yasuo hirose: 2009年12月 アーカイブ

 夕刻のつい先ほど、近所の店に買い物に出たが、まぁ、何と冷たい木枯らしが吹きすさんでいたことか。年明けての正月の寒さが思いやられた。各地で大雪が降るとの予報だが、関東地方にもひょっとすれば雪がちらついたりするのだろうか......。

 まさに激動の一年であった。公私ともどもに、そうであったと言うほかない。
 そんな推移にあって、改めて自覚させられた点は二点。
 その一点は、物事の掌握は大きな視界で大掴みに! ということ。 "大局的見地" を得る、ということになろうか。
 そして、二点目は、環境変化をもたらす速度の高速化に躊躇しない "迅速な行動" といったところか。
 どちらも、特に目新しいことでも何でもなく言われ尽くされた教訓であろう。だが、今年ほどこれらの点を痛感せざるを得なかった年はない。

 決して、これらを首尾よく実践できたということなんかではない。かろうじて意識できたというに留まる。
 ただ、一点目については、明確に意識できたのはやや遅きに失したが、そのウォームアップ的なこと、つまり "時代の状況認識、現状認識" に関しては常々うだうだと気に掛けてきたことが幾分なりとも奏功したような気がしている。
  "閉塞" だとか、 "不透明" だとかと、まるで匙を投げての評価のような時代相貌が続いたし、また今なおそのままであろう。こうした時期には、 "時代の状況認識、現状認識" という課題に立ち向かうことは、苦痛以外の何ものでもない。



















  "正月飾り" の取り付けを済まし、今日の年末作業は手仕舞った。
 このところ、やや根を詰めて細々とした(修復)作業をてきたからか、妙に身体中の節々が痛み、甚だ芳しからぬ体調であった。
  "正月飾り" といっても、極めて簡略なものであり、玄関の正面上に取り付ける "しめ飾り" と、門柱両サイドに取り付ける "松飾り" だけである。

  "しめ飾り" は、旧年中の悪や邪・不浄を祓い清める意味を持つと言われている。しめ縄で作った輪っか状の飾りを中心にして、うらじろ "長寿" 、葉つきのだいだい "繁栄" 、ゆずり葉 "家系が絶えない" などの縁起ものがあしらわれているものだ。
 振り返ってみると、寂しいことに年毎に "貧相なもの" へと変遷している。いや、変遷させている、と言った方が事実に即していようか。要するに、 "形だけ" で済まそうとする、そんな傾斜が、年毎に、強まっているということである。
 この傾斜は、 "松飾り" についても同様であり、松の枝ぶりが年々スリムなものになっていることが否めない。本来は、木製門柱に釘で打ちつける。子どものころに、亡父や祖父がそうしていたことを覚えている。あいにくと、現在の家の門柱はアルミ製なので、針金や紐にて結わえ付けるほかない。そして、この松の穂に、うらじろの付いた "輪飾り" を被せるという按配となる。

 ようやく今日で、家の中の気になっていた "補修" 必要箇所をカバーできたかのようだ。いや、そう決め付けでもしない限り、こうした作業はエンドレスとなりかねないわけだ。
 たとえば、壁の汚れにしたところが、さし当たって目立つ箇所というふうに限定でもしなければ、延々と "戦線拡大" してしまう。それほどに、日頃、こまめな掃除を怠っているからだ。まあ、これでよしとしようと "区切り" を付けた次第なのである。

 こんな年の瀬には、混雑するに決まっている街中にクルマを出して買い物に行くということは避けたいと思っていた。が、家内の買い物に付き合い、よんどころなく不愉快な街中へとクルマで向かうことになってしまった。
 案の定、クルマは渋滞し、予想どおりの "不快感" を堪能(?)した。常々思うことであるが、現在の人間社会が織り成す "アナーキー" さは、いろいろな事象にその片鱗を見ることができるが、手っ取り早く納得(?)するには、街中をクルマで走るだけで十分であろう。
 交通マナーの崩れどころではなく、一触即発の危険と接した "自分本位" さが眼に余る。 "オレが、自分が......" と、大半のドライバーが自分を剥き出しにしていそうだ。
 もう少しあっても良さそうだと思える "謙虚さ" であるとか、 "慎ましさ" などどこを探しても見出せない。 "公共性" の感覚すら吹き飛んでいそうだ。
 これが、たとえ人身事故を起こしたとしても、最悪に卑劣な行為である "轢き逃げ" へと流れる世相なのかとぞっとさせるものがある。

 今日もまた "年の瀬" ならではの慌しい一日を過ごした。
 いよいよ完了間近となった一連の "補修" 作業に精を出すとともに、玄関まわりのビニール製壁紙の汚れ落としなんぞを敢行した。またその合間をぬって、おふくろ、家内との三人で今年最後の墓参りにも出かける。
 墓参りは、おふくろの肝いりの恒例行事である。今年も "しっかりと生き長らえることができました" と、先立った亡父にご報告しなければ、年は越せないといったところなのであろう。
  "年の瀬" の菩提寺は、訪れている者も見当たらず閑散としていた。別に盆でも何でもない時期なので、寺が混んでいなければならない理由は何もない。まして年末の何かと慌しい頃なので、むしろ年が明けてからの墓参りという趣向であっても一向に差し支えないはずだ。ただ、初詣は、寺というよりも "神社" だという向き、現世のご利益目当てが一般的であることを思うと、新年を迎えてからの何望むとはなき墓参りというのも考えにくいのかもしれない。

 今日も一日、年内に済ませておきたい家事(補修作業その他)に追われてしまった。昨日のように、猫たちによる建具類の "損傷" を注意深く点検すると出てくるわ出てくるわの惨憺たる状態であった。
 それらは、いずれも単なる掃除というレベルでは解消できず、結局、昨日書いたような手間の掛かる "補修" 作業を必要とするものであった。
 そんなことで、細々とした "補修" 作業を数珠繋ぎ的にこなしていったら、、結局、一日中手が掛かることになってしまった。

 夕刻、やっとPCに向き合うことができたのだったが、ネットで気になる記事を眼にすることとなった。もちろん、心配事が一気に増すようなネガティブなものである。
『「連想ゲーム」のごとく日本に忍び寄る危機』/大前研一の「産業突然死」時代の人生論>( nikkei BP net 2009.12.24 )
がそれである。
 筆者は、先の "ドバイショック" に関しては、関係国、UAE(アラブ首長国連邦)の迅速な対応によって、事態は沈静化しているとすでに述べていた。
 一時はグローバルな水準で株価下落という変動も生じ、あわや "金融危機" の再来かとも懸念されたものであったが、終息に向かっている気配で安心感が広がってもいた。

 今年の "障子・襖の張替え" 作業は、例年通りのようには行かず、大掛かりなことになってしまった。例年であれば、猫たちが引っ掻いて破いた障子紙・襖紙を張り替えたり、補修したりということ止まりであった。
 ところが、今年の "補修作業" はそんなことでは済まず、枠などの本体木部の "損傷" を何とかしなければならないほどの "被害" 状況だったのである。もちろん、 "加害者" は内猫たち二匹である。
 襖は、出入りのために自分たちで開けようとして "引っ掻き" 、 "襖縁" という反寸ほどの幅の縁取り用の塗り板がボロボロにされてしまっていたのだ。
 また、障子に至っては、何度怒っても効き目がなかった "爪研ぎ" 行為で、障子本体の木枠の縦部分が複数箇所、まるで "すねかじり" にでもあったようにこれまたボロボロの状態にされてしまっていた。
 おそらく、家の中だけで猫を飼うと大体どこでも発生している "被害" のようである。おふくろのところでも以前から内猫として一匹飼っているが、あまりにも乱暴極まりなく、襖紙なぞは "トンネル" にしてしまう騒ぎであった。
 そこで、二、三年前だったか、思い切って通常の襖を改め、ホワイトの "化粧版" を取り付けるという "決定的防御策" を講じてやったほどである。
 懐かしい光景だと思えた。近くのホームセンターへ買い物に行った時のことだ。
 このホームセンターでは、時折、ショップ内の一角に特別のコーナーを設けて "客寄せ" を図ろうとしている。
 今日は、 "刃物研ぎ" が催されていた。その光景も、最近の街角ではあまり見かけない懐かしいものではある。昔は、こうした行商的な職人さんたちを街中でちらほら眼にしたものだった。鍋ややかんの穴を修理する職人さんも見かけた覚えがある。

 ことさら懐かしいと感じたのは、その職人さんというよりも、その作業する姿をやや距離を置いて食い入るように見つめていた幼い男の子の様子なのである。
 嬉々とした表情で、包丁をシャリシャリと手際よく研ぐ年配の職人さんの動きを目で追っていた。時折、その方向を指差しながら何か喋っていて、見る角度を直すつもりか、しゃがむその姿勢をチョコチョコと横に移動させたりもしている。興味津々で、おもしろくてしょうがない、といった熱の入れようである。

 今、TV放送界では "3D" 放送がホットな話題となっている。韓国ではその試験放送を始めたとも言われている。興味がないとは言わないが、今は、そうですか、としか言いようがない。
 それよりも、TV放送の技術面で感心、感動したことがひとつあった。
 この三日間、深夜に次のような "再放送" があったのだ。

『国際共同制作 よみがえる第二次世界大戦 ~カラー化された白黒フィルム~』(NHK BS世界のドキュメンタリーを地デジで三日にわたり再放送 2009.12.22・2009.12.23・2009.12.24)

 先ず断わっておいた方がいいと思われるのは、 "白黒フィルムのカラー化" というと、従来からも行われてはいた出来映えが念頭に置かれて、あぁあれね、と棄却されがちな点である。要するに、動画フィルムの一コマ一コマに着色を施して、さもカラーフィルムであるかのように装われた、その出来映えの劣悪さについてである。
 幕末や明治の歴史的フィルムなどでそんな処理が施されたのを観たことがある。しかし、一言で言って "観るに堪えない" といったところがホンネの感想となってしまう。どうしても "不自然さ" が拭い切れず、それならば元の白黒で観た方がよかったと思ったりもした。
 それというのも、そうした処理を行う作業がとてつもなく煩雑かつ膨大な作業量というからにほかならない。着色する部分を確定し、 "それらしい色" で染める、その作業を膨大な数のコマにわたって行うわけだから、大変であることは容易に想像がつく。
 たとえ、デジタル処理方法でも、自分が経験しているフォトショップなどを使ってのフォトレタッチのことを思い浮かべると、ぞっとしてしまう。だから、デジタル処理方法以前の場合だと、それがさらに込み入るのだろうこと必定だから気が遠くなりそうになる。出来映えに、とても文句が言えない作業だということなのである。

 確か、 "佐藤栄作元首相" は、 "ノーベル平和賞" を受賞(1974年)していたはずである。どんな功績が表彰されたのかは、めっきり健忘症となった自分は失念してしまっている。同首相のことで記憶しているのは、あの有名なセリフ "テレビはどこだ、テレビはどこだ" であろうか。
 さて、今年、2009年の同賞受賞者が、 "核廃絶" を世界に訴えている米国大統領バラク・オバマであったことは、つい最近のことであったこともあり記憶に新しい。
 オバマ大統領のこの受賞に対しては、大いに評価して "核廃絶" への国際的機運を後押ししたいと望む者たちと、時期尚早なぞとシニカルに批判して、あわせて "核廃絶" への自身の態度のシニカルさを表明する者たちとに別れているようである。

 ところで、核問題に関する日本での最新ニュースは、 "「日米核密約」疑惑問題" であろう。新内閣の岡田外相は「日米核密約」疑惑の徹底調査を命じ、「持たず、作らず、持ち込ませず」という "国是の非核三原則" に改めてスポットライトを当てている。
 そんな中で、先ごろ当事者たる米国側がその "密約" の存在を肯定する文書を公開したことは周知の事実となっている。
 こうした文脈において、下記のような報道がなされた。 "やはり、そうであったか" という思いが隠せない。
 このところの寒さにはやや参っている。どうも北極方面から広がる "寒気団" が、時期を早めて日本列島を被っているのが原因のようである。
 専門家の見解だと、この時期に "寒気団" に被われていると、一月、二月という今後には日本列島から "ズレる" 傾向になりやすく、今後の寒さは和らぐ可能性が高いとかである。そうであってほしいものだ。

 ところで、今日は "冬至" であり、一年中で最も日が短い日だ。ということは、これからは徐々に日が長くなっていくことになる。つまり、日が短い現象の、その "底" に辿り着いたということだ。言うならば "底打ち" である。
 この "底打ち" ばかりは、人間界の事象のそれとは違い、決して "二番底" を懸念しなくてもよいだけに、 "安心(?)" して受けとめられるというものであろう。
 もっとも、自然現象全体の影響に基づく "気温" は、これで "V字回復" を始めるわけではない。それどころか、これからの寒さの方がむしろ厳しく、これからが寒さの "本番" を迎える時季だというのが例年の推移だ。
 ただし、冒頭で書いたように、今年特別だと見られる "寒気団" の動きのこともある。客観的事実である "日の長さ" が増していくというこの推移が、 "寒気団" の後退という現象で "叱咤激励(?)" されつつ、例年よりも幾分過ごしやすい "気温" を早目に用意し始めないとは限らない......。

 <ウォール街の"モンスター">は、ほぼ "確実に" 再び息を吹き返そうとしているかのようだ......。渦中にあった "ゴールドマンサックス" は史上最高益を記録し、金融界は再び巨額の報酬を手にしているとかである。
 昨夜、NHKの番組、<NHKスペシャル『ウォール街の"モンスター" バブルは再び起きるのか』>を観た。

<去年秋の金融危機から1年余り、激動の2009年が終わろうとしている。再び危機を起こさない仕組みはできたのか?強欲な資本主義の適切な御し方を世界は身につけたのか?世界経済は深刻な状況を脱したと各国当局者が発言し、「金融危機の首謀者」であるアメリカの巨大金融機関が再び莫大な利益を手にする一方で、本当の意味で危機の教訓が今にいかされているとは到底言えない。あれほど大きな批判を浴びた金融機関の高額報酬の問題さえ、いまだ有効な規制を打ち出すに至っていないのだ。......「マネー資本主義」の決定版をお送りする。>(NHKオンラインより)

  "日誌" というようなものを書くということは、その日一日に遭遇した事柄をきっかけにして、結局は、自身にとっての "普遍的な世界" とでもいうようなものを描き出す(再認識する)ということになるのであろうか。
 つまり、書いている個別の対象それ自体が当面の関心事ではあるのだが、それが "終着駅" 、ターゲットではなくて、それを通して自分にとっての "普遍的な世界" を探っている、というのが真実であるように思える。

 ただ、こうした発想に立つと、その関係は何も日誌を書くということに限られず、どんなことをする場合にも、具体的で直接的なアクションは当面の手段であり、それを通して何か "普遍的なもの" を求めている、ということになるのかもしれない。
 スナップ写真で何か風景を撮る場合にも、確かにその "個別の風景" に惹かれるからなのであろうが、その個別の風景の向こうに、この世界の "普遍的なもの" を感じ取っていたりするのではなかろうか。
 さらに、人は職業に就く。自身に見合ったジャンルの職に就く。その具体的なきっかけはいろいろであろうが、やがてその職業活動を通して眼を向けていくのは、もちろんその個別のジャンルの深みであろうが、それとともに、個別のジャンルを超えて広がる "普遍的な世界" だとも言えそうである。「一芸に秀でるものは......」ということわざはその辺のことを意味していそうだ。
 自分自身のことのみならず、時代や社会全体に関して懸念されることはいくらでもあるが、以下のような事柄もそのひとつとなる。

<一人暮らし比率、全県で最多 2020年、全世帯の3分の1
 2020年に全都道府県で一人暮らし世帯(単独世帯)の割合が最も多くなり、全世帯の3分の1に達することが国立社会保障・人口問題研究所が公表した将来推計で分かった。30年には4割近くになる見通し。同研究所は「5年前の調査よりさらに非婚・晩婚化が進んでいる。高齢夫婦が死別しても一人で住み続けることが原因」とみている。......>( nikkei.net 2009.12.19 )

  "お一人様" と評されるような傾向がクローズアップしていることは視野に入っていた。それもひとつの時代風潮なのだろうかと高を括る感じでもあったが、上記のような統計・将来推計に接すると、俄然、心配になってきたりする。

 10度に満たないどころか、5度にもならないような冷え込みが続いている。それに、この一週間ほどはずっとこんな低温が続くとの予報もなされたりしている。
 こんな寒さだと直にこの冷気に触れる "外の命" たちは、まさに "命懸け" の出来事になってしまう。
 つい先ほど、 "外猫" たちに餌をやり、彼らの小屋には湯たんぽを二つ入れてやった。そうでもしてやらなければ、 "凍死" という事態も起こりかねないからだ。もう大分以前からそうしてやっているのだが、夜間の冷え込みが、 "一桁大の低温" ともなればこれらの対策は不可欠と言わざるを得ない。
 まあ、家の中に入れてやれば良さそうなものであるが、家の中にも二匹の "内猫" たちが控えていて、大喧嘩になりそうなのでそれもできないわけだ。
 湯たんぽ支給を外さないことで勘弁してもらうしかない。だから、日中も気温が上がりそうにない日には、夕刻に加えて朝にも湯を取り替えてやったりもしている。
 この何日かはめっぽう冷え込んでいるようだ。昨日、今日あたりは、各地で初雪の話題をも耳にするほどである。この三多摩地域も、場合によっては雪がぱらつくこともあり得るとの予報もあった。もう師走も半ばを過ぎたのだから寒さが本格化したとしても不思議ではないはずであろう。
 相変わらず、そんな寒さをものともせず、朝一でウォーキングに出る日課は続けている。むしろ、そうやって身体を動かして、汗ばむほどに血流がよくなると "内側から温まり" 寒さ除けにもなろうというものだ。
 本来を言えば、そうした "内側から温まる" ふうでありたいと思う。いや、血流だけの問題ではない。さりとて、懐(ふところ)の問題でもない。(いや、そうでもないか......)最も望むのは、 "希望に満ちる心" によって、とかく寒々となりがちな気分を吹き払って心身ともに "温まる" というふうでありたいということであろう。

 昔、『寒い朝』という歌謡曲があった。昭和37年(1962年)に、吉永小百合、和田弘とマヒナスターズの歌でヒットした曲である。
 歌詞の出だしは「北風吹きぬく 寒い朝も 心ひとつで 暖かくなる......」と、まさに今上で書いたそのままが歌われ、誰も異議を唱えることがなかったのだ。
 それもそのはずで、60年代は、何は無くとも江戸紫ではないが、生活の周辺に便利なモノや小奇麗なモノなんぞ何もない世相であった。それは、同年に上映された、同じ吉永小百合主演映画『キューポラのある街』の時代光景を思い出してもよくわかることだ。
 ただ、何もなかったけれども、人々の胸の内側には "希望" という二文字に託された諸々のエネルギーが満ちていたようであった。
 ここで書くことは "常に中途半端" だと自覚している。単なる印象でそう思うのではなく、きっと "構造的" にそうなのだろうと、まるで "確信犯" 的にそう思う。
 と言うのも、理由があるからだ。自分にとってわかり切ったことは書きたくないし、 "入念" に下準備をして、 "パーフェクトもどき" の主張なり何なりを書くほどの真面目さもない。
 と言うか、 "入念" な準備をするということになると、簡単に入手できるメディアからの情報類を "批判的に吟味" する作業が必要となり、ただでさえ、メディアやそこでの常連たちが "御用提灯的" に書き殴っていることの "いい加減さ" が払拭できないでいる自分にとっては、その作業には膨大な労力が必要となりそうだからだ。

 それにしても、現代という時代環境は、一個人が調べ上げられないような複雑な事象が多過ぎる。一個人としては何にせよ事実の全体像が掌握し切れない環境だ。だから、常に環境に関する事実認識が曖昧模糊とした中途半端なものにとどまり、そこへ持って来て、メディアが "親切ごかし" にある事ないことを、 "手前勝手" な料理をして報じるものだから、事はさらにややこしくなったりもする。
 しかも既存のメディアは、何の根拠があってか、さも自らに "正当さ" があるがごとく振舞うから紛らわしくてならない。
 昨夜は久々に "定番" の夢の、そのひとつを見た。
 そのひとつというわけだから、 "定番" とも言えそうなよく見る夢は複数あることになる。いずれも楽しいものというよりも、その反対のものばかりである。
 おそらく、あまり好ましいとは言えないような精神状況が複数パターンあって、それらが複数レパートリーの夢、 "定番" を誘い出しているのだろう。
 昨晩のそれは、その中でもかなり "頑固なもの" であり、よくもまあ懲りずに "放映(?)" し続けるものだと感心してしまう。もう、何十回となく見た覚えがある。ただ、いつも書くように、夢の中の世界では "批判意識" が一切無い。そのために、いつも "ロードショー:封切り" として甘受することになる。
 鳩山政権をめぐり、 "もたつき気味" な印象がメディアから伝わる昨今だ。
 あまり騒ぐべきではなく、 "静観" すべき時期なのだと受けとめている。そんなにすべてが "すんなり" と行くほどの環境に新政権は立たされているわけではないからだ。
 つまり、これまでの "自民党政権、自公政権" が積み残した "負の遺産" がそう簡単に "整地" されるはずはないからである。
 財政規模の問題にしたところが、ここまで膨大な "財政赤字" を垂れ流してきたのは一体誰の仕業であったというのか。その膨大な財政出動で景気が上向いたのならばまだしも、その舵取りのまずさによってただただ国の借金部分だけを増大させ続けたのが前政権までの "成果" だったはずだ。
 その他にも、官僚機構と米国の言いなりになって進めてきた執政の結果、容易には抜け難い難局を分厚く残したのが前政権であったと言わざるを得ないだろう。

 別に新政権を甘やかすつもりはないが、現時点で "もたつき気味" な印象があるとするならば、国民が斟酌すべきなのは、これまでの "自民政権、自公政権" の為したことが、いかに杜撰で反国民的であったかという点、その点にこそ厳しい眼を向けるべきなのではなかろうか。
 しかも、 "野に下った" 自民党は、 "敗戦の総括" もできずに、寝ぼけ眼で未だ "与党" への夢を追っかけているとしか見えない。失礼ついでに言うならば、犬の遠吠え的な雰囲気で、揚げ足取り対応に終始していて、 "カウンター" のパワーを微塵とも感じさせなくなってしまった観がある。
 国の将来を憂える、 "憂国" の党であれば、民主党では不可能な "国や社会の将来ビジョン" を今こそ国民に対してマニフェストすべきであろう。
 そうであってこそ、 "二大政党" の切磋琢磨で導かれる正常な議会が実現されるというものである。今現在のような "政権ぬけがら党" のような自民党の "迷い方" では、国民は、民主党新政権への期待にしがみつき続ける選択しか残されていないかのようだ。
  "体当たり" とか "噛みつく" とかという、デジタル社会以前の言葉が、ラジオのニュース番組から流れた。もちろん、デジタル社会のパーツ類で構成され尽くされている人間たちの所作ではない。街に紛れ込んだ野生の "イノシシ" の苦し紛れの仕業であった。
 新聞報道で調べてみると以下のような顛末であった。

<13日午前0時10分ごろ、和歌山市東蔵前丁の南海和歌山市駅前のロータリー付近で「イノシシに体当たりされた」と、男性(42)から119番通報があった。市消防局によると、この男性ともう一人の男性(51)の2人が足にけがを負い、病院に運ばれた。意識ははっきりしているという。
 市消防局によると、ロータリー付近と県道を挟んだ雑居ビル前で、2人が相次いで襲われたとみられる。近くで客待ちをしていたタクシー運転手(60)によると、通報した男性はイノシシに突撃され逃げたが、追いかけてくるイノシシに太ももの裏をかまれたという。イノシシは体長1メートル以上あったといい、そのままどこかへ去った。 >( asahi.com 2009.12.13 )

  "イノシシ" に襲われた被害者は、縁もゆかりもないそんな野生動物に攻撃されるとは大変不幸なことであったと同情する。
 ただ、 "不謹慎" 極まりない物言いであることはわかっているが、 "体当たり" とか "噛みつく" とかという表現に、何故だか奇妙な "親近感(?)" を感じ取ってしまったのである。いや、この "感性" は実にけしからぬものだとは思い、恐縮の至りではある。まさに "他人事" としているからそんな感じ方もするのであろう。まことに恥ずかしい次第である。
 だが、それでもやはり "体当たり" とか "噛みつく" という表現の語感は、妙に "懐かしい" ニュアンスを含んだものとして響いてきたりする。
 それも、日頃、形骸化した政治・経済用語やカタカナのデジタル用語を垂れ流しているニュース報道のアナウンサーの口から出た言葉となると、一瞬、聴覚をくすぐられるような "優しい響き" として耳に残ってしまうのだ。<突撃され逃げた>人の恐怖感や<太ももの裏をかまれた>人の痛みが想像できないわけでは毛頭ない。<体長1メートル以上あった> "イノシシ" というから、大型犬の持つ不気味さを超えた異様さであったに違いなかろう。
  "左卜全" のような口調を延々と耳にすることとなった。
 かかりつけの病院での待合室でのことである。クスリの追加分をもらいに来た。予約制であるにもかかわらず、小一時間の待ち状態となった。
 そんなこともあろうかと、新書版をポケットに忍ばせて行った。まぁ、これで2、30分のくらいの待ち時間は優に過ごせるはずではあった。
 が、当てが外れてしまったのだ。すぐ近くの座席に座った話し好きのご老人が、付き添いで来たと思しき娘さんに、休む暇なく話かけていたのだ。それはまるで、何日分も溜まってしまった "会話エネルギー" とでもいうべきものを、ここぞとばかりに途切れることなく解き放っているかのようであった。

 概してご老人というものは、日頃、話し相手がいなかったりすると尚のこと、気が許せる相手が見つかると安心して、腰を据えて喋り続けるようだ。多分、そのご老人も、そうした事情の人のようである。
 自分は、ポケットから新書版を取り出してはいたのだが、一向に活字に身が入らない状態となっていた。別に、そのご老人の話を盗み聞きしようなどとは微塵も思っていない。にもかかわらず、注意が逸らされ続けたのにはそれなりの理由があったからだ。
 それは、そのご老人の "話し方" にあったのかもしれない。

 自分の第二の故郷とも言える "北品川" は、わがままな思いだとはわかっているが、そっと昔のままの相貌で取り残されてほしいと思ったりする。誰しもが、自分の心の故郷と思しき地域についてはそう考えるのではなかろうか。もちろん、寂れてほしいと願うはずはなく、何がしかの "面影" が残り続けてはくれまいか、という思いなのである。
 幸いといってはまずいのだろうが、その "北品川" の一部、 "旧街道(旧東海道)" の商店街だけは、かつての "面影" を留め続けている。
 昨夜に観たNHK番組『ブラタモリ 第9回 品川をブラタモリ』でも、この<今と昔が混在する不思議な町>がテーマとなり、昔の名残を留める部分として "北品川商店街" が紹介されていた。
 その部分では、昭和30年代の商店街の街並みを髣髴とさせるような佇まいも見ることができた。中には、当時の "書店" ( "菅沼書店" )がそのままの姿で残されていたのには感極まる思いであった。ここしばらく、もう何年も足を向けていない商店街であったため、やはり懐かしい思いが込み上げてきた。

 ウォーキング・コースとしている川に沿った遊歩道を歩いていると、最近は保育園児たちの行列をしばしば見かける。
 2、30人の園児たちが同じ色のキャップをかぶり、二人づつ手を繋いで列を作っている。4人ほどの女性の先生が付き添って、四六時中、注意の言葉を投げかけていたりする。日課とされた "朝の散歩" なのであろうか。
 小さな背丈の園児たちがまとまって歩む姿は、まさに "こまい(細い)" という印象、そしてそのいずれもが3、4頭身くらいにしか見えない小さく短い足でチョコチョコと歩む格好は、思わず眼を細めてしまうほどの可愛さだ。
 概ね、無表情で歩いて、歩かされている様子だが、中には嬉しそうな表情で何やかやと喋っている子もいるにはいる。
 先日、これまた遭遇したのであるが、小学生3、4年生くらいの子たちのにぎやかな雰囲気の行列(校外授業?)とは実に対照的な様相であった。
 やはり、教育というよりも "保育" という成長段階だと、みんな揃って歩くということだけで精一杯なのかなぁ、なぞと深い意味もなく考えたりした。
 人間がまともに記憶という脳活動を始めるのは4、5才くらいからだそうだから、保育園児たちというのは、 "紀元前" とでも言えそうな成長段階なのかなぁ、とか、先ずは "動物の一個体としての完成" を目指している段階なのか、なんぞとこれまた大した意味があるとは思えないことを考えたりしていた。
 とは言うものの、 "幼児教育の重要さ" と叫ばれたりするように、この時期に "黙々" として受容したことが、後に言葉を通じて理解する段階でのありようにも少なからぬ影響を及ぼす、と言われたりもしている。
 とすれば、この子たちの "整地段階" の頭脳の底には、今日のこの、薄ら寒い川っ淵の一光景が、どんな印象としてであるかはわからないまでも静かに降り積もっているのだろうか、とも......。
  "考える" という行為に "言葉" は必須だ。さらに、その "言葉" を自在に駆使するためにボキャブラリー(語彙)も豊富であった方が良さそうだ。自身を振り返っても、語彙不足がたたってもどかしい思いとなることがしばしばである。
 見事な文章といえば、その昔から朝日新聞の「天声人語」は定評があり、今でも、自分の文章に嫌気が差した時には "神頼み" さながら、「天声人語」の作風に学ぼうと声を出して朗読してみたりもする。

 言うまでもなく、文章を書くということは "考える" ことを深めるということに尽きるはずだ。決して、美辞麗句を並べ立てるような技法を思い浮かべてはいない。たとえ語彙不足を痛感する際にも、響きのよい語彙、通りのよい語彙に拘泥しようと思ってそうするのではなくて、対象の描写や、自身の内面にあるものの "表現、定義" において、もっと的確な語彙、フィットする語彙ががありそうな気がして、それでもどかしい感情に引き込まれる。
 もともと生じてはいないイメージをでっち上げるために語彙探しをするつもりは毛頭ない。むしろ、そんなことをすれば、他人の衣類を身にまとうような違和感で、さらにもどかしさが増幅されるに決まっているからだ。
 今日、12月8日は、その昔昭和16年の今日、旧日本海軍が "闇雲に!" 先の大戦、太平洋戦争を勃発させた日だ。いわゆる "真珠湾攻撃" という前代未聞の愚かな "奇襲" を企てた日だ。 "奇襲" という軍事用語は、 "開戦後" の一作戦とされるわけで、 "奇襲" と "宣戦布告" との前後関係も不明瞭(もしくは、 "宣戦布告" の方が遅れる)な作戦というのは、どう、かばってみても分が悪過ぎると思われる。
 戦後の "冷戦構造" への道を睨んででの、米国による "原爆投下" は、言語道断の "非人道的" 行為である。米国民の中にもその行為を恥じる人々がいるに違いなかろう。が、旧日本軍による "真珠湾攻撃" という "暴挙" も、日本人としては実に恥ずべき選択だったと思えてならない。
 朝のウォーキング時、気分は特に悪いわけではなかったが、ちょいと鼻の調子がおかしいかと気になっていた。だが、午後になると身体のだるさ、眠気、寒気が併せて襲ってきた。いよいよ、風邪気味だな、という気配だ。
 これまでにも何回かこんなことがあり、その都度、大事をとった "先回りの休養" によって無難に対処してきた。
 この師走に、本格的な風邪だのインフルエンザだのと寝込みたくはないので、まさに "先回りの休養(睡眠)" で難を逃れるべし、というところか...... (2009.12.07)
 今朝、玄関のチャイムで出てみると、 "内猫" が以前からお世話になっている "獣医" さんがカレンダーを配りに来られたのだった。年配のその先生は非常に良心的な方で、とかくペットの治療費で泣く話を聞いている昨今だが、いつも当方側がそんなに安くて申し訳ないと思うくらいなのであった。
 ちょうど、 "内猫" 用のクスリが無くなったところだったので、それを依頼させてもらった。片方の猫がかなり頑固な "便秘" で、その先生が処方してくれたクスリ、 "酸化マグネシウム" を与え続けて経過は良好であったのだ。
「今は持って来てないけど......」
「いや、先生が都合がいい時についででいいんです」
というやりとりであったが、午後には届けていただいた。
 好感が持てる"獣医" さんなので、ペット好きな人には文句なくお勧めしてきたりもした。
 寒い一日で、おまけに午後は雨まで降ってきた。外の猫小屋に湯たんぽを二個入れてやったが、外猫二匹たちはありがたそうに、仲良く身を寄せ合ってうずくまっていた。
 昨夜、就寝時にラジオをかけると、 "ホームレス支援" を続けている人のインタビュー番組があった。北海道は札幌で3、4年間続けている人の話であったが、現地は夜ともなると氷点下10、20度にも冷え込むそうである。そんな中でホームレスの人たちは過ごしているそうだが、 "凍死" をしないために "一晩中歩き続ける" のが通例となっているらしい。中には不幸にも "凍死" する人もいるというから、過酷なことだ。
 今日の寒さを感じながら、そんな話を思い起こしたりしていた。いろいろと不平不満が絶えない時代環境であるが、寒さや冷たい雨がしのげるところで暮らせることがどんなにか幸いなことだろうかとしみじみ思えた......。
  "デフレ・スパイラル" へと傾く "デフレ" 状況下での "安売り競争" とその尖兵とも言える "格安PB(プライベートブランド)" 商品。
 昨日は、過激化する "安売り" が、一見、消費者にとってはありがたいことのように見えるけれども、まさに "地獄への道は善意で敷き詰められている" との表現にも似て、消費者にもしっかりと "そのツケ" が回って来ることを書いた。
 いや、実はすでに "そのツケ" は回って来ていて、もはや "格安商品" しか買えなくなっているからこそ、この現象がより一層恐ろしく感じられるわけでもある。

 昨日も大いに参考としたTV報道番組、<『追跡!A to Z「安売り競争は何をもたらすのか?」(NHK 2009年 11月28日)>でも、その実態が紹介されていた。
  "格安PB(プライベートブランド)" 商品製造の下請け会社の社員=主婦が、
「自分でも矛盾してるなと思うんですけども......」
と言いながら、給料削減=薄給ゆえに止むを得ず、スーパーでの週末の纏め買いでは、ショッピング・カートの中に "格安PB(プライベートブランド)" 商品ばかりを投入せざるを得ない光景が映されていた。
<節約の対象は食事や日用品の出費。家族4人で月5万円程度に抑えている。週末は安売りのスーパーでまとめ買いが習慣となった。ショッピングカートの中は格安プライベートブランドの商品で埋まる。安売りに苦しむ生産者が消費者としては安売りを求める! 負の連鎖が始まっていた!>
とナレーションは語る。
 現在進行中だとされる "とある事実" のことを考えると、次のような慣用句を思い浮かべてしまう。
  "地獄への道は善意で敷き詰められている" が一つであり、もう一つは、 "悪貨は良貨を駆逐する" である。
 前者の意味は、最悪の状況である "地獄" というものに至るプロセスは、必ずしもそれに見合ったような、あるいはその "地獄" を予感させるような恐ろしい踏み石で成り立っているのではなくて、むしろ誰もがありがたがるようなもの(善意)によって構成されている場合がある、ということだ。逆説的表現なのではあるが、痛烈に真理に迫っているようだ。
 後者は、世の常として、金銀の含有量が少なかったりする価値の薄い硬貨(悪貨)は、その逆で実質的価値のある良貨が手元に仕舞い込まれがちなために、盛んに市場に流通してしまい、市場での流通量が支配的となる、というほどの意味であろう。そこから、概観が同様であるようなモノであれば、問題含みなものほど世に広まるのが速いという現象などを揶揄する際に使われるようだ。
 先日の新聞報道で<小中高生の暴力6万件 3年間で7割増>( asahi.com 2009.11.30 )という記事があり、気になっていた。

< 全国の小、中、高校が2008年度に確認した児童生徒の暴力行為は5万9618件と、前年度比で13%増、7千件近く増えて過去最多を更新したことが、30日に文部科学省が発表した「問題行動調査」でわかった。学校別では小学校で24%増、中学校で16%増と著しい。報告件数はこの3年間で1.75倍になった。......>(同上)

 これまでにもこうした指摘はされてきたし、時代環境の好ましくないさまざまな点が挙げられもしてきた。
 だが、最近の自分が意を強めるのは、先日来書いている "言語力" 低下の風潮(当日誌 2009.11.27、 2009.11.29 )とかなりの程度符合するのではないか、という思いなのである。
 加えて、今日は、「天声人語」(朝日新聞朝刊)でもこの問題が取り上げられ、次のようなくだりが眼に入った。
 玄関先で "大木" となってしまった "シャラの木(別名:夏椿)" の剪定にようやく手をつけた。長らく気にし続けてはきたものの、庭木の中では最も愛着を感じていたこともあり、手付かずの状態できてしまった。
 すでに、隣家の二階の屋根の高さを上回る背丈となってしまっていたのだ。また、電線や電話線の引き込み線にもたっぷりと触れる枝ぶりになるまで茂っていた。
 この木が気に入っていたのは、第一に、全体として清楚な雰囲気を漂わせている姿の良さであった。幹や枝の地肌はやや白っぽくてすべすべとしており、また、葉の形もクセのないおとなしさがあり、明るく淡い黄緑というのも感じがよい。そして、何よりも、夏場に無数に咲く白い小さな花が可愛かった。
 好感を持っていたのは自分だけではなかったようで、野鳥たちも大いに気に入っていたようだ。さまざまな野鳥が入れ替わり立ち(飛び?)代り来てはさえずっている。中でもムクドリたちは、無数の白い花が変じて実るパチンコ玉位の大きさの実がお目当てで、秋になると頻繁に訪れては騒がしく啄ばんでいる。

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