文化一般: 2011年12月 アーカイブ

 "ソーシャルメディア" が "人間関係・社会関係形成的" なスタンスに特徴があると考えるならば、"草の根ローカルジャーナリズム" こそは、"ソーシャルメディア" と相性が良いジャンルなのだろう、と気づかされた。
 今回レビューする "ソーシャルメディア" 関連サイト記事は、以下のとおり<イギリス全土に広がる、草の根ローカルジャーナリズム>である。

 英国だけではなく、多くの先進国で "マスメディア" としての従来からのジャーナリズムが低迷を続けていると伝えられている。
 たぶん、この日本でもこの傾向は変わらないはずで、そうした事情からか、新聞業界各社は悪戦苦闘を続ける中で、活路を見出すべく "ネット、デジタル" 領域に急速にすり寄っているかの気配がある。"ネット・コンテンツ" の "有料化" にはじまって、各種の "デジタル関連サービス" が手掛けられている。
 だが、そこでは相変わらずの "高コスト体質" と "上から目線姿勢" とが温存され続けているかのようで、決して前途は生易しくはなさそうだ。

 こうした "高コスト体質" と "上から目線姿勢" という二点は、時の経済と社会環境における、いわば "元凶" とも見なされている要素だけに、たとえ斬新な IT を駆使したとしても、それらを引き摺ったままでの業務展開はかなり厳しいと言わざるを得ない。
 こうした "マス・ジャーナリズム" に対して、"ソーシャルメディア" としての "草の根ローカルジャーナリズム" は、持ち前の "ローコスト性" と "現場目線姿勢" とが追い風となって、今後ますます注目されて行くものと推測される。

 なお、下記記事では、<草の根ローカルニュースメディアを持続させるコツ>までが興味深く指摘されている。
 <個人の趣味で管理できる程度に小さな範囲でスタートさせること、メディアから収益をあげることは当面考えず、あくまでも公益的な視点で取り組むこと>だそうで、まさに "ソーシャルメディア" の "原点的スタイル" が強調されている。
 "収益志向優先型" と思しき "ソーシャルメディア" が賑わう昨今であるが、それらが "総崩れ(?)" となった "焼け野原(?)" から、そうした "原点的スタイル" が立ち現われてくるのであろうか......。




















 "ソーシャルメディア" とは人と人との "つながり(関係形成)" を本質とするものであるわけだから、"柔軟な視点" を持つならば、人間関係が展開するところであれば、何も現代世界に限られるわけではなさそうだ。まして、"スマホ" というハードウェア・ツールに "拘泥" することもないのかもしれない。

 そんなことを示唆してくれる以下のサイト記事が目についた。
 果たして、"アラブの春" とヨーロッパ中世に風穴を開けた "宗教改革(by ルター)" に類似性があるのかどうか、興味は尽きないが、それよりも、"ソーシャルメディア" の研究でこうした自由奔放な観点を導入する "フリーハンド・アクション" に意表を突かれた。と同時に、"これこれ!" という嬉しい共感を抱いた次第なのである。

 "ソーシャルメディア" と言えば、企業のマーケティングだ、やれ "効果計測" だ、いやいや "炎上" 回避だと、"セコイ!" ことこの上ないのがどこぞの国々の現状だ。
 人間の "つながり" というものをを卑しめるのも "いい加減にセイ!" と感じていただけに、"ホホ~" こういうアプローチもあったか......、と意気に感じたのだ。
 先ずは、その点だけをお伝えしたかった......。広い視野、柔軟な視点を確保しましょうよ......。

 年の瀬となると、"10大ニュース" といった話題が取り上げられるものです。今年も、確かに記憶に留められた重大なニュースがひしめき合った。
 そんな視点から下記引用サイト記事、<2011年の新語十選> に着目してみることにした。
 筆者は、<2011年を象徴する10のキーワード>の個々を振り返りながら、<これらの言葉から「日常に潜む問題点の発露」という共通項を見いだしているところです。>と叙述している。

 この<日常に潜む問題点の発露>についてである。
 確かに、このフレーズによって "一年が総括" されそうではある。<日常に潜む問題点>という観点には大いに共感できるところだ。<2011年は「変化を受容し始めた社会が、潜在的に抱え込んでいる足元の諸問題を掘り起こした」年>であったことは間違いない。つまり、人々によって注目される社会現象が、一般庶民の日常生活からかけ離れたところで起こるのではなく、日常生活と "地続き" の場所で "発露" してしまうということ。特に、<東日本大震災>がそうであったように、一般庶民をも巻き込み、犠牲としてしまうという点が、この一年というよりも現在の "危機" の最大の特徴のように思われる。
 日常生活の中に "埋め込まれた危機" が "露呈・発露" するという構図だと言っていいのかもしれない。

 ところで、"大震災" という不幸に現象は、"自然現象" であるがゆえに、<発露>したと表現しても妥当なニュアンスがありそうではある。しかし、<東日本大震災>での被害をかくも悲惨な事態にした、しているのは、今なお継続中の社会問題である "原発事故" (半ば社会現象!)に由来している点は誰もが知るところではなかろうか。
 さらに、巨大地震が何の予期もなく唐突に発生したものではないことを思えば、"自然現象" だから......、という見方にも少なからず疑問が生じるのである。
 つまり、<東日本大震災>での被害の少なからぬ側面は、"自然現象" の<発露>という表現には馴染まないと思われるのである。
 むしろ、最大限に悲惨な事態を "未然に防止" するために、潜伏し続けていた危機( "埋め込まれた危機" ?)という問題を "暴き切れなかった!" 点こそが留意されるべきかと思われるわけだ。

 持って回った言い方をしているようだが、言いたいことは、<日常に潜む問題点>は、確かに "露呈・発露" してしまったのだが、そうした表現がなされ続ける限り、今後も<日常に潜む問題点>は、"露呈・発露" し続ける可能性が高いように思う。
 <日常に潜む問題点>は、"事前に暴かれる" ことによってのみ最小限の被害で食い止められるものではなかろうか。
 そして、"事前に暴く" ことこそが、現代の知恵であり、現代という恵まれた時代環境が担うべき役割ではないかと......。
 "ソーシャルメディア" が一役買った<アラブの春>や<ウォール街占拠(Occupy Wall Street)>運動という、今年の主要キーワードの一部が示唆したのは、まさにそうした点ではなかったのかと......。

 "ソーシャルメディア" が、とかく "自然ごと"、"他人ごと" で片づけようとする思考や感性の "厚い殻" を打ち破るためのツールとして活用されて行くことを、この国この社会で思い描くことは見当違いなのであろうか......。

 これで漸く "ソーシャルメディア" への落ち着いたアプローチが始まるのだろうか。
 "ソーシャルメディア" のいわゆる "クチコミ" に対して、これまで "過剰" とも "大袈裟" とも思われる "感染力/伝播力" がまるで "独り歩き" していた感があった。それだからこそ、企業のマーケティング部門では、とにかく対応すべしとばかりに、"ソーシャルメディア" 対策に躍起となってもいたはずである。

 しかし、下記引用サイト記事によると、"Facebook" 利用者に対する調査結果によると、<人の好みが他の人にうつる可能性は極めて小さい>、<「人の好みに関しては、『仲間の影響』といったものは事実上存在しないに等しい」>、<「仲間の影響力が活発な社会的現象につながる」ということには必ずしもならない>という事実が判明したというのである。
 控え目にこの研究結果を見積もったとしても、<クチコミの力について、世間で騒がれているほど大きな影響力を示す証拠は見つからなかった>となるようである。

 とすれば、一連の過熱ぶりというのは、とかく "ニューメディア" 登場時には付き物である "便乗的風潮"、何らかのメリット・収益を目論む一翼による自画自賛的誇張だったのであろうか......。
 ただ、今回提示された研究結果は、"ソーシャルメディア" が "無力" であることを立証したわけでは決してなさそうだ。"Facebook" における "クチコミ" 効果への過剰な期待、偶像視、神話に "マッタ!" が掛かったと解するべきなのであろう。
 "クチコミ" 情報が、"人の好み" に感染的影響力を持つものではないにしても、クールな判断材料になる事実をまで反証しているわけではないからだ。また、"ソーシャルメディア" は "Facebook" に尽きるものでもない。
 そう考えると、こうした研究結果は、"ソーシャルメディア" における皮相な次元で付和雷同的に踊らされていた部分を払拭し、"地道な動き" を促進させることにつながる可能性もありそうだ......。

 もう、"ソーシャルメディア" なんぞと言った "逃げの一手、他人事三昧" はやめて、"身近な異常事態" に感覚を研ぎ澄ますべき時なのだと思う......。
 一体、現代中国の "見て見ぬ振り地獄!" ( 【動画】中国のひき逃げ。無関心な通行人。 )と何が違うのか、この国のおぞましさは! この国の "劣化" は! これで、 "紅白歌合戦" と言った "綺麗事!" で、2011年が "チャラ" というのなら、この国日本に断じて明日はあるはずがない......。

全盲女性が1千万円詐欺被害 千葉、次男と名乗る男に

 千葉県警鎌ケ谷署は24日、同県鎌ケ谷市に住む全盲の女性(74)が2回にわたり計約1千万円の詐欺被害に遭ったと明らかにした。1回目で顔を覚えられる危険がないと知った同一グループが犯行を重ねたとみて、詐欺容疑で捜査している。

 同署によると、女性は20日午前、次男(39)を名乗る男から「女性を妊娠させ、350万円必要だ」とする電話を受け、自宅近くで現金を手渡した。その後、22日午前にも男の声で700万円を要求する電話があり、同じ場所で手渡した。
全盲女性が1千万円詐欺被害 千葉、次男と名乗る男に/【共同通信】/2011.12.24

信号無視注意され殴打の男性死亡 傷害致死容疑で男逮捕

 東京都品川区のJR大井町駅前の路上で11月、赤信号無視を注意したお年寄りが殴られて転倒し死亡した事件で、警視庁捜査1課は24日、傷害致死の疑いで品川区東大井、自称会社役員山根基久夫容疑者(48)を逮捕した。

 捜査1課によると、山根容疑者は「相手の言葉に腹を立てて殴ってしまった」と容疑を認めている。

 逮捕容疑は、11月12日午後7時35分ごろ「信号、赤だぞ」と注意した小牧信一さん(77)=同区西大井=に「うるせえんだよ」と言い返し、顔を殴った疑い。

 小牧さんは地面に転倒して頭を骨折し、入院先の病院で今月20日、死亡した。
信号無視注意され殴打の男性死亡 傷害致死容疑で男逮捕/【共同通信】/2011.12.24


 いい加減にしようぜ! ニッポン! ...... (2011.12.25)

 日本国内には、<"ソーシャルメディア" の "斬新な息吹">を感じさせるアクティブな動きは何ら無いかのようだ。それとも、そうした動きを報じる "勤勉な" マスメディアも無いし、またそうした報道を求める健全な受け手もいない......、ということなのであろうか。

 この国の "ソーシャルメディア" 空間が、"切実なテーマ" を探り当てられることなく、詰まるところ "コンシューマーの一人" として扱われる環境で "大人しいお客様" たちのサロンで終わっている間に、諸外国では "時代からの贈り物" であるこのツールを、"人々の意思表示" の道具として着々と活用している様子が伝えられる......。
 今回、着目してみたサイト記事は、昨日書いたばかり(参照)の "ロシア" での "ソーシャルメディア" 利用に関するものだ。

 ◆参照 "使用目的"から見るSocialメディア/エジプト,ロシアでの利用"急増"が語るもの?!( 当誌 2011.00.00 )

 ロシアでは、プーチンが画策する長期政権が<「ロシアの冬」と呼ばれ始めた>ということらしいのだ。
 一時期は、プーチン支持が8割をも占めたことがあったわけだが、<先の下院選での不正行為疑惑>が、埋もれていた国民の不満を表面化させ、反転させるトリガーとなったかのようである。
 そして、この動向に拍車をかけているのが<交流サイト(SNS)「フェイスブック」>だと報じられている。

 "ソーシャルメディア" がどのように使用されるかは、各国の事情や文化のあり方で様々なのだろうとは思われる。また、世論や社会的空気の形成に少なからぬ影響を及ぼすマスメディアの姿勢によっても左右されることも考えられる。
 しかし、昨日も書いたように<今や、この国はどの国にも "負けない(?)" ほどの "複雑骨折的社会矛盾" に呑み込まれていながら、......>、国民・庶民の切実な声が "ソーシャルメディア" に反映されていると聞くことはほとんどない。
 この現象は、かなり "奇異" の感を抱かせもするが、この辺の事情について触れようとする者も皆無に等しい。まあ、自身の情報収集も稚拙であるため、取りあえずは "不思議だなぁ" という感想だけを記述しておきたいと思う......。
 お隣の中国では、"統制" が施された "ソーシャルメディア" が、"春" だ、"冬" だという空気を往なしているようであるが、日本と言う国はそんな "統制" がなくても、波風一つ立てることのない大人しい国、社会のようである......。

 "ソーシャルメディア" は、持て囃されている割には、"何のために使うのか?" という肝心な点がぼやけていることも少なくなさそうだ。
 つい先日も、次のように皮肉っぽく書いたことがある。

...... スマートフォンを通した Facebook や Twitter とは、"何となく......" 派が、特に話題を持っているわけではなく、今 "つながっている" という実感だけを確認するために利用しているメディア ......意外とつぶやかないスマホユーザー/"何となく暇だから"閲覧! が案外多い実情!( 当誌 2011.12.16 )

 また、最近目についた "ソーシャルメディア" 関連サイト記事においても、<ソーシャルメディアを活用するためのシンプルな三ヵ条>の、その筆頭に "使用目的" の明確化が取り上げられていた。意外と見過ごされているからなのかと見なすこともできそうである。

...... ■ポイント1:「ソーシャルメディアを通じて何を達成したいか?」明確にしよう

 あなたは、ソーシャルメディアを使って、何を成し遂げようとしていますか? たとえば、ネットワーキングや情報交換、リクルーティング、ファンドレイジング(資金調達)など、様々な目的があるでしょう。ソーシャルメディアは"ツール(道具)"にすぎません。「何を使うか?」よりも、「何のために使うか?」を明確にすることのことが重要です。......英専門家が伝授! ソーシャルメディアを活用するためのシンプルな三ヵ条/現代ビジネス - つながる!ソーシャル時代 ヒト・カネ・モノ/2011.12.22

 ちなみに、残りの二つは以下のとおりだ。

■ポイント2:"ソーシャルメディアスキル"は"ソーシャルスキル"と心得よ
■ポイント3:あなたについて、できるだけ多くの情報を発信しよう 
( 上記引用記事 )

 "電子書籍" にせよ、"ソーシャルメディア" にせよ自身の関心が強く惹き寄せられる理由は何なのだろうかと自問してみると、"興味" と "違和感" との対照関係、潜在的可能性と魅力を欠く現実という対峙関係などが、拮抗しつつ、緊張しているからかと思うことがある。その緊張から相応のエネルギーのようなものが生じてくるために、飽きもせず追っかけているようなのである。

 薄らと見えて来たかのような感触を持っている点は、"電子書籍" にせよ、"ソーシャルメディア" にせよ、テクノロジーの力で創造された魅力的な産物は、人間にとってある種 "ジレンマ" 的な関係を形成している......、という点となりそうだ。
 つまり、それらの "メリット" を追及し、増幅させればさせるほど、あるいは "メリット" 感を享受すればするほど、人間側(ユーザー側)の当該関連パワーを損なわしめて行くのかもしれない......、というちょっとした危惧なのである。
 これは、よく指摘される平凡な懸念 ―― "便利さ" は、人間側のオリジナル・パワーを低減させる ―― と同じ意味の心配であるのかもしれない。

 ただ、中でも気になるのは、"便利で快適な環境" の創造と享受とが、"人間は「考える葦」である"(パスカル)という人間の本来的事実をじわじわと浸食していく/いるのではないかという点である。
 かなり、大袈裟な表現をしているようでもあるが、現代に生きるわれわれが、端的に言って "考える" 行為を "鬱陶しいもの" と感じ、それから遠ざかろうとしているかのような傾向は、どうも否めないような気がしてならない......。"分かりやすさ" が求められる時代環境である。しかも、"サルでも分かる" ような "分かりやすさ" だと勇み足になられると返す言葉さえ失う......。

 今回、書いていることは、下記引用記事を読んでのことなのだが、そこでは要するに、その<読みやすさ>が売りである "電子書籍" は、そのメリットが仇(あだ)となって、読書の本義であるはずの<「内容の理解」>を損なわせているのかもしれない、と問題提起されている。
 それは、神経科学における腹側皮質視覚路背側皮質視覚路という難しい専門的な見地からの指摘ではある。だが、述べられ、心配されている点は、もっともな事実かと思われた。

 さらに、<視覚的に読みづらくすれば、読むスピードは確実に遅くなるだろう。しかし、それこそが重要なのだ。そうすれば、われわれは腹側皮質視覚路への依存度を弱め、文章を無意識に読み飛ばしにくくなるだろう。>という叙述からは、"電子書籍" に限らず、テクノロジーがもたらす "利便性や快適さ" が、物事の本質に "逆作用" をする可能性もあることを暗示しているように受けとめられたのである。
 簡単に言えば、"高速道路" を駆使したドライブは、"トラベル(旅)" の本質をキープし得るのか......、ということになるのかもしれない......。

 "ソーシャルメディア賛歌" の風潮は、時として、このメディアがリアル世界での<人間的なつながり>を極端に変質させるのではないかとの危惧の念を抱かせたりもするようだ。だが、結局、皆 "リア充"(リアル世界の生活が充実していること、人)やその延長としての実ある<人間的なつながり>を志向しているようだし、その発想を軸足にしながら "ソーシャルメディア" とつき合っているようである。

 下記引用記事は、改めてそんな "当たり前の事実" をクールに伝えているかのように感じさせた。

つまり、何も変わってなどいなかったわけだ。どれほど熱心なFacebookユーザーでも、本当に親しい相手の数は依然として限られているのだ。「情報伝送のコストが非常に低くなっているため、われわれはより多くの知人と接触するようになっている。しかしそれは、われわれがよりたくさんの友人を持っているということを意味するわけではない」>(下記引用記事)

 <本当に親しい相手の数>が相応に限られているという点が示唆するのは、"(能力)等身大としての人間的なつながり"、すなわち "リアル世界と変わらない人間的なつながり" が希求されているという事実ではないかと了解できる。
 いわゆる "ネトゲ廃人" 的に "ソーシャルメディア" に "のめり込む" ユーザーがいたり、そうした彼らが "ネット上での友人数" を過大評価するケースもないではない。しかし、そうしたケースを "ソーシャルメディア" ユーザーの最大公約数だと見なすべきではなさそうである。

 問題なのは、過剰とも思われるほどに "ソーシャルメディア賛歌" を演出して、その事によってマーケティング効果のみを上げようと目論む風潮なのかもしれない。昨今の動きを見ていると、この風潮が "目に余る" 印象を受ける......。
 その場合、それに "迎合(?)" してゆくユーザーが、"ソーシャルメディア" の潜在的可能性を自ら貶(おとし)めてしまうという残念な結果に至ることはあり得よう。
 まあ、この辺の推移・動向は、まさしく "ソーシャルメディア" ユーザー自身の振舞い方自体に掛かっているはずに違いない......。

まあ、こうした "欺(あざむ)き("やらせ")" は予想されていたことだとは言え、非常に残念であり、憤りを禁じ得ない。適切な対応がとられなければ、数多くの "ソーシャルメディア" 自体の信頼性が "疑念" の霧で損なわれるからだ。

 ふと、思ったことが二つほどあった。
 一つは、"ソーシャルメディア" という "柔らかく温かい空間" は、それゆえに他のメディアにはない "可能性" を秘めていると同時に、同じ理由によって "種々のリスク" をも抱え込むことになっているという事実。
 その "リスク" には "セキュリティ" に関するものも侮れないが、今回のような "やらせ" という "欺き" は、いわゆる "ソーシャル・エンジニアリング"( ※注.1 )に類するものと解釈できる。つまり、同じ "人間関係=ソーシャル" 上において、"悪玉ソーシャル" エンジニアリングが、"善玉ソーシャル" メディアを欺くという、実に "破廉恥" な構図を作り出すわけなのだ。

( ※注.1 )「ソーシャル・エンジニアリングとは、人間の心理的な隙や、行動のミスにつけ込んで個人が持つ秘密情報を入手する方法のこと。ソーシャル・ワークとも呼称される。なお、今日喧しいフィッシングやスキミングは、行為自体はコンピュータ内で閉じているが、人間心理的な隙をついている点では同様である。」(ウィキペディア)

 もう一つは、"ソーシャルメディア" 利用者同士の "リテラシー" 向上がますます必須となっているという点である。こうした "人間関係=ソーシャル" 上の "欺き" を最小限に抑えるテクノロジー面での工夫はあったに越したことはない。だが、最も必要なのは、"欺き" をそれとして "見破る" 感性や賢さではないかと思う。そして、当該の "工作者" に対して厳しく迫るなり、痛打を浴びせるなりの毅然とした態度が、"ソーシャルメディア" 自体を育てることになるのだと思う。
 要するに、自分の "稼ぎ" だけのために "仲間たち" を "売る" マネをする "悪貨""良貨" を駆逐させてはならない! ということだ。それが一つの重要な "リテラシー" ではなかろうか。

 暗黙のうちに了解されている事実が、"研究" としての手順を踏んで "明るみ" に出されてみると、やや戸惑うものがある......。
 しかも、その事実で焦点となっているものが、日本ではこれまで何よりの "美徳" とされて来た "協調性" だということになると、いささか目を引く。
 下記引用記事のとおり、<協調性の高さと収入のレベルは反比例する>という調査研究結果が発表されたというのである。

 ただでさえ、"協調性" が地に落ちる風潮が嘆かれるご時世にあって、火に油を注ぐこともなかろうかとも思える。
 そこで、この記事の視点を吟味してみるならば、要は、激化する "競争社会" にあって、"競争(≒"争い" )" に対してどうスタンスを定めるのか、という観点だと了解することができる。この観点からは、いわゆる "協調性" に紛れ込んだマイナス面、"妥協、なあなあ主義" と言った点も見てとれるからである。下記引用文でも次のとおりとなっている。

ここでいう協調性のない人は、例外なくある特性を示している:彼/彼女らは「争いの際に自分のポジションを積極的に主張する」ことをためらわない。協調性のある人はグループの利益のためにすぐに妥協する――争いは決して楽しいことではないからだ――が、協調性のない人は態度を変えることはないし、自分が望むもののために戦うことを厭わない

 また、"協調性" という資質は、"リーダー像" にも直結していると見てよいが、ここでも、"協調性" を売りとした単なる "調整役" 的リーダーが疎まれ、"行動する、戦う意欲" のあるリーダーが期待されている空気が読み取れる。下記引用文では、"管理職" の妥当性をめぐって次のような記述がある。

協調性のある人々は解雇されにくいだろうし、人を監督する立場になるだろうが、賃上げ交渉にはあまり役に立たない。言い換えれば、非協調的な人が経済的な利益を享受するのは、彼/彼女らには自分の望むもののために戦う(たとえ他人を不快にさせるにしても)意欲があるからだ。

 こうした見方をとってみると、"協調性" について考えるべきは、この用語の "再定義" こそがなされるべきではないかという気がしてくる。
 それというのも、"協調性" という観念は、社会、共同体(コミュニティ)などと個人との関係のあり様によって大きな変化を被るはずの観念だと思われるからだ。共同体と生産(ex.農作業etc.)とが直結していた時代環境と、個人としての生存競争(市場競争)が強いられている現代とでは、自ずから "協調性" の中身が異なって当然かと......。
 したがって、"古いニュアンス" がまつわり付いた "協調性" の観念を振り回してみても、現実に即した結果が得られるのかどうか......、が気になっている。
 自分としては、"協調性" の "再定義" にあたっては、マインド面だけではなく、"コラボレーション(collaboration)" という "機能面" の要素が組み込まれる必要がありそうだと感じている。

 いずれにしても、猛烈な勢いで驀進する資本主義経済社会は、人々の伝統的、日常的価値感との乖離(かいり)をますます深めている点は否めない......

 現在、"ソーシャルメディア" には "過大・過剰" な期待が寄せられている。それはそれで良いとしよう。筆者自身も少なからぬ期待を抱いている。
 だが、警戒すべきは、"ソーシャルメディア" という、より "進化" した "テクノロジー(技術)" 的事象が、あたかも社会的矛盾のすべてを自動的に解決して、"社会の進歩" を自動的に切り拓くとする "能天気さ(楽観論)" が罷り通ることかもしれない。

 もちろん、そんなこと(技術の進化が社会の進歩を自動的にもたらすという幻想!)はあるはずがないのだが、時としてわれわれは、"幻想" に傾いてしまう。特に、"中立" を表看板にしたマスメディアなどが、ちょっとした "匙加減 ?" をするならば、"盲信的" な "ソーシャルメディア(technology)信者" となってしまったりする......。
 つまり、どんな "社会環境" にあっても "ソーシャルメディア" とその周辺の事態は、"中立" でさながら "白馬の騎士" だと信じ込み易いわけだ。

 ところが、この世界に "中立" が保証された存在なぞはあり得ないと言うべきであろう。あるとすれば、"中立であれ!" と迫る人々の声によってかろうじてその "近似値" が整う、という程度であろうか。
 簡単に言えば、<FacebookやTwitterはいま、自らのサービスが社会の民主化を維持・促進するツールであると主張するかもしれない。だが、これらの企業はなんと言おうとも私企業であり、営利追求に関心をもつ法人>(下記引用記事)なのである。
 置かれた社会環境や、社会的文脈に応じて、"フリーハンド" の行動選択が可能だということなのである。

 下記の引用記事は、この辺の事情について例を挙げながら "警鐘" を鳴らしている。結構、勇気のある行動だと思える。少なくとも、日本国内では、"現状追認!マスメディア追従!支配的空気迎合!" に呑み込まれて、今や "お犬様 ?" のようなステイタスにあるかもしれない "ソーシャルメディア" に苦言を呈する者はいない......。哀しいかな、これでは "ソーシャルメディア" の可能性はスポイルされ続けるに違いなかろう。
 "ソーシャルメディア(technology)" への関心と視野は、その内部に閉じこもるだけではなくて、"ソーシャルメディア(technology)" 自体を "予断なく、批判的に" 見つめていく必要のあることを感じさせられた。

 現代が "情報過多" であるがゆえに、いわば "駆け込み寺" さながらに生まれ普及したのが "ソーシャルメディア" であろう。しかし、それでもなお、人は "情報洪水" さながらの状況で "情報迷子" になりがちの状態だ。
 そこで昨今ますます注目されている発想が "キュレーション" だ。

「キュレーション【 curation 】 無数の情報の海の中から、自分の価値観や世界観に基づいて情報を拾い上げ、そこに新たな意味を与え、そして多くの人と共有すること。(佐々木俊尚『キュレーションの時代』/ちくま新書/2011.02.10)」

◆参照 SNSのマイクロインフルエンサーには何よりも"キュレーション"能力が求められる!( 当誌 2011.11.19 )

 この "キュレーション" という "編集" 作業は、きわめて "資質と経験" に依拠するという点において、人の "情報関連スキル" や、何よりも "ヒューマン・スキル(人間技)" に負うところが大だと見なされている。
 <自分の価値観や世界観に基づいて情報を拾い上げ、そこに新たな意味を与え......>という作業は、まさに "ヒューマン・スキル" の発揮なくしては成就しない作業かと思われる。

 だが、こうした点が強調されると、これを "自動化、システム化" しようと挑戦するのがビジネス世界の常なのかもしれない。
 "人間技" の範疇と見なされる "キュレーション" を、"キュレーション・サービス"(※ 参照記事)で置き換えてみせよう! というワケだ。
 そしてさらに、"キュレーション" 作業の中でも最も "人間技" だと目されている<新たな意味を与え......>という部分にまで迫る(?)意気込みをも見せる。
 それが、下記引用記事の<誰もが編集者になれる時代~新しいキュレーション・サービス......>である。
 ただ、その意気込みはそれとして、果たしてどこまでこの "難問" に迫っているのかは、下記記事からも今一つ定かではない。<意味付けをすることを奨励している点>が意味するところがよく見えない......。

 "ソーシャルメディア" が情報社会に充満するいわば "ソーシャル" 時代は、一方で "テクノロジー" への理解が必要不可欠な環境であると同時に、"ヒューマン・スキル" の必要性が急浮上した環境だとも言えそうだ。
 前者は分かり易いとして、後者はどうかと言えば意外と "スルー" されていそうな気がする。しかし、"ソーシャル" 時代の、隠れた大きな課題の一つはここにありそうな気がしてならない。ここにこそ "ソーシャル ~" と称される根拠があると考えても良さそうである。人と人との "つながり" にあっては、望むらくは仲睦(むつ)まじい状態であって欲しいと願うものの、そうでないことにも遭遇しなければならないのが現実だからだ。
 この課題まで "テクノロジー" がカバーし切るにはこの先時間も掛かるだろうし、そもそもこうした課題まで "テクノロジー" に依存したのでは、味もそっけもないことになりかねない。ここは、"矛盾と緊張感" とを生きていることの証しとして享受するのがスジなのであろう。

 ところで、"炎上" 騒動にまでは至らないまでも、"ソーシャル" 時代には、メディア上の空間はもとより、"場外" でも不測の "乱闘(?)" が生まれ易くなっていると言えようか。この時代は、個々人がその思いをフリーに切り結ぶ、そんな環境だと見なせば至極当然なことではないかとも思われる。
 今回は、ちょっと変わった視点で書かれた下記のサイト記事に着目してみた。きっと、誰もが胸の内に潜ませている心配事の一つではないかと思う。結構、"ありがち" だし、むしろ "避け難い" 場面だと言えるのかもしれない。

2020年11月

1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30          














関連サイトへのリンク


  • 電子書籍(eBooks)制作にフォーカスしたサイト
  • 明けない夜はないことを確信するサイト
  • Green(地球環境改善)にフォーカスしたサイト
  • ソフトウェア技術者やSEのための評価と育成、人事考課制度を考えるサイト
  • さまざまな業種・業態でご利用可能なモバイル活用の予約システム!
  • 創作小説『海念と保兵衛』のサイト
  • 創作小説『かもめたちの行方』のサイト
  • 当ブログ推奨の商品を展示したAmazon ストアー!
  • 当AdhocBlogブログの過去のエントリー
  • 株式会社アドホクラット当時のサイト

★売れ筋! No.1!
家庭用"放射線測定器"

日本通信 bモバイルWiFi ルータ+1 ヶ月定額SIM BM-U300W-1M
価格:¥ 20,208
国内配送料無料 Amazon





このアーカイブについて

このページには、2011年12月以降に書かれたブログ記事のうち文化一般カテゴリに属しているものが含まれています。

前のアーカイブは、
 文化一般: 2011年11月
です。

次のアーカイブは、
 文化一般: 2012年1月
です。

最近のコンテンツは、
 インデックスページ
で見られます。

過去に書かれたものは、
 アーカイブのページ
で見られます。

年月別アーカイブ

最近のトラックバック