yasuo hirose: 2010年1月 アーカイブ

 最近、心に残り、宿っている言葉に次のようなものがある。

「苦しみもなんにもない笑っておるような明るい時よりも、本当にどうしようかと追い詰められた時、そういう絶体絶命に追い詰められる時に、実は、もう一人の自分が静かに目を開いてくれています。自分を救う者はもう一人の自分。」

 この言葉は、 "禅" の宗教家の "松原泰道" さんの再晩年の言葉だ。松原さんは、101歳という長寿を全うし、2009年に没し、そのプロフィールは、NHK「あの人に会いたい」という番組に収録されている。
 松原さんは、禅宗(臨済宗)の寺に生まれながら、既成の宗派に囚われることなく、仏教を生きる知恵として説き明かし続け、 "辻説法" 的な活動で庶民に溶け込んで一生を過ごされたようである。(主な著作、『般若心経入門 276文字が語る人生の知恵』ほか)



















 まだまだ朝晩は冷え込むため、外猫たちのための猫小屋には相変わらず "湯たんぽ" を二個も入れてやっている。外猫のうちの一匹は、年齢不詳ではあるが多分十数歳以上となっているはずの高齢である。黒猫は長生きすると聞いたこともあるが、加えて食欲が旺盛であることも長生きをしている理由かと思っている。
 そんな猫だから、冬の冷え込みで体調を崩させたくないため、面倒ではあるが "湯たんぽ" を欠かさず取り替えてやっている。当人(?)も大いにありがたがっている様子だ。

 で、この "湯たんぽ" が今結構人気を集めているらしい。ホームセンターなどでも、他の暖房用品に負けず劣らずの展示スペースが与えられ、安売りの目玉商品のひとつともなっている。
 景気低迷最中での節約志向が "湯たんぽ" への人気を呼んでいるのかと了解していたが、確かにそれもありそうだが、それよりも、主たる理由は別のところにありそうであった。
 昨日、あるTV報道番組で、「 "冷える" カラダ ~温かい体を取り戻せ~」(NHK 特報首都圏 2010.01.29)というものを観た。
 かねてより、 "体温" と健康という関連には関心があったからだ。
 たとえば、新聞の広告欄で『体温を上げると健康になる』(齋藤 真嗣 著 / サンマーク出版 / 2009/3/16 )という単行本の謳い文句に、<体温が1度下がると免疫力は30%低下する。米国・EU・日本で認定されたアンチエイジングの専門医が教える体温アップ健康法。>と書いてあるのを目にすると、なるほど、そうかもしれないな......、と共鳴したりしていたものであった。
 今朝のウォーキングで何となく "気づかされたこと" があった。
 春まだなお遠く、ではあっても、刻一刻と春へと滑り始めた感のある今日この頃である。そんな気配が再確認させられるような光景に出会った。
 ひとつは、ウォーキング・コースの遊歩道脇の植樹である "山茶花(さざんか)" が、来年に備えて一斉に "剪定" されている光景であった。
 北風吹き荒ぶ冬の間中、紅色の花を気前良く咲かせることで見る者を寒さから遠ざけてくれた "山茶花" であったが、それぞれの木々は一通りの開花を終えたかの様子となっていた。
 ということだからなのだろうと思うが、市委託と思しき専門業者が、大胆な剪定作業を行っていたのである。植木の選定時期は、確か "開花終了時" だったかと思う。来年また、真冬の寒さの中を行き交う人たちの目を癒すためには、この時季でのタイムリーな "剪定" が必要だということなのであろうか。
 背丈の切り詰めもなされた木々の姿は幾分哀れでもあったが、こうした大胆な "剪定" が翌年の旺盛な開花という "若返り" をもたらすものなのかもしれないと思えた。
  "リアルタイム性" に関する "余談" をしようかと思う。
  "リアルタイム性" ( "同時性" )が重視される環境というのは、何を "犠牲" にすることに繋がるか、というようなどうでもいいような疑問なのである。
 ところで、据え置き型にせよケータイにせよ、電話というのは受け手側にとっては "突然" 呼び出される仕掛けとなっている。当てにしている電話を待つというケースは別であるが、一般的には、電話が掛かってくることは "突然" ということになり、誰であろうが、仮に営業の電話であろうが、とりあえず出なければならない。
 なおかつ、受け手側は、それまでやっていた事、考えていた事、いわば自身のその時間の流れを一時ストップして、発信側の用件に即応しなければならないわけだ。
 考えてみると、これはかなり "暴力的" なことではないかと感じている。たとえ、相手が付き合いの深い人であったとしても、他者の仕事、生活のただ中に "突然割り込む" というのは、個人生活尊重、プライバシー重視という現代にあってはいささか不釣合いであり、極論すれば "暴力的" だとさえ言えなくもないと......。
  "リアルタイム性" の問題を考える時、 "リアルタイム" の意味を "同時性" と了解してみるとわかりが早いと思われる。
 じゃあ何が "同時" なのかというと、あることが起こる(たとえば情報が伝わる)ことにおいて "地域間" での差異、格差が消滅して、 "同時" になったということである。
 言うまでもなく、かつての社会環境では、地理的・空間的な隔たりが決定的な条件となって、情報の伝播(でんぱ)にあっても大きな "ズレ" をもたらした。その原因は、通信・交通手段が相応の時間を費やす環境だったからだと言える。
 ところが、現代という時代環境では、インターネットという通信手段や、超高速移動手段としての交通の発達をはじめとした環境変化が、あらゆる資源の根本とも言える情報の移動速度を "瞬時" になし遂げる事態を生み出した。しかも、ヒトの移動、物資の移動速度の超高速化が引き起こされ、結局、物事の伝播に関しての "地域間格差" をほとんど "ゼロ" と見なしてよいほどの状況にしてしまった。
 加えて、 "グローバリズム" の趨勢というものは、その状況の進展に大きく拍車をかけるものであったはずだ。
 PCを介しての "TV録画" と "DVD焼き" については、とりあえず満足できる程度にまで習熟してきたかと思う。この間、何かと試行錯誤をしてきた "地デジ放送" の(予約)録画とその "DVD焼き" (CPRM対応メディアによるもの)についても、まずまず無難にこなせるところまで来た。
 この "TV録画" の調整作業をしていて、 "とあること" にこだわってしまった。
 録画専用デッキなどでは何ら問題にならない事柄だと思うが、PCをプラットホームにして、関係機材を繋いでの方式となると、若干の "調整" が必要となる。
 そのうちで、気になってこだわったことは、 "録画開始時刻" についてであった。
 活用しているアプリケーションソフトには、 "番組表" もあり、その "タイム・テーブル" をもとにすれば "予約" 操作が可能にはなる。
 が、録画開始画面に多少の "ズレ" が生じてしまうのだ。ある場合には、前の番組の末尾から録画されたり、またある場合には番組の最初の画面が録画できなかったりという具合である。この原因は、PCが刻む "時刻" と、放送波に基づく "録画ソフト" 側の "時刻" とが微妙に "ズレ" るからなのである。細かいことは省くが、こうした "バラツキ" に "同期" 調整をしてやらなければならなかったのである。
 まあ、どうでもいいといえばそうなのだが、これまで、 "アナログ放送" の録画では、自分は "編集" ソフトを使って "几帳面" に編集して来た。とりわけ、開始画面と終了画面は整序してきた。だが、 "地デジ放送" は "CPRM(著作権保護のためのプロテクト)" ゆえに "編集" ができない。それゆえに、 "開始・終了" 画面の各々は、録画時にできるだけ上手く対応しておきたいというわけだったのである。
 まあ、PC側の "時刻補正" を "インターネット時刻" の機能で調整してみたり、アプリソフト側の時刻補正調整などをしたりすることで、1秒未満の差異に収まるような "同期" をとることができたようである。
 世界経済の中で "中国" の躍進がめざましい。そして、それとは "光と影" のような格好で日本の動向が懸念されてもいる。
 今日の "ロイター" 通信では、以下のような報道があった。

<中国GDP、年内に日本抜く可能性も─ゴールドマン=独紙>(jp.reuters.com 2010年 01月 25日)

<[フランクフルト 24日 ロイター] ゴールドマン・サックスのチーフエコノミスト、ジム・オニール氏は、中国が2010年中に日本を抜いて世界第2位の経済大国になる可能性があるとの見方を示した。同氏の従来予想では、順位交代は2011年としていた。
 同氏は24日付のドイツ紙ウェルト・アム・ゾンタークに対し「(2011年より)早くに順位が交代する可能性もある。早ければ今年半ばには交代するかもしれない」と語った。
 また、中国経済は2020年までに3倍の規模に拡大するとの見通しを示した。>(同上サイト)
  "政治資金" 問題が、国民感情を逆撫でしているのは残念なことだ。荒っぽい見方だと言われるかもしれないが、 "シロ or クロ" の判別なんぞはこの際大きな関心対象にはなり得ない、というのが大方の感覚なのではなかろうか。
 どんなに重要な用途の土地であったのかはわからないが、4億円だ、7億円だという巨額のカネが政治家一個人の範囲で右から左へと融通できるというありさまは、まったくもって国民感情からは乖離している、と言わざるを得ない。
 日々の生活自体が押し潰されようとしたり、不安にさらされている国民生活の苦しい実態が、政治家たちをも含めての緊急な国民的課題とならなければいけないはずだろう。 "政権交代" を選択した国民各位の切なる願望はそこにあったはずだ。

 しかも、緊急を要する一連の政策が速やかに実施されてゆかなければならない時期である。言うまでもなく今国会の課題は、一国も早く、出口が見えにくくなっている国民生活の窮乏に見通しと展望を作り出して行くこと以外ではなかったはずだ。
 なのに、相も変わらず "政治家たちの悪癖問題" で、貴重な時間や労力がムダにされようとしている。正直言って、 "憤懣やるかたない気分" である。 "こんな問題" に、それどころではない国民をつき合わさせないでくれ、と言いたいところだ。
  "小田原評定" 的 "政治" のレベルでは、いろいろと "重箱の隅を突く" ような事柄もあるには違いなかろうが、(国民的)事件は現場(現実の国民生活の場)で起きている! のである。政治家たちや検察当局のデスク上で弄ばれてよいわけがない。
 とにかく、ここは思いっきり "政治素人" になり切って、さっさと "迷惑な事態" を取り片付けてくれ! と開き直りたい......。
 ウォーキングの途中、ふと見上げた視線が捉えたのは、人家のTVアンテナのてっぺんに留まっていた "白鷺" であった。青く抜けるような冬空を背景にしてその "白鷺" はのうのうと辺りを見下ろしている。さぞかし良い "見晴らし" であるに違いない。
 と、同じ視界に、別のものが飛び込んできた。遠くの鉄塔(高圧送電線鉄塔)のこれまたてっぺん付近に人の姿らしきものが見えたのだ。目を凝らすと、ヘルメットを被った作業服姿の人であった。
 ああ、この寒い中、まだ送電線架線工事をしているんだな、と納得したが、それも束の間、 "奇妙な事態" に気づくことになった。
  "送電線" そのものが消えて無くなっていたのだ。その代わりであるかのように、一本の "ロープ" のようなものが、何百メートルかの間隔で建つ鉄塔間に垂れ下がって渡されていた。
 マイカーは、ここいらで "廃車" してしまおうかとも考えていたが、優柔不断にも "車検" を更新してしまった。
 さほどクルマを使うこともせず、車検費用や税金、そしてコスト高のガソリン代......と、クルマの維持費として馬鹿にならない額を負担することに抵抗を感じ始めていたのである。もちろん、CO2 の排出問題も念頭にあった。
 政府の "事業仕分け" よろしくバッサリと切り捨ててもよかったが、今後の推移を想定した時、何かと "運搬" の必要性も残っている気配もあり、 "今回で最後" という思いを込めて手配をしてしまった。
 今の世の中、 "わからないこと" が多過ぎる。自分自身についてもよく "わからない" のだけれど、周囲、上・下・右横・左横などどこを見てもすっきり "わかる" ということが何と少ないことか......。
 たとえ "わかった" と思ったところで、そのそばからその "確信らしきもの" は掘り崩され、溶け流されるかのような按配である。
 一体、何についてなのかといえば、何もかもがそんな感触であり、一々例示するに及ばないほどである。
 なぜ、そうなのか? という理由がそれなりにありそうでもあるが、実のところそれもよく "わからない" 。
 多分、 "収束" することがあり得ない "情報の拡散" 状況の過激さに、理解力を構成しているのであろういわば "動体視力" とでもいうものがついてゆけないから......、ということにでもなるのであろうか......。 "動体視力" 型理解力とでもいうものをテッテーテキに鍛える必要があるのかもしれない。
 いつも思うことだが、IT環境に関することは "実体験" してみることが必須のようだ。今日も、大したことではないのだが、いざ実際に体験してみて、なるほど、と感じたものだった。
 IT環境といっても、 "純技術的" なことというよりも、 "仕組み" であり、 "手順" のことだと言った方がいいかもしれない。もっとも、 "システム" というのは、そうした "取り決め" の複合体なのだとも言えようか。
 早い話が、別に "純技術的" なこととは無関係だと思われる分野で、
「うちの店での支払い "システム" はこんなふうになっています......」
などという場合、まさに "取り決め" や "ルール" のことを指しているに過ぎない。
 PC関連やネット関連の分野も、使い勝手を左右しているのは、決して "純技術的" なことの厄介さではなく、 "仕組み" であり、"手順" 、"取り決め" 、"ルール" の類が、事を難しそうにしているだけだと考えていい。
 まして、ユーザーの立場にあっては、この辺の事情を "素直に了解" して、そして "順応" して行きさえすれば何ら問題はなさそうである。
  "蚊帳の外" に置かれたかのような心持ちほど癪(しゃく)なことはない。
 そんなことを感じさせられた直接的なきっかけは、PCのメンテナンス中の "技術的事柄" なのであるが、振り返ってみると現在のわれわれは、事の当事者でありながらとかくこうしたような "蚊帳の外" に追い出されていることが多いことに気づく。

  "技術的事柄" というのは、その "重さ" ゆえにあまり評判が良くない "Windows" のOS、 "Windows Vista" の、その更新作業のことである。
 更新(修正)プログラムが "馬鹿大きく" て、プログラム・ダウンロードを何度もトライさせられ、挙句の果てに、システム復元というイベントに至る厄介なことになったのである。
 こうしたことは、 "ままある" ことだとはいえ、癪(しゃく)な思いをしたのは、プログラム更新をするそのプロセスが逐一 "可視化" されておらず、かなり "大雑把" であったことだ。更新プログラムが小規模なものであれば、所要時間も短くて済むはずだが、かなり大きかったため、処理がどこまで進行しているのかがわからず、ただただ長時間に渡って待たされることになった。
 まさに、昨今の "技術的事柄" 特有の事情、 "ブラックボックス" ゆえの、事の当事者たちを "蚊帳の外" に放り出して、静かに待て、という慇懃無礼なのである。
 ユーザーの手を煩わさせないための "自動化" 処理については、それはそれで了解する。しかし、 "手を煩わさせない" だけでなく、 "気を煩わさせない" 配慮というものがさらに必要に思える。
 先日、 "度忘れ" について書いたが、その防止策のひとつとして自分は、各種 "タイマー" を活用している。
  "度忘れ" の内容によって対策は異なるのは当然だ。言葉を必要とする場合には "メモ" というのが相場だろうが、何かやるべきことが想定されている場合に、 "タイマー" は役に立つ。
  "タイマー" といっても、 "目覚まし時計" の "リリリリリッ" という音とは限らない。大体、 "アラーム音" で知らせるということは好きではない。いや、周囲の無関係な人を驚かして平気だという無神経さが問題だと思うのだ。だから、自分宛の "ケータイ" の呼び出し音にしてもいつも迷惑モノだと感じている。
 ということで、自分の場合は、別の "アラーム・メディア" をよく使っている。ひとつは "視覚" 、もうひとつは "振動" である。
 今日で、 "阪神淡路大震災(兵庫県南部地震)" から15年が経つ。これについては先日、一足先に触れた。(< "偶有性" としての事柄を、 "自分ごと" のように付き合ってはいられないか? ...... 2010.01.13 >)
 その際、大規模な自然災害(だけではなく社会問題も同様ではないかと思っている)などに対して、 "他人ごと" として受け流すのではなく、まさに "自分ごと" として受け止める想像力や感性、そして真摯な知性が必要なのだろうと思ったわけだ。
 それと言うのも、 "偶有性" という言葉を引き合いに出したのだったが、この "地震大国日本" であってみれば、 "大震災" に遭遇することなぞは "偶有性" の出来事であるどころか、誰もが遭遇し得るかなり必然性の高い不幸な出来事としか思えないからだ。
 何だか "取留めのない" 一日を過ごしてしまった。では他の日はどうなのか、と問われるとこれまた二の句が出ないが、細々とした事柄に振り回されて気が付いてみると夕刻となっていたというような一日で、何となく情けなく思ってしまう。

 モノを探してみたり、そのための整理や片付けをしてみたり、PC環境のメンテナンスに追われてみたり、その他日常的なちょっとした家事であったり、外猫たちの世話(朝晩の湯たんぽ取替えに餌やりetc.)であったりと、振り返ってみるろくな事をせずに一日が過ぎようとしている。

 大体、こうした細々としたことで時間が埋まってしまうと、何かを考えるという姿勢が吹き飛んでいて、頭の中には何も残っていないかのような、そんな夕刻を迎えてしまう。言ってみれば、何の "テーマ" もなく時間を流してしまったようで、こうして何かを書こうという段になって、はじめてそのことを自覚したりするわけだ。

 別に、日々、何か収穫がなければならないというような几帳面なことを望んでいるわけでもない。また、昨今では、考えることがそのまま "思い煩う" ことに傾きがちなことを思えば、淡々とした一日が過ぎ行くことに不満めいたことを言うのは贅沢であるのかもしれない。
 ただ、それでなくとも「 "老年!" 老い易く学成り難し」であるのに、うかうかとしていてはならないと思わされる心境か......。
 歳を重ねると身の回りの事柄や、自分の日常的なアクションでさえ "度忘れ" するものだ。最も危ないのは、 "無意識" で行ったアクションだろうと思う。これがとかく "度忘れ" の対象となりがちなようだ。
 何か別なことを考えていて、心ここにあらずといったふうに、ちょいと何かをどこかに置いてみたり、仕舞ってみたりしてしまうと、さぁーて、後になってみるとその時の記憶がなかなか起き上がってこない。
 どうもこの成り行きは、加齢によるものというよりも脳の働き、記憶の構造に由来するもののようであるが、とは言っても加齢によって程度が亢進することは否定できない。
 いつぞやも、つい先ほどのことでありながら、小さなとあるモノをどこに置いてしまったかわからなくなり、さんざん探す始末となり、一時は、 "神隠し" にでもあったのではないかと、馬鹿なことを考えたりもした。
 結局、見つけ出した場所は、まったくその前後のアクションとは脈絡のない箇所であり、自分とは別の者が為した仕業のような気がしたものであった。

 情報やPC関連に関する事柄となると、余程、難しそうで高レベルなこと以外であれば、結構、こだわっていく自分である。
 以前から、 "PCを介して" のTV録画には関心を持つとともに、旺盛に活用もしてきた。今では、便利なビデオ・デッキが出回っているので、それらを使えばほとんど "バカチョン式" に処理することも可能なはずだ。
 まして、 "地デジ" 番組の録画となれもば、専用のビデオ・デッキにおまかせするのが便利なのかもしれない。
 が、自分は、あくまでも "PCを介して" という一点にこだわって、しないでもいい苦労を背負ってきた。

  "PCを介して" という点にこだわる原因はいくつかあるわけだが、第一に、 "低コスト" の追求、第二に、録画番組を自分なりに "編集する" という点が挙げられそうだ。
 確かに "ハイビジョン" の "地デジ" 番組の画質に慣れてしまうと、やはり "アナログ" 放送の画質は気になるといえば気になる。
 まあ、自分が録画するTV番組の大半は、さほど画質にこだわらなくてよい "ドキュメンタリー" などのため、コンテンツの "記録的情報価値" に関心を向けている。だから、 "ハイビジョン" 画質でなければならない必要性は薄いとは言える。
 だが、 "慣れ" というものはごまかせず、日頃見慣れている "ハイビジョン" 画質がどうしても "基準" となってしまう昨今なのである。
 この1月17日(午前5時46分52秒)で震災15年周年を迎えることになるのが "阪神淡路大震災(兵庫県南部地震)" だ。
 遠くから見守るのみで何もしてこなかった自分に恥じ入るが、思い起こすだにその災害規模は甚大だった。その甚大さを再確認させてもらうならば以下のようだったという。

<■ 死者:6,434名 行方不明者:3名 負傷者:43,792名
 ■ 負傷者のうち重傷者は県内10,494名(98.2%)・県外189名 (1.8%)
 ■ 軽傷者:県内29,598名(89.4%)・県外3,511名(10.6%)
 ■ 避難人数 : 30万名以上
 ■ 住家被害 : 全壊104,906棟、半壊144,274棟、全半壊合計249,180棟(約46万世帯)、一部損壊390,506棟
 ■ 火災被害 : 住家全焼6,148棟、全焼損(非住家・住家共)合計7,483棟、罹災世帯9,017世帯
 ■ その他被害 : 道路10,069箇所、橋梁320箇所、河川430箇所、崖崩れ378箇所
 ■ 被害総額 : 約10兆円規模>(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

 数多くの被災者に対する哀悼の意と、復興支援のために尽力されてこられた方々への敬意の意を改めて申し述べたいと思う。
  "みぞれ" 混じりの雨(初雪?)となった。どうやら世界各地でも "異常寒波" が猛威を振るっているようだし、日本にもその影響が及ぶとかだ。いよいよ "冬本番" ということのようだ。自然現象と人間界の情勢とはもちろん別ではあろうが、 "異常気象" と "世界の異常" とが妙な相関関係を持たなければいいが、と思ったりする......。

 ところで、天候どころじゃないよと言いたげな "日本航空" の経営問題は、どうやら出口が見えてきたようだ。一体、どうなって行くのかと思っていたら、結局、 "大なた" が振り降ろされることになりそうだし、同社の "企業年金" という一見ナーバスな問題の方も、ようやく落ち着くところに落ち着いて行くといった気配だ。
 この問題の推移を見るとはなく見ていても、現在という時代環境は、一頃のような過去を引き摺る "甘さ" がおいそれとは許されず、 "最悪" 事態の想定がリアルに引き寄せざるを得ない、というそんな状況だという印象を受ける。株の取引で言えば、 "損切り" をすることで被害をより大きくしない、という空気なのであろう。
 もちろん、真っ先に "奈落の底" へと追いやられ、 "尋常ならざる下降傾斜" をいち早く味わう羽目になっている庶民としては、楽観色の払拭に関してはとっくにスタンバイOKとなっているに違いない。
 火災や地震などによる森の大災害を、事前に察知できるのは、現状で恩恵を被っている大型動物にあらず、四六時中、常に危険を抱え込んで生き延びている小動物たちだと言われてきたが、まさにその通りなのかもしれない。
 もはや "捨てるもの" を持たない人々こそが、直感的にではあろうが、時代が刻んで行く泥沼の轍(わだち)の行方をそれとなく見通すのかもしれない......。
 昨日までは気温は低くても陽射しがあったのでまだましであった。しかし、今日はまったく陽射しもなくて、まさに味気ない "冬日" である。
 冬といえば、昨日、珍しい野鳥 "ツグミ" を見た。そして、一応フォトまで撮ることができた。 "ツグミ" は代表的な "冬鳥" だそうだ。
  "冬鳥" とは、<主として越冬のために日本より北の国から渡ってきて、冬を日本で過ごし、冬が終わると再び繁殖のために北の国に渡って行く鳥。ツグミ、ジョウビタキ、ユリカモメ、マガモ、オオハクチョウ、マナヅル、オオワシなど。>(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)とある。
 
 そういえば、今朝のウォーキング時には川辺でコバルト・ブルー鮮やかな "カワセミ" も見かけた。どういう成り行きかは知らないが、そのコバルト・ブルーという色は、人目につくことおびただしく今日のような薄暗い曇天の日でも羽ばたけば嫌でも目に入る。
 よく、大きな望遠レンズ付のカメラに "振り回されて" (?) "カワセミ" を追っかけているアマチュア・カメラマンがいるものだ。そしてその大半が "年配者" である。
 今までさして気にしなかったが、彼らが "カワセミ" の "追っかけ" となっているのは、姿が美しいからという一般的な理由にも頷けるが、ほかに "探し易いから" というワケも潜んでいるのかもしれない。あの鮮やかなコバルト・ブルーであれば、どんなに身が小型で動きがハイスピードであっても、視力の衰えた年配者の目によっても十分に "追っかけ" が可能であるに違いないからである。
  "カワセミ" の "追っかけ" であれば、出没すると言われている場所に隠れてさえいれば、やがて飛来するだろうし、飛来すれば "目立つ" ことだろうし、一枚も撮れずに "坊主" で帰路につくという情けないことにはならない。してみると、 "カワセミ" ちゃんたちは、 "年配者御用達の野鳥" だと言えるのかもしれない......。
 なんて、他人事のような口を利いているが、その "年配者" の風下にはこの自分もしっかりと仲間入りしていることを否定はしない。
 そうか、今日は "どんど焼き" をする日だな......、と気づかされたものだ。
 今朝、ウォーキングの帰路に自宅近所にある町内会の敷地の脇を通った時である。町内の世話役や当番役だと思しき人たち数人が、広場の中央一角にブロック囲いをしているところであった。夏場にはその場所に盆踊りのやぐらが組まれもした。
 脇によけておいた自宅の正月用お飾りも、後で忘れないように持ち込むか、と自分に言い聞かせたりした。

  "どんど焼き" とは昔から各地で行なわれる小正月の火祭りのことだ。どんと焼き、どんどん焼き、どんどさんなどとも呼ばれ、「どんど」とは「尊いもの」という意味があるようだ。
 門松、しめ縄などのお正月で使った飾りものや、祈願成就した御札、お守り、破魔矢、だるまなどを持ち寄って焼き、餅を焼いて食べたりその火にあたったりして無病息災を願うものだ。盆の行事には、迎え火・送り火というものがあるのに対して、 "どんど焼き" とは、お正月にお迎えした神様への "送り火" といった意味合いなのであろうか。
  "本式" (?)では、青竹を骨格として三角柱の櫓(やぐら)を組み、その中に藁を詰めこれに火を投じて、持ち寄られた正月飾りなどを焼く。その火の中に書初めの書を投じ、高く舞い上がると上達するとか、 "どんど焼き" の燃えさしは魔除けになるとかで持ち返って、門口に立てて置くといいというような言い伝えもあるらしい。
 火力が弱まった頃から始まるのが餅焼きであり、篠竹や枝などの先に餅を刺して、炙(あぶ)るようにして焼く。シンプル過ぎる食べ物ではあるが、吹きさらしの寒空の下で熱々の餅を頬張るのは一味違いそうだ。
 神社で神事として行われる "どんど焼き" の場合は、餅つき、獅子舞、太鼓演奏が行われたり、お汁粉や甘酒が振舞われたりすることもある。
 こう冷え込んでくると、どういうわけか二つの対象が脳裏をよぎる。
 そのひとつは、 "ホームレス" の人たちのことであり、もうひとつは "ストリート・キャッツ(野良猫たち)" のことである。両者を同格に並べるのはいかにもマズイ。が、さぞかし寒かろうと想像するのがその二者なのだ。
 現に、自宅の外には、飼っている "外猫" が二匹いて、彼ら用の猫小屋には毎夕、湯たんぽを宛がっている。そうでもしてやらなければ凍え死にしかねないからだ。

 どうしてそんなことが脳裏をよぎるのか。ちょっと理屈っぽく言うならば、 "冷え込む寒さ" に遭遇するかしないかほど、 "紙一重" の違いはなさそうだと思うからだ。
  "たまたま" 、今現在の自分は、暖房の恩恵に浴する状況にあるが、そんな時に、凍える寒さに耐えている者たちが、同時並行的にいるわけだ。いや、何も深刻な情景を想像するまでもなく、外出時に、来るはずのバスがなかなか来ないで、寒いバス停でぶるぶると震えながら立ち往生するという不運を想定するだけで十分だ。
 つまり、 "往々にしてありがち" なことだということなのである。 "常に、必ず" 暖房の恩恵に浴し続けられる、と信じ込むことほど、逆に "非現実的" なことはないのではなかろうか、と。
 被災者たちを一月の極寒の寒空の下に放り出した、あの "阪神・淡路大震災" にしたところが、今や、類似規模の大震災の可能性は全国に遍在しているようだ。まして関東地方は他人事ではないはずである。
 加えて、自然災害のみならず、この不安定な経済状況が、人々を暖房の恩恵に浴し続けられる定住家屋から、 "ホームレス" 的悲惨さへと追い込む可能性もまた、あながち "限定的" だとは言い切れなくなっていそうである。 "年越し派遣村" のような存在を、自分とは無縁だと信じ込むことは、ある種 "非現実的" なことなのかもしれない。

 普通に往来していてもそうだろうが、それなりの距離をウォーキングしていると、嫌でも不愉快なモノが眼に入る。今年7月に予定されている参院選向けが明らかな候補者と思しき者たちの "事前ポスター" である。一応、何らかの講演会の "弁士" という "逃げ" を銘打ってはいる。
 まあ、ありそうなことであり、了解して往なせば良さそうなものでもあるが、 "不愉快さと不快感" という正直な感覚は打ち消せないでいる。 "選挙" は "手段" であり、政治家としての "実質" 的役割はどこへ置いてきてるの? と言ってやりたいものだ。
 だから、「あなたたち政治家の関心は、 "選挙" だけなんだね!」と、わかり切ったことを復唱してみたくもなる。あまり "物分りの良さ" を発揮してはいけないからだ。

 ほとんどすべてに渡って、いわば "物分りの悪さ" で遇されている庶民が、なぜ、 "政治" を司る者たちの "身勝手さ、横柄さ" に対して "物分りの良さ" を発揮しなくてはならないか......、という道理を言っているわけである。
 もっと庶民は、 "そもそも" という "原点回帰的" 発想に振舞ってみなければいけないのだろうと思っている。
  "大人" というのは、ありそうなことに対しては目くじらを立てずに、鷹揚に振舞うものだ......、と、誰が決めたか知らないが、能天気なことになっているのが実情か。
 そんなことだから、 "大人" たちは、得体の知れない "鵺(ぬえ)的存在" だと子どもたちから軽蔑されるのであろう。もうすぐ "成人式" という国民的行事を迎えるわけだが、それが、 "ウェルカム、ヌエ!" の "通過儀礼" 式とならないことを祈りたいものである。

 それは、自分が降りるバス停のひとつ前のバス停での光景であった。
 前方のドアからの乗降客の移動が終わったにもかかわらず、バスは停車したままであった。日頃、あまりバスに乗らない、いや外出さえめっきり減って "巣ごもり=引きこもり" に近い状態である自分は、何事かと首をかしげてしまった。
 すると、中央のドアが開けられ、なおかつ運転手が運転席を立って、前のドアから出てくるや、中央ドアに面して何やら "作業" を始めたのだった。
 ようやく、それが何を意味しているかが合点できた。中央ドアには、 "車椅子" 乗降者のための "折りたたみ式のスロープ" が設置されていたのである。
 運転手は、それを "セッティング" するために運転席を離れたのであった。手際良く、その装置を外の歩道方面に引き出し、あっという間に車内から歩道へのなだらかなスロープを完成させた。
 その後、その運転手は車内に入り、 "車椅子" で乗り込んでいたひとりの女性乗客の車椅子の取っ手を操作して、慎重にその "車椅子" と女性とを歩道側へ移動させた。運転手とその女性の双方が「ありがとうございました」と言っているのが聞こえてきた。
 「あなたの "為" だから......」というフレーズを何度も繰り替えしつつ、ダジャレとして金融商品の "外為" へと誘うCMがあった。
 センスを疑いたくなる出来のCMだと思えたが、ひとつ思い当たるのは、ひょっとしたら制作者たちは、 "確信犯" 的にこのCMを作ったのかもしれない、という点だ。
 この時代、「あなたの "為" だから......」というアプローチで勝手なことがされてしまう、いわゆる "お為ごかし" に現代人たちは辟易(へきえき)としているはずだからである。そもそもCMというもの自体が、その最たるものであり、潜在的消費者を相手にした「あなたの "為" だから......」という触れ込みの下で、実のところは、自社商品の売り込み以外に何ら実のある関心はありようはずがない。
 当該のCMも、思い出してみるならば、「あなたの "為" だから......」というセリフの下に、あなたのダイエットのためなんだからこのケーキは食べてあげるねッ、といった意地悪い光景を演出しているのである。
 つまり、日頃、 "お為ごかし" で "やられまくっている" 人々の憤懣やるかたない気分をしっかりと "なぞりながら" のCMだったのである。逆説的な文脈で、印象や記憶を深めようと意図したのであろうか......。
  "内容てんこ盛り" タイプと、 "内容無いよ~" タイプとがいるんですねぇ。
 とかく言葉を湯水のごとく "饒舌" に語ろうとする人がいるかと思えば、用件さえ平気で蔑ろにしつつ言葉数がめっぽう少ない人。
 もともとそういう性格なのだと言ってしまえばそれまでだが、それでは面白くも何ともない。

 今日、ノーベル賞作家・大江健三郎氏がTVの生番組(NHK 『LIVE スタジオパークからこんにちは』)に出演していた。普段は人気タレントたちがよく出演する番組で、ちょいと場違い的な感触がないでもなかった。
 それはともかく、この番組では、視聴者からのFAXやメールでの質問に応えるというコーナーがある。その時、大江氏は、家内から注意されたことがある、と自ら語っていた。何かというと、「あなたは、質問に応える時、いつも "長過ぎる!" から、その点をくれぐれも注意するように......」と、言われてきたというのだ。
 確かに、そのコーナーが始まる前から、番組司会者とのやりとりの過程でも、その傾向が十分に窺えたものだった。司会者がひとつ質問すると、言葉数や所要時間において、その数倍以上のボリュームで対応していたのである。観ている方がハラハラするくらいであった。
 もちろん、話される内容は決して冗漫なものではなく、十分に内容の濃いものばかりである。が、とにかく "長~い" 。要するに、大江氏は、人間と人間との対話というものは当然このように "丁寧" なものでなくてはならない、と正論を胸に秘めて語っているわけだ。別に、メディア世界のコミュニケーションが、 "粗雑過ぎ" て間違いなのだ、とまではおっしゃらないまでも、である。
 しかし、司会者をはじめとして、スタッフ、そして視聴者たちは、ハラハラしていたに違いなかろう。内容があろうが無かろうが、所定の時間内で、それらしいコンテンツが埋め込まれさえすれば帳尻が合う式の、そんな "流儀" が罷り通っているからだ。
 しかし、彼らもハラハラではあるだろうが、そんな "流儀" が一般的なご時世にあっては、当人である "誠実なコミュニケーター" は、さぞかし居心地が悪くてならなかったはずである。笑い話のようだが、とある "誠実なコミュニケーター" の場合、カメラがスタートした途端、何も喋っていないのにスタッフから "巻き" の仕草をぶつけられ、あったまにきた! そうである。大江氏も丁寧に巻かれていたか......。
 加齢の効用のひとつとして、<時に対する〈コンサマトリー〉(現時充足的)な>姿勢が強化されるという点がありそうだ。 "未来" のために "今" を〈インストゥルメンタル(instrumental)〉(手段的)に過ごさなければならない、というような "お仕着せ判断" が薄らぐからである。加齢=残される時間の減少という認識が、とにかく、 "今" を精一杯生きようという、 "正しい" 〈コンサマトリー〉(現時充足的)な自覚を促すということである。
 ただ、 "誤った" 〈コンサマトリー〉(現時充足的)な思い込みというものも、付随し得るのも確かだろう。 "未来" が乏しければ "今" だって碌なことはない、成り行き任せで過ごすに限る......、といった "諦念" (諦め)のことである。

 「三年寝太郎」という "怠け者" の民話がある。最終的には世の中に役立つ "灌漑事業" を成し遂げたらしいが、前段では、 "自堕落" であったそうな。寝てばかりいないで働け、と言われると、働くとどうなる? と言い返し、働けば富が得られるさ、と諭されると、富があればどうなる? とさらに口答えをする。まぁ、富があれば寝て暮らせるさ、と言い含められると、なぁに、今だってこうやって寝て暮らしているから余計なお世話だ......、と。 "誤った" 〈コンサマトリー〉(現時充足的)な思い込みの典型のような人物だったのかもしれない。
 だが、これはこれで、意外と "意味深長" な話であり、 "前段の寝太郎" を心底説得することは至難の業だったと思えるし、逆に、どんな根拠で "起きて働き" 世の中のためになることをする気になって行ったのかのプロセスについては興味が注がれるところだ。

 朝のウォーキングでは、しばしばスズメだのセキレイなどの野鳥が、歩む方向のすぐ先の地面で、どんなものが落ちているのかは不明だが餌を啄ばんでいる光景に出会う。
 この寒い空気の中、気の毒なことだと感じ、彼らの顔の表情(?)を覗くように眼を凝らしたりする。顔の表情は判別できないまでも、その身体全体の動きや振る舞いからすれば、決して "落ち込む" 様子や "落胆" ぶりをうかがうことにはならない。むしろ、 "嬉々として" 生き放っているかのような印象を覚える。
 何かにつけて "悩み、苦しむ" ことを引き受ける人間たちと、彼らとは一体何がどう違うというのだろう......、とマジに考えてしまうことがある。
 落ち着く先は、きっと、彼らは "現在" のみを精一杯生きて、すぐ先にある "未来" も、すぐ前にあった "過去" をも自覚しない "術" とともに生きているために、 "快活" 以外ではないのだろう......、ということになる。
 そんな彼らを "見下す" 根拠はまず無いと言うべきなのかもしれない。まあ、そんな感じ方をする大人もまずいないに違いないだろうが......。
 多少彼らを買い被っていえば、要するに、彼らは "今" を、 "現在" を生きる上で必要なのは、この "現在" 以外ではなく、 "過去" や "未来" という言ってみれば "贅沢" な時間なんぞは用がない、とでも言っているかのようでもある。それらが "削ぎ落とされた" 哀れな生きものだと老婆心を抱くのは、はなはだ迷惑のようでもある。ご自分の頭の上のハエでも追いなさい、とでも言われそうであり、生きものとしての "王道" たる "コンサマトリー" な "命(いのち)の運用" を推進なさっているのかも......。

 正月の二日目は、大体こんなものだが、家人も出払ってしまい所在無く "大学駅伝" なんぞを観て過ごしていた。予想されたほどには寒くもなくむしろ陽射しがうららかだったこともあり、サイクリングで "腹ごなし" までする気分となった。

 それでもなお "手持ち無沙汰" 気味であったが、書斎に入ると一気に事態が一変することになった。TV番組の予約録画専用に使っていたPCが "致命的なトラブル" に陥っていたのだ。どうも "電源" のトランスがクラッシュしたようで、ファンの動きまで止まっていたのである。
 そこそこ長期間稼動させてきたのに加えて、昨今では "TV録画" という用途のために "付けっ放し" 状態だった。ほとんど寿命だと思われた。
 データ類は、外付けHDDに格納していたため被害の程度は高が知れていた。ただ、 "TV録画" の機能を別な代替PCに設定し直さなければならないという、やや厄介な作業が発生してしまったのである。
 昨夜は、年末らしいTV番組(もちろん『紅白......』も)を一切パスし、最近習慣となり始めている寝床での読書をしながらいつの間にか眠ってしまった。
 昨日も、NHKについては "憎まれ口" をきいたが、やはりNHKはかなり、激動する環境変化に対して "危機意識" を持っていそうな気がする。しかし、それを踏まえての路線選択がどうも視聴者への説得力を欠いたものと成り果てているような気配も感じる。
 今さらどうして『坂の上の雲』なのかが "解せない" 点(なぜ、今、 "上から目線" や "回顧的な明治" がテーマとなるのか?)は昨日も書いたが、もっと "解せない" のはやはり『紅白......』ではなかろうか。

 誰かが口にしていたが、今年の『紅白......』の背景には、地デジ普及キャンペーンによって "大型液晶TV" が "茶の間" に "迎え入れ" られることで、かつての『紅白......』番組がそれによって支えられていたとされる "茶の間" への "家族全員集合" 状況が復活した......、という事実があるとか、ないとかという事情である。
 もしそうした条件による往年の "視聴率復活" を "期待" しての熱の入れようだったとすれば、 "時代錯誤" 的な認識が、あまりにも救い難いかと思われる。
 ところで、上で、 "危機意識" 云々と書いたが、そう思えたのは、昨今のNHKが、まるで "民放" のCMのような、自前の番組の "自画自賛" 的な "前宣伝" を連発し過ぎている雰囲気が拭い切れなかったからである。
 確かに、NHKに限らず、TV放送各局の "台所事情" は、いずれも深刻なようである。TV離れという一般的趨勢に加えて、景気低迷による "広告スポンサー" の低減が響いているようだ。

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