yasuo hirose: 2009年5月 アーカイブ

 もう、休日出勤も苦ではなくなり、淡々として遂行している。少なくともあと二ヶ月ほどは気を緩めることができそうもない。まあ、このご時世、年中無休で働いている人も少なくないだろうし、むしろやるべき事がなくなって困るよりかはましかと......。
 ただ、お蔭様で体調に異変はないため助かっている。多分、かなり規則正しい生活になっているために、身体の方も文句を言う理由がないのであろう。
 朝は6時台に起床している。この時期は夜明けが早いため、さほど苦にすることはない。朝食は、できるだけしっかりととることにしている。何でも、朝食をとることが "体内時計" 調整の上では重要なことのようである。



















 ひょんなことから、それなりに重要な事を知らされるという偶然があるものだ。そんな時、そうした成り行きというのは一体どういう仕組みになっているのかと考えさせられてしまう。
 多分、 "セレンディピティ" だとかと大げさに考えるほどではなく、要するに、自身側がどこかで気にし続けてセンサーを張りめぐらせていたがために、当該の情報や事態をすかさずキャッチするということなのかもしれないと思えた。

  "XHTMLとCSS" というウェブ関係のとあるジャンルに腐心し続けているが、 "いやらしい問題" というものがあるのだ。それは、ウェブの表示にいくら神経を尖らせ、所定のWeb標準の仕様に準拠したり、論理的に対応しても、閲覧者側が使用している "ブラウザの古さ" によっては、思わぬ表示エラーが発生してしまう、という問題なのである。
 この問題については、気にしないわけでもなかったが、大したことではなかろうと、いわば高を括っていた。が、今日、まさにひょんなことから事の重大さに気づかされることになった。
 夜中に何度も起きる歳になってしまったようだ。もう、就寝したら翌朝まで "特急列車" というわけには行かない。 "各駅停車" というほどにひどくはないが、ほぼ確実に3~4回は起きるので "準急" 並みということになろうか。
 その原因が、トイレに行くためだと思い込んでいたものだったが、どうもそうではなく "加齢" による睡眠構造自体の変化ではないかと考えるようになった。

 先日、ついに重い腰を上げ、かねてからの "前立腺肥大" について診断してもらいに病院へ行った。二、三年前からそんな症状があり、その時も診断を受けたのだったが、今のところ問題ないでしょう、ということであった。
 それで安心していたのだったが、どうも夜中の "準急" 並みが気になっていた。もし、効果があるようであれば、多少の痛みをしてでも手術を受けてもいいかもしれないとさえ考えたのだった。
 また、先日、TV番組の "ためしてガッテン!" でもやや脅かされてしまったのだった。 "前立腺肥大症" が "加齢" によるものとしても、それに関連した "癌" の発症率が結構高いという話だったのである。気になる人は、血液検査(PSA検査)を受けられてはどうか、というお勧めだったのだ。
 今日、とある役所に用があって出かけた。待合室で待っていると、会社の同僚らしき男女が暇つぶしの会話をしているのが聞こえてきた。
「いろいろと探してはいるんだけど、これといったものがないんですよね」
「どんなものがいいわけ?」
「身体を使うより、頭を使う仕事がないものかと......」
「ナイナイ、頭を使って座ってできるような仕事なんて今どきナイね」
「そうですよね。私みたいなものが頭使ったって大したことにはならないものね......」
 いろいろな事で忙殺されている合い間をみながら、相変わらず "過去に制作したHP" を "XHTMLとCSS" という今風の手法での書き直しをしている。そうしていると、下手な解説書を精読するよりもはるかに実践的に力が付くような気がしている。
  "SEO" に関心を向けて、 "ビジネスブログ" 制作に精通しようとして始めた一連の作業であった。しかし、元より "ブログ" 形式のシステムは、 "XHTMLとCSS" という方式を踏まえて構築されているわけである。だから、 "XHTMLとCSS" の手法を十分に使いこなすことが先決問題だと了解したのだが、同時にこの辺の知識や技量の習得というのはやっていて実におもしろい。
 人の脳活動にはやはり "モード" とでも呼ぶべき柔軟性があるようだ。たぶん、脳は脳でいかに効率的に(エコノミカルに)活動すべきかを "健気に" 日夜追及しているのであろう。
 要するに、あらゆる対象に等しくエネルギーを分散消費するようなことを避けて、当事者にとって最優先課題だと思われるような問題や対象に力を注ぐという態勢をとろうとしているのではないかということだ。
 よく言われる "火事場のバカ力" というのは、これもまた脳をはじめとする人の身体の態勢が、緊急時にはありったけの力プラスαを可能とさせ、その代わり、平静時には、七割八割がたのエネルギー消費で賄うということなのであろう。

 今ここで関心を持っているのは、力の発揮の大小というよりも、それを叶えるためなのであろうか、 "関心を向ける対象を常に限定" しようとしているかのように働く脳活動の特徴なのである。
 冒頭で "モード" と言ったのは、そうした傾向のことであり、つまり考えるエネルギーを費やすべき対象を臨機応変に選別しながら、そしてそれにふさわしい視点や方法を同時に選び、効率よく考えようとする傾向のことである。
 こうしたことは、当事者が自覚するしないにかかわらず、ほとんど自動的に(自然に)行っているようだ。
 つい先日、高齢なある方からの小包が届いた。一体何だろうかと訝しく思ったが、包みを開けてみてさらに驚いた。
 もう何十年も前に、自分がその方に描いて贈った油絵が三点入っていたのであった。それも立派な額縁付きである。
 どういうことなのだろうかと添付された封筒の手紙を読んでさらに驚きは増した。つまり、高齢なその方は、そろそろ "身辺整理" をしなければならない歳だとおっしゃっていたのである。
 長年、楽しませてもらってきた "貴重な絵" を手放すのは名残惜しいことこの上ないのだけれど、自分の目が及ばぬことになった時に "粗末に" 扱われることを望まないので、ご本人にお戻しするのが礼儀だとおっしゃっておられたのである。
 元よりそうした方ではあったのだが、ここまで、古風で律儀な方だったのかと、身が震えるような思いにさせられた。

 さっそくお礼の電話を差し上げてお話をした限りでは、以前と何も変わらない矍鑠(かくしゃく)としたご様子でひと先ずは安心させられた。
 しかし、さすがだなあ、と感心させられたものだ。老い行く自身を冷静に見つめて、その状況でのご自身の思いというものをしっかりとご自身の手で守りとおそうとされる姿勢、礼儀というありふれた言葉を単純に流さずに自身の思いを充溢させる姿に胸を打たれずにはいられなかったのだ。
  "生産者の視点" と "消費者の視点" という発想がある。言うまでもなく、時代は前者から後者へと急速に移行した。
  "生産活動" 自体が伸び悩む時代にあっては、どうしてもそれを支援する体制なり、それを重視する風潮なりが優位性を示した。発展途上国などで、国策として工業化を進めることなどはその好例であろう。そして、 "消費者" は、商品・製品を "ありがたく" 買い求める空気が自然に出来上がる。まさに、 "生産者の視点" が優位性を確保する。
 ところが、大量生産・大量消費の時代傾向が深まると、その優位性が逆転し始め、 "お客様は神様" と言われるほどに、売れ渋る商品・製品を購入する消費者が優位性を占め始めるわけだ。ここに、 "消費者の視点" が時代的に優位とされるに至る。

 こうした現象は至るところで始まっているわけで、その例を探すのに苦労はいらないようである。コンピュータのジャンルでも、 "ユーザーに優しい" とか "ユーザーウェア" とか、あるいは "ユーザビリティ" とかの言葉で強調されてきたことは、ほぼ "消費者の視点" という発想と重なりそうである。
 今さら何をと言われそうでもあるが、こんなことを再認識したのは、ウェブサイト制作(HP制作)の領域でも同様だと思ったからなのである。
 今の若い世代が、かつてほどの "クルマ志向" がなく、そして "貯蓄志向" が強いというような現象が傾向的に見受けられると知らされたことがある。全体的に若い世代の収入水準が下がっていることを前提にして考えてみると頷ける傾向だ。
 社会現象はどういう視点でそれを読み解こうとするかによっていろいろと解釈が分かれるようだが、上記の二点については、現代という特殊な歴史的位置を色濃く反映していそうな気がしている。

  "クルマ" という商品は、やはりかなり時代限定的なものであったのかもしれない。一言で言えば、エネルギー資源(ガソリン)や地球環境の包容力( CO2 の制御)が "無限" だと見なされ、その前提で "無限" の生産と消費を謳歌できた時代、そんな時代であればこそ人々はそれらに熱い視線を向けることができたのではないかと......。
 また、個人所得が経済成長に伴って "自然成長" 的に増加した "右肩上がり" 時代であればこそ、 "貯蓄" することを視野の外に置くこともできたであろう。
 だが、もはや、良くて "フラット" 、場合によっては "右肩下がり" の経済推移が "運命づけられ" ているかのような現況にあっては、 "貯蓄志向" が強まることはほとんど自然な流れだと言うべきなのかもしれない。
 そして、バブル崩壊後の時代環境しか知りえない今の若い世代にとっては、環境の "底流" に透けて見える大きな時代変化の特徴を自覚せざるを得ないとも思える。
 今日は一日中、 "予定外" の行動で振り回された感がある。
  "予定外" とは言えそれはそれで重要な事柄でもあるために、対処しているうちにあっと言う間に一日が過ぎようとしている。
 まあ、 "予定" だとか "予定外" だとかと言っても、所詮は自身の主観的な仕分けでしか過ぎず、 "予定" していた事柄が必ず優先されなければならないほどに確たるものだとは言い切れない。この辺の曖昧化した状態が現在の状況の特徴なのかもしれない。

 ただ、 "予定" とかにこだわるのは、状況に "振り回される" ことを極力避けたいと考えるからであろう。とかく、現在のような "何でもあり" 的な混乱時では、下手をすれば外発的な事柄に "撹乱" されっぱなしとなり、 "場当たり的" でしかない行動に誘われがちである。
 こうした状況を完璧にコントロールすることなぞ不可能だとは思われるが、可能な限り自分の考えや思いを託した行動や選択をしたいもの。結局、そうした下地や積み重ねが、次のそうした行動選択を可能にする条件だと思えるからである。
 そうは言うものの、どうしても "場当たり的" な行動に流されてしまい、後悔することしきりとなってはいる。だからこそ、尚のこと、自身の思いによる "予定" なぞにこだわりたいと思うのであろう。

 相変わらず "新型インフル" 感染者は増加の一途を辿っているようだが、下記のような報道に接し、ちょっと考えさせられた。
 当初から今回の "新型インフル" は、高校生などを急襲して中高年世代の感染者は相対的に少ないとされてきた。そこから、時代的な "免疫性" というものがあるのではないかとささやかれてもいた。
 未だ、詳細な検証はなされていないようであるが、それにしても注意が喚起される事柄であることは確かだ。

<新型インフル、1957年より前生まれに免疫? 米保健当局
 米疾病対策センター(CDC)のダニエル・ジャーニガン医師は20日の記者会見で、豚インフルエンザから変異した新型インフルエンザについて、1957年より前に生まれた人は免疫を持つ可能性があるとの見解を示した。採取した血液を分析した結果という。
 ......
 CDCによると、米国の入院患者のうち50歳を超える人の割合は13%にとどまっている。通常の季節性インフルエンザと異なり、症状が悪化する中高年層の割合が低い一方、若年層の割合は高く、米保健当局は年齢層との関連を注視していた。詳細は調査中。
(ワシントン=弟子丸幸子) (13:09)>( NIKKEI NET 2009.05.21 )

 半年ほど前に、幾分上等な "マスク" を通販(Amazon)で購入した。
<鳥インフルエンザ(H5N1型)・新型インフルエンザ、パンデミック対策に!>という商品紹介に関心を持ち、<N95マスク(折りたたみ式) 1870 スリーエム ヘルスケア株式会社 >(20枚/4200円)を2セット購入したのであった。
 確か、その折にも<在庫切れ>とかで "2週間" ほど待たされたものだった。特に、急な入用があったのではなく、事前対策として注文した。
 自分はほとんど遠出をしないのだが、家内が毎週 "成田" 方面の実家に出向くため、念のためにと思っての準備だったのである。
 家内も、一般的なマスクでいいと言うので、まだ、手つかずの状態で保管してある。使うようにならないことを祈りたいものである。
 今日は、一応、直近で抱えた作業課題を無事にこなし、ここしばらく皆無であった多少のゆとりみたいなものができた。
 だから落ち着いてこの日誌なりを書くことができるかと思いきや、今度は書くことが浮かばない。エアポケットのような状態となり、小一時間ほど無為に過ごしてしまった。
 考えてみると、こうした「公開日誌」というものは書く者にしてみれば実に厄介なものなのである。「私」と「公」とでできた天秤をほどほどにバランシングしていかなければならないからだ。はらわたを "曝け出す" 見苦しさを警戒しなければならないとともに、かといって "正直さ" からかけ離れたくもない。その辺の事情で、結構、題材選びが難しいわけだ。
 確かに、延々と書き続けてはきた。昨日の分で、 "2930" 回となりもうすぐに "3000" 回にもなろうとする。森光子さんのような偉業とは比べものにならないが、それでも一日も欠かすことのない "日誌" を継続してきたのは、なかなか "できない" というか、 "やらない" ことなのではなかろうか。
 日がな一日、ディスプレイに向かって目を凝らしているとさすがに目や頭が疲れる。
 夕刻だというのに、まだまだ戸外は明るいので、ちょいと近所の通りを散歩することにした。
 通りの裏手に回ると、新緑が溢れたちょいとした植樹園がある。さほど手入れがされていないようで、梅の木々も放任されて伸び切っているし、地面の方も、丹念な野菜作りとも言えず、いわば成り行きに任せた状態だ。
 しかし、疲れた目にとっては、あたり一面の緑が優しく映る。また、そんな空間を通ってそよいでくる風も、幾分かの湿気を含み、とても柔らかな感触だ。
 ほんのすぐ近くの畑地を、二羽のつがいらしい "ムクドリ" がちょこちょことかわいらしく歩いていた。そうしているだけで満足そうであった。決してより多くを望むべくもない、というように......。
 遠くの民家の壁が、初夏の夕日をまぶしく照り返している。
 つい先日に、< "根拠希薄" のままで推移する状況が気になる ......>( 当日誌 2009.05.07 )と題して、気掛かりなことを書いた。
 要するに、ほとんど "根拠" がないにもかかわらず "高を括る" といった風潮が目に余るように思えたのである。
 その一つが、 "株価の上昇" であり、もう一つが "豚インフルエンザ" の広がり方であった。再度、 "「根拠希薄」のままで推移する状況" について書く。

 その一つはやはり "豚インフルエンザ" についてだ。先日は以下のように記した。
 余程の資産家ではない限り、こうした時代環境では、誰もが "稼ぎ" について真剣に考えるはずだ。
 たとえ現在、幸いにも会社組織に属していて "正" 社員という立場にあっても、その "正" という字の重みは限りなく風化しているに違いなかろう。
 となれば、いざという場合に備えて、何がしかの "稼ぎ" につながるような "技量" や "資格" のことに、 "泥縄" 的に関心を向けるのももっともな話となる。
 久々に、 "SEO( Search Engine Optimization 「検索エンジン(最適化)対策」)" について書こうかと思う。
 振り返ってみると、 "ブログ" を本格的に始めて、この5月でやっと一年となる。
 この日誌のような "ブログ" を書くこと自体は、既に丸8年となる。ただ、ここで言う "ブログ" とは、通常のHPとは異なる "サーバー型ブログ" のことである。
 そうした形式のものを自力で立ち上げるために、ドメインを取得し、レンタル・サーバーを契約し、そして、 "Movable Type 4.1" という専用のソフト環境をインストールした。そして自分専用の "サーバー型ブログ" を立ち上げ、日々 "投稿(エントリー)" してきたということである。

 当初は、 "Movable Type 4.1" の一般的形式( "テンプレート" )を使ってきたのだったが、やがて独自な "テンプレート" を自作してみたくなり、いくつかのサイトを作り上げるに至った。
 もちろん、 "サーバー型ブログ" の優れた機能に惚れ込んだからにほかならない。それらについて書き始めると切りがないのでおくが、それは単に "ブログ" を書くことやそのリアクションを楽しむという点には限られない。
 長年、その制作も含めてウェブサイトに関わってきた者にとっては、いわば "汲めど尽きせぬ" 興味がそそられる、そんな深みがありそうだと感じ入っている。
 外出時に出会う "子どもや動物たち" は、羨ましく思えるほどに "明朗" そのものである。決して、辛いことや悲しいことがないわけではなかろう。だが、概してあっけらかんとしていて実に羨ましい限りである。
 やっかみ半分ながらその理由を考えてみたりしたものだ。ふと浮かんできたのは、 "関係性" という言葉であった。まあ別に小難しい言葉を選ぶつもりはない。
 だが、分別のある大人たちは、何と "関係" という網の目で "がんじがらめ" となっていることであろうか。そんな点から浮かんだ言葉なのかもしれない。
 あの "技術屋社長" はどうしているかな、と時々他人事ではなく思い起こす。
 以前にも書いたことがある。
「誰かに社長業を任せて、自分は技術に没頭できたらどんなにいいか......」と口癖のように言っていた。
 製造業(半導体関連)が活況を帯びていた当時、多少付き合ったこともあった。大手の関連業種の企業で腕を上げたようで、ベンチャー企業を立ち上げて独立した。
 ちょうど、自分たちも会社設立したばかりであった。ベンチャー企業向けの公共ビル入居の審査に通り、そのビルで一緒となったのであった。
 今日の作業課題ではやや梃子摺ってしまった。 "自身で設定している課題" なので、無視すれば良いようなものだが、これが違う。
 むしろ、自身で設定した課題には、なおの事こだわりが強くなってしまい、何としてもこなし切りたいと思ってしまうのである。まあ、別の方法を模索して再チャレンジしようとしている。

 頭がその作業のことで満杯状態であり、ここに書くことすらままならない状態のようだ。そんな時には、当該のことに関連したことを書くほかない。
 上で、 "自身で設定している課題" と書いたが、自分がこれぞ習得してしまいたいと考えた技術的な事柄にアプローチする際には、大体がこのスタイルだったような気がしている。
 つまり、スタンダードな学習方法を採らないということだ。スタンダードな学習方法というのは、なんとか教室などで学習する方法やアプローチであり、その特徴は、 "なだらかに" 知識を積み上げてゆく、ということになろうかと思う。
 まあ、この方法がもっとも "無難" ではある。が、最大の難点は、 "インセンティブ" とか "モチベーション" に関する部分が希薄となりがちな点かもしれない。
 というのも、自分側がその学習対象に対してどんな印象や疑問や熱意、期待を抱いているのかが、とりあえず脇に置かれてしまい、教える側がいろいろと想定し、そして準備した "ペース" や "階段" に添って学ぶことになるからである。
 昨日、今日と、午前6時前に起床した。 "夏" の朝は気持ちが良いのと、やるべき仕事の方もいよいよ身が入り、上り詰め、駆け上がる段階に至ったようであるため、とにかく時間が惜しくてならない心境なのである。もちろんと言うべきか、こうした絶好調な状態と、ビジネスとしてのでき不出来なありさまとは別である。現在到達している成果が、ビジネス上の成果として刈り取れるのは時間が掛かるだろうし、運不運もある。だからそこまでを視野に入れて動くというのは、ほとんど不可能ではなかろうかと感じている。

 気を張り詰めているためか、さほどの疲労感も無くて済んでいる。こうした時にこそ、ファナティックにこなすべきだと思っている。
 ところで、自身の過去を振り返っても実感をもって言えるのであるが、このような、 "犬も歩けば苦境に当たる" ような環境にあっては、身体よりも "意識" のあり方の不具合に直面する人が少なくないのではなかろうか。
 いつも言うようだが、 "過剰ストレス" 時代の最も怖い部分はここにあるように思えてならない。治療を要するような "鬱病" であるとか "認知症" であるとかの症状に陥った人が少なくないようだが、推測するに、いわば水面下の領域で悩む人の数は想像を絶する数に上っているのではなかろうか。決して、高齢者だけでもなさそうだからである。
 さすがに日曜日には "やみ雲電話(営業電話)" は掛けてこない。が、土曜日だとそれもめずらしくはない。昨日も夕刻近くにあった。
 先日などは、こちらが断った後、しつこく何度も掛けてくる始末であった。こちらとて、そんな電話に対応するために出勤しているわけではなく、抱えた作業課題を少しでも早くこなそうと躍起になっているところである。
 だからそんな電話が作業の邪魔になり迷惑でならない。おまけに、妙に、気分が急かされるようにもなるからなおのこと迷惑に感じる。
 このところ、米国も日本も "株価" が上昇している。
 こんな状況を自分は、< "根拠希薄" のままで推移する状況が気になる >と先日書いた。正直言って、 "そんなわけないでしょ" という思いなのである。
 だが、そうした否定的な観測を口にして "冷や水" を掛けたと言われたくないものだからか、エコノミスト達やマス・メディアは取り立てて疑問視する様子もない。
 が、下記のような報道記事を見つけてしまった。やはりそうか......、という感じがしたものであった。
  "儲からなくなった資本主義" という表現が印象的であった。昨晩、TVで観たとある経済番組のことである。
 資本主義何百年の歴史を鳥瞰すると、やはり "不死身" の資本主義経済といえども、確実に収益性を低迷させてきたという。経済のグローバリズム化傾向自体が、それを打破せんとしてむしろ最終局面に入っているとかだそうだ。
 また、今回の世界的金融危機は、何よりもそうした "儲からなくなった資本主義" があがきながら編み出した金融経済の、いわば当然の帰結だとも語られていた。
 語り手は、三菱UFJの水野和夫経済アナリストであり、落ち着いた説得力のある語り口であった。米国のあり方をしっかりと "相対化" しながらの分析は、とかく米国寄りの経済アナリストたちの軽薄さに比べると、視界の広さと読みの深さとを窺わせた。
 大型連休明けで気分が冴えないところへ持って来て、この鬱陶しい天候である。さぞかし、多くの人が不機嫌となっているのではなかろうか。そういう自分も同様である。
 もとより大型連休に見合ったことなぞ何一つとしてやれなかった自分だから、 "宴の後" といったような気分は毛頭ない。ただ、五月だというのに、 "五月晴れ" からは程遠い、まるで梅雨時のような天候にはげんなりしている。台風が近づいたとかとも聞くと一体どうなっているのかと怪訝に感じる。

 さまざまな不安が矢継ぎ早で発生している昨今である。が、ふと気づくと "慣れっこ" にもなり始めている自分自身を自覚したりする。あまり良いことだとは思えないのだが、そうした環境の事実が自身にもひたひたと近づく感触を持つと、どうしてもそれらに意が奪われて、いろいろなことが見えなくなったりもしていそうだ。
  "対岸の火事" のように遠くの出来事であったりすると、それらに不安感を抱いたりもする、あるいはできるのであろうが、自身も巻き込まれつつある状況となっては、もはや不安感どころではなくなるのかもしれない。そして、そうした切迫した状況が、本来であれば不安感などによって感じられる環境変化の事実を、実にさらりと見過ごしたりさせるのかもしれない。
 この連休、とうとう一日も休暇をとらずに作業に明け暮れた。おまけに、今日は、普段よりも "一時間の前倒し" 出勤となった。
 昨夜は、酔いに任せて早寝をしたためか、今朝は気持ちよく目覚めたのである。とにかく今の季節は、たとえ曇天であろうと明るくなるのが早い。そんなことで、もう一眠りしたい気持ちもなかったわけではないが起床した。

  "一時間の前倒し" 出勤で気づいた点は、当たり前であるが、午前中が長い。そう感じられた。
 通常、8時半、9時からの正午までは、あっと言う間に過ぎてしまう。ところが今日は、作業に取り掛かってから、まだ9時半だ、とかまだ10時過ぎだとかと知らされ、 "一時間の前倒し" のスタートがこんなにも違うものかと気づかされたのである。
 昨日は、< "将来への意欲" を喚起するような何か! をしっかりと掴んでいることが必要>という点を強調しておきながら、その点をさらに言及していく暇がなかった。
 この点は以前からも書き続けてきたことなのだが、要するに、格好良く言えば、環境が "火事場騒ぎ" のようになった時でも、地に足を付けて大局を見据えるべきだろう、ということになろうか。
 そして、そのためには、希望を持つとまで力むことはなくとも、少なくとも "将来への意欲" が喚起されている状態になっていないと困難なのではないかと感じている。
 とりあえず、その素材や対象は何でも良さそうに思っている。とにかく、そのことを考えてみるだけで所在無い気分から逃れられ、何か、 "心棒" が与えられたような座りが生まれる、といったようなイメージである。それは、ちょうど "軸" があるがゆえに回転して凛として起立していられる独楽(こま)の印象に似ているかもしれない。
 漸く自身に課した作業課題の見通しが良くなってはきた。これはこれで、ひとつの足場とは言わないまでも、手掛かり、足掛かりになり得る。
 しかし、それとは別に、何といっても外界の経済環境やら社会環境が度し難いほどに悪い。
 最近はいつもそう考えることにしているが、この時代においては、 "今が一番良く" て先々はどう転んでも低下、低迷の一途を辿るのであろうし、むしろ何が起きるかわからないほどに不安含みでしかなさそうである。
 株式取引のジャンルでも、全体的な景気動向である "地合い" が悪い時には、どんなに思案を巡らせてもいい結果を得ることは困難だとされている。まさにそんな雰囲気が支配している事態でありそうだ。
 やはり大型連休の中日ともなると、まるで正月のように道路が閑散としている。いい感じだなぁ、とひとりほくそえみながら事務所に向かった。

 もう、休日返上での勤務には哀しいかな慣れてしまったようである。とにかく、身体が続く限り、定時に起床して、一連の雑事を済ませ、決まったように事務所に来る。そして、気掛かりな作業案件におもむろに立ち向かう。すると、もう今日が何曜日だとかの感覚はなくなり、やがて作業課題の論理的な渦の中に埋没してしまう。
 事がうまく運ばないと、ちらっと、休みの日にがんばっているんだからもうちょっと "色を付け" てくれても良さそうだよな、なんぞと愚痴る。
 昨夜、三十何年かぶりで、ドラマ、あの "木枯らし紋次郎" を観た。
 かつて "気に入っていた" 映画や番組を "リメイク版" で観るというのは、ちょいと "ヤバイ" 気がするものだ。
 大体が、 "リメイク版" で大反響を呼ぶというのは少ないように思う。それも道理であり、やはり人間は "ファースト・インプレッション" というものを破格に強く抱く。そして、歳月が過ぎると、その印象は "熟成" されてしまい、表現を超えた思いへと上り詰めてしまうのではなかろうか。
 だから、客観的指標なぞ作品には求めにくいものではあるが、たとえ客観的に上回っていても、 "リメイク版" が "原作" の評価を凌ぐことはなかなか難しいようだ。

 昨夜の、中村敦夫ではない江口洋介の新紋次郎はどうであったかということになる。容貌などに関しては決して悪くはない。ただ、語り口が、ちょいとクリア過ぎる印象を受けた。死に損ないの渡世人、それが売りであった紋次郎としては、もっと疲れや倦怠感やらに染められて、 "しゃがれて無気力そうな発声" が欲しいところであった。
 そうでないと、あの有名なセリフ「あっしにはかかわりのねぇこって」の響きにリアリティが伴ってこないからだ。
 昼休みに散歩をしていたら、おかしなことに出くわした。
 自分は、よほど "何かお世話をしましょう" とでもいう雰囲気で歩いていたのであろうか。突然、曲がり角から現れた、 "ヘンなおじさん" が、「ちょっとちょっと」と手招きをして呼ぶではないか。
 何だろうかと不思議に思わざるを得なかった。今しがた、クルマの往来もなかったこともあり真昼の横断歩道を赤で渡っていたので、そんなことに文句でもつけようというのかとも思ったりした。
 その "ヘンなおじさん" の風体はというと、まさに、あの "志村けん" が演じる "ヘンなおじさん" そのものに思えた。鼻こそ赤くはしていなかったし、腹巻をしているわけでもなかったが、何の変哲もない作業着ふうの身なりで、作業帽のような帽子を斜めかぶりして、実にふわふわとした雰囲気を漂わせていた。が、顔は、真面目くさっている。
 別段人に害を加えそうな感じでは全然なかったこともあり、とりあえず手招きする方に近づいてみることにした。

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