2008年7月 アーカイブ

 この "日誌(ブログ)" は、すでに "二千数百日" を超えている。
 日々書くことそれ自体に意味があると思い込んでいるため、そうした数字にさほど意味があるとは考えていない。ただ、 "書き終えた足跡" にあまりに無関心過ぎるのかと思うことがないではない。
 極端な話、 "年寄りの繰言" ではないが、同じ主旨、テーマについて同じ切り口で書いてしまってはいないかと心配することもある。さすがに、これは以前書いたはずだと感づくだけの記憶力が健在でありそうなので、まだまともに心配することはなさそうではあるが......。
 が、今ひとつ配慮したいことがあった。日々書きながら考えることに果たして "深まり" が伴っているのだろうか、幾分なりとも "深化(進化)" しているのだろうか、という点なのである。
 こうした "日誌" 、あるいはデイリーのエッセイのような形式では、形式上の制約から、バラエティのある関心事を追っかけることはできても、ややもすれば "広く浅く" の傾向に陥ってしまうという懸念が残る。
 それでもいいのかもしれないが、せっかく相応のエネルギーを割いているのだから、去年よりも今年、昨日よりも今日、という具合に多少なりとも "深化(進化)" したいものだと思うのである。



















 『フラット化する世界』(トーマス・フリードマン 著/日本経済新聞社 2006/5/25 )という、ニューヨークでもベストセラーになった著書がある。
 インターネットなどの発達や中国・インドなど新興国の経済成長によって世界の経済は一体化し "同等な条件での競争" が展開される時代になったというわけである。
 なお、 "世界のフラット化" とは、
<新しい通信テクノロジーの出現によって、地球上のあらゆる場所にいる人間との共同作業が可能になり、インドや中国へのアウトソーシングが始まった。ブログやGoogleはインターネットに接続する個人にグローバルな競争力を与え、(中略)いまや、個人の働き方、企業のビジネスモデル、さらには国家のシステムが猛烈な勢いで変わろうとしているのだ。この劇的な大変化こそ、「世界のフラット化」である。(『フラット化する世界』カバーの折り返しより引用)>
と紹介されている。

 <神戸・都賀川が大雨増水、子供と女性の計4人死亡>(2008年7月29日02時02分 読売新聞)という事故は、子どもたちが巻き込まれた事故であったことから何とも痛ましい。と同時に、何か現在の目に見えない危険を "暗示" しているような、そんな印象を受けた。
 公式的には、<激しい雨で一気に増水>ということであったらしい。その詳細は次のようだったという。

<国土交通省六甲砂防事務所が都賀川上流の山中に設置した雨量計は、午後2時40分からの30分間で計38ミリの集中的な雨を観測。一方、児童らが水遊びをしていた現場近くにある県の観測地点では、同2時40分からわずか10分間に水位が134センチ増えていた。>

 上流の水位の状況と下流のそれとの間にある大きな開きに驚かされる。その原因としては、いくつかの点が考えられている。
 ひとつは、都賀川自体が地形的にいって "急勾配" な河川であること。
<都賀川は、六甲山系を源流とし、いくつもの河川が合流して一気に大阪湾へと流れています。都賀川自体は、神戸市灘区の市街地を南北に流れる延長1.8kmの河川ですが、直前で大きく杣谷川と六甲川の二つの河川が合流して都賀川となります>( http://www.calbac.co.jp/kikaku/040825toga/top.htm# )
 そして、二つ目は、<都賀川は川底と両護岸の3面がコンクリートで固められており、雨が一気に流れ下りて、鉄砲水となったとみられる。>(上記読売新聞)という "河川の管理形態・方法" にも "盲点" が潜んでいたのかもしれない。
 この点は、アスファルトで固められた都市区域が、一度豪雨となると雨水の逃げ場がなく洪水となりやすいという現象を思い起こさせる。

 松岡正剛氏は、その『千夜千冊』の中で、かつて "ウェブ2.0" のネクストをめぐって次の点を強調していた。

<時代がそろそろキーワード主義(小泉時代も終わったのだから)から、コンテキスト主義に移ってほしいのだ>(松岡正剛の千夜千冊 遊蕩篇 1162夜 2006年11月10日 森健著「グーグル・アマゾン化する社会」 http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1162.html )と。

 同氏は、森健著の同上著作を素材にしつつ、 "ウェブ2.0" 時代を概観しながら、ウェブ時代環境はグーグルによる<検索技術>の圧倒的適用によって、いわば<「検索経済」>に至ったこと、そしてこれをベースにして<ウェブ2.0社会の次>が見通せる状況にあることを叙述している。
 その叙述は多岐にわたっているが、同氏の主要な関心は、この<「検索経済」>の現状であり、またそのネクストと思しき<ティム・バーナーズ=リーが提唱する「セマンティック・ウェブ」の可能性>ではなかったかと読み込めた。
 そこから、現行の<検索技術>をあらしめている<キーワード主義>は早晩大きな脱皮を遂げて<コンテキスト主義>へと移行するはずだと鳥瞰している様子なのである。
 もう少し詳しい引用をすれば以下のようになる。今後の見通しを6点に整理して叙述しているのだが、その先頭で以下のように記している。

<第1には「コンテンツからコンテキストへ」という技術変化がおこるだろうと思っている。いまのところ検索技術は、あくまでコンテンツのキーワードに依存したままにある。これをコンテキスト(文脈)の検索や編集にグレードアップさせるべきである。ユーザーは欲望が満たされることがわかったのちは、意志を文脈あるいは物語として表明したくなるものなのである>

 原油価格は、このところ "沈静化" しているようであるが、予断を許さないであろう。エネルギー問題については、資源の高騰傾向とCO 2 問題の両面で従来にない危機的状況にあることは疑いない。
 そして、相変わらずの "食料価格の高止まり" という趨勢もあり、今後の経済は生産者にとっても消費者にとっても厳しいものとなるであろうことは避けられそうもない。
 こんな状況下で、今後の経済のあり方に関して、従来からのあり方を抜本的に見直そうとする動きも現れはじめている。それこそ抜本的な "構造改革" の方向を目指さなければ、国内経済、世界経済、そして地球環境のすべてが崩壊しかねないとする危機感が漂っているかのようである。
 もちろん、どこまで事態の危機を正確に捉えているかは定かではないが、従来のあり方を踏襲していたのではいずれ "詰み" に至るであろうことの緊迫感だけは共有されはじめたのかもしれない。
 自分は "コーヒー" が好きで、一日に数杯以上飲むはずである。
 喉が渇いたから飲むというよりも、頭の働きがすっきりすることを期待して、つまり "カフェイン" の効能を期待しているのかもしれない。
 昨今はさほどその効能を自覚することはないが、たまに "コーヒー" を啜ったことで眠気が解消されたり、何となく頭の感じがすっきりとしたかのような気分となることがある。それが、 "コーヒー" を飲むことへの動機付けとなっているのだろう。
 確かに、 "カフェイン" は眠気を抑えるとともに、気分の高揚感を促す効能がありそうだ。だから、ビタミン・ドリンク剤や清涼飲料水にもこの "カフェイン" が調合、含有されている。販売側は、顧客側に当該の商品を欲するような多少の "依存癖" が生まれてくれれば有難いとでも考えているのであろうか。
 こんな "依存性の薬物(?)" に目を向けるのは、やはり、 "禁煙" 継続中(5カ月目)でまだ "ニコチン" への未練が残っているからなのかもしれない。さすがに、吸わないことへの "自然さ" が身に付いてきたようではあるが、頭や気分が疲れた際、ふと、こんな時のタバコはウマかったのかなぁ、なんぞと後ろ髪を引かれる心境となったりする。
 お暑うございます、と言うよりもやはり、蒸し暑うございます、と言った方が正確なのであろう。名古屋も京都もこんなふうな蒸し暑さだったと思うが、四国の愛媛はもっとサラッとしていたし、暑いと言われる海外の地域でも気温が高い割りには過ごしやすいところはいくらでもあるようだ。都会の夏は、このムッとするような高湿度の暑さがまさに不快なのである。
 こんな日々に "脅かされて" ということになろうか、夏休みをとることにした。今年もまた、まとめて三日とらずに、週末の金曜日を三週間に渡ってとり続けるという "セコイ" 方式を採用することにした。
 特に旅行などの当てがあるわけでもないため、この暑さの中で体調をキープし続けるため、年寄り染みた選択をしたわけである。
 落語に、 "もう半分" という噺がある。飲兵衛の年寄りが、好きな酒をじっくりと味わって、楽しんで飲むために、湯のみ茶碗に最初からなみなみと注いでもらわずに、 "半分" づつ注いでもらって、 "もう半分"、"もう半分" と楽しみを引き延ばすというある種の人には "共感" を呼びそうな噺なのである。さしずめ、夏休みを "もう一日"、"もう一日" と三度に分けて引き延ばす自分には、飲兵衛の意地汚さ、その滑稽さに通じるものがありそうな気がしないでもない。

 以前、英国ではかなり早い時期から "ペットと暮らす権利" のようなものが社会的に承認されていると聞いたことがあった。確か、アパートのような集合住宅でお年寄りが "ペットを飼う" ことが争点となった裁判で、それが法的に認められたということだったかと思う。人間の孤独を癒す上でペットを飼うことは重要な選択である、というような論拠ではなかったかと記憶している。
 そんな文化的先進国である英国に、またまたちょいと注目すべき制度があるらしいことをラジオ番組で耳にした。 "孤立" していると思しき人々に対してフレンドリーに接するボランタリーの人々を養成するというような制度があるというのである。

 昨今、度重なるあの "誰でもよかった......" 通り魔殺人事件が人々を震撼させているのがこの国日本である。そして、いろいろな人がその原因に関していろいろな意見を述べたり、いろいろなことを指摘したりしている。
 よくはわからないが、異常な犯罪へと突っ走る者がそれ相応の尋常ではない "孤立" に迷い込み、それに対処し切れずに異常な行為へと踏み込んだのだとは、とりあえず言えそうな気がしている。別に、新しい視点でも何でもなく、極々当たり前の見解であるが。
 人間の "孤立" にもさまざまなケースがあるだろうし、またその状況に向かい合う人間側の状態にもさまざまなバリエーションがあるだろうとは思う。
 世代によっても、 "孤立" という言葉から受けるニュアンスには大きな違いがありそうな気がしている。ざっくり言って、生活のあらゆる場面で "共同性" が強いられ、 "孤立" が排斥された時代に生きた者たち、オールド世代たちは、どちらかと言えば現状での "孤立" 感をそこそこ往なせる柔軟性を持っているのかもしれない。ただ、 "鬱" への接近という危険はありそうかもしれないが......。
 逆に、生まれた時からそんな "共同性" が生活環境に希薄となり、何かと "個人( 孤立 )主義" 的傾向が普通であった世代ほど "孤立" に伴う "影" の部分の度し難い辛さを感受することになっているのかもしれない。

 ここ最近、夜8時、9時頃であろうか、町内の "防犯パトロール" を行っている。というほどの仰々しいものではない。単に、町内の自治会からお預かりしている "それ向けのベスト" を着用して夜のウォーキングをしているに過ぎない。

 このところ、禁煙してからであろうか、やはり体重がジリ貧ならずジリ高になってやや気にしており、毎食後には30分程度のウォーキングをしている。
 先日、さて出かけようかとしたところ、家内が言ったのだった。
「ついでにそのベストを引っ掛けていったらどう?」
 それは、町内の自治会が年次の当番である班長に貸し出し、その気があれば "防犯パトロール" をしてください、という代物らしい。
 自分は、仕事にかまけて町内会については消極的な関与しかしておらず、寄り合いには家内が出席してくれている。ということもあり、男手の役割に違いない "防犯パトロール" くらいはするべし、という気になったのである。

 よくもそんなことを今頃ぬけぬけと言えたものだと呆れてしまった。以下の新聞報道についてである。もし、この提言が "派遣法" のなし崩し改悪(派遣法の原則自由化。c.f.『労働者派遣法勉強室』 http://www.hisamatsu-sr.com/haken/rekisi.htm )が実施される以前になされたのならば、 "ナルホド!" と感じさせもしたことであろう。
 しかし、さんざん労働市場を荒廃させておいて、この期に及んで涼しい顔をして奇麗事を言うのは、まさに呆れるほかない、というわけなのである。

<成果主義の改善を提言 労働白書、働く人の満足度低下
 舛添要一厚生労働相は22日の閣議に2008年版の「労働経済の分析(労働経済白書)」を報告した。1990年代以降、多くの企業が導入した業績・成果主義的な賃金制度について「実際には労務コストの削減が主目的だった」と指摘。成果主義の適用範囲を意欲の向上に役立つ部門やグループに限定するとともに、評価基準を明確にして不公平感をなくすといった運用の改善が必要だと提言している。
 今回の白書は「働く人の意識と雇用管理の動向」と題し、初めて労働者の仕事に対する意識をテーマに採り上げた。「仕事のやりがい」や「雇用の安定」「収入」に対する労働者の満足度は長期的に低下傾向にあることを示すデータを掲載。企業が正社員を減らし、パートなどの非正規社員を増やしてきたことがその原因と分析している。
 仕事に対する満足度を高める対策としては、長期的視点に立った人材育成が必要だと強調した。>(NIKKEI NET 日経ネット 2008/07/22 )

 今日あたり海水浴場は大賑わいなのだろうか。
 朝方は幾分穏やかな天候であったが、日中はまた "夏日" の日照りになるのだろうと予想し、今日は朝から事務所へと "避難" することにしていた。
 ブラインダーの隙間から覗ける戸外はやはりかんかん照りのようであり、 "この判断" で良かったのだと溜飲を下げている。

 今朝、ウォーキングの際、先日、 "こんな川で泳ぐとは......" と驚きの光景を目にした付近で、何やら人だかりを目にすることになった。と言っても、 "土左衛門" 騒ぎなんぞではない。
 川の流れに接することができるように設えられた川岸の一段低くなった場所に、近所の親子連れと "役人" ふうの数人の者たちが何やら集会のような格好で集まっていたのである。対岸の歩道からしばし見つめていると、腰までの長靴を履いた "役人" ふうの者たちが、集まった親子連れに向かって何やら叫んでいる。
「今、水質を測ったところ、透明度はほぼ1メートルというところでしょうか......」
 よくはわからないが、察するところ、川の "水質検査" を公開ふうに実施しているようであった。

 夕方になり、風がそよぐようになってから幾分すごしやすくなったようだ。この感じなら寝苦しさもほどほどかと多少安堵したりしている。
 暑さもこういうふうに日が落ちたら涼しくなるような推移であるのなら、そう毛嫌いすることもないのかもしれない。夏なのだから、日中はかんかん照りとなり、セミたちにも思いっ切り騒いでもらっていい。
 ただ、いわゆる "熱帯夜" と呼ばれるような、夜になっても一向に気温が下がらないという成り行きが手に余るわけである。それで、止むを得ずクーラーを付けっ放しで寝たりすると、たとえ弱い設定であっても、今度は身体が冷えてしまい調子を崩すことになりかねない。
 先日も、夜中に目が覚めた際、手足が冷え込んでしまっており、よほど風呂の残り湯にでも入って暖まった方が良さそうかと懸念したくらいであった。もちろん、弱めのクーラー設定も解除し、掛け布団をしっかり被って眠ったが、一体何をしているのかとバカバカしく思えた。
 窓の隙間から、幾分涼やかな外気がそよそよと忍び込んでくるというような自然さがやはり一番良さそうな気がする。
 さてさて、今晩はどんな成り行きになるのやら...... (2008.07.20)

 実に "夏日" と呼ぶにふさわしい一日であった。
 今日のウォーキングが、朝寝坊のせいで日が高くなった11時台となってしまい、炎天下を歩く按配となってしまったためなおさらそう感じたのかもしれない。きっと、こうした猛暑は今日一日のことではなく、この夏はこうした日々がレンチャンとなりそうな気がしている。

 境川の遊歩道を歩いた際、陽炎が立ち昇るような暑さゆえとも言えそうな光景にお目にかかった。
 一つは、気持ちは十分に共感できるにしても、そこまでするかぁ? という信じられない光景である。生活汚水も流れ込んでいるはずの、その川で潜ったりもして水遊びに興じている者たちがいたのである。わけのわからない子どもたち同士かと観察すると、何と大人まで交じっていた。数十センチほどの幾分深さのある箇所で、ゴーグルまでつけた女の子たちが、プールでの潜水よろしく頭まで沈めてはしゃいでいたのだ。
 確かに、一時期に比べれば水質が改善していることはわかる。放流されている鯉の姿が上からも透けて良く見えるほどに濁りはなくなっている。
 しかし、未だにゴミや自転車などを違法投棄する者も後を絶たず、 "汚れた川" であることに変わりはない。素足で浸かることさえ憚られるところであり、まして、泳いだり潜ったりするのは論外だと思われる。
 この暑さだけに、 "破れかぶれ" の気分になることはわからないわけではない。しかし......、どうして公営プールとかに行かないのだろうか、そうしたところにでも付き添ってやるのが大人のすることでは......、という疑問が重くのしかかってきたものだった。

 しばしの "雨宿り" の上、人を頼んで傘を届けてもらうはめになってしまった。今日の午後の急な "夕立" のことである。
 要するに "高を括った" のがいけなかった。

 午後二時過ぎ頃、急に思い立って駅前まで買い物に出向いた。表に出るとその時すでに空には "暗雲" が蔽(おお)っており、一触即発でザーッとくるのが十分に予想されたはずだった。。
 が、どうしたことか傘を持参する周到さを欠いてしまった。再び、階段を上がって事務所に戻るのが億劫だったのであろう。また、このところ雨に降られた経験をしないで済んでいたため、まさに "高を括った" のだったかもしれない。
 しかも、それならそれで、買い物も少しは急げばよいところを、予想以上に手間取ってしまった。その結果、非情な "夕立" に巻き込まれてしまったのである。
 いけない、いけないと思ったその時はすでに遅く、駅前の商店の軒で呆然と雨脚を眺めるはめになってしまっていたのだ。雨脚は勢いを増すばかりであったため、どうしようかと迷う。ふと、この "シャワー" の中を5分ほど走るのは、さぞかし爽快だろうとも思うには思った。それほどに、ここしばらくの蒸し暑さは尋常ではなかった。

 今や、 "資源問題" と "CO2 削減" 問題の両面の視点から、太陽エネルギーなどの自然エネルギーへの注目や、いわゆる "リサイクル" 活動の見直しというテーマが重要視されている。
 石油燃料依存に関しても、そこからの脱却に向けていろいろと試行錯誤が展開されているようだ。先日も、原油高騰の煽りを受け燃料コストによる圧迫で事業が成り立たないとして全国の漁業団体が操業停止を行ったばかりだ。その続報のひとつに、漁船燃料の "成分を工夫" して燃料コストを削減するという試みに関する朗報が目を惹いた。
 新燃料は、重油と水を混合して乳化状態にした<新型エマルジョン燃料>と呼ばれるものだそうで、出力にも排気にも何ら問題がないそうである。

<最大13%節約...エマルジョン燃料、漁船実験に成功
 環境関連ベンチャーのエヌ・エフ・ジー(仙台市)は9日までに、独自開発した新型エマルジョン燃料を、漁船用の重油・軽油の代替燃料として用いることに成功した。実験では油の使用量が最大で1割ほど減ったほか、排ガスを減少する効果も確認した。同社は「原油高騰に苦しむ漁業者にとって有用な技術」としている。今後さらに検証を重ね、大型漁船用の燃料製造装置を年内にも完成させる考えだ。......>( 河北新報[仙台] 平成20年5月10日[土] )

 ちなみに、場末のいかがわしい飲み屋では、水で割った酒とか酒で割った水とかを酔いどれ客に勧めて暴利を貪るという手口があるそうだが、それに反してこの<エマルジョン燃料>はひょっとしたら "日本の漁業の救世主" となる可能性があるのかもしれない。
 漁業関係者たちは、大いに期待しているとのことである。が同時に、行政がこうした研究にこそ予算を付けてほしい、使われることが少ない漁港などに巨額を投じるよりもはるかに漁民にとってはありがたいことなのだと声を揃えて述べていた。

 景況がいよいよ不穏さを増している。日本の株価の低迷、続落ぶりもさることながら、米国の状況も惨憺たるものだ。 "サブプライムローン問題" に端を発する金融不安が根深く尾を引いているのは周知である。加えて、 "原油高騰" とこれを引き金とする農産物価格の高騰などがインフレ傾向を促してもいて、経済環境はかなりこじれた状況へと入り込んでいる。
 そこへ持って来て、いま一つ不気味な動きまで加わるようになってしまったようだ。というのは、 "原油価格の大幅反落" という事態のことだ。

<NY原油、大幅反落 8月物は138.74ドル
【NQNニューヨーク=海老原真弓】15日のニューヨーク・マーカンタイル取引所(NYMEX)で原油先物相場は5営業日ぶりに大幅反落。WTI(ウエスト・テキサス・インターミディエート)で期近の8月物は前日比6.44ドル安の1バレル138.74ドルで終えた。米景気減速で原油需要が減るとの見方などから急速に売りが膨らんだ。
 バーナンキ米連邦準備理事会(FRB)議長が議会証言で景気減速への懸念を示した。証券会社オッペンハイマーの石油アナリスト、ファデル・ゲート氏は「景気減速による需要減の思惑などが売り材料になった」と指摘した。......>( NIKKEI NET 2008.07.16 )

  "原油価格の大幅反落" の<大幅反落>は、決して悪い状況ではない、とも言えそうではある。 "原油高騰" が世界中に巻き散らかしているネガティブな影響を考慮すればという視点からである。
 しかし、現状の<大幅反落>は、米国経済の<景気減速による需要減の思惑>ということだそうで、これはこれで結構厄介な事態になったと見なければならないようだ。
 かつて、大前研一氏は次のような指摘をしていた。

  "原油高騰" がいよいよ深刻さを増している。
 直接的に被害を被っている者たち、業種は多いが、その操業を "燃料" に依存する "漁業" の痛手も計り知れない。

<全国一斉休漁、燃料高など窮状訴え
 全国漁業協同組合連合会をはじめとする17の主要漁業団体が15日、一斉に休漁に入った。全国で約20万隻の漁船が参加した。漁業者は急激な燃油高騰で経営が圧迫されている窮状を訴えた。
 島根県内では約4400隻あるすべての漁船が出港を見送った。漁船は「燃油高騰により全国一斉休漁中!」と垂れ幕を掲げた。神奈川県三浦市のみうら漁業協同組合も全700隻が休漁した。漁師の1人は「燃料代の高騰で出漁しても赤字」と憤っていた。>(日経ネット:経済ニュース 2008/07/15 )

  "原油高騰" の原因が、発展新興国の実需の急増だけではなく、 "原油ファンド" などの投機マネーの動向にあることは指摘され続けてきた。政府も次のような "白書" を出したそうだ。

<一次産品価格、「投資」が3―4割押し上げ 通商白書
 甘利明経済産業相は15日の閣議に2008年版の通商白書を提出した。原油、小麦、トウモロコシなど一次産品価格について、実需以外の年金基金や産油国の投資・投機資金の流入が3―4割程度押し上げていると試算した。中国やインドなど新興国の需要増だけでは価格高を「説明しきれない」と指摘、市場の透明性向上が必要との見方を示した。
 高騰を続ける原油や食料の価格形成要因について、政府がまとまった分析を試みたのは初めて。......>(日経ネット:経済ニュース 2008/07/15 )

 しかし、この局面もさることながら、以下のような関係筋による指摘が実に興味深かった。

  "ドバイ" と言えば、今や世界でも有数の "沸騰都市" であり、NHKスペシャルで報じられた "金持ち" 都市の姿には驚きを禁じえない人が多かったはずだ。
 そんな "ドバイ" に、何と "鳥取県のスイカ" がデビューしたというニュースは、ちょいと溜飲を下げる思いがしたものだった。

<ドバイで絶賛「鳥取スイカ」 RAK王族にも献上
 アラブ首長国連邦(UAE)のドバイで販売された鳥取スイカが七日、同じUAE加盟国のラス・アル・ハイマ(RAK)の王族に贈られた。ドバイで絶賛され、アブダビ王室にも献上された鳥取スイカにまた名誉な肩書きが加わり、関係者を喜ばせている。
 鳥取スイカは、坂根国之JA鳥取中央組合長......ら調査団によるドバイで展開した販売キャンペーンが反響を呼んでいる。一玉三万円を超す破格値で売れたのも話題となり、ドバイで認められたスイカとしてブランドイメージが大きくアップした。 調査団では、さらに中東でのPRを広げようと、ドバイ総領事館を通じて鳥取スイカの売り込みを図ったところ、RAK皇太子と兄弟のシェイク・ファイサル・ビン・サルク・アル・カシミ財務長官に献上できた。シェイク長官は、スイカ農家の栽培方法や選果の説明に興味を示し、特に砂地栽培に関心を寄せていた。日本一のスイカを渡されて「シェイク一族が集まってスイカパーティーを開きたい」とご満悦だった。
 調査団に参加した県市場開拓室......主幹は「中東で鳥取スイカの高い品質が認められた。日本を代表する最高級のスイカとして評価してもらったことは、鳥取県の特産品全体の評価にもつながる」と話している。>( 日本海新聞 ローカルニュース 2008/07/12 http://www.nnn.co.jp/news/080712/20080712001.html

 もう九州の方では梅雨明けだそうで、関東地方もあと一週間ほどで梅雨が明けそうか。それにしても、ここニ、三日の暑さは堪らない。異常気象下にあるこの夏の暑さを早くも彷彿とさせるようだ。
 ある科学調査の報告によれば、この夏、北極の氷河が溶けてなくなるとのことであるが、直接関係しているかどうかは別として、実感的にも頷けそうな気がする。
 実感的と言えば、地球温暖化現象が物語っているのは、人類の "暑苦しい" ほどの "欲ボケ" 度合いであり、 "クール" で涼しげな聡明さではないということのようだ。
 われわれは、まだどこかで、急遽、事態を急変させるような朗報が飛び込むのではないかと根拠のない期待をしてはいる。しかし、現状の危機的状況は十分に "末期的" 水準なのであって、 "V字型回復" というようなことを想定できないのではなかろうか。
 デジタル世界、人的世界ではそうした回復も無くはないようだが、事、地球規模の自然のアナログ状況では、そうした急変を期待すべくもないと思われる。しばしば "雪崩現象" という言葉が使われるが、この言葉が秘めている "連鎖的" エネルギーの怖さというものがもっと冷静に認識されるべきなのではないか。

 問題山積で身動きが取れないようなこの国の現状を目の前にしていると、 "構造的無責任主義" とでもいうような言葉が浮かんでくる。
 逆にあの "植木等" が掲げていた "無責任" という看板が、可愛くまた懐かしく思い出したりする。個人的な "無責任" アクションが、シャレになっていた時代というのは、それだけ全体が "責任感" に浸されて動いていたということになるのだろうか。あるいは、上り調子の時代環境は、そんなアクションくらいでガタつく脆弱さを持ってはいなかったということなのであろうか。
 ところが現状は、誰もが他者を "無責任" という言葉で非難し、攻撃するようなとげとげしい風潮になっていそうである。 "金持ち喧嘩せず" ということわざがあるが、現状はまったくその裏返しであり、 "貧すれば喧嘩腰" (こんなことわざは聞いたことはないが)といった雰囲気かもしれない。
 いや、 "喧嘩腰" になっているのは小さな私生活の場だけであり、韓国国民のように社会問題に対して激しく抗議しないところが、この国の国民の "ぬえ" のような体質なのであろうか。

<公害、薬害、アスベスト被害など企業が想定しなかったり、目をつぶったりしてきた問題が後々大きな被害をもたらし、その負担を企業がせず、政府が放置し、地域や消費者に押し付ける問題を外部不経済という。温暖化問題は地球規模の外部不経済といえる。>(「温暖化の外部不経済」/経済気象台/朝日新聞 2008年7月11日)

  "構造的無責任主義" とでも言うような現状の惨憺たる問題状況を考察しようとする時、この<外部不経済(外部負経済)>というタームが、事態を実に有効に説明するかに思えたのだ。
 もちろん "地球温暖化" 問題はまさに、グローバリズム経済における<外部不経済>の所産以外ではないと思われる。各国の経済主体が、市場での成果を上げるために、市場の存在ではない自然環境資源などを "無責任" に利用(破壊)し、その結果を放置し続けてきたことによってCO 2 が過剰に蓄積されてしまったわけだ。
 各国経済がその発展のために、バーターで自然破壊を進めてしまった環境汚染という、いわゆる "公害" が問題視された時点で、この<外部不経済>的仕組みを "内部化" して制御することができていれば、現在のような "手遅れ的状況" には至らなかったのであろう。しかし、死んだ子の歳を数えてもしょうがない。

  "いずこも同じ" だなぁ、と大いに共感させられた。
 経済アナリストの森永卓郎氏が、『日経パソコン(2008.07.14)』の連載コラムに「プリンターが壊れた」という顛末記を書いていたのである。
 突然、事務所で愛用しているプリンターに不具合が発生したというのだ。仕事を中断させることを嫌い、すぐさま手を打とうとしたようだ。が、そこで先ず悩むことになったらしい。
<最近家電製品の修理代は高い。最低でも1万円は取られる。もともと1万円台の実売価格なのだから、修理に出すより、新しいものを買った方がよいと思った。もう一つは、修理の間を待っていられないことだ。...... プリンターがないと、いきなり仕事が止まってしまうのだ。>

 ということで、量販店に向かったそうだが、またまた思い通りには行かない。
<ところが、[当該機種]がない。買ってから1年余りしか経っていないのに、展示されているプリンターは、すでに後継機に移っていた。......>
 しかし、<新機種に切り替える>選択は、できそうで簡単にはできない事情も存在する。PC環境であったり、物理的スペースの関係であったり......だ。
 そこで辿り着いたのが次の選択だったという。
<新機種への買い替えはあきらめた。こうなったら、頼れるのはネットオークションしかない。ヤフオクを検索すると[当該機種]が3台出品されていた......>
 それで、早速 "入札" したそうなのだが、高を括ったせいか1台目の "落札" には失敗し、
<今度は負けられない。2台目の入札はオークション終了時に、ずっとパソコンに張り付いた。......幸い今度はなんとか落札することができた。しかも、金額も5000円で済んだのだ。>
ということだったそうなのである。

 昭和50年代の頃だっただろうか、 "松鶴家千とせ" ( http://shokakuya.blogzine.jp/ )という一風変わった芸風の漫談家が爆発的な人気を集めていた。<わかるかなぁ、わかんねぇだろうなぁ>の流行語もその時に生み出された。
 今でも活躍しているが、時々ふいに思い起こすのが次のフレーズなのである。

<俺が 昔 夕やけ だった 頃
 弟は こやけ だった
 父さんが 胸やけで
 母さんは 霜やけ だった
 わかるかなぁ わっかんねえだろうなぁ>(ご当人の作)

 そこで、唐突ながら、 "松鶴家千とせ" を真似てちょいと遊んでみることにした。

「俺が 昔  "松鶴家千とせ" だった 頃
 時として 俺は "飯" だった
 弟は "出汁" で
 妹が "梨"
 姉さんが "ケシ" だった

 そんな当時おやじは "寿司" で
 おふくろは "箸" だった
 わかるかなぁ わっかんねえだろうなぁ
 シャバダバタシャバダバ

 俺が 昔 "虫" だった 頃
 弟は "石" で
 姉さんは "櫛"
 おふくろが "牛" だった
 わかるかなぁ わっかんねえだろうなぁ

 そう言えば おやじは "香具師" で
 あにきは "弟子" だった
 わかるかなぁ わっかんねえだろうなぁ
 シャバダバタシャバダバ

 俺が 昔 "利子" だった 頃
 弟は "のし" で
 姉さんは "貸し"
 あにきは "阻止" だった
 わかるかなぁ わっかんねえだろうなぁ

 そんな時 おやじは  "歳" で
 おふくろが "主" だった
 わかるかなぁ わっかんねえだろうなぁ
 シャバダバタシャバダバ......」(筆者による贋作)

...... (2008.07.10)

 この日誌を書く際に、ちょっとした説明が欲しい用語に出くわすと、自分はしばしば "フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』" を活用する。
<ウィキペディアは、信頼されるフリーな百科事典を――それも、質も量も史上最大の百科事典を、共同作業で創り上げることを目的とするプロジェクトです。>(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)とあるように、<百科事典>の各項目の解説をはじめとして、何から何までがウェブ参画者の<共同作業で創り上げ>られたものなのである。
 確かに、これまでの事典ように "専門家、有識者、権威者 etc." だけによって創り上げられたものではないことから、注意すべき点がないではない。潜在する不備や偏りなどを指摘して、これを使わない人がいることも知ってはいる。
 しかし、それらを "承知の上で" 活用させてもらう分には問題は少なく、そして<便利>だと言うべきではなかろうか。<便利>という点に着目するならば、 "さまざまな事実" の解説については、世の中には多くの "潜在的な有識者" というものが存在するはずであろう。そして、オープンな形で設定されているウェブシステムが、自由に場を提供しているとなれば、そうした人々の知識・情報が、実に<効率的・効果的>に、かつ無償で集約されて、巨大なデータベースが出来上がるわけである。極めて合理的だと思われる。

 昨日書いた "ユビキタス・コンピューティング" にしても、生活環境のあらゆるモノや場所にコンピュータチップが埋め込まれるわけだが、その前に、それらのチップに "ID(識別)情報" が搭載される必要があるわけであり、その数量はまさに天文学的な規模となる。この "ID情報" 付与という作業こそは、関係組織が精力的になって遂行するとしても、とてもそれだけで担い切れるものではなかろう。
 そんな事情を想定して、 "坂村健" 教授は "関係者・希望者が自由に名付け親" になってもらっていい、というような趣旨の表現をされていた。
 冒頭の "フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』" の趣旨と同様の、いわゆる "集合知" 方式だというわけなのである。

  "ユビキタス・コンピューティング" という言葉が使われるようになって久しい。
 だが、かなり荒っぽいイメージしか持ち合わせてこなかった。 "いつでも、どこでもコンピューティング" というような触込みから、高々、 "モバイル・コンピュータ" の延長線上の話くらいにしか了解してこなかった。
 が、昨晩、あの "TRON(The Real-time Operating system Nucleus)プロジェクト" で名を馳せた "坂村健" 教授が講演するTV番組をじっくりと観ることで、はじめてなるほどと実感できた。( NHKデジタル教育3 『楽しむ最先端科学「仮想世界と現実世界の融合を目指して」』2008年 7月 7日 [月] 午後8:00~午後11:16 [196分] )

 この番組は、中学生・高校生にも "わかる" ようにと企画され、坂村健教授が、東大の小柴ホールで講演したものの録画であり、何と3時間を越える "大作" である。たとえ、理数が好きで得意だとしても中・高校生の理解力をはるかに上回る内容ではなかったかと思えた。
 自分にとっても、夕食後の腹ごなしに軽く観(み)流そうとしたのだが、ちょいと重過ぎる内容であったようだ。ただ、ハイエンドのIT技術分野の実態を丁寧に鳥瞰させてくれるその番組内容は、決して飽きさせるものではなかった。とは言うものの、講義方式での話が中心であったため、久々に長時間の講義を受けたようで、幾分かの脳の疲労は否めなかった。

 昨日は、おふくろの付き添いといった格好で祖父の十三回忌の法事に行ってきた。
 最近、ますます出不精となってしまっている自分である。だが、おふくろが入れ込んでいる様子でもあるため同伴せざるを得なかった。

 結果的には、久しぶりに "いとこ" 連中と歓談できて楽しくなかったわけではなかった。大体、彼らと出会うのは、最悪、葬式の場合がほとんどであり、したがってここしばらくの彼らの印象はと言えば "喪服姿" としてしか残っていない。
 それに対して今回は、十三回忌ということもあり、 "喪服" という指定ははずされていたため、幾分様子が異なってはいた。寺での法要の方は型通り済まされ、供養のためとされた "二次会" の方に比重が置かれた気配が濃厚であった。

 そう言えば、法事の主役たる亡き祖父は、親戚一同を集めてご馳走したり大騒ぎするのが何よりも好きであった。考えてみると、祖父自身の "世話好き、派手好き" な性格が為せるわざであったと思われるが、今ひとつ、いろいろな意味における時代背景自体も後押ししていたとも考えられる。
 祖父の性格は、おふくろと同類の、いやおふくろが祖父のそれを受け継いだのであろうが、パーフェクトな "ねあか" タイプである。とにかく、大声、大笑い、活気とともに日々過ごす人であり、いわゆる影というものを知らない性格である。で、もちろん、人好きであり、喋り好きであり、だから事あるごとに大勢の者を集めて "賑やか" にすることが大好きなのである。そして、そうすることが自分の使命だとも心得ているようなふしもあったかもしれない。
 落語の話ではないが、子どもの頃に祖父から唐突な話を聞いたことがあった。
 オレが死んだらな、葬式はうんと派手にやるんだ、親戚関係の者はもちろんのこと知り合いは誰でも来てもらって、食べたい者はたらふく食って、飲みたい者は遠慮なく飲んでもらうんだ......。
 まさに、 "賑やかさ" こそが人生最高の価値だと信じて疑わなかった人だったのだろうと思う。今思えば、祖父のようなタイプの人は次第に稀有な存在となっているのであろうか。

 昨晩は実に蒸し暑く、その寝苦しさといったらなかった。窓をわずかに開けて風を誘い込んだが、ほとんど効果はなかったようだ。これからこんな晩が続くのかと思うと悩ましい気分となる。

 今日はこの後、おふくろに付き添って横浜の先まで出かけることになっている。法事があるためだ。祖父の十三回忌の法要で、これが最後の法要となるという。
 祖父の法事と言えば、祖父の死後、親族は大いにもめたものだった。まともな遺言がないままに、それなりの遺産を遺したため、親族は "十年戦争(?)" のようないがみ合いをすることになってしまったのであった。
 裁判その他に決着がついたのは、十年は掛からなかったものの、つい先ごろのような印象がある。
 おふくろも、老体に鞭打って、再三、遠方の家裁まで足を運ぶこととなり、遺産より何よりもその身体の方が気遣われるありさまであった。

 結局、 "十年戦争(?)" が遺したものは、決着は決着であったが、関係者たちが注いだ労力と気苦労からすれば、ほとんど徒労に近いものであったかもしれない。まして、親族が真っ二つに別れていがみ合うこととなり、今なお、そのしこりは尾を引いている。
 今日のこの法事にしても、どうも二手に分かれて執り行なわれることになっているらしい。さぞかし、草葉の陰の亡き祖父は、複雑な心境でこの地上のありさまを眺めているのではなかろうか...... (2008.07.06)

 いよいよ "暑苦しい" 季節となってきた。まだ梅雨が明けないが、昨日、今日あたりの高気温は夏場のものと言えるだろう。
 現在、書斎の温度計は33.5度、おまけに湿度が50%となっている。PCを稼動させているためなのか、とてつもなく "暑苦しい" 。
 事務所でも、まだクーラーは使っていないが、窓を開け、扇風機で風を起こさないとやりきれない暑さとなっている。

 こう暑いと、 "地球温暖化現象" というものが "肌身で納得" できるようである。
 CO2 による "温室効果" が指摘されていても、とかく他人事となりがちなところがあるが、こうして夏場の暑さが伴うと、やはりCO2 によるものだろうかと考えさせられる。そして "地球温暖化現象" を身近に引き寄せて問題視する気持ちも触発される。
 明後日から、 "洞爺湖サミット" が開かれるようで、やはり主要なテーマはこの問題になるとかである。そんなこともあってか、メディアでも昨日、今日とこの問題に多くの時間を割いたキャンペーンをしているようだ。
 実を言えば、こうしたテーマが議題に上るサミットであれば、比較的涼しいであろう北海道の "洞爺湖" なんぞで開催するよりも、再度、 "沖縄" で敢行した方が "温室効果" 問題への実感が深まるのではないかと考えたりした......。

  "いい仕事してますねぇ" とは、聞きなれた言葉であるが、通販でちょっとした "光学部品" を購入して思わずそんな言葉が出そうになった。
 気分がパッとしない時には、何か自分を楽しくさせるような "おもちゃ" があると多少なりとも救われるものだ。そんなことで、今、ケータイ付属のカメラに関心を向けている。というのも、 "Google" の無料ブログを活用して、 "写真日誌" にも挑戦しているのだが、その際、ケータイ付属カメラを使い、そしてそのままケータイでアップロード投稿をしているからなのである。

 これまで、ケータイ付属カメラなんぞチャチで使えないものと高を括ってきたのだったが、いざなだめなだめ使ってみると、日誌のスナップ写真向きならば妥協できないわけでもないと思いはじめたのである。
 で、これまで見向きもしなかったケータイ付属カメラのスペックも "取説" をひっくり返してみたりすると、何と一応 "ズーム" 機能まで付いていたではないか。もちろん、 "光学ズーム" ではないため、画質が劣化することとの引き換えではある。
 ケータイ付属カメラも、相応にアングルを工夫するならば多少気の利いた記録写真程度は撮れる。しかし、アングルの工夫と言っても、限界があり、やはり "ズーム" なり "望遠" なりの機能が必要となってくる。

 タバコがいよいよ500円水準にはなるのであろうか。1000円という目論見もあるようだが、その水準ではタバコに見切りをつける "禁煙" 挑戦者を増やしてしまうということで、500円水準に落ち着くのかもしれない。
 しかし、そうだとしても今どき喫煙を続けている者は、ヘビースモーカーないしはチェーンスモーカーであったりしそうだから、一日に "500円×2" 程度の出費となり、このご時世では家庭内で物議を醸すことになりかねまい。
 やはり、 "思い切っての禁煙" というのが正解のようであろう。
 自分も、30年来の喫煙を四ヶ月前に断ち切った。これまでに何度も挑戦しては惨敗に終わっていたが、今回は割りと滑らかに事が進んだ。加齢のせいで、生理的欲求自体がまどろみ始めたのかもしれない。
 家族に煙たがられることもなくなったし、起床時にもドッと引き受ける疲労感ということもなくなった。また、もはや歯磨きの際にも吐き気を催すようなことはなくなったようだし、そういう点ではこの歳になって身体の抜本的リフレッシュを遂行したということになろうか。

 今日の株式市場は惨憺たる状況であった。
<2日の東京株式市場は、世界経済の先行き懸念から売り注文が優勢となり、日経平均株価は前日より176円83銭安い1万3286円37銭で取引を終えた。6月19日から10営業日連続での値下がりで、「証券不況」の65年2~3月にかけての10日続落以来43年ぶりの記録となった。>( asahi.com 2008.07.02 )
 景気低迷と諸物価高騰とがガッチリと "ペア" を組んでしまった現状の結果なのであろうか。
 それにしても、原油高騰が引き起こしている諸物価の値上がり状況は酷過ぎると言わざるを得ない。かつて、70年代に二度に渡る "オイルショック" という経済異変が発生し、その際は石油を原材料とするトイレット・ペーパーや洗剤などの品不足で大騒ぎとなったものだった。
 そして、相次いだ便乗値上げなどにより、インフレが加速されることとなり、諸物価の上昇は「狂乱物価」という造語まで生み出す事態になったわけだ。

 しかし、経済の成長期の末期に起きた70年代のそれと、現在の経済低迷期の状況でのそれとは大分事情が異なるはずである。しかも、年金問題や医療費問題などの社会福祉面で、国民が少なからぬ負担を強いられている現状にあっては、この否定的インパクトは計り知れない。
 原油高騰という事態は、生活者に影響を及ぼす前に、石油に依存する生産者(製造業・サービス業)の足を大きく引っ張ることになっている。この間、国際競争力を高めるべくコスト削減に邁進してきた生産者の努力も、この天井知らずのごとく上昇する原油高騰傾向は苦境を深め言い知れない不安状況を作り出している。

 国際的な原油高騰が何とか収まらないのかと、誰もが懸念しているわけだが、同時に誰もが "無力感" で歯軋りするはめになっているような気配だ。片方で、原油産出国が超バブルな景況を謳歌しているのが恨めしい限りであろう。
 で、どうしてこんな "理不尽" なことになっているのか? の問いに対する答えは、とりあえず以下の文面にあるということになろうか。

 このところ、いわゆる "ブログ" に関心を持ち、意味のありそうな "ブログ" を検索しては閲覧したりしている。しかし、いつも次第に "苛立ち" が先立ってしまう。
 そして、そりゃそうだろうなと自分でも合点したりする。 "玉石混交" という言葉があるが、あたかも広大な原野に広がった "瓦礫の山" の一片一片を掘り起こすかのようなことをやっていれば、潰すべきヒマがそれほどあるわけではない者にとっては、自分は一体何をしているのだろうか、というような徒労感に襲われることになり、苛立ちもひとしおということにならざるを得ないだろう。
 これが "Web2.0" 時代の現実なのだろうかと悲観めいてしまう。
 ちなみに、 "Web2.0" 時代の表看板は、以下のようになるのだろうか。<ウェブ2.0という言葉は人々の知識や能力をひとつにまとめ上げ、マス・メディア主導ではない新しい文化や経済を生み出す牧歌的な理想主義としてスタートした。>(佐々木俊尚『ネット未来図』文春文庫 2007.10.20)

  "個人ブログ" は言うにおよばず、さまざまな "ソーシャルメディア" に盛られた "玉石混交" 的(一応そう呼んでおく)情報がウェブの海に溢れ、そこへちょっとした "検索キーワード" の一片を投じると、まるでプランクトンの乏しい海域のように、無数の "玉石混交" の魚たちが群がってくるようなありさまとなる。
 こうした状況は、先ずは検索する側もたまったものではない。だからこそ、 "Google 検索システム" が歓迎されているのだろうが、同時にそのシステムに "SEO" の観点で関係づけた無数の "スパム・ブログ" (広告[アフィリエイト]収入を得ることや,特定のサイトへ誘導したりすることを目的として,濫造されたブログ)も湧き上がっている。
 また、 "SNS[ソーシャルネットワーキングサービス]" をはじめとした "ソーシャルメディア" の方も、手を変え品を変え、多くのネット・ユーザを囲い込むことで、日々、膨大な数の "玉石混交" 的情報を吐き出すことになってもいるようだ。

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