2008年8月 アーカイブ

 今朝は、いつものウォーキングを2ラウンドしたことになる。
 晴れて、昨日までの怪しい雲行きもなさそうだったので、事務所まで往復してみることにしたのだ。ちょうど事務所にモノを取りに行かなければならない用もあったので、そうしたのだった。
 事務所までの距離は徒歩で一時間、いつものウォーキング・コースとほぼ同等である。それで往復となるから、結局、ウォーキングを2ラウンドしたのと同じこととなるわけだ。
 今日の天候は、かなり強い陽射しに戻っていたため、思いのほか汗だくとなり消耗したようだ。しかし、久々の明るい陽射しは風景に活気を与えていた。
 まだまだ存在感のある夏雲を浮かべる空であったが、それらの雲を通して覗く空は真っ青であり、そのコントラストには目を引くものがあった。
 あまり見慣れない道を歩いてみるというのは、大したことではないにせよ幾分かの新鮮さが伴うものである。こんなところに公園があったかとか、この道はこんなところに通じていたのかと気づかされるというようなことである。
 陽射しの強さがなければ、もっとのんびりと気分転換ができたはずだが、何分にもまだまだ暑く、汗だくとなり、何となく急く気分もないではなかった。
 文字通りの涼しい秋となったならば、こんなふうに近辺の見慣れない光景を見ながらの散歩、ウォーキングというのも悪くないかと思えた。もちろん、ちょいと準備をして自然を残しているスポットに出向くのが良いに決まっているが...... (2008.08.31)



















 用があって午後、事務所に出てきたが、どうもまたまた空模様が怪しい。そこそこで切り上げて帰宅した方が良さそうかと思っている。
 気象情報では、今日、明日は "前線" の停滞で列島全体が不安定な天候になる模様だ。雷や降雨量にも警戒が必要なのかもしれない。
 まるで、時季はずれの "台風" 騒ぎとなっているようだ。これで、秋本番の台風シーズンとなったらどんな手痛いことになるのかと、これからのことも心配になってしまう。
 しかし、この豪雨に関するニュースなどの報道によれば、死者などの犠牲者や土砂崩れその他による家屋損壊などが発生しているようで、決して軽んじることはできない状況のようである。
 ホントにヘンな時代になったものだ。矛盾だらけの人の世のみならず、自然界までが "機嫌が悪い!" 振る舞いをぶつけるかのようだからだ。
 昨夜は、夜通し続く "閃光と雷鳴" で随分と睡眠が妨害されたが、その際、この昨今の "機嫌が悪い自然" に対して、まさに "人格的" な意思のようなものを感じたりしたものだった。
 もう昔の話となるが学生時代、『偉大な生涯の物語』(1965年、出演: イエス・キリスト...マックス・フォン・シドー, バブテスマのヨハネ...チャールトン・ヘストン, 百人隊長...ジョン・ウェイン, 監督: ジョージ・スティーブンス)という映画を鑑賞した。その映画のクライマックスは、もちろんイエス・キリストがゴルゴダの丘で処刑され、復活を遂げるという場面である。
 その時、天が裂けんばかりに雷鳴が轟き、その場に佇むローマ軍の "百人隊長/ジョン・ウェイン" が複雑な表情で天を見上げるシーンがあったかと覚えている。
 明らかに、彼はその雷の "閃光と雷鳴" に "神の存在とその意思" とを感じ取っていたかのようであった。その雷の激しさが、彼に、イエスはきっと "神の子" であるに違いない、という確信と、必ず奇跡の復活を遂げるであろうという強い予感とを抱かせた、というそんな演出になっていたようなのである。
 ひょっとしたら自分はこの世に生まれていなかったかもしれない......。そんなことを慄然として感じさせられたものだった。
 1945(昭和20)年8月6・9日に、広島・長崎に原子爆弾が投下された事実は誰もが知るところだ。ところが、<原爆が投下される直前の7月下旬からの日本本土での予行演習のため、プルトニウム原爆と形も大きさもそっくりに作り、大量の爆薬を詰めた巨大爆弾>、<「模擬原爆パンプキン」>が投下されていたことを知る人は少ないのではなかろうか。(引用は、「NHKオンライン」より)
 自分も、NHK番組『その時歴史が動いた 第333回 模擬原爆パンプキン ~秘められた原爆投下訓練~』(8月27日 (水) 放送)を観るまでは知らなかった。
 投下場所は各地に点在しているようだが、その一つに<大阪市東住吉区田辺>という実に馴染み深い地名があったことを知ったのである。
 何と、この<大阪市東住吉区田辺>とは、自分の生家のあった "鷹合町" から1キロも離れていない隣の町であり、現に、叔母の家があった場所なのである。幼い頃にはよく遊びに連れて行ってもらったことがありありありと記憶に残っている。
 番組では、<大阪市のパンプキンが投下された場所の近くの路地に、犠牲者の遺族が私費で「模擬原子爆弾投下跡」の碑を建立。毎年7月26日、地域住民が集い追悼式が行われている>として、その<追悼式>の様子が伝えられていた。<模擬爆弾>ではあっても、通常爆薬が大量に詰め込まれていたために、少なからぬ<犠牲者>が出ていたとのことだった。

 今日は久々にすがすがしい日和となっている。こうした "秋日和" がこれから続いてくれるのであればうれしいと思うことしきり。

 いつも思うことである。現代環境で唯一、頷ける点は、 "便利で快適" なIT機器なりその環境を破格な低廉さで活用できること、これ以外になかろう。
 まあ、これとて、無条件な贈り物として存在しているわけではなさそうであり、さまざまな弊害も随伴しているわけだから、手放しで賛美するわけにもいかないのだが。
 が、まあそこまで目を光らせると、褒めるところがなくなってしまい話にならないので、一時、目をつぶることにすべきか。

  "ウェブ 2.0" 環境のひとつの特徴は、ネット技術環境の飛躍的向上によって、通信速度やサーバー側のリソースについてはほとんど無視し得るという点であろう。ここから、ネットに繋がるユーザー・サイドでは、 "こちら側" (ローカルPC側)の負荷を最小限にして、 "向こう側" (サーバー側)に大きく依存することが可能となった。
 個々のアプリケーション・ソフトでさえ、自前のPCで動かさずとも、サーバー側が肩代わりしてくれるようなサービスも増えている。ビデオ・オン・デマンドのサービスもそうだろうし、CGI駆動のブログにしても、まさにその申し子だと言えそうだ。
 この種の流れで最近目につくサービスの一つに、従来はユーザー自身が "こちら側" (ローカルPC側)で保管していた固有のファイル類を、ネットを通じた "向こう側" のサーバーのストレージ(ハードディスクなど)のスペースに預ける、そして必要な時に手元にダウンロードして使う、というようなサービスまで登場しているようだ。都会の空きスペースに目立つようになってきた "レンタル倉庫" さながらである。
 ただ、これなぞは、どこまでセキュリティが見込めるのかが定かではないこともあり、プライベートの大事なファイル類をどこかのサーバーに預けてしまうという点で一抹の不安が伴いそうだ。

 最近は、 "迷惑メール" はサーバー側で選別し、弾いてもらうサービスを受けているため、不快なメール類を目にすることが少なくなってはいる。そうしたメールは、先ず開かないため、定かには酷いであろう中身のほどは不明である。
 ただ、その酷さは、付けられた表題を目にするだけでも容易に想像がつくというものだ。いろいろなジャンルにまたがっているが、要するに "いかがわしい" という点だけは共通している。とにかく、興味や欲望を煽って、 "騙そう" というつもり以外ではなさそうだ。それも、常に "もっともらしさ" を常套手段としているから、中には "騙される" 者も現れるのであろう。
 どんな "手口" を弄するのかに興味を感じないわけでもない。と言っても、もちろんメール開封などという危険なことは絶対しない。そこで、警戒しながらその種のサイト、例えば、 "SEO" 関連で、 "一気にアクセス数増大!のノウハウ伝授" なんぞという見るからに怪しげなサイト、あるいは、株取引関連で、 "暴騰寸前の株銘柄を掴む!方法提供" なんぞというサイトを興味半分に覗いてみたりする。
 そうしたサイトでは、とにかく、アウダコウダと長ったらしい口上を並べ立てて、どこまで行っても提供価格の表示などが探せなかったりする。それが一つの特徴だったりするのかもしれない。そして、最近では、 "信用度" を膨らまそうとしてなのであろう、どこから持ってくるのか、提供側の若い男の顔写真まで掲載したりしている。見ようによっては、カリスマ気取りの表情と見間違えたりしないでもないし、あるいはいかにもマヌケっぽくも見えたりする。

 また天気の話から始まるが、今日の天気は、涼しいとか薄ら寒いとかというよりも、 "薄ら寂しい" といった雰囲気であろうか。景気状況のことである。
 日経平均は200円以上の反発を見せたが、最近のこうした反発は実に "虚しい" 印象を与えずにはおかない。<前週末の米株式相場が大幅上昇したほか、原油先物相場の下落、円安・ドル高の進行など、外部環境の改善を好感>( NIKKEI NET 2008.08.25 )とあるものの、そのいずれもが額面通りには受け入れ難いからだ。米国相場にしても、全く方向感を失い一喜一憂の動作に陥っている。原油先物相場もまったく同様であろう。為替相場にしても、さまざまな観測が飛び交い、まさに刹那的な上下動を繰り返している。
 だから、そんな中での<外部環境の改善>云々という表現がほとんど重みを持たず、それゆえに、<反発>という結果にしてもほんの束の間のパフォーマンスにしか見えないわけだ。

 サブプライム問題でとんでもない金融不安を持ち込んだ米国経済によって、今後の世界経済は低迷が長期化すると推定されている。
 そんな中で、新興国の発展状況や、北京オリンピックの経済効果などだけが今年の経済状況の牽引役になるだろうと期待されてきた。しかし、聞くところによれば、オリンピック効果も今ひとつ燻った水準だったとかであるし、中国の経済状況が "おかしく" なり始めている事実は、中国政府自体が認めはじめていそうな気配だ。とにかく中国経済は、バブルと "インフレ" 傾向とが強まっているようで、その傾向は原材料の高騰傾向に加えて、発展地域の人件費高騰などによってコントロールしにくい様相を帯び始めているとも言われている。
 こうした動きは、中国のみならず周辺のベトナムにも波及しているようであり、新興国経済圏を不安定にしているようだ。また、新興国インドにしても、米国経済に大きく依存してきた結果、ここに来てマイナス・リアクションを受けることになっているらしい。

 いずれにしても、重荷を背負った世界経済に対して、憂える者はいても楽観視する者は少ないのが現状であろう。そして、国内経済にしてもいよいよ "公式的" な停滞経済、手痛い経済に突入しているわけである。
 そんな山ほどの懸念が立ちはだかっているだけに、オリンピックというような祭り、宴が手仕舞われ、そして今日のような白けた天候を迎えると、どうしたって "薄ら寂しい" といった愚痴っぽい表現になってしまうわけだ...... (2008.08.25)

 薄ら涼しさに加えての雨。
 朝のウォーキングでは、境川がやや水量を増し、ちょっとした轟音を立てて流れるのを見る。水鳥たちの姿もなく味気ない光景であった。
 こんな日は別に無理をして歩くこともなさそうだが、特に体調が悪いわけでもないので防水のトレッキングシューズを履き、傘を差して歩く。
 天気予報によれば、今日、神奈川県の各地域は大雨注意報とかが出されており、降雨は本格的なもののようである。また、8月の最終週はこんな日が続くとのことであり、猛暑でなければこんなぐずついた天気なのかと、やや気分が滅入ったりする。

 ここニ、三日、天候のことを書いて "お茶を濁して(?)" いそうだ。
 猛暑に対しては、 "構える" ような姿勢が誘発されるのに、こうした涼しさが唐突に訪れると、なぜだか "休め" モードになってしまうものなのであろうか。
 何だか多少の疲労感を覚えたため、今日は午後、小一時間の午睡を決め込んでみた。
 畳の上にゴロリという格好では薄ら寒くて、昨日の話ではないが風邪でもひいては洒落にならないので、まともに布団に包まって横になる。思いのほか良く眠れたようで、そんな時に現れる心地よいだるさが身体中に染み渡る感触であった。

 どうも天候が "極端" なようだ。加減の効かないクーラーのようで、涼しいのはいいとしても、ここまで冷え込ませると、気が利かないということになる。こうした "極端" な対応しかできなくなってしまったのだろうか......。気のせいか、この辺に昨今の異常気象の片鱗を見る思いがする。
 今朝なぞは、夏用の薄い掛け布団では心もとない気にさせられた。元来、貧乏性の自分は、掛け布団はどちらかと言えば重くて存在感のあるものを好む。夏でも、暑ければどっちみちはいでしまうので、厚手の布団で良いとしてきた。が、ここしばらくの暑さは、さすがにそんなことも言ってられず、夏用の薄い掛け布団にしてきた。
 しかしどうもこの涼しさになってしまうと、再び、重くて存在感のあるものを引っ張り出さなければならなくなる。

 季節の変化というものは、 "いつの間にか" とか "じわじわと" というのが相場であったはずだ。知らず知らずのうちに朝晩涼しくなり、そして秋めいてきた、というように。ところが、昨今のそれは、 "いきなり" というデジタル型の変化に取って代わってしまったのであろうか。多分、このまま涼しい秋に移行するとは考えにくいが、それにしても、こんな天候の日々が突然やって来たりする現象は、しっかりと "カウント" した方がいいように思える。過去にもあった例を引き合いに出してばかりいても、気休めにはなろうけれど、進行している異常さが見失われるのではあるまいか......。といっても、気象観測関係者にあっては、地球レベルの気象全体の変動を掌握するのは荷が重過ぎるのであろうか。
 まあ、そんな天候に振り回されるわれわれは、せいぜい風邪なんぞをひかないように気をつけたいものだ...... (2008.08.23)

 今日の涼しさにはうれしい驚きが隠せない。事務所では、久々に窓を開け放って空気の入れ換えというか、内部を涼しい風にさらしている。吹き抜ける風が、部屋の隅々のよどみを吹き払ってくれるかのようで爽快だ。
 だが、昨夜の雷雨は強烈であった。爆撃を受けているような轟きが続いたものだったが、おかげで滅多に発生しない停電(「瞬停」瞬時停電)まで起こる始末であった。その激しさに、外猫たちは小屋の中でうずくまり、目を白黒させておびえていた。そんな時には餌を与えても、それどころでなさそうなおびえようであり、かわいそうにと思えた。

 とにかく、こうした涼しさは、ほっと一息入るような落ち着きを与えてくれる。
 そうかぁ、過ごしやすい気温になるとこんなにも気分が変わるものかと、感心したりしている。反面、こうして天候に振り回されているのは、昨晩雷に怯えていた猫たちと大して変わらないのかもしれないとヘンなことに気づかされたりもする。

 それはそうと、ついさきほどオリンピック・野球・準決勝戦で、 "星野ジャパン" は韓国に2対6で逆転負けを決したようだ。先制点を勝ち取り、リードしていただけに残念な結果である。
 昨晩のソフトボールでの日本金メダル優勝があっただけに、コントラストの強い "明暗" が分けられたような印象を受けた。可愛くて元気のあるソフトボール日本女性軍の勝利と、ナーバスな雰囲気が漂っていた(?)野球日本男性軍の残念賞......。まあ、これもグローバライゼーションの波に乗って、優秀選手たちがメジャー・リーグへ飛んでしまっている結果なのだろうか...... (2008.08.22)

 現代という環境が、人と人との "コラボレーション(協働)" を難しくさせているという点は、しばしば指摘される点かと思う。 "個性化・多様化傾向" のひとつの結果だと言えないこともなかろうし、社会を挙げた "競争の激化" の、その結果だと言うこともできるかもしれない。
 もちろん、 "個性化・多様化" や "競争関係" が、そのまま "コラボレーション(協働)" を困難にさせる原因だなぞとは言えないだろう。 "個々人間の意思疎通" 状況が十全に機能していれば、何の問題もなく "コラボレーション" も可能となるはずだ。
 とすれば、問題は "個々人間の意思疎通" 状況だということになりそうだが、この部分がまともに成立するためには、 "共通の価値観" とまでは言わないまでも、 "共通の情報" とか "共通の状況認識" というような、 "共通の土俵" というものが不可欠なのかもしれない。

 現在のような "超・個人化" された生活環境となる以前の社会にあっては、人々はみな大なり小なり共通した、変わりばえのない生活環境で過ごし、そのことが、何がしかの "共通の土俵" を形成することになり、異なった感覚や見解がぶつかり合ったとしても、 "共通の土俵" の側面がそれなりの "折り合い" めいたものを提供してくれたのかもしれない。異なった見解を持つ相手に対する想像力が、その "共通の土俵" によって支えられていたと言えるのかもしれない。

 しかし、現時点の社会環境は、生活の場におけるそうした "共通の土俵" 的意味を持つものをことごとく壊してしまったと言えそうだ。地域コミュニティなぞと小難しいことは言わないまでも、個人志向の生活様式がますます強く追求され、日がな一日、他者と接する機会もなく過ぎることとてめずらしくなくなったと見えなくもない。
 そうした孤立個人の行動を支える生活手段(個人で何でも購入できるコンビニ、個人使用のツール群......)が蔓延したこと、それが大きな理由なのであろう。
 が、今ひとつ注目すべきは、 "情報入手" 自体が、個人的に対処可能となっている点を見過ごすべきではないように思える。
 特に、この点は子どもたちの場合には、従来であれば極端に言えば、家庭であれ、学校であれ、親や年長者、教師などとの接触を通して果たす以外に選択肢はなかったかもしれない。そして、逆に言えばこの部分が、良かれ悪しかれ "情報" に人格的な厚みを付随させていたであろうし、他者との人間関係を必要視させていたようにも思える。
 しかし、まさに "情報化" の現代は、商品市場社会、マス・メディアからインターネットに至るまで、その気さえあれば(いや、その気がなくとも)小さな子どもであっても個人的に情報入手を果たすことは容易いこととなっているはずである。

 駅の電光掲示板の上に逃げ込んで不安そうにしている "サル" の写真が何とも哀れさを誘った。場違いに決まっていようが、そんなことをさえ思うはずもなく、ただ見知らぬモノばかり、警戒すべき人間たちの姿だけに取り囲まれ、さぞかし恐怖感に苛まれたものであろう。

<朝の渋谷駅にサル、約2時間後に新宿方面へ逃走
 20日午前9時45分ごろ、東京・渋谷の東急東横線渋谷駅の構内にサルがいるのを、巡回中の警備員が発見した。
 警視庁渋谷署の署員ら数十人が網などを使って捕獲に当たったが、サルは正午ごろ、網をかいくぐって新宿方向に逃げた。
 東急電鉄などによると、サルは体長60センチ程度。ニホンザルとみられ、首輪などは確認できないという。
 警備員らに追い立てられ、改札前の天井からつり下がる電光掲示板に上ったサルの周辺には、一時人だかりができ、携帯電話のカメラで"大捕物"の様子を撮影していた若い女性らからは「かわいい」との歓声も。......>(2008年8月20日12時21分  読売新聞)

  "身体の健康" のために毎日ウォーキングを欠かさないようにしている。この夏の日照りの中をもたじろぐことなく(?)続けている。
 多分、その甲斐はあるかに思える。期待値を高め過ぎれば徒労感も湧きかねない。が、もしやっていなかったらどんなに不健康となっていたことだろう、と想定することにすれば、だから先ず先ず元気なのだといささか我田引水ではあるが納得感に到達できる。
 それに、 "身体の健康" のみならず、 "気分の健康" にもほどほど役立っていそうである。ただ、贅沢を言えば、決まったコースを踏むことに "マンネリ感" が付き纏わないでもない。
 確かに、それが高じるとあの "いやぁーな不快感(結晶化したマンネリ感)" が脳裏をかすめ、思い切り気分を萎縮させることにもなりかねない。自分は最近、この "脳裏をかすめるもの" を結構、警戒しはじめているのである。

 というのも、こいつは、自分の加齢に伴って現れがちな現象というだけでなく、顕著な "コントロール志向" の果てにこの時代環境が生み出す由々しき弊害のひとつだと感じはじめているからなのかもしれない。
 しばしば、時代の現状を特徴づけようとして "閉塞した時代" ということばが使われる。一理あるはずだと思われる。しかし、その "閉塞" 感が由って来るところは何かといえば、 "万事、お定まり" という推移がいたるところに蔓延しているからなのではなかろうか。要するに、絵に描いたような "マンネリ感=マンネリ現象" が人々の脳内を埋めるからなのではないか......と。

 <相次ぐ無差別殺人事件"誰でもよかった"という事件の背景には何が? 若者を追い込むものは? 格差・雇用・教育・自己責任論...いま私たちは何をすべきか。......>という問いは誰しもが関心を寄せるテーマであろう。
 昨晩、就寝前の入浴時に、風呂場に持ち込んだラジオから、そんな番組(再放送? NHKラジオ第1 日曜討論「相次ぐ通り魔事件」午後11:15~翌日午前0:15)が流れていた。もう休もうとして、頭の方もクールダウンさせようとしている場合だから、TPOとしてはあまり適切ではなかった。なのに、やはり気になる話題であったため聴き入ってしまい、とうとう寝床に入ってからも聴き続けてしまった。

 お定まりの口調からやや興味のある切り口からの見解までいろいろとあった。が、概して、パネリストたち自身も視点探しに試行錯誤しているような様子であったか。
 そんな中で、記憶に残ったの点の一つは、現在の多くの若い世代が、 "非・社会的" なのではないか、とするものであった。 "反・社会的" というのではなく、 "非・社会的" だとした点に注意が向けられたのである。ラジオであるため、誰の発言なのかが今ひとつよくわからなかった。
 秋葉原事件をはじめとする一連の"誰でもよかった"殺人事件は、言うまでもなく凶悪犯罪であり、 "反・社会的" 行為である。"誰でもよかった"と言うのだから、それほどに現状の環境である "社会" に憎悪が向けられていると解釈される。憎悪の対象となっている "社会" の何が気に入らないのかが具体的に指摘されても不思議ではない。
 がしかし、それが極めて曖昧模糊となってなっていて、まるで後から取って付けたようなかたちにも見えないわけではないため、 "反・社会的" というよりも "非・社会的" と言うのが妥当だと述べられていたのである。
 また、この、現在の若い世代における "非・社会的" 傾向については、当事者のみならず秋葉原事件に関心を寄せた若い世代のブロガーたちにも共通しているとの指摘も興味を惹いた。つまり、同事件に対する見解を述べるに当たっての、 "社会事象" への言及については驚くほどに少なかったというのである。

 こんな涼しい天候になればいいと願っていたのだが、いざそんな天候となってみると、えっホントに? というようなやや "据わりの悪い気分" となっている。
 小雨が降って、日頃汗まみれになっている肌を冷たく逆撫でするのもその原因かもしれない。表の猫たちも意表をつかれたものか、心細そうにしながら二匹揃って小屋に納まっている。

 心細い気分となっているのは、自分や猫たちよりも、 "アリとキリギリス" のキリギリスのように遊びほうけて宿題を手付かずのまま放置し続けてきた怠け者の子どもたちなのかもしれない。まだまだ夏休みは二週間弱を残してはいるものの、過ぎ行く夏を気づかせるような今日のような天候は、さぞかし彼らの後ろめたさをそれとなく刺激しているに違いなかろう。
 ふと、自分の幼かった頃の夏休みはどうであったかと思いを巡らせてみたりした。まだまだ右も左もわからなかった頃には、確かに、母親から "指導を受ける" (柔道の試合のようだが)こともあったかに覚えている。
 とりわけ、怠けて何日分も滞らせてしまった "絵日記" を埋めるのが厄介だったような気がする。暑さだけが共通していてほぼ変わり映えするはずのない日々を思い起こすことなぞ到底不可能に近いことだったからだ。
 そんな自分が、この歳になって誰に強要されるわけでもないのにこうした日誌を持続させているのが、何となくおかしい気がした。

 あまりの暑さを避け、事務所に出ることにした。
 盆休みのせいか道路の交通量は極めて少ない。盆と正月と言うが、正月と同様に戸外は閑散とした雰囲気となっている。
 故郷のある人は帰省しているのだろうと想像した。わかる気がする。同じ暑さだとしても、都会の猛暑ほど味気なくかつ不快なものはない。逃げ出したい思いがするのは誰しも同じなのかもしれない。子ども時代の記憶に残った、今よりはましなかたちで残されていた自然の思い出に惹かれて帰省するというのは十分にわかるような気がする。
 とは言っても、ガソリン代が高止まりしているので、クルマ利用の帰省は差し控えられているのであろう。しかし、公共交通を利用すればいいはずなのだと思う。
 そして、この際、遠距離移動にマイカーを利用する "惰性" から脱却してしまえばいいのかもしれない。時代は、とっくにこうした "惰性" を許す状況ではなくなっているのだろう。公共環境に対して "無責任" 過ぎる市場主義経済に踊らされ、煽られて無意識に行っているのを順次自覚的に受けとめて行くに越したことはなさそうだ。
 幸い、今の若い世代には "クルマ離れ" の傾向があるとかだが、それは悪くない傾向のように思える。
 先日の話題ではないが、今後、「鬱の時代」が50年は続くのだとしたら、何はともあれ "バブル時代" や「躁の時代」の悪しき名残りからは速やかに脱却するのが順当なのかもしれない。いや、いち早くそうしたことに気づき、それを実践する者が時代変化が生み出す軋轢だらけのトンネルを、被害少なく通過して行けるのかもしれない...... (2008.08.16)

 いつも思う(警戒する)ことの一つに、どんな情報をどう正確に入手するのか、という点がある。
 もちろん、事実に反する誤った情報を吟味することは重要である。だが、大体、胡散臭い情報というのは、それに接した時に直感的に違和感を抱いたりするものだ。
 <開会式で花火がCGだったり少女が口パクだったりしたことに、12年開催地ロンドンがある英国メディアは驚きと批判を込めて大きく報じた。>( asahi.com 2008/08/15 )とあるが、この "開会式" は何かヘンだぞ? とは観ていて感じたものであった。( c.f.当日誌の「真夏の夜の夢(?)のようなオリンピック開会式 ......」 [2008.08.09] )
  "足跡花火" が<CG>だとまで洞察するには至らなかったが、これじゃ、日本の伝統芸を担う花火師プロフェッショナルも顔負けだなぁ、と妙に違和感を覚えたものだったし、 "口パク少女" の場合は、口の動きが空々しいことを感じたとともに、一体マイクはどこに付けているんだ? という疑問も抱いた。よくもそこまで "偽装" をやってくれたものだと、こちらが "口パク" の開いた口がふさがらない。

 しかし、こういった発信情報自体の "偽装" も大いに問題だが、 "どんな情報" が受け手側に届けられるのか、といういわば発信される "情報の設定、選択、絞込み" という局面にも慎重に注意を向けるべきなのだろうと常々感じている。
 というのも、いくらインターネットのブログが普及したからといって、一般人はそう簡単にニュースソースの現場に近づけなかったりするのが普通だからだ。つまり、制限されたマス・メディア関係者にしか流されない情報というものがあるのが歴然とした現実だからである。いわゆる "報道規制" とその延長のことである。
 北京オリンピック(の開会式)にしたところが、メディアの出入りを制限したり、ネットでの送信などに不透明な介入(?)があるとかないとかと伝えられてもいる。

 自分自身の内にある "昭和30年代" へのノスタルジーの中身は一体何かと問うことが今でもある。自分だけではなく、映画『ALWAYS 三丁目の夕日』への人気に注目するならば、この時代には、人を魅了する何かがあったはずだと思わざるを得ない。
 確かに、自分の場合、この時代はただひたすら "前途" だけが広がっていた子ども時代であったのだから、生活の実質がどうであれ、身体中に "夢や希望" が満たされていた、だからそんな時代は懐かしい! ということもできる。
 あるいはまた、こう言うことも可能だろうか。モノの環境は現在ほど豊かではなかったにせよ、人々の人情をはじめとする人間関係がほのぼのとしてあたたか味があった。それらが生活環境に潤いをもたらしていた、と。まさに、『ALWAYS 三丁目の夕日』が観客を動員し、魅了するのはその点であるのかもしれない。

 昨日も引き合いに出した五木寛之氏は、この "昭和30年代" を端的に<「躁の時代」>( 五木寛之・香山リカ『鬱の力』幻冬舍新書 2008.06.15 )だったと解釈されている。 "昭和30年代" へのノスタルジーには、<もう一度、高度成長へ向けて進んでいけるのでは>という願望が隠れているというのだ。なるほど、 "昭和30年代" とは、戦後の経済が急速に "右肩上がり" に成長していく過程以外ではなかった。
 いや、五木氏は、<「躁の時代」>はその範囲に限らず、戦後からつい先頃まで続いていたとのだと言う。
<戦後から半世紀ほども続いた「躁の時代」から、十年の空白期をはさんで、いまは「鬱の時代」への転換期だと思います。「躁の時代」を築きあげるのに五十年かかったのだから、「鬱の時代」も五十年は続くだろう>と。

  "言葉の一人歩き" を嘆くべきなのか、 "言葉仕掛け" とでも言うべきテクニックに驚嘆すべきなのか、それはわからない。
 ただ、言葉というものがあたかもブラックボックス化されたプログラム・モジュールがシステム内で自動的に作動するように、人の(購買)行動やその選択に大きく作用したり、方向づけたりしてしまうということが、確かにありそうである。
 これを専門に行うのがいわゆる "コピー" (c.f.キャッチコピー、コピーライター)というジャンルの仕事なのであろう。

 ある新書を読んでいたら、ちょっと目を惹く次のようなくだりがあった。

<最近、コピーの力はすごいと思ったのは、安達千夏さんの『モルヒネ』という小説の宣伝文句です。この本は最初に出たとき、全然受けなかったらしい。ところが、御茶の水のある書店でだけ妙に売れているので、出版社の人が覗きに行ったら、「うずくまって泣きました」という書店員の書いたPOPが立っていた。「うずくまって泣きました」というのは、とてもいい。「号泣しました」じゃなくて、「うずくまって」というと、猫背になって「うーっ」とやっている感じがする。「これだ」というので、全国にそのPOPを配って歩いたら、すごく売れたそうです。
 「うずくまって泣きました」という言葉がイメージを喚起する力もすごいし、いまの若い人も、「うずくまって」という言葉に触発される感覚を持っている。一行のコピーが小説の死命を制するということが起こるとしたら、言葉にはまだ力があるんですね>( 五木寛之・香山リカ『鬱の力』幻冬舍新書 2008.06.15 )

 顧客が一体何を知りたがっているのかへの "感度" が鈍くては、商売がうまくゆくわけがなかろう。しかし、この店の経営者は一体何を考えているのだろう、一体何を感じ取っているのだろうと訝しく思う店は少なくない。

 このところ、原材料物資の高騰から、あらゆる商品の "値上げ" が続いている。店側もしたくてしている "値上げ" ではないため、かなり辛いことだろうとは推測する。
 そんな状況での留意点は、少なくとも、いかにして "顧客側との一体感" を壊さないかということではないだろうか。販売店側と顧客側との立場関係は、確かに "相反する" ものとなりがちではあるが、そこは感情の動物としての人間同士である。事情をどう説明して、環境をどう共有するのかという手続き的な部分を割愛し、「しょうがないんですよ、このご時世では......」と開き直った対応をしまっては、まさに身も蓋もないということになろう。
 確かに、 "値上げ" の客観的根拠としては "しわ寄せ" 以外ではなく、 "しょうがない" ことは否定し難い。だが、それを口にしてしまっては、身も蓋もなかろう。また、商売人としての "個性" がなく、ただただ販売店 "一般" を誇張しているようなものだ。

  "ブレのない勝利" という印象を受けた。オリンピックは競泳男子100メートル平泳ぎ、北島康介58秒91世界新での2連覇達成のことだ。
 前日の予選終了時にも、決勝は「世界新のラインですね......」と淡々と述べていて、いかにも積み上げてきた練習の質と量に自信ありという雰囲気であったか。

 オリンピック開会式にもそんなことを感じさせる向きがなくもなかったが、このところ、何かにつけて "オーバー・パフォーマンス" の風潮に辟易とさせられてきた感があった。デコレーション・パッケージばかりがうるさく思えてならないということだ。
 あの "ママでも金" というフレーズにしても、どこか違和感が禁じえなかった。
 これは、スポーツ界の出来事に限らず、現時点でのあらゆる事柄にそんな空気が漂っているかに感じ続けてきた。激化する過剰競争環境と、それに向けて登りつめる "プレゼンテーション" 攻撃という成り行きのなせる業なのかもしれない。有体に言えば、 "ハッタリ" が当たり前となったかのような世の風潮が疎ましく思えてならないわけだ。こうした風潮が、 "偽装~" と踵(きびす)を接していると感じられるのは自分だけであろうか。
  "抑制された表現" と、 "ブレのない実質" が、この暑苦しい環境での清涼剤であるに違いない...... (2008.08.11)

 今日のように陽がかげってくれるとありがたい。それでも気温は30度内外はあるようだ。が、ほっとすることは確かであり、この間暑いために敬遠し続けていたベランダの清掃を午前中に敢行することにもなった。
 無用なモノを片付けたり、植木鉢を整理したりしてすっきりとさせたのはよかったが、 "蝉喰い猫" にとっても、蝉が捕まえやすくなったようで、さっそく一匹を捕獲した。助ける暇もあったものではなく、例によってキッチンにある自分の餌皿に素早く持ち込んだ後、すっかり平らげてしまった。
 蝉が "不覚" をとるのにはワケがあるようだ。ベランダには半透明の樹脂でできた屋根があり、ベランダに迷い込んだ蝉は、その屋根に何度もぶつかっては床に転げ落ちたりするのだ。猫はその顛末を見ていて、ここぞと跳びかかって捕まえるようなのである。
 聞いた話では、野鳥たちのあるものは、大きなガラス窓などに突進してかわいそうなことになったりするとかである。都会の建築構造というものは、野生の動物、昆虫にとっては甚だ迷惑な代物のようである。
 それはともかく、この猛暑の小休止はどの程度続くのであろうか。
 蝉たちには気の毒であるが、涼しくすがすがしい秋の到来が待ち遠しいものである...... (2008.08.10)
 NHKの紅白歌合戦の模様でもなく、はたまた北朝鮮のマス・ゲームでもない物々しい人海戦術のイベントを見せられた。素晴らしいと言うべきなのか、どこかあざとさが見え見えで、やはり胡散臭さが拭い切れなかったと言うべきか......。
 とにかく、これはオリンピックの開会式なんだかんね、と親切に注釈されなければ、一瞬もニ瞬も、これは何? 真夏の夜の夢? 私は一体何を見てることになるの? と不安に襲われ、当惑させられてしまう、そんな重苦しさであった。
 それにしても、一糸乱れぬ巨大なマス・ゲーム、それと合体したハイエンドのIT技術、これらが国威発揚的に誇示されてしまうと、丸腰で無防備に見ている者はまるで取り付く島がなくなってしまうではないか。こんな引田天功の巨大スペクタクルマジックのようではなくて、スポーツ競技者個々人の汗と涙の個人技が引き立つような、そんな "地味で大人しい式典" でも良かったんじゃないの? とそう思えた。
 だって、いくらその訓練や練習方法が科学化されたり、IT化されたとしても、スポーツの大半は個々人が自身の肉体的・精神的限界と向き合うこと以外ではなく、それはそれは地味な営為ではないのか......と。
 皮肉っぽい感想を書いてしまったが、やはり、現在全人類が地球温暖化問題などの未曾有な危機的問題に直面していること、そして、中国とて国内外に深刻な矛盾と問題を抱えているという事実など、そんな状況が通奏低音となっているからなのである。やはりこれらとしっくりと馴染み、違和感のない色調が望ましいと思えたのであった。
 早く、各競技者たちが "等身大" のスケールで技を競い合う、オリンピックの内実自体を楽しみたいものである...... (2008.08.09)

 おふくろと二人だけで、盆前の墓参りに行って来た。
 暑いの何のといったらなかった。今日は全国的な晴れ、各地で最高気温となりそうだとの予報もあったその正午近くの頃であったので、まさにうだるような暑さであった。
 例年、盆の前に墓参りをすることになっている。
 昨晩、おふくろからの電話で、急遽、その予定を今日とした。実を言うと、暑さのせいか、墓参りのことは失念していたのだった。
 今日は、三回目の金曜日(夏休み)であり、さてさてどう過ごそうかと昨夜は考えていたところであった。気分転換のために、熱中症の危険を冒して江ノ島へのサイクリングでも敢行しようかと考えたりもしていた。
 が、そこへ墓参りの予定が舞い込んだので、恙無く、穏やかに最後の夏休みの予定が埋まってしまったというわけである。
 が、急なことなので、家人は調整不可ということとなり、結局、自分とおふくろとの二人で出向くこととなったのだった。
  "真昼の決闘" のように、頭上にギラギラと照りつける太陽を仰いで、墓の掃除やら、献花、お供えなどを、まるで滝のように汗をかきながら手際よくこなした。
 寺は、盆の墓参りとしてはやや早かったせいか、訪れていた者もほとんどいなく閑散とした空気に包まれ、まるで "貸切" といった雰囲気であった。

 寺を出た後、時刻は、丁度昼食時であったのでどこかでさっぱりとした "冷し中華そば" でも食べようかということになった。ところが、昼飯時だというのに、16号線がどういうわけかメチャクチャに混んでいたものである。せっかく静かな墓参りで気分が落ち着いたというのに、理不尽な渋滞ですっかり気分が乱されて残念であった。
 そう言えば、名古屋に住んでいた30年前の盆休みには、渋滞の激しい東名高速道路を、オンボロカローラで東京へと帰省したものだ。エンジン音が物凄く、クーラーも効かない中古車なのであった。まさに若さ故に可能であった暴挙だと思い起こした。
 しかし、現在は、どういうものかクルマとかドライブは好きだとは言えない。まして、渋滞する道路環境ほど不愉快なものはないと感じたりしている。

 まあ、今日は、暑い暑いと言って所在無く過ごしがちな夏休みに、墓参りという "大義名分" が与えられたということになろうか...... (2008.08.08)

 あくまでも "暦の上" でのことだと言うべきなのだろうが、今日は "立秋" だそうだ。初めて秋の気配が表われてくるころとされる点、この日から暑中見舞いではなく残暑見舞いを出すことになる点などの意味があるらしい。しかし、 "残暑" はまだまだこれからのはずである。
 ただ、思い過ごしなのだろうか、 "秋" に近づいたと聞けば、心なしか空気の乾き(?)
やら、若干の透明感を感じないわけでもない。その証しでもなかろうが、今朝は、出勤時のクルマから、薄ら青い西方の山並みが覗けた。ここしばらくはついぞ目にできなかった光景である。陽炎やら何やらで、まるで曇った眼鏡を通して見るかのような風景は、早く何とかなってもらいたいものである。
 ところで、自分の居住地域に限って言えば、今年は "蝉" の鳴き声が幾分静かなような気がしている。たまたまそんな循環の年なのであろうか。
 早くも、 "蝉喰い猫" である内猫は、例年通り、ベランダで捕まえた "蝉" をキッチンにある自分の餌皿に咥えて運び、バリバリと平らげていたそうである。かわいそうなことをするもんじゃないよ、と言い聞かせてみたが、猫の耳に念仏......

 話は変わる。
  "まあ、しょうがないんじゃないの" と "醒めた目" で見つめたニュースひとつ。

 宮崎駿監督が、アニメーション映画の脚本に当たる "絵コンテ" 制作に腐心しながら、多少苛立ちを伴いながら「面倒くさい、面倒くさい......」と呟いておられた。
 一瞬、 "らしくない" という印象も受けたのだが、次の瞬間、 "ああ、やはり監督の内的世界でのイメージは豊穣過ぎるほどに熟しているのか......" と感じたものだった。
 昨夜のTV番組(『プロフェッショナル 仕事の流儀 宮崎駿のすべて
~ 「ポニョ」密着300日 ~』 NHK総合 2008年8月5日[火] 22:00~23:28)のことである。

 番組の後半では、宮崎駿監督が全編の "絵コンテ" をほぼ完成させながら、エンディングのイメージに悶々として悩み続ける姿が追跡されていた。
 番組の解説によれば、ハッピーエンドに至るその終盤に、今ひとつ、自身が納得し切れる "エピソード" が欲しいと考えておられたようだ。それが "インスピレーション" か "天啓" に値するような重みを伴って訪れるのを、全身全霊で耐えて待ち構えておられるというような意味のことが述べられていた。
 もちろん、同監督のそれとは比較にならないわけだが、それを推測する程度には、自身にも似た経験がないではない。おそらく、真似事であれ "創作" 活動に携わった者であれば、 "そうした経緯" というものがあり得ることだけは類推できそうである。
 いや、それが "創作" 活動(創造)に身を投じる者にとっての "苦痛と喜びの合金" 以外ではない、と言えそうか、身の程知らずの思いではあるが......。

  "松本サリン事件" の被害者の一人、河野澄子さんがお亡くなりになったという。
 オウム真理教の犯行によって、サリンを原因とした脳障害で事件発生から14年余り意識不明の状態が続き、その結果死亡されたのだそうだ。
 改めて、 "オウム真理教" の愚劣さを痛感するとともに、河野さんご夫妻のご不幸を心から悼みたい。また、その無念さにも共感したい思いである。

 もちろん、表現を絶する非道さの塊としか言いようがない犯罪集団、 "オウム真理教" を非難すべきなのは当然である。まして、この国の社会にあっては、たとえ特異な事件であっても早々に "風化" させがちであるため、何度でも極悪犯罪は糾弾されるべきだと思われる。
 特に、この事件については、何か "もどかしさ" が消し切れないのだ。あれだけ残酷に多くの被害者たちを生み出し、世間を戦慄に陥れた事件であったにもかかわらず、今ひとつ事件の真相が掴み切れていないような感触だからでもある。少なくとも、よく言われる言葉、 "二度とこんな事が起こらないように......" に匹敵するほどに、事実や教訓は広く国民一般に共有され尽くされたのであろうか。
 残念ながら、どうも、事件直後におけるマス・メディア主導の馬鹿騒ぎだけが強く印象づけられたという気がしないでもない。(さらに言えば、事件前、当該宗教団体をマス・メディアや知識人たちが "持ち上げて" いた事実にしてももっと周知されて然るべきではなかったか......)

 われわれは無意識のうちに "答え" を求める "習性" が身についてしまっている。そして、できれば据わりの良い "正解" に辿り着くことを望み、 "ピンポーン" と鳴り響くものを待っているようだ。おまけに、仮に "ピンポーン" と聞かされたからといって、 "正解" に辿り着いたという確固たる保証があるわけでもなかろうに、それで妙に落ち着いてしまい、一件落着の気分となってしまう。
 まあ、気分がそうなるのは良いとしても、そこで "思考停止" にまで至る "習性" は、やはり一度は再検討すべきなのかもしれない。

 こうした "習性" を身につけてしまった社会的背景には、やはりこの国の歴史的文化風土が潜んでいたと言うべきなのであろうか。
 つまり、この世界には答えがある、 "答えがある世界" という暗黙の発想のことであり、具体的に言えば、 "西欧社会、国家" をすべての "答え(基準)" として追い求め、キャッチアップしてきた、日本のそんな近代史のことなのである。
 とりあえず、こうした歴史的経緯が、教育制度とその実施を媒介にして、現代のわれわれの思考過程に大きな影響を及ぼし続けてきたのだろうと思われる。要するに、思考というものには "答え" があるということ、あるいは、 "答え" に辿り着くことが思考なのだとする発想である。
 多分、こうした発想は、 "西欧社会、国家" を "答え" として邁進して来た近代以前にも、中国・インドの仏教文化などを "答え" として "キャッチアップ" し続けて来た前近代時代として存在したと思われる。
 そう考えると、日本の文化の暗黙のうちの大前提は、 "初めに答えありき" だったのかもしれない。まあ、それが言い過ぎだとしても、 "答えがある世界" を妄信してきたのが伝統であったのだろうか。

 久しぶりに近所の書店に行ってみた。
 特に探し物の本があってのことではなく、買い物の途中、あまりの暑さをかわすべく入ったのだった。クーラーの効いたところでしばし涼もうとしたのだ。が、まあ結局は、二千円近くの本を買うことになり、一時の涼しさを相応に "買った" ことになった。
 雑誌売り場を覗いていたら、 "立ち読み禁止" ならぬ "盗み撮り禁止" というような意味の貼り紙を目にした。
<ケータイ・デジカメなどで書籍のページを撮ることはご遠慮ください!>
というような文面が棚に貼り付けてあった。
 なるほど、昨今は、そういう手合いがいるのか、と気づかされた。
  "夏休み" のつもりでいても、自宅に居るのはあまり快適ではない。こう暑いと木造住宅の自宅はクーラーの効き方もパッとせず、家内も例によって実家の母親のケアで不在のため、結局、事務所に出てきてしまった。
 事務所のクーラーのの方が効果的であり、ここで作業をする方がはるかに過ごしやすい。まあ、何ら気分が変わらないのが最大の難点ではあるが......。
 熱帯夜が続いているためなのか、どうも熟睡ができないようであり、そのためか精神衛生の状態も芳しくないような気がしている。

 つい先ほど、内猫の一匹をベランダに出してやったら、気に入ったようで植木鉢の陰でのんびりと夕涼みをしている。今日は日が落ちてから幾分過ごしやすい気温となっていそうだ。
 人間たちも連日の猛暑で参っているが、内猫たちもこの暑さを持て余している。まるで座敷牢にでも入れられているよう感じなのであろうか。われわれ家人が居ない時にも、一応クーラーを弱めにつけておいてやるのだが、それでも、毛皮をまとっているだけにグッタリとしている。

 先日、ホームセンターで、 "放熱アルミ板" を買ってやった。猫や犬たちが横たわって体温を逃がす! という触れ込みの商品である。
 買って来た当初、そこに横たえてやったら気持ちよさそうにしていたため、おっ、これはいいかもしれないぞ、と思ったが、その後、 "自主的" にそこで横たわっている姿を見たことがない。何と甲斐のないことかと残念な思いとなったものだ。
 だが、もしこのまま彼らが見向きもしないようであれば、その "放熱アルミ板" は、 "別用途" で活用しようと算段している。

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