yasuo hirose: 2008年6月 アーカイブ

 かなり難しい問題、どう考えても納得がゆく思いとはなれない問題がある。
 いや、今のご時世はそんな難問だらけではないかと言われれば、それはそうなのだが、それでも、 "この問題" は破格の位置にありそうではないかと感じている。
 大体、難しい問題というのは、問題自体が難解だというよりも、その問題に直面する者の "演算装置" の側に特別な事情がある場合が多いのかもしれない。
 それは、たとえば "先入観" であったり "偏見" であったりするものが、 "演算装置" を正常に機能させない、というようなことである。そして、そうした "先入観" や "偏見" が強い強度、長い期間の生活実感と一体化された場合には、なおのこと始末に負えないということになるのであろうか。

 回りくどい言い方ではじめてしまったが、 "その問題" というのは、なぜ "右肩上がり" でなければならないのか? そうでない状態になぜ価値が見出せないのか? というような問題なのである。
 と言っても、経済現象のことだけを念頭に置いているわけではない。とりあえず、わかりやすい例だと思えるから "右肩上がり" という表現を使った。GDPにせよ、株価にせよ、通貨価値にせよ、主な経済指標は軒並み "右肩上がり" であることを止めつつある。それは一国だけの事情だけではなく、概して言えば、グローバルな広がりでそうなりつつあるのではなかろうか。 "CO 2 削減" という待ったなしの課題をも意識するならば、なおの事そう言える。
 経済活動は、従来から延々と続いてきた "右肩上がり" 信仰とでも言うべき固定観念を、このまま維持していくわけには行かなくなっている、というのが大極的な見方となっていそうではないか。




















  "情報化" 時代がますます高度化していく反面、これまでに直面することのなかった理解し難い様々な社会現象も出現している。理解し難い現象ということだから、因果関係もスッキリしているわけではない。
 がしかし、 "情報化" 時代の動きが推し進められるどこか根幹部分自体にその原因が潜んでいるのではなかろうか、という指摘も現れはじめていそうである。
 そうした種類の指摘にもいろいろとありそうだが、 "情報化" を支える人間たちの "頭や脳" のあり方そのものに言及しようとする動向はそれなりに興味深い。すでに、 "脳" のあり方をめぐっては、 "知識" 偏重傾向の問題とその弊害についての面がより多く問題視されてきたような印象もある。
  "脳" の働きのエッセンシャルな部分はといえば、まさに "創造性" にかかわる働きであり、それは "知識" とは無縁ではないにせよ、 "知識" を覚えたり、それらを使う働きの水準とは一線を画するのではないかと主張されているかのようでもある。

 自分もこうした "脳" の働きの問題に関心を寄せ続けている者の一人である。関心の焦点は、 "脳科学" と呼ばれる分野では一体どのように研究されているのかという点であったり、 "脳" の働きをどう掌握するのかによって、科学を含む文化全体のあり方や、さらに人々の生活意識のあり方さえ異なってくるのではないか、という問題意識であったりする。
 関心は多岐にわたることになるが、その一つの関心に、 "脳" とそれ以外の "身体" との関係という問題がある。従来はどちらかと言えば、 "脳" がそれ以外の "身体" をほぼ一方的にコントロールするというような、 "脳" の働きを偏重する言うならば "唯脳主義" とでも言えそうな把握がまかり通っていたかに思える。
 しかし、 "脳" とそれ以外の "身体" との関係は、そうした "主従関係" にも似たような一方的関係であるのかに次第に疑問を持つようになっている。
 今日は、その関連事実を列挙している余裕はないが、たとえば "感情(≒心)" のあり方についても、それは "脳" の独壇場で決せられるのではなく、内臓やその他の、まさに "身体" の各所からの影響を深く被っているようなのである。
 この辺の問題に切り込んでいる著作(アントニオ・R・ダマシオ著、田中三彦訳『心と脳と身体の神秘』講談社 2000.01.24 )をたどたどしく読んでいるところでもあるが、それは後日に回すとして、今日は、ちょいと面白い本にぶつかったのでそこから一部引用しておきたい。

  "久しぶりのこと" をいくつかしたことになる。
 いずれもどうということのない事柄ではある。小雨がぱらつく中をウォーキングした後、 "久しぶりに" トコヤ(理髪店)に行った。そう言えば昨日は、理髪店のシャッターのペンキ塗り替えをする職人のことを書いたが、それとは特に関係はない。行きそびれていて、鬱陶しい頭となったためである。
 景気動向にトコヤはあまり関係なさそうだが、それでも、このトコヤの店主は、やはりパッとしないことをいつも嘆いている。そう言えば、客数が少なくなったためか、息子を他の忙しい店に "出稼ぎ" に出しているようだ。
 にもかかわらず、客商売の都合からか、店舗の改装工事もしばらく前にやらなければならなかったようである。確かに、小奇麗な雰囲気でないと今時の客は離れてしまう可能性がありそうだ。ラクではないなぁ、という事である。
 トコヤへ行くと、自分は大抵眠ってしまうのだが、この店のひとつ気に入らないところは、TVの音がやたら大きいことである。しかも、大体が、程度の低いタレントたちがバカ騒ぎをしているくだらないクイズ番組などがかかっているため、心安らかに昼寝ができないことなのである。まあ、それでも眠ってしまうのではあるが......。

 事務所での自分の作業環境は、デスク・ワークをしながら窓の外の光景が見える格好になっている。普通、窓を背にしてデスクを設置するものなのだろう。しかし、窓からの明かりを採り入れようという専ら機能的な観点からデスクを窓に向けている。
 だから、机上の作業から顔を上げると窓の外の光景が目に入るのだ。仮に公園などに向かっていて緑の樹木などが見えれば言うことはないのだが、見えるのは、前の車道とそこを走るクルマ、そしてその通りを挟んだ向こう側の民家の佇まい、そして電線にとまる野鳥たちといったところであろうか。

 今日は、民家の佇まいの一角の理髪店の店先で、ペンキ職人が一人、黙々と作業をしている光景が目に入り続けた。こちらもヒマというわけではないので、別に眺め続けているわけではない。が、視線を窓外に流すと見えてしまうのである。
 そのペンキ職人は、白っぽい作業着を着用し、頭は手拭いでしっかりと覆って作業をしている。近くには、軽のワンボックスカーが停めてあり、そこに道具一式を積み込んできたようである。
 そうした日がな一日マイペースで作業をする職人の動きを見ていると、職人の仕事というのはどんなものなのだろうかと、余計な想像をしたりしてしまった。
 複数人で共同作業をするのではなく、単独で黙々とこなす仕事というのは、やはり向き不向きがあるのだろうな、と先ずは考えさせられた。
  "腕に自信と経験がある場合" には、意外と気楽なのであろうか。その日一日の作業段取りは朝一番に計算済みとなるはずだし、想定外のハプニングでも起こさないならば、日の短い季節でも明るいうちにお勤め作業は完了するに違いなかろう。
 独り仕事の場合は、複数人での共同作業とは違って、自身の腕と采配にすべてが掛かっており、作業段取りもかなり正確な計算可能性が生まれるのであろうし、何かにつけて自分自身に責任があるわけなのだから、苛立つ心境にもなりにくいのではなかろうか。
 首尾よく一日のノルマを果たし終えたならば、後は、パチンコ屋に立ち寄ろうが、飲み屋に転がり込もうが勝手なのであろう。
 こうして、自身の腕と采配を頼りにして、取り立てて他者と関わったり頼ったりすることも少ない仕事生活を続けてゆくところに、いわゆる "職人気質(かたぎ)" と呼ばれるものがじわじわと形成されてゆくものなのだろうか。良くも悪くも、である

 やはり "パソコン(インターネット)操作" を例にするのがいいのかもしれない。
 以前から言われ尽くされたことであるが、中高年の人が "パソコン(インターネット)操作" に挑戦する際、 "難なく成功する人" と、結局 "失敗に終わる人" とがいるようである。
 そして、 "失敗に終わる人" の中には、結構 "博識" だと思われてきた人も含まれていて意外な感じがしたりする。どうしてそうなのかと若干調べてみると、そういう人は、 "どうして? どうして?" を連発して、躓いてしまうらしい。
 疑問を提起して "知識" を追求する向学心は評価できるものの、どこかズレてしまうようなのである。

 こうした現象について、自分は、<IT環境は "体感的" に活用してみなければわかりようがない......>(当日誌 2008.05.15)と題して書いたことがある。決して、IT知識の基礎学習を軽視しているつもりではないのだが、 "知識!知識!" で攻めるアプローチとはちょっと違うのかもしれない、という思いが打ち消せないのである。
 現代のIT環境が、無数の "ブラックボックス" 化された技術要素群によって構成されているから、全体を "頭で理解しよう" としても困難だ、と言うこともできる。だから、 "どうして? どうして?" を連発し続けると、専門知識群の鬱蒼とした森に迷い込むことになる、とも言えそうだ。
 しかし、そんなことよりも、 "どうして? どうして?" 派の人たちは、 "知識偏重" の嫌いがあるのではないかと懸念する。知識や、それを得た頭で環境を理解し、掌握できるものだと信じ込んでいるのではないかと感じる。
 おそらく、過去においてはそんなことが可能な時代環境があったのかもしれない。変化に乏しく、知識の展開も緩やかだった "スタティック" な時代環境にあっては、たぶん、そんなことも可能だったのかもしれない。

 ウェブページ関連の作業に、 "float" というスクリプトがある。 "コンテンツ" の配置に関するもので、 "右寄せ" や "左寄せ" を行う場合に使ったりする。
 今ここで書こうとしていることは、そうした作業上の問題ではない。 "float" という言葉が妙に心を揺さぶったのである。

  "float" とは、 "浮き、浮標" を意味したり、コーヒーの上に浮かぶ "アイス・クリーム" であったりする。つまり、プッカリと浮かんだ何か、ということになり、何だか頼りない雰囲気がアリアリである。仮に、 "フロート制" と言ってみると "変動相場制" となり、いくらか現実味を帯びてはくるものの、それでもやはり、 "確固としたもの" に欠け、あくまでも受動的に "漂う" というイメージ、もしくは "漂流" というイメージから免れようがない。

 自分自身もそうであるし、人間というのはまさに "float" 以外ではないのかなぁ、と "いじけた" 次第なのである。特に、この現代という時代環境で生きる者たちにとっては、プッカプッカと浮かび、大波小波に翻弄されつつ、なおかつどこへ向かって流されて行くものかもわからず、 "float" そのもののような気がしたのである。
 落語に、確か "上げ潮のごみ" という言い草があったかと思う。腰の軽い亭主をつかまえて、かみさんが、お前なんざぁ "上げ潮のごみ" だよ~、と馬鹿にするのである。その心はと言うと、ひとたび家を空けると、川を流されるごみのごとく、あっちこっちの杭に引っ掛かってなかなか家に戻らない、ということらしい。まだ、纏わりつける杭のようなものがあったのが救いだったのだろうか......。

 芥川龍之介の小説『トロッコ』という作品はよく知られている。
 主人公<良平>が八つの時、<小田原熱海間に、軽便鉄道敷設の工事>が始まり、<良平>は大層興味を抱く。やがて、工事現場の<土工>の気まぐれで、<良平>はトロッコを押したり<土工>と一緒にそのトロッコに載ったりすることがてきるようになる。
 有頂天になってかなり遠出をしてしまった<良平>であったが、日もとっぷりと暮れかかる頃、<土工>が口にした、
「われはもう帰んな。おれたちは今日は向う泊りだから」
という一言で、<良平は殆(ほとん)ど泣きそうに>なる。しかし、<泣いている場合ではない>と思い、来た道を<どんどん線路伝いに走り出>し,心乱れるままでやっとの思いで村の自宅にたどり着く。 そして、小説は以下のように結ばれる。

< 彼の家(うち)の門口(かどぐち)へ駈けこんだ時、良平はとうとう大声に、わっと泣き出さずにはいられなかった。その泣き声は彼の周囲(まわり)へ、一時に父や母を集まらせた。殊(こと)に母は何とか云いながら、良平の体を抱(かか)えるようにした。が、良平は手足をもがきながら、啜(すす)り上げ啜り上げ泣き続けた。その声が余り激しかったせいか、近所の女衆も三四人、薄暗い門口へ集って来た。父母は勿論その人たちは、口口に彼の泣く訣(わけ)を尋ねた。しかし彼は何と云われても泣き立てるより外に仕方がなかった。あの遠い路を駈け通して来た、今までの心細さをふり返ると、いくら大声に泣き続けても、足りない気もちに迫られながら、............
 良平は二十六の年、妻子(さいし)と一しょに東京へ出て来た。今では或雑誌社の二階に、校正の朱筆(しゅふで)を握っている。が、彼はどうかすると、全然何の理由もないのに、その時の彼を思い出す事がある。全然何の理由もないのに?――塵労(じんろう)に疲れた彼の前には今でもやはりその時のように、薄暗い藪や坂のある路が、細細と一すじ断続している。............>(青空文庫 http://www.aozora.gr.jp/ より)

 現在、趣味と仕事とを兼ねて、 "ブログ" システムに "はまって" みている。何かにつけて、人様の役に立ち、仕事となるようにするには、先ずは自身が "はまる" 必要があるだろうというのが持論である。
 そんなことで、いろいろな角度からこの "ブログ" システムというものにチャレンジしている。ようやく、このジャンルではスタンダード・ナンバーとも言える "ブログ" システムの " Movabl Type 4.1 " にも馴染みはじめ、 "テンプレート" と呼ばれる定型書式のカスタマイズ方法にも接近し始めることができている。

 また、先週から、ちょっとした実験を開始し始めた。
 かねてからカメラ好きの自分は、 "スナップ写真で綴る日誌" のようなものを作りたいと思ってきた。文章で綴る日誌の意義は、他人様がどうこうと言うよりも自身のために長年継続してきた。これはもはや欠かせない "日課" という位置づけになっている。
 この日誌に、併せて写真を掲載してもいいわけなのだが、書く内容は必ずしもスナップ写真と馴染むことばかりでもなさそうなので、これはこれで押して行こうかと思っている。その代わり、スナップ写真だけの "デイリー・ワーク" があっても、楽しいかと考えたわけである。
 ただ、あまり余計な手間は掛けたくない。デジタル一眼レフなどを使って凝るのもおもしろそうではあるものの、その手間を想像すると "デイリー・ワーク" として継続しないのではないかと思えた。
 そこでたどり着いたのが、ケータイのカメラでバカチョン的に気軽に撮って、それをメールの形で送信すれば、ブログに自動的に掲載されるというシステムであった。

 昨日は、 "思い通りにならないこと" をより多く自覚していると見える現代人の心の実際について書いた。つまり、人々の "脳内" の "思い" と、決してその "通り" には運ばない現実との "ずれ" のことである。
 これだけ現代の世の中は超便利になっているにもかかわらず、実のところ、われわれは万事が "思い通り" になっているとの自覚をする以上に、 "思い通りにならないこと" が多いと嘆いているのではなかろうか、という事実なのである。
 そして、ことによったら "思い通りにならないこと" の最右翼はと言えば、生活環境の諸々のモノであるよりも、要するに "他者" としての人間自体なのではないかと思える。

 "他者" は自分自身と同様に個別の "意思" を持つ存在であるだけに、 "思い通りにならないこと" は言わずもがなの事実である。そして "健全な" 人間社会においては、この事実が基本的出発点として踏まえられ、個々人もこの事実を踏まえつつ "他者" との "関係技術" を "訓練" していくものであったはずだ。それが、個人の成長期における重要な学習項目だったはずだし、大人側にとっては重要な教育項目でもあったはずであろう。
 と言うのも、 "他者" との "関係技術" の訓練とも呼ぶべきものは、交際術と言って済ませられるほどに軽いものではないように思えるからだ。要するに、常に "意思" と "意思" との "衝突" が潜伏しており、その "衝突" を聡明なかたちで回避しつつ "意思疎通" を図るという行動は、困難であるとともに大変な気力やエネルギーを要するもののはずだからである。だからこそ、個人の成長期における重要な "訓練" であり続けたわけだ。
 ところが、この辺のいわゆる "人間関係" において、現状はかなり惨憺たる問題状況を露呈していそうである。何がどうだとの具体例を挙げれば切りがなかろう。
 にもかかわらず、あるいは、だからだと言うべきなのかもしれないが、現代のビジネス環境やIT環境は、現代人たちが苦手とする "人間関係" にまつわる煩わしさを、それらを除去することが有力なビジネス・チャンスだとばかりに立ち向かってもいる。いわゆる "個人化" 機器類がそれであるし、またモノの販売における人の介在を排した "自販機" も好例となろう。
 極論をすれば、現代環境では、商品交換が行われる市場経済の場と構造が、人間と人間との複合的な関係の場である社会に取って代わってしまったかの観があるわけだ。複合的な "人間関係" は、市場経済での "売買契約関係" に置き換えられてしまったようにさえ見えるわけだ。
  "人間関係" のエッセンスであるに違いない "他者" と向き合うことは、モノとしての商品に向き合うことや、商品の性能と価格とのバランス関係に向き合うことに、見事にすり替わってしまったと言うべきであろうか。何をどう考えればいいのだろう......。

 実は、昨日の時点で引用しようと考えていたのだが、今日の話題の焦点である "他者" との "関係技術" という点で以下の引用文を掲げておきたい。

 いろいろと "思い通りにならないこと" が多くて、苛立ちやストレスとは手が切れない日々である。多くの人が、ますますそんなことを強く感じているのではないかと察する。確かに、尋常な人々の "思い" から理不尽に逸脱した事柄が、社会にもそして政治にも多々引き起こされているので、むべなるかな、と感じる向きもある。
 しかし、やはり自分も含め、現代人はことのほか "思い通りにならないこと" を気にし過ぎると見えないこともない。短気で怒りっぽくなったかのようである。これもまた、自分をも含めた話であるが......。

 一体どういうことなのかと考えてみると、要するに、主として頭の中で( "脳内" で)生活をしているからなのではないかという思いに突き当たる。言うまでもなく、人の "脳内" にで構築されている世界は、複雑多岐にわたり、捉えどころがなかったりする現実世界とはことなり、かなり合理的であり、またデジタル情報的であるのだろう。少なくとも "意識" の次元での"脳内" 世界はますますコンピュータが構成する世界の様相に近づいてしまっているのかもしれない。
 これにはやはり根拠があり、現代人(都会人)は、サイエンスやテクノロジーによって自然が追放され、人工的、合理的に改造された生活環境で日ごと生活をしているわけであるから、それらを日常環境とする人の "脳内" には、ますますシャープな切り口のデジタル情報的世界像が組み立てられてしまっていることになるのだろう。加えて、日常生活環境へのデジタル・テクノロジー、コンピュータの浸透は、環境と人々の "脳内" 世界の双方を劇的に変化させている。

 何のための "日誌" か、あるいは "ブログ" かと考えることがしばしばある。まあ、もちろんいろいろな人々がそれぞれの思いで展開していいわけだし、それにとやかく言う必要はなかろう。自分の場合にはどうなのか、ということなのである。
 以前にも書いたことがあるが、日誌を書くということは決してラクなことではない。むしろ、ラクであってはいけないとさえ感じている。
 ラクであるスタイルの一つは、 "書く前から" 大半の内容が認知されてしまっている場合である。これは、決して "頭脳が明晰な状態" にあるからなんぞではないのである。それは多分、 "実際に書きたいこと" を、 "通りが良い" 内容、形に丸めて済まそうとしているからなのであろう。だから、裏返しに言えば、これを "頭脳が明晰な状態" にあるからだと言えないことない。世間で言われる "頭が良い" とは、わかり切ったことを立て板に水のごとく表現することなのであろうから、である。まあ、 "紋切り型" の発想で、 "紋切り型" の言葉遣いに徹するならば、片目つぶって3秒で、文章なり、喋りなどは "完成される" はずであろう。それに意味があるのかどうかはまったく別問題ではあるが......。
 もうひとつラクであるスタイルとは、これは滅多に遭遇しないことではあるが、まるで、 "巫女" か何かになってしまったかのように、 "自動的に" あるいは "湯水のように" 書こうとする内容が溢れ出て来る場合なのである。噂で聞いていたことはありながら、ついぞ経験できなかったが、振り返ってみると、あの時がそうだったかと思い返すことが二、三度はある。

 しかし、大半の場合は、 "書きたい" と感じている内容は掴みどころがなくて難航し、タイムアウトとなって読み返してみると、違う! しかし、しょうがないか......、と妥協する日々の連続なのである。
 こういう経験を続けていると、 "書こうとする自分" と、 "それを読む自分" とはまったく別人のようであり、そんなことってあるのだろうか、と自問するわけである。
 だが、どうも、これが真相のようである。そんなことを解説する一文があったので、如何に引用しておきたい。

 この時季になると、スズメたちが騒がしい "子育て" 活動に入るようだ。
 今日も朝から、事務所の近辺ではチュン、チュンと働き回っている様子である。そして、例によって、事務所入口の一角に "巣作り" をしているようで、その近辺を親鳥たちがあわただしく飛び交い、そして時々、その巣の奥の方から餌をねだるかわいいヒナの鳴き声が聞こえてきたりする。
 昼食時のパンを一つまみ、その巣の近くの棚に置いてやった。先ほど、ちょいと覗きに行ってみると、気持ちよいほどきれいさっぱりと平らげていた。ヒナたちに与えたのか、それとも甲斐甲斐しく飛び回ってすっかりエネルギーを使い果たしているに違いない親鳥たちが空腹を満たしたのか、それはわからない。
 確か、去年もおととしも同じような出来事があったかと記憶していた。振り返ってみると、以下のように書いていた。今年の親スズメたちが、去年、おととしと同一のスズメたちなのか、あるいはその子どもたちなのかはわからない。ちなみに、スズメたちの寿命は、普通は一年、長くても二、三年であるらしい。したがって、 "微妙なところ" だと思われる。
 去年書いた分を読み直してみると、現時点の思いとまったく同様なので驚いている。したがって、 "再掲載" して意を深めることにした。

  "ブログ" 記事をターゲットにしてキーワード検索を行うと、無数の個人ブログと行き交う。時々、素晴らしいコンテンツを満載した労作に出会うこともある。自分は、写真、とくに風景写真に目がない方なので、足を使って、一枚一枚丹念に構図と露出を決めて撮ったと思しき写真集を閲覧できると感激する。(ちなみに、最近見つけたものでは、『鉄道のある風景』 http://nekosuki.org/landscape/index.htm#top が素晴らしいと感じた)
 だが、逆に、早々退散したくなるようなブログも少なくないのが現実だ。率直に言えば、他人様の家やマンションを間違って訪問してしまった時の取りつく島のない居心地悪さを存分に味わうようなことになるブログもある。
 ご自分のマンションの一室なのだから、何をどうあしらおうと勝手なのだろうし、また、思う存分、見知らぬ他人を警戒する空気が満ちていたり、一部の "お仲間さん" だけを受け入れようとする雰囲気が漂っていようと、それもまた勝手なのではあろう。
 また、昨今ではこの傾向、 "部外者お断り" 的傾向は強まり、いわゆる "SNS( Social Networking Service )" というような人と人とのつながりを促進・サポートする、コミュニティ型のポータル・サイトが人気を集めたり、さらには、 "トゥイッター( TWitter )" と呼ばれている "ひとり言" 書き込みサイトなぞも隆盛を極めているらしいから、ひとつの大きな潮流であるのかもしれない。
 だから、そんなブログを間違ってクリックしてしまった際には、あっ、失礼、間違えました......、と言うようにして早々切り上げてしまうことになる。
 ただ、 "パブリックな" インターネットなのだという自覚が片鱗もないように感じられる場合には、いろいろなことを感じ、考えさせらてしまうものである。
 この辺の現状に関しては、次のような一文を引用しておきたい。

<インターネットに代表される現代の表現環境は、自分自身や仲間内で閉じた自己満足的なコミュニケーションを醸成しかねない場でもある。数個のノード(結節点)を経由すれば世界中が結びつけられる「スモール・ワールド・ネットワーク」が実現しているはずのインターネットだが、実際には細かくゾーニングされた蛸壺(たこつぼ)的コミュニケーションが並立する傾向が強い。自らの嗜好に合う直近のノードより先には、広い世界が待っているはずである。グラフ理論としての図式では、ノードを何個か経由して世界全体とつながることは可能なはずであるが、実際には、このような「スモール・ワールド・ネットワーク」的行き交いを行うことにはかなりの精神的エネルギーが必要になる。
 ......
 生まれたばかりの赤ん坊にとっては、体験するものの殆ど全てが直近のノードを超えた向こう側からやってくる。自分の期待していることとの「ずれ」に遭遇し、くやしくて泣き出す。そのような脳の感情のシステムが激しく介在するような反応があってこそ、初めて本当の意味での他者との出会いがあり、学びがある。未熟な表現者はみな、世界との行き交いの中でずれ[傍点あり]を感じて泣けばよい。ノードを経由してやってくる様々なものの消息が、新生児にとっての世界のごとく新鮮で、魂をゆさぶるものとして立ち上がって初めて、「スモール・ワールド・ネットワーク」としてのインターネットはその本領を発揮するのである。>(茂木健一郎『脳と創造性 「この私」というクオリアへ』 2005.04.05 PHP研究所)

 茂木氏のこの見解は、<リアルさと「ずれ」>と題された章で、<脳の中にある図式と、世界の現実とのずれ[傍点あり]こそが、私たちが創造的であり続けるために必要な一つの栄養なのである>という点を説明するための一エピソードとして述べられている。
 ちなみに、<創造性>なんか自分には関係ないと考える向きもあろうから言っておけば、同氏は、現代にあっては、もはや一部の個人に託されていたかのような<創造性>の概念は再構成されなければならないと主張されている。

<ネットワークを通して結び付けられたコンピュータの発達によって支えられたIT社会の成熟、そしてポストIT社会の発展に伴い、人々は創造的であることを運命づけられる。このような時代には、社会を支える概念的インフラとしての「創造性」のイメージは脱神話化され、再構成されなければならない>(同上)

 まさに共感共有できる現状認識だと思われる。
 現状の多くのブログなど(自身のものもそうかもしれない)が、あたかも "個人空間化" され切っているかのように見えるのは、それはそれで根拠のあることなのかもしれない。
 しかし、<実際には、このような「スモール・ワールド・ネットワーク」的行き交いを行うことにはかなりの精神的エネルギーが必要になる。>という、茂木氏の実感的指摘をしっかりと踏まえたい気がしている。
 そろそろ、この<精神的エネルギー>の回避行動という現代人の悪癖を見つめ直さなければ、<創造性>の問題もさることながら、それ以前に "悲惨なワナ" への亀裂がポッカリと口を広げて行くという事態も十分にあり得るのだろう...... (2008.06.18)

  "マージナル・マン" (境界人、周辺人)という言葉が気になった。
 とりあえず<広辞苑>での説明を引いておくと、以下のようになる。
 <民族・地域・階層・文化などについて、異なる複数の集団の境界にあって、いずれの集団にも十分帰属していない人々。>
 また、心理学者のK.Lewinが、発達心理学の観点から青年期は児童期と成人期との過渡期にあり、青年は子供の集団にも属さず、大人の集団にも属さない中間の存在であるところから、不安定な心理状態を特徴とする青年を境界人と呼んだとの説明もある。
 しかし、自分の現在の問題意識に照らすと、次の解説が最もフィットするようなので、長い引用をさせていただくことにする。

 <異質な諸社会集団のマージン(境界・限界)に立ち、既成のいかなる社会集団にも十分に帰属していない人間。境界人、限界人、周辺人などと訳される。マージナル・マンの性格構造や精神構造、その置かれている状況や位置や文化を総称して、マージナリティと呼ぶ。マージナル・マンの概念は、1920年代の終わり頃に、アメリカの社会学者バークが、ジンメルの《異邦人》の概念(潜在的な放浪者、自分の土地を持たぬ者)の示唆を受けて構築した。バークは《人種的雑種》(たとえば、白人と黒人の混血児=ムラトー、スペイン人と先住民族の混血児=メスティーゾ、東洋人と西洋人の混血児=ユーラシアンなど)に典型的にみられるパーソナリティ類型(自我の分裂、行動の不安定、強い自己意識、激しい内面葛藤、根なし草の感じ、帰属への欲求の強まり)の持ち主を、マージナル・マンと呼んだ。つまり、《人種と文化の葛藤から、新しい社会・集団・文化が成立した同じ時と場において生じたパーソナリティ類型》を示すものとしてマージナル・マンをとらえた。
 マージナル・マンの理論は、多くの社会学者によって、さまざまに批判と修正がなされた。たとえば......(略)
 マージナル・マンは、自己の内にある文化的・社会的境界性を生かして、生まれ育った社会の自明の理とされている世界観に対して、ある種の距離を置くことが可能である。それゆえにマージナル・マンは、人生や現実に対して創造的に働きかける契機をもっている。したがってマージナル・マンは、被差別の立場に追いやられるだけでなく、脱差別の方向を志向する場合もありうる。>( 今野敏彦 / http://wiki.blhrri.org/jiten/index.php?FrontPage

 今、この時代環境にあって最も必要なことは、いろいろな意味において<生まれ育った社会の自明の理とされている世界観に対して、ある種の距離を置くこと>ではないかと自分は密かに痛感している。それは単なる政治的レベルの問題の範疇にとどまらないのではないかとも感じている。
 現代という時代環境は、政治・経済・社会そして文化の大半が、 "巨大なスケールのサイエンスとテクノロジー" によって包み込まれて、個人たちの営みを圧倒的に凌駕してしまっていそうである。そして事実上、個人たちを、自力で考える余地もなくこの環境を "追認" せざるを得ない、そんな精彩のない状況に追い込んではいないだろうか。
 つまり、<自明の理とされている世界観>は、ますますその<自明性>を塗り固めはじめているかのような印象が否定できないのである。
 そして、かつて<自明の理とされている世界観>に意図的に距離を置く者たち(知識人たち?)がいたと伝説的な話としては聞く。しかし、そうした者たちも、今や、<自明の理とされている世界観>に "屋上屋(おくじょうおく)" を築くような "イージィー・ワーク" に勤しんでいるかのように見える。
  "スーパー・マン" や "スパイダー・マン" の登場が期待されるよりも、 "受苦" を承知の上で意図的に振舞う、そんな "マージナル・マン" こそが待ち望まれているような気がしてならない...... (2008.06.17)

  "梅雨の一休み" だそうだ。 "一休み" でも何でも明るい快晴の天候は、文句なくありがたい。 "何はなくとも江戸むらさき" ではないが、明るい前向きな天候は、 "移ろいやすい気分" を下支えしてくれるようだから大いに感謝したいわけだ。
 何を子どもじみたこと、気弱なことを言っているのかと後ろめたい感じがしないでもない。いい大人なんだから、自身の "安定した気分" なんぞは、バリバリ、ガンガンと創り出せばいいじゃないか、と先ずは思う。が、正直言って、昨今の自分の "気分" とやらは、めっぽう頼りない。ちょいと放っておくと、 "青菜に塩" のごとくなよなよとしてしまい、文字通り低迷気味となるようだ。何とかしなくてはいけない。

 別に愚痴を書こうとしているのではない。愚痴というのは、口にしてもしょうがないことをうだうだと言うことと心得ているが、自分のこうした "気分" の揺らぎ、ブレというものは、十分に建て直しが効くものだろうと考えているからだ。
 しかし、何か "相応の原因" が、頭なり心なりの基礎部分にどっかりと居座っているからなのではないかと、密かに推定しているのである。
 居座っているものを、安直に健康状態や生理的次元の問題に置き換えてみてもさほど意味があるとは思えない。まして、加齢による自然現象なのだと言ってみたところで大したことにはなりそうもない。

 最近、ますます意を傾ける点は、 "まめに耕そうとしなかった畑地" は、時間が経てば痩せ衰えるしかないのだろうか、という比喩なのである。
 つまり、 "まめに耕そうとしなかった畑地" とは、自身の心(脳内状態)だということになろうかと思う。
 人々、現代人の人間としての心は "危機に瀕している" のではないかという指摘は、決してめずらしいものではなくなっていそうである。確かに、時代環境や社会、そして世界というには深刻な問題が山積しており、現代人の内面に深い影を落としていると推定される。
 しかし、こうした状況は、あたかも "外界" に主たる原因が横たわっているからというような一方的な考察をしても始まらないのかもしれない、と思えてくる。つまり、良くないのは "外界" の環境であって、人間たちの "内側" はそれらによって汚されていると、まるで犠牲者ふうに見立てたところで、何一つ次の手立てが見えてくるものでもなさそうに思えるのである。

 もちろん自分も含めてのことであるに違いないのだが、要するに、あまりにも、人間たちが自身の "内側" の問題を "かまけてきた" 、つまり "まめに耕そうとしなかった" がゆえに、当然のことながら荒廃状態となってしまった、というのが真相なのではないかと思ったりするのである。
 こうした状況が、さらに加速度的に "外界" の状況を悪化させることにもなったのであろうし、それがまた人々の "内側" の問題を輪を掛けて手詰まりな様相へと変えてしまったとも言えようかと思う。
 多分、元来が人間の "内側" の状況というものは、かなりの程度において "逞しく" 、そして自己復元力と問題超克的なパワーを秘めていたものではなかったかと確信している。それは、ちょうど、地球の自然環境自体が秘めていたパワーと合い通じるものだと考えても不自然ではなかろう。しかし、今や、地球の自然環境自体もまた危機に瀕する事態に直面している......。

 今日は、具体的な議論に踏み込む余裕を持たないが、とにかく、人間の "内側" の状況は確実に "危険水域" に滑り込んでいるような直感を持つ。
 まあ、偉そうに現代人一般がどうこうと言うよりも、ともかく自身の心のありようを等閑(なおざり)にし続けてはならないと痛感している。
  "何はなくとも江戸むらさき" ではないが、 "何はなくとも心の平静" というような、言ってみればありふれた事実が今やとてつもなく希少価値を持ち始めていそうな予感がするのである...... (2008.06.16)

  "小奇麗" という言葉があれば、 "小汚い" という言葉もある。
 昭和30年代以前と言えば自分の子ども時代ということになるが、この時代の特徴を下世話に表現すれば、万事が "小汚い" ということになるのかもしれない。自分は知らないのだが、終戦直後の "やみ市" 時代ほどの "汚さ" ではなさそうだが、それでも、昭和30年代およびその直前あたりという時代は、町の光景も、そして子どもたちの服装なども、一言で言えば "小汚い" ということになりはしないかと思う。

 自宅の近所に、昭和30年代の雰囲気を "売り" にした "お好み焼き" ショップがあるのだが、店の入り口付近は、この時代の空気を表現しようとしていろいろと工夫が凝らされている。汚れた木造建築物の一部を添えてみたり、電柱や当時の看板を設えてみたり、要は生活臭のあるいろいろな小道具を並べ立てているのだ。そして、それらが醸し出す印象はと言えば、つまり "小汚い" 佇まい! ということになるわけである。
 これは、決してそのショップを揶揄しているわけではない。まさに昭和30年代およびその直前あたりの時代は、 "小汚い" 佇まい! という表現がぴったりする印象が特徴的だったのではなかろうか。
 多分、年代ものの "木造建築" が町並みを構成していたところからそうした特徴が現れてきたのであろう。また、アスファルト舗装道路以前の、砂埃、土埃が立つ道路事情というのも原因なのかもしれない。そして、子どもたちに限らず人々の服装がまた、地味で質素だと言えば聞こえはいいが、それを下回り "小汚い" の範疇に区分けされがちな印象もあったであろう。
 まあ、モノ不足が尾を引き、衣類も現在ほどに安価なものが大量流通していなかった時代だけに、 "食・住" の低水準とともに "衣" に関しても粗末さが一般的であったようだ。男児なぞは、夏場であればそれこそ "小汚い" 感じの "ランニング・シャツ" 姿がごくごく普通であったと覚えている。何ともセンスのないありさまであったことか。

 今日、こんなことを書くに至ったのは、映画 "ALWAYS 続・三丁目の夕日" のDVDを漸く鑑賞することになったからである。この映画は言うまでもなく昭和30年代の光景を前面に打ち出した作品であり、まさに昭和30年代の "小汚い" 感触が、存分に画面に滲んでいるのである。懐かしいなぁ、と身が震えるとともに、やっぱりこの時代は "小汚い" なぁ、と再確認したというわけなのである。
 と言っても、上記の "お好み焼き" ショップ同様、揶揄しているのではなく、 "誉れ" ある個性的特長を再認識しているのである。
 つまり、昭和30年代の人間ドラマにおける感慨のすべては、その "小汚い" 舞台環境、古きものが雑然と佇む光景があってこそ意味を持ち、引き立ちもする、と思えてならないのである。 "小奇麗" でスマートなモノや環境が溢れる現時点のような舞台環境では、昭和30年代的人間ドラマは、どうしてもシラケ気味となってしまうのかもしれない。
  "水清ければ魚棲まず" ということわざがあるが、昭和30年代という時代環境は "濁り水" の環境であったがゆえに、人が "人間らしく" 暮らしていたのであろうか...... (2008.06.15)

 このところの大きな "自然災害" は、人々の不安感を不気味に煽っているようだ。海外でも、巨大台風や激しい震度の地震が何万人という規模での被災者を生んでいる。そして、今日は国内で "岩手・宮城内陸地震" という強い震度の地震が山村の地形に大打撃を与えたようである。
 山や崖が崩落し、アスファルト道路が見る影もなく破壊され寸断され、川の流れが土砂崩れで堰き止められる。そんな光景は、つい先ごろの中国は四川での大地震の報道で目に焼きついているが、国内で同じことが起きるとなおのこと自然災害の恐ろしさを痛感させられる。そして、 "潜在的な自然エネルギー(の歪み)" とでもいうような問題が、不気味に思い浮かんでくる。
 こうした不安の不安たる理由は、これらの地震と地殻エネルギーの歪みなどの問題は、まるで人知が及ばない未知の領域の問題であるかのような扱いを受けていることにありそうだ。ホントにそうなのだろうか?

 考えてみれば、地球温暖化問題にしてもそうだが、事が現実化するならば巨大な災害となることがリアルに推定されている問題などが、意外と、必ずしもベストな対策で臨まれていないという現状は一体どうしたことなのであろうか。
 片方では、華々しい宇宙開発の光景がニュースでも大々的に取り上げられ、あたかも今やサイエンスは宇宙の摂理を改造するに至ったとでも言いたげな雰囲気さえ漂わせている。それもいいけれど、こうした巨大地震問題のような、地上の自然災害問題において不気味さだけを昂進させている課題があることから目を逸らしてはならないはずだろう。
 対処すべき "優先順位" というものが、どこか "恣意的" でありはしないかと警戒するわけである。
 地球温暖化問題にしても、地球環境の命運問題よりも経済競争を優先させる動きがリアルであり過ぎるわけだ。先日も、NHKの報道番組で知らされたのだが、地球温暖化傾向で今や "北極圏" は大変な異常事態に見舞われているにもかかわらず、その最中で北極の海底に埋蔵された地下資源をロシアなど近隣各国が狙って蠢いているというのである。これまで凍てついていた北極は手がだせなかったのに対して、温暖化によって北極の氷が融け始めたのをこれ幸いと見なしているようなのである。まるで、 "火事場泥棒" の感触ではなかろうか。

 また、今回の "岩手・宮城内陸地震" というような強い震度の地震が、東京近郊に発生したならば、一体どんな惨状となるのかについては、誰もが危惧しているところではなかろうか。しかし、その対策が圧倒的に不十分だとしか言いようがない状況であるにもかかわらず、それに抜本的な対策が講じられるどころか、逆に "何故?" とその根拠が問いたくなるような "オリンピック誘致" がキャンペーンとして繰り広げられているのも全く釈然としないのである。ここにも、対処すべき "優先順位" づけの "恣意的" な姿を見るような思いがしている。

 自然現象の因果関係であれ、人為的因果関係であれ、そして責任関係であれ領域は問わないが、推定的には明らかに明瞭だと判断される事実であっても、とかく "はっきりしない" こと、そう見なされる事柄や問題には、世間や世界はまともに取り組もうとはしない、というのが一般的な現実というものなのであろうか。
 当然だと言えばそうも言えようが、それはやはり間違っている。近代的合理主義、そしてサイエンスが目指す客観的真理というものは、そんな "狭い了見" で追求されるものではないはずだ。 "はっきりしない" ことというのは、だから "無視してよい" ということでもなければ、まして、だから "無い" と同じだということでもなかろう。
 しかし、国内外を問わず現代の世相は、ますます明々白々の事実しか尊重しないし、そうした事実によってしか拘束されない、というようなおぞましい水準に潜り込んだ観がある。その結果、巨大化する "不測の事態" を招く可能性を蓄積させている...... (2008.06.14)

 <若年層がケータイや他のデバイスからのネットアクセスに流れている中、50歳以上のネット利用者は、家庭におけるPCからのアクセスにおいては利用者数、シェア共に確実に増加しているようである。>(『50歳以上のネットユーザーは何を見ているのか?』 山田康介[ネットレイティングス アナリスト] 2008/06/02 10:57 japan.cnet.com/marketing/より)
 なお、その利用ジャンルで高い比率を占めるのは<ネットは証券取引や旅行情報収集のツールとして威力を発揮しているようである。>とのことである。
 自分も、<証券取引>についてはその真似事を、 "デイトレード" という形で経験したことがあり、一時は "熱狂(?)" もした覚えがあるものの、もはやすっかり醒めてしまった。詳細は措くとして、バカバカしく思えたからである。
 結局、趣味的に長続きしているのは、日誌、エッセイ、小説もどきをネット上で公開することのようである。もちろん、情報収集としての閲覧についての方はもはや日常生活の必需要素となり切っている。

 ところで、ネット公開の "日誌" を毎日書こうとすれば、書くための材料探しもさることながら、その方法( "投稿" 方法)にも工夫を要する。
 できるだけ簡易な操作が望ましく、また場所を選ばないという条件も必要であろう。出張先や旅行先からでも "投稿" できなければいけないからである。
 そんなことで、もう8年も継続させている自分の場合、最初は "CGIスクリプト" を駆使したホームページを自作したものであった。つまり、 "FTPソフト" などを使わざるを得ないコンテンツのアップロードを、自身が公開しているホームページの "ブラウザ" から入力し、そしてアップロードできる、という構造のウェブサイトを工夫したわけである。
 これは、結構、便利であり、出先からの "投稿" でまかなうことができ、おかげで "一日たりとも穴を空けることのない継続" を叶えてきた。

 それで、いわゆる "ブログ・システム( Movable Type 4.1 )" を併用し始めたのはつい先頃のことになる。コンテンツのアップロードのほかにも、いろいろと魅力のある機能に惹かれてのことであった。確かに、使い勝手は悪くなく、今後への活用展望が様々な形で刺激されてもいる。
 そして、今日は、 "ケータイ" を使っての "ブログ" へのアップロード方法を設置することにした。ケータイ・メールを送信するだけで、コンテンツを自分のブログサイトへ "転送" してアップロードを肩代りしてくれる、という無料サービスなのである。( "SendMob" http://sendmob.haruta-ap.jp/ )実際に試してみたが、実に瞬時に、かつスマートにこなしてくれた。
 これで、もし、ノートPCも持ち込めないような "緊急事態(?)" となっても、「助けてくれ~!」なりのメッセージを発信することができる。(友人・知人にメールを打った方がベターかもしれないが......)

 現在、あの悲惨な "秋葉原通り魔事件" をきっかけにして、 "ネット・アクション" が白い眼で見られる雰囲気がないではない。
 しかし、 "Web 2.0" の潮流が逆流するはずはなかろうから、個人のネットユーザたちが、パブリックな場へとますます関与していくことは不可逆的であるに違いなかろう。
 そんな中で、50,60歳以上の熟年者たちも、ネットを通して、株価の動きだけにとどまらず、操作が簡便化しはじめた "ブログ" などの環境を使って、若い世代の息遣いに接近してみてはどうだろうか...... (2008.06.13)

 先週あたりから腰に鈍い痛みを覚えるようになり、やや気になっていた。ギックリ腰の痛みほどではないものの、起床する際などに痛みを感じていた。日中はさほど気にならないので放置していたが、昨日あたりは、デスクワークをしていると、その姿勢から来るものだろうか、ジンジンとした痛みを自覚するようになってしまった。

 腰痛をこじらせて気の毒なことになった人を知っているだけに、あまり甘く見ない方がよさそうだと考えた。そこで、今日は思い切って休暇とすることにした。
 事務所に出れば、どうしても一日中悪い姿勢で座り続けることになるわけで、それでは回復はおぼつかないと思えたからであった。
 実は、昨日の午後、かつて通ったことがある "接骨医" で診てもらったのだが、何でも "大腰筋" とかいう身体の内部の筋肉が "凝る" 状態になっているようだと助言を受けたのだった。そうなると、デスクワークでの座る姿勢の悪さ以外に原因は考えられなかった。
 確かにウォーキングは心して実践しているには違いないが、デスクワークの時間とは比べものにはならない。長時間に渡る悪い姿勢での腰掛け状態が、その "大腰筋" とやらにムリを強いていたものと思われ、それがアラームを発する形で痛みを覚えることになっていたのだと推測できた。

 腰痛をバカにしたくない理由は、今ひとつあり、もう三年前のことになるあの "脊柱管狭窄症" の経験のことである。結局、あちこちの整形外科で診てもらった挙句、 "ペインクリニック" での "注射療法" によってどうにか痛みを "消し飛ばす" ことはできた。
 しかし、あの時の長期に渡った激痛の日々のことは忘れられないし、痛みこそなくなったものの、痛みの根本的原因を外科的に取り除いたわけではないため、腰痛に対しては警戒を要するわけなのである。

 横になって腰を温めていると痛みの和らぐのがよくわかる。今日は、とにかく "養生" するほかなさそうである。
  "年代もののマシーン" ではないが、部品は一様に古くなり傷んでいると自覚しなければならないのであろう。だが、まだまだ、面倒見い見い運用すれば、十分稼動できるマシーンでもあるはずに違いない。要は、こまめな "始業点検と注油の励行" ということになろうか...... (2008.06.12)

 昨日は "白いカラス" を目撃し感激した。で、本日は "白いタイヤ" を目撃して当惑。まるで "既成概念粉砕セミナー2泊3日コース" にでも参加しているような気分となっている。
  "白いカラス" 目撃の事情は昨日のブログを参照していただくとして、今日は "白いタイヤ" について書こう。
 そのタイヤ整備ショップは国道246に面している。しばしばその付近を通るのだが、今朝はそのショップの店頭で "不思議" なものを眼にすることとなった。そのショップの作業場へ運び込まれるところなのであろう、軽トラックが "とあるもの" を荷台に満載してバックしていた。
 その "とあるもの" というのが、 "白いタイヤ" だったのである。数にして20本程度はあっただろうか。どちらかと言えば小さなサイズのタイヤであり、軽自動車あたりに見合う程度の大きさである。空気タイヤとは思えないほどにゴツゴツとした感触であったようだ。
  "昨日のこと" がなければ見過ごしていたかもしれなかった。脳裏には、 "黒という既成概念を破る白" とでもいう視点が、残像よろしくアクティーブになっていたのかもしれない。
「ほぉー、ホワイトタイヤなんていうものがあるんだ」
と、驚くと同時に、一体、だれがどんなふうに使うのだろうか、と奇妙な当惑に襲われたものであった。

 事務所に戻ってから早速、ネット検索で調べてみた。なるほどと疑問は氷解した。
 フォークリフトなどが履くタイヤのようであった。通常のタイヤが黒いのは、強度を増す補強材としてゴムの1/2のカーボンを混ぜるように決められているからであるらしい。
 しかし、フォークリフトなどはハンドルをしきりに切るので床面にタイヤ跡や傷などをつけがちとなる。そこで、食品工場などの清潔さが大切なところでは、カーボンを脱色した "白タイヤ" 、あるいは床の色に合わせた "グリーンタイヤ" が使われるのが一般的なのだそうである。
 「ガッテンしていただけましたでしょうか?」なみのリクツがしっかりと背景に潜んでいたのである。

 こうして、 "既成概念粉砕セミナー2泊3日コース" 風な日が続くのならばそれはそれでありがたいことである。
 昨日、今日と、密かに確認していることは、 "既成概念" からはみ出している事実には、それはそれで "確固たる根拠!" がありそうだ、という一点なのである。
  "メジャー = ど真理" とするような風潮が席巻するひ弱なご時世なのだから、自身の内側に蔓延(はびこ)る "既成概念" を、ことあるごとに粉砕していくことが、手堅く生きるためには必須なのかも知れない...... (2008.06.11)

 やはり、ちょっとした驚き以外ではなかった。
 "白いカラス" を目撃したのである。まぶしい空を背景にして広げた翼、ボディ、尾羽のすべての色が、純白というよりもやや "ベージュ色がかった白色" だったのである。おそらく、 "アルビノ" と呼ばれる何十万分の一の突然変異の "白いカラス" だったのであろう。
 一瞬、この近辺ではあまり見かけないカモメだろうかと思った。が、何と、疑う余地のない泣き声、 "カァー、カァー、カァー" と連呼しているではないか。ここは、神奈川県相模原市矢部という市街地である。
 ほんの一瞬のことであった。その "白いカラス" が見えたのは、車道に面した事務所北側の窓を通してであった。道路を挟んだ向かい側の建物から、事務所の屋上方向へと鳴き声高らかに飛び去ったのだった。今日は朝から気温が高いため、窓を開け放っていた。鳴き声は、その窓の先ほんの数メートルの距離で聞こえたから先ず間違いはない。
 その、 "アテンション・プリーズ!" とで言いたげな鳴き声がなかったならば、朝一番(午前9時過ぎ)での机上の作業に身をかがめていた自分は、視野の片隅に何か通り過ぎたと自覚するだけで終わったことであろう。
 ちなみに、 "白いカラス" を飼育している "恩賜上野動物園" に問い合わせの電話を入れてみたが、担当の方曰く "決して眼の錯覚ということではないでしょう。いたとしても不思議ではないはずです" と。

 自分は日ごろから、野鳥には関心があり、いわゆる "バード・ウォッチャー" の部類に入れてもらえるはずである。つい先日も、野鳥たちの "一途な鳴き声" は好感が持てると書いたばかりである。
 そうして日ごろ、野鳥たちに関心を向けていると、思わぬ所で珍しい野鳥たちを目撃したりするものだ。あの美しい水辺の鳥 "カワセミ" も、長年ウォーキング・コースとしている "境川" の遊歩道でしばしば唐突に見かけることがある。
 町田近辺で "カワセミ" が飛来することで有名なのは、 "薬師池公園" であろう。そこではプロ、アマ問わぬカメラマンたちが、長い望遠レンズを大砲のように設えて、気まぐれな "カワセミ" が飛来するのを待ち構えていたりする。
 しかし、 "待ち構えて" いて遭遇するのも悪くはなかろうが、何の心の準備もない状態であの鮮やかで幻想的なコバルト・ブルーの姿を眼にすると、まさに "何とかの青い鳥" を見出したようで感激させられるものである。

 突然の "白いカラス" の目撃は、何か "良いこと" の訪れの前兆なのであろうか。もちろん、そうであってくれると嬉しいが、別にそこまで欲張ることもなさそうだ。考えてもみなかった "白いカラス" に偶然遭遇したというその事実だけで、結構、心躍らされているからである...... (2008.06.10)

 昨日は、またまた第三者を巻き添えにした "自暴自棄" 、 "やけ(自棄)" を起こしたとしか思えないような悲惨な事件が "降って湧いた" 。
 先ずは、災難に会ったとしか言いようがない、お気の毒な被害者、犠牲者の方々にご同情を申し上げたいと思う。
  "自暴自棄" となり、 "やけ(自棄)" を起こす輩が後を絶たないこの時代環境が何とも厭(いと)わしいかぎりである。二度とこんなことが起きないようにとは、誰もが思うことだし、一体こんなことが頻発する社会や時代にはどんな歪(ひずみ)が埋め込まれているのだろうかと考えてみることも誰もがするところであろう。

 昨日の日誌を書いていて、 "好きこそものの上手なれ" なんぞとのん気なことを言っている場合か......、と感じさせられる可能性はあったにはあったが、そうは思わなかった。むしろ逆に、こんな時代であるからこそ、 "緊急避難" 的に "好きこそものの上手なれ" 主義に眼を向けるべきだと思ったものであった。
 ただ、この際、 "上手" となれるかどうかは棚上げしておいていい、 "下手な横好き" でもいい、とは思った。
 大事なことは、 "自己の片鱗なりとも取り戻す" 手立てを、今すぐ応急措置的にでも始めなければ、 "やけ" を引き起こさせるアリ地獄のような危険から逃れることは結構難しいのではないか......、という文脈なのである。

  "自己の片鱗なりとも取り戻す" ためには、ほかに "建設的" なこともありそうではある。例えば "資格取得" などが思い浮かびはする。しかし、気をつけるべきは、われわれはその "資格取得" のような "お仕着せ" 的な路線で汲々としてきたからこそ、 "自己" の大半を失い、気がついてみると、そそり立つ外部世界の重苦しさを前にして、 "真空状態" とも感じられるような "自己喪失" にはまり込んでしまったのかもしれないという点なのである。スマートに "自己" を取り戻そうとすれば、スマートに処せば処すほどに、実感乏しき "自己もどき" の張りぼてを作ることに至る......。
 したがって、ここは一度(ひとたび)、 "自己の片鱗なりとも取り戻す" というアクションを "切実に" 考えてみていいはずなのである。いや、そうしなければ、ポッカリと口を広げる空洞が、 "自暴自棄" とまでは言わずとも、限りなくそれに近い病理行動を誘いかねないような気がする。
 スマートでなくてよかろう。 "立て板に水" どころか、 "横板に鳥もち or ガム" の様相さながらに、好きなことにねちっこく関与して、 "一心不乱" となり切れれば、それだけで先ずは健康回復の第一歩、 "自己再獲得" への第一歩となるに違いないのではなかろうか...... (2008.06.09)

  "好きなこと" がやれれば、たとえ他のことを我慢することになっても幸せ! と口にする人は少なくない。自分もそれには大賛成であり、その発想は極めて健全なことだと確信する。 "たとえ他のことを我慢する" というところが、 "たとえ他の人を我慢させる" こととなれば多少物議を醸すのかもしれないが、それでも、 "他の人" とてその当人が邪心なく好きなことにはまり込んでいるならば、まあ、しょうがないか、と大目に見る向きもありそうである。
 ただ、むしろ問題は、 "好きなこと" に遭遇したり、それを自覚するということは、一般的に想定される以上に難しいことなのかも知れないと思う点である。
 あなたの "好きなこと" とは何ですか? と問われて、即座に返答を返せる人はどちらかと言えば少ないのかも知れない。そのことに余程年季が入っている人はいざ知らず、普通は、唐突に問われるとややたじろぐものなのかも知れない。

 何故こんなことを書くかと言えば、やはりこれからの時代環境を生き抜いて行くには、大なり小なり "好きこそものの上手なれ" 主義でなくてはならないように思うからなのである。
 つまり、職業選択にしても、そのジャンルにおけるミニマムのボーダーラインをクリアしただけでは話にならないだろうし、とりあえず卒なく器用にこなす水準でもやがてボロを出すことになりそうだ。通り一遍のことでは歯が立つまい、と推測するわけである。
 どうしても、 "好きだからこそ" 寝食の時間を惜しんでのめり込み、その挙句、 "高い授業料" に見合うか見合わないかは別として何かそれらしきものを掴んでいるというような水準が望ましいように思えるのである。
 もちろん、世間で "天才" 扱いがなされているような逸材たちが、その道の訓練を幼い頃からやっていた、というようなケースは、 "好きこそものの上手なれ" というようなロジックを当てはめるまでもない羨ましい大正解のはずであろう。
 と言うか、そんな "天才" さえ事欠かない時代風潮でもあるからこそ、せめて、 "好きこそものの上手なれ" を平然と主義とするようでなければ話にも何もならない、ということになるわけなのである。

 先ほど、 "好きなこと" は何か? という問いにたじろぎがちだと書いたが、要は、自信が持てるほどに何かに "のめり込む" 経験をすること、したことが思いのほか少ないのが、一般的なのではなかろうかと推定される。だから、自信をもって "好きなこと" を自覚し切れないというのが実情なのではないかと思えるのである。
 一昨日だかに書いたが、 "好き" というのもひとつの価値観であり、それを鋭く自覚できるためには、それなりの労を注ぐこと、あるいは "犠牲" を払うこともまた必要ではないのかと思える。それらを伴わないうちは、 "好きなこと" でさえ自信をもって自覚できないのが人の心理感覚であるのかも知れない。
  "好きこそものの上手なれ" という慣用句は多分 "正解" であるに違いなかろう。
 ただし、もう一方で "好きなこと" をしっかりと自覚することはそう簡単なことではなく、それが可能となるためには、 "好き" という感覚とは矛盾するようにも思える "苦悩" も必要なのかも知れない。そうした "苦悩" のハードルを幾つか跳び越えた時に、止むに止まれず "好き" だという自覚や、それに呼応する結果としての高いスキルが立ち現れるのであろう...... (2008.06.08)

 都会にも人間たち以外に多くの動物たちが生息している。そして彼らが生きるその気配は、ますます人間たちに安堵感を与え、癒してくれているようだ。
 中でも、自分は野鳥たちの鳴き声が好きだ。もちろん、夜明けに幾分遠慮がちに鳴く早起き鳥たちの声はすがすがしい。また、日中に戸外で耳にする鳴き声も悪くはない。
 ピーィという声で騒がしくさえ聞こえるヒヨドリにしても、ムクドリにしても、そしてスズメでもカラスでも、皆一様に "飾り気" なんぞがなくてとても良い。と言って不快感を刺激するような "乱暴さ" もなく、 "粗野" な雰囲気が "純粋さ" というか、 "一途さ" を感じさせ、都会での人間社会が持ち合わせなくなったものをそっくり埋め合わせてくれるようだから気持ちが和むわけだ。

 犬の鳴き声も、決してうるさいとは思わない。夜、近所の飼い犬が何に怯えているのか、何を威嚇しているのか知らないが、精一杯吼えているのを耳にすることがある。
 ちょいと注意を傾けてみると、一向に "利口" そうな感じがしないのである。何かを考えた末に、止むに止まれず吼えている、といった "知的文脈" が微塵とも感じられない。もちろん、何か自分が "得" をしようとする "計算" なんぞがあってのことでありようがない。むしろ、夜遅く吼えれば家人から怒られるという "損" さえあるはずだろうが、そんなことはお構いなしなのである。
 こうした "計算ずくではない" 粗野でしかないアクションが、何とも可愛いし、 "そうかそうか" と頷いてみたくもなるのである。
 散歩させられている犬たちは、その歩く姿や所作を見ても、"そうかそうか" と感じさせるものがある。地面をクンクン嗅ぎながら這って、時折、電柱や植え込みを見ると、強引に飼い主を引っ張って、片足を上げに行く。犬の、古来からの習性であることは先刻承知ではある。が、 "今どき、まだそんなことやるんだねぇ......" というような、狭い "人間本位" の思いを誘う。
 と、ふいに、そうした "人間本位" の思いに支配され尽くされている自分と、人間たちの世界がどんなに変わろうとも、何百年このかた涼しい顔してゴーイング・マイウェイを決め込んでいる犬たちとが、まるで "両極端" であるように思えてきたりする。どっちが幸せなんだろうね? という他愛無い疑問も生まれてきたりするわけだ。
 そして、つらつら考え及ぶと、現代人たちは、もはや、犬たちに限らずペットたちという存在無くしては一時も暮らせないほどに、 "心寂しい" 動物に成り果てているのだ...... (2008.06.07)

 どんな行列にでも並びたがる人がいるらしい。あるいは、モノを買うなら行列のできている店で、という心理のことだ。
 現に、事務所の近くには "知る人ぞ知る" 達人が拵えるというラーメン屋があり、失礼ながら "小汚い" 佇まいの店前で並ぶ男女をしばしば見かけることがある。並ぶことが至って嫌いな自分も、話のタネだと思い、かつて並んでそしてその "達人ラーメン" を頂いたことがあった。が、特別の美味だと感じることはなかった。
 自分が、ラーメンに関して "通" ではないのかもしれないが、その時密かに思ったのは、行列に "並ぶ" という労力を注ぐから美味だと感じるのではないか、という人間の心理についてであった。
 モノの価値というものは、その人が払った "犠牲" の大きさによって量られるとは、何もドイツの古典社会哲学者・ジンメルに言われるまでもなく了解できるところである。

 ただ、自分が行列に "並ぶ" という労力を注ぐ前から、行列ができているその店なり対象なりに "価値アリ" と感じてしまうのはどういうことなのであろうか。長い行列を眺めつつ、ああ、あの店のラーメンは "さぞかし" 美味なのだろう、と思い込む心理・心境は不思議と言えば不思議である。どうしたって、 "さぞかし" という推定・推測の上で、美味であるのだろうという価値観を想定しているに過ぎないわけだ。
 ただ、まんざらわからない理屈ではない。あれだけ、多くの人が並んでいるのだし、あそこに見える並びながら本を読んでいる立派な紳士の姿なんぞを眼にしたりすると、 "さぞかし" ではなく、 "きっと" 間違いなく美味であるに違いない、とそう思ってしまう心理はわかりやすい。

 何故こんな "ラーメン屋の行列" の話にムキになっているのかである。
 現代という時代環境の中での人々は、確実にこうした "行列効果の心理" に翻弄され切っているのかなぁ、と感心してしまうのである。
  "行列効果" といっても、何も、 "ラーメン屋の行列" のように眼に見える "行列" があちこちの街角に溢れ返っているというわけではない。 "行列" とほぼ同等だと思われる "心理的仕掛け" があちこちで稼動していると思えるのだ。つまり、何かにつけての "ランキング" というのがそれだと思うわけなのである。
 昨日書いた文章にも、<キーワードランキング>や<今日の注目の話題ランキング>という "ランキング" という言葉がまさに "キーワード" となっていたはずだ。そして、 "何々ランキング" は、ほぼ自動的に "何々" という対象にそこはかとなく価値を付与してしまうようである。多くの人々が選択しているのだから......、という "心理的仕掛け" が見事に活性化しているわけだ。
 この辺の事情は、民主主義だからとうこうというよりも、 "バンドワゴン効果" (ある選択が多数に受け入れられている、流行しているという情報が流れることで、その選択への支持が一層強くなることを指す。「バンドワゴン」とは行列の先頭の楽隊車のことであり、「バンドワゴンに乗る」とは、時流に乗るとか、多勢に与するという意味である。―出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)だと考えるべきだろう。

 人々が "自立(自律)的" な思考や判断を難しく感じるようになると、どうしても眼を外に向けて(外部志向)、そこに何らかの判断基準を探ろうとするようになると言われている。
 情報が溢れ、情報アパシーさえ発生させている現状では、人々は、 "藁をもすがる" 気分とスタイルで、 "ランキング" 結果に振り回されているようだ。
 とりわけ、 "インターネット生活" においては、 "アクセス・ランキング" というものが実利的にも大きな機能を果たしていることもあり、 "ランキング" 指標がすべてを牛耳っているかのようである...... (2008.06.06)

 本日の<キーワードランキング>の栄(は)えある第一位は、<アイフォーン(関連語:iPone ソフトバンク)>だそうである。(サイト: YOMIURI ONLINE )
 近頃は、 "キーワード検索" の普及と、それに関連してのウェブサイトにおける "SEO対策" という観点もあり、要するに "キーワード" への関心が各所で高まっている。
 自分も、マーケティング一般やネット・マーケティングへの関心から、時々、こうした<キーワードランキング>というようなサイトと記事に着目している。
 ちなみに、冒頭の<キーワードランキング>は次のように解説されている。

< ヨミウリ・オンラインのニュースとブログの話題をマッチングさせて表示しているのが、「キーワードランキング」です。
 ブログでの話題を発見するサイトkizasi.jpを開発・運営する「きざしカンパニー」のサーチエンジンが、約500万人が書いた1億を超えるブログの記事を分析し、直近24時間でブログで話題になっているキーワードのうち、YOLのニュースと関連づけされたものを表示しています。>(同上)

 そこで、<サイト: 兆し kizasi.jp>を覗いてみると、<7,247,074人が書いた166,926,072エントリー>が集計され、<今日の注目の話題ランキング>が<10分毎に更新>をかけ、その結果10位までが発表されていたのである。
 ナールホドと眺めさせてもらった。確かに "アイフォーン" も上位にランキングされていた。その関連なのであろう "ソフトバンクモバイル株式会社" もエントリーされていた。が、 "アイフォーン" は第一位ではなく第二位にずり下がっていたではないか。それで、第一位はというと、<ダークモカフラペチーノ>という代物(しろもの)だったのである。最初、自分にはそれが何なのか見当がつかなかった。しかも、その右側に、関連動画としてあの "ダーク・ダックス" のライブ光景の動画サムネイルが添えてあるから、余計に混乱させられた。
 オヤッ? これって何?  "ダーク・ダックス" が新曲でも発表して、自分の知らないところで "爆発的(?)" にヒットしたのだろうか? 考えにくいことではあるけど......。
 まるで狐につままれた気分で、自分はその<ダークモカフラペチーノ>という、人気者には違いなかろう存在の正体がにわかに気になりはじめていた。
 で、周囲をクリックし回した挙句に、これが<6月4日>に<スタバ>にて発売された<美味しい>コーヒー飲料だとわかったのであった。
 と同時に、そーなんだなぁ、と了解させられたのは、こうした<美味しい>話題というものも現在のブログ・サイトには溢れているわけなんだ、ということであった。

 ブログを楽しむ人々が、最先端のIT機器である "アイフォーン" に強い興味を寄せるのは容易に了解できることである。しかし、<美味しい>話題である<ダークモカフラペチーノ>がブログ界を席巻していようとは、実地検分してみなければ想像だにできない事態なのであった。
 だから、今のこのご時世は、 "水戸黄門さま" よろしく、ウェブ空間をスタスタ歩き回らないと、リアルタイムな世界がまるで見えなくなっちゃうってぇことだね...... (2008.06.05)

 その姿を想像するとゾッとしてしまうが、 "幸運の女神" とやらには、 "前髪はあるが後髪がない" という "目撃情報(?)" は、どうも確かであるらしい。
 つまり、 "幸運の女神" を捕獲するのは、それが "前髪" を振り乱して接近してくるところをここがチャンスとばかりに "前髪" を引っ掴んで拿捕するのが定石だというのである。一瞬、躊躇してしまい、それが通り過ぎたところで "後髪" を掴もうとしても、それは無いということらしい。
 よくも、見てきたようなことを言うものだと思うが、ナールホド、と感心させられる洞察力のあとが滲んでいそうである。

 この "目撃情報(?)" のエピソードに隠された真実はというと、 "幸運の女神" の正体は "誰にもわからない" 、ということであるに違いなかろう。 "誰にもわからない" というのが言い過ぎであるならば、 "結果論" 的にしかわからず、 "リアルタイム" でわかる者は僅少である、と言えば正解に近くなりそうである。
 似たような事情を語る格言に、 "愚者の後知恵" というものがある。言われてみて、眼前に示されてみて初めてその妙案に気づくという大多数の凡人を揶揄した言葉だ。
 ところで、この隠れた真相のさらにその下層には、より重要な事柄が潜んでいるかのように思える。簡単に言ってしまえば、 "勘" ということになってしまうが、それでは話を煙に巻いている気配が漂う。
 今少しもっともらしく言えば、対象なり、状況なりを通り一遍の客観的観察で流さず、 "主観" (ここには、積み上げた経験、体験や、意味・価値をめぐる思索の堆積がある)によって再構築・再解釈しようとする能動性だ、ということになろうか。

 こんなことを考えていた時、面白い視点で語るブログを見つけたのだった。
 <成果というのは、運を引数とする関数の戻り値>である、つまり<成果 = 実力 ( 運 )>なのであって、決して、<成果 = 運 + 実力>ではなかろう、という考察なのである。(子飼 弾『404 Title Not Found』 「成果 ≠ 運 + 実力」 http://itpro.nikkeibp.co.jp/article/Watcher/20080601/305605/
  "成果" とは、スタティックな "運" と、これまたスタティックな "実力" とを加え重ねて得られるものなんぞではない、と言う。ダイナミックな捉え方しかないはずの "運" というものに対して、さらにダイナミックに対応処理するところの "実力" が、安定したスタイルで立ち向かうことによって構成されていくものだ、とでも言っているようなのである。下世話な言い方をすれば、 "運も実力の内" という表現になるのかもしれない。

 とかく、 "運" というものは、 "既製品" や "吊るし" のように、誰が、いつ眺めても客観的で不変の存在であるかのように受けとめられがちである。しかし、実相、真相は、多々、加工されたり再加工されたりする "原材料" 的な意味合いに満ちたものなのかもしれない。だからこそ、 "ピンチはチャンス!" というような逆説的表現もまたなされるのであろう...... (2008.06.04)

 ガソリンのリッター当たりの小売価格がいよいよ200円に近づこうとしている。世界の原油価格の高騰をを背景にして、米国でも小売価格は今月中に過去最高値を付けるだろうとの予測もあり、この推移が沈静化することはなさそうだ。
 原材料費高騰の煽りを受けて食料品その他の諸物価もギリギリと値上がりし、思いっ切り悪態を吐(つ)いてみたいところではある。しかし、そんなことをしたって何の意味もなく、虚しいだけだと気づかされる。
 となると、もはや "自衛行動" あるのみ、ということになるのだろう。
 とりあえず、クルマの利用は極力避けるに越したことはなさそうだ。近所の用足しであれば、迷うことなく "歩き" に限る。また、ちょいと距離のある場合ならば、チャリンコでガンガン走れば身体にもいい。まさに、 "自転車時代到来" ということになろうか。
 が、そんなふうに意気込もうとしている矢先に、 "関東梅雨入り" 宣言だとかいうのだから、その闘志が萎えさせられる。カッパからげてチャリンコ疾走というのもやや辛かろう。まったくどこまで人を翻弄すれば済むのかと、いきり立つものの、その気持ちの持って行きどころさえないのだから万事休すである。
 しかし、やはり万難を排して "自転車時代到来" を身をもって体現すべきなのだと確信する。町田、江ノ島間を複数回往復した "実績" を作った者としては、たとえ長い坂が横たわった通勤区間だとしても、再度、チャリンコ通勤に挑むべきだと思える。
 まして、昨今は、 "禁煙" をしたためなのかやや体重が漸増しつつあり、うかうかしてもいられないわけだ。
 ただ、これから "梅雨入り" というのだから、少なくとも一ヶ月ほどは雨降りで悩まされそうだ。さてさて、どうしてくれようか...... (2008.06.03)

 日本のIT業界の問題状況を縷々分析したところで、残念ながらあまり生産的な "再生" 指針が浮かび上がってくるようには思えないでいる。
 その分析作業で析出される最大公約数的問題点が、<受託開発中心の体質と多重下請け構造>にあることは周知の事実であろう。加えて、これらを実現しているのが<多重派遣>の就業実態だとするならば、何をか言わんやであろう。
 そして、これらがすでに何十年もの "実績" を作るかたちで慣行されてきた以上、今流行りの言葉で言えば、 "メタボリック" 症候群ではないが、一朝一夕にリビルドされるものとはとても考えられない。

 ただ、変化の兆しがないわけでもなさそうである。
 根深い問題状況というものは、大抵、ボトム・アップ的に問題提起され、ライティングされるというのが世の常のようである。森の大異変をいち早く察知するのが、森の住人たちの中でも昆虫や小動物たちだと見なされているように、IT業界の "斜陽" 傾向をそこはかとなく裏書きしているのは、この業界に対する "学生たちの不人気" という残念な現象だと言えるのかもしれない。
 また、IT業界内の多くの企業がますます収益性を低下させ、その煽りを受けるかたちで、 "中小ソフトハウス" がますます苦境に陥っているという事実も目に入る。そこから、これまで以上に、<多重下請け構造>からの脱却が叫ばれてもいる。もう、 "耳タコ" 状態となるほどの叫びのような感触もあるが......。

 こうした "悲観めいた状況" にあって、一体何に着眼し注目すればよいのか、という点が関心の焦点となる。
 筆者には、かねてからソフトウェアというものへの定見(?)めいたものがあった。 "ソフトウェア、アプリなければ独り言" (c.f. "コンピュータ、ソフトなければただの箱" )とでも表現したいものであり、ソフトウェアは "アプリケーション・ニーズ" と寄り添ってこそ精彩を放つものだという確信であった。
 この観点から、僭越ながら、ソフトウェア技術者のための "人事考課" や育成方法をまで提案してきた経緯もあった。(ex.『 SE Human Assessment ソフトウェア技術者のための評価と人事考課 http://www.bb.din.or.jp/~adhocrat/index.htm
 その要点は、プログラミング能力(もっと拡大解釈して、クリエィティブな能力と言ってもいい)というものは、 "内在論理" 的視点だけで把握しようとするのはムリがあり、 "外在" 的要素、たとえば対アプリケーション能力や対人関係能力などとの緊張関係によってこそ、活性化されるものではないかと、そう想定してきたのであった。

 この観点での開発の "理念型" 的スタイルは、当然のことながら、開発主体の軸足というか体重が、システム技術的要素側面とアプリケーション・ニーズ要素側面の、その両面にかかるということにならざるを得ない。現実的な形態で言えば、あの "エンドユーザ・コンピューティング" の姿を思い起こすことができよう。
 だが、自身ではこれが "正攻法" だと確信した観点ではあったが、<受託開発中心の体質と多重下請け構造>が一般的な業界の現実の中では、システム開発=ユーザ仕様に基づくメイキング! という通念とスタイルが跋扈し続けたわけだ。
 そして、それにはそれなりの "必然的環境" があったからだと言うことは十分に可能であるに違いない。

 だが、現時点での業界周辺での環境変化は、その "必然的環境" を大きく切り崩しているとは言えないであろうか。やや長い引用となるが以下の指摘と叙述に注目したいと思う。
 筆者なりに言い直せば、 "How to" 視点と "What" 視点とを融合させる技術者たちに注目せよ! ということになろうか。

< 個人で作り,直接ユーザーに届けることができる時代
 なぜこのような「世界を変える技術者」(「アルファギーク」たち 筆者)が続々と登場してきたのか。その背景には,オープンソース・ソフトウエアやネット上のWebサービスを組み合わせるマッシュアップを活用することで,かつては大組織でなくては作れなかった大きなソフトウエアやWebサービスを個人が作れるようになったことがある。そして,インターネットにより,流通や営業を通さず,技術者個人がダイレクトにユーザーに届けることができる。
 ...... 中略 ......
 だがプログラマのツールとなるソフトウエアはともかく,一般ユーザーが使うソフトウエアやサービスなら,アイデアを出すのは別に技術者ではなくともいいはずだ。プロデュースする人間がプログラマにアイデアを伝えそれを実装すればよい。
 そのとおり。実際に創業者のアイデアを別のプログラマが実装した例もある。しかし,Googleやはてなではプログラマが自らの手でアイデアを実装するケースが多い。なぜなのだろう。
 その理由は,技術が猛スピードで進化しているから,そして,ユーザーとの対話の中で猛スピードで改良していけるものだけが生き残るからではないか。記者はそう考えている。先週には事実上不可能だったことが,今週には現実的な選択肢になる,その中で新しいものを構想していくには技術者は有利なポジションにいる。少なくとも技術に精通していることは欠かせない。そして高速でソフトウエアやサービスを進化させていくにも,プロデューサとプログラマが同一人物であることは有利だ。技術が進歩し続ける限り,そしてその進歩が急激であればあるほど,この傾向は強まるだろう。

 発信し自立する技術者がSI業界も変える
 ...... 中略 ......
 ノウハウや自作のソフトを発信することで他人をハッピーにして,同時に自分の技術力を証明する術を身に着けた技術者が増えてくれば,IT業界は変わっていくのではないかと筆者は感じている。自ら発信し自分の力を証明できる技術者は,人をコストとしてしか見ず,使い捨てにする企業にはすぐに見切りをつけるだろう。>( 高橋 信頼=ITpro 2008/04/25 http://itpro.nikkeibp.co.jp/article/COLUMN/20080424/299986/

...... (2008.06.02)

 久々の晴天で、今朝のウォーキングは爽快であった。
 が、帰路も半ば過ぎた頃、ちょっとした事に遭遇することになった。
 横断歩道の手前側で、年老いた婦人が "四つんばい" となってしまい、その脇でその年寄りを心配そうに覗き込む若い女性が付き添って座っていたのである。すぐ近くには、その老婦人がつかまって歩いていたと思われる "手押し車" が所在なさそうに立ち竦むかのように置かれてあった。
 交通事故でもあったのかと自分は懸念し、近づいてかがみながら話しかけてみた。
「どうかしたんですか?」
 すると、脇にしゃがんで座っていた女性が、顔を曇らせながら話すのだった。
「この方が、横断歩道の途中で転んでおられたので、ここまで手をお貸しして移動して来たんです......」
 その小柄な老婦人は、相変わらず "四つんばい" 状態を続け、立ち上がろうとはしている様子であったが思うようにならないようだ。両手をフニャフニャと小刻みに震わせている。顔の表情はよく窺えなかった。日焼け防止のためなのであろうか、ゴルフのキャディさんが被るような大きなつばの帽子を深々と被っていたからだ。
 自分はその老婦人に向かって尋ねてみた。
「発作でもあったのですか?」
 もし、事情によっては急いで救急車を呼ばなくてはならないと考えていたのである。
 と、弱々しく返事が返ってきたのだった。
「いいえ、ご心配なく......。時々あることなんです。体中の関節が痛んでいまして、さっきも、横断歩道の途中で足が砕けて転んでしまったんです......」
 どうやら、緊急手当てを要するような "発作" ではなさそうなのでひとまずほっとさせられた。しかし、まだ立ち上がることができないような様子であった。
「お住まいはどちらですか、送って行きますよ」
  "手押し車" につかまっても、この状態では首尾よく歩くことも難しそうに見えたので、自分はそう話しかけてみた。
 老婦人は、相変わらず気持ちは必死に立ち上がろうとしているにもかかわらず、一向に手足が思うようにならないもどかしさを続けている。が、住まいの場所を説明するのであった。
「この坂を降りて、小学校の前の信号を左に入った......」
 それを聞いて、自分は、その場所はおふくろが住んでいる場所のすぐ近辺だと合点することができた。
「じゃあ、付き添って行くことにしますよ」
と、自分はそう言った。と、その時、
「クルマでお送りしましょうか? そこに停めてありますから」
という声が飛び込んできたのだった。ふと見上げると、先ほどからの女性とは別の新たな女性が腰をかがめて覗き込んでいたのである。そして、黒の軽のワンボックスカーが交差点を曲がった角付近に停められてあるのがわかった。
 もちろんそれが一番いい選択だと思えるのだった。その地点から、お住まいの場所までは優に4、500メートルはありそうだったし、しかも、その途中には傾斜が急な長い坂が寝そべっていたからである。
 こうして、その女性ドライバーと自分とで、老婦人を乗車させることになった。老婦人を抱きかかえて乗車させたが、不自然な格好であったためか結構重量を感じたのは予想外であった。で、自分も乗りかかった舟なので、同乗して付き合うことにする。
 クルマの助手席には、その女性ドライバーの娘さんらしい幼稚園児くらいの女の子が同乗していた。何か "楽しいこと" が起こっているとでも感じているのか、自分の方向いて、挨拶代わりににっこりと笑って見せていた。
 運転中、その女性は、自己紹介代わりに二、三の言葉を口にしていた。介護関係の仕事をしているので、ご老人を乗せることが時々あるとのことであった。そして、
「いつ何があるかわからないんですから、 "お互いさま" なんですよね」
と、さりげなくつぶやく姿は、実に聡明な爽やかさを感じさせた。
 目的地に着き、その女性ドライバーたちには厚く礼を言って別れた。で、自分は、その老婦人を、同居していると聞いた娘さんに後を引き継いで、それで漸く一件落着をみることになったのである。ちなみに、その老婦人は73歳とかで、まさに全身の関節が痛む病気で病院に通っているとかであった。
 人の世は、まさに、いつ何があるかわからないものである。だから、事情が許す範囲内でできるだけのことをさせてもらうこと、特に、自分の身体でありながら思うようにはならない、そんなお年寄りに対しては、ちょいと "手を貸す" 仕草位は当然のことだと思われる。 "明日はわが身" でもあり、 "お互いさま" だというのが "ものの道理" であるに違いない...... (2008.06.01)

2020年11月

1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30          














関連サイトへのリンク


  • 電子書籍(eBooks)制作にフォーカスしたサイト
  • 明けない夜はないことを確信するサイト
  • Green(地球環境改善)にフォーカスしたサイト
  • ソフトウェア技術者やSEのための評価と育成、人事考課制度を考えるサイト
  • さまざまな業種・業態でご利用可能なモバイル活用の予約システム!
  • 創作小説『海念と保兵衛』のサイト
  • 創作小説『かもめたちの行方』のサイト
  • 当ブログ推奨の商品を展示したAmazon ストアー!
  • 当AdhocBlogブログの過去のエントリー
  • 株式会社アドホクラット当時のサイト

★売れ筋! No.1!
家庭用"放射線測定器"

日本通信 bモバイルWiFi ルータ+1 ヶ月定額SIM BM-U300W-1M
価格:¥ 20,208
国内配送料無料 Amazon





このアーカイブについて

このページには、yasuo hirose2008年6月に書いたブログ記事が含まれています。

前のアーカイブは、
 yasuo hirose: 2008年5月
です。

次のアーカイブは、
 yasuo hirose: 2008年7月
です。

最近のコンテンツは、
 インデックスページ
で見られます。

過去に書かれたものは、
 アーカイブのページ
で見られます。

年月別アーカイブ