この日本社会での<"言語力"が危ない>問題は、いろいろな分野でささやかれながら、 "サッカー" のジャンルで話題となったことがある種の "きっかけ" だったかと思える。
この点は、この日誌(下記の ②『 "サッカーのワールドカップ日本代表" も訓練課題にする "言語力の育成" (2009.11.27)』)を参照していただきたい。
なぜ "サッカー" なのか? には、それなりに必然的な理由がありそうである。
< "試合中に仲間に自分の考えを伝える能力の不足" という点は決して軽視できるものではないというのだ。そして、それを克服するには "言語力" 教育に力を入れるべきだという。
そもそも、めまぐるしく状況が変わるサッカーは野球とは違い監督が指示できることは限られている、自分がどんなプレーをするべきなのか、仲間にどうして欲しいのか、選手には自分で考えそれを伝える力が何よりも必要とされるという。
したがって、言語力の強化によって、選手たちの意思疎通だけでなく "プレーの質" も上がる、と。プレーにはすべてに理由があるはずで、考えないで判断しないでプレーする習慣をつけてしまうことがいちばん怖い、のだと。>(下記の ②)
ところで、ここで注意すべきは、 "言語力" 問題とは言われながら、実質的には<自分で考えそれを伝える力>の問題だと言う点なのである。
つまり、< "考える" こと(= "思考力" )と、 "伝える力" (= "コミュニケーション力" )とが "表裏一体" の力として把握されていること、そしてそれらをまとめて "言語力" と称されている点>(下記の ②)が注目されてよいはずなのである。
こう考えてみた時、実に興味深い "コラム" が目についた。やはり、 "素材のジャンル" は "サッカー" だったのである。
"サッカー" にあっては、<自主的な判断を重んじる環境を>と強調して、以下のような叙述が続いていた。
<......サッカーは異なった要素(建設と破壊、攻と守、連係と独行)を瞬時に求められるスポーツである。だからこそトランジション(切り替え)は現代サッカーのメーンテーマにもなっている。持ち場、持ち場で個人が処理しなければならない情報量は増えるばかりで、とてもじゃないが、ベンチにお伺いを立てているヒマなどない。前半を参考にハーフタイムで与えた指示が後半開始早々には陳腐化していたなんてことも珍しくない。ピッチの外からの指示とピッチの中の現実がかみ合わないとき、選手に求められるのは現実に即して動ける対応力である。そういう意味では子供のうちから自主的な判断を重んじる環境をもっと用意する必要があろう。>( 『日本の指導者を悩ます「従順」「妄信」』( 編集委員 武智幸徳/ピッチの風/「日本経済新聞」2010.03.28 ) )
そして、こうした指摘の前段にはおもしろいことが書かれてあった。
< 日本で「監督」と呼ばれる人と話をすると、上は代表監督から下は小学生チームの監督まで、必ずといっていいほど出てくるのが選手が従順すぎること。言われたことをすぐやるのはいいのだが、やり過ぎることがしばしばあるらしい。
名古屋で指揮を執り、今はイングランドの強豪アーセナルを率いるフランス人のアーセン・ベンゲル監督はかつて「(日本は)コーチにとっての理想の場所」と語ったことがある。監督の言葉に熱心に耳を傾けるし、練習態度も申し分ない。試合では与えられた指示を献身的に遂行しようとする。本物、特に本場とか外来のものを吸収しようとする気持ちが半端ではないのである。>(上記コラムより)
ところが、問題は、
< 日本代表、磐田などを率いたオランダ人のハンス・オフトは日本で指導を始めて数か月たったころ「自分が話すことを選手がまったく疑っていない」ことに気づいてがく然としたという。話したことに疑問がぶつけられ、それをよりよい理解につなげていくのがコミュニケーションの意味だとしたら、疑いを持たない選手は永遠に理解から遠いことになる。あるいは、そういう妄信的なコミュニケーションが人と人の間に成立することに戦慄(せんりつ)したのかもしれない。神サマと人間の関係じゃないのだから......。>(同上)
ということで、
<オランダでは小学生でも監督が試合中にベンチからやいのやいのと指示すると「うるさい」と怒鳴り返すという。子供でそうなのだから、大人でも例えば、大学の教授と学生、監督と選手、みんな対等。肩書に実質が伴って初めて敬意は表される。>
という海外事情まで紹介されていた。
"言語力" の問題だと指摘されると、とかく "問題を狭く限定" して、たとえば "コミュニケーション力" の課題だけに絞ってしまうせっかちな傾向もないではない。
しかし、この "コラム" で指摘されていることは、 "自主的な思考力" という、言ってみれば "言語力" 問題の "コアの部分" を照らし出し、加えて、そのことに関連して、適切にも "上下の関係" と言った "組織的" な問題に切り込んでいるのだ。
この日本社会には、 "体育会系" という言葉などとともに "上意下達(じょういかたつ)" の仕組みや風潮が色濃く残存している。なお、これは単にスポーツ界だけのことでもなさそうで、 "新政権" の奥の院にも現存するとか......。
いろいろな因果関係をクールに見つめ直して、それこそ大胆な "構造改革" を断行すべき時なのかもしれない......。
【 当日誌で<"言語力"が危ない>問題に言及したもの 】
①『思考や感覚の"エコノミー"の過度な追求とその弊害 (2009.11.26)』
②『 "サッカーのワールドカップ日本代表" も訓練課題にする "言語力の育成" (2009.11.27)』
③『この日本社会での<"言語力"が危ない>問題はもっと着目されていい (2009.11.29)』
④ 『人間は "考える動物" であるものの、容易に "思考停止状態!" へと滑り込む (2009.12.02)』
⑤『今、一番 "言語力" が問われている者とは一体誰なの? (2010.02.03)』
⑥『"言語力"の向上は、 "無縁社会" の克服という課題とセットで (2010.02.12)』
...... (2010.03.28)
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