こうした "度外れた過ち" は、何と表現すべきかと躊躇させられていたが、的確な言葉が示唆された。"文化の欠如!" という表現がそれである。
下記引用サイト記事【 引用記事 1 】:加速器漏えい事故はレベル1 規制委「安全文化が欠如」/【共同通信】/2013.05.27 における、<「安全文化の欠如が見られる」> との指摘こそが実情にふさわしい表現だと思えた。
昨日、東海村原子力研究施設"放射性物質の漏えい事故"!不信感煽る関係者達の"認識の甘さ"!( 当誌 2013.05.27 ) と題して、"原子力研究開発" 業務関係者たちの、驚くべき "安全管理の甘さ!" について注目した。
こんな "認識の甘さ!" が、"原子力関連行政" の "氷山の一角" だとしたならば、"原発稼動再開" が目されているこれからの日本列島の危うさは、まさに計り知れないと危惧されたからである。
"原子力関連業務" に関する現状を的確に "言い当てる" 表現としては、"安全文化" の欠如! こそが、最適だと痛感させられたわけである。
元より "文化" とは、単に、知識・情報の埋め込みで叶うものではない。理念に基づく組織体制の構築や、充実した訓練をも含んだ "包括的な体制" によってこそ "芽生える" ものであろう。
だからこそ、上記のような "度外れた過ち" 発生環境に関しては、"安全文化" の "再構築" という抜本策こそが必要だと考えられるわけである。もっとも、指摘だけで終わることなく、実践されてこそ意味があることは言うまでもない。
ところで、こうした "文化の再構築" とでも言うような視点に目を向けるならば、図らずも、下記引用サイト記事【 引用記事 2 】:大阪2遺体の部屋、母のメモか 食事させてあげたかった/【共同通信】/2013.05.27 という悲惨な社会事象もまた、"文化の再構築" という視点でこそ贖われるべきだと思えた。
<大阪市北区天満で母子とみられる2人の遺体が見つかったマンションの部屋から「もっとおいしい食事をさせてあげたかった」という趣旨のメモが見つかった> というような、現代という "飽食の時代" での<餓死> については、これが初めてではない。
"無縁社会での孤独死" というような観点から取り上げられることが少なからずあったはずだ。
そして、一歩踏み込んで考察してみるならば、こうした "悲惨なケース" と、自分をも含めた多くの生活者の実態との、その "隔たり" はどれほどあると言えようか......。その "隔たり" は、意外なほどの "僅差" でしかないのではなかろうか。
"互助" の "生活文化" も色褪せて、"自己責任/競争原理" ばかりが強調される "情けない現代" のリアリティを考えると、"悲惨なケース" を "レア・ケース" だとは決して言い切れないように思われる......。
つまり、端的に言えば、こうした "悲惨なケース" は、"憲法" が保障した "生存権" と、これを推し進める "生存権の文化" が真っ当に機能していたならば "起こり得なかった" はずではないか。少なくとも、昨今流行りの言葉で言えば "起こってはならないこと" であることは間違いない。
要するに、"生存権" という言葉、"生存権の文化" というものが、残念ながら、完全に "風化" してしまっていること、それが最大の問題なのではなかろうか。
もちろん、"憲法" の記述に問題があるのではない。この記述の "崇高さ" を意に介せない低次元の政治家たちの愚かさが問題だと言うべきだろう。
ちなみに、あえてこうした杓子定規な法の論議をするのは、この社会事象の現場が、"大阪市" であって、"大阪市" と言えば今や誰もが "市長" の "浮き上がった発言" を思い浮かべる文脈があるからだ。
首長というものは、自分の一言で何かができると錯覚せずに、皆でこそ構築して行けるはずの "文化" づくり! の、その "種" を丹念に蒔くべきではないか......。
文化一般: 2013年5月 アーカイブ
"野鳥のガラス衝突事故" が少なくない昨今であることは知っていた。
< ふだん野鳥はガラスを避けていますが、これは汚れや反射によって「何かがある」と警戒しているためと思われます。そのため、何らかの条件でガラスが見えにくくなると、「何も無い」と勘違いして衝突することがあります。
このガラス衝突事故は、施設によっては「よくある」事故です。ただ「たかが野鳥がぶつかっただけ」と思われるのか、あまり問題にされず、また調査・研究もほとんどありません。
しかし毎年、多くの施設で多数の命を奪っていることは確実です。......>( 野鳥のガラス衝突事故 )
だが、いざ、目の当たりにしてみると、やり切れない気分にさせられる。
と言っても、"衝突事故" を直接目撃したわけではない。偶然、その結果に違いない現場を見つけることになったのだ。しかも、その野鳥、シジュウカラは嘴(くちばし)に、2~3センチほどの幼虫をしっかりと咥えたままであっただけに、その哀れさはひとしおなのであった。
きっと、その幼虫を餌として待つヒナを目当てに、巣に戻ろうと急いでいた、その帰途での出来事だったのだろうと推察された。
いや、ひょっとしたら気を失っているだけなのかも知れないと思い、手持ちのスポーツ飲料のボトルからわずかな水滴を、頭部に垂らしてみたが何の反応もなかった。以前、同じような状況でのスズメが、気を取り戻して慌てて飛び立ったことがあったのだ。
こんな "突発的な命の終わり" を、そのシジュウカラが予期できていたはずはなかろう。"魂" は、しばし "現場に留まる" ( 参照 "臨死体験"!脳内の電気化学プロセスが意識になるという考え方はもはや正確ではない!( 当誌 2013.05.05 ) ) と妙に信じる傾きにある自分は、ひょっとしたら、その近辺にシジュウカラの小さな "魂" が浮遊し、惨めな自分の躯(むくろ)を当惑して見降ろしているのではないか......、と想像してみたりした。
やがて、悲痛な気分から気を取り戻した自分は、コンビニの正面のガラス壁の下で横たわるそのシジュウカラの躯を、そっとつまみ上げ、裏手の植え込みに埋めてやることにしたものだった。
自分が、今日たまたま、このコンビニの正面のひさしを借りたのは、自転車トレーニングの途中で雨宿りをするためであった。
いつもコース途中のベンチで水分補給をしてきたが、今日は雨ゆえにできなかったために、その付近のコンビニのひさしが目についたというわけなのだった。
そんな経緯(いきさつ)で、偶然にも "哀れなシジュウカラ" に遭遇したというのが、奇妙だと言えば奇妙に思えた。
このご時世、野鳥に限らず、人もまた、それも不幸な "突発的な命の終わり" に直面させられることが絶えない。野鳥どころではない、と言うべきなのかもしれない。
ただ、今日の "シジュウカラの死" に、仮にも心を奪われたのは、嘴に幼虫をしっかりと咥えたままで "突発的な命の終わり" に直面していた、その "最期の姿" だったのかもしれない。
哀れなことは哀れであったが、"母性" という "種の使命" を携えて、"三途の川" を飛び渡ったシジュウカラが、その真っ当さゆえに実に愛おしく思えたのだった...... (2013.05.21)
このニュースは、一方で、人々の "古代伝説への夢" を存分に刺激する。
あのSF小説『海底二万里』をはじめとして、子どもの頃にワクワクとさせられた多くの物語が、熱く語って止まなかったのが "伝説の大陸/アトランティス" であったからだ。
ますます現代の時代環境は、人々をチマチマとした目先の事象だけに追い込む風潮を色濃くさせている中で、ある日忽然と姿を消したとされる "古代文明の大陸アトランティス" の伝説の、そのスケールが、時間と空間に関する日常的な尺度を、心地良くも粉砕してしまうからであろう。
しかも、時としてその重みが揺らぎかねない "伝説" に、"実在性" を秘めた材料が盛り込まれようとしているのだから、"夢" の膨らみ方と輝きは半端ではなくなる。
ただ、もう一方で、"脳裏をかすめる奇妙な感情、不安感" を覚えることも打ち消し難い......。
"3.11" などをはじめとする "巨大地震" に見舞われる前であればいざ知らず、今のわれわれは、"巨大地震" の可能性に関する "大陸プレート" の蠢きとそれらの間に潜む "軋轢" などについて少なからぬ情報を得てしまっている。
つまり、"大陸の移動/水没" といった事象は、決して絵空事ではなく、時間尺度を度外視するならば "想定範囲内" のリアルな事象として受けとめざるを得ない、そんな時代環境にあるということ......。
それだけに、"アトランティス" のような "伝説的" 事象は、あながち "夢の対象" だとの決めつけ方だけでは済まない......。
と言って、"恐怖の対象" だと言ってしまうには語弊があるにせよ、SF『日本沈没』(小松左京)から多少なりともリアリティを感じてしまうわれわれにとっては、少なくとも "古代伝説への夢" と言ってはやしてばかりもいられない気がするわけである。
まあ、もちろん "時間尺度を度外視するならば" の話ではあるが......。
下記引用サイト記事:「アトランティス」と関連は 海底に大陸痕跡/NHK NEWS WEB/2013.05.07 では、
<ブラジルの沖合にある大西洋の海底に、かつて大陸のような大きな陸地があった痕跡が見つかった> 点、
<岩は、陸上でしかできない花こう岩だったことが分かった> 点、
<海の中ではできない石英と呼ばれる鉱物で出来た砂も大量に見つかった> 点、
<調査が行われた大西洋には、古代ギリシャの哲学者プラトンが、およそ1万2000年前に海に沈んだと著書に記した伝説の大陸「アトランティス」があったという説> がある点、ただし、
<今回見つかった花こう岩は5000万年ほど前に海に沈んだとみられ、年代的に、ずれはありますが、何らかの関連があるのではないか> と注目されている、とやや冷静に伝えている......。
"住宅メーカーの研究所" による調査だから、その調査意図は分かる気がするが、さてさて、この調査結果をご当人たちは "どう解釈するのが妥当かな?" などと考えてしまう。
下記引用サイト記事:定年後の夫婦 1人の時間重視の傾向/NHK NEWS WEB/2013.05.06 が報じるところの
<定年後の暮らし方について、「夫婦が一緒の時間」より「夫婦それぞれが1人になれる時間」を重視する人が多く、特に女性は1人の時間を重視する傾向が強いという調査結果> の事なのである。
いや、そもそも "どう解釈するのが妥当かな?" などとそんなことを考えるのは "昔風亭主たちだけ" なのかもしれない。"女房方" にとっては、こうした調査結果は、何の不思議もない当然の事実に違いなかろう......。
それに対して、"昔風亭主たち" にとっては、"大義名分(?)" があったればこそ、"義理チョコ" ならぬ "義理ケア" も途絶えなかったという "道理" が、スンナリとは "呑み込めない" のかもしれない......。
世の中には、"定年後" の "熟年離婚" といったシビァな社会現象とて存在する厳しい現実を、長らく "社畜(?)" として飼い慣らされてきた "昔風亭主たち" には、呑み込もうにも "呑み込めない" というわけなのであろう......。
時代は、商品にせよ、サービスにせよ、そして情報にせよ、"溢れ返っている"。身体がいくつあっても足りないほどに "自由時間への切迫感" が刺激されているに違いない。
さんざん、自分の時間を "昔風亭主たち" によって潰されてきた "女房方" にとって、「さぁ、これからは、"お一人様" 時間志向でやらなきゃ!」と我に返ったりするのは、無理もない話なのかもしれない......。
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