SNS: 2011年12月 アーカイブ

 今年の "漢字一字" が「」という漢字とされたことについて、それがもはや "失われている" 現実が広がっているからこそ、東日本大震災を契機にしつつ着目された、とコメントする人がいる。言い得て妙である。
 その視点を援用するならば、人と人との "つながり" が焦点となった "ソーシャルメディア"、これもまた、人と人との "つながり" が希薄となったり、無効、喪失しているリアル世界の現実があるからこそ、人々を "ソーシャルメディア" へと誘ったのだと言うことができそうか。

 たぶんこの視点は概ね妥当だと思える。が、ただ、こうしたネットが介在する "新しい" 形態の人と人との "つながり" の空間が "ソーシャルメディア" と呼ばれたことに関心が向く。特に "ソーシャル" という "形容" がなされた点に注意を払うこともできる。
 もっとも、そんな事どうだってイイジャン、と遣り過ごすこともあっていい。スマートフォンなどを通して Facebook や Twitter などを友人間の "つながり" のために利用する......。"ソーシャル" というのは "社交" なのだから、それでイイジャンと。




















 "ソーシャルメディア" が "人間関係・社会関係形成的" なスタンスに特徴があると考えるならば、"草の根ローカルジャーナリズム" こそは、"ソーシャルメディア" と相性が良いジャンルなのだろう、と気づかされた。
 今回レビューする "ソーシャルメディア" 関連サイト記事は、以下のとおり<イギリス全土に広がる、草の根ローカルジャーナリズム>である。

 英国だけではなく、多くの先進国で "マスメディア" としての従来からのジャーナリズムが低迷を続けていると伝えられている。
 たぶん、この日本でもこの傾向は変わらないはずで、そうした事情からか、新聞業界各社は悪戦苦闘を続ける中で、活路を見出すべく "ネット、デジタル" 領域に急速にすり寄っているかの気配がある。"ネット・コンテンツ" の "有料化" にはじまって、各種の "デジタル関連サービス" が手掛けられている。
 だが、そこでは相変わらずの "高コスト体質" と "上から目線姿勢" とが温存され続けているかのようで、決して前途は生易しくはなさそうだ。

 こうした "高コスト体質" と "上から目線姿勢" という二点は、時の経済と社会環境における、いわば "元凶" とも見なされている要素だけに、たとえ斬新な IT を駆使したとしても、それらを引き摺ったままでの業務展開はかなり厳しいと言わざるを得ない。
 こうした "マス・ジャーナリズム" に対して、"ソーシャルメディア" としての "草の根ローカルジャーナリズム" は、持ち前の "ローコスト性" と "現場目線姿勢" とが追い風となって、今後ますます注目されて行くものと推測される。

 なお、下記記事では、<草の根ローカルニュースメディアを持続させるコツ>までが興味深く指摘されている。
 <個人の趣味で管理できる程度に小さな範囲でスタートさせること、メディアから収益をあげることは当面考えず、あくまでも公益的な視点で取り組むこと>だそうで、まさに "ソーシャルメディア" の "原点的スタイル" が強調されている。
 "収益志向優先型" と思しき "ソーシャルメディア" が賑わう昨今であるが、それらが "総崩れ(?)" となった "焼け野原(?)" から、そうした "原点的スタイル" が立ち現われてくるのであろうか......。

 "ソーシャルメディア" とは人と人との "つながり(関係形成)" を本質とするものであるわけだから、"柔軟な視点" を持つならば、人間関係が展開するところであれば、何も現代世界に限られるわけではなさそうだ。まして、"スマホ" というハードウェア・ツールに "拘泥" することもないのかもしれない。

 そんなことを示唆してくれる以下のサイト記事が目についた。
 果たして、"アラブの春" とヨーロッパ中世に風穴を開けた "宗教改革(by ルター)" に類似性があるのかどうか、興味は尽きないが、それよりも、"ソーシャルメディア" の研究でこうした自由奔放な観点を導入する "フリーハンド・アクション" に意表を突かれた。と同時に、"これこれ!" という嬉しい共感を抱いた次第なのである。

 "ソーシャルメディア" と言えば、企業のマーケティングだ、やれ "効果計測" だ、いやいや "炎上" 回避だと、"セコイ!" ことこの上ないのがどこぞの国々の現状だ。
 人間の "つながり" というものをを卑しめるのも "いい加減にセイ!" と感じていただけに、"ホホ~" こういうアプローチもあったか......、と意気に感じたのだ。
 先ずは、その点だけをお伝えしたかった......。広い視野、柔軟な視点を確保しましょうよ......。

 年の瀬となると、"10大ニュース" といった話題が取り上げられるものです。今年も、確かに記憶に留められた重大なニュースがひしめき合った。
 そんな視点から下記引用サイト記事、<2011年の新語十選> に着目してみることにした。
 筆者は、<2011年を象徴する10のキーワード>の個々を振り返りながら、<これらの言葉から「日常に潜む問題点の発露」という共通項を見いだしているところです。>と叙述している。

 この<日常に潜む問題点の発露>についてである。
 確かに、このフレーズによって "一年が総括" されそうではある。<日常に潜む問題点>という観点には大いに共感できるところだ。<2011年は「変化を受容し始めた社会が、潜在的に抱え込んでいる足元の諸問題を掘り起こした」年>であったことは間違いない。つまり、人々によって注目される社会現象が、一般庶民の日常生活からかけ離れたところで起こるのではなく、日常生活と "地続き" の場所で "発露" してしまうということ。特に、<東日本大震災>がそうであったように、一般庶民をも巻き込み、犠牲としてしまうという点が、この一年というよりも現在の "危機" の最大の特徴のように思われる。
 日常生活の中に "埋め込まれた危機" が "露呈・発露" するという構図だと言っていいのかもしれない。

 ところで、"大震災" という不幸に現象は、"自然現象" であるがゆえに、<発露>したと表現しても妥当なニュアンスがありそうではある。しかし、<東日本大震災>での被害をかくも悲惨な事態にした、しているのは、今なお継続中の社会問題である "原発事故" (半ば社会現象!)に由来している点は誰もが知るところではなかろうか。
 さらに、巨大地震が何の予期もなく唐突に発生したものではないことを思えば、"自然現象" だから......、という見方にも少なからず疑問が生じるのである。
 つまり、<東日本大震災>での被害の少なからぬ側面は、"自然現象" の<発露>という表現には馴染まないと思われるのである。
 むしろ、最大限に悲惨な事態を "未然に防止" するために、潜伏し続けていた危機( "埋め込まれた危機" ?)という問題を "暴き切れなかった!" 点こそが留意されるべきかと思われるわけだ。

 持って回った言い方をしているようだが、言いたいことは、<日常に潜む問題点>は、確かに "露呈・発露" してしまったのだが、そうした表現がなされ続ける限り、今後も<日常に潜む問題点>は、"露呈・発露" し続ける可能性が高いように思う。
 <日常に潜む問題点>は、"事前に暴かれる" ことによってのみ最小限の被害で食い止められるものではなかろうか。
 そして、"事前に暴く" ことこそが、現代の知恵であり、現代という恵まれた時代環境が担うべき役割ではないかと......。
 "ソーシャルメディア" が一役買った<アラブの春>や<ウォール街占拠(Occupy Wall Street)>運動という、今年の主要キーワードの一部が示唆したのは、まさにそうした点ではなかったのかと......。

 "ソーシャルメディア" が、とかく "自然ごと"、"他人ごと" で片づけようとする思考や感性の "厚い殻" を打ち破るためのツールとして活用されて行くことを、この国この社会で思い描くことは見当違いなのであろうか......。

 これで漸く "ソーシャルメディア" への落ち着いたアプローチが始まるのだろうか。
 "ソーシャルメディア" のいわゆる "クチコミ" に対して、これまで "過剰" とも "大袈裟" とも思われる "感染力/伝播力" がまるで "独り歩き" していた感があった。それだからこそ、企業のマーケティング部門では、とにかく対応すべしとばかりに、"ソーシャルメディア" 対策に躍起となってもいたはずである。

 しかし、下記引用サイト記事によると、"Facebook" 利用者に対する調査結果によると、<人の好みが他の人にうつる可能性は極めて小さい>、<「人の好みに関しては、『仲間の影響』といったものは事実上存在しないに等しい」>、<「仲間の影響力が活発な社会的現象につながる」ということには必ずしもならない>という事実が判明したというのである。
 控え目にこの研究結果を見積もったとしても、<クチコミの力について、世間で騒がれているほど大きな影響力を示す証拠は見つからなかった>となるようである。

 とすれば、一連の過熱ぶりというのは、とかく "ニューメディア" 登場時には付き物である "便乗的風潮"、何らかのメリット・収益を目論む一翼による自画自賛的誇張だったのであろうか......。
 ただ、今回提示された研究結果は、"ソーシャルメディア" が "無力" であることを立証したわけでは決してなさそうだ。"Facebook" における "クチコミ" 効果への過剰な期待、偶像視、神話に "マッタ!" が掛かったと解するべきなのであろう。
 "クチコミ" 情報が、"人の好み" に感染的影響力を持つものではないにしても、クールな判断材料になる事実をまで反証しているわけではないからだ。また、"ソーシャルメディア" は "Facebook" に尽きるものでもない。
 そう考えると、こうした研究結果は、"ソーシャルメディア" における皮相な次元で付和雷同的に踊らされていた部分を払拭し、"地道な動き" を促進させることにつながる可能性もありそうだ......。

 もう、"ソーシャルメディア" なんぞと言った "逃げの一手、他人事三昧" はやめて、"身近な異常事態" に感覚を研ぎ澄ますべき時なのだと思う......。
 一体、現代中国の "見て見ぬ振り地獄!" ( 【動画】中国のひき逃げ。無関心な通行人。 )と何が違うのか、この国のおぞましさは! この国の "劣化" は! これで、 "紅白歌合戦" と言った "綺麗事!" で、2011年が "チャラ" というのなら、この国日本に断じて明日はあるはずがない......。

全盲女性が1千万円詐欺被害 千葉、次男と名乗る男に

 千葉県警鎌ケ谷署は24日、同県鎌ケ谷市に住む全盲の女性(74)が2回にわたり計約1千万円の詐欺被害に遭ったと明らかにした。1回目で顔を覚えられる危険がないと知った同一グループが犯行を重ねたとみて、詐欺容疑で捜査している。

 同署によると、女性は20日午前、次男(39)を名乗る男から「女性を妊娠させ、350万円必要だ」とする電話を受け、自宅近くで現金を手渡した。その後、22日午前にも男の声で700万円を要求する電話があり、同じ場所で手渡した。
全盲女性が1千万円詐欺被害 千葉、次男と名乗る男に/【共同通信】/2011.12.24

信号無視注意され殴打の男性死亡 傷害致死容疑で男逮捕

 東京都品川区のJR大井町駅前の路上で11月、赤信号無視を注意したお年寄りが殴られて転倒し死亡した事件で、警視庁捜査1課は24日、傷害致死の疑いで品川区東大井、自称会社役員山根基久夫容疑者(48)を逮捕した。

 捜査1課によると、山根容疑者は「相手の言葉に腹を立てて殴ってしまった」と容疑を認めている。

 逮捕容疑は、11月12日午後7時35分ごろ「信号、赤だぞ」と注意した小牧信一さん(77)=同区西大井=に「うるせえんだよ」と言い返し、顔を殴った疑い。

 小牧さんは地面に転倒して頭を骨折し、入院先の病院で今月20日、死亡した。
信号無視注意され殴打の男性死亡 傷害致死容疑で男逮捕/【共同通信】/2011.12.24


 いい加減にしようぜ! ニッポン! ...... (2011.12.25)

 日本国内には、<"ソーシャルメディア" の "斬新な息吹">を感じさせるアクティブな動きは何ら無いかのようだ。それとも、そうした動きを報じる "勤勉な" マスメディアも無いし、またそうした報道を求める健全な受け手もいない......、ということなのであろうか。

 この国の "ソーシャルメディア" 空間が、"切実なテーマ" を探り当てられることなく、詰まるところ "コンシューマーの一人" として扱われる環境で "大人しいお客様" たちのサロンで終わっている間に、諸外国では "時代からの贈り物" であるこのツールを、"人々の意思表示" の道具として着々と活用している様子が伝えられる......。
 今回、着目してみたサイト記事は、昨日書いたばかり(参照)の "ロシア" での "ソーシャルメディア" 利用に関するものだ。

 ◆参照 "使用目的"から見るSocialメディア/エジプト,ロシアでの利用"急増"が語るもの?!( 当誌 2011.00.00 )

 ロシアでは、プーチンが画策する長期政権が<「ロシアの冬」と呼ばれ始めた>ということらしいのだ。
 一時期は、プーチン支持が8割をも占めたことがあったわけだが、<先の下院選での不正行為疑惑>が、埋もれていた国民の不満を表面化させ、反転させるトリガーとなったかのようである。
 そして、この動向に拍車をかけているのが<交流サイト(SNS)「フェイスブック」>だと報じられている。

 "ソーシャルメディア" がどのように使用されるかは、各国の事情や文化のあり方で様々なのだろうとは思われる。また、世論や社会的空気の形成に少なからぬ影響を及ぼすマスメディアの姿勢によっても左右されることも考えられる。
 しかし、昨日も書いたように<今や、この国はどの国にも "負けない(?)" ほどの "複雑骨折的社会矛盾" に呑み込まれていながら、......>、国民・庶民の切実な声が "ソーシャルメディア" に反映されていると聞くことはほとんどない。
 この現象は、かなり "奇異" の感を抱かせもするが、この辺の事情について触れようとする者も皆無に等しい。まあ、自身の情報収集も稚拙であるため、取りあえずは "不思議だなぁ" という感想だけを記述しておきたいと思う......。
 お隣の中国では、"統制" が施された "ソーシャルメディア" が、"春" だ、"冬" だという空気を往なしているようであるが、日本と言う国はそんな "統制" がなくても、波風一つ立てることのない大人しい国、社会のようである......。

 "ソーシャルメディア" は、持て囃されている割には、"何のために使うのか?" という肝心な点がぼやけていることも少なくなさそうだ。
 つい先日も、次のように皮肉っぽく書いたことがある。

...... スマートフォンを通した Facebook や Twitter とは、"何となく......" 派が、特に話題を持っているわけではなく、今 "つながっている" という実感だけを確認するために利用しているメディア ......意外とつぶやかないスマホユーザー/"何となく暇だから"閲覧! が案外多い実情!( 当誌 2011.12.16 )

 また、最近目についた "ソーシャルメディア" 関連サイト記事においても、<ソーシャルメディアを活用するためのシンプルな三ヵ条>の、その筆頭に "使用目的" の明確化が取り上げられていた。意外と見過ごされているからなのかと見なすこともできそうである。

...... ■ポイント1:「ソーシャルメディアを通じて何を達成したいか?」明確にしよう

 あなたは、ソーシャルメディアを使って、何を成し遂げようとしていますか? たとえば、ネットワーキングや情報交換、リクルーティング、ファンドレイジング(資金調達)など、様々な目的があるでしょう。ソーシャルメディアは"ツール(道具)"にすぎません。「何を使うか?」よりも、「何のために使うか?」を明確にすることのことが重要です。......英専門家が伝授! ソーシャルメディアを活用するためのシンプルな三ヵ条/現代ビジネス - つながる!ソーシャル時代 ヒト・カネ・モノ/2011.12.22

 ちなみに、残りの二つは以下のとおりだ。

■ポイント2:"ソーシャルメディアスキル"は"ソーシャルスキル"と心得よ
■ポイント3:あなたについて、できるだけ多くの情報を発信しよう 
( 上記引用記事 )

 "ソーシャルメディア" の "利用実態" が、もっと広い視野と洞察力をもって調査されるべきなのだろうな、とつくづく思う。
 人々の注目を独占しているかのような風潮がありながら、今一つ、実際はどのように利用され、どんな点に矛盾や問題点が潜んでいるのかが分からない。
 "マーケティング" と "マネタイズ" の視点に基づくアンケート調査結果などを散見するが、とてもそれらが現時点での" ソーシャルメディア" の利用実態を代表するものだとは受けとめにくい。

 たとえば、"利用実態" を問題とするならば、当然のことながら、"利用しているユーザー" とともに、"利用していない人々" という "部外者" の動向をも併せて視野に入れて調査分析の対象とされなければ全体像を掴んだことにはならないはずであろう。
 "利用していない人々" の中には、"喰わず嫌い" ばかりではなく、何らかの理由をもって "拒絶" している人もいないとは限らないのではなかろうか。現状の "ソーシャルメディア" の水準をもってすれば、"拒絶" されても致し方ない実態に留まっていないとは言い切れないような気もする......。
 しかし、そうした "部外者" の存在を視野に入れた調査にお目にかかったことはない。専ら、"内向き" のユーザーたちの主観的思いなどだけが照らされているかのようだ。

 もともと "ソーシャルメディア" は "セミ・クローズド" な空間特性を持っていて、それだからこそ果たす特殊な役割もあるはずだろう。決して "閉鎖性" に傾くから悪いというものでもなかろう。もっとも、"蛸壺化" の危険に気づかずに運用されているケースも少なくなさそうではあるが......。
 いずれにしても、"ソーシャルメディア" は人と人との "つながり" を担うものだとすれば、"つながり" という言葉を "絆" と言い換えても問題なさそうである。
 したがって、"ソーシャルメディア" とは、"閉鎖性" に傾きがちな、人と人との "絆" だと言ってもあながち間違いではないと思われる。

 さて今回、下記引用のサイト記事を取り上げた理由は、"ソーシャルメディア" に関する以上のような問題意識があってのことなのである。
 今年は、不幸な "大震災" という経緯から、われわれは人と人との "絆" というものを考えさせられた年であったことは疑いないところだ。
 ただ、日頃、"ズタズタに切断された人間関係""排除型社会"!)のただ中での生活を強いられているわれわれが、いざ、人と人との "絆" へと目を向けた時、そこに浮かび上がってくるのは、身近な "家族" であり "地域" や "仲間" 、要するに "身内!" ということになりがちであろう。それはそれで尊いことではあるに違いない。

 だが、"絆" という言葉が掛け声となる状況というのは、"絆" と支援とを "緊急に必要としている人々" が想定されている点が重要であろう。
 ところが、<「絆」が必要な人というのは、どうしても流動的で、不利な状況に置かれがち。つまり、人とのつながりがつくれない状況になってしまう。>(下記引用記事)というのが現実であり、事実上 "排除" されているかのごとくではなかろうか。
 そして、<そのときに「絆を取り戻しましょう」と言うと、もっとも流動的で不利な人々を「見えない」状態にして、内輪で仲良くできる人たちが地域の担い手として可視化されてしまうわけです。
 そうした状態は「絆 格差社会」とも言えるのではないでしょうか。本当に助けが必要な人たちを、シャットアウトしなければ生まれない絆。
>(下記引用記事)でいいのだろうか、という疑問も湧いてこよう。
 そこで、<そうした状況を変えていこうとすれば「できる限り仲のいい人たちとつながりましょう」ではなくて、「知らない人だけど困っている人がいれば声をかけましょう」でなければいけない。>(下記引用記事)という呼び掛けがなされることになる。
 たぶん、こうした呼び掛けは概ね賛同が得られるところではなかろうか。

 ところで、ふと振り返ってみると、人と人との "つながり" 方において、<「できる限り仲のいい人たちとつながりましょう」>というのは、"ソーシャルメディア" の基本姿勢ではなかったかと思い当たるのである。
 <もっとも流動的で不利な人々を「見えない」状態にして>( "圏外"!)までそうしているかどうか、それは別にしてもである......。
 日頃、"ズタズタに切断された人間関係" のただ中での生活を強いられているわれわれが、人と人との "つながり" を切望することは、きっと十分に許されることであろうとは思う。
 だが、その選択が、決して<もっとも流動的で不利な人々>を、"つながり" の "圏外"!に追いやっていない、"排除" していないと言い切れるほどに "ソーシャルメディア" は成熟しているのだろうか......。

 <一般消費者と企業活動などを有機的に結びつける「民間のクチコミの場」>である "ソーシャルメディア" に、第三者の投稿者を装って広告主に有利となる主旨の投稿をさせる、いわゆる "やらせ" や、それをビジネスとする "やらせ代行業" など(ステルスマーケティング)が横行している。

◆参照  ソーシャルメディアを欺く"やらせ"工作を許すな!稼げれば何でもやる破廉恥さ!( 当誌 2011.12.13 )

 どうやら、一般消費者にとって迷惑なこうした事態を "消費者庁" は監視をし始め、"牽制球(?)" を投じたようである。と言っても、下記引用記事のごとく、間接的な対応であり "姿勢の表明" の域だと思われる。
 もっとも、本来的に考えれば、「民間のクチコミの場」である "ソーシャルメディア" に<役所の介入>というのも、決して歓迎すべきことではなさそうにも思われる。
 "ソーシャルメディア" の本来からすればできることなら "自律的" に制御されることが望まれるに違いない。つまり、"消費者保護" の名のもとに役所による "過保護" 対策を期待するのもどうかと思われるからだ。

 それならば、自然発生的な "炎上" もどきが "抑止効果" を肩代わりする方が、"自律的" な姿かとも思ったりする。別に、それを煽るつもりではないが、真相が判明した場合に、欺かれていたユーザーが "その憤りを表明" するのはむべなるかなと思うわけだ。
 賢明な広告主企業であれば、それこそが "避けるべきダメージ" だと判断するはずであろうから、妙な "やらせ" を使うリスクを引き受けようとはしなくなるはずだろう。もっとも、ここでもまた "炎上代行業" なんぞがのさばり始めないとは言い切れないのがこのご時世の見苦しさかもしれないが......。

 "ソーシャルメディア賛歌" の風潮は、時として、このメディアがリアル世界での<人間的なつながり>を極端に変質させるのではないかとの危惧の念を抱かせたりもするようだ。だが、結局、皆 "リア充"(リアル世界の生活が充実していること、人)やその延長としての実ある<人間的なつながり>を志向しているようだし、その発想を軸足にしながら "ソーシャルメディア" とつき合っているようである。

 下記引用記事は、改めてそんな "当たり前の事実" をクールに伝えているかのように感じさせた。

つまり、何も変わってなどいなかったわけだ。どれほど熱心なFacebookユーザーでも、本当に親しい相手の数は依然として限られているのだ。「情報伝送のコストが非常に低くなっているため、われわれはより多くの知人と接触するようになっている。しかしそれは、われわれがよりたくさんの友人を持っているということを意味するわけではない」>(下記引用記事)

 <本当に親しい相手の数>が相応に限られているという点が示唆するのは、"(能力)等身大としての人間的なつながり"、すなわち "リアル世界と変わらない人間的なつながり" が希求されているという事実ではないかと了解できる。
 いわゆる "ネトゲ廃人" 的に "ソーシャルメディア" に "のめり込む" ユーザーがいたり、そうした彼らが "ネット上での友人数" を過大評価するケースもないではない。しかし、そうしたケースを "ソーシャルメディア" ユーザーの最大公約数だと見なすべきではなさそうである。

 問題なのは、過剰とも思われるほどに "ソーシャルメディア賛歌" を演出して、その事によってマーケティング効果のみを上げようと目論む風潮なのかもしれない。昨今の動きを見ていると、この風潮が "目に余る" 印象を受ける......。
 その場合、それに "迎合(?)" してゆくユーザーが、"ソーシャルメディア" の潜在的可能性を自ら貶(おとし)めてしまうという残念な結果に至ることはあり得よう。
 まあ、この辺の推移・動向は、まさしく "ソーシャルメディア" ユーザー自身の振舞い方自体に掛かっているはずに違いない......。

 米国のニュース雑誌タイム "Time" では、その年もっとも活躍した人物や、世界に影響を与えた人物を「今年の人」/"Person of the Year"として選出して来た。そして、2011年の「今年の人」は、特定の個人ではなく、抗議活動(デモ)の参加者を意味する "The Protester(「抗議者」)" が選ばれたという。<中東の民主化運動「アラブの春」や、反格差社会デモ「ウォール街を占拠せよ」など世界各地のデモに参加する「抗議者」>(下記引用記事より)のことを指すようだ。
 2006年には「あなた」"You"が選ばれ、ブログやSNSなどの台頭で個人の情報発信者が主役だったことを意味し、去年2010年はフェイスブックの創始者が選ばれているそんな文脈を見ると、現代という時代に影響を与え続けている "ソーシャルメディア" の存在がいよいよ鮮明となってきたという印象が強い。

 だが、世界のこうした "率直なアクション" とそれへの賛同に比べて、やや気になるのは国内の "煮え切らない(?)空気" だと言うべきか......。問題の焦点は、"為政者" たちの体たらくだと言っても虚しい。そんなことは分かり切った事実だからだ。
 むしろ、彼らを "使い切る" ことができないわれわれ側の "力不足" なのだと考えた方が妥当ではなかろうか。ハイエンドのIT環境を "ソーシャル・グッド" に向けて "使い切れない" のと同様に......。
 つまり、世界各国と同じインフラ環境を持ちながらも、一向に "最悪の現状" に対する「抗議者」としては立ち上がれない、そんなわれわれこそがちょっと "変わり者" ではないかと......。この国だけが "別天地" ならまだ話も分かる。
 しかし、"別天地" は "別天地" でも、今や世界最悪の "別天地"(№1 債務国!)なのであり、その現実的な財政破綻が刻々と迫っているにもかかわらず......。

 価値観の多様化、価値の相対化という "泥沼" 環境では、"ああ言えば、こう言う" 式のリアクションが充満していて、自己主張一つ難しくなっているのかもしれない。まして、エスタブリッシュメント(既存体制)への "抗議" なぞは "圏外!" 的出来事なのかもしれない。
 であるからこそ、"The Protester(「抗議者」)" が秘める希少価値が、"ストップ高" へと上りつめているのであろう......。

 Twitter や Facebook は、スマートフォンとの親和性が非常に高い点は頷ける。そして、両者に共通する点は、何と言っても "手軽な操作性" のはずであろう。
 また、それゆえに、"何となく使ってみる" とか "何となく暇だから閲覧してみる" とかのユーザーが少なくないのでは......、と推定されても不思議はない。

 下記引用の記事では、スマートフォンを通した Facebook や Twitter などの利用においては、意外と "書き込み、ツイート数" が少ない現状が伝えられている。それと同時に、注目したいのは、<閲覧だけするユーザーも増えている>点、<「何となく暇だから」閲覧のみをする隠れユーザー>について指摘されている点である。

 別に、"何となく......" が悪いなどというつもりはない。ただ、そうした "何となく......" 派(?)が少なくないという事実は、一体何を意味するのかが気になるだけである。
 また、勝手に決めつけてはいけないが、"1~2回/1日" のユーザーにしても、"何となく......" という色彩が強いのかもしれない、と思わされてしまう。
 となると、スマートフォンを通した Facebook や Twitter とは、"何となく......" 派が、特に話題を持っているわけではなく、今 "つながっている" という実感だけを確認するために利用しているメディアだ、と理解することもできるという点なのである。
 これは、まさしく、一時期の "ケータイ""つながり確認" のためだけ(?)に利用されていた様子と、全然違わないと、改めて感じたのである。

 ひょっとしたら、Facebook や Twitter などの "ソーシャルメディア" とは、自身が "仲間" と "つながっている" 感覚( "つながり感"? )を持つための、あるいは、"つながっていない(=圏外!)" ことから来る不安感、恐怖感を打ち消すための "おまじない(?)" みたいなものなのであろうか......。

 "ソーシャルメディア" が多方面で注目され、関連する話題がメディアを賑わしているのは周知の事実だ。時代と社会全体が、いろいろと問題含みだらけであるだけに、せめて"ソーシャルメディア" のジャンル位は華々しくあっても良かろうとは思う。
 だが、"スポットライトの眩しさ!" ほどに、現実の実態も全面的なアクティブ状態なのだろうか? 普及の進展具合についても気になる。実態はどうなのか、なのである。

 確かに、"ソーシャルメディア" ジャンルで、個別企業の "瑣末なアクション" を伝える記事は、日毎ネットを埋めてはいる。しかし、それをもってアクティブ状態だとは到底思えない。大半が "枯れ木も山の賑わい" のようなマーケティングニュースであり、そんなことは、"ソーシャル" 内で勝手にやったら? と思ってしまう。
 自分としては、より関心を傾けたい対象であれば、その分、より "辛口" となりたいし、"慎重な視線" を向けたいと思っている。とかく、新しい技術動向に関しては、それを "儲けの材料" にすべく過剰な "御用提灯" を振りかざす風潮が付きまとうからだ。
 だが、どうも現状は "御用提灯" の明かりばかりがやたら "眩しい" といった気配が否めない......。

 そんな観点からすれば、下記引用のような "辛口" 記事に若干関心を持った。
 要するに、吹聴されているほどに日本での "ソーシャルメディア" の普及は順風満帆なのか? という "慎重論" なのである。
<「フェイスブックは話題になったとはいえ、国内利用者は500万人程度ですでに成長鈍化の気配が見える。ミクシィも月間ログイン利用者数が1500万人程度で長らく停滞している。このように日本ではソーシャルメディアの普及が進まないため、その影響力が一部の層に限られている。それゆえ、海外のようにソーシャルメディアが社会的なインパクトを与えられず、炎上などスケールの小さな事件ばかりがクローズアップされてしまっている」>(下記引用【 記事 1 】より)

 ちなみに、ここで挙げられた利用者数の "数字" に関しては【 記事 2 】による補足修正が必要かとは思われる。特にフェイスブックの普及伸長については相応に見るべきものがありそうだ。
 だが、【 記事 2 】でも、次のように<訪問者数の計測方法>の未確立な現状が指摘されている。つまり、残念ながらそれが日本の "ソーシャルメディア" の現状を象徴しているかのような気配だ。

<各サービス事業者は多くの資料で企業にアピールしているが、主要なデータの1つである訪問者数の計測方法さえさまざまで、事業者側から出ている数字はいわば「主催者発表」のようなものといえるかもしれない。>(下記引用【 記事 2 】より)

 そうしてみると、なおのこと "慎重論" に耳を傾けても良さそうかという気にさせられるわけなのだ。
 ここでは深追いを避けるとして、一点だけ注目しておこうと思うのは、<思ったようにソーシャルメディアが普及しないのは、ネットの匿名文化が根強いせいかもしれない。>という点だ。
 "ソーシャルメディア" の普及と発展と、"匿名性-実名性" という問題は、今後さらに議論を煮詰めていくべきテーマであるのかもしれない。おそらく、"ソーシャルメディア" の "ソーシャル" としての "可能性" は、より本質的なテーマである "人と人とのつながり" の内実を問うことなしには飛躍的に展開はしないのではないか、という気がしている。
 ともかく、今現在、日本の "ソーシャルメディア" 状況が "不完全燃焼" 状態にあるとするならば、ニューメディアという "器" だけに過剰に依存し、また "数字" だけにこだわり、それでいて避けられない "質的側面" の課題には踏み込んでゆかない、そんな安直さがネックになっているのではないかと危惧させられる。
 口幅ったい言い方をすれば、"ソーシャルメディア" を支えるものは、テクノロジーであると同時に、"文化、カルチャー" なのであり、後者を見て見ぬふりをしていたのでは空転はまぬがれないような気がしている......。

 ちょっと "めげそうにもなる" 数字かもしれない。
 当事者は、薄々感づいてはいるのだろうと思われるが、それにしてもTwitterで送信されるツイートの71%は無視されているというシビァな現実はどう受け留められるべきなのだろう?

 所詮、"ソーシャルメディア" とは "仮想社会" なのさ、と割り切ってみるのも一つではあろう。つまり、"仮想社会" ではあっても、それに向かって自身が何を "つぶやく" かが焦点なのだ......、と。レスポンスを期待しない発信......?
 それにしても、"スルー" される確率の高さを知りながら "つぶやく" には相応の "根性(?)" が欠かせないということか......?
 いや、それよりも改めて、"ソーシャル" とか "つながり" とかの、その内実や意味が気になってしまうのである......。

 【 記事 1 】の事実はそれとして、【 記事 2 】の現実は如何なものだろうか?!
 そもそも、"官僚機構" は「知らしむべからず、依らしむべし」のスタンスを本領として来たと言われるから、ホンキで情報を伝えようとしているのかさえも疑わせる......。
 手弁当で実施しているのではなく、税金で賄っているのでもあるし、"国民の理解" をそれこそ "フォロー" するスタンスに徹しなければならないのではなかろうか。"スルー" される確率の高さを知っての現状であるとするならば呆れ返る! と。

まあ、こうした "欺(あざむ)き("やらせ")" は予想されていたことだとは言え、非常に残念であり、憤りを禁じ得ない。適切な対応がとられなければ、数多くの "ソーシャルメディア" 自体の信頼性が "疑念" の霧で損なわれるからだ。

 ふと、思ったことが二つほどあった。
 一つは、"ソーシャルメディア" という "柔らかく温かい空間" は、それゆえに他のメディアにはない "可能性" を秘めていると同時に、同じ理由によって "種々のリスク" をも抱え込むことになっているという事実。
 その "リスク" には "セキュリティ" に関するものも侮れないが、今回のような "やらせ" という "欺き" は、いわゆる "ソーシャル・エンジニアリング"( ※注.1 )に類するものと解釈できる。つまり、同じ "人間関係=ソーシャル" 上において、"悪玉ソーシャル" エンジニアリングが、"善玉ソーシャル" メディアを欺くという、実に "破廉恥" な構図を作り出すわけなのだ。

( ※注.1 )「ソーシャル・エンジニアリングとは、人間の心理的な隙や、行動のミスにつけ込んで個人が持つ秘密情報を入手する方法のこと。ソーシャル・ワークとも呼称される。なお、今日喧しいフィッシングやスキミングは、行為自体はコンピュータ内で閉じているが、人間心理的な隙をついている点では同様である。」(ウィキペディア)

 もう一つは、"ソーシャルメディア" 利用者同士の "リテラシー" 向上がますます必須となっているという点である。こうした "人間関係=ソーシャル" 上の "欺き" を最小限に抑えるテクノロジー面での工夫はあったに越したことはない。だが、最も必要なのは、"欺き" をそれとして "見破る" 感性や賢さではないかと思う。そして、当該の "工作者" に対して厳しく迫るなり、痛打を浴びせるなりの毅然とした態度が、"ソーシャルメディア" 自体を育てることになるのだと思う。
 要するに、自分の "稼ぎ" だけのために "仲間たち" を "売る" マネをする "悪貨""良貨" を駆逐させてはならない! ということだ。それが一つの重要な "リテラシー" ではなかろうか。

 「ウォール街を占拠せよ!」がスローガンの "ウォール街占拠運動("OWS = Occupy Wall Street")" は、マスメディアによる報道は下火となった観があるものの、静かに、かつ根強く継続しているようである。

 ところで、この「ウォール街を占拠せよ!」という文字面を見つめていたら、唐突に、「自分の居場所を占拠せよ!(Occupy your place!)」という幾分アホくさい言葉が浮かんできたりした......。
 「ウォール街の占拠」も決して容易ではなかろうが、最も小さな、等身大の問題である「自分の居場所の占拠」とて、侮(あなど)りがたく難易度の高い問題かもしれない......、と。
 正確には、「自分の居場所の確保」となるのかもしれないが、"確保" というような生易しい問題かぁ? という疑念が「占拠」という言葉に辿り着かせた一つの理由かもしれない。

 今や、「自分の居場所」問題は、予約席などを "確保" するような安直さからは遥かに遠ざかり、「ウォール街の占拠」並みにひどく困難な様相を帯びていそうに感じたのである。腰を据えて、闘争心(?)をも駆り立てて、"占拠スルゾ!" といった位の構え(いや、正確に言えば、"占拠スルゾ!" ではなく、"占拠されている現状を覆すゾ!" となりそうだが)なくしては叶わない難問中の難問に格上げされてしまったのではなかろうか......、と。

 もう一つ、「占拠」という "物騒な言葉" 響きを持つ言葉をよしとする理由は、決して "過激" 志向からではないのである。たぶん、これは「ウォール街を占拠せよ!」というスローガンの主旨も同様かと推測するのだが、いわば "イロニー(皮肉)" なのである。つまり、「現状のウォール街こそが "占拠された状態" にある!」という事実判断を浮かび上がらせるための "レトリック" だということだ。
 「自分の居場所」問題に関しても、多かれ少なかれ現状が「"占拠された状態" にある!」事実、それを自覚することからスタートするべきではないかと思えるわけである。だから、「自分の居場所を占拠せよ!」とまで言ってみるべきなのだ、と。
 時代環境は決して "win & win" のような高尚さなんぞはなく、"ゼロサム (zero sum)" 原理そのままだと言えよう。むしろその原理が増幅されてもいるはずだ。「自分の居場所」問題についても、決して自然現象なんぞではなく、こうした社会的文脈で生じている以上、これを踏まえて迫らなければならないと思われる。

 このご時世には、"「自分の居場所」難民" が、ちょうど "facebook" のユーザー数ほどの数、何億人といそうな気がしたりしている......。それと言うのも、"facebook" を筆頭とした "ソーシャルメディア" というものは、大胆に言えば "「自分の居場所」探し" の累積的結果ではないのかと独断的に推測をするからなのである。
 企業活動にしたって、痩せ細って行く売上で脅かされる「自分の居場所」を何とか補強したいとの意向で "ソーシャルメディア" 対策を打っているに違いないワケであろう。

 現在、"ソーシャルメディア" には "過大・過剰" な期待が寄せられている。それはそれで良いとしよう。筆者自身も少なからぬ期待を抱いている。
 だが、警戒すべきは、"ソーシャルメディア" という、より "進化" した "テクノロジー(技術)" 的事象が、あたかも社会的矛盾のすべてを自動的に解決して、"社会の進歩" を自動的に切り拓くとする "能天気さ(楽観論)" が罷り通ることかもしれない。

 もちろん、そんなこと(技術の進化が社会の進歩を自動的にもたらすという幻想!)はあるはずがないのだが、時としてわれわれは、"幻想" に傾いてしまう。特に、"中立" を表看板にしたマスメディアなどが、ちょっとした "匙加減 ?" をするならば、"盲信的" な "ソーシャルメディア(technology)信者" となってしまったりする......。
 つまり、どんな "社会環境" にあっても "ソーシャルメディア" とその周辺の事態は、"中立" でさながら "白馬の騎士" だと信じ込み易いわけだ。

 ところが、この世界に "中立" が保証された存在なぞはあり得ないと言うべきであろう。あるとすれば、"中立であれ!" と迫る人々の声によってかろうじてその "近似値" が整う、という程度であろうか。
 簡単に言えば、<FacebookやTwitterはいま、自らのサービスが社会の民主化を維持・促進するツールであると主張するかもしれない。だが、これらの企業はなんと言おうとも私企業であり、営利追求に関心をもつ法人>(下記引用記事)なのである。
 置かれた社会環境や、社会的文脈に応じて、"フリーハンド" の行動選択が可能だということなのである。

 下記の引用記事は、この辺の事情について例を挙げながら "警鐘" を鳴らしている。結構、勇気のある行動だと思える。少なくとも、日本国内では、"現状追認!マスメディア追従!支配的空気迎合!" に呑み込まれて、今や "お犬様 ?" のようなステイタスにあるかもしれない "ソーシャルメディア" に苦言を呈する者はいない......。哀しいかな、これでは "ソーシャルメディア" の可能性はスポイルされ続けるに違いなかろう。
 "ソーシャルメディア(technology)" への関心と視野は、その内部に閉じこもるだけではなくて、"ソーシャルメディア(technology)" 自体を "予断なく、批判的に" 見つめていく必要のあることを感じさせられた。

 欧州最大のITサービス企業である仏Atos社が、社内の電子メールを近く廃止するとのことだ。一言で言えば、 "生産性を阻害" している、ということになりそうだ。(下記引用記事【記事 1】)
 また他方には、すでに米国の若い世代の間では、ソーシャルメディアの普及で電子メールは少数派だとも言われてもいる。<『YouTube』や『MySpace』といったユーザー作成コンテンツ(UGC)>を媒介したコミュニケーション・スタイルへとシフトしてきたということなのであろうか。(下記引用記事【記事 2】)

 言うまでもなく、その根拠はまったく異なるにしても、一時はビジネスでもプライベート事でも重宝がられた電子メールが、今や鬱陶しい(?)ものと蔑まれつつ、まるで "挟み撃ち" を喰らっているかの印象である。
 確かに、電子メールにおける "メール" は、ソーシャルメディア時代にラインアップされた他のメディアに比較すると何かと "手間がかかる"。発信者のもとでの文章作成作業から、受信者側での処理(読み込み作業)に至るまで、そういうことになる。この点は、ビジネス、プライベート事の両極に共通しているのかもしれない。

 で、その "手間がかかる" という内実に踏み込むと、ひょっとしたら "手間" というよりも "思考作業" が厭われている気配が無きにしも非ずか? "文章" の作成と読み込みとは、"思考作業" そのものだと考えられるからだ。
 ビジネス場面での、<論点や質問がいくつも込められた、考え抜かれた入念な電子メール>(【記事 1】)というくだりにはそれが書かれているはずであろう。
 この辺に配慮すると、"生産性の向上" を目論んでいながら、経営に不可欠な "思考力" を軽視することにつながりはしないかと気になったりする。

 また、若い世代の "コンテンツ媒介"(感情の共有!)のコミュニケーション場面では、確かに "SNS" が "同好の仲間" で構成されることが一般的なので、煩わしい "文章=思考" のプロセスは割愛可能となるはずだ。
 しかし、もちろん、世界は "同好の仲間" ばかりで構成されているわけではない。価値観、感性が "異質" な他者たちと切り結ぶ場面は避けても避けられない。その時、それがすべてではないが、"文章=思考" のプロセスをも必要とすることが十分に考えられる。こうした懸念が次の部分にも表現されている。
<しかし、真の疑問は、こうしたティーンエージャーが就職して、電子メール中心の職場環境に入った時に、オンライン・コミュニケーションの姿がどのように変わるのかということだ。>(【記事 2】)

 電子メールの "人気や処遇(?)" に、こうしたことまでこだわることはないのかもしれない。が、まるで "ババ抜き" の "ババ" のような "偶発性" として見られているかもしれない "炎上" 事件なども、"文章=思考" プロセスが軽視された結果だと読めないこともない......。
 ついでに書き添えておくと、電子メールの "ステイタス低下" 傾向が、"電子書籍" においても訪れないとは決して言い切れない点である......

 書き手自身の "視座" が見えてこない情報ほど "つまらない" ものはないと思う。ところが、ウェブ上には "視座" 無き "料理"(="生の食材"?)の類の情報が氾濫している。
 "つまらない" 情報というものは、読み手側の理解力に関係なく、読み手に何事をも感じさせない、考えさせない、という共通した特徴がありそうだ。まあ、他人ごとではなくて、自身の悩ましい課題でもあるのだが......。

 いや別に "小説" に限った話をしているわけではない。ニュース・報道記事を含めた、ウェブ上で目に触れるあらゆる情報についてである。
 ジャンルを問わずニュース・報道記事は "客観的" でなくてはならないとされるが、その真意は、決して "視座" もなく無味乾燥のデータを羅列せよ、と言っているのではないはずであろう。
 読み手側にももちろん "視座" があるに違いないわけであり、少なくともそれに "スパーク" する位の書き手側の "視座" はなくては "話にならない" と言いたいのである。

 ところが、特にマスメディアの情報はこの "話にならない" ケースが多い。たぶん、"客観的報道" という "あたり触り無さと怠惰さ" とに徹するあまりのことなのであろう。どんな文脈において何を伝えようとしているのかの迫力ある文脈が伝わってこないから退屈なのである。そこにあるのは、人間の下劣な好奇心文脈だけのようだ。"犬ではなく人が噛めばニュースになる" 類に、無難に照準を合わせているかのごとく......。いや、マスメディアの情報なぞはこの際措いておくことにする。

 問題は、書き手側が自身の "視座" を持っている、いや意識できているかどうか、だと思われる。井上ひさしであったか、作文(文章を書くこと)の要は、"自分でなくては書けないことを書くこと" だ、と解説したが、とりあえず書き手の "視座" の原型はそれであるに違いなさそうだ。
 ところが、難しい問題はこの次にある。ブログなどの場合は、"自分でなくては書けないこと" だけを "無媒介に" 書いていても、決して "シェア(共有)" は望めないという事実。"誰も、相手にしない!" という現実に見舞われるからだ。この点は、"ソーシャルメディア" 全般にも共通しているはずであろう。
 かと言って、より多くの者が関心を寄せる話題を追っかけていたのでは、"誰でもが書ける" 文章、ただ "虚しい!" ブログに墜してしまう......。先日も、そんな感想を吐露していたブログ記事を目にしたことがあった。また、"ソーシャルメディア" 関連調査結果からは、この辺のビミョーな空気が何となく伝わって来たりもする......。

 大袈裟に言えば、これは、何もブログを書くことに限られたことではなく、自己と他者との関係の中でしか生きられない人間の "原理原則" 的テーマなのであろう。
 ここから、自身の "視座" の模索と吟味・彫琢との "旅" が始まるのだと感じている。また、"ソーシャルメディア" とは、そうした自身の "視座" と他者の "視座" とが交差し、切り結ばれる空間ではないかという印象を持っている。

 下記引用の佐々木俊尚氏に関する記事は、こんなマジな思いを書かせるだけの "視座" スパークのエネルギーを持っている......。

 下記のように書いた先日の続きとなる。
< "ソーシャルメディア" としての "YouTube" の活用についてはもっと関心を向けたいものだと意を強めている。
 とにかく "YouTube" の人気は、"ソーシャルメディア" の中でも群を抜いている。観る閲覧者側も、アップロードする側も共に桁外れのようだ。
YouTubeは世界で2番目の検索エンジン 毎秒、24時間分のビデオがYouTubeにアップされている>( "YouTube"サイトのプレゼン動画:"Social Media Revolution"が説得力ある理由!( 当誌 2011.12.04 )

......事実を共有したいというより、感情を共有したいのだ......人々はしばしば、強い感情を他者と共有することで、結びつきや連帯感を深めるということ......>(同上)

 とかく "溢れる文字" で閲覧者各位を閉口させているに違いない自身への戒め! と同時に、情報の "共有" に基づく "つながり" を核とする "ソーシャルメディア" としては、その "有効性" が高い "動画(ビデオ)" を活用しない手はなかろう、という思いが募る。それが正直な印象である。
 ただ、言うまでもなく "動画(ビデオ)" コンテンツ作りには、文章化作業を上回る手間とコストがかかる。それが最大のボトルネックであるが......。

 先ず、改めて "YouTube" の利用頻度を数字的に確認しておくと以下のようになる。たぶん、このステイタスはより高まることはあっても崩れることはないと思われる。人間にとって盤石かと思われる "感情の共有" 志向があり続ける限り......。

 "ソーシャルメディア" としての "YouTube" の活用についてはもっと関心を向けたいものだと意を強めている。
 とにかく "YouTube" の人気は、"ソーシャルメディア" の中でも群を抜いている。観る閲覧者側も、アップロードする側も共に桁外れのようだ。
YouTubeは世界で2番目の検索エンジン 毎秒、24時間分のビデオがYouTubeにアップされている>(下記「ソーシャルメディア革命3【日本語字幕版】Social Media Revolution3」)

 もちろん、ただ "動画(ビデオ)" であればいいというものではなく、閲覧者側の心に共鳴するものでなくては "スルー(埋没)" することは必定であろう。何しろ<毎秒、24時間分>のアップ量があるのだから......。
 動画メディアの性格から言えば、やはり "感情" に訴えかける点がポイントとなりそうな気配である。良し悪しの評価以前に、それが実態のようである。
 以前にも、次のような "感情の共有" に関する記事を書いたことがある。つまり、"ソーシャルメディア" での一つ必須条件である "共有 = 結びつき" は、"感情の共有" という側面に負うところ大! という話題であった。

< 人気動画が拡散する理由......それらが身体を興奮させ、さまざまな生理学的変化を引き起こすこと(「覚醒的な興奮状態」)に原因がある......このような興奮状態にある人は、情報を共有しようとする傾向が格段に高まること......事実を共有したいというより、感情を共有したいのだ......人々はしばしば、強い感情を他者と共有することで、結びつきや連帯感を深めるということ...... ><人気動画が拡散する理由>人々は事実の共有より感情を共有(連帯感)したがる?!( 当誌 2011.08.27 )

 現代が "情報過多" であるがゆえに、いわば "駆け込み寺" さながらに生まれ普及したのが "ソーシャルメディア" であろう。しかし、それでもなお、人は "情報洪水" さながらの状況で "情報迷子" になりがちの状態だ。
 そこで昨今ますます注目されている発想が "キュレーション" だ。

「キュレーション【 curation 】 無数の情報の海の中から、自分の価値観や世界観に基づいて情報を拾い上げ、そこに新たな意味を与え、そして多くの人と共有すること。(佐々木俊尚『キュレーションの時代』/ちくま新書/2011.02.10)」

◆参照 SNSのマイクロインフルエンサーには何よりも"キュレーション"能力が求められる!( 当誌 2011.11.19 )

 この "キュレーション" という "編集" 作業は、きわめて "資質と経験" に依拠するという点において、人の "情報関連スキル" や、何よりも "ヒューマン・スキル(人間技)" に負うところが大だと見なされている。
 <自分の価値観や世界観に基づいて情報を拾い上げ、そこに新たな意味を与え......>という作業は、まさに "ヒューマン・スキル" の発揮なくしては成就しない作業かと思われる。

 だが、こうした点が強調されると、これを "自動化、システム化" しようと挑戦するのがビジネス世界の常なのかもしれない。
 "人間技" の範疇と見なされる "キュレーション" を、"キュレーション・サービス"(※ 参照記事)で置き換えてみせよう! というワケだ。
 そしてさらに、"キュレーション" 作業の中でも最も "人間技" だと目されている<新たな意味を与え......>という部分にまで迫る(?)意気込みをも見せる。
 それが、下記引用記事の<誰もが編集者になれる時代~新しいキュレーション・サービス......>である。
 ただ、その意気込みはそれとして、果たしてどこまでこの "難問" に迫っているのかは、下記記事からも今一つ定かではない。<意味付けをすることを奨励している点>が意味するところがよく見えない......。

 "ソーシャルメディア" が情報社会に充満するいわば "ソーシャル" 時代は、一方で "テクノロジー" への理解が必要不可欠な環境であると同時に、"ヒューマン・スキル" の必要性が急浮上した環境だとも言えそうだ。
 前者は分かり易いとして、後者はどうかと言えば意外と "スルー" されていそうな気がする。しかし、"ソーシャル" 時代の、隠れた大きな課題の一つはここにありそうな気がしてならない。ここにこそ "ソーシャル ~" と称される根拠があると考えても良さそうである。人と人との "つながり" にあっては、望むらくは仲睦(むつ)まじい状態であって欲しいと願うものの、そうでないことにも遭遇しなければならないのが現実だからだ。
 この課題まで "テクノロジー" がカバーし切るにはこの先時間も掛かるだろうし、そもそもこうした課題まで "テクノロジー" に依存したのでは、味もそっけもないことになりかねない。ここは、"矛盾と緊張感" とを生きていることの証しとして享受するのがスジなのであろう。

 ところで、"炎上" 騒動にまでは至らないまでも、"ソーシャル" 時代には、メディア上の空間はもとより、"場外" でも不測の "乱闘(?)" が生まれ易くなっていると言えようか。この時代は、個々人がその思いをフリーに切り結ぶ、そんな環境だと見なせば至極当然なことではないかとも思われる。
 今回は、ちょっと変わった視点で書かれた下記のサイト記事に着目してみた。きっと、誰もが胸の内に潜ませている心配事の一つではないかと思う。結構、"ありがち" だし、むしろ "避け難い" 場面だと言えるのかもしれない。

 Google検索は、頻繁に活用しており便利さも感じてはいる。が、同時に苛立ちも感じさせられる。当面は無関係な結果が羅列されたり、自分側で上手く検索キーワードが設定できずに戸惑う場合がそれだ。検索連動型広告 "AdWords" にも閉口するが......。
 そうした時、当面何を検索しようとしているのかを "察してくれる" サポート環境があればいいなぁ、と思ったりする。誰しもそう思っているののかもしれない。
 いわば、"つうかあ" の検索が進められれば、有難いということだ。

 ただし、検索にせよ何にせよ "つうかあ" のレスポンスを望むならば、不可欠な前提条件がありそうだ。"相手" が自分のことを精通している、つまり、相手が、自分の言葉や振舞いから現時点での自分の思い、考えをほぼ正確に察知できる、という環境だ。
 Google検索システムにこれを期待することは不可能であろう。というのも、同システムは、利用者側の固有事情のデータとは関わりなく画一的に処理されるからだ。

 としたら、"自分側の固有事情のデータ" を斟酌して対応し、処理してくれるシステムはないのか? 思い浮かぶのは、"Amazon の推薦" 機能かもしれない。自分の過去の購買履歴をデータとして「こんなものは欲しくりませんか?」と "推薦" してくるアレである。
 ただし、この<「垂直的推選」>(下記引用記事)はかなりの "当て推量" であり、そんなモノいらねぇ、と言いたいケースがままある。

 で、今注目されているのが、"ソーシャルメディア" 上に蓄積された "本人の固有事情のデータ" を最大限活用するという発想だ。
 裏返して言えば、"ソーシャルメディア" はそれほどに利用者の "固有事情のデータ" が蓄積されているメディアだということになるワケだ。
 とくに注目されているのが、"Facebook の ソーシャルグラフ"、正確には "オープングラフ" だ。この "オープングラフ" については、つい先ごろにも新しい動きがあったばかりだ。

 ◆参照 「Facebook:"恐るべき可能性"を秘めた「動詞のオープングラフ」エンジンを投入!」( 当誌 2011.10.02 )

 今回レビューするサイト記事は、下記のとおりでやや古いもの( = 予見性!)だ。が、上述の関心に見合うとともに、"ソーシャルメディア" 上に蓄積された "本人の固有事情のデータ" を最大限活用するアプローチである "Social-サーチ(検索)" の立ち位置が、分かり易く解説されているので引用させてもらった。
 先ず、Facebookにおける "ソーシャルグラフ" については以下のとおり。

<最近ではIT業界内でほとんど一般的に使われるようになったソーシャルグラフという言葉。人間関係のデータという意味で使われることが多いが、もともとはFacebook上のユーザー同士のつながりを示すグラフという意味で使われ始めた。
 この人間関係のつながりを広く一般の事象にまで広げたのが、昨年の開発者会議「f8」で発表されたオープングラフだ。>
Facebookのオープングラフの新機能とは【湯川】/TechWave.jp/2011.09.26

 そして、"オープングラフ" とは......
<オープングラフとは、フェイスブックが提供するプログラムを利用することで、フェイスブックの外にあるウェブサービスの多くが、フェイスブックのソーシャルグラフを使って、自らのサービスを告知したり、ユーザーに利用させたりする技術の総称だ。>( 下記引用記事 )

 着目しておきたい点は、次の3点ということになろうか。

(1) "ソーシャルグラフ" ――人間関係と併せて個人に関する固有事情のデータが蓄積された<ソーシャルグラフというフィルターを使うことで、より自分好みの情報へと転化させることが可能となってきた>( 下記引用記事 )という点。これが出発点であり、かつコア・ロジックであること。

(2) "オープングラフ" ――(1)の働きを、Facebook 内部に留めずに "外部ウェブサービス" との連携へと拡大させつつ、処理データ対象も人間関係のみならず "一般の事象" にまで範囲を広げてた点。汎用性が備わり、"ソーシャルグラフ" の活用可能性が画期的に増大したこと。

(3) "ソーシャルメディア" ――もちろん Facebook の "ソーシャルグラフ" が典型ではあるのだが、"ソーシャルメディア" とは、参加個々人の固有事情のデータ( "生態" ?)が "外部対象化" され蓄積されたそんなメディアなのかという印象を受けた点。"ソーシャルメディア" には、"外部対象化" された "自己"( "ライフ・ログ" )が息づいているとでも言えようか......。
 これらの活用としては、"つうかあ検索" が好例ではあろうが、他にもさまざまな可能性が予感させられた。まさに "恐るべき可能性" を秘めている......。

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