"大晦日" だと思うと、一応のことは済ませたと思いつつもいろいろとやるべきことが出てくるものだ。そんなこともあろうかと、今朝はやや早めに起床したのだから良い心掛けである。
ウォーキングから戻った後、そのままの格好で玄関や庭の掃除を幾分念入りに行った。 庭は、土の感触を残しておこうとしているため、土が飛び石に被さったりして、結構汚れがひどくなる。普段は放置しているが、今日のような日はその飛び石に被った土を丁寧に取り除く手間をかけたりする。というのも、そうした土が履物の底に付いて、白っぽいタイル張りの玄関の床が悲惨なほどに汚れまくるからなのである。
もちろん、その玄関も丁寧に掃いた上、モップで拭き取り、小型扇風機で乾かすという念には念の入れようであった。
こう書いていると、いかにも綺麗好きこの上ないようにも受け取られかねないが、こんな掃除はまさに "大晦日" だからのことであり、普段はほとんど目を背け、目をつぶっている始末なのである。
「まだまだ、やるぞー」という気持ちに、否応なく "発破" をかけられた年であったか。そして、来年も引き続きということになろう。
まさにこの "100年に一度" の "金融・経済危機" の "お陰" で、まだまだ "還暦気分" なんぞに浸れないとしっかりと言い聞かされた思いである。
ややもすれば、この歳になれば、心身ともに経年疲労というか、不摂生のつけが回ってきたりして、一服するか、の気分に襲われないでもない。
また、 "まだ若い、若い" と粋がる姿勢の空々しさを嫌うところから、妙に "年寄りらしさ" なんぞに目を向けたりもしがちである。
それはそれで無意味なことではなかろうが、大事なことは、降りかかる環境に対して "逃げ腰" にならないことのはずである。その点から考えるならば、「まだまだ、やるぞー」のスタンスに立ち戻ることが正解なのだと感じている。
"100年に一度" の "危機" であるならば、 "だから、しょうがない" ではなく、 "ならば、やってやろうじゃないか" と、これぞ "売られた喧嘩" なのだから "尻尾を丸めて退散" なんぞすべきではなく、 "潔く応戦してやろうじゃないか" と思いはじめているわけなのである。
ヘンなことに思い迷っていた。 "大型やかん" を買うべきかどうかであった。小学校の頃、だるまストーブの上で存在感を示していた、ああいった "大型やかん" のことなのである。
何のためかというと、外猫たちのための "湯たんぽ" の湯を沸かすためであった。二匹がそれぞれ別の猫小屋で過ごしているため、 "湯たんぽ" も二つ用意しなければならない。だから、並みのやかんでは用を足さない。
これまでは、通常サイズのやかんと鍋を併用して、しかも、鍋で沸かした湯は一度やかんに入れ替えてでないと、口の小さい "湯たんぽ" には注げなかった。だから、手間が掛かっていたのである。しかも、時間に急かれるのがイヤであった。
家内が不在の際には、事務所から帰宅して、餌を用意してやる一方で "湯たんぽ" の準備までやろうとすると、とても忙しない気分に追い込まれる。猫たちは、 "湯たんぽ" が遅れると、行くあてがあるわけでもないくせに、小屋が居心地が悪いとフラフラと冷たい夜の闇に足を向けたりするからだ。だから大急ぎで支度をしてやらなければならず、もちろん自分の夕飯の支度どころではなくなってしまうのだ。
"独居老人" の暮しというものは、どうしても "こうなっちゃう" ものかと感じさせられた。
つい先ほど、電気関係の "出張修理" でおふくろのところへ行ってきたのだった。依頼対象は、キッチンの流し台の上に設えられた蛍光灯と、電気レンジの魚焼き器であった。 蛍光灯については、 "ヒモ" を引いてON・OFFを切り替える、その "ヒモ" が切れてしまったというのであった。
また、魚焼き器については、 "蓋" を外したところ、どう取り付ければいいかわからなくなったというものであった。
実は、今朝、今年最後の墓参りに一緒に行った際に頼まれたのである。既に、姉が "大掃除" らしきものをとり行い、その際に、この手の案件はやすおに頼めばいいと言ったそうなのである。
とうとう猫たちが五匹となってしまった。
従来からの内猫二匹、外猫二匹に、最近、加わった子猫一匹である。子猫は、よんどころなく預かるかたちで、いわば "保護観察" 扱いで嫁ぎ先ならぬ貰い手先を模索していたのだったが、いずれも "ノー・サンキュー" のレスポンスを受けてしまった。
自分はそうは思わないが、家内に言わせると「かわいいというほどの器量じゃないみたい」ということで、そんなことが運命を決しつつあるのかもしれない。
まだまだ "子猫" と呼ぶべき状態ではあるのだが、飼うのなら "子猫" から飼いたい、という一般的な貰い手の条件たる "子猫" というイメージからは 次第に脱却しつつある。ということで、このままわが家にて"終身保護観察" 処分ということになりそうなのである。
冬場は、外猫たちには、朝夕の餌のほかに、二つの猫小屋にそれぞれ湯たんぽを差し入れてあげなければならず、結構、手が掛かるといえば手がかかる。
陽射しはあるものの、冷たい北風があるからか実に申し分のない年の瀬の気候となっている。寒いのがいい、と粋がる気持ちがある一方で、やはりこれからしばらくは寒さが堪えるかな、といった弱音に傾く気分もないではない。
ただ、これからは "知恵" の発揮が出番であるとともに、それ以前に "気力" や "気合い" といった精神面での充実が不可欠だと自覚しつつある。この大不況を掻い潜って行くためには、という話である。
そんな "古風な精神力" では......、という声も聞こえてきそうではある。が、逆に言えば、そうしたシニカルな姿勢に陥ったところで、何も始まるわけでもなさそうである。客観情勢だけを内側に映し出してみたところで、出口のない状況が追認できるだけなのかもしれない。シニカルさが高じて、あたら我が身の "心身" を病的方向へと追い込むだけなのではなかろうか。
ここは、 "気力" や "気合い" といった "古風な精神力" 以外にはこれといったものは何もない、と覚悟を決めることが必要であるような気がしている。少なくとも、 "心身" の遜色が回避できていれば、過剰な悲観主義に陥らずに、あるがままの現実、その中には見るべきものも含まれていないはずがない現実が、額面どおり見えてくるのではなかろうか。こうした視点を楽観主義だと疑ったのでは、ただただ自分で自分の首を絞めるに等しいわけだ。
誰でも一度くらいは、次のようなことを言われたことがあるに違いない。
「申し訳ありません。何せ "システム" がそういうことになっているもので、何ともしようがないんです......」
こういう場合、「そこを何とかお願いできないでしょうか」と食い下がっても、まず願いは叶えられないケースが多い。どんな場合なのかにもよるわけだが、もし、こんな時に、担当者なり係の人が "便宜" をはかってくれたら、それこそラッキーだと言わざるを得ない。その人は、よほど親切な人でそこでのはからいから派生する災いを自身が背負い込む覚悟をしているか、日頃から "システム" というものが内在させた "非合理" な面への憤りをしっかりと胸に秘めているかなのではないかと思う。
しばしば、 "システム" というものの "合理性" や、 "便利さ" 、そして "安定性" などが賛美される。
確かに、法制度の "システム" を筆頭にして、 "システム" というものは不必要に見える種々の軋轢などを抑止する効果はありそうだ。関係者たちが、各々の判断に迷うことなく、 "そういうことになっている" という "システム" 性によって、事態が自動的な流れとなって進んでいくようでもある。
だが、 "システム" といえども所詮は人間技で作られたものであり、いくらでも "バグ" が潜んでいそうである。それを "絶対的" だと言えば言うほど、リアルさを失うのではなかろうか。
昨日は、この "金融危機" に端を発する経済危機での象徴的な "被害者" とも言うべき "派遣労働者(非正規社員)" の悲惨さと、大手大企業の経営姿勢という構図について書いた。
何かヘンじゃないか、大手大企業の経営姿勢は、という点が焦点であり、グローバリズム経済下での "国際競争力" という課題をリアルに追求するのであれば、もう少し長い目で、 "労働生産性" という課題を見つめて、安易に "非正規社員" 群に依存すべきではないのではないか、と書いたのだった。
この年末の寒空の下に放り出された "派遣労働者" たちが悲惨過ぎるという視点がもちろんある。だが同時に、日本経済のリーディング・カンパニーが、実のところ "聡明な経営判断" を選択していらっしゃるのかどうかに疑問を禁じえなかったのである。
偉そうなことが言えた柄でないことは先刻承知している。が、この国この社会の一員としては、とかく "将来展望に欠ける日本経済" が取り沙汰される折り、だからこそ、この国のリーディング・カンパニーが、リーズナブルな "国際競争力" を少しでも高めてもらいたいと願うわけなのである。
束の間の小春日和が過ぎ去り、この時期本来の低温が舞い戻った。冬はこれでなくちゃぁ、と粋がったりする。
しかし、確かに寒い。ウォーキングの際にも、家を出た直後には上半身が薄ら寒い気配であった。が、やがて体温が上がってくると気にならなくなる。
相変わらず、川の鯉たちの餌用の "賽の目切り" の食パン持参のウォーキングである。この食パンの耳の "賽の目切り" は幾分手間が掛かっている。事務所の近くの製パン屋にて一包み20円也で買っておいた食パンの耳を、普通、金曜日の夜に "切り捌く" のである。分厚いまな板に出刃包丁という物騒な道具を居間に持ち出し、黙々と処理する。この処理がなければラクなのになぁ、と思うのだが、鯉たちの "嬉々とした様子" を思い浮かべながら、まあいいかと作業するのだ。
そう言えば、先週は降雨で川の状況が変わってしまい、いつも川底が見えなくなるほどに鯉たちが群れていた場所が閑散としていてやや心配していた。
ところが、今朝はまた以前のように、大小さまざまの鯉たちが所狭しと集結しているのが目に入った。何となくホッとしたものであった。
ここ二、三日、陽気の方も時ならぬ南風でぬるんでいる。そして。今日は、休日に挟まれた中途半端な出勤日であった。もう今週一杯で仕事納めだということになるわけだが、そんなこんなで何だか "年の瀬気分" にはなり切れない、ヘンな雰囲気である。
一番、気分の盛り上がりを損なわしめているのは、やはり、 "不気味" でさえある景気動向なのであろう。
年が変わる際には、誰もが口を揃えて "今年こそは......" と言うものだが、果たして今度の年明けにはそんな空々しいことが言えるのであろうか。再三、 "酷い年" になろうことが予想し尽くされているわけだし、すでにその序幕が始まってもいるのだから、一体、何と言えばいいものやら......。
昼のニュースによれば、ギリシャでの反政府デモは過激さを増して二週間も続いているという。デモの直接的原因は、 "警官によって少年が射殺された" ことだというが、現在の経済不況に何ら効果的な対策が打ち出せず、失業率を7%にまで野放しにしている政府に対する庶民の苦境と反感が足元にあるようだ。
学生たちがラディカルな行動に出ている一方、一般庶民たちは繁華街のクリスマス・ツリーに "ゴミ袋" をぶら下げるという抗議行動をとっているという。やりどころがない憤りを表す精一杯のアクションのようだが、こう言っては何だが、妙に共感を禁じえない心境でいる。
恐怖感と隣接した生活不安にさらされている庶民にとっては、煌びやかに聳え立つクリスマス・ツリーが、既に祝福されるべきものを奪われてしまった "自分たちのサイド" で尊く輝くものとはとても思えないのかもしれない。あたかも、 "自分たちを切り捨てたサイド" が、空々しい顔で澄ましているかのように感じ取ったとしても、あながちわからないわけでもない。神を汚しているというような取って付けた非難をするよりも、そうした行動にまで追い詰められている庶民感情の足元にこそ目を向けるべきかと思えた。
今回の "金融危機" に始まる経済危機ならびに社会危機は、日を追うごとにその影響の "スピード" がとてつもなく速いことに驚く。
もちろん、この国の政府の対応の遅さ、後手後手に回っているとしか言いようがないその光景を見せつけられているせいもある。同じ政府であっても、震源地だからということもあるのかもしれないが、米国政府の対応はまだリアルタイム性を持っていそうだ。
日本政府の "横板に鳥もち" 性というのは、政府要人たちの危機管理能力の低さにも原因があるのだろうが、より端的に言えば、政治的判断そのものを "官僚機構" に丸投げしてきたという体質が災いしているとは言えまいか。
"官僚機構" の動きというものが、 "スピード" を要する状況に適していると考える者は誰もいないはずである。いわゆる "官僚主義" 組織が最も苦手とするのが、 "迅速性" だという点は周知の事実であろう。
ここしばらく、時間の許す範囲で、この日誌の過去のものを点検している。
現時点の意識のありようが緊張気味であるためか、読み返すものに恥ずかしいほどの "冗漫さ" を感じたりもしている。
何とダラダラと長い駄文を連ねていることかと思ったり、書いている内容や書き方に締まりがないと恥じ入ったりという具合である。
まあ、毎日のことであるため、 "書き続ける" ことに意を注いでしまうとこんなことになってもやむを得ないかと、自己弁護する向きもないではない。
以前にも書いたが、いま少し要領よく圧縮して書ければ良いかと強く再認識はしている。ただそのためには、よほど要領よく考えなければならず、さらにそうあるためには集中力や緊張感を高める必要がありそうである。
努力をしたいとは思うが、とかく意識が弛緩しがちな日常の、その空き時間に、集中力や緊張感をにわかに高めるということは正直言って結構辛いものがある。が、まあ、心がけて行きたい。
再び、 "TMS( Tension Myositis Syndrome 、緊張性筋炎症候群)" 関連で書くことになる。(たぶん、しばらくはこの問題意識が続きそうである)
自分がこの医学的現象に興味を持つ理由は多岐に渡っており、その一端は昨日も書いた。中でも、自身がこの現象を体験したのではないかという思いが、興味と関心とを駆り立てるのかもしれない。
その体験とは、二、三年前に酷い目にあった激しい痛みの "腰痛(坐骨神経痛?、脊柱管狭窄症?)" であり、またほとんど持病のように現れる "偏頭痛(緊張型頭痛)" のことを指す。さらに加えれば、四十肩、五十肩もあげられそうだ。これら "三つ巴" は、とりあえずの対処法を得てひこひこ往なしてはきたが、正直言って、何が原因であったのか、あるのかは自身が未だによくはわかっていないのである。
最近、若干関心を寄せている事柄がある。
結論から言ってしまうと、 "心や感情(潜在意識や無意識を含む)が身体自体に及ぼす影響力の大きさ" とでもいうことになろうかと思う。
先日書いた「 "心の病" または "心" と "病" について (1) ......」(2008.12.11)も、実はこの関心の文脈上にあった。あまりにも唐突感が伴うようだったので、 "医療危機" とか予防医学という社会的側面の問題として書き起こしてみたが、関心の焦点は上記のとおりだったのである。
飛躍的に発展した現代医学の成果があるのに、なぜ、場合によっては "精神主義" だとの誤解を招きもするであろうそんな事象に関心を示すのかということになる。
これも結論から言ってしまうと、人間という存在は "心身一体" で構成された生きものであり、もともとその両側面には密接な相互関係があると考えられる。しかし、現代の科学のスタンスからすれば、どうしても "身体" の側面の方がなじみ易く操作し易いために、 "身体" の側面の偏重的な風潮が強くなっている。
それはそれで良いとして、しかしながら、 "心(因)" 的側面の影響力というものが軽視され過ぎているかのように見えてならない。この点が逆に "科学的" ではないのではなかろうかとさえ思えてくるのである。
"迂闊" だと思う朝であった。冷たい雨の中、傘を差してのウォーキングに出かけたのは、昨日と同様に、 "川の鯉" たちが首を長くしてというか、口をパクパクさせて餌が撒かれるのを待っているかと思い込んだ点もあった。
まあ、それだけではなく、健康のためにと定めたことを天候のあれこれによって反故にはしたくないという気持ちがもちろんある。よほどのことでない限り、雨だから風だからと言っていたのでは、ほどなく怠惰に流されることは目に見えているからだ。
ところが、境川に近づきその流れを見るや、あっ "迂闊" だった、川の流れが降雨で濁ると、鯉たちは水底に沈んで避難するのだった、と気づいたのである。
明日以降はまた例年の寒さに戻ると聞いていた。そこで、年末の作業の一端でも今日済ましておいた方が良さそうかと思った。
といってももともと多くのことを想定しているわけではなかった。襖や障子の張替えも積極的には考えていなかったが、ただベランダに面した窓の障子だけは別であった。猫たちがあまりに無残に破いていたし、その結果就寝時にも隙間風が吹きこむようでもあったからだ。
そこで、そこの障子だけを、猫の爪も歯が立たない丈夫な障子紙で張り替えることにした。昨今では、プラスチックなどの繊維を混ぜこんだ障子紙も出ているようであった。
ウォーキングの帰路、ホームセンターに寄って物色してみると、お誂え向きの障子紙が見つかった。手に取って眺めていると、年配男性の店員が寄ってきて熱っぽくそれを勧めるのだった。
「それなら丈夫ですよ。ワンちゃんの爪でも破れませんからね。えーっと、そこら辺にサンプルがあるはずです。」
と言って、厚紙の枠の中にその障子紙を貼ったサンプルを手にし、その真ん中あたりを自分の人差し指で勢い良く突付いて見せた。なるほど、障子紙の方は、まるでトランポリンのような弾力で指を跳ね返していた。
「猫の爪でも大丈夫そうだね」
と、自分はそう言ってその障子紙の筒二本と接着用テープを携えてレジに向かったのだった。
人の名前などの "度忘れ" は、もはやありふれた現象となってしまった。
今朝も、夢で見た昔の職場風景から、突如とある同僚の名前を思い出そうとしたが、どうにも思い出せない。顔つきや風貌はしっかりと浮かんでくるが、名前が出てこないのである。最近はこうしたことがめずらしくなくなった。
さしたる緊急性があるわけでもないので、そのままにしておいても一向差し支えない。だが、最近は、極力思い出し切ることにしている。と言っても、集中したところで叶うものでもないため、半分放置しつつ、それでいて諦めずにトライしてみる。
"医療危機" が叫ばれる昨今である。やはり先ずは "医療行政" のあり方が大幅に見直されなくてはならないのだろう。もちろん、<医者は常識が無い......>などという感想レベルで事が済むはずもない。
この医療の領域に数々の問題が山積しているのは周知の事実であるが、今回ここで関心を向けたい対象は、 "心の病" とでも言えるジャンルの問題である。かねてより "うつ病" や "うつ的症状" などには少なからず関心を寄せてきた。
どうしてなのかと振り返ると、元来、 "脳や心の働き" に興味が尽きないのに加えて、 "心の病" というものは概して時代環境と密着して発症しているように感じ取ってきたからなのかもしれない。
見回してみれば、これだけ様々な "危機" が出揃ったかのような時代環境にあって、そこに組み込まれた人間が "健やかな心" を維持している方が不自然だとさえ思えてならない。 "うつ病" という深刻な状態に陥ることはないにしても、 "うつ的症状" への傾斜に足を取られそうになっている人々はごまんといるのではなかろうか。
そして、この "心の病" やその傾向を抱えるだけでも苦痛であるだろうに、多分、こうして心を病むことは、その範疇に留まることなく、身体の他の部分の疾病を誘発させることにつながっているのではなかろうかと推測せざるを得ない。 "心身症" などがそうであるが、 "ストレス" を起爆剤とする疾病もあり、その中で最も忌避したい疾病となれば、言うまでもなく "癌" ではないかと思われる。
今夜は "癌で亡くなった知人" の通夜に行くつもりだ。
彼のことを考えると、やはり沈鬱で寂しい気分とならざるを得ない。彼はきっと、苦しくともまだまだ生き続けていたかったに違いないと思えてくる。
少なくとも、この暮れを自宅に戻って年を越したかったに違いなかろう。奥さんの話では、退院後の自宅治療の段取りについてしっかり確認しておいてくれよ、と言っていたという......。その無念さを思うと哀しい。
"ユニセフ" の活動には素直に協力できる。これまでにも、非定期ではあるが募金には個人、法人ともに参加させてもらってきた。が、能書きが言えるほどの水準ではない。
今日、いつもの利用している最寄のショップへ行くと、その出入口付近で制服姿の子どもたちが "ユニセフ" 募金を呼びかけていた。制服というのは、ボーイスカウト風の格好なのだった。中年の主婦が、財布を覗き込みながら募金に応じようとしている姿も目にした。うん、帰り際に協力させてもらおう、と思い、ショップに入り買い物をする。
買い物といっても、家内に頼まれた、例の "お預かり中" の "子猫" 向けの餌の缶詰に、外猫たちが好物の削り節カツオなどしか念頭になく、言ってみれば大の男が自転車を走らせて馳せ参じるほどのこともなかった。まあ、自転車でもこいで、少しでも身体を使おうというどっちにしても大したことのないそんな動機が買い物へと向かわせたと言ったところか。
いよいよ寒さが本格化してきた。と言っても自身はさほど気にしないでいる。今朝も、昨夜用意しておいた鯉たちへの餌を携えて、寒空の下、ウォーキングに出かけた。川の鯉たちも、またカルガモたちも一向にこの寒さを恨めしくは思っていないようである。
冷え込みはじめたこの天候をさぞかし恨めしく思っているに違いないのは、外猫たちである。早くも先週には片方の猫、クロが風邪をひいた。そして、今週に入って、もう片方の猫も同じ症状となり元気を失くした。
今日は降雨の予報もあり、空気が湿気った感じで、気温もさほど低くなさそうだ。しかし、風が吹いたせいか、歩道には銀杏やポプラの枯葉がどっさりと舞い落ちている。
歩道に面したそれぞれの事務所では、そうした落ち葉の清掃をする者たちが目立つ。と言っても、それなりの間口を構え、複数の従業員たちを抱えたそこそこの規模の会社や事務所ということになろうか。比較的大きな不動産会社、クルマのレンタル会社、クルマの新車ディーラー、タイヤの整備工場などなどである。個人自営業の店舗はそんな余裕すらあったものではなさそうだ。
顧客の来店時にスリップでもさせたのでは責任問題になりかねない、という理由も予想されるものの、どうも雰囲気的に言えば、 "ヒマ" だからという点が有力な根拠だとも見える。
"自然科学" に対する科学のジャンル分けとして、 "人文科学" とか "社会科学" とかというジャンルの言葉が使われることは広く知られている。
もちろん、同じ "科学" という言葉が使われても、 "自然科学" と "人文科学" や "社会科学" とが同じものだとは見なされていない。その方法論が、自ずからその対象の違いによって異なってくるからである。
"自然科学" は、その対象を "実験" のための環境に閉じ込めて "再現" させたり、 "観察" したりすることが可能である。それに対して、 "社会科学" などは、現実の社会現象を対象とする以上、先ず "実験" とかが不可能であろう。 "実験" のための厳密な "条件設定" などに馴染まないからである。また仮に "条件設定" が可能になったとしても、生身の人々が生きる社会の場を "実験" の材料にするわけには行かない。
この世界的金融危機・経済危機の中で、各国が景気回復、景気刺激に向けてそれぞれの対策を打ち始めている。そうした対策の打ち方の中に、それぞれの国の政治経済的な洞察力、あるいはその "理念" が垣間見える。
米国は主要当事国ということで、破綻寸前の私企業への "公的資金注入" 如何という課題で汲々としている。 "市場原理主義" を標榜してきた国の企業群が、ここに来て "公的資金注入" による "公的管理" や "国営化" まがいの実体へと変貌するというのは、一体何ということだろうか。
またフランスは、早々と "消費税" の期間限定引き下げ策を実施したようだ。17.5%を15.0%に引き下げたとかで、果たしてそれによる消費刺激がどれほどのものかという効果のほどは疑問視されてもいるようだ。
しかし、どこへ行ってしまったのかわからない "定額給付金" 策よりは、はるかにオーソドックスな手法と言えそうだ。おまけに、口だけの "スピード感" ではなく、さっさと実施する姿勢はスマートだとさえ言えよう。
独居老人などが、自宅で "ドア・チェーン" を掛けたまま動けなくなっていた場合、ちょっと困ったことになるはずであろう。外部から助けに来た者が、たとえ合鍵を持っていたとしても、掛けられた "ドア・チェーン" のために中に入れないことになるからだ。
かと言って、この物騒な時代に、独居老人に "ドア・チェーン" は外しておくようにと言うのも現実的ではない。
そこで、 "ドア・チェーン" に "鍵(南京錠)" をセットして、いざという場合には助けに来た者が扉の施錠を外した後、開いた扉の隙間から手を入れて、この "ドア・チェーン" の "鍵(南京錠)" を "合鍵" で外す、という仕組みがあれば大いに助かるはずである。
どんなものでも修理に出したモノが直されて返ってくるのはうれしいものだ。しかも、なんらかの理由で一度は諦めかけたモノであればなおさらのことである。
先日来、ノートPCの画面が突然真っ暗闇(正確には、眼を凝らせば微かに画面表示がされているのがわかる程度)になってしまい、惜しがっていた。メーカーのサポートセンターに一度は診てもらったが、大掛かりなモジュール交換が必要とのことで "バカ高い修理費" が見積もられて来た。もちろんそれはキャンセルすることになり、それこそ諦めざるを得ないと思っていたのだった。
ところが、情報収集をねばってみたところ、この症状では、液晶の背後にあって画面表示を助ける "バックライト" という部品を交換すれば直る可能性のあることがわかったりしたのだった。そして、その部品交換に基づく修理を専門とする、そんな業者さんにノートPCを預けてみることにしたのであった。
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