今、"電子書籍" が溢れ返るように出版され続けている。そんな中で、"電子書籍" とは一体何であるのか? いや、それ以前に "(紙の)本" とは何であり、何であったのか? という問いもまた改めて浮上していそうだ。
技術のイノベーションに任せて、何でもあり、で良さそうな気もしないではないが、こうした問いに耳を傾けて何らかのベクトルを探ってみることも興味深い。
今回レビューしてみたい下記引用のサイト記事: <「本」は物体のことではない。それは持続して展開される論点やナラティヴだ - 読むが変わる from 『WIRED』VOL.2/WIRED JAPANESE EDITON - MAGAZINE/2012.01.28 は、広範囲に渡って淡々と述べられているかの印象だが、意外と含蓄があり示唆的だと思えた。
語り手の主要な関心事と思われる<「本とはなんだ」という再定義が必要>というポイントに目を凝らしてみると、三つのキーワードが注目されて良いかと思えた。① <ナラティヴ(語り/ストーリー)>、② <ソーシャル>、③ <キュレーション>の三つである。
① <ナラティヴ(語り/ストーリー)>
<「本」は、その物体のことを指しているわけではない。「本」とは、持続して展開される論点やナラティヴ(語り/ストーリー)のこと>だとされる。
この<ナラティヴ(語り/ストーリー)>という表現には大いに共感を覚える。
"ナラティヴ" とは、物語、物語文学のほか語りという意味があるが、"主体的に語る" という意味が適切ではないかと思う。最近は、"ナラティブセラピー (Narrative therapy)" という精神療法もあるらしいが、自分に軸足を置かない客観に対して、"自分=主体" に立脚した( 自分の "視座" を持った! )語り、それが "ナラティヴ" の本質であり、また "「本」" の正体ではないのかと......。
② <ソーシャル>
「本」は、"読む" こと、"書く" ことの両面において "ソーシャル" な性格を持っていること。
<書き込みをしたいし、カット&ペーストしたいし、読んだものを「シェア」したい。タブレットの登場によって、こうしたことがより簡単になった。つまり読書は「ソーシャルな行為」になった>
<考えてみれば、かつて読書という行為はソーシャルなものだった。字が読める人が少なかった時代、読書は読める人が読んで聞かせる行為だったからだ。そしていま、読むという行為は、またソーシャルなものになりつつある。テキストや本はネットでシェアされ、テキスト同士はハイパーリンクでつながっている。>
<メディアはよりソーシャルな存在になってきている。いま「書く」ということがよりパブリックな行為となって、読者から連絡があったり、書く過程をツイッターで中継したり、「書く」ことに付随する行為も変わってきている。紙の媒体では刷ってしまったら修正はできないが、いまの世の中では、自分の作品を半永久的に修正し続けることも可能>
元来「本」というものが持つ "ソーシャル" な性格が、今 "電子書籍" によって蘇ったと見てよいのだろう。
③ <キュレーション>
"キュレーション(Curation)" とは、<「情報を価値付けし、情報と情報をつなぎ合わせて新しい価値(文脈=コンテキスト)を生み出す」という行動や概念>( 参照 スマホとは"機能をキュレートされたデバイス"!/"キュレーション"概念に注目!( 当誌 2011.08.31 ) )だと理解するなら、「本」(「雑誌」だけではなく)と "キュレーション" とは別物ではないかと思われる。
<「雑誌」とは、アイデアや視点の集合体を、編集者の視点を通して見せるというもの、ぼくが今後「雑誌」を作るとしたら「世界でいちばん高い雑誌」そこでは、究極のキュレーションを目指す>
<10年後には「本」そのものは基本的にすべて無料になる。そして会員は、本をガイドしてもらうというサーヴィスに対して定額の会費を払う。......このようになっていくと、生身の人間の「ガイド」の存在価値もあがるだろう。アルゴリズムよりすぐれたガイドが欲しければ人間を雇えばいいわけだ。今後、アルゴリズムと人間のキュレーション>
以上の三つのキーワードが照らし出している点は、アバウトに過ぎるかもしれないが、「本」というものは "人間としての視座" から産出されるものだという点なのかもしれない。
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