文化一般: 2012年1月 アーカイブ

 "ソーシャルメディア" を素材としながら、人と人との "つながり" についていろいろと考えさせられている昨今である。
 人間に "つながる" ことへの "欲求" が存在することは疑いようがない。だが、単に "つながる" ことだけをターゲットとしていて済むのであろうか? 人と人との "つながり" の意味を知ることによって、人と人との "つながり" は、さらに鮮やかな輝きを増すのではなかろうか......。

 今、人々の関心を集めている "ソーシャルメディア" も、人と人との "つながり" が秘めた根源的な意味、それが納得できるようになれば、かなり趣きが異なってくるのではないか、とも思われるわけだ。
 その人と人との "つながり" が秘めた根源的な意味の理解に関して、非常に説得力のある感動的なコンテンツに接することができた。
 NHK 番組『ヒューマン なぜ人間になれたのか 第1集 旅はアフリカからはじまった』(2012年1月22日(日) 午後9時00分~9時54分 総合テレビ)がそれである。(【 ※ 注 】)
 以下、自分なりに了解したこの番組内容をレビューしてみたい。

【 ※ 注 】

ヒューマン なぜ人間になれたのか 第1集 旅はアフリカからはじまった

人間とは何か。人間を人間たらしめていているものは何か。私たちの誰もが内に秘めている"人間らしさ"の起源を20万年という人類史のなかに探るシリーズ(全4回)。
第1回は全人類のふるさとアフリカが舞台。アフリカでは今、人類史を塗り替える発見が相次いでいる。その最たるものが南アフリカで見つかった人類最古の装身具。貝殻で作られた首飾りで「仲間」であること示す身分証のようなものだったと考えられている。祖先たちが暮らしていたアフリカの草原は常に危機と隣り合わせだった。肉食獣の脅威、食糧不足・・・。そうした過酷な環境で生き抜くには互いに協力しあい、「絆」を確認しあうことが不可欠だったのだ。しかし自然は容赦なく祖先たちを追い詰めた。7万4千年前に起きた火山の大噴火。食料が激減し、人類は絶滅の淵に追いやられる。ところが最新の考古学調査では意外な実態が分かってきた。小さな血縁集団で生きていたはずの祖先たちが、大噴火を境に遠く離れた集団と資源を交換し合うようになったのだ。未曽有の危機を前に赤の他人とも協力し合う。現代にも通じる人間らしさがこの時から発揮されたのだ。
震災からまもなく1年。「ともに生きる」という人間集団の基本が確立した過程をたどっていく。>
ヒューマン なぜ人間になれたのか 第1集 旅はアフリカからはじまった(2012年1月22日(日) 午後9時00分~9時54分 総合テレビ)/NHK ONLINE





















 
ドン コーエン
人と人の「つながり」に投資する企業

ソーシャル・キャピタルが信頼を育む
 こんなことは今さら書くまでのことではないのかもしれない。
 "ソーシャルメディア" を<「ソーシャル・キャピタル(Social Capital)」的な観点>で見つめた時、両者の間に少なからず "距離(?)" や "次元の相違" があることに気づかざるを得ない点なのである。両者における、人と人との "つながり" の "質"には、かなりの違いがあると思われる点だ。

 ちなみに、<「ソーシャル・キャピタル(Social Capital)」>とは、<「信頼」「規範」「ネットワーク」といった社会組織の特徴であり、共通の目的に向かって協調行動を導くものとされる。いわば、信頼に裏打ちされた社会的な繋がりあるいは豊かな人間関係>"Socialメディア"には「ソーシャル・キャピタル(Social Capital)」的な観点も!( 当誌 2012.01.20 ) )だとされ、"社会貢献" 的な機能を果たしている<社会的な繋がりあるいは豊かな人間関係>だとされる。
 今日のような "社会危機" の環境にあっては、こうした観点が社会的に注目されても少しも不思議ではないと思われる。

 そして、<「ソーシャル・キャピタル(Social Capital)」>の中身としては、<「社会における信頼、規律、ネットワークといった社会組織」、「人と人とのつながり」、「絆(きずな)」>などが挙げられ、"ソーシャルメディア" というネットワークも当然ながら含まれる。
 ただし、現状の "ソーシャルメディア" はいわば "玉石混交" だというのが一般的な観測ではなかろうか。"情報交換" 的側面では効果的だと見える "ソーシャルメディア" であるが、<共通の目的に向かって協調行動を導く>ような "つながり" がどうかと言えば、評価は分かれるかに思う。

 米Apple社が、この19日に発表した "iBooks Auther(& iBooks2)" は、さすが、亡きジョブズ氏の "遺志" を継いだとされるプロダクツだけのことはあって、絶賛に値する eBook(for iBooks) エディタ(& リーダー)として仕上がっている。

YouTube:"Apple iBooks Auther official Tour"

 ◆ 参照 Apple サイト iBooks Auther

 ところで、これらが、亡きジョブズ氏の "遺志" だとされる事情は、下記の記事でもよく分かる。

< 米アップルが、昨年10月に死去した共同創業者、スティーブ・ジョブズ氏の夢だったIT(情報技術)活用による教育の変革に乗り出した。19日、多機能携帯端末(タブレット)「iPad(アイパッド)」で"電子教科書"を使えるようにした配信ソフト「iBooks2」と無料編集ソフトを発表。「旧態依然の教科書を変える」ことを目指し、志半ばで世を去ったジョブズ氏の遺志がまた1つ実現しようとしている。 ......
 ジョブズ氏の公認伝記「スティーブ・ジョブズ」の著者、ウォルター・アイザックソン氏によると、ジョブズ氏は次にやりたいこととして、(1)電子教科書や電子教材で教育を変えること、(2)デジタル撮影の新しい技術を開発すること、(3)テレビを再発明すること――を挙げていた。 ...... >
ジョブズ氏の「夢」また1つ実現 アップルが電子教科書 「ITで教育を変える」 潜在ユーザーの獲得競争が激化/日本経済新聞/2012.01.21

 前回に書いた「電子書籍のGarageBand」(GarageBand for iPad)( 米Apple社『iPad』で読める電子教科書を簡単に作れるツール:『GarageBand』を!( 当誌 2012.01.21 ) )についての記事は、どうも "予想ハズレ" のようであった。
 米Apple社が、"教科書" 関連事業に参入する点については間違いなさそうであるが、今回公開した "教科書" 関連アプリは、「電子書籍のGarageBand」ではなく、
 ① iPad 向け無料アプリ「iBooks 2」
 ② Mac PC向け無料ソフト「iBooks Author(アイブックス・オーサー)」
であった。
 "教科書" の "自作" に関しては、予想されていた "iPad 上" で作成できるというものではなく、"Mac PC" 使用で、となった点がかなり残念に思われる。"高水準の機能" を実現しようとするとそういうことになるのであろうか......。
 昨日引用した記事が、いささか "勇み足" であったことを "お詫び" するとともに、発表された内容の概要記事を以下に引用しておくことにする。

 山アラシのジレンマ―人間的過疎をどう生きるか ( ダイヤモンド現代選書 )
 「ヤマアラシのジレンマ」という言葉はよく耳にする。一般的には次のように理解されているかと思う。

ヤマアラシという動物は、体に棘が生えています。寒い冬になると、ヤマアラシ同士が体をお互いに近づけて、相互に温め合いたい。でも棘がついているので、温めるために近づこうとすれば、近づこうとするほど、お互いに棘を刺しあってしまって傷つけてしまう。
 人間関係でも、こういうことって良くありますよね。お互いにもっと仲良くなりたいんだけれども、それがうまくかみ合わなくて、お互いに傷つけてしまう。これが「ヤマアラシのジレンマ」>
(下記引用記事より)

 実はこの言葉、元来は、ショーペンハウエル(ドイツの哲学者)、フロイト(ユダヤ系オーストリア人の精神分析家、精神科医)に遡ることができ、レオポルド・ベラック著・小此木啓吾訳『 山アラシのジレンマ――人間的過疎をどう生きるか 』(ダイヤモンド現代選書/1974.01.)でよく知られるようになった。かなり "由緒正しい" 言葉なのである。

 今回この言葉に着目したのは、この「ヤマアラシのジレンマ」という言葉が、"ソーシャルメディア" にとって切実な意味があると思えたからなのだ。
 もっとも、「ヤマアラシのジレンマ」が人間関係の言い得て妙なひとつの核心を照らす言葉だとすれば、まさに人と人との "つながり"=人間関係 が展開される "ソーシャルメディア" との間で符合する側面を持ったとしても、決して不思議ではないのかもしれない。
 しかし、"ソーシャルメディア" が遭遇しているある種 "ナーバスな問題" のカタチは、かなり「ヤマアラシのジレンマ」的光景と似ている! と思えてしまうのだ。

 ちなみに「ヤマアラシのジレンマ」の核心は、次の3点で構成されている。
  <相互に温め合いたい>
  <近づこうとするほど、お互いに棘を刺しあってしまって傷つけてしまう>
  <お互いに棘で刺しあうことがないように適度な距離間を保つこと>

 昨日は、今の社会が "何かヘン症候群" に見舞われていること、その病巣が<「誰かが何とかしてくれるという他力依存の社会になった」>という点にありそうではないか、という予感について書いた。
 そして、アメとムチ式の動機づけが中心となって構築された "二〇世紀" 型の "OS" との決別と、モチベーション3.0へのアップグレードこそが緊急課題ではないかと。( ◆参照 何かヘンな時代状況!"モチベーション3.0/OS"へのアップグレードが緊急課題!?( 当誌 2011.01.15 )

 "何かヘン症候群" とでも言うようなものに見舞われているこの "現在の社会" について書いたのであったが、翻って考えてみると、次の点にも関心を向けざるを得ないようだ。
 それは、"社会" という部分を "企業" という言葉に置き換えてみることの意義である。
 <「誰かが何とかしてくれるという他力依存の "企業" になった」>と読み換えてみるならば、不思議と、各企業が現在遭遇している難局の、その大半がムリなく納得できてしまうような気がするからだ......。
 実は、ジョブズ氏の天才ぶりに対しても、各企業はあたかも少年のように拍手喝采している場合なんぞではなくて、ジョブズ氏のような人材を輩出できないでいる現時点での企業環境にこそ十分に目を凝らし、できればそれを果敢に "アップグレード" しなければならないはずではなかろうか。モチベーション3.0 というアーキテクチャーで再構成された "二一世紀" 型 "OS" への "アップグレード" に踏み出すことが急務なのではなかろうか。

 先ず、この "アップグレード" の実質作業としては、<アメとムチ式の動機づけ>方式で貫かれているであろう旧態依然とした "人事考課" 制度の、その抜本的見直しが不可欠である点は言うまでもない。なぜなら、"人事考課" とは、"評価" であると同時に "動機づけ" 以外ではないからなのである。
 "動機づけ" とは本来は "育成" の観点と重なるにもかかわらず、従来の "人事考課" 制度は、この "育成" の観点を退け "トップダウン的に裁く" ことのみに傾きがちではなかったかと思われる。"成果主義的人事考課" 制度のうちの粗雑な制度などは、まさに<アメとムチ式の動機づけ>という矛盾をはらんだ構造の制度化以外ではなかったようである。
 したがって、もちろん "人事考課" の基本コンセプトの大幅改変が第一義となる。
( この問題の周辺については、ここではこれ以上言及しないでおきたい。関心のある方は、 ◆参照 SE Human Assessment ソフトウェア技術者のための評価と人事考課

 ところで、今回、着目したいのは、上記の問題と密接に関連するはずの、"人事考課" の "実施スタイル、モード" の "時代即応的!" な再構築という課題なのである。これについては、下記引用記事が実にインセンティブであった。

 
ダニエル・ピンク
モチベーション3.0
持続するやる気!を
 何かヘンな時代状況! だと感じている人々は少なくない。何がどうだとあげつらえば切りがなく、時の政府が悪いと言っただけでは何も済まないことも歯がゆい......。
 一体、何が原因なのか? そう考えた途端に "当惑" と "逡巡" に襲われるのもまた情けないかぎりである......。
 ふと、とある地方新聞の記事の一フレーズに目が留まった。
 <「誰かが何とかしてくれるという他力依存の社会になった」>(下記引用記事)という言葉である。

<...... 96歳のジャーナリスト、むのたけじ氏が「人間らしく生きる世界をつくるため、人のきずなを取り戻さねばならない」と訴えた。......むの氏は「国民の生活、財産を守るべき国家が、国家を守るために国民を利用している」と訴え、民主主義や資本主義、権力を監視すべきマスコミが死に体になっていると批判。第2次世界大戦後、日本が戦争責任の明確化や謝罪を行わないまま成長を続けたことで「誰かが何とかしてくれるという他力依存の社会になった」と指摘した。  また新しい社会構築に向けて、「若者が声を上げるべきだ」と訴え、...... >96歳ジャーナリスト若者を激励 むのたけじ氏、敦賀で講演/福井新聞/2012.01.13

 この<「誰かが何とかしてくれるという他力依存の社会になった」>という言葉の "射程距離" は意外と長く、しかも "起爆力" も捨てたものではなさそうだと痛感した。まあ、"荒れた言葉" を常食としている者たちには効かないかもしれないが......。
 そこで、かねてより読んできたとある著書に引き戻され、現在稼動しているOSのバグ( 下記引用記事 )という表現に突然スパーク! したのである。

 下記引用記事のとおり、浅田真央さんエッセー発売中止について、やや躊躇しながらも自分の感想を書こうとしている。ただし、こうしたジャンルには精通していないので、"守備範囲(?)" を限定し、余計な詮索は慎み、以下二点についてのみ書くこととしたい。

 1."私の思い"というものは、それが自己矛盾に陥らない限り、こだわっていい!

 実は、この点だけが書きたかった。何がどうだという一切の詮索なしにであるが、これほどに "私の思い" に立脚しながら "果敢な決断" ができる人は、そうはいないはずだからだ。特に "政治家部族" や、ジョブズ氏を除く "経営者部族" には皆無!!
 人には、どんなに親しい人からであっても、"決め付けられること" を拒絶したい側面があるはず! 心情、信念 etc.......。そして、そのナーバスな側面は、自身以外には "こだわってあげられる" 者がほかにはいないはず、これも当然......。
 余りにも、人格のそうした "フラジャイル"( c.f.松岡正剛 )な側面を蔑ろにし、踏み躙る、そんな現在の風潮であるがゆえに、若い浅田真央さんだからこそできた "英断!" に "いいね!" を......。

 2."人の思い"を運ぶあらゆるメディアは、"当事者の思い" と常に一つでありたい!

 従来の "定石" を踏まえて事に当たったに過ぎない当該の出版メディアは、さぞかし大変なことになっているのだろうと同情して余りある。一つ、あらゆるメディアのそうした "定石" 通りの "ごり押し" 対応には至らず、結局、回避した点は評価してよさそうだ。他の "傲慢な出版社" であれば "敢行" していたに違いないからだ......。
 そして、"ソーシャルメディア" こそが、人格の "フラジャイル" な側面を "そっと運ぶ"、そうした賢いメディアとなることを願ったりしている......。

 今回の出来事で、恐らく、諸々のメディア関係は "他人事" のような大騒ぎをするに違いなかろう。しかし、今回の出版社がどうこうというよりも、メディア全般が抱えて来た "人格のそうした "フラジャイル" な側面" への軽視の姿勢、つまり、出来事や人物を、その一回限りや個別性を十分に配慮せずに、常に読み手側にとっての "分かり易さ" だけを金科玉条にしながら、"紋切り型、常套句、手垢のついた言葉" を連ねて "投網を打つ" という、そんな当事者の人格を無視した姿勢こそが見つめ直されるべきなのではなかろうか。半ばムリだとは思いつつも......。

 "NHK 大河ドラマ" も、ひょんなことから "ソーシャル・TV" 路線へと変貌(?)を遂げて行くのであろうか?(皮肉まじり......)
 "視聴者のさまざまなご意見" を取り入れながら、ストーリーも演出をも柔軟に軌道修正を図りながら番組を構成して行く "ソーシャル・TV"(なんてものがあるのかどうかは知らないけれど)へと踏み込んで行くのか......と、ふと、そんな "イリュージョン" を垣間見させる出来事かと思えた。

 <大河「平清盛」は17・3% 過去3番目の低視聴率>に端を発して、先ず、乱暴にも "了見違い!" の "ご意見"(→【 引用記事 1 】)が投げ込まれたかと思えば、すかさず、"何言ってんの!" という健全な人々の "ご意見"(→【 引用記事 2 】)が、"ソーシャルメディア" を介して立ち上がってくる。
 この丁々発止(ちょうちょうはっし)には、やっぱり笑っちゃった......。

 "ソーシャルメディア" 時代とは、人と人との "つながり" という点への実感的着目によるボトムアップで、現行の閉塞社会における新たな "突破口" を模索している、そんな時代局面だと言うこともできよう。
 だが、"ソーシャルメディア" というニューメディアのもとに百花繚乱気味の社会現象が生まれているため、一体何がメインストリートであり、支流であり、裏道であり、袋小路であるのかが分かりにくいのも事実だ。まあ、時間経過とともにやがて自然淘汰がなされていくとは思われるが......。
 そんな "ソーシャルメディア" 動向の中で、多分、"非営利" での "社会貢献" を目指す "ソーシャルグッド" という流れは、今後、次第に川幅を広げて益々豊かな水量の流れを形成していくのではないかと思われる。

 と同時に、この流れに接しつつ、企業(営利)サイドから展開される同方向の活動もまた次第に活性化されていくに違いなかろう。
 昨日書いた 「"スペンド・シフト(消費の変化)"潮流に根差す"Socialメディア"マーケティングへ( 当誌 2012.01.09 )」 では、今、静かなうねりとなりつつある"スペンド・シフト(消費の変化)" 潮流と企業サイドでの対応とに目を向けてみた。
 そこで、今回はその文脈上で、企業サイドからの "社会貢献" という側面を掘り下げてみることにした。注目するキーワードは、"コーズ・マーケティング" となる。
 こちらの方が、企業による小手先対応でしかない "Socialメディア" マーケティング対応よりも、遥かに "ソーシャル" の王道だと思える

 
ジョン・ガーズマ
スペンド・シフト
希望をもたらす消費
 今回レビューする下記サイト記事<「棚が回る冷蔵庫のCM」に呆れる若者の話(イケダハヤト)>においては、<私自身もどこか感じていた「企業のマーケティングに対する違和感」>(下記引用記事)というフレーズ、それが大いに共鳴できるものであった。もちろんそれだけではないのだが、この点に全体が集約されるような気がしたものであった。

 "ソーシャルメディア" には少なからぬ思い入れをしているのだが、サイト上の関連記事をチェックしていると、"猫も杓子(しゃくし)も" 企業による "ソーシャルメディア" 対応にばかり目を向け、正直言ってウンザリ気味となっていた。
 もちろん、企業がマーケティングの目的で "ソーシャルメディア" に期待するのは、それはそれで結構なことだとは思う。マスメディア利用の "一方通行路線" と比べれば、遥かに進化(?)しているはずだからである。消費者との "対話路線" を "ソーシャルメディア" という空間を通じて踏み出すということは、消費者にとっても企業にとっても有意義なことに違いないからである。

 しかし、どうも<違和感>を禁じえないのが実情であった。それは、企業側姿勢の "取って付けた" ようなニュアンス、言いかえれば、ホンキでやる気があるの? という打ち消し難い疑問であったかもしれない。従来の基本姿勢を変えずにそれを維持したままで、"ソーシャルメディア" 対応に向かうというのはややムリがありそうだと思えてならなかった......。
 さらに、<違和感>のもう一つの原因としては、"ソーシャルメディア" 活用のマーケティングの "有効性" をホントに確認したわけでもなかろう "IT 関連業者" などが、何やかやと安直さに任せて蠢く! そうした状況への不信感(?)も手伝っていたのかもしれない......。

 ところが、<違和感>の本質は、 "一方通行路線" と "対話路線" というズレのレベルどころか、消費者の消費マインド自体が次元を異にした "革命的変化" へと踏み込んでいたことにこそあったようである。それが、"何か違う......" という打ち消し難い<違和感>を刺激していたのかもしれないのである。
 その "革命的変化" とは、下記記事によれば<「スペンドシフト」>と呼ばれている事態なのである。それゆえに従来型の消費マインドに拘泥しつつ小手先で対応するところの "Socialメディア" マーケティング対応に、"何か違う......" という<違和感>が付きまとっていた......、とそう理解することができそうなのである。

 もし、顧客が訪れたショップの店員が、やたらに慇懃な接客対応をする割には、顧客側の真のニーズを探り当てることができずに、ウンザリするようなありきたりの在庫商品ばかりを並べ立てるとしたら、顧客側はどんなもどかしさに襲われるであろうか?  企業による現時点での "Socialメディア" マーケティングとはそんなちぐはぐさを地で行っているようなものなのかもしれない......。

 いずれにせよ、"ソーシャルメディア" 時代において注目すべきは、コミュニケーションのスタイル( "一方通行路線" か "対話路線" か......)の違いどころの話ではなく、消費者(生活する人間たち!)が何をニーズとしているのか、そのフェイズでの切々とした変化だ! ということになりそうである。そして、若い世代ほどこの変化を実感として自分のものとしている気配が強いと思われる。
 その "革命的変化" に見合った企業改革に辿りつくためにこそ、"ソーシャルメディア" に立ち向かうべきなのではなかろうか。

 以下、平易な文章表現でありながら、実に "的を射た" 指摘を放っているその記事を引用しておきたい。

 今、民主党政権は混迷の度を深め、いよいよ "舵取り" を危うくしている。いろいろな "反省材料" が指摘されているが、この "特殊な" 現代にありながら、旧態依然の "足し算" 処世術を続けようとした点にこそ注意を向けるべきなのかもしれない。
 かつて、大前研一氏は、2010年度予算の概算要求総額が95兆380億円の空前絶後の巨費となった時、<自民党のやったことと民主党がやりたいことを合わせるという「足し算の政策」で進めるからこういうことになる。これでは国民が自民党を否定し、民主党を選んだ意味がない。>、<新政権を取った民主党は行政の無駄をなくします、と言いながら、当面はマニフェスト優先で「足し算」状態が続くのであろう。>とし、<「足し算の民主党」では経済は立ち直らない>と警告していた。( 「足し算の民主党」では経済は立ち直らない/nikkei BP net - 大前研一の「産業突然死」時代の人生論/2009.10.27

 "青天井" 的経済成長が見込まれていた時代には、とにかくすべてが "足し算" で賄えたかもしれない。"あれかこれか" の選択で思い煩うまでもなく、ただすべてを是認しさえすれば良かったからだ。そのあり様は "寛容" なぞでは決してなく、むしろ "放任" であり "思考停止" と言った方が当たっていただろう。"いいんじゃない" と言いつつ、なくて済むわけがないはずの "評価行為" をただただ "先送り" することになった。
 しかし、経済成長の鈍化と停滞、しかも、"長期人口減少" 傾向という致命的とさえ言える社会基盤の変化を迎えた今、すべての現象に "有限性" という色彩が浮かび上がり、表面化する、そんな局面が立ちはだかっている。"引き算" なしでの "足し算" はとても不可能となり、そこに避けるわけには行かなくなった "選択" が立ち現れ、そのために緊張した "評価行為 = 検討" や "思考" が避けて通れなくなったわけだ。

 新年を迎えると、何か心も "改まる" 気がするから不思議と言えば不思議だ。こう言っては身も蓋もなくなるが、決して新年それ自体に何かが "改まる" ための仕掛けがあるわけではない......。にもかかわらず、みんなでこぞって "改まる" かのような暗示をかけ合い、そんな気にもなりつつ御屠蘇なんぞを飲んで新年を祝う......。
 まあ、それで良いと言わざるを得ないのだろう。たとえ、実質的には何の変化もなく、たとえば国の財政はますます悪化を続け、政治選択がワケの分からない方向へと雪崩込み、現政権の行方にせよ、今後の経済動向にせよ不透明さが増していようとも、もちろん国民生活が最悪の危うさに突入しつつあっても、ひょっとしたら今年は "改まる" のかもしれないと、無理矢理にでも信じようとしなければ、お節料理が喉をも通らないわけだから......。

 新年と旧年との入れ替わり、つまり "新旧交代" は、カレンダーの「年」(や市場の製品など)についてはスムーズそのものであるが、その他の様々な重要な事柄については何ともギクシャクとしているように見える。
 中でも、権力、利権などにまつわる領域・組織での "新旧交代"、"世代交代" ほど頑固な停滞感に包まれたものはない。"既得権益" 勢力の為せる技(保身!)だと言ってしまえばそれまでではある。しかし、現状の世界全体がカウントダウン的な危機に覆われている時、 "新旧交代"、"世代交代" は、何よりも喫緊の課題だと思われる。しかも、多くのソリューションにとって、この方策が最も効果的かつ決定的ではないかと......。

 これらに関しては、以下2点に絞って考えてみたい。

 1.現代は、"足し算" よりも "引き算" が効く時代!
 2."未来" とは、若年世代の管理下にあるべきもの!

 新年おめでとうございます!
 年明け初回のテーマが "ソーシャルメディア" に関する "建設的!" なものとなったことに幾分安堵しているところです。
 今回レビューすべく引用したサイト記事は、下記のとおり<「ソーシャルメディアがもたらす、科学報道の変化とは!?」>です。
 一言で印象を言えば、"ソーシャルメディアの社会的役割" に関する視野を広げられたとの感があり、至るところに現代が抱える重要な問題に対する指摘と示唆があり、非常に読み応えのある記事であったと思います。(引用記事の圧縮、省略を試みたものの、いずれも捨て難く思え、長い引用となってしまいました......)
 別に "新年増大号" というつもりなぞないにもかかわらず、大きなボリューム(?)となってしまったのはそんなことに由来しています。

 昨年は、"大震災"、"原発事故"、"大規模自然災害" などが衆目を集め、その都度、社会問題へと発展した事態について理解することが、科学技術の情報や報道なくしては不可能であることを嫌と言うほど知らされた思いがします。
 つまり、科学技術が関わる社会問題 が多発し、事態が複雑になっていたわけです。言い換えれば、問題解決に当たって、科学技術という 專門知と市民の知 とが、どうジャーナリズムを通して "橋渡し" されるのか、それが焦点となっていたとも言えそうです。恐らくこの点は、今後ますます浮上し、表面化していくことが予想されるため見過ごすことができない課題かと思われます。

 また、その "橋渡し" が何のためかと振り返れば、言うまでもなく問題解決のためであり、さらにその問題解決のためには 「社会がいま議論すべきこと」 (=アジェンダ、議題 )を妥当な道筋で定めなければならないからだと言えます。
 一般的に、いろいろな問題解決に当たっては、"どう解決するのか?" が重要であることかは自明ですが、その前に注意が向けられるべきなのは、"何を解決するのか?/何が問題なのか?/何が議題とされるべきなのか?"(=アジェンダ、議題 )だと考えられています。

 ただし、それは必ずしも単純なことではなさそうであり、従来は、マスメディアなどによって "トップダウン型" で定められるアジェンダセッティング、議題設定 がなされて来たと言われています。
 しかし、これは問題含みだと見なされてきました。一般市民の理解からかけ離れた 專門知 が "独り歩き" する傾向に加えて、"一方通行" の弊害を持つ "トップダウン型" の アジェンダセッティング、議題設定 によってジャーナリズムの報道がなされる時、一体どういう状況になるかについては、われわれが何度も見聞して来たことかと思われます。一般市民が "蚊帳の外!" に置かれるという状況かと思われます。

 ところが今、マスメディアに加えて "ソーシャルメディア" が登場し、それとともに アジェンダ、議題 を "ボトムアップ型" で定めていく一翼が付け加わったという構図が出来上がりつつあるわけです。下記引用記事にもあるとおり、現に、今回の大震災時には、その活動と影響力とが発揮されたとされています。
 そしてこの構図が充実するならば アジェンダビルディング(議題構築) と呼ばれるものが実現されるであろう、と。
<ソーシャルメディアが出現してきたことで、マスメディアと市民が協働して議題を構築できるようになってきた。これをアジェンダビルディング(議題構築)と言います>

 このように、 "ソーシャルメディア" という新しいメディアが、科学技術と社会とを橋渡しして、繋ぐところの新しいジャーナリズムが形成される上で、重要な役割を果たすであろうと期待されているのです。
 なお、こうした構図の実現には、決して単純ではない諸々の問題が絡んでいること、それらについても、この記事では丹念に言及されています。
 以下、この記事の骨子を6点ほどリストアップすることで、それらに目を向けておくことにします。

1.アジェンダセッティング、議題設定「社会がいま議論すべきこと」......アジェンダセッティング、議題設定アジェンダビルディング(議題構築)

2.科学的な情報がソーシャルメディアでどう扱われているか=最終的にアジェンダビルディングに繋げていくかという問題

3.專門知と市民の知をどうアジェンダビルディングしていくかサイエンス・メディア・センター(SMC)......サイエンス・アラート研究者データベース

4.社会のなかで経済的な独立性と持続性をもつこと「持続可能なジャーナリズム・ビジネスモデル調査(Mapping and Understanding Sustainable Business Model for Journalism)」

5.(ウィキリークス)集合知だけではなかなか「社会のアジェンダ」を作るまでは行き着かない専従ジャーナリストの活動が必要資金的に自立、寄付活用の仕組み

6.科学とジャーナリズム、そしてインターネット
 科学は集合知によって積み上げていく仕組みを作ったけれど、科学以外の社会の意思を反映する仕組みを欠いたまま、ジャーナリズムは科学ほど方法論を熟成できないまま......結果として現代のように混乱
 インターネットは、両者を含む仕組みを持つため、ネットが議論の仲介者となりうる可能性あり

 なお、以下にこのサイト記事を引用します。

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