SNS: 2012年1月 アーカイブ

 "ソーシャルメディア" における "口コミ" の価値を悪用する "やらせ(業者)" 問題については、これまでにも何回か書いてきた。

 ◆ 参照① SNS:"やらせ業者"の横行!残念ながら虚偽・不正広告行為には法的責任追及要か!?( 当誌 2012.01.06 )
 ◆ 参照② 消費者庁、"ウソ"クチコミに警告/"役所の介入"よりも"炎上"の方が恐怖のはず!( 当誌 2011.12.19 )
 ◆ 参照③ ソーシャルメディアを欺く"やらせ"工作を許すな!稼げれば何でもやる破廉恥さ!( 当誌 2011.12.13 )

 防止対策の決め手を欠くかのように見える推移の中で、"信用できる口コミ" は "実名登録サイト( not 匿名型サイト)" なり! という一つの調査結果が出ている。( 下記引用サイト記事: フェイスブックに高い信頼=口コミ情報、実名を評価-利用者調査/時事ドットコム/2012.01.28 | 商品購入時にFacebookの口コミを信用する人は76%、ビルコム調査/INTERNET Watch/1012.01.25

    ・ 「フェイスブックの口コミ」を信用する............76%
    ・ 価格比較などの口コミ専用サイト........................67%
    ・ 商品販売サイト................................................64%

 やむを得ない結果だと言うべきか......。
 ただ、"匿名型サイト" には "ホンネ" が言えるという長所があるだけに、こうした傾向は、ちょっと考えさせられるところでもある......。聞くところによれば、"匿名型サイト" への善意の投稿が、すでに "差し控え" られていたりしているとのことだが、残念なことである......。




















 ツイッターは、昨年の中東の民主化運動「アラブの春」で、民衆が連帯して政府に対抗するのに大きな役割を果たしただけに、ある国の法律に違反する書き込みが行われた場合、その国では見られなくする措置をとるという突然の発表は、小さからぬ波紋を呼んでいる。
 たとえ、"国ごとにとられる措置" だとは言え、"検閲" 問題が大いに懸念されるからだ。
 批判の矛先は、政府が国民の目に触れさせたくない情報の検閲につながる恐れに向けられている。

< 法律違反の短文投稿は削除 ツイッター社、検閲助長の恐れ

 【ロサンゼルス共同】短文投稿サイトを運営する米ツイッター社は28日までに、ある国の法律に違反する書き込みが行われた場合、その国では見られなくする措置を開始すると発表した。政府が国民の目に触れさせたくない情報の検閲につながる恐れがある。

 ツイッターは昨年の中東の民主化運動「アラブの春」で、民衆が連帯して政府に対抗するのに大きな役割を果たしただけに、ツイッター社に対して批判が出ている。

 AP通信によると、「国境なき記者団」はツイッター社の措置に「極めて失望」と表明。中東からはツイッターのボイコットを呼び掛けるメッセージが多数書き込まれた。
法律違反の短文投稿は削除 ツイッター社、検閲助長の恐れ/【共同通信】/2012.01.28


 下記に抜粋引用したサイト記事( 弱いつながりが多様な情報伝播を加速する:ソーシャルネットワークの役割と可能性/Social Media Experience/2012.01.25 )の理解に当たっては、日常的なリアル生活での場面を引き合いに出すと分かりやすいかもしれない。
 驚きにつながるような "新鮮な情報"(情報の多様性) は、一体、どこからやってくるのか、という話だ。当然という感があるが、四六時中居合わせている "家族" や、頻繁につき合っている "友人" などからは、意外とそんな "新鮮な情報" を聞かされることはない。
 むしろ、偶然に遭遇したり、 "久しぶりに会った知人" などから、その知人の近況のみならず、思いがけない "新鮮な情報"(情報の多様性) を知らされる......、というようなことがままあったりするものだ。

 "ソーシャルメディア" で言うならば、 "家族"・"友人" などとの関係が頻繁に連絡をとる「強いつながり」、"久しぶりに会った知人" などとの関係が滅多に連絡しない「弱いつながり」となる。
 で、"ソーシャルメディア(Facebook)" においても、"新鮮な情報"(情報の多様性) が舞い込んでくるのは、どちらかと言えば滅多に連絡しない「弱いつながり」からだと言うのである。
 しかも、Facebook の場合、「弱いつながり」による情報の伝播力は著しく増幅されるのだそうだ。
 と言うのも、Facebookの友達は、強いつながりよりも弱いつながりの友達のほうが多い傾向にある。よって、弱いつながりが集まることでシェアする回数としては増えるからだと言う。

 "ソーシャルメディア" には、"情報の共有性" と "情報の伝播力の増幅" という機能的特徴がある。
 そして、どちらかと言えば、"情報の共有性" の面が注目されがちなのかもしれない。そこから、頻繁に連絡をとる「強いつながり」に目が向きがちともなっていそうである。
 また、ここに潜むデメリットとして、"蛸壷化" 現象(仲良しの友人からの情報を見たりシェアするだけで、多様な情報の流通を阻害する、閉じられた音響空間のようなものだ)との指摘がなされることがある。

 だが、これまで、いわば "脇役" 視されてきた滅多に連絡しない「弱いつながり」に目を転じてみると、そこには、"新鮮な情報" の流れと、"情報の伝播力の増幅" という点での大きなメリットが横たわっている、と強調されるのだ。

 どのような "ソーシャルメディア" でも、"場の活性化" が目指されているはずであろう。それは "友達同士" の "ソーシャルメディア" であれ、企業と顧客とのそれであろうと目指すところは変わらないようだ。
 そして、"場の活性化" とは、とりあえず "本音の発言" やそれに基づく "相互の(横の)活発なコミュニケーション" が促進されてこそ達成されるものだと考えられよう。
 企業による "ソーシャルメディア" のマーケティング活用にしても、"場の活性化" を欠くならば、蓄積された発言内容にいくら分析を加えたところでマーケティング効果を刈り取ることは難しいのではなかろうか......。

 常々、こうした危惧の念が禁じえなかったのであるが、今回取り上げる下記のサイト記事( "我が事化"して初めて本音、Facebookにはもっと冷静に対処しよう/ITpro - エンタープライズソーシャル - ソーシャルネットワークキーパーソンインタビュー/2012.01.24 )では、この辺を巡る Facebook の場合の実情の、その一端が照らされている。

 <発言量が半端じゃない非活性具合。みんなコメントを書かない>点や、<言い切り=相互にコミュニケ―ションを期待していない>という現状の問題点の指摘から始まる。
 また、<コミュニティは心の機微が大事で、「オープンにしてください」といってもオープンにならない。>ことや、<「オープンになろう」......それは基本的に強制するものではない。今のFacebookの「オープンになれ」という論調は北風だと思う。>という貴重な経験則が示される。
 つまり、現状においては、"本音の発言" も難しければ、"相互の(横の)活発なコミュニケーション" も貧弱だというのである。
 そして、以下のような "辛辣な評価" へとつながる。
 <Facebookで企業が顧客と関係を構築するのはものすごく難しい。>、だから、<Facebookは個人と個人がつながるメーリングリストに変わるサービス>にとどまっている......。
 で結局のところ、手厳しい "警鐘" が鳴らされることになる。
<企業はFacebookに対してもっと冷静に対処しよう、と言いたい。"Facebook"万歳の論調がマーケッターの期待値を上げるだけ上げているが、現実は違うと思う。>と......。

 "ソーシャルメディア" を素材としながら、人と人との "つながり" についていろいろと考えさせられている昨今である。
 人間に "つながる" ことへの "欲求" が存在することは疑いようがない。だが、単に "つながる" ことだけをターゲットとしていて済むのであろうか? 人と人との "つながり" の意味を知ることによって、人と人との "つながり" は、さらに鮮やかな輝きを増すのではなかろうか......。

 今、人々の関心を集めている "ソーシャルメディア" も、人と人との "つながり" が秘めた根源的な意味、それが納得できるようになれば、かなり趣きが異なってくるのではないか、とも思われるわけだ。
 その人と人との "つながり" が秘めた根源的な意味の理解に関して、非常に説得力のある感動的なコンテンツに接することができた。
 NHK 番組『ヒューマン なぜ人間になれたのか 第1集 旅はアフリカからはじまった』(2012年1月22日(日) 午後9時00分~9時54分 総合テレビ)がそれである。(【 ※ 注 】)
 以下、自分なりに了解したこの番組内容をレビューしてみたい。

【 ※ 注 】

ヒューマン なぜ人間になれたのか 第1集 旅はアフリカからはじまった

人間とは何か。人間を人間たらしめていているものは何か。私たちの誰もが内に秘めている"人間らしさ"の起源を20万年という人類史のなかに探るシリーズ(全4回)。
第1回は全人類のふるさとアフリカが舞台。アフリカでは今、人類史を塗り替える発見が相次いでいる。その最たるものが南アフリカで見つかった人類最古の装身具。貝殻で作られた首飾りで「仲間」であること示す身分証のようなものだったと考えられている。祖先たちが暮らしていたアフリカの草原は常に危機と隣り合わせだった。肉食獣の脅威、食糧不足・・・。そうした過酷な環境で生き抜くには互いに協力しあい、「絆」を確認しあうことが不可欠だったのだ。しかし自然は容赦なく祖先たちを追い詰めた。7万4千年前に起きた火山の大噴火。食料が激減し、人類は絶滅の淵に追いやられる。ところが最新の考古学調査では意外な実態が分かってきた。小さな血縁集団で生きていたはずの祖先たちが、大噴火を境に遠く離れた集団と資源を交換し合うようになったのだ。未曽有の危機を前に赤の他人とも協力し合う。現代にも通じる人間らしさがこの時から発揮されたのだ。
震災からまもなく1年。「ともに生きる」という人間集団の基本が確立した過程をたどっていく。>
ヒューマン なぜ人間になれたのか 第1集 旅はアフリカからはじまった(2012年1月22日(日) 午後9時00分~9時54分 総合テレビ)/NHK ONLINE


 
ドン コーエン
人と人の「つながり」に投資する企業

ソーシャル・キャピタルが信頼を育む
 こんなことは今さら書くまでのことではないのかもしれない。
 "ソーシャルメディア" を<「ソーシャル・キャピタル(Social Capital)」的な観点>で見つめた時、両者の間に少なからず "距離(?)" や "次元の相違" があることに気づかざるを得ない点なのである。両者における、人と人との "つながり" の "質"には、かなりの違いがあると思われる点だ。

 ちなみに、<「ソーシャル・キャピタル(Social Capital)」>とは、<「信頼」「規範」「ネットワーク」といった社会組織の特徴であり、共通の目的に向かって協調行動を導くものとされる。いわば、信頼に裏打ちされた社会的な繋がりあるいは豊かな人間関係>"Socialメディア"には「ソーシャル・キャピタル(Social Capital)」的な観点も!( 当誌 2012.01.20 ) )だとされ、"社会貢献" 的な機能を果たしている<社会的な繋がりあるいは豊かな人間関係>だとされる。
 今日のような "社会危機" の環境にあっては、こうした観点が社会的に注目されても少しも不思議ではないと思われる。

 そして、<「ソーシャル・キャピタル(Social Capital)」>の中身としては、<「社会における信頼、規律、ネットワークといった社会組織」、「人と人とのつながり」、「絆(きずな)」>などが挙げられ、"ソーシャルメディア" というネットワークも当然ながら含まれる。
 ただし、現状の "ソーシャルメディア" はいわば "玉石混交" だというのが一般的な観測ではなかろうか。"情報交換" 的側面では効果的だと見える "ソーシャルメディア" であるが、<共通の目的に向かって協調行動を導く>ような "つながり" がどうかと言えば、評価は分かれるかに思う。

 "東日本大震災" の際に、"ソーシャルメディア" がさまざまな社会貢献をしたことは広く語り継がれている。
 本来、人と人との "つながり" を "自主的" に 構築してゆく "ソーシャルメディア" には、そうした "潜在的パワー" が内在していると思われる。
 そして、今、時代環境は、とても "手放し" ではいられない未曾有の "苦境・苦難" に遭遇している。誰かれに関わりなく、誰にとっても同じである。
 そんな場合、四の五のと言っては言られまい。"自力救済と人助け" という "問題解決型スタンス" に立つことが大なり小なり望まれそうだ。"ソーシャルメディア" も、そうしたアプローチが活性化されてもいいのではなかろうか。

 そんなふうに思い直す時、自然に視野に入って来るのが「ソーシャル・キャピタル(Social Capital)」という観点である。
 "キャピタル" というと "資本" となり、"経済的な、強欲な(?)" イメージを思い起こさせるが、実はそうではなく、「信頼」「規範」「ネットワーク」といった社会組織の特徴であり、共通の目的に向かって協調行動を導くものとされる。いわば、信頼に裏打ちされた社会的な繋がりあるいは豊かな人間関係(【 引用記事 3 】より)のことなのである。
 なぜ、"キャピタル" と称されるのかと言うと人と人のネットワークが社会システムを補完し効率を高めるなど経済的な効用があるため(【 引用記事 1 】より)だからだという。

 かねがね思ってきたことの一つに、ネット環境やその操作性が抜群に優れた "スマホ、タブレット" のシステム環境などは、もっと "社会的課題" の解決(社会的弱者支援)に応用されて然るべきだという点がある。
 人が "より快適" となる商品・サービスもあって一向に構わないのだが、通常生活自体に "不便さ" が強いられた、"ハンディを背負った人たち" を支えるためにこそ、"ハイエンドな IT ツール" が惜しみなく活用されるべきではないか、と。
 以前にも以下のようなことを書いたことがある。
< ...... ネット環境は、"地元の利便性" に目を向けるかたちで "実" を取り戻す! 必要があるなぁ......、と思ったりする。...... >"タッチパネル"の"iPad"で,"買い物難民(弱者)"向け"ePub 電子書籍"はどうだろう( 当誌 2011.01.28 )

 そして、"ハンディを背負った人たち" と言えば、この国この社会は、まるで津波が一気に襲いかかろうとするかのような非常事態を迎えつつある。"高齢化" → "高齢者独居世帯" の激増という大問題だ。しかも、"社会保障"・"社会福祉" の内実がじり貧状態だとあれば、この上ない悲惨な状況となる得ることが容易に想像される......。
 いろいろな対策が講じられる必要がありそうだが、差し当たって "低廉化" が進む "ハイエンドな IT ツール" を、より効果的に動員させて良さそうではないか。
 "少子化" により "介護" などの福祉関係の人材とて逼迫することは目に見えているのだから、なおのこと "IT" で賄える領域の作業は速やかに実施されて良いと思われる。

 今回取り上げる記事は、そうした問題状況に対する対策の一つの例だと考えている。
 いろいろな角度から吟味してみる必要もありそうだが、むしろ、こうした例を刺激として受けとめて、この種の問題に向けた "ハイエンドな IT ツール" 応用というテーマを "差し迫った課題" として引き寄せることが重要ではないかと思えた。

 山アラシのジレンマ―人間的過疎をどう生きるか ( ダイヤモンド現代選書 )
 「ヤマアラシのジレンマ」という言葉はよく耳にする。一般的には次のように理解されているかと思う。

ヤマアラシという動物は、体に棘が生えています。寒い冬になると、ヤマアラシ同士が体をお互いに近づけて、相互に温め合いたい。でも棘がついているので、温めるために近づこうとすれば、近づこうとするほど、お互いに棘を刺しあってしまって傷つけてしまう。
 人間関係でも、こういうことって良くありますよね。お互いにもっと仲良くなりたいんだけれども、それがうまくかみ合わなくて、お互いに傷つけてしまう。これが「ヤマアラシのジレンマ」>
(下記引用記事より)

 実はこの言葉、元来は、ショーペンハウエル(ドイツの哲学者)、フロイト(ユダヤ系オーストリア人の精神分析家、精神科医)に遡ることができ、レオポルド・ベラック著・小此木啓吾訳『 山アラシのジレンマ――人間的過疎をどう生きるか 』(ダイヤモンド現代選書/1974.01.)でよく知られるようになった。かなり "由緒正しい" 言葉なのである。

 今回この言葉に着目したのは、この「ヤマアラシのジレンマ」という言葉が、"ソーシャルメディア" にとって切実な意味があると思えたからなのだ。
 もっとも、「ヤマアラシのジレンマ」が人間関係の言い得て妙なひとつの核心を照らす言葉だとすれば、まさに人と人との "つながり"=人間関係 が展開される "ソーシャルメディア" との間で符合する側面を持ったとしても、決して不思議ではないのかもしれない。
 しかし、"ソーシャルメディア" が遭遇しているある種 "ナーバスな問題" のカタチは、かなり「ヤマアラシのジレンマ」的光景と似ている! と思えてしまうのだ。

 ちなみに「ヤマアラシのジレンマ」の核心は、次の3点で構成されている。
  <相互に温め合いたい>
  <近づこうとするほど、お互いに棘を刺しあってしまって傷つけてしまう>
  <お互いに棘で刺しあうことがないように適度な距離間を保つこと>

 分かり切ったことだと言えばそうも言える。やはり、人間のコミュニケーション手段としては、"直接会話" が何よりもベストのようである。
 "インスタントメッセージ" は、手軽で便利なために "Socialメディア" などで頻繁に活用されている。だが、あまり期待過剰になってはいけないのかもしれない。<大切なものを置き去りにしてしまう>(下記記事:研究結果:「母の力」はインスタントメッセージでは伝わらず/WIRED JAPANESE EDITON - SCENCE/2012.01.15)可能性が潜んでいそうなのだ。

 下記記事の "親子(母と娘)" の実験によれば、ホルモンの放出に関して言えば、インスタントメッセージは、直接の会話や電話での会話を補えるものではない>(下記記事)と結論づけられたという。
 人間の生理や感情( & 思考)にとって、"ホルモンの放出" が重要な役割を果たしていることは良く知られている。したがって、コミュニケーション手段の違いによって "ホルモンの放出" に差異が生じるという実験結果は傾聴に値する。

 母が何を言ったかということよりも、母の声自体(韻律学として認知されてきたトーンやイントネーション、リズムなど)に、癒し効果があるということを示している>(下記記事)という点にこそ重要な核心が潜んでいそうである。
 ここには、人間のコミュニケーションというものが "言葉情報" の伝達に尽きるものではないことが暗に示されている。本来のコミュニケーションというものは、こうした "声自体" や "表情・仕草・雰囲気......" をも含めた "全体" によって成り立っていたはずだという認識が横たわっていそうである。

 現在、われわれはネットを通じ、"ソーシャルメディア" を通じて、何気なく "インスタントメッセージ" をやり取りしている。時として、"不満" を感じたり、"虚しさ" を感じたりすることがあったとしても、<大切なものを置き去りにしてしまう>とまでは深刻に思い詰めたりはしていない......。
 しかし、だからといって、"インスタントメッセージ" によるコミュニケーションを "不当に格上げ(?)" してしまうことはトンデモナイ錯覚なのかもしれない。

 もちろん、"ソーシャルメディア" を通じた "インスタントメッセージ" のやり取りというスタイルが、"現代的環境" に即した根拠( 時間的・空間的制約環境。"間接的" つながり志向......)に根差していることは分かる。また、メリットがあることも分かる。
 が、ありふれた響きの言葉とはなるが、<大切なものを置き去りにしてしまう>可能性と引き換えに "インスタントメッセージ" 方式が存在していること、そこに軸足を置いておく方が良さそうだと感じている。
 この点を踏まえて、"ソーシャルメディア" の限界をもしっかりと意識しておいた方が地に足のついた進化が期待できるのではなかろうかと......。

 昨日は、今の社会が "何かヘン症候群" に見舞われていること、その病巣が<「誰かが何とかしてくれるという他力依存の社会になった」>という点にありそうではないか、という予感について書いた。
 そして、アメとムチ式の動機づけが中心となって構築された "二〇世紀" 型の "OS" との決別と、モチベーション3.0へのアップグレードこそが緊急課題ではないかと。( ◆参照 何かヘンな時代状況!"モチベーション3.0/OS"へのアップグレードが緊急課題!?( 当誌 2011.01.15 )

 "何かヘン症候群" とでも言うようなものに見舞われているこの "現在の社会" について書いたのであったが、翻って考えてみると、次の点にも関心を向けざるを得ないようだ。
 それは、"社会" という部分を "企業" という言葉に置き換えてみることの意義である。
 <「誰かが何とかしてくれるという他力依存の "企業" になった」>と読み換えてみるならば、不思議と、各企業が現在遭遇している難局の、その大半がムリなく納得できてしまうような気がするからだ......。
 実は、ジョブズ氏の天才ぶりに対しても、各企業はあたかも少年のように拍手喝采している場合なんぞではなくて、ジョブズ氏のような人材を輩出できないでいる現時点での企業環境にこそ十分に目を凝らし、できればそれを果敢に "アップグレード" しなければならないはずではなかろうか。モチベーション3.0 というアーキテクチャーで再構成された "二一世紀" 型 "OS" への "アップグレード" に踏み出すことが急務なのではなかろうか。

 先ず、この "アップグレード" の実質作業としては、<アメとムチ式の動機づけ>方式で貫かれているであろう旧態依然とした "人事考課" 制度の、その抜本的見直しが不可欠である点は言うまでもない。なぜなら、"人事考課" とは、"評価" であると同時に "動機づけ" 以外ではないからなのである。
 "動機づけ" とは本来は "育成" の観点と重なるにもかかわらず、従来の "人事考課" 制度は、この "育成" の観点を退け "トップダウン的に裁く" ことのみに傾きがちではなかったかと思われる。"成果主義的人事考課" 制度のうちの粗雑な制度などは、まさに<アメとムチ式の動機づけ>という矛盾をはらんだ構造の制度化以外ではなかったようである。
 したがって、もちろん "人事考課" の基本コンセプトの大幅改変が第一義となる。
( この問題の周辺については、ここではこれ以上言及しないでおきたい。関心のある方は、 ◆参照 SE Human Assessment ソフトウェア技術者のための評価と人事考課

 ところで、今回、着目したいのは、上記の問題と密接に関連するはずの、"人事考課" の "実施スタイル、モード" の "時代即応的!" な再構築という課題なのである。これについては、下記引用記事が実にインセンティブであった。

 下記引用記事のとおり、浅田真央さんエッセー発売中止について、やや躊躇しながらも自分の感想を書こうとしている。ただし、こうしたジャンルには精通していないので、"守備範囲(?)" を限定し、余計な詮索は慎み、以下二点についてのみ書くこととしたい。

 1."私の思い"というものは、それが自己矛盾に陥らない限り、こだわっていい!

 実は、この点だけが書きたかった。何がどうだという一切の詮索なしにであるが、これほどに "私の思い" に立脚しながら "果敢な決断" ができる人は、そうはいないはずだからだ。特に "政治家部族" や、ジョブズ氏を除く "経営者部族" には皆無!!
 人には、どんなに親しい人からであっても、"決め付けられること" を拒絶したい側面があるはず! 心情、信念 etc.......。そして、そのナーバスな側面は、自身以外には "こだわってあげられる" 者がほかにはいないはず、これも当然......。
 余りにも、人格のそうした "フラジャイル"( c.f.松岡正剛 )な側面を蔑ろにし、踏み躙る、そんな現在の風潮であるがゆえに、若い浅田真央さんだからこそできた "英断!" に "いいね!" を......。

 2."人の思い"を運ぶあらゆるメディアは、"当事者の思い" と常に一つでありたい!

 従来の "定石" を踏まえて事に当たったに過ぎない当該の出版メディアは、さぞかし大変なことになっているのだろうと同情して余りある。一つ、あらゆるメディアのそうした "定石" 通りの "ごり押し" 対応には至らず、結局、回避した点は評価してよさそうだ。他の "傲慢な出版社" であれば "敢行" していたに違いないからだ......。
 そして、"ソーシャルメディア" こそが、人格の "フラジャイル" な側面を "そっと運ぶ"、そうした賢いメディアとなることを願ったりしている......。

 今回の出来事で、恐らく、諸々のメディア関係は "他人事" のような大騒ぎをするに違いなかろう。しかし、今回の出版社がどうこうというよりも、メディア全般が抱えて来た "人格のそうした "フラジャイル" な側面" への軽視の姿勢、つまり、出来事や人物を、その一回限りや個別性を十分に配慮せずに、常に読み手側にとっての "分かり易さ" だけを金科玉条にしながら、"紋切り型、常套句、手垢のついた言葉" を連ねて "投網を打つ" という、そんな当事者の人格を無視した姿勢こそが見つめ直されるべきなのではなかろうか。半ばムリだとは思いつつも......。

 今や "スマホ" などが経済のみならず社会の活性化にとって不可欠な生活ツールとなっていることは言わずもがなである。しかも、時代環境は "国際競争" の一色で彩られてもいる。
 そんな状況でありながら、"スマホ通信料(携帯電話料金)" に次のような "国内外格差" があることには驚きが隠せない。



 そして、今回さらに驚きであったのは、スマホ通信業界に新しい動き(KDDIのアイフォーン参入!)があったにもかかわらず、"価格競争" が回避されてこの国の、"スマホ通信料" は "高止まり" を続けるのだという点だ。
 これまで、後発組が先行するライバル社を下回る価格で新サービスを始める繰り返しで料金が低下してきた通信業界(下記引用記事より)が定番であったので、スマホ・ユーザーの中には期待していた向きも当然あったはずではなかろうか。

 "NHK 大河ドラマ" も、ひょんなことから "ソーシャル・TV" 路線へと変貌(?)を遂げて行くのであろうか?(皮肉まじり......)
 "視聴者のさまざまなご意見" を取り入れながら、ストーリーも演出をも柔軟に軌道修正を図りながら番組を構成して行く "ソーシャル・TV"(なんてものがあるのかどうかは知らないけれど)へと踏み込んで行くのか......と、ふと、そんな "イリュージョン" を垣間見させる出来事かと思えた。

 <大河「平清盛」は17・3% 過去3番目の低視聴率>に端を発して、先ず、乱暴にも "了見違い!" の "ご意見"(→【 引用記事 1 】)が投げ込まれたかと思えば、すかさず、"何言ってんの!" という健全な人々の "ご意見"(→【 引用記事 2 】)が、"ソーシャルメディア" を介して立ち上がってくる。
 この丁々発止(ちょうちょうはっし)には、やっぱり笑っちゃった......。

 "ソーシャルメディア" ほど "庶民の声" を、人と人との "つながり" の中で共に確認し合ったり、共鳴させ "シェア" できる手段はほかにないと思われる。もっとも、何の不満も不安もなければ話は別となるが......。
 ところが、"知らされていない!" ことによってそうなっているとするならば、どうであろうか? 不幸と言うよりも悲劇と言うべきなのかもしれない。しかし、意外とそんな "ダマシ" にも似た時代環境にわれわれは置かれているのかもしれない。
 われわれが懸念し、不安が隠せない社会現象に事欠かない現在・未来である。だが、そんな中でも急激な "人口減少"="少子化"="年金制度破綻" という問題は、一つの決定打(?)と言える懸念なのかもしれない。

< 今の若者たちは不幸だと多くの人が言う。しかし、本当に大変なのは彼らの将来なのだ。消費税増税が大きなテーマになっているが、少子化対策はそれと同様、いやそれ以上に真剣に考えるべき問題なのである。>100年前に戻る日本の人口、少子化対策を急げ/nikkei BP net - 田原総一朗の政財界「ここだけの話」/2012.01.07

 田原氏が指摘しているのは、<国には少子化対策に真正面から取り込もうとする姿勢がない>ことによって、この "人口減少"="少子化" という社会の根幹を揺るがす事態が、若者たちの将来に大変!さをもたらしているという点だ。
 もちろん、今のままの体たらくが続けば、ほぼ確実に"年金制度破綻"や、それに匹敵するほどに若い世代の負担が急増するという事態が訪れる、という実情のことである。( 後述 )
 消費税増税対策なども "焼け石に水" ともなりかねない将来が訪れようとしているのである。<100年前に戻る日本の人口>と題されて引用されている以下の図表は、深刻さを伴う伴う近未来をしっかりと告げている。



 "ソーシャルメディア" 時代とは、人と人との "つながり" という点への実感的着目によるボトムアップで、現行の閉塞社会における新たな "突破口" を模索している、そんな時代局面だと言うこともできよう。
 だが、"ソーシャルメディア" というニューメディアのもとに百花繚乱気味の社会現象が生まれているため、一体何がメインストリートであり、支流であり、裏道であり、袋小路であるのかが分かりにくいのも事実だ。まあ、時間経過とともにやがて自然淘汰がなされていくとは思われるが......。
 そんな "ソーシャルメディア" 動向の中で、多分、"非営利" での "社会貢献" を目指す "ソーシャルグッド" という流れは、今後、次第に川幅を広げて益々豊かな水量の流れを形成していくのではないかと思われる。

 と同時に、この流れに接しつつ、企業(営利)サイドから展開される同方向の活動もまた次第に活性化されていくに違いなかろう。
 昨日書いた 「"スペンド・シフト(消費の変化)"潮流に根差す"Socialメディア"マーケティングへ( 当誌 2012.01.09 )」 では、今、静かなうねりとなりつつある"スペンド・シフト(消費の変化)" 潮流と企業サイドでの対応とに目を向けてみた。
 そこで、今回はその文脈上で、企業サイドからの "社会貢献" という側面を掘り下げてみることにした。注目するキーワードは、"コーズ・マーケティング" となる。
 こちらの方が、企業による小手先対応でしかない "Socialメディア" マーケティング対応よりも、遥かに "ソーシャル" の王道だと思える

 
ジョン・ガーズマ
スペンド・シフト
希望をもたらす消費
 今回レビューする下記サイト記事<「棚が回る冷蔵庫のCM」に呆れる若者の話(イケダハヤト)>においては、<私自身もどこか感じていた「企業のマーケティングに対する違和感」>(下記引用記事)というフレーズ、それが大いに共鳴できるものであった。もちろんそれだけではないのだが、この点に全体が集約されるような気がしたものであった。

 "ソーシャルメディア" には少なからぬ思い入れをしているのだが、サイト上の関連記事をチェックしていると、"猫も杓子(しゃくし)も" 企業による "ソーシャルメディア" 対応にばかり目を向け、正直言ってウンザリ気味となっていた。
 もちろん、企業がマーケティングの目的で "ソーシャルメディア" に期待するのは、それはそれで結構なことだとは思う。マスメディア利用の "一方通行路線" と比べれば、遥かに進化(?)しているはずだからである。消費者との "対話路線" を "ソーシャルメディア" という空間を通じて踏み出すということは、消費者にとっても企業にとっても有意義なことに違いないからである。

 しかし、どうも<違和感>を禁じえないのが実情であった。それは、企業側姿勢の "取って付けた" ようなニュアンス、言いかえれば、ホンキでやる気があるの? という打ち消し難い疑問であったかもしれない。従来の基本姿勢を変えずにそれを維持したままで、"ソーシャルメディア" 対応に向かうというのはややムリがありそうだと思えてならなかった......。
 さらに、<違和感>のもう一つの原因としては、"ソーシャルメディア" 活用のマーケティングの "有効性" をホントに確認したわけでもなかろう "IT 関連業者" などが、何やかやと安直さに任せて蠢く! そうした状況への不信感(?)も手伝っていたのかもしれない......。

 ところが、<違和感>の本質は、 "一方通行路線" と "対話路線" というズレのレベルどころか、消費者の消費マインド自体が次元を異にした "革命的変化" へと踏み込んでいたことにこそあったようである。それが、"何か違う......" という打ち消し難い<違和感>を刺激していたのかもしれないのである。
 その "革命的変化" とは、下記記事によれば<「スペンドシフト」>と呼ばれている事態なのである。それゆえに従来型の消費マインドに拘泥しつつ小手先で対応するところの "Socialメディア" マーケティング対応に、"何か違う......" という<違和感>が付きまとっていた......、とそう理解することができそうなのである。

 もし、顧客が訪れたショップの店員が、やたらに慇懃な接客対応をする割には、顧客側の真のニーズを探り当てることができずに、ウンザリするようなありきたりの在庫商品ばかりを並べ立てるとしたら、顧客側はどんなもどかしさに襲われるであろうか?  企業による現時点での "Socialメディア" マーケティングとはそんなちぐはぐさを地で行っているようなものなのかもしれない......。

 いずれにせよ、"ソーシャルメディア" 時代において注目すべきは、コミュニケーションのスタイル( "一方通行路線" か "対話路線" か......)の違いどころの話ではなく、消費者(生活する人間たち!)が何をニーズとしているのか、そのフェイズでの切々とした変化だ! ということになりそうである。そして、若い世代ほどこの変化を実感として自分のものとしている気配が強いと思われる。
 その "革命的変化" に見合った企業改革に辿りつくためにこそ、"ソーシャルメディア" に立ち向かうべきなのではなかろうか。

 以下、平易な文章表現でありながら、実に "的を射た" 指摘を放っているその記事を引用しておきたい。

 "ソーシャルメディア" を駆使している "OWS運動" 参加者たちが、"ギーク" らを中心に、下記引用記事のとおり<合作映画 『 99% ― The Occupy Wall Street Collaborative Film 』>を制作中だという。
 "ギーク" ら75人の映画制作者たちが、いわば "Social Film!" の制作とも言える活動によって "OWS運動" の一里塚を打ち立てようとしている。
 この "OWS運動" は、"ソーシャルメディア" が駆使されているとともに、多くの "ギーク" たちが参画していることは以前にもこのブログで次のように記した。

 < ウォール街占拠デモの宿営地(ズコッティ公園内)内部の光景が、Photo アルバム風に紹介された。参加者たちの "クール × 熱意"、およびそれらに接して、"感染(?)" したに違いない記事制作者たちの "ハイテンション" がスンナリと伝わってくる貴重な記事だと思えた。
 その記事では、アメリカの俗語で "ギーク (geek) " と呼ばれる卓越した知識がある者たちの活動光景がいろいろな角度から伝えられている。まるでかつての映画 "大脱走"風の、スペシャル協業(?) をエンジョイ(?) しつつ、運動を持続させようとしている、そんな雰囲気がリアルに伝わってくるのだ。
 言うまでもなく、かつての映画 "大脱走" は、ナチスドイツの捕虜収容所からの大量脱走だったわけだが、今彼らは、"金融経済社会" = "超格差社会" からの "大脱走" という、言ってみれば "The Impossible Dream"( MAN OF LA MANCHA )に挑もうとしつつ、その持続スタイルを虎視眈々と模索しているように見える。
 現代の "IT" は、その "レバレッジ" のパワーによってスピーディに膨大な規模の "マネーゲーム" を遂行している。
 そこで、彼らもまた、存分にその "IT・レバレッジ" をカウンター・パワーとして活かしつつ、運動の裾野を急速に広げようとしているかのようだ......。>( 「ウォール街占拠デモ」のギークたち/まるで映画"大脱走"風のスペシャル協業?( 当誌 2011.10.12 )

 これまでにもこの "運動" の光景は、動画として単発的に YouTube に投稿されていたが、今回のように全米各地での "運動" が、参加者の視点で集大成され一本の "Social Film!" に仕上げられるというのは興味深い。( c.f. マイケル・ムーア監督『華氏911』)
 いや、とかくマスメディアも腰が引けた報道に終始してきただけに、きっと "運動" の全容が克明に伝わることとなり、世界中で共感者を増やすことになりそうだ。

 "ソーシャルネットワーク" ではなくて、"ソーシャルニットワーク" というプロジェクトがあるんですねぇ。
 TVで、大震災被害への支援番組を見ていたところ、このプロジェクトの活動の紹介に出会ったのだ。文句なく素晴らしい活動だと感じ入った。なお、このプロジェクトについては、検索の結果、下記引用サイト 被災地で編み物の仕事作り-買い手×編み手 マッチメイク会 が それであることが分かった。

 大震災の被災地域に住むご婦人たちが、"生きがい"と"仕事" とを手にして、日がな一日せっせと "ニット(手編み)" 作業に没頭していたのである。何とも心温まる光景であり、これが大正解! これこれ! という納得感で満たされたものであった。
 あるお年寄りの婦人は、日課である昼寝もせずに一日中目一杯編み続けている、と目を輝かせて語っていた。がんばれば月数万円の収入となることもあり、"頑張り甲斐" があるとのことだ。
 被災者たちが今、心底必要としているのは、支援物資もさることながら、"生きがい" とのセットとなった "仕事" なのだという、そんな平凡な事実がじわじわと伝わってくるのであった。

 番組を見ていて意を強めさせられたのは、いくらかでも余裕とパワーのある者たちは、 "仕事作り" という緊急課題に挑まなければいけない、という思いであった。
 被災地に限らず、このご時世、未曾有の "経済災害(?)" で収入が途絶え、"生きがい"と"仕事" とをともに剥奪されてしまった人々は数知れないはず。そして、残念ながらこれから先この状態は悪化の一途を辿ることは想像に難くない。
 こうした不幸な事態を目の当たりにするにつけ、考えようによってはあの終戦直後以上に悲惨なのかもしれないという直観が働いたりもする。と言うのも、事、"仕事" という点となると、現時点での "仕事" というものが成立する社会的条件は、終戦直後の大混乱時よりも逆に狭まっていそうな気配がするからである。
 つまり、"非力な個々の庶民" が日銭を得る機会、"隙間" は意外と埋め尽くされているからだ。個人自営業でさえ危機に瀕するほどに、低廉なモノやサービスは市場に溢れ、その市場自体は大企業によって制覇されている......。

 若い "ネット・ネイティブ" たちでさえ、一頃のようなネット活用に基づくスモールビジネスからの収入を得るのに苦悩しているとも聞く。
 IT 環境がますます巨大な "装置産業" 化することによって制覇され、"インディ" や "フリーランサー" たちの出る幕を圧倒的に狭めているとさえ見えるからだ。
 "格差" という言葉を "所得格差" といった抽象的理解にとどまらず、逐一見て行くならば、チャレンジのための "機会" に急速に "格差" 現象が滑り込んでいる点に注意をむけなければならないはずであろう。

 さて、冒頭の "ソーシャルニットワーク" というプロジェクトの話に戻るが、ここには重要な "ヒント" が潜んでいると思われる。以下、これに関して三点ほどメモをしておきたい。

1."仕事作り" という視点に集中すること!
 "起業" という言葉がありふれて口にされるようになってきたが、"起業" とは要するに"仕事作り" 以外ではない。ここで留意すべきは、半端な "シーズ志向" に走らず、"ニーズ志向" に徹することと、自身の "仕事" に閉じこもらずに、欲する人たちに "仕事" を "シェア" できるかたちがベストとなる点。

2."仕組み(ビジネス・モデル)作り" を外すわけには行かない!
 "仕事作り" を "ニッチ" 探求型で追及するとしても、"出来合い" の対象があると考えるのは甘い! "仕組み(ビジネス・モデル)作り" の知的プロセスが不可避と考えなければならない!

3."ソーシャルメディア" を "一点突破" 的に活用!
 "ソーシャルメディア" とは、人と人との "つながり" である。"仕事" の片方では "持続性" が要求され、それは "儲ける" ことなしでは済まない。
 "儲ける" という漢字は、 "人ベン" と "諸" で形作られて、 "諸人(もろびと)" の関与を示唆して余りある。
 "ソーシャルメディア" こそは "諸人の関与" そのものであり、ここに "お宝" が埋まっていることは言うをまたない。
 ただし、当然のこと、"お宝" を引き出すのか、"お賽銭" に終わるのか、あるいは "炎上" や "詐欺" で自滅するのか、その幅は広い......。
 "ソーシャルメディア" で "ヒマ潰し" をしたり、どうせ大したことになろうはずがない "お賽銭" 漁りに奔走するヒマはなさそうだ。
 "仕事" のもう片方に控えている "社会的貢献!"( "Social Good" )にこそ比重をかけなければ、"ソーシャルメディア" は回って行かないはずだ。

 "ソーシャルメディア" でも評判の良かった "口コミ投稿" サイトが、下記引用(◆引用1)のとおり、どうも "やらせ業者" による "不正広告行為!" で汚染されていたようである。
 この間も、度々話題となっていて、管轄の役所である "消費者庁" もつい先ごろ "警告" を発したばかりだ。当ブログでも以下のように関心を寄せて来た。

 ◆参照1 消費者庁、"ウソ"クチコミに警告/"役所の介入"よりも"炎上"の方が恐怖のはず!( 当誌 2011.12.19 )
 ◆参照2 ソーシャルメディアを欺く"やらせ"工作を許すな!稼げれば何でもやる破廉恥さ!( 当誌 2011.12.13 )

 民間の社会事象に対する役所の介入や規制は決して好ましいものではない。まして、人と人との "つながり" や "口コミ" を売りとする "ソーシャルメディア" が、まるで "自滅" にも匹敵する不祥事によって役所の介入を誘うというのは、情けないことだ。
 しかし、こうした不正と不透明さとを残すならば、"ソーシャルメディア" 全体への不信感をただただ募らせる結果となりかねない。
 本来を言えば、"ソーシャルメディア" 自体、運用者、利用者が聡明さと自助努力によって解決の道を探り、了見違いの参入者を閉め出すべきであろう。しかし、残念ながらそこまで成熟していないのが現状のようでもある......。

 ネットの一般的利用それ自体がそうだと思われるのだが、"ソーシャルメディア" もその利用の仕方を心得ないと、楽しいどころか、却って "苛立ち" の原因にさえなりかねないのかもしれない。
 意外と少なくないと思われる "苛立ち" とは、企業経営における経営数値のごとく、やたらに "数値" にこだわる轍(わだち)に嵌り込んでしまう事態のことだ。"アクセス数/友人数/フォロアー数" など、気になり始めると切りがない "数値" のことである。

 自分の場合も、このブログにしてからが "アクセス・カウンター" なんぞを設置してアクセス数にこだわっている気配がないではない。言い訳めいたことを言うならば、書き記したブログ内容の "反省材料(?)" にしようとしているのだが......。
 思い入れをした内容のブログに相応のアクセス数がカウントされると溜飲が下がったりする。が、その逆だと、"独りよがり" であったか......、と書いた内容を再吟味してみたりもするわけだ。
 だが、マズイと思うのは、いつしかアクセス数が "独り歩き" してしまい、これに必要以上にこだわる自分を見出す時なのである。こんな時には若干の "苛立ち" が伴ったりするのも正直いって事実だ......。
 ただ、そんな時には、所詮、アクセス数なんてものは、要するにある意味で特有な "グーグル検索" による所産でしか過ぎない! と開き直る(?)ことにしている。
 ただし、自分は本当に書きたいことを書いたのか? とか、書くに値するリアル生活(?)をしているのか? といった "基本的" 反省のきっかけにはしていそうだ。

 "ソーシャルメディア" の利用のされ方はさまざまであり、昨日のような "科学ジャーナリズム" を支える活用があるかと思えば、下記引用サイト記事、「ツイッター疲れ? 温かいフェイスブックに利用者流入 2011年ヒットの裏側(2)/日本経済新聞/2011.12.31」のように、<ツイッターは、「暇潰しに見るテレビ」と同じような用途で普及している>、<震災時のツイッターは、ニュースや生活情報を収集するのに活躍した。しかし一般ユーザーの利用実態を見ると、こうした使い方は少数派だ。>といった使われ方の実態も視野に入れておかなければならない。

 この記事では、結論的には、<2011年を総括すると、ツイッターの「匿名の自由さ」から、フェイスブックの「実名の居心地の良さ」へとシフトしたユーザーが目立つ一年だったと言えるだろう。>と述べている。
 「Twitter(ツイッター)」と「Facebook(フェイスブック)」という2大 "ソーシャルメディア" の利用実態が調査され、比較分析された結果だ。

 <最近、高校生の間でツイッターが流行している。>ようであり、<普及の理由は、「芸能人や有名人をフォローして、空き時間に彼らのコメントを読むため」>だそうだ。
 ただ、<とはいえ、ツイッターの勢いには陰りが見え始めている。>とのことで、その背景には、<「ツイッター疲れ」>という聞き慣れない指摘がある。
 どういうことなのかと言うと、<タイムライン上を流れる情報のスピードが速く、ネガティブな意見も飛び交う"殺伐とした"ツイッターに疲れた人が、フェイスブックに流れている傾向が見て取れた>とある。
 その結果、フェイスブックへのシフト傾向が見受けられるというわけだ。

 では、フェイスブックの利用実態がどうかというと、<フェイスブックは実名登録で、リアルな友人、知人とのつながりが大半。>だそうで、<「いいね!」などの温かい反応ばかりが返ってくる。情報の流れ方も比較的ゆったり>という空気が歓迎されているという。まるで、<「知り合いとの居酒屋での談笑」、飲み会のような居心地の良さ>を思わせる状況が好感を抱かせるのだそうだ。
 ただし、<フェイスブックでは友人に加えて、会社の同僚や上司、実家の家族などともつながる人が多い。そうなると、仕事の愚痴や投稿への批判は、付き合い上、言い出しにくい雰囲気が出来上がりつつある。>という点から、<フェイスブックは"少し窮屈な空間">というマイナス評価も浮上しているらしい。

 こうした調査結果から、何を読み取るかは人さまざまであろう。
 ふと自分が思い起こしたのは、"自己肯定感" という言葉であった。人は誰しも "自己肯定感" に支えられ、癒されたいと願うものかと思われる。「いいね!」という他者からの反応が "自己肯定感" にどれほど寄与するのかは定かではないが、無関係のはずはなさそうだ。
 ただ、こうした "自己肯定感" だけが指標となる空間は、"窮屈さ" ばかりか "脆(もろ)さ" をも増幅させつつ、当初の期待を裏切りかねないこともあわせて承知しておくべきなのかもしれない......、と思えた。

 新年おめでとうございます!
 年明け初回のテーマが "ソーシャルメディア" に関する "建設的!" なものとなったことに幾分安堵しているところです。
 今回レビューすべく引用したサイト記事は、下記のとおり<「ソーシャルメディアがもたらす、科学報道の変化とは!?」>です。
 一言で印象を言えば、"ソーシャルメディアの社会的役割" に関する視野を広げられたとの感があり、至るところに現代が抱える重要な問題に対する指摘と示唆があり、非常に読み応えのある記事であったと思います。(引用記事の圧縮、省略を試みたものの、いずれも捨て難く思え、長い引用となってしまいました......)
 別に "新年増大号" というつもりなぞないにもかかわらず、大きなボリューム(?)となってしまったのはそんなことに由来しています。

 昨年は、"大震災"、"原発事故"、"大規模自然災害" などが衆目を集め、その都度、社会問題へと発展した事態について理解することが、科学技術の情報や報道なくしては不可能であることを嫌と言うほど知らされた思いがします。
 つまり、科学技術が関わる社会問題 が多発し、事態が複雑になっていたわけです。言い換えれば、問題解決に当たって、科学技術という 專門知と市民の知 とが、どうジャーナリズムを通して "橋渡し" されるのか、それが焦点となっていたとも言えそうです。恐らくこの点は、今後ますます浮上し、表面化していくことが予想されるため見過ごすことができない課題かと思われます。

 また、その "橋渡し" が何のためかと振り返れば、言うまでもなく問題解決のためであり、さらにその問題解決のためには 「社会がいま議論すべきこと」 (=アジェンダ、議題 )を妥当な道筋で定めなければならないからだと言えます。
 一般的に、いろいろな問題解決に当たっては、"どう解決するのか?" が重要であることかは自明ですが、その前に注意が向けられるべきなのは、"何を解決するのか?/何が問題なのか?/何が議題とされるべきなのか?"(=アジェンダ、議題 )だと考えられています。

 ただし、それは必ずしも単純なことではなさそうであり、従来は、マスメディアなどによって "トップダウン型" で定められるアジェンダセッティング、議題設定 がなされて来たと言われています。
 しかし、これは問題含みだと見なされてきました。一般市民の理解からかけ離れた 專門知 が "独り歩き" する傾向に加えて、"一方通行" の弊害を持つ "トップダウン型" の アジェンダセッティング、議題設定 によってジャーナリズムの報道がなされる時、一体どういう状況になるかについては、われわれが何度も見聞して来たことかと思われます。一般市民が "蚊帳の外!" に置かれるという状況かと思われます。

 ところが今、マスメディアに加えて "ソーシャルメディア" が登場し、それとともに アジェンダ、議題 を "ボトムアップ型" で定めていく一翼が付け加わったという構図が出来上がりつつあるわけです。下記引用記事にもあるとおり、現に、今回の大震災時には、その活動と影響力とが発揮されたとされています。
 そしてこの構図が充実するならば アジェンダビルディング(議題構築) と呼ばれるものが実現されるであろう、と。
<ソーシャルメディアが出現してきたことで、マスメディアと市民が協働して議題を構築できるようになってきた。これをアジェンダビルディング(議題構築)と言います>

 このように、 "ソーシャルメディア" という新しいメディアが、科学技術と社会とを橋渡しして、繋ぐところの新しいジャーナリズムが形成される上で、重要な役割を果たすであろうと期待されているのです。
 なお、こうした構図の実現には、決して単純ではない諸々の問題が絡んでいること、それらについても、この記事では丹念に言及されています。
 以下、この記事の骨子を6点ほどリストアップすることで、それらに目を向けておくことにします。

1.アジェンダセッティング、議題設定「社会がいま議論すべきこと」......アジェンダセッティング、議題設定アジェンダビルディング(議題構築)

2.科学的な情報がソーシャルメディアでどう扱われているか=最終的にアジェンダビルディングに繋げていくかという問題

3.專門知と市民の知をどうアジェンダビルディングしていくかサイエンス・メディア・センター(SMC)......サイエンス・アラート研究者データベース

4.社会のなかで経済的な独立性と持続性をもつこと「持続可能なジャーナリズム・ビジネスモデル調査(Mapping and Understanding Sustainable Business Model for Journalism)」

5.(ウィキリークス)集合知だけではなかなか「社会のアジェンダ」を作るまでは行き着かない専従ジャーナリストの活動が必要資金的に自立、寄付活用の仕組み

6.科学とジャーナリズム、そしてインターネット
 科学は集合知によって積み上げていく仕組みを作ったけれど、科学以外の社会の意思を反映する仕組みを欠いたまま、ジャーナリズムは科学ほど方法論を熟成できないまま......結果として現代のように混乱
 インターネットは、両者を含む仕組みを持つため、ネットが議論の仲介者となりうる可能性あり

 なお、以下にこのサイト記事を引用します。

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