yasuo hirose: 2009年4月 アーカイブ

  "就寝時の読書" というのは、意外と良さそうである。他の人の場合はわからないので自分だけのことかもしれないが、自然に "集中できる" からである。
 もっとも、調子に乗って深入りすると、眠気はどこかへ行ってしまうし、妙に頭や心が活性化されてしまって、眠るどころではなくなってしまうのが困る。

 どうして "集中できる" のかと考えてみるに、本に書かれていることに自然な雰囲気ですんなりと入って行けるからなのかもしれない。日中に広げてみると、結構、厄介な感触の複雑さを感じるような本でも、何となく親しめてしまったりするのだ。そして、その気になっていると、ホイホイというのは大げさにしても、かなり軽快に読み進めて行けたりするからおかしい。
 まあ、寝室の枕元周辺だけが明かるくて、部屋全体は暗いといった一般的な寝室の状況を思い描くだけで、 "集中できる" 環境だろうとは考えられる。また、人は眠る以外に他にすることがないといった状態に置かれると、否応なく "集中できる" ものだとも考えられる。



















 今日は、初夏の休日でもあるから、仕事の方は手際よく済ませて後はのんびりとしようかと思っていた。が、結局は、いつもと同じような推移となってしまった。
 いくらでもやるべき事があるのだから、よほどその気にならなければ作業に区切りをつけることにはなりそうもない。

 厄介なのは、何か目に見える形の完成を目指しているというよりも、とある技術ジャンルについての、自身の "理解度と習熟度" の向上をターゲットにしているため、いくらでもやるべきボリュームは拡大して行くことになる。
 しかも、理解度と習熟度の向上とともに、見えるべきものが見えてもくるため、ますます興味が強まって行くため、時間と体力さえあればいくらでも "はまり込んで" 行けるかのようなのである。
  "差別化" という言葉はやや扱いにくい。 "差別" という言葉の部分が別のニュアンスを引き込むからかもしれない。
 ただ、ビジネス領域で一般的に口にされる "差別化" というタームは、懸念されるような意味合いを含んではおらず、製品や商品において<他との違いを明確にして、独自性を積極的に示すこと>を意味する。そんなことをするのは "差別" ではないか、という人はまずいないであろう。

 モノやサービスが売れなくなると、やはり、 "差別化" の重要性が立ち上がってくるものだ。価格を引き下げることでの優位性作りというのは自ずから限界があるだろうし、安くしても売れないモノは売れない。
 どうしても、量的基準での "差別化" ではなく、質的な違いでの "差別化" がクローズアップされざるを得ないのだろう。
 ある人と話をしていたら、その彼が言ったものだった。
「景気が悪い時はじたばたせずに "縮み込んでいる" のが一番かもしれませんよ」と。要するに、何とかしようと、 "ムダ玉" を打つようなことはせずに、とことん "出(出費)" を絞り込んで "冬眠" でもするかのような体制がいい、というのである。
 十分に道理に叶っていそうだと感じさせられた。とは言っても、中には、そんなことはできないという事情があったりしそうだということも想像できるし、実感できる。
 むしろ "冬眠" ができて悪状況を往なせる会社というのは少ないのかもしれない。多くの零細規模の会社は、平常時でも、いわゆる "自転車操業" という経営状況であろうから、じっとしているわけには行かないのが実情のはずであろう。
 昨日はあんなにどしゃ降りであったのに、今日はガラリと変わっての晴天だ。ゴールデンウイークに期待をかけている人たちは胸をほっと撫で下ろしているのだろうか。
 天候がどう変わろうと自分のような立場の者には一向に関係ないわけだが、それでも初夏のようなこうした天候だと、やはり気分が支えられる思いがするものである。
 しかし、昨今のこの地球上の出来事は "不穏さ一色" で染め上げられているかのようだ。世界的な金融危機の混乱が収まってもいないうちから、 "豚インフル" とかという不気味なインフルエンザが広がろうとしているらしい。これもまた "迅速な対応" によって、一刻を争う事態を的確に制圧してもらいたいものである。

<豚インフルエンザ(2009年4月25日)A型インフルエンザウイルス感染による豚の呼吸器疾患。豚で定期的に大流行するが致死率は低い。通常は人に感染しないが、豚を直接触った人の感染が散発的に発生、人から人への感染例もある。症状は通常のインフルエンザと似た発熱やせき、嘔吐(おうと)など。豚は、人や鳥のインフルエンザウイルスにも感染し、豚を介した新型インフルエンザ発生の可能性が指摘されている。十分加熱すればウイルスは死滅し、豚肉を食べても感染しないとされる。1976年に米国の陸軍施設で集団感染が発生し1人が死亡。>(共同通信)
 ラジオ番組で、とある "哲学者" のつぶやいた事が耳に残っている。
 地球温暖化問題に象徴されるような、巨大な問題が暗礁に乗り上げてしまったかのような現代には、ざっくりといって大きな二つの原因がある、と。
 その一つは、 "個人の孤立化" であり、もう一つは、 "超スピード化した環境変化" である、と。特別に新奇さがある指摘ではないが、まさしくその通りだと思えた。
 両者に共通する点は、自然なり社会なりの環境そのものを制御、コントロールする主体が脆弱ないしは無力となったことではないかと判断できる。
 民主主義という考え方の本質は、個人の尊重ではあるが、では個人とは何かと言えば、 "民(たみ)" という "集合的存在" をベースにするしかないわけであろう。人間の存在の仕方それ自体が "集合的存在" でしかあり得ないからだ。それは、生物学的レベルでもそうであるし、文化的レベルでももちろんそうであろう。
 花見の季節だなぁ、なんぞと思う間もなく、桜の樹は葉桜になってしまい、新緑の季節へと急旋回している気配だ。もう、ゴールデン・ウイーク間近だというのだから、まさに光陰矢のごとしと言うべきか。
 もっとも、ここ何年も、春の季節をのんびりと、じっくりと堪能した覚えなぞない。世知辛い雑事の推移を追って、あくせくする連続であったような気がする。仕事や生活の場から離れて風光明媚な自然に接することもとんとご無沙汰している。精々、都会のただ中に残された慎ましやかな自然で目が休まるくらいであろうか。まあ、それで十分かなぁ、と思うことにしている。
 先日、「さすがに "文明国" フランスは "Bravo !" 」と感じさせられたものであった。それは、以下の報道記事であった。

<フランスの棒高跳び選手、裸で走る動画公開
 3月29日、フランスの棒高跳び選手ロマン・メニルが裸でパリ市内を走る動画をネットで公開。写真は昨年4月の大会で跳躍するメニル(2009年 ロイター/Eric Gaillard)
 [パリ 29日 ロイター] フランスの棒高跳び選手ロマン・メニルが、競技用のポールを持って裸でパリ市内の観光スポットを走り、その姿を動画に収めて公開した。スポンサーを募るために注目を集めるのが目的だったという。
 2007年の世界陸上選手権大阪大会で銀メダルを獲得したメニルには、米大手スポーツ用品メーカーのナイキ<NKE.N>がスポンサーについていたが、昨年に契約が打ち切りとなった。
 メニルは自身のウェブサイト(www.romain-mesnil.com)で「おそらく予算などの問題だと思う。危機的な状況だ」と訴えている。
 世界的な不況で多くのアスリートが企業とスポンサー契約を結びにくくなっている中、この動画は注目を集めており、フランスでは国営放送のゴールデンタイムのニュース番組で紹介された。>( ロイター 2009.03.30 )
 ついつい、次のようなニュース記事には目を止めてしまう。老化に関しては、身体だけではなく、脳の働きについても懸念している証拠であろうか。

<コーヒー飲みアルツハイマー病予防?...カフェイン効果に期待
 コーヒーやお茶などに含まれるカフェインに、アルツハイマー病の予防効果があるとする研究結果を、森隆・埼玉医大准教授と米フロリダアルツハイマー病研究センターなどが動物実験からまとめた。
 米国で近く患者らにカフェインを投与する臨床試験に入る。米専門誌に論文が掲載される。
 物忘れがひどくなるアルツハイマー病は、脳にたんぱく質のアミロイドベータ(Aβ)が異常に蓄積して、神経細胞が死んでしまう。研究チームは、生まれつきAβが蓄積しやすいマウスに、1日あたり約1・5ミリ・グラムのカフェインを水に溶かして4~5週間与えた。人間がコーヒーを毎日5杯ずつ飲むのに相当する。
 その結果、カフェインを与えないマウスに比べ、記憶力の低下が改善した。記憶にかかわる脳の海馬や大脳皮質では、Aβが蓄積した「老人斑」の形成が4~5割減少した。カフェインがAβを作る酵素の働きを抑えることも突き止めた。
 森准教授は「カフェイン入り飲料は広く飲まれており、病気の予防や進行抑制の効果を注目していきたい」と話している。>(2009年4月22日14時36分  読売新聞)
  "Web アクセスビリティ" という、ウェブサイトへの評価基準がある。
 ちなみに次のような説明文がある。

 <Web アクセスビリティとは、直接的な言い方をすれば「見えない、聞こえない、体の一部が動かせないなど、心身の機能になんらかの能力的な障害があっても Web を利用できること」となります。この「 Web を利用できる」ということには、まず情報自体を得ることができ、得た自用法の内容が正しく理解でき、必要な操作を行うためのユーザーインターフェイスも利用可能である、という3つの意味が含まれます。>(大藤 幹『標準Webデザイン講座 スタイルシート』翔泳社/2006.09.20 )

 なぜ改めてこの言葉に着目するかというと、自分も、こうした観点にはそれなりに配慮をしてきたと思い込んできたのだったが、結構、表面的なことでしかなかったようだ、と幾分反省的な思いとさせられたからなのである。
 同書には次のようなくだり(行)もあった。
 事務所のあるビルには、デイ・サービスの会社も入っている。そんなこともあり、最近はクルマ椅子に座るお年寄りを頻繁に目にするようになった。
 それだけでもなく、町を歩くと、あちこちでそうした光景を見かけることがめずらしくなくなった。いよいよ "高齢化" とそれに伴う問題の波が足元にまで迫っている実感を拭い切れなくなった。
 年齢的な関係からいってやむを得ない現実であるが、今、団塊世代は、その親世代がさまざまな "高齢化障害" を抱える時期となっている。80代後半という年齢は、むしろ、何一つ身体やその他に異常がないという方がめずらしいのではなかろうか。

 自分のおふくろも、その例にもれず、種々の成人病を抱えて病院通いをしている。幸い、いまのところ安定はしているようである。ただし、いつ何があっても不思議とは言えない状態なのだろうと見つめている。
 家内の実家の方の母親もまったく同様である。いや、幾分年齢が上だということもあり、より心配をする度合いが高いとも言えそうである。
 昨日も、そんな義母の姉妹のひとりが苦しい闘病生活に終止符を打って永眠された。家内のことをいつも見守り、可愛がってくれていた叔母だっただけに、家内は大きな落胆と悲しみに落ち込んでいる。
 最近、自分自身がやや "弱気" になっているかと心配したりする。別に、 "強気" になりたいとは思わない。ただ、無自覚に "弱気" になっているのは、ほとんど病気に近い悪循環を生むだけだから振り払うべきかと......。
 それにしても、無自覚に "強気" となっている連中が多いようだ。恐らく、彼らは "強気" で振舞っている自覚なんぞまるでないようである。要するに、最低限の感性や想像力や、いやそれ以前に知性や合理的思考を放棄しているのではなかろうか。そうであれば、出たとこ勝負の条件反射を、あたかも動物のようにしてゆけば済むのだから、 "強気" も "弱気" もなかろう。

 どうもそうした連中がやりたい放題をやっているという印象を捨て切れないのは自分だけではないような気がする。
 まあここで、そうした連中の "罪状リスト" を作ってみたところで何もはじまりそうにない。
 むしろ、こうした傾向が、残念ながら現状では蔓延し始めているということを再認識することと、こうした環境だから、 "正直者が馬鹿をみる" ではないが、まともな感覚の人がややもして "弱気" となってしまう傾向にこそ注意すべきかと考えるわけだ。
 その時には、ほとんど何が何だかわからないような技術書なども、結構、買い込んだりする方である。
 言うまでもなく、そうしたことをした当初は、多少のワクワク感がないではないのだが、大抵は、その書籍を開くなり、目の前が真っ暗になるというか、ほとんど "眩暈(めまい)" に及んでしまう。これからどうやってこれを自分のものにすればいいのかを考えると、肩の荷の重さに打ちひしがれそうにもなる。これまでにも、何度も同じようなことがあった。
 自分の学習法というのは、基本的に "独学" である。世間には、それなりの "スクール" があり、比較的新しい技術分野の事柄に関しても "~日短期習得コース" などというものがあったりする。費用面はそこそこ "いい価格" の場合が多いが、もし、それで本当に習得できるならば決して高くはない、という判断をしている。
 しかし、そうした "スクール" なり "コース" なりに参加したことは数えるほどしかない。そして、あまり好感を持たなくなってしまった。記憶に残っているのは、クルマの教習所くらいであろうか。それとて、途中、故あって、とある私有地でのトラックの運転の機会に恵まれ、実質的にはそこで多くを慣れたものだった。
 まあ、 "スクール" なり "コース" なりというものは、まったくの素人に、冒頭に書いた "眩暈(めまい)" を回避させるくらいの効果は与えそうである。しかし、身につく形で学んだり、習得できたりするのは、やはりその後の "独学" 的な段階に踏み込んでからのことではなかろうか。
 人が "意識上" で考えることなどというものは高が知れているようだ。むしろ、 "意識下" やその他で身体全体が、 "意識上" とは別の動きをとっていることの方がはるかに大きな部分を占めているのかもしれない。
 よく言われることで、心配事やその類のことを抱えていると、寝つきが悪くなるということがある。確かに、よほど疲れていない限り、そうしたことは起こりそうだ。
 当人は、そんな心配事を明日は果敢に解決するためにも、今夜は速やかに眠りたい、と思ったりするわけだが、なかなかどうして、 "意識上" の合理的な判断とは別に、頭の方はさまざまな想念や妄念(?)を次から次へとジェネレイトして、穏やかな心境にはなれなかったりする。
 もともと、頭脳というものは、 "エンドレス" 的に働き続けるものだとされている。眠る前などは、よほど効果的に、 "ハイ、今日はここまで!" と言い聞かせないと、いつまでも "一件落着" を求めて働き続けるのだそうである。
 そんな時は、 "ハイ、今日はここまで!" なんぞと、子どもに言いつけるようなことをしてもほとんどムダであり、とにかく何らかの "暫定的結論" をしっかりと自覚することが良いと聞いたことがある。そうしたものが自覚されると、ようやく頭脳の方は、それならば一息入れるか、とばかりに緊張を解くらしい。
 今でもリストラは猛威をふるっているが、ひと昔前、大量のリストラが世間を揺るがした頃に、笑うに笑えないお粗末な話があったものだ。
 管理職クラス、それも部長クラスにもリストラの波は襲ったものだった。で、それまで実務も知らずに、いわゆる "ゼネラリスト" としての部長職でふんぞり返っていた者たちも世間に放り出されることとなったわけだ。
 そんな者たちが、職を求めて就職活動を行った際、面談者から、「あなたは何ができますか?」との質問に、「ハイ、私は "部長" ができます」と答えたというのである。
 その結果は推して知るべしであるが、もうそんな世間知らずの年配者はもはやいないものだと思いたいものである。
 が、そこまでの御人好しではまずかろうが、意外と、自己保身欲(力)や訳のわからない政治力だけをサバイバルの武器にしてゾンビのように生きている輩は居続けているのだろうなと思える。
 <六十の手習い>とか<八十の手習い>という謂(いわ)れ、あるいは "Never too old to learn." というフレーズがあるのはよく知られている。
 現に、多くの熟年世代の人たちがいろいろなことにチャレンジしている話題を耳にする。また、その受け皿もさまざまな形で用意されているようにも見かける。いよいよ高齢化社会が眼前の出来事となっているわけなので、もっと重要視されていいはずのことなのだろうと思うわけである。

  "学ぶこと(learn,study,training......)" は、本質的には、他の目的を必要としない "自己目的" 的な喜びなのだろうとは思うけれど、現実的には、 "動機づけ" や "インセンティブ(insentive,誘因)" が必要となるのかもしれない。ちょっとそんな側面のことを考えてみようかと思う。
 その最も一般的でかつ強引なのは、言うまでもなく "金銭的動機" なのであろう。長年そうした環境で生きてきたことも理由だし、また、現に生活している環境はますます "市場経済" 的傾向を強めている。さらに、熟年者の生活にとっても、昨今の貧困な社会福祉環境は、 "金銭的" な困窮を強く自覚させるものであるだけに、何をするにせよ "金銭的動機" を意識させることになっていそうだ。
  "Adobe(アドビ)" 社のソフトは、 "Photoshop" をはじめとして "Flash" 、 "Dreamweaver" 、 "Acrobat" などと、最も多く、かつまた心地よく愛用している。
 しかし、ついぞその社名の意味に関心を向けることがなかった。が、昨夜、BS放送を見ていて、ひょっとしたらここから来ているのかな? と推測したものであった。

 その番組とは<アメリカ魂のふるさと「大地に生きる建築~ニューメキシコ州 サンタ・フェ」>というものであり、その風景は、いかにもメキシコ風といった美しい建物で特徴づけられ、また、乾いた空気を十分に想像させるもの(年間で300日が晴れだとか)であった。こんな場所ならば住んでもみたいな、などと思わされたものである。
 建物と乾いた天候とは、密接に関係しているとのことであり、その両者を折り合わせているのが、「日干しレンガ」だというのである。
 今日もまたあっという間に一日が過ぎてしまった感じだ。
 そこそこの作業進捗はあったというものの、一日を一体どんなふうに過ごしたのかと訝しく思う感触だ。
 大体が、多少梃子摺りがちな "バグ" 潰しに遭遇するとこんな状態となってしまう。大したことがない問題であれば、とりあえず後回しにでもすべきなのだが、結局は、重箱の隅に潜り込んで行くのだから始末に負えない。もっと "ザックリ、ザックリ" と大掴みに事を為して行かないと大いに拙い。
 昨晩は、松本清張の短編『駅路』をTVドラマ(松本清張生誕100年記念ということでフジテレビ制作)で観た。
 原作:松本清張、脚本:向田邦子(30年前に書かれたとか)、出演:役所広司・石坂浩二・十朱幸代・唐十郎など、落ち着いたスタッフたちによるものであったため、2時間を越えるものであったがお付き合いすることにした。
 観ながら感じ続けていたことは、作家・松本清張の "リアリストの眼" とでも言うべき視点が、やはりこの現代においては不可欠なんだろうな、という点であった。
 それは、人間と社会、時代を鋭く凝視する視点のことである。そこにはことごとく奇麗事や余談を排して、虚飾を見破るとともに、冷徹とさえ思われる捌き方で、対象である人間や社会に迫っていく力強さが余りある。
  "画期的な進捗" が欲しいところである。現在自分で設定している作業課題についてのことである。そうしたものが得られれば、このところ、ジャブと言わず、パンチと言わず "猛打" を受け続けてヨレヨレ気味になっている気分が、多少なりとも払拭されるのに......、と思う。
 しかし、決して "後退" はしていないし、贔屓目で見るならば、 "薄皮を剥ぐ" たとえ以上に進展していそうである。

 今日も、晴れやかな天候に誘われるがごとく、朝一番で事務所を訪れ、さっそく作業に取り掛かった。昨夜から気になっていた思い通りに行かない部分を徹底的に調べ上げたのだ。
 こうした作業でこそ、 "閃き" のようなものが到来して、前述の "画期的な進捗" を得ることができれば、どんなにか精神衛生上良いか、いややる気を刺激されることだろうにと思ったのである。
 まあ、無いものねだりをしたところで始まらないので、あたかも "地を這う虫(高村薫?)" のように事に当たるわけである。
 すると、どこかに蟻の這い出るほどの隙間が生じ、何とか、打開できたりする。
 昼食に外出した際、両親に手を引かれた "ピカピカの一年生" らしき子どもたちを見かけた。今日は午前中いっぱい緊張させられたのかもしれないが、歩く姿は、甘えん坊そのものである。フニャフニャ、デレデレといった感じに思えた。
 しかし、胸に "花飾りのリボン" を付けてもらって歩いている子どもは、何とも言いようがなく可愛い。これからは楽しいことも数多くあろうけれども、いろいろと途方に暮れるような辛いことにも出会うのだろうな......、などと想像すると、がんばるんだよ! と密かに激励したくなったものだ。
 どんなに憂鬱な気分であろうが、そんな小さな子どもたちのあどけない姿や、無頓着な小動物たちを目にすると、思わず顔が笑みでほころぶというものである。

 そんな矢先に、次のような報道記事が目にとまり、これこそ "ニュース" だな、と感心した。
 もっと以前から手掛けておけば良いと思われること(技術的な事柄)を、あくせくと追い上げて、今日も一日が過ぎようとしている。時代環境の悪化するスピードは驚くほどに速いが、とにかく時間の過ぎ行く速度に追いまくられている気配が濃厚だ。
 まるで、米国映画に出てくるような、巨大津波か何かのうねりに追われて逃げ惑っているような錯覚に陥ったりしないでもない。逃げ切れなという感覚が充満しながらも、必死で逃げざるを得ない心境は、今を生きる多くの人々に共通することなのかもしれない。
 技術的作業にトラブルは付き物であるが、当惑させるのは、ロジックの問題ではなくて "環境" の制約によるものであり、それは見当がつきにくくて困る。つまり、人為的な "環境" 設定の中に、「そういうことになっているんです」という条件が組み込まれていて、それが知らされていないようなケースのことなのである。
 今日も、そんなトラブルに遭遇して右往左往させられてしまった。たまたま、自分側にもちょっとしたミスがあって、タイミングから言えば、それが原因であるかのような思い込みをさせられたことも、事を複雑にしてしまったようだ。
 若干うろたえる気分を抱きながら、あれやこれやと原因を詰めていったところ、そんなこと知らされてなかったよ~、と言いたいような制約条件をプロバイダー側のサーバーに見出したのであった。詳細は措くが、要はサーバー使用容量の制約であり、しかも、契約容量全体のそれではなく、特殊な領域についての制約だったのである。
 契約容量全体の制約については、これまでにも何回か遭遇した経緯があったので、当初はそのことかもしれないと推測した。ところがそうではなかった。
 こんなふうに、技術的原因というよりも、人為的に定められた環境設定条件が隠れていると、それを認識するのは結構骨が折れる。
 こうした時期だけに、売上が上々であるとか、活気があるとかという "元気な企業" が注目されている。マス・メディアも、それが珍しいがゆえに何かと取材しているようである。
 昨夜のTV報道番組でも、この不況に業を煮やしたIT企業が、 "スイート" に矛先を変えたというものがあった。 "スウィート" といっても、ソフトウェアスイート (Software suite よく使われるアプリケーションソフトウェアや機能的に関連のあるプログラミングソフトウェアを特定用途向けに一まとめにされたソフトウェアパッケージのこと。)ではなくて、文字通りの "sweet(お菓子などの甘いもの)" だというのだから恐れ入ってしまう。
 精密機器会社が、ピンセットを使用することになれているとか、工場設備が似つかわしい(?)とかで、 "精緻な" 模様の菓子製造に矛先を向けたというのがひとつであった。
 また、IT技術者などの派遣会社が、 "鯛焼き" 製造販売を始めて、そのための専用車を数台調達したというのも紹介されていた。
 昨今、やたらと "お一人様" という言葉を耳にする。
 この言葉を意識するようになったのは、確か去年の夏であったと思うが、NHKの番組で<永井荷風 「お一人さま」の天才>という番組に接したことがきっかけになっているのかもしれない。
 わずらわしい人付き合いを好まなかった荷風が一人暮らしを通し、孤独な人生を優雅さと独立心で邁進したとのことなのであった。そのイメージによるものか、 "一人暮らし" というどちらかと言えば暗いトーンの言葉が、 "お一人様" ライフという軽妙な言葉に置き換えられたかのような感触を抱いた。
 もちろん、 "お一人様" ライフとは言ってみても、荷風自身もそうであったことが否定できないと思われるが、 "一人暮らし" が秘めた底なしの孤独感と寂寥感は、そんなに容易く受け容れられるものではなかろう。
 再々 "SEO( Search Engine Optimization 「検索エンジン(最適化)対策」)" を話題とする。
 昨今のHPが陽の目を見るには、まさに "検索エンジン" の動きをターゲットにした対策、それが "SEO" であるわけだが、それを実施しなければ功を奏さないことをこの間にいろいろと書いてきた。
 というのも、昨今のHP閲覧の大半が "キーワード検索" からのアクセスなのであり、一頃注目されていたかもしれない "ポータル・サイト" などから当該サイト名をクリックしてアクセスしたり、あるいは "お気に入り" などからアクセスするという頻度がめっきり少なくなったようだからなのである。
 要するに、ネットユーザーによる "キーワード検索" で "上位表示" されるかどうかで、HPへのアクセス度合いがほとんど決まってしまうのがほぼ実情となってしまったわけである。
 そんな実情が固定化しつつあるからこそ、 "SEO" がもはや当たり前のごとく着目され留意されてもいるわけなのである。
 久しぶりに近所にあるビデオ・レンタルに足を運んだ。
 今日は、アンマ・チェアに座って背中を揉み解すしかないようだったからだ。昨日あたりから、背筋の "筋違い" にでもなったのか、やたら肩甲骨付近が痛んでならない。
 <久々に身体各所に "ホンネ" を吐く機会を?>なんぞと言っていたら途端に "ホンネ" をぶつけられたようで参ってしまった。
 それで、アンマ・チェアなのであり、だから "ビデオ" でも観るか......になったのである。
 ところで、ビデオを借りることは嫌いではないのだが、年に何度も借りないようである。今日も、予想どおりのことを言われてしまった。
「お客様、カードの方が切れておりますので更新いたしましょうか?」と。何だか、訪れるたびに言われているような印象があるところをみると、まさに年に一、二度くらいしか利用しないのかもしれない。
 先日ある人と景気などについて話していて、出るべくして出た言葉があった。
「世間では百年に一度の "危機" だと言うけれど、ホントにそんなに悪いのかなぁ?」
というものであった。
 その人は何かにつけて、日本人が持つ個人金融資産の総額は "1500兆円" もあるのだと強調していたので、その辺の持論から来る感想なんだろうとすぐに推測できた。
 まあ、今回の "金融危機" で、持つ人は持つ人で想像を絶するような "目減り" を迎えたのであろうけれども、その "1500兆円" 規模の資産が大きく "目減り" することはあり得ない、と言いたげであった。
 さすがに "休日返上" を二ヶ月も続けていると疲れが溜まってしまうようだ。今日は、仕事の区切れもあり、臨時休業をすることにした。
 最近は、朝寝もあまりしなくなったが、 "休暇" にしようと思い定めた今朝は、久々にのんびりと眠った。
 今日は何をするでもなく過ごそうかと思ったが、とりあずトコヤにだけは行っておくことにした。ただでさえ鬱陶しい気分に見舞われているのに、髪の毛まで鬱陶しいのでは話にならないからだ。

  "休暇" というのは、無くそうとすれば決して不可能なことではない。現に、いわゆる年中無休体制で働いている人たちだっているはずであろう。
 ただ、ムリをすべきではなかろうと考えてもいる。気分はもちろんのこと、身体自体もその気になりさえすれば、結局は "気力" に従うもののようである。何が何でもやる! と一度 "気力" が凝り固まれば、その他の側面は意外と従順な対応をするわけだ。
 がしかし、 "気力" 主導型のあり方というものは、やはり各所に "しわ寄せ" をもたらさずにはおかないのもまた事実のようだ。そして、その "しわ寄せ" というのが、必ずしも軽視できない。
 年度替わりということもあり、ようやく複数サイトの "リニューアル" を実施した。
 "リニューアル" と言っても、表面的な概観はそんなにチェンジしていない。また、コンテンツ自体の入れ換えも大したことはない。
 いわば、目立たない "縁の下" や "天井裏" 、そして地震対策でもなかろうに骨格構造などに手作業を施したのである。
 この間、 "SEO( Search Engine Optimization 「検索エンジン(最適化)対策」)" の視点からのサイト全体の見直しをかけていたが、そうした観点での見直し作業というのは、意外と手間ひまのかかるものであり、そのくせ概観にはさほどの変化が表れてはこない。
 しかし、これでようやく "SEO" を詰めてゆくためのスタート台に立てたかという感触は得ている。まだまだ、いくらでも手抜かりな部分が見つかりそうではあるが、大事な点は "改善意欲" を殺がない程度に先ずは素材対象を底上げしておくということではないかと思っている。
 正直言って、これまでは、あまりにもこうした手間と関心を放棄し続けてきた様子であったかもしれない。散らかし放題に散らかしてしまった部屋を片付けようとするのは、誰にとっても結構、億劫であるに違いなかろう。手を付けると途端に数珠繋ぎ的に始まる膨大な作業で押し潰されそうな気配を感じるからであろうか。だから、とにかく、手を付け易い程度の底上げだけはしておかなければならないということだ。

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