yasuo hirose: 2008年1月 アーカイブ

 現代という情報化時代は、腑に落ちない話題や事件が次から次へと連なり、ひとつひとつに付き合っていたのでは身が持たない、といった感じである。
 ガソリン税の "暫定" 税率から端を発した「つなぎ法案」がどうのこうのという問題も腑に落ちなければ、食品偽装で大騒ぎをしている最中に、それどころの話ではない水準の「中国産冷凍ギョーザ」での中毒事件が報じられたりと、 "まともなセンス" からは了解しにくい話題が多すぎるように思える。
 今、 "まともなセンス" と書いたが、先ずは、自身の感覚や判断をそう呼ぼうとすることに対して "反感" を覚える人もいるかとは思う。それを承知の上で書いた。
 人はそれぞれ自身が "まともなセンス" を持っていると自負しつつ、自分の判断を表明するのではなかろうか。自分自身もそうである。だがもちろん、他者からの指摘によって明らかに自身の判断が誤っていると了解できた時には、言うまでもなく持論を撤回して、より "まともなセンス" となるように反省もしよう。
 しかし、昨今は、自分のようにこうした "試行錯誤" をする人というのがメッキリ減ったような気配を感じている。つまり、自分の感覚や判断を "まともなセンス" だと自負するほどに、自身で考えようとする人が少なくなったのではないかということでもある。
 そして、そうした傾向を助長したり、一般化させたりするような、いわば "無理からぬ" 時代環境やら風潮がいつの間にか広がっているかのような感触を持つのだ。

 ひとつ言えそうなことは、自分の感覚や判断を "まともなセンス" なのだと感じさせてくれるような自身の足場となるような環境が、少なからず壊されているという事実がありはしないかと推測している。
 人が、自身の主観をもって "まともなセンス" だと感じられるためには、自身が何か "準拠" できる集団なり組織なり文化なりに依拠しているという自覚が必要ではなかろうかと考えている。
 たとえば、かつてのこの国この社会にあっては、個々人はかなり安定した状態にあった地域社会や家族に所属していたはずである。そしてその所属が、個々人に対して何がしかの安定したセンスを与え、また相応の自信をも与えていたのではなかろうか。だから、自身のセンスを "まともなセンス" だと自負することも可能だったのではないかと思う。
 また、その "準拠" できる集団なり組織なり文化なりの中には、会社やサークル、さらに何らかの結社といった "機能集団" もあったはずである。一頃、揶揄された "会社人間" というのは、会社という組織と文化にどっぷりと浸かって、そこに自身の居場所を見つけていた者たちのことを指していたのであろう。もちろん、当人たちはしっかりと自分の感覚や判断を "まともなセンス" だと信じ切っていたはずだし、現に、そうだからこそ発生してしまった ""不祥事 も多々あったくらいである。

 ところが、時代は何をどう変えたといって、こうした、人々が "準拠" していたはずの集団なり組織なり文化なりを、 "有名無実に近い状態" へと変えてしまい、その結果、人々が "根無し草" のごとく "寄る辺ない個人" と化したということではなかろうか。 "有名無実に近い状態" とは言い過ぎだとしても、個人が "準拠" するに足るほどの存在感が無くなってしまったとは言えそうである。前述の "会社人間" にしたところが、それを方向づけた有力な要因であっただろう "終身雇用" 慣行が消え、さらに従来では想像もしなかったに違いない "リストラ" の嵐も吹き荒れたりしたことで、 "会社" というもののイメージが根底から変えられてしまったのではなかろうか。
 これは、拘束的な集団などから個人が解放されたと評価できる事態でもあるわけだが、事はそうばら色の側面だけではなかったのかもしれない。
 人間というものは、そう簡単に "個人としての安定感や自信" が持てる存在なぞではあり得ないはずである。それらを与える集団なり組織なり文化なりとの関係、相互関係が必須なはずではなかろうか。
 現代という時代では、個々人たちが "準拠" できるような "杭" (?)も見当たらないような荒涼とした荒海に、多くの個々人たちは漂うことになっているのかもしれない。そんな印象が拭い切れない。そして、これが、ひょっとしたら自身の感覚や判断を "まともなセンス" だと言い切れない実情の真相であるのかもしれない。
 では、自分自身はどうなのかと言えば、正直言って単に "開き直って" いるに過ぎないような気もする ...... (2008.01.31)




















 今、事務所で自分専用に使っているPCは数台ある。つい先頃までは Windows 2000 もわけがあって使っていたが、現在は Windows XP と Vista を搭載して使っている。
 それぞれの CPU 速度は2G Hz 程度であるが、一台だけは866 M Hz とやや遅いものを "後生大事に" 使っている。
 このタワー型ケースのPCは、かつてPCショップを併設していた当時にハンドメードで拵えたものなのである。その後マザーボードやら各種カード類、HDDなどをいろいろと取替えてはいるが、そうした手間を掛けているだけに何とはなしの愛着が強いと言えそうである。
 振り返ってみれば、OSも Windows 98 SE から使っていたはずなのであり、 Windows 2000 へとグレードアップさせ、つい先頃まではそれで使っていた。 Windows XP へとグレードアップさせたのはついこの間のことである。

 ということで、このPCは、まるで老舗のうなぎ屋の "たれ" のように、あるいはオリンピックの "聖火リレー" のたいまつの火のように、当初の状態から "絶やすことなく" 継続させてきたという経緯を持つのである。まあ、それぞれのパーツをその都度交換してきたりしているから、使い始めた当時のものそのものというのはタワー型のケースくらいなのかもしれない。
 ただ、PCにとっての命であるOSの方は、どういうわけか再インストールをするでもなくグレードアップ版で繋いできたことになる。まさに、うなぎ屋の "たれ" のようにである。
 確かに、はじめの頃はアプリケーション・ソフトやその他を再インストールするのが面倒だという根拠がなくもなかったが、そのうち意識的にこうなったら、この一台だけはうなぎ屋の "たれ" のように代々繋げてゆくべし、という開き直りの気分が出来上がってしまったのである。
 もちろん、この路線を貫いて行くためには、一種の苦労がないわけではなかった。
 PCというものは不測のトラブルがつきものであり、HDDクラッシュやら、新規に導入したアプリケーションに基づく不具合やら、そしてウイルスの侵入やらと、PCが二進も三進も(にっちもさっちも)行かなくなることは避けられない。
 そこで、常にシステムのバックアップを用意しておいて、そうした場合にはそれで切り抜けるという体制をとってきたものであった。それが、脈々と受け継がれてきたうなぎ屋の "たれ" のごとき継続性を可能としてきたのだと言える。

 だからと言って、何がどうだと自慢ができるほどのことではない。単なる "こだわり" の一種でしかないことははっきりしているのである。
 ただ、こうした "こだわり" を実践してくると、PCの調子に対する "感度" とでもいうべきものが敏感であり続けられたような気がしている。
 常日頃、PCの不具合が発生したら、とにかくOSの再インストールをしてしまえばそれでいい、という安直な発想を持っていたならば、ちょっとしたPCの不調を容易に見過ごすことになりそうである。その結果、昨日の話ではないが、 "早期発見、早期対処" というわけには行かないことになる。
 ところが、上述のような "こだわり" を持ってPCに向かっていると、ちょっとした異変、たとえば、やや処理速度がもたつく感じであるとか、通常とはやや異なる現象が見え隠れするとか......、にそこそこ気づくことになりそうである。
 OSも "賢く" なってきたので、ちょっとした不具合でいきなりストップということには至らないのが現状であるが、それは言い換えれば、不具合が潜伏し続けるということなのであって、いわば "問題の先送り" でしかないとも言える。それで、その状態が長期化すると、今度はHDDに損傷を及ぼすような致命的なトラブルへと発展してしまうかのようなのである。
 そう考えると、やはり "早期発見、早期対処" が無難であり、そのためには "こだわり" 的な何か指針を持つなりして、 "注意する感度" を高めておくことが必要かと思われるのだ。この辺の事情は、ありふれたことのようであるが、何事もイージーに流れがちな現代の風潮の中では心しておくべきなのかもしれない...... (2008.01.30)

 鼻風邪の方は、どうやら封じ込めることができたようだ。昨夜は市販の風邪薬を飲んで、無理やり早寝をし、今朝も無理をしないで朝寝をさせてもらった甲斐があったかのようである。大げさではあるが、 "早期発見、早期対処" が奏功したということになる。
 考えてみれば、何事によらず、この "早期発見、早期対処" というのが物事を上手く進めるための基本なのだろうとは考えている。しかし、現実は、風邪の引きはじめのような単純なことばかりではない。風邪の引きはじめにしたところが、自分のように振る舞えるのは幸せなのであって、こんな状態ではあっても十分な睡眠がとれなかったり、無理を継続しなければならないことだってままあるはずであろう。現実とはそうしたものであり、 "原理・原則" を何のてらいもなく口にできるのは、売れない評論家くらいのものではなかろうか。

 ただ、 "原理・原則" も、無責任に口にするだけという当世流行の振る舞いではなく、しっかりと行動で示すとなると、それは人を動かすに足る力となりそうである。これが少なくなった時代だと痛感する日々ではあるが......。
 今日、些細なことではあるが、 "原理・原則" を身をもって示すケースに出会った。商売人のサービス精神の手本とでも言うべきケースである。
 それは、馴染みとなっている自動車整備工場のサービスなのであった。毎回の "車検" 更新や、日常的なクルマ整備においてはもう10年以上お世話になってきた業者なのである。もともとが、商売っ気が薄いような "良心的" な業者であった。元のオヤジさんの姿はよく覚えてはいないのであるが、その息子さん兄弟二人がともに実直な人柄であり、今までもその工賃が高いと感じさせられたことは一度としてなかった。また、クルマ整備の技術や経験にも遜色がない上に、顧客側の負担が少なくなるようなアドバイスを提供してくれるのも好感が持てた。だから、何かあると安心してクルマをお任せできたのである。

 で、今日、先ほど車検整備が上がったクルマを引き取りに出向いたのだが、その際、何とも恐縮するようなサービスをしてくれていたのである。ボディの "手洗い洗車" をしてくれていたのであった。
 自分は、日頃クルマをピカピカに磨いておく方ではない。いや、夏場は "水遊び" がてらに自前で洗車をすることもないではないが、こんな時季にはそんなこととて考えにも及ばない。また、ガソリン・スタンドの自動洗車にしても、待つ時間が鬱陶しいためほとんど拒絶している。
 となると、クルマの見てくれがどうなるかは言わずと知れた惨憺たるものである。並みの汚れ方に加えて、外猫たちが寒さ凌ぎにボンネットに泥足で乗るは、野鳥が飛来してはフンを落としていくはで、見るも無残な汚れ方となる。ホワイト系パール色のボディはグレーとなってしまう。
 今回、いくらなんでもこれでは整備業者も "手が汚れる" ようなので、GSで自動洗車をしてから持ち込もうかと思ってはいたのだ。が、その機会を逃してしまっていた。

「石鹸つけて洗っときましたよ。やり始めたら、汚れが落ちないから途中で止めるに止められず、こんなことになっちゃった......」
と、その業者は自分の顔を見るなり言ったのであった。自分は、心底、礼を言うだけではなく、そんなに汚れを放置し続けてきたことが恥ずかしい気がしたものであった。きっと、 "結構、ズボラな人なんだね......" とかという会話が作業をしながらの兄弟の間で交わされたに違いないと想像させられたのであった。
 また、何ヶ月も洗車をしないクルマの汚れが落ちにくいことも知っているだけに、大変な重労働となったのだろうと想像したものであった。
 が、ここまで "サービス精神" をしっかりと形にされてしまうと、もう、顧客としては二の句が継げない。この先、クルマに乗り続ける限りは、自分のクルマはこの兄弟の整備工場に出し続けるに違いない、と確信めいて感じていたのである...... (2008.01.29)

 何だか、現在の世界情勢はまるで "蜂の巣" を突付いたような騒ぎだ。荒れ狂っているという連想よりも、 "無秩序に波及" する様が似ているような気がするのである。
 今日の東京株式市場は、懸念していたとおりの下げぶりであった。終値541円安という大反落である。先週末には同程度の上昇を見せたものだったが、それが続くと予想できるほどの楽観的情勢ではなかろうと見ていたが、案の定、上ったり下ったりのエレベータ相場である。
  "無秩序に波及" というのは、あの "サブプライムローン問題" のことを言っているわけなのだが、今日はその上に "自然現象" の影響まで加算されてしまったようだ。
 今日の東京市場の大幅下げの原因は、もちろん "サブプライムローン問題" で景気後退が危ぶまれる米国の経済情勢への不安であるが、それに加えて、アジア株式市場の大幅急落も影響していたという。そして、そのアジア市場の急反落の原因は、<中国で大雪の被害が広がり、経済に悪影響を与えるとの連想が売りを誘った。>( NIKKEI NET 2008.01.28)ということらしいのだ。
 もともと、グローバル経済・金融の時代にあっては、世界各地の出来事が株価の動向に飛び火するようであるが、事態がナーバスな情勢となっている時には "自然現象" でさえ思いのほかの影響力を発揮するような気配である。それで、 "蜂の巣" を突付いたような騒ぎが発生してしまうというわけなのである。

 <中国で大雪>の実態はよくわからないが、日本の太平洋側でさえこんなに寒い感触なのであるから、中国大陸が大雪に見舞われたと聞いても不思議な気はしない。東京も今夜夜半から雨か雪になると予報されているようだ。
 それにしても、今年の冬は "寒い気がしている" 。主観の問題もあるだろうから、一概には言えないのだろうが、大した雪が降らない割には、空気が冷え込んでいる印象が拭えない。
 自分も、とうとう、今朝あたりから "鼻水" 症状に見舞われることとなってしまった。こうなると、やっぱり寒いんだな、と念押しされ、太鼓判を押されたような気がしてしまう。これで "鼻水" だけで通り過ぎてくれればいいが、これが "サブプライムローン問題" のように世界が "大事" になる予兆だったりすると困ったことだ。 "鼻水" をそれだけに封じ込めるべく、今日明日は警戒するに越したことはなさそうだ...... (2008.01.28)

 今朝、ありありとした夢を見た状態で目が覚めた。
 いつも、明け方5時前後に一度目が覚める。 "トイレ休憩" のようなものである。
 今朝は、その時に、リアルな夢を見ていたのであった。しかも、大抵の場合、そのように夢を見ているままの状態で目が覚めると、脳の興奮のためかやや頭痛が伴ったりして不快な気分となっているのが常であるが、今朝のその時はきわめて平静な気分であり、へぇー、こんなこともあるんだ、とやや不思議な気がしたものであった。
 見ていた夢というのは、もうとっくに亡くなって十年は経つ "祖父" の夢なのであった。その "祖父" と生々しく会話をしていたのである。
 仔細は思い出せないが、どうも、何かあることで "祖父" に "抗議" をしているようなのである。
 祖父が亡くなってから、親戚の者同士がその遺産相続をめぐって醜い争いが十年ほども続いたものであった。そんなプロセスで、 "祖父" に対しては何かと不満が生まれたりしたこともあった。つまり、遺族たちが見苦しい "泥仕合" なんぞをしないでも済むような段取りをなぜ "祖父" は取り計らっておかなかったのか、というような不満ということになろうか。
 したがって、夢の中での "祖父" への "抗議" とは、たぶん、そんな類のことではなかったのかと想像する。

 ところで、自分が "抗議" に出向いた "祖父" の家というのが、また奇妙であった。 "祖父" と言えば思い起こす "北品川" のあの古い家でもなければ、そうかといって次男たちと一緒に住むために新築した池上の家でもなかった。
 平屋の古い民家であり、日当たりと風通しの良い造りは、今気がついたのだが、 "千倉" の家であったかに思える。その "千倉" の家とは、生前 "祖父" が夏場をよく過ごした別荘代わりに使っていた家なのであり、自分も子供時代には何度か泊まりに行ったことがある。もちろん、 "千倉" の海岸での海水浴を目当てにである。夏になると、 "祖父" がいるということで、親戚の子供たちはよくそこに集まったりしたものであった。

 はっきりとはしないのであるが、じゃあ、自分が "祖父" に談判しに行ってくる、という前段があった上で、どうも "祖父" のところに出向くという流れのようであった。
 だが、今、素面で考えてみると、前述したような遺産相続のゴタゴタに関して "祖父" に "抗議" するというのもおかしな話だということになりそうだ。というのも、夢の "時制" は、 "祖父" が健在な頃のようだからである。
 とすると、 "抗議" の内容というのは、遺族たちが見苦しい "泥仕合" をすることになった "祖父" の段取りの悪さということそれ自体ではなく、とかくそうした曖昧さをもって生きた "祖父" なので、何かそうした部分であったのかもしれない。
 それはともかく、いろいろと会話を交わしていたようなのである。で、 "祖父" という人は、自分の思い出ではかなりの "口達者" の人だという印象がある。一筋縄では行かない人だったのである。簡単に、そうかそうか、と折れるようではなかったかに覚えている。
 それだからこそ、自分は夢の中でも結構話の組み立てを考えたりして、頭を使っていたのかもしれない。その話の中身が思い出せればよかったのだが、その辺がはっきりとはしないでいる。ただ、目が覚める直前の会話だけが何となく思い起こせる。
 確か、じゃあ、お前ならどう言うんだ? と問われたようであり、その時にすかさず、自分ならこう言います! とどこかハッタリめいたことを言いのけていたようであった。と、 "祖父" は、これは一本参った、というような表情をして大笑いをしていたのであった......。で、その時目が覚め、何かすがすがしい気分だったというわけなのである。

 ひと(他人)様にはわかりようもない夢の話をくどくどと書くというのもどうかと思えたが、まるで目覚めている時のように会話が進んでいたことがとにかく不思議であったことと、目覚めた時の気分が妙にスッキリとしていたことが珍しいことであったため、あえて書くことにしたのである。
 それにしても、日中、あーだこーだと屁理屈をつけて考えるだけでは物足りないらしく、夜な夜な、夢の中でも休むに似た下手な考えをこねくり回しているのだから、脳の方も休むに休めず気の毒なものだと言うべきか...... (2008.01.27)

 ウォーキングの帰路、ホームセンターに寄った。おふくろのところに顔を出すのに何か菓子でも買おうかと思ってのことだった。おふくろのところには、週に一回は顔を出し、その際におふくろの身体の調子などを "点検" しようとの算段なのである。調子が良い場合は、朗らかな顔をしているし、そうでない場合は相応の顔つきをしているので、顔を会わせるだけでも状況はわかろうというものなのである。
 先々週は食べ合わせが悪かったとかで腹の調子を損なっていたりした。そこでその後、クルマでちょっとした薬やインスタントの粥などを運んだりしたものだった。
 週に一度というのもどうかとは思っているが、少なくとも週に一度は出向こうと考えているのだ。それ以外は電話で用を足す形である。

 以前、ホームセンターの食料品売り場で昔ながらの "甘食(あましょく)" を見つけてそれを手みやげに持って行ったことがあった。そうしたところ大層喜んだので、しばらくはそれを中心にしたみやげが続いた。しかし、われながらいくらなんでも毎週 "甘食" では芸がないと思い、その都度見計らって別な菓子などを探しているのだ。
 今日は、ショップの入り口付近で "出店" ふうに "串団子" を売っていたので、 "みたらし"、"餡子"、"海苔" などの串団子の組み合わせとすることにした。年寄りなので昔風の菓子を選ぶようにしているが、今ひとつ留意しているのは、自分と同様に "血糖値" が懸念される身体なのでハイカロリーなものを持ち込んではいけないという点である。

 おふくろに毎度手みやげを差し出すと、いつも決まったように、
「顔見せてくれるだけでいいんだから、何にもいらないんだからね......」
と言う。ただ、これまで、自分が顔を出すと必ず何か、たとえばインスタントコーヒーであったり漬物であったり、そんな包みを持って帰れというおふくろなのであった。だから、そんなにもらってばかりいてはというバランス感覚が無いでもないのである。
 最近は、手製のぬかづけの漬物をもらって帰ることが続いてもいる。 "旨い" と言ったもので、おふくろはせっせと作ってくれているようなのだ。まさに "おふくろの味" というところである。

 家内は、夕飯のおかずでおふくろの口に合いそうなものがあったりすると時々持って行ってくれている。今晩も先ほどクルマで運んでいたようである。実家の母親をケアする日が続くので、家に居る時は "こっちのおふくろ" にもできるだけのことをしてくれようとしているのであろう。
 こうして、ささやかで何でもない庶民の人と人とのつながりに目を向けると、今更のように現在の世相の荒みが哀れに思えてきたりする昨今だ...... (2008.01.26)

 一日中PCと付き合っているためどうしても眼が疲れる。それに加えて、使用している "眼鏡" が長年愛用してきたもので当然 "合わなく" なっていたようなのである。そのため眼からくる疲れが著しい昨今であった。そこで漸く "眼鏡" を新調することにした。
 なぜもっと早く対処しなかったのかと振り返ると、理由がないわけでもなかった。
 要するに、ピッタリ合うような "眼鏡" を望むことは甚だ困難ではなかろうかと、そう思い込んでいたのである。
 というのも、 "複数の要素" が絡んだ難問のごとく見なしていたからである。
 先ず、近視に、そして老眼に、さらに乱視というあまり褒められたことではない自分側の要素があった。これらに加えて、日常作業にあっては、手元はもちろんのこと、やや距離のあるPCディスプレー画面が良く見える必要があると考えていた。ピアノを弾く人が、鍵盤と譜面の両方が見えなくては困るという要望を持つのと同様である。
 さらにまた、クルマの運転をする場合も少なくないため、遠方が良く見えなければならないし、かつ手元を見るのに不自由しないという条件も加わっていた。
 こんな事情から、 "眼鏡" の新調のことを考えると逆に煩わしくさえなってしまい、延び延びにしていたというのが実情だったかに思う。
 もちろん、 "遠近両用眼鏡" という昨今では一般化している選択肢のあることを了解してはいた。というよりも、何度かそれを誂えたことがあったのである。だが、どうもフィットしなかったため、そうした先入観だけが出来上がってしまったと言っていい。

 しかし、眼からくる疲れをこのままにしておくのもどうかと思い、漸く重い腰を上げたというわけなのであった。
 結論から言えば、ひとつの眼鏡ですべてを賄おうとすることに無理があったと判断して、結局、この際二つの眼鏡を誂えることにしたのである。二つとも "遠近両用眼鏡" であり手元が見やすい点では共通しているが、一方は作業用として "中範囲" が良く見えるものであり、もう一方はクルマ運転用として "遠方" が良く見えるものなのである。
 やや贅沢な感じがしないわけでもなかったが、まあ、加齢に伴う "ハンディ" はぐずぐず言わずに補強するのが正解なのだろうと対処したわけだ。
 確かに、 "ハンディ" はかなりの程度克服できたかのようである。ものがスッキリとよく見えるということがやはり貴重なことだと再認識したりしている。ただ、やはり "遠近両用眼鏡" というのはどうしても不自然さが拭い切れないようで、これはどうしようもないのかもしれない。後は慣れること以外に手はなさそうである。

 こんなことを書いていて思いを巡らすのは、これからの経済においては、高齢者たちの "ハンディ" が如何に快適に克服されるかという、そんなテーマが重要となりそうではないかという点であった。広く言うならば、高齢者文化のクオリティ・アップということにでもなりそうか。
 眼目は、単に "ハンディ" が克服されるだけではなく、そこに "快適さ" が伴うという点にあるのかもしれない。これらは、高齢者文化の市場が活性化(競争化)しなければ達成されないことだと思えるから、多分、高齢化する団塊世代がその立役者になるものと思われる。 "遠近両用眼鏡" の使い勝手の悪さを含めて、精々、団塊世代の高齢者たちは、アーダコーダと商品市場にクレームを発するべきなのであろう、後続者たちの快適生活のために......。まあ、もっと崇高なテーマである "老いることとは何か" という問題も煮詰められるべきなのであろうが...... (2008.01.25)

 先日、昼食にパンを買った際、その "パンの香り" が突然にはるか昔の光景を呼び覚ましたものだった。一瞬のことである。
 それは、中学生の頃のことであり、昼休みが始まると大急ぎで近くのパン屋にパンと牛乳とを買いに出掛けた光景である。
 そのパン屋は、中学校のほんのすぐ傍にあった駄菓子屋のような小さなパン屋であった。そこでどんな菓子パンを買ったかは定かには思い出せないのだが、ちらっと思い起こすことができるのは、三角形をした二、三層になったジャムサンドのようなものである。おそらく、何度も同じものを買ったために記憶しているのかもしれない。
 四十数年前の光景の記憶が、順序立てた脈絡によってではなく、一瞬の "香り" によって立ち上げられてしまうということが、いつもながら不思議な気がしてならなかった。
 以前にも、散歩の際に漂っていた "菜の花" の "香り" が、何と、小学校に入学した春のことを思い起こさせたことがあった。菜の花の光景に魅せられて畦道(あぜみち)を歩く自分が思い浮かんだ。またその時には、真新しいランドセルの "革" 特有の "香り" もまざまざと蘇ってきたものであった。

  "香り" や "匂い" が記憶の重要な要素となっているのではないかということは、これまでにも何度となく書いてきたような気がする。自分の場合、記憶と "嗅覚" との結びつきが割と強いのかもしれない。
 もともと記憶というものは、 "嗅覚" に限らず、種々の感覚と密着しているものなのではないかと考えたりする。別な表現をするならば、種々の感覚の自覚と一緒になったり支えられたりしてこそ、記憶というものは確かさを獲得するものなのではないか、と。
 確信めいてこうしたことを言うのは、ちょっとした "体験" があるからなのである。

 もう大分前になるが、自律神経失調気味で悩んだ時期があったが、その頃、奇妙な体験をした覚えがある。簡単に言えば、自分が自分ではない、というような自分の "実在感" が消え失せたような感覚なのである。あるいは、目に見えている光景から、その "実在感" が消え失せているといってもいい。
 それは "実に奇妙で怖い状態" であったと覚えている。日頃、われわれが目にする光景は、光景自体だけを見ているのではなく、それらをそれらとして承認したり、意味づけたりする "自分側に内在した何か" を動員して見ているのだと思われる。だから、視点を移すひとつひとつの対象にいろいろと思いを巡らすこともできるのであろう。連想と言えるのかもしれない。建物の屋根の形から何かを思い起こしたり、思い出したりするといったようにである。
 ところが、その時の自分の感覚は、光景自体だけを見ているのであり、 "自分側に内在した何か" が一向に起動してこないのであった。当然、目にしている光景自体だけ、という対象は、モノトーンな色調で、いわゆる "虚無" そのものでしかなかったようである。こんなに寂しい光景があるものか、と感じていたようだ。
 若い頃、ひどく心を疲れさせていた頃だったかと思うが、一度、瞬間的に、これに似た "実に奇妙で怖い状態" を経験したことがあったにはあった。それは、地下鉄の轟音の中で、車内に乗り合わせた他の人々がことごとく "泥人形(?)" のように見えてしまったという "異常体験" なのであった。
 その "脳内メカニズム" は未だによくはわからない。だが、多分、前述した "自分側に内在した何か" が動員できなくなる知覚状態と共通していたのではなかったかと憶測をしている。

 最近の "脳科学" では、 "クオリア" という概念が注目を浴びているが、先ほどから書いている "自分側に内在した何か" と言っているのは、その "クオリア" に該当するものであるのかもしれない。
 人間の知覚というのは、外界の実在物との接触の際に、この主体側の "クオリア" 群を動員させることによって外界と自身との "実在感" を確保しているのかもしれない。
 ところが、何かの支障があってこの "クオリア" が起動できなくなった時、外界の対象も、また自身に関しても、どこか "脱色" されたかのように、また "脱" 意味化されたかのように "実在感" を喪失してしまうのではなかろうか。
 もともと記憶に関してこの話を始めたのであったが、記憶についてもほぼ同様なことが言えそうな気がしているのである。
 記憶というのも、 "実在感" が重要な役割をしているはずである。 "ありありと覚えている" という表現が示す "ありありと" というのは、まさに "実在感" のことを言っているのであろう。ここにおいても、自身の "クオリア" がしっかりと起動されているかどうかが問題となっているのだと思える。
 最近は "度忘れ" をしがちな "年頃" となってしまったゆえに、自身の記憶に注意を払うようになったのだが、そうしていると、ちょっとしたことに気がつく。
 ひとつは、 "頭では(=言語的には)" 思い出しても、今ひとつ "実在感" が立ち上がってこないという場合であり、もうひとつは、その逆に "実在感" が先行しているにもかかわらずその "名称" などの "言語レベル" が想起できないというケースである。もちろん後者のケースが、いわゆる "度忘れ" ということなのであろう。
 しかし、いずれにしても、記憶もまた "二層構造" で構成されているようであり、 "言語・記号・単純知覚" レベルと、もうひとつが "自分側に内在した何か" という "クオリア" レベルではなかろうか、と憶測しているのである。

 昨今、ますます "認知症" という問題が "社会問題化" しつつあるように見受けられる。高齢化社会・時代となっている以上当然の成り行きともいえそうだが、自分は、今ひとつ、ある事柄を懸念している。それは、現代という情報化時代は、 "言語・記号・単純知覚" レベルを肥大化させることに熱心であるが、個々の人間にとって必須で掛替えのない "クオリア" レベルをないがしろにしてはいないか、という点なのである。
 簡単に言えば、高齢者たちが培ってきた "クオリア" レベルの、その "等価対象物" (かつての風物 etc.)が、日常生活環境からことごとく追放されたような時代環境は、高齢者たちの "脳活動" にとって決して好ましいものではなさそうだと感ぜざるを得ないわけだ。
 しかし、現代という時代環境に目を向けるならば、懸念されるのは高齢者たちの "脳活動" だけではなさそうな気もしないではない。いわゆる "仮想世界" の圧倒的拡大傾向は、 "クオリア" を "よすが" とする人間個人の根源的あり方をどう変容させたり、調整したりしていくことになるのであろうか...... (2008.01.24)

 午後3時頃であったか、雪が雨に替わった。それまでボタボタと降っていたため、これは積もって厄介なことになるのかと案じていた。このところ、急激な株価反落など人間界での "不具合" が常軌を逸しているだけに、何かと悲観的に考えてしまうクセがついているようだ。
 予報されていたとおり、降雪が淡々と雨に替わったのを目の当たりにすると、自然界の出来事の方が、屈託が無く "リーズナブル" なのではないかと、そんな思いを抱いた。

 身の回りの動物たちを見ていても、人間たちや人間界のドロドロとした "不可解さ" に比べて何と "単純美" に徹していることであろうか。ああでなくちゃぁいけないのかなぁ、などとふと思ったりすることがある。
 自宅の猫たちにしたところが、彼らの感情の起伏は実にわかりやすい。キッチンの片隅の餌皿に身を伏して黙々と腹を満たした後の表情なぞは典型的である。いつも同じ餌を喰っているにもかかわらず、居間に戻って来た時の満足そうな顔つきといったらない。口の周りをペロペロと舌なめずりしている仕草は、あー旨かった、満足満足、と言っている気がする。
「ご飯喰ってきたのか、旨かったか」
と言って頭を撫でてやると、眼を細めて顔を突き出す。尚のこと、満足満足、という表情になる。
 で、そこでやめておけばいいものを、ちょいと尻尾をつかんでからかうと、今度は、ムキになって迫ってくる。で、また、いやぁー冗談冗談、と言って頭を撫でると、またまた眼を細めて顔を突き出す。とにかく、目下の事柄だけに即応して、深いことやら過去のことやら、もちろん将来のことなぞ眼中にない、とそうおっしゃっているのである。そうした "単純美" に徹していることが動物たちのかわいいところなのであろうか。

 そう言えば、先日、家内が "かわいそうな犬" のことを興奮して話していた。
 実家のお母さんのケアに行った時のとある駅前の出来事のようであった。一匹の中型犬が、どうも "置き去り" というか、 "捨てられた" ような気配だったというのである。
 歩道の一角で、ちょこんとすわってキョロキョロとしているその犬の姿を最初に眼にした際には、買い物か何かをしているご主人を待っているのかと思ったらしい。
 しかし、家内が用を済ませてかなりの時間が経った後でも、その犬は寒い歩道の上で同じ格好をして途方に暮れていたそうなのである。それで家内は、きっと無情な飼い主に "置き去り" にされたのではないかと同情したというのである。もし、やむを得ず飼うことができなくなったのならば、首に札でもぶら下げて、誰かお願いしますというような段取りでもすればいいものを、と家内は主張していたのである。そんなこともなく、この寒空の下で主人を想う犬をただただ放置するというのは拷問のようだと憤慨していたのだ。
 自宅の近くのことであればそんなかわいそうな犬ならば引き取ってもやれると思ったそうだが、なんせ遠方の駅近辺のことなので心を痛めて帰ってきたという、そんな話だったのである。

  "単純美" に徹して生きるしか術のないものたちに対して、人間たちは "複雑な条件群" を駆使することで、概して "より豊かに" 生きているわけである。それが "重荷" と感じさせられるような、そんな不可解な "不具合" が多々生じていることも事実ではあるが、生きることに "複雑さ" が必要だと選び取ってきた人間たちなのだから、やはり、その "複雑な条件群" を "制御=コントロール" していかなければならないはずであろう。そして、たとえ現状が拗れてはいても、それは選びとってきた結果なのであるから正すことが不可能というわけではなさそうだと思える。
 問題は何なのであろうか。 "単純美" こそがかわいい犬たちを、それをいいことにして無情に見捨ててしまうように、物言わぬ "単純美" で満ちた "自然" というものに歴然と背を向けるようになってしまった、その愚かしさこそを何とかすべきなのかもしれない...... (2008.01.23)

 一体、 "サブプライム問題" に端を発しているこの世界経済状況はどうなっていくのだろうか。
 昨日今日の動向は、まさに "パニック" (の始まり?)であり、過剰な反応が事態をただただ悪化させているかのような気配が濃厚だ。特に、バブルっぽく舞い上がっていた中国・インドの株式市場が、一時的な "取引停止" 措置まで採られたという推移は、 "パニック" さながらの状況としか見えない。
 今晩のニューヨーク市場が引き続き "下げ" に見舞われるようであるから(米国のGLOBEX[米時間外金融先物取引]がすでに大幅安となっているとのことだ......)、多分明日の東京市場も、今日に近い "パニック" 的な "株安" 状況となるものと思われる。
 ちなみに、その "パニック" 的様相のひとつは次のように叙述されていたりする。

<欧州系投資家からの売りに加え、個人の投げ売りも殺到。「市場は不安心理が支配している。政策面での期待が薄いことから、売りで利益を得ようとする資金が流入し、下げを加速させている」(大和総研・マーケットアナリストの壁谷洋和氏)という。>(ロイター日本語ニュース 2008年 01月 22日 15:04)

  "サブプライム問題" の原因が、掌握し難い "不透明さ" を含むという点もあるからなのだろうが、それにしても有効な緊急対策が打ち切れずに、とうとう "パニック" めいた反応が表面化するまでに至ってしまったというのが、やはり恐ろしい気がする。

 今現在、突き進んでいるのはどうも "株安" だけではなさそうなのである。あの高騰していた "原油" も、またリスク回避で高値を生んでいた "金" も、さらに為替市場では "高金利の通貨" (ブラジルレアルやメキシコペソなどの中南米通貨や豪ドル、南ア・ランドなど資源国通貨)もが軒並み売り浴びさられて下げているらしいのだ。
 つまり、現時点で展開している経済現象は、 "株" に限らず、商品市場や為替市場での "リスク資産" 全般が、その資金を引き上げられてしまい "安値" の一途をたどっているということのようなのである。
 以前、ある経済アナリストが "サブプライム問題" の本当の怖さは、 "株安&原油高" ではなくて "株安&原油安" である、と言っていたのを思い出す。というのも、今日あたりの動向はまさにそれに該当しそうだからである。
 要するに、 "リスク資産からの資金撤退" という現象が強まるならば、市場経済全体は縮小せざるを得なくなるわけであり、これぞ額面どおりの "経済不況" そのものだからなのである。世に言う銀行による "貸し渋り" も濃厚となり、経済のマイナス現象ばかりが肥大化していくわけだ。
 もちろん、 "過剰な資金" が証券・債券・商品に集中投下される "信用バブル" の経済も危なっかしいことこの上ないわけである。だが、逆に、それが反転した形での "資金の引き上げ" つまり "信用収縮" というのは、市場経済への "兵糧攻め" ということになり、 "経済不況" への雪崩現象につながる不穏な傾向以外ではなかろう。
 今回の "サブプライム問題" というのは、急速に "信用バブル" の坂を駆け上がり、その後脱兎のごとく "信用収縮" へと駆け降りて行くという、そんなプロセスとしてイメージできそうな気がしている。
 そして、よく言われるように、良いにつけ悪いにつけ "実体経済" 自体にはさほどの変化がないにもかかわらず、 "金融経済" の過激な動きそのものが、時代の経済全体を方向づけたり、撹乱し続けたりしているということなのであろう。何だか "バイアグラ" や "覚醒剤" のことをふと想起してしまうのは自分だけであろうか...... (2008.01.22)

 よく、 "ビジネス文章" では "要点先出し" というようなことが言われる。それはまさしくそのとおりだろうと思う。忙しいビジネスマンは、できれば文章なんぞを読みたくはないはずである。考えることだってしたくないに違いない。良い結果や豊穣なリターン(利益)を得ることが指し当たっての目的であり、文章を読んだり書いたりすることはその手段でしかないからである。だからこそ、文章というものは "必要悪" と見なされているのかもしれない。無ければ無いに越したことはないと位置づけられているはずだ。
 ただ、無いといろいろな点で困るために書いたり読んだりするのであり、だから "必要悪" という荒っぽい表現をするのである。
 そんな位置づけの "ビジネス文章" であるから、何はさておき、読んでもらいたい人、例えば上司であったり、取引先担当者であったり、はたまた顧客であったりに、 "読んでもらう" こと、できれば "主旨を誤解なくわかってもらう" ことが目的であり、それが文章を書くことのすべてだとさえ言えそうである。
 となれば、 "忙しい" ビジネスマンや "文章を読みたがらない" 者たちに向けて書く文章は、とにかく "簡潔明瞭" でなければならず、その点から言えば "要点先出し" というマナーは当たり前のコンコンチキだということになろう。

 また、現代という忙しい時代、そして多くのコミュニケーション媒体が乱舞する状況の中で、甚だ不利な性格を引き摺っているかもしれない "文章" がわずらわしいメディアとし受けとめられがちな状況にあっては、何も "ビジネス文章" にかぎらず、一般的に文章というものは "簡潔明瞭" でなければならないと見なされているのであろう。
 この趨勢には概ね賛同できる。しかし、ただひとつだけ "こだわる点" がないわけではない。それは、文章(を書く)ということは、必ずしも書く者によって "考えられた結果のアウトプット" とはかぎらない、のではないかという点なのである。
 もちろん、ビジネスは "結果重視" であり、 "責任志向" が前提となっているジャンルであるから、文章・文書もまた "考えられた結果のアウトプット" でなければならないであろう。そこはそういう意味ではなかったのです......、と後で釈明しなければならないような玉虫色の叙述が許されるわけがなかろう。

 しかし、 "文章を書くという行為" は、果たして "ビジネス文章" の要求の範囲内に収まることがらであろうか。もちろん、そうではない。図式的に言えば、 "ビジネス文章" とは、 "文章を書くという行為" のほんの一部分でしかないと思われる。それは、人間のありようがビジネスという行為だけではないのと同様である。
 では、 "ビジネス文章" を書くという限定された行為と、 "文章を書くという行為" とは何がどう異なるのであろうか。
 いろいろとあろうかとは思うが、見逃してならないのは、 "考えられた結果のアウトプット" としてではなく、いわば "考えつつ書く" という "現在進行形" の側面ではないかと感じ取っている。つまり、考えることにおける結果が出てから書くだけではなく、結果が見えなくとも書くことが十分にあり得る、ということなのである。
 これは、成り行き任せという謗りを受けることにもなりそうだが、むしろ、そう謗る人の方が無理難題を言っているように思うのである。やや詭弁に聞こえるかもしれないが、人間はどんなことにおいても結果を明確にして、その後に生活したり生きたりしているのだろうか、ということなのである。そんなわけはなかろう。その "万事、プロセス的" な同じ人間が "文章を書くという行為" を進めているのである。 "プロセス的" な性格が立ち上がらざるを得ないと言うべきではなかろうか。

 文章を書きながら考えたり感じたりしながら、次第に自分が何を頭や心に宿しているのかがわかってくる、という経験は決して特別なことではないはずであろう。それでいいのだと思っている。まして、日誌やエッセイの類はそれで御の字ではなかろうか。まあ、人様の財布から何がしかの銭をいただく "プロ" となれば、やや異なったものがあっても良さそうだが、巷の "ブロガー" の場合は、大いに "万事、プロセス的" という方針を主張して良さそうに思っている。
 じゃあ、 "成り行き任せ" であっていいと強調しているのかと言えば、そういうことではない。ただ強調したいことがあるとすれば、 "要点先出し" というお仕着せの枠に自らはまり込んで、結局は、自分にとっても誰にとってもほとんど意味のない "紋切り型" の言辞を重ねる愚だけは犯したくない、ということかもしれない。
 わかってもらおうとする努力はしたいが、わかってもらえるという結果を望むあまりに、自身の内部に潜在する "グチャグチャ" に決別してはいけないように感じている...... (2008.01.21)

 今夜は "雪" になるという予報や "うわさ" がしきりである。
 こう冷え込む日が続いているのでそうあっても何の不思議もなさそうである。
 今日は、延ばし延ばしにしていた "トコヤ" へやっと出向いたのだが、そこでも隣の椅子の客とオヤジさんとの会話は "今夜降る雪" の "うわさ" から始まっていた。オヤジさんは東北は岩手かそこらの出身のようであり、片や客の方は冬山にも登る登山が趣味であるような雰囲気であったため、雪の話題は長話の十分な素材となったようであった。雪を知らない都会人や登山者たちが、無様に雪に足を取られて往生することを二人して "困ったもんですな" と優越感に浸っているようなのだ。 "かんじき" を使わなくともズボッといかないで歩けるっていうのは、あれは慣れからくるもんなんですかねぇ、なんぞと互いの "雪経験" を持ち上げ合っているようなのである。これぞまさしく "床屋談義" というものに当たる会話だと、うつらうつらしながら聞いていた。

 昨日書いたように、日中は可能なかぎり身体を動かす "ドタバタ劇" で行くべしとばかりに、ウォーキングもいつもより長めに歩いてみたり、買い物もクルマはやめて自転車を使ってみたりと、とにかく活動的となるよう努めたりした。
 また、買い物に出掛けた際、ショップで思いがけないものを見つけたのですかさず購入することにした。それは、昨今ついぞ見かけなくなってしまった "電気足温器" なのである。もう半世紀も前(?)のことになるが、受験勉強のためにと親から買ってもらって愛用した記憶が残っているのだ。確かその際にも、 "頭寒足熱" という漢方の極意を耳にしたようで、 "足温器" こそは暖房の "優れもの" なのだと思い込んだ覚えがある。
 それが懐かしいという文脈もあるにはあった。が、今ひとつ購入動機となったのは、部屋全体を暖めようとして過剰に発熱する暖房器具というのは、どこか現代的ではなさそうな気がしていたことである。自分の場合、部屋全体が温まった頃、タバコの煙を排出すべく窓のファンを回すのだが、これは何ともエネルギーの浪費をしているとしか思えなかったのである。しかも、部屋全体が温まるということは、足元よりも部屋の空気の上層部が温まるということであり、 "頭寒足熱" ならぬ "頭熱足寒" でしかないことになろう。足元が温まる頃には、言うまでもなく部屋の上層部の空気は過剰な温度となっているはずであろう。CO2 排出が問題視されている昨今なのであり、無用なエネルギー消費は慎むべきだ、とまあそんな気分もあったわけなのである。
 ちなみに、この "足温器" の消費電力は最大が "60W" なのであり、それでいてまずまずの効果があるわけだから、これほど時代にマッチした暖房器具はないと言ってよいのではなかろうか。

 ところで、この "電気足温器" は、ショップの暖房器具コーナーのとある展示台の上にポツンと一台だけ "現品限り" という札を付けられ、自身が入っていたダンボール・ケースと一緒に "縛られて" 展示されていたのである。それはまるで "縄を掛けられた晒し者" のような空気さえ漂わせていたりもした。
 『この者は、何十年も前には世間の目も集めたかに聞くが、もはや引き取り手が誰もいなくなった厄介者なり。どなたか、哀れに思う方がござれば、申し出でよ。格別の取り計らいを行う所存なり』
とでも告知してあるかのように、自分には受け取れたのだった、大袈裟に言えば......。
 そんなこともあり、自分は、あたかもかつての同志を密かに救出するかのような心境も手伝ってか、 "これ、買う!" と申し出たのであった。店員も、思いがけない厄介払いができた安堵感からなのか、値札よりさらに千円を値引いて応えた。
 今、その "同志" は、わたしのその "情け" に感じ入ってか、わたしの足元で、精一杯の "志" を満たしつつ熱い血を騒がせてわたしに報いてくれている。かくして、今夜は、本所近辺や桜田門外のみならず、この町田付近も雪の一夜となるそうだが、そんな冷え込みなんぞは恐れるに足らずという気がしていたりする...... (2008.01.20)

 寒さはともかく、今日のように晴れ上がった冬の日はうれしい。
 おそらく、昔の人たちはこうした天候の恵みを何のわだかまりもなく受け入れていたに違いない。だが、 "地球温暖化問題" などによって、 "自然" の天候がもはや "自然" ではなくなり、 "人為" によって痛々しいほどに撹乱されている現状では、時として訪れてくれる "自然" の穏やかな微笑みのごとき天候を、おろそかに見過ごしてはならない、と思ってしまうのだ。
 起きるやいなや、そそくさと朝食を済ませ、朝のウォーキングに出掛けた。このウォーキングも、すっかり前向きの行動となっていることに気づく。決して義務感の範疇に属する事柄ではなくなっている。幸い、体調も悪くはないため、何の苦痛も感じないためであろう。最良の "気散じ" というのが当を得た表現になるが、きわめて地味ではあるが喜びのひとつだと言えようかと思っている。まして、こうした冬晴れの澄んだ明るさの中を眼に馴染んだ光景を見ながら歩くというのは、平凡さがもたらす最良の喜びに違いないという確信めいたものを感じたりする。天候ひとつで、こうも気分が異なるものかと、不思議な実感を持ちながらいつものコースを歩くのだった。

 そんな明るい陽射しも、午後四時半現在、窓の外は薄暮となりつつある。既に冷え込み始めているが、こんな晴天の日の夜は "放射冷却" とかいう現象によって手ごわい寒さがもたらされるのであろうか。まあそれは止むを得ないだろう。
 こうしてデスクに向かっている時は別として、こうした寒さにあってはとにかく活動的であることが何よりの処方箋なのであろう。ということもあって、今日は極力忙しく動き回ることに努めた。
 家内が例によって不在のためもあり、 "家事一般" をバッタバッタとこなすことに精を出したのだった。自分のやり方は、ダラダラと進めて嫌気が差さないことを念頭に置き、スピードを重視する方法なのである。これだと、何か重要な作業をしているかのような雰囲気にもなれるし、そしてあっという間に片付いてしまうため "一挙両得" となる。
 こうして、洗濯機操作、洗濯物干し、ついでに陽射しの良さから布団類の日干し、さらについでに内猫たちを "日干し(日光浴)" させるべくベランダへと誘導、さらにさらに、掃除機を持ち出してざっと清掃、それが終わると、夕べの風呂の湯を抜いて、 "ソーラー" が効いている間に風呂の湯を満たす。その際にも、必要以上に "ソーラー" から注ぎ込むとまだ冷たい水まで流し込む無駄をしてしまうため、 "タイマー" なんぞで経過時間をカウントすることを忘れなかった。
 その間に、バタバタと動いていたためか急に腹がすいてきたので、冷蔵庫内の残り物や野菜を刻んで "特製チャーハン" をこれまた10分足らずの手際ででっち上げてしまう。

 さすがに、こうしたドタバタ劇をやらかしていると、寒いと感じる暇もなくなるわけだ。まだまだ続く寒い日々の過ごし方の秘訣は、この "ドタバタ劇" に限るのかなぁ、と妙に納得したものであった...... (2008.01.19)

 うちの家内は、地元の "生協" に熱心に参画している。消費者として、 "良いものを安く" というコンセプトに賛同できるからのようだ。
「このオカズは "生協" で買ったものだから安心よ......」
というセリフをしばしば耳にする。
 昨今は、 "食品「偽装」問題" の歯止めが効きにくい状況にさえなっているわけで、そうした摘発・報道も無意味ではないだろうけれど、かといってどれほどの意味を持つものかについては疑問視している。
 摘発された業者たちは異口同音に「二度とこのようなことがないように......」と言って謝罪するわけだが、それは何の安心感も生み出しはしない。もう "二度目" はないよ、とでも言ってやりたいわけだが、それよりもこの "言い草" を初めて口にするかもしれないお初の食品業者の、その可能性の方に関しては対策らしきものが見えてこないからなのである。こうした報道が多少の "牽制" にはなるのだろうけれど、その限りでしかないからである。
 現に、その "牽制" にしたところが、こうして次から次へと発覚する "偽装問題" の推移を見るならば、 "効き目" が薄いことを裏書しているような気さえするのだ。

 となると、もっと "実効性のあること" を考えなくてはならず、消費者、庶民は、当てにならない "行政" に無いものねだりをし続けるのではなく、何らかの形で "直接的に" 事のプロセスに参画していくことが要請されている、そんな局面ではないかと思えてならない。
 冒頭の "生協" 活動にしても、通常の市場主義の市場が信じがたくなってしまった現状であるならば、消費者たちが可能な限り消費活動のプロセスに足を踏み入れてみようという、そんな活動なのだろうと思う。いわゆる "一般的なお客様" でいることは、手が掛からないという点ではそのとおりであろう。しかし、そんな "お客様" スタンスで納まっている限りは、生産者側のプロセスはどうしたって "ブラックボックス" としてしか見えないはずであろう。この、消費者たちから "隔絶された生産現場・プロセス" という構造そのものが、諸悪の根源なのかもしれないのである。
 だから、現在の "生協" 活動というのは、単に需要者(消費者)がまとまることで低価格を実現するという面だけではなくて、消費者たちから "隔絶された生産現場・プロセス" に "消費者たちの視線" を導入するという今日的な意義がありそうだとも思えるのである。

 ところで、今日、こうした "生協" 活動について書いているのは、実は、こうした "市民参画" 的な動向というのは、この現代にあって様々な領域で広がって行く可能性があるようだし、またそうあることが望ましいのではないかと思えるからなのである。
 実は昨日、 "いよいよここまで来たか!" と自覚させられたとあるTV番組を観た。<NHK クローズアップ現代 私のお金を生かしてください ~市民がつくる新たな金融~>(1月17日[木]放送)のことであり、いわゆる "「市民出資」" が次第に立ち上がり始めたというドキュメンタリーなのである。

<将来の生活のために銀行などの金融機関に預けられ、経済活動を支える個人のお金。経済のグローバル化が進む中、市民にとっては、自分のお金がどこでどう役立っているのか実感が持てにくくなっている。こうした中、いま、市民から出資を募って市民事業に融資する「NPOバンク」や「市民ファンド」が全国各地に設立され、出資する市民が増えている。そうした市民のお金は、地域活性化や自然エネルギー普及などの活動を行うために設立したものの、金融機関からの融資を受けられず資金に困っていたNPOなどの市民事業を後押ししている。これまでの金融の枠組みではできなかった役割を担い始めた「市民出資」。市民出資が広がる背景と新たなお金の流れが社会に及ぼす可能性を探る。>(NHKオンライン より)

 確かにまだ現状の成果は微々たるもののようではある。しかし、化け物の "ファンド" が "マネーゲーム"で 蠢き、世界経済を行方知れずにしているグローバリズム経済の最中にあって、 "人間らしさ" を望む "市民たち" が、 "マネーの世界" で一矢報いるアクションに出ているという現実は、実に素晴らしいことだと感激したのであった。
 以前に、 "地球温暖化問題" に関しても、 "CO2 排出権" の取引という発想は、極めて現実的方法だと自分なりに評価したいと書いた。
 その時にも考えていた点は、 "理想の達成方法" とでもいうことだったかと思う。とかく "観念化" してしまいがちな "理想的方向" というものは、ダーティではあるがリアルでパワーを秘めた "現実のロジック" をただ退けていたのでは "犬の遠吠え" に終わりかねない、と感じ続けていたのである。
 その "現実のロジック" に可能な限り接近しつつ、そのパワーを "流用" してしまう "したたかさ!" に眼を向けたいと思ったわけなのである...... (2008.01.18)

 空気は冷たいが久々の快晴であり、その点で今日は気持ちの良い一日であったかと思う。いじましいもので、昼休みに外に出た際には、できるだけ日の当たっている側をよって歩くようにしていたものである。

 こんな明るい天候だからなのか、野鳥たちの姿も否応なく眼に入ってくる。早咲きの花々もあることと関係してか、野鳥たちにとってのこの時期はうかうかとはしていられない、そこそこ忙しい時季なのだと、そんなことを耳にしたことがある。
 人間にとっては、寒さはまだまだこれからということになりそうだが、彼らにとっては春としての活動期がすでに到来しているのであろうか。

 鳥たちにもそれはそれで思い煩うことがないわけでもないのだろうが、要するに "ネアカ" な性質なのかもしれない。とにかく "暢気" そうに見える。そしてそうした姿に眼をやっていると、確かに癒されることは癒される。
 腹の足しになるような欠片とて何も落ちていない歩道を、それでも二、三羽の鳩たちが餌探しをしている様子であった。人様ならば、そんな絶望的な状況にどうしたってうな垂れながらのボディーアクションとなりそうだが、鳩たちの仕草は、淡々としている。場合によっては "固定給"(?) は保証されているかのような "余裕" さえうかがわせる。大したものだと思わず関心させられてしまう。
  "生かされている" もの、 "宿命に身を任せ切っている" ものの "強み" とも言うべき結果なのかと考えさせられたりしたものだ。

 先ほどから、一羽のカラスがとあるマンションふうの建物のてっぺんで、一人、いや一羽、大声で鳴き喚いている。といっても、悲壮感なんぞとはまるで無縁であり、カァーカァーと浪々とした響きで鳴いているのだ。眼をやると、背後に太陽の眩しさを背負っての堂々としたカラスであった。
 自分を含めて、歩道と交差点にはこの寒さに身体を萎縮させがちな "みっとも良くない" 人間たちが "とぼとぼ" と歩いている。それに対しての浪々たる鳴き声のカラスなのである。その "対比" が何とも滑稽さを誘わずにはおかなかった。
 『そうかそうか、もっと元気を出せ、とでも言ってるんだな。日頃、大きな顔をして横柄な振る舞いをしている割には、何があるのか知らんけど、昨今しょぼくれ過ぎていはしないか、とでも言いたいのかね......』
 鳴き声だけでなく、眩しさの中で存在感のあるシルエットを誇るかのようなカラスを見上げながら、そんなことを考えざるを得なかった...... (2008.01.17)

 昨日、現時点での経済状況が "きな臭い" と書いた以上、それにも増して "酷い状況" の今日の事態を書かないわけには行かない。何せ、日経平均が<前日比468円12銭(3.35%)安>というのだから "サプライズ・メニュー" 以外ではなかろう。

<日経平均大幅続落、終値468円安の1万3504円
 16日の東京株式市場で日経平均株価は大幅に4日続落。終値は前日比468円12銭(3.35%)安の1万3504円51銭で、連日で昨年来安値を更新した。2005年10月28日(1万3346円)以来、約2年3カ月ぶりの安い水準を付けた。海外株式相場の下落や円相場の上昇など外部環境が一段と悪化する中、リスク許容度の低下した外国人売りなどが膨らみ、終日軟調な展開だった。後場中ごろからは下げに拍車がかかり、ほぼ安値引けとなった。東証株価指数(TOPIX)も大幅に4日続落し、連日で昨年来安値を更新した。
 前日15日の米株式相場は、シティグループによる巨額の追加損失計上や昨年12月の小売売上高の不振などを受けて大幅に下落。信用力の低い個人向け住宅融資(サブプライムローン)問題に起因した景気減速懸念が一段と強まった。午後はアジア株式相場の全面安や、円相場が一時1ドル=105円台後半まで上昇したことも重しになり、主力のハイテクや自動車、大手銀行など主力株は軒並み安となった。>( NIKKEI NET 2008/01/16 )

 こんなに "下げ幅" を拡大している理由は、先ず、<外国人売りなどが膨らみ>という点にありそうな気がする。このところ、日本の株式市場は、外国人投資家たちからはめっきり人気をなくしているとの観測が強く、いわゆる "ジャパン・パッシング(無視!)" の傾向が表面化してきたというのだ。そう言われれば、中国やインドなどの新興国の市場に対しての、日本の株式市場の魅力薄状況は否定できないのかもしれない。
 今ひとつの、 "下げ幅" 拡大の原因は、やはり<105円台後半まで上昇>という破格の "円高" 現象であるに違いない。もちろん、 "円が強くなった" なぞと勘違いしている人はいないだろう。要するに、米国経済危機への危惧から "ドル" のリスクが高まり、その "一時避難" とばかりに円が受け皿となっているだけのことなのであろう。
 しかし、そのような "庇(ひさし)を貸す" 事態が、日本の輸出企業群の為替状況や財務状況の悪化に直結し、まるで "庇を貸して母屋を取られる" かのごとくに、国内株価の総崩れ状態をもたらしているわけだ。

<2年7カ月ぶり106円台 東京市場でも円高進む
 16日の東京外国為替市場の円相場は、米経済の先行き不透明感から、円買いドル売りの動きが強まり続伸した。円は2005年6月上旬以来、約2年7カ月ぶりの高値水準となる1ドル=106円台後半を中心に取引された。対ユーロでも大幅高となった。
 午前10時現在は、前日比92銭円高ドル安の1ドル=106円66-69銭。ユーロは2円12銭円高ユーロ安の1ユーロ=157円84-89銭。
 米サブプライム住宅ローン問題による金融機関の損失拡大が続いていることや、12月の米小売売上高が低調だったことで、市場では米経済の後退懸念が再燃。前日の大幅な米株安もあり、ドルは軟調に推移した。>( 共同通信 2008/01/16 )

 さらに、この日本国内でも "サブプライムローン" 問題が予想外に大きな直接的被害を及ぼしている事態が次第に明らかになってきたようである。この問題は、単に "対岸の火事" の構図から、より切迫した "此岸の火事" の状況へと急速に移行しているかのようである。

<損失が500億円規模に拡大 金融市場悪化で三菱UFJ
 三菱UFJフィナンシャル・グループは、米国の信用力の低い人向け住宅ローン(サブプライムローン)問題に絡み、昨年12月末時点で、関連の損失が500億円規模に拡大していることが16日、分かった。金融市場の悪化が原因で、今月末に発表する2007年4-12月期連結決算で計上する方針。
 三菱UFJは昨年11月下旬に発表した07年9月中間連結決算では、サブプライム関連の損失は40億円にとどまり、サブプライムに絡む投資残高は10月末時点で約2600億円。含み損は約230億円としていた。......
 三菱UFJ、みずほ、三井住友の大手銀行3グループは中間決算の発表時点で、米住宅ローン関連の損失が08年3月期決算で計2000億円を超す見込みとしたが、損失は拡大するとみられる。>( 共同通信 2008/01/16 )

 これらの動向と呼応して以下のような報道も気になるところだ。

<金融相、サブプライムで「邦銀の損失増えている」
 渡辺喜美金融担当相は16日、新潟県三条市内で記者会見し、米国の信用力の低い個人向け住宅融資(サブプライムローン)関連の邦銀の損失に関し、「一般的な傾向として減っていることはあり得ない。増えていると思う」と述べた。その上で「現時点で日本の金融システムに大きなダメージを与える状況ではないが、油断は大敵だ」と指摘した。
 金融庁は昨年12月、全国の金融機関が保有するサブプライム関連の証券化商品の残高が同9月末時点で1兆4070億円に上り、損失額は約2760億円に達したと公表していた。金融相はこの損失額がさらに膨らむ可能性があるとの見通しを示した。......>( NIKKEI NET 2008/01/16 )

 今日は、報道各誌の内容を確認するだけとなったが、 "何か不吉なもの" がヒタヒタと忍び寄っている気配だけは確実なようだ...... (2008.01.16)

 いよいよ景気が "おかしなこと" になってきたようだ。
 もちろん、米国における例の "サブプライムローン" 焦げつきが震源地であるが、日本の株式市場も十分にこの影響を受け、このところ完璧に "右肩下がり" の急傾斜となっている。報道は次のように伝えている。

<日経平均、終値1万4000円割れ・2年2カ月ぶり安値
 15日の東京株式市場は日経平均株価が3営業日続落。大引けは前週末比138円16銭(0.98%)安の1万3972円63銭だった。米金融機関の四半期決算発表を控え、信用力の低い個人向け住宅融資(サブプライムローン)関連損失の計上や人員整理など悪材料を警戒した売りが優勢となった。昨年来安値を連日で更新。日経平均が1万4000円を割り込んだのは2005年11月2日以来、約2年2カ月ぶり。......
 取引時間中、外国為替市場で円相場が1ドル=107円台後半に上昇したことが輸出関連株の重しになった。朝方は14日の米国株が米IBMの業績見通しが市場予想を上回ったことを支援材料に反発したことを好感し、値がさハイテク株の一角が堅調だった。ただ物色の対象は限定的で、その他高配当利回りの医薬品株などが買われるだけにとどまった。市場では国内景気の減速を懸念する声が聞かれ、小売り関連株は総じてさえなかった。
>( NIKKEI NET 2008/01/15 )

 こんな時期には言うまでもなく "株取引からは距離を置くべき" であるに違いなかろう。自分も、市場の空気を警戒してこのところ休止状態を続けていたが、先週末、ほんのわずかな数であるがちょいと手を出してしまった。そして、当日には売るに売れずに今週へと持ち越してしまった。当然、今日当たりの "下げ" が気になってはいたが、 "寄り付き" は久々に値を戻し、ここだ! とばかりに清算したものである。そのタイミングをはずしたならば、先週の週末どころではないとんでもない "赤" を出すところであった。
  "デイトレ" に限らないが、持ち株が "下がる" と、まあいずれ "上がる" であろうと暢気に構えて、 "塩漬け" と称して "寝かせておく" という手があったりする。確かに、株価というものは、上がれば下がり、下がれば上がるという "起上り小法師" のような傾向があるものだ。だから、期待に反して下がった場合には、狼狽して底値なんぞで売るよりは、気分は良くないがキープし続けていた方が "良いこともあった" 。
 しかし、それは過去の話と言うべきであろう。この半年はどの銘柄も下げ続けていて、多少 "起き上がる" こともないではなかったが、ほぼ一貫して "右肩下がり" の形を崩そうとはしていない。だから、従来の発想で "塩漬け" をしてしまっているトレーダーは日毎に気が滅入っているのではないかと想像する。
 多分、今月末あたりに、米国での金利 "利下げ" 対応があったとしても、米国株が "V字回復" をするとは考えにくい。いわゆるちょっとした "反発" 程度の回復が見られることはあっても、下げのうねりに呑み込まれてしまうというのが大方の見方ではなかろうか。
 つまり、 "塩漬け" トレーダーは相当長い期間の長期戦を考えているならばともかく、ここ半年位は延々と右肩下がりに耐え忍ぶことになりそうである。それは、決して "精神衛生上良くない選択" のように思われる。どこかで決着をつけてしまった方が、まだ "まし" だということになるのかもしれない。

 しかし、いつも思うのだが、株価というのはヘンなものである。一筋縄ではないからだ。株価が下がるという現象は、単に、 "買う" 者がいないからなのではないところがクセモノなのである。いわゆる "空売り" をして利ザヤを稼ぐといった "仕掛け" 投資が下げの傾向に大きな拍車を掛けているからなのである。株価が下がることで得をする者がいて、そのためにリスクテイクで売る者が確実に存在するというわけなのである。見ようによっては、 "反社会的" 行為であり、腐肉に群がる "ハゲタカ" や "ハイエナ" のごとくだと言えるのかもしれない。
 ただ、そうした "ハゲタカ" や "ハイエナ" たちは、株価が "急上昇" した際には、灼熱の太陽の光で焼かれるごとくに "大損" に見舞われるのだから、世間の仕組みは結局 "五分五分" だということになるのか...... (2008.01.15)

 こんなに寒かったかなあ、と自問したりしている。冬が、といってもいいし、日本の東京の冬が、といってもいい。とにかく、これまでに覚えがないほどに寒い。とはいっても、これまでの歴代の冬の寒さをつぶさに覚えているほど物覚えがいい方ではない。
 歳をとったせいかとも思ったりするが、いやもっと歴然としていることは、身体を動かさずにじっとしているからかもしれないと気づく。こうやって、さてさて何を書こうかなんぞと、パソコンの前で固まっていたりするから寒さが応えるのだろう。現に、朝、潔くウォーキングに飛び出した時なぞは、ついぞ寒さを苦にすることはない。
 今日で連休も終了となるが、こう冷える日が続くならば、むしろ暖房の効いた事務所で仕事をしていた方がずっと快適なようである。とかく古い民家というものは、外気が筒抜けで暑さ寒さに "丸腰" であるかのようでありまずい。
 暖房器具を付けっ放しにしているのは、甚だ、非合理的かとも感じ、先ほどから "使い捨てカイロ" を足の裏に貼りつけて、登山用の厚手の靴下を履くことにしてみた。これだと漸く気分が落ち着いてくる。だが、冬山でのビバークでもないのにこんな格好をしている自分が幾分情けなくも感じている。

 自宅で過ごす日は、最近では、読書よりもTV番組の録画とそのDVD焼きの作業に浸ることが多い。ドキュメンタリー番組と自然や動物の貴重な映像が目当てである。
 一に時代環境に関する情報収集、二に癒しとなる映像収集ということになりそうである。特に、後者については、昨今は目を見張るように鮮やかとなったデジタル画像に魅了され切っている。また、前者に関しても、NHKのドキュメンタリー番組は、そのスピーディーさ、タイムリーさ、そして並外れた取材力からとりあえず "必見" としたいコンテンツが少なくない。まあ、アミューズメント番組は民放、NHKを問わずパスしたいものばかりでありそうだ。
 日頃はマス・メディアを虚仮にばかりしている自分であるが、時代環境に関する映像的な情報収集という点であるとか、自然風景であるとかの番組に関しては、やはりNHKに依拠せざるを得ないと感じている。
 昨今、自分が定番としている録画は、そのほとんどがNHKである。ちなみに列挙すると、 "NHKスペシャル" 、 "クローズアップ現代" 、 "新日本紀行" 、 "小さな旅" 、 "知るを楽しむシリーズ" 、 "ETV特集" 、 "サイエンスZERO" 、 "ダーウィンが来た" 、 "その時歴史が動いた" といった欲張りぶりなのである。
 これらを予約録画をした上で、それらを多少のアレンジを加えてDVDにできるだけ高画質で仕上がるように焼き込むわけだ。その上、DVDのラベル印刷まで自前で行おうとするために、正直言って結構忙しいコトになってしまうのである。
 好き好んでやっていることだから苦にはならないというものの、果たして意味のあることをやっているのだろうか、と多少の疑問を感じないわけでもない。

 こうした "オタク" 的作業に "忙殺" されるにつけ、しみじみと感じることは、現代という時代はまさに情報が "あふれる (affluent)" 時代だということであろうか。
 映像情報は、活字情報よりも "より効率的" に状況認識を高めてくれるものだと目論んではみたものの、どうも情報収集に費やすエネルギーが大き過ぎやしないかと感じはじめているというわけなのである。
 興味や感心を向ける情報の対象を "選別" することこそが課題だと痛感せざるを得ない...... (2008.01.14)

 今朝は "まともな起床" ができた。朝に寝過ぎた日の夜は寝付きにくいかと思っていたら、昨夜は案外スムーズに寝込んでしまった。やはり、最近の睡眠時間がやや不足気味だったということなのだろうか。お陰で、今朝はスッキリと目覚め、そして寒さに抗してウォーキングにも出かけた。
 この寒さはやはり本格的であるのか、コースの半ばに至るまで身体が温まらなかった。おまけに曇天で陽が差しておらず、目に映る風景はモノトーンであり、生き生きとした実在感がなかった。夢の中で歩いているような気がしないでもなく、心地よくなかったので、ならばこれではどうだとばかりに、最近再び自覚し始めていた五十肩の痛みのある左肩をグイグイと回すことにした。

 この五十肩というのも気まぐれであり、昨年は半年間位であっただろうか全く痛みが消えていたのである。こいつはシメタと思いはしたが、どうも完治したという気にはなれなかった。きっとまた出てくるのだろうと悲観的予想をしていたら、案の定、去年の秋口ほどから左肩の方にジワジワと違和感が戻ってきたものである。
 ただ、痛みが消えた時期にできるだけ両肩を動かすようにしていたためか、現時点、まあ往なせる程度の痛みの範囲内で済んでいる。
 ただ、 "あの半年ほどの天国" とは一体何であったのかという疑問が残っているのである。自分の身体でありながら何がどうなって完治したかのような "天国" が訪れたのかは未だに理解できないでいる。五十肩というのは、加齢によって骨の先端がどうのこうのと言われたりしているが、必ずしも万人が了解し切れるほどに解明されていないような気配である。自分の経験からすれば、そうした "骨の先端が......" という現象も絡んではいるのだろうけれど、やはり一種の "神経痛" なのではなかろうかと感じている。と言ったところで、"神経痛" という現象は、物理的現象よりもむしろ不可解な部分が多いのだから何の気休めにもならない......。

 遊歩道の途中に、とある地域の町内会の詰め所(?)があるのだが、今日は賑わいを見せていた。何だろうかと覗いてみると、どうも "餅つき大会" でも催す空気であった。建物の前庭に "臼" も設えられていたし、威勢の良い湯気を放ちながら "もち米" の段取りも進んでいるようだった。
 何よりも、その周囲で何となく "そわそわ" とした気分でいる中年の男たち七、八人の様子が、妙な熱気をかもし出し人目を引いていた。昨今、中年の男たちがちょっとした "熱気" が放てるような機会というのがめっきり少なくなった折、 "餅つき" 行事なんぞは "大会" と称して仰々しく行いたい心境なのであろうか。何となくよくわかる気がした。
 そう言えば今日は、もうひとつ中年男たちの "熱気" もどきにも遭遇した。
 ウォーキングに出掛けようとした時、家内が、これ頼みます、と言って手渡したのが正月の飾り物一式なのであった。つまり、例年どおり近所の広場で "どんど焼き" が執り行なわれるので持って行ってくれ、というのであった。
 自分はその広場へと迂回しながら出掛けた。行事は午後から行われるというのでまだ誰もいないのかと思いきや、何と、広場にはこれまた "そわそわ" とした気分が見え見えの中年男性たち数人がいらっしゃったのである。
 広場の真ん中にはすでに焚き木の小山が形作られ、寒いことも手伝ってか、皆、一刻も早く "放火"(?) したいかのような顔つきをしていた。
「これ、いいですか?」と言ったら、
「どうぞどうぞ」と手もみしながら返答していた。

 しかし考えてみると、昔は、こんな寒い時期には、この寒さに負けじとばかりに、みんなでわっしょいわっしょいと揉み合うような行事なんぞをして気合を入れたものだったようだ。地域ぐるみでの "寒さとの闘い" とでも言ったら大袈裟か。その気合がより高まるように、 "どんど焼き" ではないが "火の手" を上げることも添えたのであろう。
 その前に、小さな "火の手" である "焚き火" もあちこちで催されたかの覚えがある。まあ、その "主催者" の多くは、中年、熟年のおっさん連中であったような気がする。庭や道路で行う "焚き火" が誰からも咎められない時代の思い出ではある。
 しかし、現在では "寒さとの闘い" は、それぞれ各家庭で個別に暖房器具を購入して好きなようにやってください、という時代となったわけだ。むしろこの方が回り回って "CO2" の余計な排出につながっていはしないかと思える。

 そんなこんなで "理不尽" な寒さが身に応えるいやな季節なのである...... (2008.01.13)

 最近の睡眠時間は大体6時間前後であろうか。起きてしまうとさほど眠いという気はしないのだが、疲れが十分に解消されずに蓄積されているような気がしている。
 そんなこともあり、今朝は思う存分に朝寝をした。もちろん何度か目が覚めたが、窓の外を覗くと雨は降っているし寒そうであったし、こんな時は寝てるに限るかとばかりにたっぷりと惰眠をむさぼった。
 いくらなんでもこんなところかとばかりに起きたのは、昼の12時ちょいと前であった。12時間も眠っていたのは何年ぶりかのことである。よほど疲れが溜まっていたか、頭が疲れていたかなのであろう。
 最近はまた、気休めに午前中の喫煙は控えて、 "半日禁煙制度" を実施しているのだが、今日ばかりは何の苦もなくクリアしてしまい、クラッと来るような起き抜けの "一服" を味わった。
 コーヒーでも入れて......、とのんびり構えた時、あっそうだと、自分の起床を待ちわびているものがいたことに気づいた。 "外猫" たちに朝食をやらなければならなかったのである。
 玄関の "えさ箱" に寄って、扉のチェーンをカタカタと音を立てていると、もう外に猫たちの影が窺えた。片方の猫の鳴き声さえ聞こえてきた。
 寒い日の外猫たちは、とにかく食べ物によって "内側から" 体を暖める以外に手はないため、ひもじい思いをさせるのは気の毒だったのである。
「はいはいはいはい(おまっと~さん......)」
と言いながらえさ皿を持って出ると、猫たちは所定の位置でスタンバイOKの状態にあった。いつもに比べると5時間も遅れたのだからとんでもなくかわいそうなことをしてしまったことになる。陽が差しているのならば、陽の当たるひさしにでも飛び移って日向ぼっこでもしながら気を紛らわせていたことだろう。だが、今日はあいにくと雨天であり、さぞかし心細い思いとなっていたに違いないのである。

 出だしがこんなふうな "体たらく" で始まった今日であったが、ことさらこれを挽回をしようというふうになるでもなく、首尾一貫してダラダラと "体たらく" を続けることになったようだ。戸外に出てみようという気にもなれず、のんびりと風呂に入ってみたり、ちょいと気になっていたエレクトロニクス機器の調整を気のおもむくままにしてみたり、とまるで "二回目の正月" のごとくに過ごした。
 しかし誰がアレンジしたかは知らないが、この一月半ばの三連休というのは、一息入れるには妙に "お誂え向きの休暇" であるように感じたものであった...... (2008.01.12)

 <現行憲法下で参院が否決した法案が衆院の再議決により成立するのは1951年のモーターボート競走法以来、57年ぶり2件目>という "珍事" が起きた。例の "海上自衛隊のインド洋での給油活動を再開するための新法案" のことである。
 何でこんな法律にこだわり、もはや "落ち目" 以外の何ものでもないブッシュの米国に義理立てしなければならないのかと、ただただ腹立たしい思いがする。しかも、海上自衛隊の管轄省庁である防衛省には、広く国民からも疑惑を持たれている贈収賄その他の問題が燻っており、そんな状況下で "なりふりかまわずに" 成立させるとした政府の硬直姿勢は、やはりどこか不自然な感じがしてならない。

 57年前の初発の "珍事" とて、<モーターボート競走法>というのだから、 "ヤスシ" 支援法の類だったのじゃぁなかったのかと揶揄したくなる。国民の誇り高き権利獲得のために、民主主義の通例手続きを覆しての立法化に踏み込む、というのであればビューティフルであるが、 "賭博の合法化(?)" のために、一種の "強行採決" を選択するというのは、いかにも "ジャパニーズ・ライク" だと評されてもしかたがない。
 競艇での収益でどんな社会貢献がなされたのかは知らないが、庶民が知るのは、 "競艇狂い" で家族を泣かせたり破滅に追い込んだりした身近にどこにでもいたダメオヤジたちだと言ったら的外れであろうか。そんな悲劇を露払いするようなものを、国会が "ドンデン返し" 戦法に出てまで作る必要があったのだろうかと思う。
 そう考えると、今回の "給油新法" も "ろくなものではなかろう" という推量が十分に働くのである。

 <モーターボート競走法>が "強行採決" された当時のことはもちろん知るよしもないが、要するにあまり品が良いとは言えないような "ヤスシ" ばりの<競艇愛好家>たちを輩出することになった法律だったと考えてもいいのだろう。そうそう、あの "人類みな兄弟" とかという歯が浮くようなCMで知られた "笹川良一" 氏が競艇に携わることができたのもこの立法のお陰だったとかである。

<1951年3月12日、議員立法として衆議院に提出。3月29日、衆議院本会議で可決。6月2日、参議院本会議で否決された。6月5日、衆議院本会議で出席議員の3分の2以上の賛成で再可決され、成立した。日本国憲法史上において衆議院の優越により参議院で否決された法案が衆議院で再可決されて成立した初めての法案である。>(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

 ところで、ちなみに同『ウィキペディア(Wikipedia)』には以下のような "因縁" も記載されていた。

<(57年前の)衆議院再議決の時に再議決を主導したのは衆議院議院運営委員長である小沢佐重喜だが、その56年後の2007年に、息子の小沢一郎が第一野党党首として参院選で参議院野党過半数を獲得し、衆議院で法案再可決権である三分の二以上の議席を持つ与党に対峙することとなった。>

 そんな "因縁" があってかどうか、小沢・民主党の今回の対応は、結果的にも "してやられた" の観がありありであり、戦略戦術の貧困さをまたまた露呈させてしまったような雰囲気ではなかっただろうか。

 それにしても、今回のような国会 "珍事" は、民主主義の根幹にかかわる "異変" であることに国民はもっと注意を払って良さそうに思われる。しかし、マス・メディアとて、単なる政局の一事としてしか捉えていない空気がありそうだ。この辺が実に情けないと思われる。
 かつて、ある人が "ねじれ国会" という言葉そのものがおかしい、と指摘していたことがあった。まさにその通りである。国民の意思が参院に反映された結果を、衆院での勢力状況を持ち上げるかのように、全体として "ねじれ" という否定語で表現するのは明らかに "世論誘導的" だと言わなければならない。もし、奥さんがしっかりした夫婦を称して "ねじれ夫婦" なんぞと言ったら、世間は一体どう反応するかを考えてみるがいい。
 そんな言葉を "無神経に" 流布させてきたのが現在のマス・メディアなのであり、それはあたかも、今日の国会 "珍事" でさえそれをさり気なく "流す" ための、そのための "布石" ではなかったか、いう印象にさえつながる。
 ただ、今なお問題の核心は、なぜ、こんなふうに "なりふりかまわずに" この立法化を図らなければならなかったのか、という、その一事に対する疑問以外ではない...... (2008.01.11)

 横断歩道をスタスタと渡っていると、
「赤だよ~!」
とこちらを向き、信号を指差して諭すオッサンがいた。どうも自分に向かっているようだと気づいたが、素知らぬ顔を決め込んで通り過ぎた。
『何をとんちんかんなことを言ってるんだ。クルマの影や子どもの姿なんぞ、とんと見えないじゃないか。しっかりと "コンプライアンス(法令遵守)" をしてるがいいよ......』
と、腹の中では思っていた。多少偽悪ぶった心境があったかもしれない。
 最近の "歩行者としての" 自分は、完璧に "自己責任者" ふうの振る舞いをしている。もちろん、ハンドルを握ったら、まさに "遵法精神" のかたまりで処している。これから書くことも、あくまでも "歩行者として" の話であることを強調しておく。
 自分は "歩行者として" は、人通りやクルマの往来がない場所では、信号なんぞは無きがごとく、自分の眼で確認した状況で判断して行動している。また、逆に、信号が "青" の時でさえ、バカなクルマが突っ込んで来たりしやしないかと注意を払うことにしている。特に、交差点では左折・右折をしてくるクルマは実に構造的に危険であり、決して信用しないことにしているのである。

 ただ、こうした "歩行者としての" 自分の振る舞いも、近辺に "お子さん" がいる場合はこの限りではない。 "真似" をさせてはいけないという認識が働いているからだ。子どもたちに "自立性" を要求しても始まるまい。それに対して、クルマの影なんぞ何百メートル先にもないにもかかわらず、マヌケ顔をしてボーッと突っ立っている大人がいたら、そんな人にかまうことなく渡ってしまう。
 ちょっとした感想だが、そうした行動に対して、女性、ご婦人たちはどちらかというと柔軟に対処して、『そうね、こういう場合はいいわけね......』と言わぬばかりに、わたしの後をついてお渡りになる。
 が、マヌケなのは、中高年の男性のようである。『いや、やはり "コンプライアンス(法令遵守)" でなければいかん! だって自分はこの姿勢で苦節何十年をやってきたのだから。他人がどうであれ、自分はこの姿勢を貫かねばならん』とばかりに、ほとんど化石となったように固まっているのだ。そんなふうにしているおマヌケさんを見ると、まあ、そこで日が暮れるまでジッとしているといいよ、と "嘲りたく" もなってしまうのだ。

  "嘲る" というのは過激でありそうだが、自分のセンスの中には、別の事柄も一緒くたになっているのである。つまり、 "歩行者の信号待ち状況" という事柄は、何かにつけての "自立性" そのものを表しているように感じているのである。
 先ず、歩行者というのは、こんな "クルマ横暴社会" にあっては、自身の身は自身で守るという勘所を押さえていなければならないと確信している。自分の命を守るのに、何々は絶対的に安全だ、なぞと信用・信頼なんぞをしてはならないのである。
 信号表示が信頼に足るとするならば、その大前提は、ドライバーたちが絶対に "信号無視" をしない、あるいは運転ミスをしないという、言ってみればきわめて "非現実的な" 事実ではなかろうか。信号無視どころか、大人しく道路際を歩いている登下校の児童たちの列に殺人鬼さながらに襲い掛かるのが現在のクルマである。
 つまり、世の中には、バカも多ければ、心ここにあらずのドライバーも少なくないのだ。それらを無くせと叫んでも意味はないだろう。自分側が "守りの姿勢" を徹する以外に方策はないと言うべきなのである。
 こんな状況で絶対に必要な条件とは、 "臨機応変な状況認識" と、そしてそれを叶える "自立性" 以外にはないことになりはしないだろうか。

  "自立性" にこだわるのは、何も "交通マナー" の話だけではない。いやむしろ、 "交通マナー" にはその片鱗を見るだけのことであって、社会行動や政治行動全般において、この "自立性" や "自立的判断" というものが人の世を住み良くしていく第一歩だと感じているのである。
 また、ここまで "グローバリズム" の風潮が生活の身辺まで押し寄せている時に、個人としての "自立性" から頓挫しているようでは、この国は壊滅する以外にないのではなかろうか。さらに、時の権力というものが、常に、 "非・自立的" で "従順" な者たちをダシに使って権勢維持を図っていることにも眼を向けるべきなのではなかろうか。
 あの "年金問題" にしたところが、 "青信号" (政府の振る舞い?)は絶対に安全だと勝手に思い込んで来たところにドンデン返しがあったわけであり、その上、もし国民が "日が暮れるまでジッとしている" 姿勢を続けるならば、どうなって行くかはわかったものではないだろう。

 かつて、 "赤信号、みんなで渡れば怖くない" というギャグがあったが、ギャグにおいても "つるんで" 動こうとする "非・自立的" な根性が醜く感じたものである。
 ギクシャクした世相を生み出しているのは、多様な "自立的個人" たちなんぞではなくて、むしろ無責任で "非・自立的" な烏合の衆なのだと言ったら怒られるだろうか...... (2008.01.10)

 年末から正月にかけての週は実に良い天気が続いたものだった。こんな調子で、陰鬱となりがちなこの寒い時期が、明るく晴れ続けてくれればいい、とそう思ったものだ。
 何せ、景気は悪化する兆しを見せているし、暗い世相は何も変わろうとしていないのだから、せめて日々の天候くらいは明るくあってほしいものだと身勝手なことを望んでしまうわけだ。
 しかし、どうやらこの二、三日、ぐずつく天気に変わり始めたようだ。これを書いている午後5時、窓の外はもう真っ暗となっている。折から暗雲が立ち込めていたせいもあり、夕刻を通り越していきなり夜となってしまったようだ。

 今日は自身の体調も優れず、そこから気分の方もそれに引きずられるようにパッとしない。こうした気分の時は、妙に苛立ちが首をもたげて、さしたることでもない事柄に癇癪を起こしたりしている。何とも我ながらみっともないことこの上ないあり様である。
 こうした暗い世相の時期は、せめて自分側の気分や心意気を好調な状態にもって行き、環境に染まらないようにするのが処世術というもののはずであろう。暗さの中で、自力発電をして、細々ながらも自己発電結果の灯をともすようにしたいと思っている。
 にもかかわらず、自分が体調を崩していたのでは何をしているのやら、ということになる。体調を崩すと覿面に気力を損なうからである。 "下手な考え休むに似たり" というが、 "下手な考え" で時間を浪費していると、結局、良質な睡眠を妨げることにつながり、体調やら気分やらを図らずも低迷させてしまうようである。自身の "下部構造" となっているはずの身体の、そのコントロールに、何よりも十分意を払うべきだとつくづく感じている。

 こんな時は、 "下手な考え" をウダウダと捏ねくり返しているよりも、さっさと帰宅して早く休むようにした方が生産的でありそうだ...... (2008.01.09)

 小説やドラマでは、自分が感知していなかった遠い親戚の者の "莫大な遺産" が、寝耳に水のごとく突然に転がり込むというストーリーがあったりする。そんな "シンデレラ" のようなラッキーがありはしないかという、俗人の "さもしい" 心根がそんなストーリーを浮き上がらせるものであろうか。
 ところが、これに類するような話、いや、とは言っても、こちらの方は幾分 "ブラック" の色調と、考えようによっては "笑っちゃう" ような話、ひっくるめると "ブラック・ユーモア" というような話が、自身に発生したのである。

 それは昨日、突然受け取った "スペイン" は "マドリッド" の消印のある封書から始まった。
「社長、スペインに知り合いでもいるんですか?」
と言いながら、社員が他の郵便と一緒にその封書を持って来たのだった。
 そう問われると、いないこともなく、ずっと以前に知人の友人で国連関係の仕事をしていたとかいうスペインの出身者と面識を持ったことがあった。しかし、先ずその彼ではなかろうとほぼ確信し、どうせ、毎日鬱陶しいほどに舞い込む mail-box の "迷惑メール" の類でしかなかろう、と想像した。
 宛名は、英文で株式会社アドホクラットの廣瀬宛となっており、しかも、本社の所在地ではなく、事務所の方の所在地宛となっていたため、ネット関係での個人情報が漏れたものなんだろう、という推測をしたりもした。要するに、 "ろくなものではなかろう" という先入観が "150%ほど" 出来上がっていたわけなのである。

 とりあえず開封してみた。すると、中には、三つ折にされたA4大の用紙が入っており、その用紙には数十行の手紙仕様の英文の文面がビッシリと記載されていた。
 目に飛び込んだ箇所は、差出人が "Mrs......." という箇所と、書き出し後にすぐに出てくる何だか "でかそうな数字!" であった。
 ご夫人が何の用件だろうかという点と、 "でかそうな数字" が気になったわけだ。その数字は次のように記載されていたのである。

<an Abandoned sum of 77.7m US dollars(Seventy Seven Million Seven Hundred Thousand United States Dollars)>( "宙に浮いた" 7千7百70万米ドル[ 約80数億円 ?])

 今ひとつ気になったのは、<one of our fbreign Customer Mr.A******* Hirose>という、見慣れた綴りの<Hirose>という文字でもあった。
 一体、ご夫人が語る "宙に浮いた" 約80数億円のお話とは何なのか? しかも、日系人のような<Hirose>氏が何か因縁を持っているのだろうか?
 ひょっとしたら、自分の視野には入っていない遠い血縁の親戚が、自分に多額の "遺産" を遺したとでもいうのかとはちゃうか??

 ちょっとした興奮を伴いながら、自分は読み進むのであった。
 そのご夫人は、スペインのとある銀行で、外国為替部のマネージャーをしているようである。そして、その関係で、ある日、上記の"宙に浮いた"巨額の一件に遭遇したらしい。実は、その巨額の正体とは、<one of our fbreign Customer Mr.A******* Hirose>に属するもので "あった" ようなのだ。だが、< Mr.A******* Hirose >は、<2004年5月11日>に< Atocha >で発生した<列車爆破事件>で、家族諸共亡くなったそうなのである。
 家族全員が亡くなったということで、< Mr.A******* Hirose >の遺産は、当然血縁のある者に相続されることになったようだが、ところが、生憎と名乗り出る血縁者が皆無であったというのである。
 そこで、このご夫人は、どうもご主人と共謀して "悪巧み" を思いついたようなのである。つまり、 "日本人の Hirose " が、実は何を隠そうわたくしめは< Mr.A******* Hirose >と縁続きの人物でございます、と名乗り出てみてはどうか、というのである。もし相続者が現れない場合には、どうせこの巨額はそっくりスペイン政府のものとなってしまうのだから、ここはひとつ、私たち(ご夫人&ご主人)と手を組んで "相続" してしまいませんか、わたしたちが全面的なお手伝いをしますよ、という "感謝感激" のお話なのである。そして、これは< business proposal >ですので、つきましては、ご賛同いただければ、 "6-4の山分け" ではいかがでしょうか、とご提案なさるのであった。

<I agreed that 40% of this money will be for you as a foreign Partner, in respect to your acceptanc-e to do this business with me, while 60% would be for me and my family.>

 それで、一刻も早く、Fax か Tell でのお返事をください。<Thanks and GodBless. Best regards.>と、結んでいたのである。

 言うまでもなく、自分はこんな "グローバリズム犯罪" へのお誘いなんぞは "黙殺" するとともに、同様の手口で引っかかる者が出ないとも限らないので、こうして "公表" しちまえ、ということにしたわけだ。
 もちろん、 "遺産相続" の話なんぞは "嘘八百" に決まっていようが、この手の手口の犯罪の真の狙いはどの辺にあるのかについては幾分興味がなくもない。 "手続きのための費用" がどうのこうのと "カネを要求" してくることも予想できるし、また犯罪行為へ誘い込むことによって一蓮托生とばかりに "ゆすり" 行為に出て来ることも考えられないでもなかろう。
 しかしそれにしても、昨今の "知能犯" 的手口は、手が込んできたものである。しかも、グローバルな広がりを呈してきてもいる。シナリオ・ライター顔負けの雰囲気もありそうだが、しかし、今ひとつ何と言うか "緻密さに欠ける" という印象が拭い切れない。
 ただ、 "振り込め詐欺" が跡を絶たないこの国の住人の "甘さ" が、意外と海外にも広まっていたりして、日本人はすっかり "なめられて" いるのかもしれない...... (2008.01.08)

 人気TV番組で「開運! なんでも鑑定団」(テレビ東京)というのがある。その再放送が日曜日の午後の放送であるため、何となくくつろぐ時間帯であるからだろう、遅れた昼食をとりながらよく観る。司会者は、島田紳介と石坂浩二ほかだが、誰もが感じていであろうように "ドライな雰囲気" の紳介が牛耳っているかのごとくである。
 それもそのはずなのだろうと思う。この番組の "セールスポイント" は、骨董品はもとより、様々な年代モノを鑑定した上で、とにかく "相場価格" を付けてしまう点であり、言ってみればなんでも "ドライ" に "カネ換算" してしまうところにあるだろうからだ。その "ドライ" さに絡む他人の悲喜こもごもの様子(どちらかと言えば、贋物で騙されていた者の悲哀の様子がお目当てとなる)が、これまた "ドライ" に距離を置いて楽しめる点、それがこの番組の面白さでもあるのだろう。だから、 "ドライ" に嘲り飛ばす雰囲気が売りの紳介がこの場の空気を作らないと、馴染まないのだろうと思える。

 言うまでもなく、現在は "市場主義経済" 一辺倒の時代である。だから、何にでも "値段" が付けられ、 "値打ち" というものが当然のごとく "カネ換算" されてしまう時代である。まあ、特に目新しいことでもないわけで、法律の次元でも、民事にあっては、 "損害賠償" はみな "カネ換算" して処理されてきたのである。
 こうした処理方法を、あまりにも "世知辛い" ではないかと言うこともできよう。人間の "真心" や "誠意" が発揮されて然るべきだと感じないわけではない。が、 "ある種の人々" が口になさる「オンドリャ、 "誠意" を見せんかい!」というセリフの意味するところが、結局は "カネをいくら出すのか" ということらしいから、麗しい言葉までが "カネ" に染まっており、 "カネ" の別称となってしまっている世の中である。

 こうなると、さてさてどうしたものかと思い迷うが、個人の処世術としては "カネ" とは無縁な高踏的世界で優雅に生きるというのもいいが、社会現象の交通整理としては、 "毒をもって毒を制す" ふうの "ドライ" さが是非とも必須なのではないかと思い始めている。
 この点で納得するのが、暴力団関係の事件において、組員による一般人殺傷などの責任が組長に問われ、多額の損害賠償金が請求される判例が出始めた点であろう。昨今のこの種の団体は、非合法なジャンルではあるが明らかに "経済団体" と化しているのだから、わけのわからない "社会的制裁" などよりも、 "高額なカネ" の方がはるかに "効き目" があるというものだろう。抜け目のない家康が、競合大名の勢力弱化のために莫大なコストを要する "参勤交代" という策を制度化したように、反社会的なアクションに対しては、多大な "コスト負担" をしていただくというのが効果的ではないかと考えるわけだ。

 この点で言うと、最近次第に国際的注目度が高まってきたのが、 "CO2 排出規制" の動向に伴う "CO2 排出権取引" ではないかと思う。つまり、排出規制で定められた各国の排出上限枠という数値を元にして、排出量が多く見込まれる国は、そうではない国から "排出権" を有償で譲り受けてもよい、というルールのことである。
 当初、自分は、これを否定的に受けとめていた。どうしてこんなことにまで "カネ勘定・換算" を持ち込むのか、排出上限枠を下回る国はそのままそっとしておけば、地球全体での排出量は少なくて済むではないか、と考えたものであった。
 しかし、この方法、ルールは意外と "効果的" で "抑制力" があるのかもしれない、と感じ始めたのである。先ず、大量排出予定国は、かなりの高額負担(聞くところでは、CO2 が1トン当たり1212円だとか)が強いられることとなり、これは自ずと "排出抑制機能" へとつながっていくと思われる。また、低開発国などで "排出権" を他国に譲渡して資金を得た国は、その資金を元にして先進国から "環境にやさしい生産手段" を購入しての経済振興をすることが可能となり、これまた "CO2 排出量" を削減することにつながろうというものだ。

 そして、何よりも、どこか "観念化" してしまっていたがためか、遅々として進まなかった地球温暖化防止策が、かなり具体的な規制運動として立ち上がることができそうに思われるのである。どの国も経済発展はリアルな課題であり、言ってみれば超リアルな "カネ問題" だとも言える。これに規制を呼び込もうという時、やはり "観念的なスローガン" に頼ったところで土台効き目が出て来にくいということかもしれない。とすれば、むしろ "カネ勘定・換算" を原理とする経済システムのど真ん中に組み込んでしまった方が、はるかに "制御可能性" を持つということなのであろう。
 昔日本で、60年代頃の都市公害問題が注目された時、ある経済学者が、公害現象を確か "外部負経済" と言ったかに思う。つまり、通常の経済活動は常に "カネ勘定・換算" 原理に貫かれるのに対して、当時の公害はその領域から外れるがゆえに環境を破壊しているにもかかわらず、一切の経済原理から問われることがない "外部負経済" だという意味であったかと理解したものだった。
 この点から言えば、 "CO2 排出権取引" とは、公害現象を "ドライ" に一般経済の土俵に引きずり込んだ快挙だと言えるのかもしれない...... (2008.01.07)

 今日、再び "アンテナ取り付け専門業者" に来てもらった。
 昨年末に "地デジ" 用アンテナを取り付けてもらい特に問題が生じたわけでもなかった。いわば、ちょっとした "贅沢" な追加依頼を頼もうとしたのである。 "地デジ" 番組の方は実に快適なシャープさであり、お陰ですっかりシャープなデジタル画像に慣れてしまい、 "目が肥える" ほどになってしまった。
 となると、今度は、従来の "アナログ放送" の画質が気になり始め、ちょいとした "ゴースト" 現象が何とかならないものかという "贅沢" 心が芽生えてしまったのである。というのも、ちょっとしたワケがあったのだ。やや込み入った話となるが書いてみる。

 このところ、PCを活用しての、TV放送の録画・編集およびDVDへの焼き込みという趣味の作業に凝っている自分なのである。もう一年ほどになろうかと思う。
 ちょいと前までは、レンタルDVDのバックアップ(?)を行うことに "密かな" 楽しみを覚えたりしていた。本来、こうしたことは違法かつ不可能(コピー・プロテクトのため)なのだが、そこは "蛇の道は蛇" のたとえのとおりに何とかしてしまった。まあこちらの方は、あまり褒められたことではないため最近は慎んでいる。
 その分というか、最近は、TVの貴重な自然番組、動物番組、ドキュメンタリー番組などを録画して自身のためのDVDライブラリー作りに余念がない。そして、ひと頃はとにかくDVD化できればよしとしていたのだが、最近では、より "高画質" に仕上げたいという欲が出てきたようである。多分、 "ハイビジョン映像" や "地デジ" 番組を目にするうちに、もとよりカメラ好きの自分だから画像のシャープさへの感覚はうるさく、何とかTV番組もシャープに録画したいものだと火がついたのかもしれない。またそれを画像の劣化を少なくしてDVD化したいともがくようになったのである。

 もちろん、手っ取り早くそれらの願いを果たすには、最新の機器を入手すればいいことになる。 "デジタル録画" が可能で "大容量DVD" への焼き込みができる機器のことである。しかし、そこまでの機器を入手する気にはなれなかった。というのも、それらの機器が扱う "記憶容量" は、やはりケタハズレに大き過ぎると感じたからである。
 現在の一般的なDVD一枚の容量 4.7 GBでも、PCで編集したりして扱うには "荷が重い" 感触であるのに、その4、5倍の容量ともなると実用的ではなさそうだと感じないわけにはいかなかったからなのである。
 したがって、目指すところは、現行の "記憶容量" 水準の範囲内において、コストパフォーマンスの高い "高画質" 画像がどう確保されるか、ということになるわけなのである。そのために "やってみるべき方法" がどう残されているのか、という試行錯誤が面白いと思えたのであろう。

 今辿り着いているより "高画質" な録画方法はというと、アナログ放送用録画支援ソフトを使い、 "外部入力" というやや煩わしい方法で "地デジ" 番組を録画している。この方法は、決して "地デジ" 番組の高画質がそのまま録画されるわけではないにしても、アナログ放送よりも比較的シャープな画質が得られるようである。しかしその分、一々手動で録画予約をしなければならないほどに煩わしさがある。
 そこで、その扱いが簡便な録画方法を採ろうとすれば、従来のアナログ放送番組の "低画質" に甘んじなければならない。ただ、正月休みだからこそ、面倒な手動予約なんぞもできたわけだが、仕事で忙しくなればそんなこととてできなくなるはずである。
 そんなわけで、アンテナ状況を改善して少しでもアナログ放送の良好な受信を得たいと目論んだのが、冒頭の話だったわけである。
 しかし、デジタル放送で "目が肥える" 前までは、そんなものだろうと納得していたのだから、人間の感覚というものは不思議なものである。一度、 "より良いもの" に接してしまうと、そうでないものが我慢ならなくなってしまうという点のことなのである。

 ところで、今日書きたかったことはというと、ひとつが、時代の進展というものは人間の様々な感覚を "後戻り不可" の押し上げ方をするものかもしれないということ、そしてもうひとつは、こうした感覚の上昇とでも言うべきものが "時代の文化" の底流に座を占めているとするならば、やはり、文化というものは "能書き" を言って頭でわかろうとするものではなくて、五感で感じ取る面が意外と大きいのではないか、という点なのである。
 多分、現代の様々な文化は、時代が提供するこれまた様々なサイエンスや技術の成果とそれに呼応した人間の感覚の変化から少なくない影響を受けつつ成立しているはずである。必ずしも賛美できる影響ばかりでもなさそうだが、現代だからこそ可能となったのだと言うほかないバリューも大いにあるのではなかろうか。
 嫌なことばかりの現代でもありそうだが、現代という時代であるからこそという視点で、現代文化の中から見るべき "ニュー・タイプ" を探し出していくことが必要なのかと感じている。ただし、現代文化の中には "ニュー・タイプ" 気取りでありながら、あまりにも現代がもたらしている成果を台無しにしているものも多いことに意を払い続けたいとは思う...... (2008.01.06)

 いつものように、川崎大師から "重い荷" をみやげにして帰って来た。例年のことであるが、 "久寿餅(くずもち)" を数箱運ぶのはラクではない。しかし、もらう人は大抵みな喜ぶし、初詣のみやげということで、この時期になると "あて" にしてもいるようなので、もはや後に引けなくなって例年どおりに繰り返している。
 いつも何かとお世話になるご近所の家にも差し上げ、結構喜ばれてもいる。また、おふくろは昔からこれが大好物であり、そのおふくろは去年の年末年始は入院をしてこのみやげをパスせざるを得なかっただけに、今年は首を長くして待っていたりする。
 そんなわけで、川崎大師から戻ると、さほど日持ちの良くないものだけに、おみやげの配達作業も迅速に行わなければならない。そんなわけで、否が応でも "久寿餅" のみやげに囚われることになっているのである。

 もとより、みやげを受け取る人はみなそうなのだろうが、川崎大師と言えば "お大師さん" のその "ありがたさ" がどうこうというよりも、とにかく旨い "久寿餅" のおみやげということであろう。
 当初、自分の川崎大師初詣とは、家の宗派が真言宗だということもあり、文字通り "お大師さん" を年初に詣で、一年の無事を祈願すること以外ではなかった。当然のことである。しかし昨今では、 "久寿餅" のおみやげを買いに行くといった "ウェート" が増している感が無きにしもあらずである。端から質量的には "ウェート" のあるものが、じわじわと存在感を主張し始めてきたと言えようか......。

 ありがたい "お大師さん" のご威光をさておいて "久寿餅" がどうのこうのとは、失礼千万な話であろう。失礼ついでにもうひとつ昨今の不届き者の印象を書いてしまおう。
 どうも最近の川崎大師初詣は、どこか、よんどころなく役所へ出向くといった風情が打ち消せないでいるのである。
 つまり、年に一度、御札を "更新" しに行くような感触であり、正直言ってそれは最寄の警察署に "免許更新手続き" に行くような趣きを無しとはしないのである。不謹慎なことを言っているようだが、事実そうした実感がないではない。
 別に詣でることや護摩焚きを軽んじているわけではない。が、失礼ながら、毎年同じことを経験していると今ひとつ新鮮さに欠けるような受けとめ方となり、次第に "更新" 事務手続きめいた部分のみがクローズアップされてくるような気がするわけなのである。
 特に、今日のような "大混雑" となると、これを交通整理するお寺側のスタイルがますますもって "脱" 宗教的対処と感じられ、事務的となり、限りなく "役所っぽく" なっているかのように思われ、いつの間にか警察署で "免許書換" の手続きのために並んでいる印象と混同させられそうになったりするのである。
 もともと、護摩焚きの御札を申し込んだり、手渡される窓口そのものや、その背後で応対している寺側の職員方は、明らかに "役所" をモデルとしているようではないか。宝くじ売り場のおばさんのような愛嬌もなく、どこか "ここは、お大師さんのお寺なんだかんね。逆らうとご利益をあげませんよ!" と無言の圧力でも掛けるような雰囲気が否定できない。
 これが、 "役所っぽい" と言ってみたい理由なのであるが、それでいて "商売っ気" の方もしっかりとしているから困惑させられるのだ。御札の大きさをS、M、L、LLと区分けしてそれぞれ価格が異なり、またそれに応じて護摩焚きの座席も "優遇" されたり "冷遇" されたりするのである。自分は以前、LとかLLの御札を頼み、護摩焚きの座席も "優遇" 指定席としていた。が、ある時からSやMに切り替え、凡庸な衆生にふさわしくギュウギュウ詰めの座席へと移ることにしたものだ。 "格差づけ" されているかのようなこのシステムがどこか居心地悪く感じたからかもしれない。今日も、衆生たちの座席はすし詰めであったが、その向こう側の "優遇" 指定席は広い空席を作っていたのが印象に残った。

 ところで、川崎大師平間寺の大本山は、浮世の衆生たちの不安や苦痛の増大を癒すべくなのか、ますます立派な佇まいとなっているようだ。また、仲見世通りのみやげ物屋も小さくない "ご利益" を受けているかのようである。
 しかし、そんな隆盛の周囲に、浮世の過酷な市場主義競争にさらされて日の目を見なくなったみやげ物屋もありそうだ。
 遅ればせながら今日確認することができたのだが、手作り "久寿餅" の老舗の "小倉屋さん" は、すでに店仕舞をしていたのである。
 自分も年に一度の "買い物" であるため、去年もその前もどうしたのかと思うだけで済ませていたのだが、今日、その近辺のみやげ物屋の人に訊ねてみたところ、
「ああ、 "小倉屋さん" のことね。やめちゃったのはもうだいぶ前のことじゃない」
という味気ない返事が返ってきたものだった。
 いつであったか、地元の人から、手作り "久寿餅" の老舗の "小倉屋さん" が一番美味しい、と聞いてご贔屓にしていたのであったが、今流の "時流" に沿い切れなかったというのが実情なのであろうか。
 ふと思ったものであった。 "お大師さん" の目は節穴なんですかい? 山門の間際で、客が列をなす店のことしか目に入らないということなんですかい? 手塩に掛けて手作りの伝統を守るみやげ物屋をこそ身の立つように計らってやるのが "お大師さん" らしいと思うんだけどね......、と。

  "お大師さん" のご威光でも何ともしがたいほどの市場主義経済の嵐が吹き荒れる中で、ひょっとしたら "お大師さん" は初詣客にこう諭していたのかもしれない。
「 "神頼み" なんぞするような了見違いをしていてはまずかろうぞ。私は何もしてあげられぬ。時を惜しんで、自身の眼で世間の動きをしっかりと見つめるのじゃ。しかる後に、自身が気を張って動くこと、それ以外に救いを期待しても詮無きことじゃ」
...... (2008.01.05)

 夕刻、ベランダの方で騒がしい野鳥の声がした。多分、シャラの樹の実を啄ばみに来た野鳥だろうと思い、そっと窓を開けて覗いてみた。シャラの樹は、ベランダのすぐ脇で大きく、4~5メートルほどにまで伸びている。無数の白い小さな花を咲かせた後、同じく無数の実をつけるのである。
 だから、こんな冬場には、野鳥たちにとっては、まるで "食い放題バイキング" の穴場のようなものなのであろう。さまざまな野鳥たちが入れ替り立ち替りで飛来する。
 そっと窓から窺ってみると、やや大きな鳥一羽と、スズメほどの鳥三羽ほどが、 "ワーイワーイ" と騒ぎながらシャラの実を啄ばんでいた。
  "やや大きな鳥" は、 "ヒヨドリ" であり、その鳴き声は「ピーヨ、ピーィ、ピィーピョロロ」というかなり騒がしい鳴き声であり、ヒヨドリの名もここからきたと言われている。
 小さな鳥の方は、 "シジュウカラ" であり、「ツッツッ、チー、ツリリ」と細く高い声で鳴いている。この鳥の特徴は、まるでネクタイをしているかのように、のどから下腹にかけての腹の中央部分に黒い線が走っているのである。腹の両側は白いため、ワイシャツにネクタイといった格好に見えるのである。
 彼らはみな、無数に散在する木の実に熱中しているようで、こちらの接近には気がついていないらしい。そこで、やや明るさが不足している様子ではあったが、すかさず望遠が効くデジカメを用意した。
 せっかく "穴場" でのお食事を楽しんでいるのに、脅かして退散させてはかわいそうである。そこで、十分な距離を置いてスナップ・ショットすることにした。しかし、残念ながら薄暮の空が背景となってしまい、明らかに逆光状態であった。シャラの樹や鳥たちの姿がシルエット風の潰れた画像になっているのがわかりながらのショットである。後で、PCによる補正作業を加えようとしていたが、補正でカバーできる範囲を超えていそうな感触もあった。結局、何とかものになりそうなのは一枚だけという不首尾となった。

 ところで、冬場に残された餌としての木の実を啄ばみに来る野鳥たちといい、 "外猫" として飼っている猫たちといい、自然の容赦ない変化の中で精一杯生き延びている。しかし、その辛さを悲痛さとして訴えるという様子もなく、ただ淡々と生きているといった逞しさにはすがすがしいものを感じたりする。
 このところの朝晩の冷え込みは尋常ではなくなっている。一応、例年のことながら、 "猫小屋" には "湯たんぽ" の差し入れなんぞをしてやってはいるものの、さぞかし応えているに違いなかろう。
 だが、猫たちもしっかりと知恵を働かせているようである。今朝も、彼らは安全そうな高所の "陽だまり" でしっかりと暖を取っている光景を目にした。一匹の方のクロは、まさに真っ黒な出で立ちのため、きっと熱吸収が良いに違いないと感心した。
 また、生き延びる猫たちの "用心深さ" というものにも感心してしまう。彼らの多くの仲間たちがいつの間にか姿を消した推移には、非情な人間に気を許した甘さがあったと彼ら自身は意識しているわけでもないのだろうが、現実はほぼそのとおりだったようなのである。
 そこへ行くと、生き延びている "外猫" たちの "用心深さ" は、今どきの甘い人間たちが少しは見習ったら良さそうな気さえする。 "用心深い" 彼らは、毎日餌をやったり湯たんぽの手配までしてやる自分にさえ、 "用心" を怠らないのだ。あくまでも自身の身は自身が守るという "野生のど根性" が脈々と生きているかのようなのである。
 見方によれば、その振る舞いは、臆病にも見えるし、人間不信の塊にも見える。がしかし、それを悪く貶すべきではなかろう。要するに "リアルで聡明" なのだとして、相応に評価してやりたいと感じている...... (2008.01.04)

 今日はもう正月から離れて普段と変わらぬ一日を過ごした。
 ウォーキングから戻り、 "駅伝" の中継をしばらく観た後、ちょっとした用もあったため事務所に出向くことにした。
 道路にもようやくクルマが溢れるようになったようだ。仕事での外出というよりは、休暇最後の日を外出で堪能しようとするクルマなのであろうか。明日、四日から仕事始めというケースも少なくないはずだ。ちなみに、うちの会社は明日も休みとして七日からのスタートとなっている。過去最長の休暇だと、社員は喜んでいたようである。これといって何もない会社なのだから、休暇くらいは寛大であっていいのかもしれない。

 事務所に向かってクルマを走らせると、最近は見慣れた周囲の光景に倦怠感を覚える。かと言って別な道を選ぼうともしない。別な道を選んだためにトラブルがあったとなっては、それもまた厄介だと思っているのだろう。
 しかし、 "見慣れた周囲の光景への倦怠感" といえば、ウォーキングの際にもそんなことを考えた覚えがある。こちらの場合は、ちょっとした "警戒心" を伴って考えていたようであった。
 というのも、 "見慣れている" がゆえなのであろうか、ほとんど意識を働かせていないようだからなのである。まして、ウォーキングは朝方の、眠さが残る時間帯にこなすことが多いため、なおのこと意識は "エコノミー・モード" というか、 "怠慢モード" となっている。よほど新規性を伴った光景でもないかぎり、目もくれずに、 "変化な~し!" と見過ごそうとするかのようなのだ。
 ある時、ふと、今日はどんな周囲の光景を目にしたんだっけ、と思い返そうとして、ほとんどこれといった印象がよみがえってこないことに気づいたのである。まあ、これといって何も目新しいものはなかったのではあろう。しかし、これは "ちょっとした問題" であるのかもしれない、とそう感じたのである。
 日が異なれば、光景側も、また自身の内面側も昨日やこれまでと同一であるはずがないのであり、とすれば、何か "新しいもの" に注意を喚起して然るべきであろう。それなのに、 "変化な~し" というような "無地一色" で塗りつぶすかのような意識の持ち方は、やはり問題視しなくてはむいけない、とそういう意味での "警戒心" 持つはめになったのである。

 要するに、意識の "エコノミー・モード" や "怠慢モード" の多用とは、これこそが "老化" の最たる特徴なのではないかと思う。 "エネルギーの出し惜しみ" を人知れず行っているのは、気力・体力を密かに計量している老人の特徴そのものだと思わずにはいられなかったのである。
 まあ、目くじら立てて言うほどのことではないかもしれないが、これを無意識に重ねてゆくならば、外界を、何の凹凸もない平板な光景としてしか認識できない "寂しい人間" となってしまうような気がしたのであった。外界がそうした光景として目に映るというのは、とりもなおさず、内面に何の起伏もなくのっぺりとしていることを物語っているわけであり、それは "人柄が丸くなる" という "肯定的な事" とは異なったことだと考えたいような気がしている。
 いや、この辺になるとちょいと評価が分かれるのかもしれない。もし、感覚が "まひ" することを "人柄が丸くなる" と読み違えるならば、それは "ぼけ老人" を "ほめ殺す" ことになりかねないであろう。かといって、外界の凹凸を敏感に感じ取れるセンサーを持ちながら、 "人柄が丸くなる" べしという命題は、かなり過酷過ぎるとも言えそうな気もするのである。

 こう考えてくると、 "慣れなくては身が持たない。さりとて慣れ過ぎてはいけない。" というのが、人生というものなのかもしれない。そこへ行くと、科学と技術とをふんだんに駆使した現代は、 "慣れ過ぎてはいけない" という課題の方にはさほど注意を払っていないような気がする...... (2008.01.03)

 正月の二日というのは落ち着いて "ものを考える" には適している。
 元日は、大晦日に引き続き、新年の祝いというお仕着せ的な雰囲気が濃厚なはずだ。何はともかく、皆でご挨拶といった調子である。
 が、正月三箇日とはいうものの、二日となると "めでたさの威力" が色あせるとともに、正月としての何がしかの "拘束力" も薄らぐ。
 もっとも、もうだいぶ以前から日本の正月は概して "めでたさの威力" も "拘束力" も失われているのかもしれない。正月という年中行事自体の特別さがかなり相対化されてしまっているわけだ。地方の地域ではどうだか知らないが、都市部では元日でさえ各店舗が営業をする時代でもある。
 というようなことで、二日となると "正月でありながら正月でなし" という "エア・ポケット" のような気分になったりする。元日気分を引きずるでもなく、かと言って仕事気分に立ち戻るでもなく、まさに "エア・ポケット" にはまり込むような気分である。
 で、こんな時にこそ、徒然(つれづれ)にものを考えられそうだし、そうして良さそうな気もするのである。

 最近、しばしば考えおよぶことのひとつに、現代という時代は、ますます人と人との "意思疎通" を苦手とし始めているのではなかろうか、という問題がある。情報化時代だと言われているにもかかわらず、逆にその進展が歩みを加速化させるほどに人間間の "意思疎通" は難航を極めているのではないかとさえ感じるのである。
 情報化時代の環境は、さまざまな方法によって情報の流れを円滑にするとしながら、実のところ人間間の "意思疎通" というものを困難にさせたり、阻害したりしてはいないか、というような逆説的な疑問を抱いてしまうのだ。
 もしそうだとするならば、一体、何がどう問題なのだろうか、という次なる疑問も生じてくるわけなのである。情報化時代が推し進める環境のどこかに小さからぬ不具合が潜んでいるのか、あるいは、情報化時代が提供する道具立てを含めた環境を、現時点での人々が上手く生かし切れないでいるのか、そうだとすればやがて人々の習熟度が高まれば問題は氷解されていくものなのだろうか......と。
 あるいは、情報化時代というような、より科学や技術に焦点を合わせた視角から見える現象に問題があるのではなくて、事実上これを推進している過度の市場主義的経済構造自体に問題の根源が潜んでいるのだろうか。これらが、地球規模の次元で、しかもボーダーレスに繰り広げられている現状だからこそ事態をこじらせているのだろうか......と。

 まあ、いくら "徒然にものを考える" と言っても、そこまで風呂敷を広げたのでは収拾がつかなくなることは目に見えている。もっと視界を絞って考えるべきなのであろう。
 しかし、直感としては、現状の身の回りの出来事でさえ、主たる原因はその周囲にあるというよりも、地球の反対側出来事に由来したり、地球規模レベル(グローバリズム!)に依拠していたりするという、そんな "奇想天外な現状の仕組み" こそが無視できない現実なのではなかろうか。
 例えて言えば、この国のある家庭で、生活難ゆえに夫婦間でのいざこざが絶えず、まさに夫婦間の "意思疎通" が悪かったとして、その原因をたどるならば、当然、現状の経済情勢に目が向けられてよいと思われる。
 まして今年は、家計の収入問題に加えて、さまざまな諸物価の値上がりが迫っているとも聞く。この "諸物価の値上がり" にしたところが、原因は世界的な "石油(原油)の高騰" に根源が潜んでいるはずであろう。そして、さらにその原因をたどるならば、世界金融の投機筋が原油株へとマネーを集中させたこと以外には考えられないわけである。つまり、一家庭の夫婦間の "意思疎通" 不全の小さからぬ原因が、マネーゲームに現を抜かすグローバル金融の原油ファンドにあったりするのが事実なのである......。

 年末、大掃除をしている際、ラジオをかけながら作業をしていた。視聴者からの便りを紹介するような番組であったようである。その時、キャスターの口からしばしば聞いた言葉が、 "暴走する老人たち" だったのである。どうも番組ではひとつのサブテーマとして取り上げていた雰囲気があった。
 既に自分はこの日誌でも、<一部高齢者たちの "八つ当たり" 的事件 ......>( 2007.12.27 )と題してちょっとした感想を書いていた。そんなこともあり、この種の現象は決して偶発的なことではなく、時代の底流に棹差す何か象徴的な現象なのかもしれないぞ、という思いを強めたのであった。
 その時にもいろいろと書いたのだが、今日ひとつ付け加えて書きたいと思ったのが、さきほどから書いている "意思疎通" 不全ともいえる問題なのである。
 一時期、 "キレル" 青少年という話題が注目を集めたことがあったかに思う。そしてその際には "食生活" のあり方がどうのこうのと解釈されたのではなかっただろうか。そうしたホルモン物質などの問題もあるかもしれないが、要するに他者との言葉による "意思疎通" 不全の破綻的表現が "キレル" という形となるのではないかと考えられる。青少年の問題も決して決着がついているわけではなさそうだが、とりあえず今それはおく。

 老人たちにもし "暴走" ( "キレル" )という行動がもし起こるとするならば、やはり大筋では "意思疎通" 不全の破綻的表現という点では変わりはないのではなかろうか。
 ただし、老人たちの場合は、青少年たちのように他者との "意思疎通" 方法や能力があまりにも未熟だからということではなくて、もはや修正が効かないほどに凝り固まった主観と外界との間に埋めようのない "乖離" が自覚されることによってではないかと推測する。
 もちろんそんな "乖離" は、いつの時代の老人たちも悲哀とともに感じたことではあろう。ただ、現状でのそれは、ことによったらドラスティックであり過ぎたのかもしれないと思う。ある種の老人たちにとっては、内面の "根扱ぎ" 状態を促すほどに過激な事態として受けとめられたのかもしれない。
 多分、この十年間における時代環境の激変と、それらの影響を緩和させるどころか "火事場泥棒" 的無責任さで対処してきた権力層の動きは、老人たちの内面の粘膜に塩をまぶして逆撫でするような惨さではなかったかと感じないわけでもない......。
 信念にせよ、価値観にせよ、はたまた思い込みやこだわりにせよ、それが "無用" であるかのように扱われた者たちが、切なさの陰に牙を剥いた憤りを宿したとしても、それはそれでひとつの成り行きだとしか言いようがなかろう。

 ところで、問題は老人たちの "暴走" 現象なのではなくて、時代環境の "病状" がここまで高じてしまっているという点なのだと思われる。昨年の "一字" = "偽" に込められた意味をも併せて考慮するならば、壊滅的に破壊されようとしているのは、地球の自然環境とともに人間間の "意思疎通" のあり方でもあると言うべきなのかもしれない...... (2008.01.02)

 かなりの冷え込みではあったものの、明るい陽射しの穏やかな正月元旦を迎えた。今年最初のウォーキングでも、あちこちの畑には "霜柱" が目立ち、中には何本もの畝が白い霜柱で被われ切っている光景も目にした。風もないためか、歩いている際に寒いという感触はなく、これで日本海側は大雪なんだから関東地方は恵まれていると思ったりする。
 この冷え込んだ空気の中、野鳥たちはすこぶる元気なようだった。特に人懐っこい "セキレイ(ハクセキレイ)" は、歩く自分の前に何度も舞い降りて愛くるしい仕草を見せていた。やや丸目のスタイルの "ムクドリ" の姿も目に入った。
 正月元旦の朝は、道路のクルマの往来もめっぽう少なく、澄み渡った青空の下で町全体が未だウトウトとしているような気配であった。

 わが家の元旦のお祝いは、毎年変わらない。近くに別居しているおふくろを迎えに行き、11時頃からようやく始まる。今年は、年末に家内が腰を痛めてしまいこの行事も危ぶまれたのだったが、何とか形を漕ぎ着けることができた。
 おふくろも特に体調を崩すこともなく、迎えに行くといつものほがらかな顔をしていた。われわれみんなに "年賀" のプレゼントを用意してくれるのが例年のことであり、今年も、二つの紙袋にそれらを入れて用意していた。ちなみに、自分には靴下のセット、家内にはちょっとしたデザインの手提げ袋、息子には厚手の生地のシャツがそれぞれ手渡された。ひょっとしたら、年末に町田駅方面に足を向けたその時に買ったものなのかもしれないと察した。

 おふくろの住まいにも一匹の猫が飼われているが、わが家に来ると表に二匹の外猫がいて、居間には二匹の内猫がいるため、どうしても猫の話が話題となりがちとなる。内猫たちも、元来が人見知りをしない方であり、特に傍若無人な一匹、ルルなどはお構いなしにおふくろのところへと寄り添って行くものだから、おふくろも悪い気がしないらしい。
 そうして、お祝いのおせち料理をいただいている間中、猫の話に花が咲くこととなったのである。さしずめ、曾孫でもいればそこに話題が集中したところなのであろうが。
 食事が済むと、誰言うとなくトランプの "セブンブリッジ" に興じることとなる。これもまた長年の慣わしのようになってしまっていた。
「幾つまでできるかねぇ。九十まで大丈夫かねぇ」
とおふくろが言う。
「お母さんは眼もいいから大丈夫ですよ」
と家内が真顔で言う。
 実際、子供たち、そして姉のところへ行くと孫たちと渡り合っても、そこそこいい勝負ができるし、現に、今日は初盤戦ではレンチャンの勝ち方をするほどである。賭け事などは一切やらないおふくろであるが、この "セブンブリッジ" ばかりは、みなに振舞うつもりで小銭を賭けたりする。だから、そのためにわざわざ小銭を袋に入れて持って来たりするのだ。
 この "セブンブリッジ" も結構気分を盛り上げるのであるが、それよりも、とにかくおふくろが来ると家の中が "朗らかになる" 事はみんなが認めている。
 昔、万歳(まんざい。新年を祝って、歌にあわせてする舞。えぼし姿で、つづみを打ちながら舞う)が正月気分の "宅配" (?)を行う慣わしがあったとか聞くが、さしずめ、おふくろは "賑やかな正月" を "宅配" して回る使者(?)のようだとも言うべきか。

 おふくろの正月は、この後、3日に姉の家に呼ばれて孫夫婦や曾孫3人と一緒に賑やかに過ごすこととなっているという。
 夕食後、風呂に入ってもらい湯冷めをしないうちにクルマで自宅まで送った。荷物を持つのを手伝って玄関の戸を開けると、おふくろが飼っている猫が出てきてミャーミャーと鳴いていた。お正月だというのに一人ぼっちにさせてどこへ行ってたのよ、と不平を言っているようにも聞こえた。おふくろは手が掛かってしょうがないとぼやくのが常であるが、しかし、そうやって猫でも待っていてくれる存在があるのとないのでは、相当異なるのが独り住まいのはずなのだと思えた...... (2008.01.01)

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