この "日誌" を従来どおりに、いわゆる "一体型" ホームページに掲載し続けながら、同時並行的に "ブログ" 方式の "システム・コンポ" のサイトに掲載してかなりの時間が経過した。
システムに携わってきた者として当然のことであるが、ちなみに当該サイトについては、レンタル・サーバーやドメインの手配から、 "ブログシステム: Movable Type 4.1" の立ち上げ、そして使い勝手やデザインの改造までをすべて自前で体験してきた。
そして、毎日欠かさないかたちでの日誌の "エントリー" を行ってきたせいで、すっかり "ブログ" 方式には馴染んだものだ。
途中、他サイトへのリンクという、 "ブログ" のメリットについても体験するつもりで、種々のサイトのブログ記事に "トラックバック" をさせてもらったりもした。その中には、 "茂木健一郎" 氏のサイトの興味深い記事にいく度となく "トラックバック" して "承認" してもらったこともあった。まあ、どうでもいいことではあるが......。
"ワンシート、ワン案件" と称したのかどうか定かではないが、メモなり記録なりは、 "ワンシート" に複数個をごちゃごちゃと記さずに、 "単品" としておくことが良い、と聞いた覚えがある。学生時代であったか、ビジネス社会に出てからであったかは覚えていない。
確かに、そうした方式に則るならば、記された "単品" 内容が、後日様々に活用されることになる。メモなり記録なりの "再活用" がし易い、ということなのである。
これが、昨日書いた "情報の分別" という発想のスタートだというわけだ。
今、時代環境に沿うかのように "節約(Saving)" に関心が集まっている。地球の資源枯渇問題や浪費で加速する温暖化現象のことを考えれば、健全な発想だと思う。
貧窮という、 "節約" せざるを得ない差し迫った事情も当然あるだろうが、このこと自体に合理性が含まれているとも考えたい。
一昔前の、荒っぽい経済成長期には、経済成長の視点から、 "浪費" こそが美徳だとされ、 "節約" は時代遅れだと見なされ、非難されることさえあった。
しかし、客観的情勢を見ても、また人間側の主体的状況を考えても、 "節約" の姿勢という課題を今こそじっくりと吟味してみる必要がありそうだ。
このところは、差し当たって課題としてきた技術的テーマに "のめり込んで" いる。何度も書いているが、こうしたワケのわからない異常事態にあっては、右往左往するヒマがあったら、とにかくこれぞと思う対象に "のめり込む" 姿勢となることこそがベターな過ごし方だと考えてきたからだ。ベストの選択なぞは、後になってからわかるもので、リアルタイムではベターだと思えればそれでよいはずだろう。
その甲斐あってか、少し前までは濃霧が掛かったように見えなかった技術的事柄が、まるで "謎解き" でもされたかのように見えてくる。ここまで来ればしめたものだと感じたりしている。
そうなると、その "のめり込み" が決して苦にならず、まるで "ペースメーカー" のような気さえしてくるから不思議である。
昨晩、<ETV特集「作家・辺見庸 しのびよる破局のなかで」>(NHK教育 2009.02.01 なお、再放送が2009.03.01 に予定されているとか)の録画コンテンツを観た。一々、深く共感することになった。こんなにも、自身が言葉にし切れずに悶々として抱えている問題意識を、手堅く自分のものとしていた作家のいたことに "狂喜せんばかり" の感動を覚えた。
多分、辺見氏のような問題意識を、問題意識とは言わずとも問題 "感" とでもいうべきかたちで抱え続けている人は少なくないのではないかと思う。
だが、自身の思考空間の中にきちっと取り込むということが中々できないのが凡人の切ないところなのであろう。言葉という "道具" を磨き上げ、鍛え上げていなければできようはずがない。
そこは、辺見氏は "芥川賞受賞作家" であり、感性と言葉とに命がけの努力をしてこられた方ならではのシャープさだとつくづく感服させられた。
<都立高入試の開始混乱 繰り下げ連絡遅れる JR故障で>( asahi.com 2009.02.23 )というサイト記事を見て、そう言えば "都立高入試" の頃なんだなぁ、と気づかされた。
最近は何やら必死の気分が続いているためか、季節感が吹っ飛んでしまっていた。
で、二月二十日過ぎが決まりとなっている "都立高入試" に思いを寄せてみると、自分にとって二月という月は "ストレス集中月間" であり続けたのかもしれない、と思えたりした。
が、それでは忌み嫌うべき月かといえば、必ずしもそうでもない。 "ストレス" は集中したものの、それを背負い込むがんばりが奏功してなのか、まずまずの結果に至ることが多かったような気もするからだ。
四十数年前の "都立高入試" にしても、目指す高校に合格することはできたものの、入試までの一、二月の "ストレス" とそれに抗しての "追い込みぶり" は大変なものであったかと記憶している。ほかにも、この二月という時期には、過去似たようなことが度重なった思い出がある。
昨晩はウトウトとしかけたところで、とんだ "ケータイ" 騒動が起きて不愉快な思いをした。きっかけは、知人が間違い電話を掛けたことにあったのだが、問題はそれに留まらなかった。 "ケータイ" をめぐって夫婦喧嘩寸前にまで至ったのである。
自分は、PCでの通信には入念となっているが、 "ケータイ" は以前から度外視するようなスタンスでいる。
確かに便利は便利なのだが、表示画面から入力方式まで何もかもがチマチマとしていて、それがお好みではないのだ。さらに、PCならば静かに受信して大人しく待っているところを、 "ケータイ" の場合は、こちらの都合にお構いなく受信音で騒がしくするのも好まない。どうして、発信側にそこまで "優位性" を与えるのかといつも思うのだ。
それは据え置き電話でも同じことである。プライベートな空間に、なぜ状況にお構いなく外部の人が突然侵入してきて、それを当たり前のように許す、そんな常識が馬鹿げていると感じざるを得ないのだ。まして、昨今では厚かましい営業の飛び込み電話が腹立たしい。
帰宅途中の大型スーパーに立ち寄って、 "値下げされた弁当" を買って買える時がある。家内が親のケアで実家に行き不在の場合などにである。外食して済ましてもよいのだが、時間帯によっては "値引き率" が大きいこともあるため、 "もったいない精神" が刺激されてそうした選択をすることがあるのだ。
"半値" となった寿司とて、当日に調理されて冷凍設備で陳列されていたのだから、傷みようがないと思われる。それに、もし買い手がいない場合は、所定のルートに乗るのかもしれないが、むざむざ "生ゴミ" となるのでは "もったいない" ことこの上ないわけだ。
以前にも書いたが、日本の食糧事情はバカバカしい実態となっている。
"食糧自給率が4割" という低水準でありながら、「 <日本の食べ残し食品 年間900万トン(160億食分)>という事実があり、この規模は、<世界の食糧援助量 年間590万トン>の1.5倍に当たる」(c.f.当日誌 2008.10.20)という状態である。
"食べ残し食品" にはさまざまなケースがあると思われるが、ショップの店先に並び、 "賞味期限" が切れたものが相当数に上るのだろうことが容易に想像される。こうしたケースでの "食べ残し食品" の量は、極力少なくする努力がなされて当然だと思われる。この点は、こんな時期であれば、まさに国民大多数の思いではないか。
駅前などにある暗闇の駐輪場で自分の自転車を探すのは骨が折れそうだ。まして、一日の仕事を終え、ヨレヨレになっている時ならばなおさらのことかもしれない。
そんな日常的なちょっとした苦痛をリカバリーするような "マイ自転車探し" とでもいったアイディアが商品化されたとかだ。
暗闇の駐輪場で、手元の "発信器" を操作すると、マイ自転車に取り付けたランプが点滅し、ちょっとしたアラーム音も鳴るというものらしい。
昨晩のTVでのとある報道番組で、中小規模の企業がアイディアで挑戦する様子を紹介していたのである。
そのアイディア以外にも、拍手(かしわで)を打つと、天井近くに据え付けられた神棚のお灯明(ランプ)が点灯するというものや、串に刺さった団子や焼き鳥を素早く串からはずして食べやすくするお皿などが紹介されていた。
共感こそすれ、そのアイディアの素晴らしさに仰天させられるというようなものではないのである。が、値段が手頃であれば試してみようか、という気持ちにはさせられる。
"地球温暖化" によって野生の動物たちが可愛そうなことになっている事情は、最近、至るところで取り上げられている。そうしたことに "慣れっこ" になることを警戒しなければなるまい。
"他人の痛み" は感じられなくなった現代人にとって、人間以外の動物たちのことなぞに構っていられない、というのが悲しい現状なのであろうか。
そして、現在は、 "世界同時不況" という時代環境の中で、人間たちの生活苦の問題が最優先化されているかのようだ。もちろん、その問題が最優先化されるのは当然のことであるに違いない。
ただ、こんな時期には、人の関心のベクトルが、どんどん "内向き" となってしまい、その結果、 "公共的な事柄" や "基本的な事柄" などがなおざりにされやすくなる、そんな点が気になるのである。
"生活が掛かっているのだから" といういわば "反論し難い言葉" をますます多用しながら利己主義的な生き様を正当化する人たちも増えいるらしい。
「電話壊れちゃったから......」という電話がおふくろからあった。姉の家に寄ってそこから掛けているようであった。事務所で仕事中ではあったが、この類については早速何とかすべきかと思えた。何せ、年寄りの独居なので、電話が通じないという状況は考えられないわけだ。
電話器がまともであっても、たまには、受話器をはずしたままで外から掛からずに心配させるのだから、まさにまさに電話は "命綱" 以外ではないと言えた。
最近は、ほぼ睡眠中に3度の "インターミッション" が入る。要するに "トイレ休憩" とでもいうようなかたちで起こされてしまうということだ。
おかげでと言うべきか、大体一晩のうちに "三本立て" の夢を見る。確か以前にもこんなことを書いた覚えがあるが、嬉しくも悲しくも、最近はどうも常態化してしまっているようである。
よくも、全く無関係な内容の夢を三本も見るものだとわれながら感心してしまう。ただ、無関係とはいえ、傾向というか基調というかそんなものは似通っている。
一本目が怖い感じのものであれば、二本目、三本目も、大体が、恐怖シリーズになりがちである。また、不安シリーズの場合も然りである。
こうした敬遠したいようなものとなりそうだと、まさに、のんびりとした "インターミッション" を過ごしてから眠る方がよさそうかと思ったりもする。
歩道を散歩させてもらっている犬たちを見て、思わずひとり笑いを堪えた。
今どきのワンちゃんたちは、犬のくせして "猫っ可愛がり" されているものだ。自分が出会った二匹のご一行も、お揃いの "シャツ" 、野球のユニフォームをデザインしたものを着せられていた。まあ、どうということもないのだが、両腕を通し、背中や腹がそれで被われているわけである。
その時、ふと馬鹿げたことを考えてしまった。こいつらがもし人間の子どもなら、「頭隠して尻隠さず」ということになるなぁ......。 "ふりチン" の子を大いばりで往来を連れてあるくかなぁ......?
そう思うと、無性に可笑しさがこみ上げてきて、ひとり笑いを堪えるはめになってしまったのだ。ワンちゃんたちのまるで無頓着な顔つき(当たり前だが)を見るにつけ、さらに可笑しくてたまらなくなっていた。
決して他人事ではないのだが、やはり近辺を見回すと、いろいろな業者が必死の営業で仕事の確保に努めているようだ。
自宅の近所でも、 "外壁の塗り替え" 工事やら、 "家屋の増築" 工事やらの行われているのに目がとまる。こんな時期だから、必ずしも余裕があってのことではないように思われる。業者による "攻勢" がなせる業なのではないかと想像したりする。
業者とて、まったく案件がなく、遊ぶことになるよりはましと、とことん "値引き" に甘んじているのではなかろうか。わかるような気がする。
今日の陽気は一体どうしたというのだろうか。春を通り越し、まるで初夏のようでさえある。南方の空気を運んできたせいか、これまでの空気とは異なっているようだ。
瑞々しいような香りまでして、思わず自然に親しんでいた子ども時代の記憶が蘇ってきたりした。そして、こんなふうに、人を和ませるようなそんな自然が守られなくてはいけない、というようなことまで考えた。
人間界の "弱肉強食" 環境がますます悪化したとしても、それを埋め合わせて余りあるような自然界の "寛大さ" が人々を等しく包み込んでくれるならば、どんなにか救われるだろうかと......。
大したことでもないのだが、この間、懸案となっていた作業中の "不具合" がやっと解消できた。嬉しくないわけはない。ホッとした気分である。
かなり紆余曲折があり、重箱の隅を突付くようなチェックも行った。こんなことにかかずらっていていいものかという "常識的な心境" にもなったりした。
確かに、その "不具合" が何か決定的な事柄に発展するものでもなかったし、また、それが解消できたからといって、幸運な出来事が誘い込まれるわけでもなかった。
言ってみれば、 "こだわり" のひとつほどの意味しかない。だが、どういうものか無性に解決してみたいと思い続けてきたのである。
"今日の~仕事はつらかった~♪" (岡林信康 山谷ブルース)ということになろうか。朝から意気込んで取っ掛かってはみたものの、当面の "不具合" が一向に解決せず、とうとう、今日はダメか、ということになってしまった。
とは言っても、負け惜しみにあらず右往左往しているプロセスで、普段では学べないような細かい部分を検討することになり、当該システムへの理解が、結構、深まったようであ。まあ、そんなことで今日のところは我慢するかと......。
今日の休日は "疲労回復" にあてるつもりで過ごしてきた。
朝も、目覚まし時計をキャンセルにしておき、いつもより一時間ほど遅れて起きた。若い頃は放っておけばいくらでも眠っていられたものだが、どうもこの頃は程々のところで目が覚めてしまう。また、下手に惰眠をむさぼるとその日の夜が寝付かれなくなるのではないかといった警戒心も働いていそうである。
"疲労回復" といっても、ゴロゴロしていたのではかえって感が狂うといけないと思い、休日用に定めたウォーキングにも出かける。ただし、戻ってからはのんびりと入浴することにした。何やかやで久しく温泉に行こうとするような、そんな気分からも離れてしまったなぁ、なんぞと考えていた。そう思うそばから、いやいや、この寒空で野宿を余儀なくされている人たちもいるというのに、こうやって昼から入浴できることだけでもありがたく思うべきだと思い直す。
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