結ぶ観点からは正しくない。顔や陰部はとても敏感であり、よい関係を確立し、最後に触れるべき部位である。 想像してほしい。いきなり顔を拭かれたり、部屋に入るなり、おむつの中を確認されたりしたら、どう感じるだろうか。ケアする人が無意識にしていることが抵抗を誘発している。 認知症の人に横から呼びかけても反応しないことがある。視野が狭くて見えていないのではない。見えていても、その意味を認知できていないのだ。だから相手の視線を正面からとらえ、できるだけ近い距離から話しかける必要がある。相手が認識していない状態でケアを始めれば、驚いて抵抗するのは当然である。 私たちは数多くの失敗と、ときに起こる成功との違いは何かを分析し続けてきた。こうした発見の積み重ねがユマニチュードの技術の基礎にある> とある。
認知症で攻撃的な人いない 向き合う~認知症ケア技法「ユマニチュード」考案者 イヴ・ジネストさん(2)/日本経済新聞/2018.04.30 - 02:00
認知症の高齢者は暴力的だろうか? 暴力的というのはケアしようとするとき、ひっかいたり、暴言を吐いたり、拒否したりすることでケアの実施が困難となる行動だ。
私は「認知症の高齢者で攻撃的な人はいない」と思っている。私たちが相手を「攻撃的だ」と感じてしまうのはどういうときだろうか?
例えば自分が誰かに腕をつかまれることを想像してみてほしい。認知症であれ、誰であれ、自分がつかまれた時には相手からの強制的な意図を感じる。まして掃除をするみたいに体を洗浄されれば、ケアを暴力的で不快に感じるのは当然だ。
認知する能力が低下しても、人の感情は最期まで残る。つまり不快なメッセージは認識でき、その不快な状況から身を守るために抵抗する。認知症の人の暴力的な行為は攻撃ではなく、自分を守ろうとしているだけだ。むしろ攻撃しているのはケアする側なのだ。
「認知症の高齢者に原因がある」と考えてしまうのは、ケアする側に「相手にとって常にいいことをしているはずだ」という思い込みがあるからだ。実際はそうではないことをケアする人は自覚する必要がある。
触れる部位にも適切な順番がある。ケアをする際には、まず社会的に触ってもいいニュートラルな体の部位に手を置く。看護学校では顔を拭くことから始めるように教えるが、相手とよい関係を結ぶ観点からは正しくない。顔や陰部はとても敏感であり、よい関係を確立し、最後に触れるべき部位である。
想像してほしい。いきなり顔を拭かれたり、部屋に入るなり、おむつの中を確認されたりしたら、どう感じるだろうか。ケアする人が無意識にしていることが抵抗を誘発している。
認知症の人に横から呼びかけても反応しないことがある。視野が狭くて見えていないのではない。見えていても、その意味を認知できていないのだ。だから相手の視線を正面からとらえ、できるだけ近い距離から話しかける必要がある。相手が認識していない状態でケアを始めれば、驚いて抵抗するのは当然である。
私たちは数多くの失敗と、ときに起こる成功との違いは何かを分析し続けてきた。こうした発見の積み重ねがユマニチュードの技術の基礎にある。
昨今、介護者による患者に対する虐待事件が、人々の思いを暗くしている。 そんな場合、ややもすれば患者側に原因を求めたりすることがないではない......。 だが、そこでこそ冷静な認識が必要となる。
<認知する能力が低下しても、人の感情は最期まで残る。つまり不快なメッセージは認識でき、その不快な状況から身を守るために抵抗する。認知症の人の暴力的な行為は攻撃ではなく、自分を守ろうとしているだけだ。むしろ攻撃しているのはケアする側なのだ。 「認知症の高齢者に原因がある」と考えてしまうのは、ケアする側に「相手にとって常にいいことをしているはずだ」という思い込みがあるからだ。実際はそうではないことをケアする人は自覚する必要がある> と...... (2018.05.01)
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