yasuo hirose: 2008年4月 アーカイブ

 のであろうか。結局は、自分であり、さらに言えば自分の "頭" 以外ではなかろう。にもかかわらず、 "頭" は誰かによって "使役" されるがごとく表現される。
 しかし、それでいいのだと思える。 "頭" というものは自動的に働くものというよりも、"使われる" もの、いわば "被・使役" 的なものと見なされて然るべきなのであろう。

 のっけから何をわけのわからないことを言っているのかと思われそうだ。言いたいことは、要するに、"頭"、"脳" というものは、一見、パーフェクトな "自動装置" 、あるいは "司令官" のようでありながら、実はそうではなくて身体の五感(五官)をはじめとする身体環境にしっかりと依存して "働かされている" ところの、律儀な "ワーカー" でありそうだ、ということなのである。
 しかも、 "律儀な" という形容も無視されてはならないようである。身の程を良くわきまえているようで、身体の五感(五官)に基づく神経からの信号には何はさて置いて反応するようである。もし、五感(五官)からの便りが何も無くなった時にだけ "脳" 自身は "繰り言" (=思考)を始めるのだそうである。
 思考というのは一見生産的なもののように見なされながら、実は "脳" はヒマな時に繰り広げる、まあその意味で "繰り言" とは良く言ったものだが、そうした超現実的なもの、余計なものだと括るそんなシニカルな考え方があるようだ。
 こう書くとやや距離を置いたような書き方をしていると思われそうだが、実は、こうした考え方、やや "脳" の働きというものを突っ放したような考え方に自分は好感を持っているのである。 "脳" を神秘的に、えこ贔屓してみたり特別扱いをしたりせずに、身体の他の部分たちと同等の "クラスメイト" なのだと見なすことが、 "脳" 自身にとっても一番良さそうだという気がしているのである。
 だから、他の "クラスメイト" たちから切り離して、 "脳" だけを隔離して "強制労働" 的に働かせても、ろくなことにはならないのかもしれないと想像したりもする。むしろ、十分に身体全体を活動させながら、それと並行して "脳" 活動を展開させるのが最も健全かつ効果的であるのかもしれないと考えている。

 かねてより、自分は、脳科学者・茂木健一郎氏の "脳" に対する基本的視点は以上のようなものではないかと共感を覚えてきた。たぶん、同氏が脳科学者として人気を博している理由もまた、決して "脳" の神秘性をやたらに強調するのではなく、他の身体部分との密接な関係こそを説く点が一般人に受け容れられやすいからなのかとも思ってきた。
 昨夜も、とあるTV番組で、なるほどと感じさせられるトークをしていた。ひとつは "記憶" を効果的に進める方法であり、もう一つは、どうしたら "集中力" を高めることができるか、という方法であった。
 前者については、これまでにも多くの者が指摘してきたように、身体全体の感覚を重ね合わせて "記憶" 活動を行うならば長期記憶に残りやすいというものであった。茂木氏は、この方法を "鶴の恩返し" になぞらえていたのがおもしろい。つまり、そのドタバタした作業は、決して他人に見せたくないものだからだとか......。
 やや感心したのは、後者で指摘された方法、とにかく "いきなり、行動的に始めてしまう" というラディカルな方法であった。ここで、前述したところの、 "脳" の性癖たるヒマだと "繰り言" を始める......、という点を思い出したのであった。
 人は、集中力を高めようとする際、、五感(五官)を閉ざして、 "脳" への神経信号をシャットアウトすれば、集中力が高まると考えがちである。しかし、これは往々にして失敗するのだと説明された。
 確かに、五感(五官)を閉ざして無為のスタンスに入ると、どういうものか逆に、妄想が走馬灯のように現れ、収拾が付かない状態となりかねない。眠れない入眠時に、何百回も羊の数を数えてしまうことと似ているのかもしれない。
 で、茂木氏は、むしろ、 "いきなり、行動的に始めてしまう" ことがお勧めだと言っていたのである。何かをまとめる作業に集中しなければならない場合、気分を集中させてから作業を始めようとしてもそれは難しく、むしろ、身体を使うようなかたちで "いきなり、行動的に始めてしまう" ならば、虚を衝かれたような格好で "脳" は余計なことを考える( "繰り言" を始める)ヒマも無く、集中体勢に入ってしまうのだと......。

 実際、自分は、毎日この日誌を書く際に、ウダウダと考えようとすると収拾が付かない状態となり、むしろ "エイッ、ヤッ!" と書き始めると意外とまとまってゆくことを経験している。
 また、現在のような "不景気" の時代には、働き手たちもルーチン・ワークが無く、手持ち無沙汰でいろいろと考えあぐねることが想像されたりする。しかし、この場合、大半の "考えあぐね" は、 "下手な考え休みに似たり" なのだろうと思える。こうした "不毛さ" や "非生産的状態" に陥らない秘訣はと言えば、 "いきなり、行動的に始めてしまう" こと以外にはなかろう...... (2008.04.30)




















  "タバコを止めて" ほぼ二ヶ月が経過しようとしている。 "禁煙" をして......と書こうとしたが、もう二ヶ月も経とうとしているのに "禁煙" でもなかろう、と思えた。
 とは言うものの、 "禁断症状" こそは表れないものの、いつ再び吸い始めても不思議ではない妙な "喫煙渇望" は十分に残存していそうである。その意味では、未だに "禁煙" という言葉を使うのが妥当なのかもしれない。

 ところで、 "タバコを止めて"みると、今ひとつ良い結果が実っているようでもある。大したことではないが、小銭の減り方、財布の中のカネの減り方が、やはり変わったという印象を持つ。今までならば、一日最低600円(300円×2箱)が "浪費" されていた。大した額ではないと言えばそうも言えるが、ふと気づいたことは、小銭入れの硬貨の減り方がこれまでとはやはり違う、という点だったのである。確かに、100円玉6個に相当する硬貨が "自動的に" 無くなるのとそうでないのとでは、やはり相応に異なるということになろう。
 シビァに考えれば、一日当たり600円あれば、ゼイタクを言わないならばランチが賄えてしまうはずであろう。そう考えると、生活必需品でもなければ、健康に良いわけでもなく、ただ単に "税金の塊" でしかないものに自ら進んで "献金" するというのは何と愚かしいことかということなのである。
 先日、風邪のために向かった病院の耳鼻科の医者も言っていたものである。その医者は、何でも周囲の人々に "禁煙" 運動を呼びかけているとのことであったが、身体に計り知れない害があるものを、政府が販売を認めて、税金を取っているのはいかにもヘンな話ではないかと、まくし立てていたものだった。

 まあ、こうして "タバコを止めて" 、健康の敵から自由になり始めているわけだが、もう一つ、理解に苦しむ "税の支払い" からも自由になれたという思いについては、もっとしっかりと前向きで自覚してよいかと考えている。そうすれば、ますますもってタバコと、それに傾く傾向を残す自分とを蔑むことができそうだからである。
 ところで、この辺の "実績" を踏まえて、 "禁煙" ならぬ "禁車" についても始めてみてはどうかと考えている。 "ガソリン税暫定税率" 問題で、わけのわからない行政対応が知らされてみると、 "わかった! じゃあ、ガソリンから金輪際、縁を切ろうじゃないか!" と啖呵を切ってもやりたくなるわけだ。政府と、そしてはた迷惑なことに精を出す先物原油ファンドの連中に対して...... (2008.04.29)

 "ビジネスモデル" というタームがジワジワと現実味を帯び始めているのかもしれぬ。つまり、もはや<過去から連綿と続くビジネスモデルの微調整的な対応だけでは、ネットという破壊的な津波は乗り切れない>(引用先後述)のではないかという不安を伴った予感のことなのである。
 おそらく、経済市場全体が一様にこうした様相を呈しているわけではなかろう。経済市場はとてつもなく広く、様々なジャンルで構成されており、多種多様なジャンルでの展開を全体として見れば、非常に "跛行(はこう)的" な状態のはずであろう。

 そんな中には、相変わらず<過去から連綿と続くビジネスモデル>で、生きた化石 "シーラカンス" のごとく生きながらえているケースもあろう。さしずめ、アナクロニズムが権力的に温存されているような官僚たちの天下り企業なぞは、時を超越したスーパー・ビジネスモデルとでも言うべきか。
 それはさておき、先手必勝的に最前線の動向をいち早く捉えることが決め手となりがちなビジネスにあっては、時代環境が紡(つむ)ぎ出し、先駆者が定式化する "ビジネスモデル" というべきものが益々注目されるべきなのであろう。もちろん、時代環境の主要な内実がネット環境にあることは否めまい。
 現状は、ネットビジネスのジャンルはともかく "ビジネスモデル" がどうこうと言うほどではないと観察するのか、いや、環境に現れた兆しを先読みすべきなのだと考えるのかが、重要な分岐であり、選択だと思われる。

 <「コンテンツは無料」の時代にいかに稼ぐかを考える>(岸 博幸/インターネット-最新ニュース/IT-PLUS 2008/04/28 )の筆者は、既に、ネット環境によって "ビジネスモデル" の改変が迫られている米国の音楽業界を見つめ、<最近米国で2つの面白い動きがあった>としていた。
 つまり、<1つは、世界最大のSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)であるMySpace(マイスペース)が大手レコード会社と共同で音楽配信サービスを始めたことであり、もう1つはロングテール理論で一躍有名になったクリス・アンダーセン(雑誌Wiredの編集人)が「Free! Why $0.00 is the future of business」という論文を発表したことである。この2つは、日本のネットビジネスに重要な示唆を含んでおり、見過ごしてはならない>と述べている。

 前者に関しては、<ネットの普及に伴って音楽CDの売り上げが毎年10%以上も急減>、<「音楽自体は関連ビジネス(コンサート、グッズ、ファンクラブなど)で収益を得るための広告でしかない」>とかだそうで、<ネットの破壊力はすさまじく、音楽業界はビジネスモデルを根本から変えようと試行錯誤している>らしい。
 また後者については次のように述べている。
 <まず、情報に関する限界コストがどんどん低減する(ゼロになることはないだろうが)ことが既存産業に破壊的な影響をもたらすという事実認識が正しいことは、音楽産業の例からも明らかである。個人的には、それに加えてデジタル化で情報の複製と共有が容易になり、情報の価値が軽くなってしまった(平たく言えばタダが当たり前になった)ことも大きいと考えている。これら2つの地殻変動を避けられない以上、情報を商品とするコンテンツ、メディアなどの産業は、ビジネスモデルをドラスティックに変えない限り繁栄を続けられないことは明確である。>
 そして、<コアビジネスの価値がデジタル化とネットワーク化で大きく低下したときに、その周辺や延長のビジネスでも稼ぐことにより「合わせ技一本」で収益を生み出す>というような "ビジネスモデル" の見直しは避けられないだろうと指摘している。
 <日本のコンテンツ産業やメディア産業はビジネスモデルの抜本的な転換という構造改革に取り組まなくてはならないのである。現状のような、過去から連綿と続くビジネスモデルの微調整的な対応だけでは、ネットという破壊的な津波は乗り切れない。>という状況認識は、心して受け止めるべきだろうと思う。また、この種の動向を見る視点は、<コンテンツ産業やメディア産業>のみに限定するのではなく、自分たちが関与している業界にも援用してみるべきではなかろうかと感じている...... (2008.04.28)

  "ビジネスにウェブ環境を活かす" という点は、もっとシビァに見つめられて良いと思われる。
  "ウェブ環境" の何が見つめられるべきかはいろいろな視点がありそうだ。だが、単刀直入に言って、 "コスト面的事実" が持つインパクトは常に注目されていいように思われる。
 つまり、 "ウェブ環境" が果たす役割というものはいろいろとあろうが、否定できない明瞭な事実の一つは、需要と供給の結びつき方における "中間流通部分の割愛" 、生産者(ベンダー)とユーザーとの短絡的、効率的な遭遇、という点なのかもしれない。要するに、 "ウェブ環境" によって、 "通販的" な "脱・中間マージン価格" での取引が、ドラスティックに進展した、という事実ではなかろうか。
 この点の持つ意味は決して小さくはないし、今後もこの傾向が益々強まるだろうし、また、浸透するジャンルや業種もさらに広がって行くに違いなかろう。

 とにかく "ウェブ環境" というような手軽な "情報公開的環境" が登場するまでは、消費者やユーザーにとって、第一次生産の現場(産地)での "コスト面的事実" やいわゆる "原価" というようなものは未知数でしかあり得なかったはずだ。 "中間流通業者" が、一定の "アリバイ的役割" を果たすことと引き換えに、しっかりとそれに "霞" をかけていたと言えるのかもしれない。
 ところで、この "中間流通業者" の "アリバイ的役割" とでも言うべきものをどう理解するかについては、多少議論が分かれそうである。ある者は、 "中間流通業者" の管理的役割とその工数は十分に意味のあるものだと主張するであろうし、また別の者は、それはまさに "中間マージン" を取るための "アリバイ的役割" でしかないので、存在理由はないに等しいと言うのかもしれない。
 しかし、やはり "ウェブ環境" の社会的な浸透は、あらゆる業種から "中間流通業" 的クッションを消し去る機能を果たしつつあるのではなかろうか。これは、企業などの組織において、 "ネット環境" が "中間管理職層" を排除する機能を果たして行ったのとアナロジカルな関係がありそうに思える。

 今現在、ビジネス界で展開している大きな動向の一つは、まさにこうした "中間流通業" 的クッションはずしの展開だとは言えないであろうか。既に、電気製品などの規格品販売を中心にした "通販" スタイルはすっかり定番化したようであり、また、農産物などの "産地直送販売" もいよいよ活況を帯びつつあるようである。後者に関しては、 "中間" はずしの意義というものが、価格面でのメリットを生むだけではなく、新鮮さなどの品質的メリットのあることをも示唆していそうだ。
 多分、次のステップでは、いわゆる "多重下請構造" が顕著であり続けた経済ジャンル(ex.ソフトウェア開発業etc.)において、存在意義が薄いと見なされた "中間請負階層(企業)" が次第に侵食されていくのではなかろうか。既に、グローバリズム経済は、国内の "多重下請" どころか、中国・インドなど海外の低コスト技術力を駆使しているわけである。そして、現在の低成長の景気状況は、 "ウェブ環境" の進展と相俟ってこの傾向をさらに増幅させ、 "供給" と "需要" との距離を否応なく縮めていくに違いなかろう。
 ただ、生産技術 "供給" 側にとって、いわば "エンドユーザー訴求的(直訴的)" とも言えそうな環境には、少なくない課題が残されていることも事実のようである。とりわけ、 "ウェブ環境" の最大限の活用によって、潜在的ユーザーへの説得力をもった営業プレゼンテーションをどう展開するかは、緊急かつ重要な課題だと思われる...... (2008.04.27)

  "興醒め" 以外の何ものでもない "現金輸送車護衛的障害物リレー" については何のコメントも書きたくないし、書く必要もなかろう。皆がそれぞれに実感を持ったはずであるから、それで結構じゃないか、というところか。

 そう言えば、最近は、政治的事象に関してここにコメントなり感想なりをあまり書こうとしなくなった。もちろん、黙って黙認できるほどに政治的環境がまともになったわけではない。正直言えば、書くに値しないという思いとでも言うべきか。かと言って、もう "死語" になっているはずの "ノンポリ" を決め込もうとしているつもりでもない。政治は好き嫌いでかかわることではなく、否応なく人々の前に立ちはだかってくるもの......。
 そうした政治的事象に関する文章は、読み手にとっても、書き手にとってもさほど意味のあることではなさそうだ、との思いが昨今募っているからなのかもしれない。
 もしそれらを書くとするならば、しっかりと "有効性" とでも言うべき点を吟味した上で書くべきかもしれないと感じている。特に政治的事象について書くならば、その点を考慮しなければほとんど意味があるとは思いにくいからだ。
 つまり、感情発露の延長でしかないかたちで書くとするならば、毒にもクスリにもならない時事評論家の物言いと同等ないしはそれ以下だということになろう。急所を踏まえた、決定打的インパクトを持つ叙述ができれば話は別なのかもしれない。しかし、そこまで、喰らいつくのは日誌の範疇では辛い作業となってしまう。ならば、中途半端な物言いは慎んだ方が良さそうなのかと思ったりもするわけなのである。

 今日はさほど良い陽気ではなかったが、それでも、ウォーキングの際に薄日の中で目にした戸外の新緑の光景は心地良いものだった。新緑というのはこういう状態をこそ言うのだろうと独り納得をしていた。
 樹木の枝で萌え立つ若葉は、緑と言うほどに濃い色ではなく、いわゆる "黄緑色" の淡さで輝いていた。いずれもが、いかにも柔らかそうな感触のようであった。
 青空と強い陽の光の下ならば、それらは透明感をもって輝くのだろうが、今日は、薄日、曇天であったため、しっとりとしたムーディーな感じであった。そして、鶯の声をはじめとして、野鳥たちの鳴き声も響き渡り、時季が時季となるとこうも自然の雰囲気は変わるものかと感じさせられたものだった。
 そのようにして何の変わり映えもしない光景の中を、目につく自然に親しみを覚えながら、また自身の身体の存在感を感じながら淡々として歩くこと。そんなことこそが、大事なことであり、幸せなひと時なのであり、これらの日常的光景のことをこそ実感をもって詳細に書くに値することなのかもしれない、と感じていた。
 この点は、写真・フォトの意味と良く似ていそうである。後日、貴重だと痛感する写真はというと、ことさら旅行に行った先の風光明媚なものであるよりも、過去の日常生活のありふれたひとコマの光景だったりするようにである。
 できれば、後日そんな感慨が抱けるようなことをこそ書きたいものである。おそらく、それこそが書くに値する "大事なこと" であり、日々生きる上で注目に値する事柄であるのかもしれない...... (2008.04.26)

 "もし世界を変えることができないとしたならば、自身が変わる以外にない" と、彼の岡本太郎氏がおっしゃったそうだ。先日、メディアのどこかで耳にした言葉が残響として残っている。
 もちろん、岡本太郎氏が強調されたかったことは、 "世界を変えること" であったに違いなかろう。そのデフォルト(初期設定!)を志向せずして、自分という存在も個性をも度外視して "自身が変わる" ということだけに尻尾を丸めて逃げ込むべきではない、と目をギラつかせて叫ぶ同氏の姿が彷彿として浮かぶようだ。
 が、それと同時に、 "......ならば、自身が変わる以外にない" と締め括るところに、また "リアリスト" としての同氏の姿を見る思いがする。ゴッホへの道とでも言うべき選択を拒否する人間・岡本太郎とでも言うべきなのであろうか。

 とまあ、唐突な書き出しとなってしまった。
 "もし世界を変えることができないとしたならば、自身が変わる以外にない" というフレーズには、個としての人間と世界との関係の切羽詰った緊張感がみなぎっていそうである。そう言えばふと、「この世界は自分のためにあるものではない」と何度も自覚したとされるピアニスト・フジ子・ヘミング女史のことも思い起こす。
 いやいや、どうも強い個性の芸術家の例を踏まえ過ぎると、これからの話が書き出しにくくもなってしまうか......。
 "もし世界を変えることができないとしたならば、自身が変わる以外にない" というフレーズを下世話に読み取るならば、個人と環境世界との調和の問題、あるいは "適合" の問題ということになろうか。いや、とかく個人という存在への視点が霞んでしまい、グローバルにせよ国家にせよ全体環境が優位に扱われる現代という時代においては、個人は、全体世界に対して "適合" したり、 "最適化" したりすべき存在なのだと当然視されているのかもしれない。
 だから、さしずめ、現代にあっては、前述のフレーズは、仮説的命題なぞではなく、諦めと嘆きの呟きということになるのであろうか。つまり、 "世界を変えることなぞできないのであるから、自身が変わる以外にない" というようにである。

 まあ、この観点で現代という時代の閉塞状況を云々することもできるが、今日書こうとした点は、 "全体状況への最適化" というテーマがとことん加熱した状況、それが現代のまがまがしい特徴なのだろう、という点なのである。
 その象徴的な事態は、グローバリズム経済に貫かれていそうであるが、今ひとつ、いかにも加熱していると痛感してしまうのが、ネット検索という切り口から垣間見える "数で決まる世界像" ということなのである。ありていに言えば、一切の価値観的視点を脇に置いて、何はともあれ世界中のネット閲覧者がどれだけ多くアクセスするか、それだけが重要な関心事だと黙認されるかのような時代風潮なのである。
 少なくとも、実質的なビジネスの動向は、ほぼ確実に、このネット上でのアクセス数によって方向付けられているかのようである。
 こうした潮流の上に、とも言われる。英語のの頭文字を取ってSEO( "Search Engine Optimization" 、サーチエンジン最適化)が叫ばれ、 "SEOを制する者がビジネスを制する" とまで言われそうな風潮をかもし出しているのであろうか...... (2008.04.25)

 弊社の事務所の窓ガラスには、すぐ直下の通りを行くクルマや歩行者に向けた広告メッセージを貼り付けている。もちろん、社名が入った大看板は別に設置してあるが、そのほかに、この事務所は一体何をしているところなのか、という関心に応えようという "親切心" だと言えないこともない。
 ホームページはそれとして設置しても、近場の人々には別にちょいとしたメッセージを出しておくべきかと思えたのだ。要するに、通りすがりの人々からすれば、ソフトウェア開発という言葉だけではイメージが湧きにくいと思えたからなのである。

 そんな中でも、 "制御ソフトが......" というようなものは、フーン、ということなのだろう、見過ごされがちである。これまでに反応があって事務所のドア口まで来られた方は、もっぱら "ホームページ制作" というメッセージ目当てであった。 "5万円から" というキャッチ・フレーズも気にしてくれるのであろうか......。
 まあ、近所の方たちにはサービス精神を発揮しても良かろうという思いがあったわけだが、どういうものか、あまり "良い訪問者" には恵まれていない。要するに、 "冷やかし" が多かった。しかも、 "礼儀正しい冷やかし" は少なく、 "たちの悪い" 方もおられた。
 そんな中では、先日来られた方は "礼儀正しい冷やかし" さんであったかもしれない。帰宅されてから、弊社のサイトにアクセスされ、その方の趣味でもある "小説" を弊社サイトから探されて閲覧してくれたのである。その上、その読後感想をメールで送ってくれたものだった。

<[かもめ]を読みました。
[かもめ] 第1話から~
 なんと!詩的情緒溢れて、少年時代の懐かしい思い出が、甦ってくるようです。
 私は、少年時代の詩的な風情が、なにか、じーんと、胸にこみあげてきました。
 おお、なんと素晴らしい書でありましょう!!
 詩人になって、カメラを片手に、散策したい・・・桜が散った風情でも撮りに行こう、と思います。

 第6話から、がらっと変って、団塊世代の奥深い時事評論となって、現代の凄まじいほどの生存競争!
 深い考えに沈んで、考えさせられました。・・・・うーん、もう、ぐいっ、と、ビールを呑みました。>

 まあ、これはここまでとしておくが、先にその方が訪ねて来られた際には、どうもご自身のホームページの改造の意向をお持ちのようであった。それも、 "収益性" に向けて改造されたいようであり、聞きかじりの情報をあれこれと語られておられた。
 その方は、小説の執筆や映画制作のジャンルに関心と経験をお持ちのようで、現在も "ブログ・サイト" を開設しておられ、そこで "連載小説" も書き綴っておられる。で、自画自賛されていて、いわゆる "課金性" というかたちでの "閲覧有料化" は可能でしょうか、ということであったのだ。
 また、スポンサー広告を載せて、そのバナー・クリックや契約成立に応じて "報酬" が支払われるというスタイル( "アフィリエイト" システムのこと)というのはどんなものなんでしょうか、という関心を示されていた。

 振り返ると、いわゆるホームページというものに関心を向ける方には二種類ありそうだ。まさに趣味やそのほかの "事柄" にのめり込み、コンテンツに凝るタイプと、もうひとつは個人でもビジネス・サイトのごとく、ただただいろいろな "収益性" のチャンスに熱い視線を向けるタイプだということになりそうだ。そして、昨今は、急激に後者のタイプが増加してきたかに見える。
 やはりそこには、先日もここで書いたように、 "ネット検索" の技術や環境が急速に発展してきたことや、それとの関係もあって、個人サイトをも巻き込むかたちでの "ネット・ビジネス" 環境がにわかに熟してきたことも原因となっているのであろう。
 また、経済社会の環境がますます世知辛くなり、少しでも収入を得たいとする風潮が否応なく強まっていることも材料視しなければならないようだ。

 弊社のこのサイトは、どちらかと言えば前述のタイプでは "前者" に傾いてきたはずである。これまでにも、企業広告バナーを掲載してはどうかの勧誘もあったが、とりあえず敬遠してきた。
 ただ、ここに来て、個人サイトの方々がサイトにおける "収益性" に強い関心を向け始めるようになってくると、弊社の "ホームページ制作" という一つの業務でも、 "アフィリエイト" システムなどに関しては精通しておくべきかと思い始めたのである。大して儲からないですよ、問題はコンテンツなんですよ、と説明するにしても、どの程度どうなのかという実情を掌握しておくべきかと思えたからである。
 で、早速、一連の段取り作業をこなして、この弊社サイトにも "アフィリエイト" を張って様子を見ることにしたのである。 "amazon.co.jp" を先ず選んだというのは、たとえクリックの報酬(通常は1円のケースが多いようだ)がなく、 "成約時" の少額報酬だけではあっても、 "amazon" というパイオニア的存在に敬意を表するとともに、実によく利用させてもらってきたことの愛着からなのかもしれない。とにかく、IT環境のホットな事柄は、身をもって経験すべし、なのである...... (2008.04.24)

 先日、またまた "出会い系サイト" で知り合った若い女性が行方不明とかの悲惨な事件に巻き込まれたようだ。そんな報道に接すると、やはり、 "どうしてまた......?" という疑問が込み上げてきたものだった。
 そんな時であった。とある著作を読んでいて、以下のような叙述に出会ったのだ。

<――高校を卒業し、しかし就職先はなく、将来に何の夢も持てない。周囲の同級生や先輩、後輩のほとんどもフリーターで、つきあっているいる彼氏彼女もやはりフリーターという状況の中では、自分が目指すべきロールモデルどころか、尊敬できる人物さえ存在していない。周囲には田んぼと寂れた工場、それに街道沿いにぽつんぽつんと立つコンビニエンスストアしかなく、テレビに出てくるような華やかな都会の生活にはまったく無縁だ。そんな生活の中で若者たちはリストカットし、同じような悩みを持つ登場人物が描かれるケータイ小説に溺れ、しかし小説のイメージと現実のギャップに再び落胆し、行き場を失っている。
 彼らにとっては携帯電話は、確かに見える外界につながる唯一のデバイスだ。だからあれほど批判されているにもかかわらず出会い系は隆盛を誇り、個人情報を出会い系に垂れ流してしまう人は絶えない。......>(佐々木俊尚 著『ネット未来地図』。以下引用はすべて同じ)

 この叙述は、昨今の "ネット状況" の特徴が次のように指摘された後で書かれていたのである。
<......携帯電話の利用者層の裾野が広がることで、インターネットの世界に新たな社会区分が生まれてくる。......携帯電話は「地方」「十代後半~二十代前半」「フリーター」という言葉で象徴されるような若者たちを、新たにウェブ2.0の世界に引き込みつつある>と。
 その傾向は、<「都会」「二十代後半~三十代」「ビジネスパーソン」といったキーワードでくくられるような人たち>が、PCウェブ2.0を支えている現状に対する対極に見てとれるというのである。
 ここで、<「地方」「十代後半~二十代前半」「フリーター」>というキーワードから、この間頻繁に指摘され続けてきた "格差社会" という歪みを思い起こすことは決して唐突なことではなさそうである。

 冒頭の "出会い系サイト" 事件にしても、問題の核心は、アブナイという周知の事実を繰り返して強調するだけでは何ら奏功しないのかもしれないという点にありそうだ。<彼らにとっては携帯電話は、確かに見える外界につながる唯一のデバイスだ>という淡々とした事実にこそもっと目を向けるべきなのであろう。
 そして、能天気な凡人たちがこの点を想像だにできないのに対して、 "犯罪者(予備軍)" たちの方はしっかりとこの点を "洞察" し切っているところに、悲劇のリアルさがあるのかもしれない。

 なお、 "出会い系サイト" 事件の悲劇の温床には、<外界につながる唯一のデバイス>としての携帯電話という手段の問題があるだけではなく、筆者は他の箇所で示唆しているのだが、<携帯インターネットでは「つながり」系が中核となっていく>という点も見過ごせない。
 もともと<インターネットのサービスには「情報収集」と「つながり」という二つの方向性が並立して存在してきた>のに対して、<携帯インターネット>のジャンルというものは、 "出会い系サイト" を典型として、最近の、個人のひとり言を表出させる<トゥイッター>も、また中高生に人気がある自己紹介サイト<プロフ>も、<「情報収集」の面はきわめて希薄となり、「つながり」が前面に出る>と分析されている。

 この辺の事情は、携帯電話というパーソナルな機器と「つながりの社会性」(社会学者/北田曉大)との相即関係として説得的に説明されている。

<従来のコミュニケーションが正しく情報を伝達することを目的に、送り手と受け手の間の誤解を減らすためにさまざまなルールを作り上げていた(秩序の社会性)のに対し、「つながりの社会性」では、コミュニケーションそのものを自己充足的に維持することが最も重視される。コミュニケーションの内容やそのコミュニケーションでやりとりされる情報はどうでも良くて、つながっていること、そこでどのようにつながり、どういうつながり方をしているかが大切な要素となるのだ>

 とかく、現代社会は、 "情報収集・秩序の社会性" などの面が過剰に強調され、<コミュニケーション圧力>とでも言えるものが高まり、コミュニケーションそのものに対する "疲労感" さえ誘発させているのかもしれない。みんなが、そっとしておいて欲しい、というような手負いの獣もどきになっているのであろうか......。
 そんな状況下で、圧力感のない「つながり」、純化された「つながり」に走ってしまう衝動というものは、決して理解不能なものではなさそうではある。
 ただ、それが "仮想" でしかないことをどこかで認識しておかなければ、不測の不都合や悲劇に直面してしまうということなのであろうか...... (2008.04.23)

 最近の "迷惑メール" の中には、やや特徴的なものが見受けられる。 "相互リンクのお願い" という類なのである。
 どういうものかというと、文字通りウェブサイトで "相互リンク" を張りませんか、というものである。ちなみに、どんなものかを紹介するために、その申し出の一文を引用すると次のようになる。

<この度の、相互リンクお願いの主旨は、ヤフーやグーグルなどのキーワード検索で、お互いのHPがより上位表示されやすくするSEO対策として願い出たものでしたが、ご迷惑とお思いのサイト様には深くお詫び申し上げます。>

 要するに、そこそこの "アクセス数" があるウェブサイトと "相互リンク" を張ることで、自分たちのウェブサイトへのアクセスを促進させようというものである。ただし、以前は、 "ついでの訪問客" 稼ぎといった程度の単純なかたちであったものが、やや "裏" の事情が絡んでいるかのようなのである。いわゆる "SEO対策" というやつである。
 SEO(Search Engine Optimization サーチエンジン最適化 )とは、サーチエンジンの検索結果のページの表示順の上位に自らのウェブサイトが表示されるように工夫すること、なのであり、ウェブサイト関係者たちがいかにウェブ検索の結果に汲々とし始めているかということなのである。
 これは、わからないわけではない。ウェブ検索を行うものは、要するに商品なりサービスなりに対する潜在的顧客ということになり、その彼らの選択や判断が、検索結果のページの上位表示の中で決まってしまうことが多いのだから、 "検索結果上位争い" が過激となるのは至極当然の成り行きなのかもしれない。

 あまり自慢にはならないが、われわれのサイトは結構古くて、1997年頃から開設した。かつて "PCショップ" を並行して経営した際、そのPCパーツなどの紹介宣伝の意図もあって "恐る恐る" 開設したのである。まだ、インターネットよりも "パソコン通信" という前段階の通信形式が注目されていた時代のことである。
 それでも、次第にウェブサイトというものに関心が向けられるようになり、しかも、 "PCオタク" たちが露払い役を演じたものだから、PCショップを前面に出したサイトはそこそこのアクセスを受けたものであった。ただ、当時はアクセス・カウンターを設置するひまもなく、あたふたとしていた。
 そんな当時、折からウェブサイトを開設し始めた個人や会社が、われわれのウェブサイトを紹介したがった、そんな覚えがある。つまり、当時のウェブサイト閲覧者は、 "PCオタク" とは言わなくとも、PCファンが中心であったため、 "PCショップ" のウェブサイトはそうした "オタク立ち寄り所" と目され、そこに "相互リンク" を張っておけば、自分のサイトにも流れてくると考えたのであろう。
 まだ当時は、ネット検索環境についてもSEOについても夜明け前の状況であったから、 "PCショップ" のウェブサイトを閲覧者たちの "繁華街" だと見なすのはあながちハズレではなかったはずなのである。

 振り返れば、そんな当時に、何故もっと "先見の明" のある手を打っておけなかったのかと悔やむこともある。今ひとつ、詰めが甘かったかと感じないわけではない。
 それにしてもまあ、現時点のウェブ状況は、凄まじいものがありそうだ。極端に言えば、 "SEOを制する者がビジネスを制する" と言っても過言ではないのかもしれない。そしてその分、 "何でもアリ" のような手練手管が弄されて、ウェブ状況は熾烈な様相を呈している。
 その熾烈な一例として、つい先ごろも次のような報道があった。

<日本のブログの4割は「スパム」 ニフティが調査
 大手プロバイダーのニフティは、日本の全ブログ記事の約4割が、読者にとってはほとんど意味のない「スパムブログ」だとの調査結果を発表した。アフィリエイト収入や特定のサイトへの誘導を狙って、自動的に頻繁に更新されるのが特徴だという......>( asahi.com 2008.03.26 )

 ここで言われている「スパム」とは、検索エンジンスパムのことであり、Google や Yahoo! 等の検索エンジンで自身のウェブサイトが検索結果の上位に表示させるように、何らかの仕掛けをすること、および施されたウェブページを言うようだ。
 つまり、今や大流行のブログというのも、そのコンテンツがどうこうというよりも、 "商品広告料" 稼ぎのシステムである<アフィリエイト収入や特定のサイトへの誘導>だけがターゲットとされているような、そんな実情もありそうなのである。
 ネット環境とビジネスとが不可分となっている現状は、不可避のかたちでその色濃い影をも生み出しているようだ...... (2008.04.22)

 つい先ほど、修理に出したキーボードについての検査レポートがメールで届いた。
 どうも、検査結果では問題はなさそうだとのことであった。実は、先日、昼食時に手を滑らせてコーヒーカップを揺さぶってしまい、キーボードの縁の3、4個のキーに、ほんのわずかのコーヒーを垂らしてしまったのであった。
 これまでにもこうしたミスは経験していたが、ほとんどは何ということもなかった。
 だが、今回に限り、垂らしたそのわずかなコーヒーの量にもかかわらず、PCは一切のキー・レスポンスをまるで返さなくなってしまったのであった。そんな訳はなかろうと、何度かチェックしてみたものの、完全に "無反応" 状態となっていた。
 そのキーボードは、ちょいと気に入ったものとして選んでまだ間がなかったことと、若干高価なものであったため、いざ無反応となってしまうと、無性に悔しい思いが込み上げてきたのである。そこで、急遽、メーカーのテクニカル・サービスに送り込んで診断と修理を依頼したのであった。

 検査レポートには下記のような丁寧な指摘、また当方側にとっては喜ばしい叙述があった。
 
<ご報告頂いた浸水の影響と思われる跡が確認されましたが製品の動作に問題は無く現在の所不具合は確認されておりません。
 状況からお客様の環境にて確認した時点ではキーボード内部に水が残っており短絡状態が発生していた為、動作不能となっていた物と思われます。
 弊社に送って頂いた期間に内部の水が蒸発し機能が復帰したものと思われます。
 通常粘性の高い液体であった場合は、キースイッチの動作に影響が発生しますが現状問題と思われるキーは確認されておりません。
 上記の結果から、水の影響で不具合が発生するとしても暫く期間が掛かる為、一度製品をご返却しお客様の環境にて暫く様子を見て頂くのが良いと思われます。>

 自然乾燥によって、<短絡状態>(ショート)が正常化したということのようであったが、とにかく "直った" という事実が、まるで、人の身体を襲った突然の病が大事に至らずに "治った" という事実ほどに、なぜだか大変有り難く思えたのであった...... (2008.04.21)

 まあ、こうなったら "開き直る" しかないかなぁ、と思い始めている。何がと言って、年齢の問題のことだ。 従来どおりの響きが付着する "還暦" という言葉を、そのまま受け止めていたのでは、それだけで老化してしまいそうだからである。 "玉手箱" を開けて白々とした煙を浴びたかのようでもある。
 確かに、身体の方は、確実にあちこちが不具合を示し始め、 "耐用年数" というものを自覚させられたりしている。だから、もちろん不摂生やムリは禁物と決め込んでみたり、可能な限り健康増進に気を配ってみたりしている。しかしまあ、高望みをせずに面倒見い見いやるならば、さほど不自由せずにやって行けそうなのが幸いだと思っている。

 身体の調子に対して、メンタルな面ではまさにもっともっと "開き直る" ことがあっていいと思っている。というよりも、どちらかと言えば、フィジカルな身体面以上にメンタル面については若い時からトレーニングもこなして来たつもりでいるため、今少しきつい "負荷" を掛けても良さそうだと考えている。少なくとも、ボケ始めてみたり気力を失せたりといったイメージが付着しないではない "還暦" という言葉は、 "おとといおいで!" と言って返上、撃退すべきであろう。いや、場合によってはこれからが勝負時なのだと粋がってみてもいいと考えている。

 とかく体調が悪いと、気分まで塞ぎ込んでしまいろくな事がない。そしてその悪循環となるならば目も当てられない始末である。まあ、歳で身体が不調となりがちなのは、当たり前のことと見なし、少なくとも気力を整え充実させることから、良い循環を起動させて行くべきかと考えている。
 そんなことから思い直してみると、 "還暦" という言い慣わしをこんなふうに受け止めてはどうかと、ふと思ったものである。
 つまり、天賦自然で所与の自分の人生は、一応 "消化" し終えたのであり、 "還暦" を迎えた昨日からは、 "人生第二ラウンド" という "お釣り・オマケ" の人生が皮切られたのだと......。
 確かに気取り過ぎた表現かもしれない。が、ちょうどつい先ごろに "禁煙" を断行し、35年もの惰性に決着をつけたことと重ね合わせてみると、ある一時点で何かと訣別するということは、決してあっておかしくはないことだと思える。いや、むしろそうした意図的な訣別のようなものは、時として不可欠なのかもしれない気がする。

 では、これからの人生は、これまでの何との訣別をすることで歩を進めるつもりなのか? 未だよくはわからない。が、少なくとも "お釣り・オマケ" 的人生なのだと口にする以上は、未練、執着をできるだけ抑制して、果敢に挑戦する姿勢で臨むべきであろう。
 ついては、挑戦する対象の姿を曇らせたままにしておくような暢気さは適すまい。詰め将棋ではないが、 "王手" 以外に打つべき手はないと考えて処さなければならない...... (2008.04.20)

  "「ケータイ予約万能」システム" なんぞという仰々しいキャッチフレーズのサイト広告を出したりしている。決して、 "ドーダ!" と威張るほどのものではないと十分に自覚している。
 もう何年も前に企画した際には "新規性" もあったものだが、今現在では、あちこちのシステム屋が同種と思しきシステムを提供・販売している。やはり、新製品、新ビジネスを思い立ったなら一刻も早くリリースすべきなのだろうと痛感する。

 ただ、この企画に対して "悠長に構えていた" のは相応の理由がなかったわけでもない。先ず、このシステムのコンセプトは、決して人目を惹くほどに斬新だとは思えなかった点がある。むしろ誰もが思いつくような極めて平凡なアイディアでしかない。言ってみれば、 "予約" というものに関する "多少の便利さ" をシステム化したにしか過ぎない。 "予約" 申し込み側のユーザが、使い慣れた便利さの象徴であるケータイを使って対処できる、という点と、 "予約" を受ける業者側が、ユーザの意向をPCで自動処理できるという点、そんな便利さが売りだと言えば売りなのである。
 確かに、こうしたレベルの "便利システム" を重宝がる業者も十分にあり得るものとは思われる。だから商品化には値するであろう。
 ただ、必須だとまでは言い切れない。自営業者の場合、その規模から言って、 "予約" 者数も高が知れており、一件ごとの電話対応や、メール対応でもそれほど大変という事情ではないのかもしれない。逆に、一件ごとのその都度の対応の方が、ヒューマンタッチで良い、という視点・評価さえあるかもしれない。

 ただ、それでもあえてこの種のシステムを創り上げてみたのは、この種のシステム構成はいろいろとバリエーションを広げることができるし、むしろそのバリエーションの中にこれぞと言ったアイディアを生かせるケースがあり得るのではないかと思えたからであった。現に、自分の見聞する範囲でも、ホホーッと思えるものがある。
 つまり、 "ネットモードのケータイ" というツールと、サーバ・サイドのシステム、そしてこれらを介したPC側システムといったような組み合わせ、この基本構成は、きっと、今後思いがけないアイディア・システムへと繋がってゆくに違いないと予感したからなのである。だから、こうした基本システム構成に慣れておくのも悪くはないと思えたのであった。

 ところで、現在のIT環境の諸々は、やはり "体感" 的に認識しなければならないようだ。まあ、そもそもPCというものが理屈や理論だけではアプローチし切れない存在であったことの延長だと思えばいいのだろう。理論的認識が不必要となったと言っているのではない。理論的認識の水準だけではない、感覚的要素、行動的要素が、システム空間で重い比重を占めるようになったために、多様な能力を駆使して、まさに "体感" 的に認識してゆかなければ事実全体を了解し切れないのかもしれない。
 そんなことから、以前から、新たなシステム環境については、能書きレベルから "体感" 的環境レベルへと踏み込んで行く必要がありそうだと感じてきたのである...... (2008.04.19)

 本当にそれでいいのかどうかはわからない。最近は益々、ウェブサイトを介在させてのビジネスが盛んであるかのようだ。いわゆる "ウェブ検索" をきっかけとしたビジネス活動スタイルのことなのである。ビジネスチャンスに関して、探す側も探される側も、もはやかなり一般的なかたち、必須なかたちで利用しているようである。
 こうしたスタイルがいいのかどうなのかと若干のためらいを持つのは、古い発想なのかもしれないが、仕事・ビジネスというものは......、というような古い先入観があるのかもしれない。

 従来の発想では、仕事・ビジネスというものは、もっと "実質的" な判断材料、たとえば、仕事仲間や業界関係の人脈での情報や評判、さらにその濃縮されたかたちとしての "足で稼ぐ営業活動" などに依拠して進めるべきであり、どこか "浮ついた" かの印象が拭えないインターネット情報でどうにかなる、などとは考えられなかった。
 ウェブサイトの情報というものは、一方で、次第に検索者の動機に手堅く応え始めているとともに、他方ではさまざまなトラブルを引き起こしかねないアブナイ側面も今なお引き摺っている。また、言うまでもないが、セキュリティ問題に関するアブナイ側面も多々残されている。
 だから、仕事・ビジネスというものは、従来どおりの手堅い判断材料と、またそれらとセットになっていた "目視的" な視野、視界内......、というスタイルでやるべきだと思わされもする。

 しかし、この何年かのうちに、仕事・ビジネスを構成したり、取り囲んでいた時代環境は圧倒的な変化を遂げた。何がどうだと簡単には言えないほどに激変した。
 そんな変化の中で、やはり、もはや絶対にはずせなくなった要素となってしまったのがインターネット情報環境であり、とりわけ "Google" 現象とでも言うべき "ネット検索" なのかもしれない。
 仕事・ビジネスに関与する者たちは、何をターゲットとするにしても "需要" 側と "供給" 側の両側が "ベスト・マッチング" を求め、なおかつそのスピード化を期待する。そして、これをスマートに達成させる仕掛けが "ネット検索" だと言えるのだろう。
 現在の仕事・ビジネス環境は、当該案件の条件が許す限りにおいて、この仕掛けを徹底的に活用する方向へと突き進んでいることになる。従来のように、当該の "ベスト・マッチング" を求めるプロセスが、 "目視的" な視野、視界内という限られた地域空間内でしかなかった場合には、 "ネット検索" のような仕掛けは必要ではなかったはずだ。
 ところが、仕事・ビジネスのマクロな環境変化(グローバリズム経済!)は、あっという間に、閉じられた空間を破壊してしまった。いわゆる "地域経済・地元経済の破壊" と言い換えてもいい。
 こうなると、 "目視的" な視野、視界内という限られた地域空間内だけで仕事・ビジネスのチャンスを獲得しようとするスタンスは、とてつもなく困難な状態とならざるを得ない。

 時代環境は、 "Google" 現象という "ネット検索" の仕掛けと同時に、 "Amazon" の "ロングテール" 方式を定式化したとされるわけだが、どうも、現時点での仕事・ビジネス環境にあっては、可能な限りの "ネット検索" 空間上で、広く偏在して散らばっているビジネスニーズを、 "ロングテール" 方式的に "掻き集める" という戦略しかリアリティが残されていないのだと言えそうな気がするわけなのである。
 冒頭で述べたように、 "本当にそれでいいのかどうかはわからない" 。だが、グローバリズム経済が怒涛のごとく押し寄せて "基盤整備" をしてしまった現在の経済状況にあって、 "適者生存" 的にサバイバルして行くためには、この辺のリアルな事情を所与の事実として認識しつつ、その上で策を講じるしかなさそうではないか。
 簡単に言ってしまえば、その意味合いはいろいろとあるだろうが、大きく括って "ネット・ビジネス" 方式というものを踏まえずして仕事・ビジネスはあり得ない、と言えるのかもしれない...... (2008.04.18)

  "感情" というものは、決して "穏やかならよかろう" とか "クールならばいい" とか、さらに言えば、 "理性・知性を撹乱しないならば......" と言ったような胡散臭い存在ではないはずであろう。
 そんなことは当然なことでありながら、 "合理性" を過剰評価して構成された現代という時代環境にあっては、 "感情" というものは、とかく "制御されるべき" 厄介な存在と目されているかのようだ。

 ただ、元々、脳やその他の臓器から生じるとされる "感情" というものは、動物や生物にとって、環境状況を "鷲掴み的に掌握" しようとする重要な生理機能だったようである。環境の異変をいち早く掴み、最適な行動への指針を提供する重要な機能であったようなのだ。
 その場からの逃避を促したであろう恐怖感であるとか、回避不能な敵との闘争を促す怒りや憎悪感などは容易に想像できる。また、その逆に、友好や情愛の感情は、味方との協力・協調行為などを促進させて来たはずであろう。 "原始的" な因果関係でしかないかのように見えるわけであるが、極めて単刀直入な真理を表現している。

 なぜ、 "原始的" で粗野でもあり、また信頼性に乏しいとさえ思える、そんな "感情" というものに今さら目を向けるのかという点についてである。
 考えてみると、 "感情" という機能は、不確かな環境に対する有効性が結構高いのではなかろうか、と思うのである。そして、現代の現時点というのは、まさに不確かさを未曾有のかたちで噴出させている、そんな時代ではなかろうかとも思えるのだ。
 確かに、 "合理性" を旨とした思考と判断の道具環境(c.f.コンピュータ・システム etc.)が、時代環境をパーフェクトにコントロールし切れているならば、 "知性・合理性" 以外にわき見をすることもなかろうかと思える。
 しかし、必ずしもそうも言っていられないような時代環境に今直面しているような、そんな予感が拭い切れないのである。

  "感情" というものを、全面的に "復権" させよ、というような時代錯誤をしようとは思わないが、少なくとも、 "感情" というものを蔑視してみたり、アクセサリーのような副次的なものと軽視する風潮だけは見直して然るべきかと感じている...... (2008.04.17)

 今日、新聞社のネット記事でちょっと気になるものがあった。まあ、昨今のご時世では気にし始めると切りがないニュースばかりであるから、極力 "無視" するようにはしているものの、ちょいと一身上に関することなので気に留めてみた。
 この一ヶ月ほど、まさにしつこい風邪状態が続いたわけである。未だに、その正体が判明していない。だが、ひよっとしたら、これか? と合点気味となったのである。

<百日ぜき、過去9年で最多 ワクチン減衰?感染研集計
 しつこいせきが続く「百日ぜき」の患者報告が増えており、今年1-3月の累計は、比較が可能な2000年以降で最多となったことが、国立感染症研究所の16日までのまとめで分かった。
 特に成人患者の増加が目立ち、全体の4割近くを占めた。専門家は乳幼児期に受けたワクチンの効果が減衰したためではないかとみている。
 成人は典型的な発作症状がなく、見逃される例も多いとされる。感染研は「放っておくと感染を拡大させるため、激しく治りにくいせきなどの症状が出たら早く受診を」と呼び掛けている。
......

※ 百日ぜき(2008年4月16日)百日ぜき菌による感染症。感染力が強く患者のせきやくしゃみによる飛沫(ひまつ)感染や接触感染で広がる。風邪のような症状で始まるが、その後せきの回数が増え、短いせきが連続的に起こり、息を吸う時に笛のような「ヒュー」という音が出る特徴的な発作がみられる。治るまでは通常2、3カ月かかる。成人の場合、せきが長引くが特徴的な発作はみられない。治療には「マクロライド系」と呼ばれる抗菌薬が有効。>(2008/04/16 06:08 【共同通信】)

 発熱という症状がなかったため、いわゆるインフルエンザではなかったようで、ならば一ヶ月も引き摺るような風邪とは一体何なのかが解せないで来た。確かに、気が利いた医院であれば、 "病原体" などの検査をしたりして原因究明をするのだろう。(いや、昨今の町医者はそんなことはしないか?)しかし、高が風邪と思ったものだから、手近な医院で済ませたのが "命取り(?)" だったのかもしれない。結局、何が何だかわからないうちに、復帰したのだった。
 しかし、どうも上記の記事を読むと、<百日ぜき>であったのかもしれないという推測が成り立つ。その "しつこさ" 、また軽い "気管支炎" だと診断されたものの "息を吸う時に笛のような「ヒュー」という音が出る" という症状にも気づいていたし、また、 "中耳炎" のような痛みがあったかのようでもある。
 もうすぐ "還暦" を迎えようとしているわけだから、<乳幼児期に受けたワクチンの効果が減衰した>のだと指摘されれば、仰せご尤もと言わざるを得ない。まさに、<乳幼児期に受けたワクチン>類のほとんどすべてが "賞味期限"切れとなり、 "チャラ" になる時期なのかもしれない。

 それにしても、人間社会は何かと "手抜き" やら "ヘマ" やら、 "責任放棄" やらと立ち腐れ状況が深まっているが、インフルエンザ・ウイルスをはじめとして、病原体となる細菌類たちは何と使命感に溢れたアクションをとっていることであろうか...... (2008.04.16)

 ここ最近、 "マインドマップ" という手法に関心を寄せ、少しづつ凝りはじめている。先日も書いたとおり、思い浮かぶ考え・アイディア・想念などを図示しながら、書き出した事柄間の相互関係を調整していくという、それだけと言えばそれだけのの手法なのである。しかし、結構、思考活動が刺激されるかのような感触を感じている。
 これらを "手描き" で進めても効果ありとのことであるが、PCに馴れ親しんだ者にとっては、やはりPC上で作業展開をしたいものであり、そのための専用アプリケーション・ソフトが世に出てもいる。
 こうしたソフトは、あっさりと言ってしまえば、MSの "PowerPointer" をイメージすれば当たらずとも遠からずだと言える。ただ、 "PowerPointer" は、プレゼンテーション向けに考案されたツールであり、ソフトとしての狙いは、他者にどう自身の考えを効果的に伝えるのかが "Point" となるものだ。
 それに対して、 "マインドマップ" のソフト・ツールは、自身が自身の考えをどう整理したり、発展させたりするのかに "力点" が置かれている点に特徴があると言えるのかもしれない。
 アイディアを捻り出すというような、自身でも明確には掴めない脳内の働きに対しては、何かをどう発見的に引き出すのかという "発見的(heuristic)" なアプローチこそが必須ではないかと思っている。 "ヒント・示唆・暗示" の雰囲気だと言ってもいい。そして、この、頭脳活動における "発見的" な姿勢を促進させるものこそが、この "マインドマップ" のソフト・ツールではないかと受け止めている。
 今、このソフト・ツールの "お試し版" をダウンロードして、自分なりにあれこれと試しているが、その解説文の中で、おもしろい表現を見つけた。<ひとりブレーンストーミング>(月刊ascii 『マインドマップ』より)と称していたのだが、言い得て妙! という感触である。なお、 "ブレーンストーミング" とは以下のようなものだと理解されている。

<ブレインストーミングとは、自由に意見を出し合い、あるテーマに関する多様な意見を抽出する技法のことである。質より量を重視し、お互いの意見に批判をせず、自由に意見を出し合うことで、周辺知識を列挙することができる。
個人が集積している知識は、非常に限られているが、複数人が集まって提案することで、様々な知識の結合がおこり、これまでにない新しい発想がしやすくなる。これは、脳のシナプス結合に非常に良く酷似しており、ブレインストーミングは大脳生理学的に見ても、非常に有効な方法とされている。......>(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より)

 言うまでもなく、 "ブレーンストーミング" とは<複数人が集まって......>という点に眼目があり、その結果<様々な知識の結合がおこり、これまでにない新しい発想がしやすくなる>と考えられているわけだ。
 こうした妙味を、もし、個人の思考活動で展開させるのが "マインドマップ" の手法だと見なすならば、まさに<ひとりブレーンストーミング>という表現は当を得ていそうである。
 とかく、個人の思考というものは、 "閉塞的" になりがちなのかもしれない。おまけに、ポテンシャリティも落ちてくるならば、暗澹たるものへと陥りがちとなろう。
 だからこそ、真にそうなるかどうかは別としても、<ひとりブレーンストーミング>へと誘うような手法、ツールは試すだけの価値はありそうだと思うのである...... (2008.04.15)

 時代は益々 "省エネ" を緊急課題としているはずだ。最終的課題としては "地球温暖化現象" をどう喰い止めるのかになろうが、その課題に至るまでにも多重的な "省エネ" というものがありそうである。
 今日、ふと目に留まったニュース記事に以下のようなものがあった。

<半導体素子、消費電力を数百―数千分の1に・NTTが開発
 NTTは、けた違いに消費電力が小さい半導体素子を開発した。素子に微細なバネが組み込んであり、微小な電圧をかけて振動させて「0」と「1」のデジタル信号を作る仕組み。従来の数百―数千分の1の消費電力で演算が可能になる。基本原理を確認した基礎段階だが、実用化できれば超省エネのコンピューターや携帯電話が実現するという。
 同社の物性科学基礎研究所の研究成果で、13日付の英科学誌「ネイチャー・ナノテクノロジー」に論文を発表した。
 開発したのは、ガリウムやヒ素などでできた半導体素子。電極にマイクロメートルサイズの板状のバネが2つ付いている。電圧を加えるとバネが振動し、上に曲がった状態を「0」、下に曲がった状態を「1」としてデジタル演算をする仕組み。>(NIKKEI NET 2008/04/14 )

 何と言っても<けた違いに消費電力が小さい半導体素子>とか<実用化できれば超省エネのコンピューターや携帯電話が実現するという>という点に注目したいところだ。
 コンピュータは益々CPUの "高速化" が進み、またPC本体の "小型化、モバイル化" も急展開している。が、これらの傾向で当然問題視されているのは、 "発熱" であり、また "バッテリーの性能" ということであろう。
 だが、もし、<けた違いに消費電力が小さい半導体素子>が実用化されるならば、もちろん "発熱" 問題も解消されるだろうし、また "バッテリーの性能" についても緊迫性が薄れることにもなりそうだ。一挙両得のメリットが発揮されることになろう。
  "携帯電話" なぞは、その最大のネックであった "バッテリー充電" の煩わしさが解消に向かい、益々、使い勝手が向上することになりそうであり、さすが、 "NTT" ならではの開発だと言うべきか。

 今回の "開発" の目玉となった<電極にマイクロメートルサイズの板状のバネ>というものが、一体どういう構造になっているのかは興味が募るところだ。
 唐突であるが、できれば、こうした原理の周辺(裏返し)から、画期的な "太陽光発電" 素子なるものも開発されないであろうか、と期待したい。従来比で換算すれば、数百―数千倍の発電につながるような "太陽光発電" 素子という具合にはならないものであろうか...... (2008.04.14)

 こんな時季にこんな天気はありか? と毒づいてやりたくもなるような鬱陶しい天気である。まあ左程の雨脚でもなかったので、今朝は傘を差してのウォーキングとなった。
 晴れていれば新緑がまぶしく映える時季なのであろうが、小雨まじりの曇天では台無しの光景となっていた。
 川辺の遊歩道を歩いていると、川の浅瀬からバシャッバシャッと激しい音がしばしば聞こえてきた。放流されている鯉たちの産卵のための仕草のようであった。そう言えばちょうどそんな時季なのである。が、そんな唐突な水音以外に物音はなく、小雨に煙る遊歩道周辺は物静かであった。晴れていれば、こんな時季の日曜日なのだから、ウォーキングをする者、サイクリングをする者たちで賑わっていたことだろうと思ったりした。

 今日は、天候と同様に、これといったテーマが浮かんでこない地味過ぎる一日になりそうだと予感しながら帰宅した。
 そして、その予感どおり、書斎でPCと向き合って過ぎた時間は淡々として流れたものだった。休日なのだからこれでいいと言えばそうかもしれないが、あまりにも起伏がなく過ぎるのもどうかと思ってしまう。しかしまあ、ここしばらくは、体調を整えることだけに専念すればそれでいいか、とはなはだトーンダウンした気分となっている...... (2008.04.13)

  "禁煙" の方は、すでに一ヶ月が経過している。安定し始めたと言えばそんな感じであるし、何かと不安定だと言えばそうも言える。ある医者に言わせると(あまり医者にとやかく言わせたくはないものだが......)一ヶ月も経過すればイライラのような禁断症状はないはずだというが、自分の場合は、必ずしもそうでもない。
 前にも書いたが、もともとが "癇癪(かんしゃく)持ち" であるからそうなのか、 "禁煙" のためにそうした気分となるのかはよくわからない。きっと、イライラや、怒りっぽい気分に襲われたた時、かつてはタバコに手を出し喫煙することで往なしていたのかもしれない。喫煙が、 "癇癪(かんしゃく)持ち" な自分を覆い隠していたのかもしれないと思える。
 こういう事情も含めて禁断症状というのかもしれないが、このところ、時々、無性に怒りっぽい気分となることがあると言えばある。

 ところで、物の本によると、 "禁煙一ヶ月" はまだまだアブナイとかである。
<次なる目標は三ヶ月です。禁煙については薬物依存としての研究から、三ヶ月以内に失敗してしまうことが多いことがわかっています。三ヶ月が要注意期間ですので、この期間はとくに油断しないで過ごすようにしましょう>と書かれてあったりする。
 せっかくここまで "積み重ねてきた我慢" をむざむざと台無しにはしたくないと強く意識している。しかし、通りすがりの者が、タバコを吹かす光景に出会ったりすると、一方では、 "身体に毒なのに......" と悟性がつぶやくとともに、 "フカ~ッ" と一服吹かしちまったらどんなにかいい気分となるものか......、と誘惑されるような気分ともなる。アブナイ、アブナイなのである。
 <薬物依存>の類が、時間経過とともに次第に克服されて行くということは、身体側の "生理的依存傾向" が次第に正常化されてくるという面はもちろんあるのだと思う。それと、もうひとつは、時間経過とともに、多くの "試練" のような場面や状況をクリアすることによって、ヘンな言い方だが "誘惑に対する自信" がついてくる、というような面もありそうな気がしている。 "心理的依存傾向" からの自由ということになるのかもしれない。
 今までならばタバコに火をつけたであろう状況、例えば重篤なイライラに見舞われた時、あるいは、悩ましい問題を考え続ける時、または酒を飲んで談笑したりする時、はたまた独りさびしく旅の途中で佇む時......、そんなふとタバコに手を出してしまうようなさまざまな状況をそれぞれひとつづつ "往なす" ことができた時、その時こそタバコと縁を切る自信がついてくるというものなのであろう。そして、そうしたいろいろな状況のバリエーションに遭遇するためには、相応の時間経過が必要だということになるのではなかろうか。
 だから、まだまだアブナイというわけであり、まただからこそ "遣り甲斐" があると言えないこともないのである...... (2008.04.12)

 物事の全体像や内部関係を表すのに、各要素の相互関係を比較的大きな用紙に描き出してみるとわかり易くなることがある。
 例えば、コンピュータのあるアプリケーション・システムが、一体何をどう処理したり、機能したりするのかを説明しなければならない時などは、 "機能構成図" とか、 "システム概念図・構成図" とかと呼ばれる図を描き出してみると、功を奏する場合がある。
 何もこんな小難しい事ではなくとも、ちょっとした "構造" を持ったような日常的な事柄を、他人に手短に説明したりする際、まるで地図でも描くように図示すると俄然わかり易くなったりするものであろう。

 最近、こうした "相互関係図" とでもいうものを描いて思考を進めるという方法にやや関心を持っている。以前から、自身の問題意識を検討する際に、いろいろな描き方で活用してきた経緯はあった。
 とにかく思い付いた事柄を、そこそこのスペースの用紙にどんどん描き出して、それらの関係を線などで整理してみたり、グルーピングをしてみたり、という具合にである。
 昔、 "KJ法" という情報整理手法があったものだが、まあ、それに類似したことをいろいろとやったものであった。

 こうした "ビジュアル" な手法というものは、結構、柔軟な思考を促してくれたり、対象間の思わぬ関係を示唆してくれたりして、思考を試行錯誤的に進めるのには役立つものである。
 そんなことから、手書きスタイルから、PCを常時使って考え事をするようになってからも、MSの "Word" であるとか、 "PowerPoint" を使って、付箋のような小片スペースに "キーワード" を入力し、それをベースのスペースに貼り付けたり、位置を移動調整したりして "相互関係図" 作りのような作業をしたりしてきた。

 したがって、この種の手法が、ちょっとした "別の視点" から密かに脚光を浴びていたからといってさほど気にすることもないのかもしれない。
 ただ、 "なるほど" と感じたのは、こうした "ビジュアル" な手法が、 "脳内地図" とか、 "マインドマップ" とか、 "メモリーツリー" とか称されて、脳内の活動( "シナプス" のスパークを通じたニューロン間のネットワーク関係!)と対応するかのような視点で提起されていたことなのであった。
 脳内でのニューロン間のネットワークは、多分、 "連想ゲーム" のような様相で展開されていそうな印象もある。だから当該のこうした "ビジュアル" な手法は、そうした脳内の様相や光景を擬似的に表現することなのです、と言われると、そうかもしれないと思わされてしまうのである。
 さらに、こうした脳内の擬似状況を上手く表現することができるようになれば、逆に脳内の活動自体をも活性化させることができる......、と言わぬばかりの "売り込み" に対しても、うーむ、そうかもしれない、と感じさせられたりもするのである。

 しかし、まあ過去を振り返ると、こうした "思考支援ツール" というものは、手を替え品を替えて頻繁に注目されてきた。そして、人々の思考力の活性化にホントに奏功したかどうかに多くのは議論もあろうが、ただ確実なのは、当該ベンダーのビジネス自体は多分に奏功したはずだという点であろう。どちらかと言えば、これから自分の頭が良くなるかどうかということに関心が向くよりも、こうした商品開発でビジネス・チャンスを得た者の、その頭の良さの方に感心してしまうというのが当たっていそうである...... (2008.04.11)

 ネットでのウェブページの閲覧時には、できるだけ読み流してしまうことを避け、少しでも留意した記事は "保存" しておくようにしている。
 その "保存" にあたっては、かつてここにも書いたとあるソフト・ツールを使うようにしている。そのツールは、保存したい範囲を指定すると、ウェブ・ページとしての体裁を保持したまま、また出典サイト名と日時をも含めて、所定のフォルダーにコンパクトに保存してしまう優れものなのである。
 そのツールの便利な点はほかにもあるが、とりあえず、気ままにネット・サーフィンをしたとしても、スナップ・ショットよろしく、自分が関心を向けた記事のすべてを保存できる点と、そのデータが再閲覧し易いように整理されるのがありがたいわけだ。

 実は、今日、この点を再確認することになったのは、うっかりして、とある記事をこのツールで保存しそこねていて、後になってどこのサイトであったかとバタバタ探しまくったからなのである。結局、朝一番に閲覧して、なるほどなぁ、なんぞと感心した当該記事は見つからずじまいとなっている。
 歳のせいもあるし、似たようなウェブ・サイトを多々巡るということもあろう、あの記事はどこに出ていたのかを後で思い出そうとすると、結構、混乱してしまうことになるのである。探して探せないこともないのであるが、そこそこの時間を要してしまい、何となく徒労感を自覚することになるわけだ。
 そうしたことから、以前にも書いたとおり、ネット・サーフィンをする際には、同時に "スクラップ・ブック" でも作るかのように、多少とも注意を払った記事は "保存" するようにしているのである。

 ところで、何かを "記憶" するということは、単純にそのことだけを思い出せる状態にするということなのであろうか。まあ、それも重要なことであろう。子どもの記憶とは、まるで写真でも撮ったかのようにとある事柄を機械的に再現するものだと言われる。そうした意味での "記憶" も、もちろん重要な脳生理的な能力なのではあろう。とかく "物忘れ" を気にすることになる高齢者にとっては、とても真似のできることではなく羨ましいかぎりであるが。
 これに対して、何かを "記憶" するということのもうひとつの "脳内現象" とでも言うべきことは、当該の事柄を、 "既存の問題意識" などの文脈に何らかの形で関係付けるという形で発揮されるのではないかと思える。いわゆる、 "連想的" なメカニズムによる "記憶" である。子どもの記憶に対して、大人や熟年者の記憶は、むしろこうした裏技で成り立っていそうな気もする。
 つまり、自分側の関心のありように関係づけて、当該の事柄を脳内に留めたり、必要な場合には再現させたりするというような方式かと見える。
 となると、こうした側面での "記憶" の機能というものは、 "自分側の関心のありよう" が、十分に活性化されていたり、 "アクティブ" な状態となっているならば、生き生きと作用するのかもしれない。逆また真であり、 "自分側の関心のありよう" や "問題意識" や、さらに一般化して言えば、生きることへの情熱のありようが、そのまま "記憶" のありように反映されてくるのかもしれない。そんなふうな気がしている。

 もちろん、どうでもいいことを事細かく "記憶" している必要なぞはないわけだと思う。 "記憶" の良し悪しが問われていいと思うのは、自身なりの現時点での貴重な問題意識や考え方を構成したり、あるいは密着した、そんな事柄群ではないかと思っている。
 これは、 "記憶" というものは、 "過去" と関係している以上に、意外と "現在" とこそ強く関係していると言われることと似ていそうだ...... (2008.04.10)

  "ピカピカの一年生" ではないが、見るからに "ピカピカ" に舗装整備された道路をクルマで走らせる時、相応の快適な気分となれるものであろうか。
 しかも、つい先月の年度末にバタバタと道路整備工事がなされた、そんな道路であることを思い出さされるとなおさらだ。快適な "感情" なんぞは吹き飛んでしまい、ただひたすら、これだけの整備工事をするのにどれだけの税金が使われてしまったのだろうか、という世知辛い "勘定" に走らされてしまうわけである。
 そして、そんなことを考えたくはないものではあるが、 "要領のいい" 土木建築業者がどれだけの "上澄み" を手にしたのであろうか......、とやり切れない心境となってしまうのだ。

 問題は、 "公共投資" についてなのである。
 自慢にすることでもないかもしれないが、当社のわれわれは、過去においてこの "公共投資" には一切関わってこなかった。ソフト会社の中には、巧妙かつ執拗にこの "公共投資" 的領域に接近し、この領域での仕事量を維持・拡大するところもある。
 わたしが以前、わらじを脱いだ(?)とあるソフト会社の社長なんぞも、 "公共的領域" の仕事を推進していることを "自慢" にしておられた。公共的組織団体から仕事を受注しているのだからドーダ! というつもりなのである。まあ、そういう発想と解釈も成り立たないわけではなかろう。
 ただ、私の知る限り、ソフト会社が "公共事業" に関与していく経緯は、技術的に優れていたからという文脈なんぞではなく、要するに、伝手(つて)を生かした喰い込み営業ということではなかったかと思える。いや、もちろん広い世の中には、技術的に優れていたからという晴れやかなケースも当然あるだろう。
 しかし、実質的に技術的な優良企業は、オープンな民間市場でも十分にやって行けるし、 "公共事業" へ参与はいわば企業の社会貢献的な活動という意味合いを持たせているのかもしれないのだ。
 だから、 "公共事業" をことさらに攻略しようとする企業とそのスタンスには、何か "特殊な動機" が潜んでいるように見えるのである。
 現在でもこの領域の契約においては、 "一般入札と随時契約" というようなグレーゾーンの問題が絡んでいたりする。過去、こうした不透明な関係が温存、継続されて来たであろうことは、知る人ぞ知るところだと言うべきなのかもしれない。
 上述の "ドーダ!" の社長も、T大学同窓の官僚各位に対するこまめなアプローチを欠かさなかったことを思い起こす。そうしたアプローチによって、 "ドーダ!" と誇れるほどの仕事量を "公共事業" 領域から確保していたのであろう。

 今、 "公共事業" は微妙なステイタスにあるのかもしれない。
 地方経済に見られるように、一方ではこうした不況色が濃厚な経済情勢にあっては、 "公共投資" というものが益々渇望されているという面があろう。
 だが、もう一面では、地方財政もそうであるし、中央政府の財政も同じであり、全般的に公共財政の逼迫が深刻化している。無い袖は振れない、ということにもなるが、ここで留意されるべきは、 "公共事業" の "低コスト化" なのではなかろうか。
 既に、 "高コスト体質" の役所業務を "民営化" すべきだという議論も生じているわけだが、それ以前に、外部民間業者に対する "公共事業" 発注額は、ドラスティックかつドラマチックに "徹底高圧縮" されるべきではないかと思う。
  "公共事業" によって、民間経済が活性化するという推移はあって差し支えないと思う。ただし、 "ジャブジャブ" の甘やかし投資は、まったく逆効果でしかない。質と価格との両面を、民間ベース以上にシビァに問うような、そんな "公共投資" こそが、 "固太り" の経済状況を刺激して行くのではなかろうか...... (2008.04.09)

 何かちょっとした "発見" や "工夫" ができると、些細なことであっても気分が晴れるというものだ。しかし、 "卵が先か鶏が先か" ではないが、そうした好循環に入るためには、自分側にあらかじめ "遊び心" や "好奇心" などがアクティブな状態になっていなければならない。とかく、暗い環境の重い空気に引きずられがちとなる昨今であるが、無理矢理にでもそうした腐れ縁を断ち切っておかないと、気分は堂々巡りの悪循環に嵌まり込むばかりであろう。

 今日は、天候も悪く、下手をすれば容易に "悪循環" に陥りそうでもあった。そこで、先ずは、余計なことを思う暇がないように、朝から、黙々と作業に当たることとした。日頃、いつかは処理しなければいけないと感じ続けてきたような作業課題を、四の五の言わずにのめり込んでみたのである。
 まあ、ホントに気分が腐っている場合には、こんなことを試みることすら億劫となるもののようだが、今日は、幸いすんなりと始めることができた。
 すると、まるでそれが準備運動のような流れと結果になり、気分が晴れ始めるとともに、脳の回転の方も首尾よく進む按配となってきたのである。

 その一例なのだが、とある文書処理のアプリケーション・ソフトで叶えることができたささやかな "発見" と "工夫" は、気分に対してちょっとした "弾み" を与えてくれたような気がした。
 まあ、こんな場で書くほどのことではないから、省くことにするが、それはしばらく前から、 "その機能はどうやればできるのだろうか......" と気にしてきたことだったのである。
 で、今日は、たまたまそうした機能を盛り込んだ文書に遭遇したことがきっかけとなって、にわかに "探究心" が刺激されてしまったのであった。
 当然、先ずは、下手な鉄砲も数打ちゃ当たる、式のトライアンドエラーが始まった。そして、そうこうしているうちに、アプリケーション・ソフト側に潜んでいた当該機能の "入り口" を "発見" するとともに、さらには自身の要求水準の贅沢さが、自分なりの "工夫" を生み出すことを促してくれたのであった。
 仕上がりは、先ず先ずの出来映えであったため、実に些細なことでしかないのだけれど、自己満足するとともに、その後の仕事の気分にも弾みのようなものをつけることができたのだった。

 こんな "不遇な時期" にあっては、気分を腐らせることが最悪であり、そうしたボトムから抜け出すためには、とにかく "機嫌よく" 仕事をすることなのであろう。そうした "セルフ・コントロール" こそが、意外と決め手となるのかもしれない...... (2008.04.08)

 新年度が始まったものの、やはりこの年度は景気が "湿気る" といった気配が濃厚な感触である。
 この感触は、庶民の生活レベルでの困窮に端を発した形でやって来ているのだと思われる。原材料の高騰その他によって、諸物価が軒並み値上がりし、それでいて所得は増えるはずもない。むしろ公的負担も増加したりしているのだから、これらが庶民の消費行動の重い足枷となっていないわけがなかろう。
 言ってみれば、もし、あのガソリン税事件がなかったならば、もっと目も当てられない不況風が新年度から吹き荒れることになっていたのではなかろうか。もっとも、この事件の余波で地方財源の縮小から、地方経済が "履く下駄" =公共投資がストップして、それはそれで深刻な不況要因を増やしているのかもしれないが。
 いずれにせよ、くすぶって、湿ってしまった消費動向のあり様は、サイクルの次の局面では生産者側の消極性を生み出すことになっているに違いないと思われる。旺盛な生産拡大、設備投資増強といった積極性がどうしたって敬遠されることになるのであろう。景気が "湿気る" という表現は、こんな気配のことを指しているのである。

 当社が関与する仕事の面からすれば、いわゆる "半導体製造業界" の "景気浮沈" という事実が結構重要な目安となってきた。これまでの20年が一貫してそうであったと言える。そして、その "景気浮沈" のわかりやすい指標は、単刀直入に言えば市場における半導体価格の上下で表現されてきたかと思われる。
 モノの価格は、需給バランスで決定されるわけだから、半導体価格の上下もまた、メモリを初めとする半導体への需要と、半導体メーカー側の生産量、供給量との関係で決まってくることになる。概して半導体への需要は増大の一途をたどっているとは言えるのだが、半導体メーカー側の生産体制も画期的にハイエンド化しているために、半導体の需給バランスは短期間にブレて、そしてその価格の上下も短期間で変動してきたし、今なおそんな状況が継続しているのである。
 そんなことで、当社の仕事と経営は、そうした環境変化の目まぐるしさに振り回されてきたと言って過言ではない。
 そして、当面の環境変化という点では、やはり以下のような報道が気に掛かるところである。

<「メモリー景気」変調鮮明・価格下落、激しい消耗戦
 半導体メモリー景気の変調が鮮明になってきた。低価格取引が続くDRAMに加え、動画や音楽の保存用に市場が拡大しているNAND型フラッシュメモリーも価格が急落。東芝の業績見通し下方修正の大きな要因になった。長期的な需要の伸びを見込む東芝は大型の設備投資を継続するが、米経済の失速もあり当面は価格回復のメドが立たない。各社は激しい消耗戦を強いられそうだ。
 「想定を超える価格下落で半導体事業が悪化した」。東芝の村岡富美雄専務は19日の2007年度の連結業績修正会見でこう繰り返した。「HD―DVD」事業からの撤退に伴う損失1100億円に注目が集まったが、営業損益ベースでは半導体事業の影響も大きかった。>(NIKKEI NET:日経ネット 2008/03/21 )

 ただ、半導体はメモリーに限られるものでもないし、また価格傾向も固定的なものでもない。昨今のような環境変化のサイクルが短期化している状況では、いつ何が生じるか簡単には予測できない面もある。
 まあ、 "変化と状況" にお付き合いしながら堪えて行くしかなかろう...... (2008.04.07)

 今日の天候は、実に申し分のない春の陽気となっている。
 朝一のウォーキングも爽快な気分でこなすことができた。コース周辺の桜の樹は、ぎりぎり花見に応え得る状況というところか。未だ多くの花を湛えつつも、早、淡い黄緑色の葉を吹き出し始めている。どういうものか、そうした桜の花と淡い葉のコンビネーションを見ると、ゴッホの油絵を思い起こしてしまう。そうしたコンビネーションを印象的に描いた絵が何枚かあったように覚えている。
 この季節、華やかなのは桜の樹に限らず、家々の花壇に植わった草花も色鮮やかな花を咲かせてまぶしいほどである。まさに、これが春なのだと実感させられる。

 こんな天候の日は、できれば戸外で過ごしたいものだが、中々そこまでの気分にはなり切れず、せめてと思い事務所に向かうこととした。鬱陶しい書斎で過ごすよりは、採光だけは行き届いた事務所の方が気分が晴れやかになろうかと思った。
 案の定、事務所の窓は戸外の溢れんばかりの春の光を存分に受け入れていた。また、戸外の空気も温暖な感触であったため、各所の窓を開け放ち、空気を入れ換えることとした。おまけに据え置きの扇風機で風の流れを作り出し、事務所全体を春の空気の流れにさらすことまでやってみることにした。こんなことで、仕事面でやや停滞しがちな昨今の会社の空気が、多少とも入れ換わってくれれば幸いという、甚だ虫の良い思いだったのかもしれない。

 それにしても、この一ヶ月、インフルエンザもどきのしつこい風邪と、そして禁煙に伴う不快感とを背負って、とんでもない冥府魔道の暗闇を彷徨っていたかの感があった。
  "あった" という過去の話にしてしまうにはまだ早過ぎるかとも思えるが、少なくともそうした状況を冷静に振り返ることができるだけ "まとも" になりつつあるのかもしれない。
 客観的状況は、不気味に揺らぐ景気情勢をはじめとして何も変わってはいない。しかし、体調や気分・気力など主観側の雰囲気は、今、じわじわと好転しつつあると自覚する。日頃、これこそが "頼みの綱" だと思う自分としては、先ずはこれだけでもヨシヨシと言って満足すべきかと感じている。

 気分を腐らせずに開放し続けているならば、目敏いチャンスは自ずから接近してくるはずのものである...... (2008.04.06)

  "禁煙" を始めて一ヶ月が経過している。イライラや、集中力欠如などの "禁断症状" もほぼなくなったようである。ただ、 "立腹" の衝動が頻繁に訪れる。きっと、これはもともとがそうだったからということかもしれないし、 "禁断症状" の名残と言えばそうなるのかもしれない。

 もっとも、まともに考えると考えるほどに "オカシイ" この時代環境がなせる業だとも言えなくはない。つい先日も、 "年金問題" や "高齢者向け健保" などに関するインタビューで、とある一人の高齢者が、「現在の政治は、まともに考えれば考えるほどハラが立つんで、無視するほかないかと感じています......」と語っていた。思わず、そうだよねぇ~、と深く共感してしまう自分であった。
 先ごろ、 "75歳以上の高齢者" に関しては、 "健康保険" 制度を別立てとして設定されたようで、しかも支給されている "年金" から自動的に "差っ引く" ということらしい。 "年金" 支給自体が、バカバカしい不手際で滞ったり、不安定な形となっているにもかかわらず、 "保険料" の増額分だけはヌケヌケと徴収するというやり口が、高齢者たちをとてつもなく心細くさせ、また腹立たしくもさせているようなのである。
  "財源不足" を補うためには、何でもする、まるでサラ金の取立てのようなやり口が、いかにも腹立たしく映るということなのだろう。

 高齢者たちは、 "分別" を備えた人たちであるに違いなかろう。 "お国" が本当に "財政難" であるならば、わが身を削ってでも協力することはやぶさかではないと考えておられると思われる。
 しかし、問題は、 "お国" の "財政難" の実態が、いかにも杜撰(ずさん)であり、財源そのものが様々な不正や、不手際で "浪費" されている側面が否定できないとなれば、行政側が "財政難" を叫べば叫ぶほどに国民側には腹立たしさや不信感ばかりが増幅するということになるのではなかろうか。
 どうも、政治の現状は、厳しい財政下で何をどうするという課題を解く以前に、財源浪費を含めた杜撰な行政に対する国民の不信感をどう払拭するのか、それが問われているように思われてならないのだ。
 元々、政治とは執行側に対する "国民の信頼感" こそがベースとなり柱となってこそ、円滑に行われるものであろう。歴史上の名だたる優れた政治家たちが、何はさておいても留意してきたのは、まさにこの点ではなかったのかと思う。

 ところが、いつの間にか、この "国民の信頼感" に対する政治家たちの "感度" は日増しに鈍感となり切ったかのようだ。 "国民の信頼感" に関して真摯に意を払うというよりも、それは "操作" し得るものと勘違いし始めているのではなかろうか。 "国民の信頼感" の有無が試されるはずの "選挙" でさえも、有権者に審判を仰ぐどころか、有権者の判断をいかに誘導したり、操作してしまうか、その点に力点が置かれているのが実情だと見える。
 また昨今は、政治理念、理論といった "評論" 的側面ばかりが強調される風潮が濃厚であるかのようだ。しかし、政治家たちは、評論家たちには無縁なのであろう "信念" を堅持することで、 "国民の信頼感" を真摯に引き受けてもらいたいものなのである。
 言うまでもなく、現代の政治・行政においては、巨大な "官僚機構" というものがあり、現実の動きに大きな影響力を発揮している。だが、政治家たちには、 "国民の信頼感" の有無に基づく審判があっても、 "官僚たち" に対しては何もなし、つまり "ノー・チェック" なのである。そうだからこそ、政治家たちが、 "官僚機構" を国民の視点でチェックしなければならないはずなのだと言えよう。
 ところが、今問題となっているさまざまな国民的課題の大半は、 "官僚機構" としての各省庁が、いわば "ノー・チェック" 状態で自在に振舞ってきたから、またそうしているからこそ発生しているのではなかろうか。
 そして、政治家たちは "国民の信頼感" に留意して、 "官僚機構" の動向を監視するどころか、 "官僚機構" との協調と一体化こそを目指しているかのようである。あるいは、 "言いなり" と言っても良かろう。それが、 "効率的な政治・行政" なのだとしたら、本末転倒でしかなくり、さらに非常に危険なことだと思われる。
 政治・行政が、何を基準として "効率性" を追求するかは知らない。だが、 "効率性" のみを強調し始めるならば、きっとその陰で "四捨五入" のごとき判断と処理がなされるのは目に見えており、 "切り捨て" とされるのは "五" に満たない "弱者" たちであることも目に見えて明らかであろう...... (2008.04.05)

 夕刻となると、窓の外の通りの "電線" の上で、多分 "ムクドリ" だろうと思われる野鳥たちがしばし休んでいるのが見える。毛づくろいをしたりしているが、多少の疲れが見えないでもない。
 ねぐらに帰る前のひと時なのだろうか、並んで休んでいる格好が何とも微笑ましい。
 つい今しがた飛び立って行った。暗くなり切らないうちにねぐらに戻らなきゃね、とでもいうような雰囲気であった。

 野生の動物たちも、朝一番の頃から薄暮の頃まで "生き抜く" と、どうしたって疲れるはずなのだろうと思う。そんなところは、ラクではないビジネス環境で一日を気を張って "生き抜いた" 勤労者諸氏と共通するところかと思われた。
 最近はしみじみと痛感するのであるが、 "生きる" というか "生活する" というか、そんな平凡事が、意外と波乱含みで大変なことのようだと感じる。かつては、文字通り、どうということもない平凡な事だと受け止めていたようである。
 しかし、昨今は、その日その日がそれなりの緊張感、さらに言えば不安感を秘めているような感触だと言えようか。加齢による身体的なあれこれもあろう。また、高齢化してゆく身内の者たちの動向もある。また、いろいろな意味合いで、仕事面や生活面に容赦なく揺さぶりを掛けてくる "攻撃的な時代環境" という点も大きい。

 こうした "センチメント" に浸らされる時、何よりも留意すべきは、如何に "正気と元気" とをセルフ・ジェネレイト(自己生成)するか、ということになりそうだ。
 一度、凹んだり、めげたりするならば、気持ちの雪崩現象を呼び込みかねないと言えるかもしれない。先ずは、淡々とやるべきことをやり、できれば、多少アグレッシィーブなアクションにさえ出ることが要求されているような気がしている。
 まあ、要するに、プレイを始める前のスポーツマンではないけれど、迫り来るプレッシャーをどう往なし、自身の持てる潜在力をどうしたらマックスのレベルで開花させられるのか、そうしたリアリティが多少なりとも伴う昨今の日常生活である...... (2008.04.04)

 <司法試験合格者が増えた影響>のようだが、<都会の弁護士、狭き門 修習生、わずかなイスに殺到>( asahi.com 2008/04/02 )なのだそうだ。
 また、<......競争率が高くなるとともに、新人弁護士の年収は低下。弁護士事務所を対象に07年度に実施したアンケートでは、固定給のない「出来高制」の新人弁護士も7.85%にのぼった。新米弁護士が独立するまで先輩の事務所に居候する「イソ弁」に代わり、固定給もなく机(軒先)だけを借りる独立採算型の弁護士は「ノキ弁」とも呼ばれている>というような意外な事情も隠れているとか......。
 もちろん、ベテラン弁護士の中には、大企業の顧問弁護士など、ステイタスも収入も群を抜く者たちも存在する。しかし、押し並べて弁護士という職業ならば......、という時代環境ではなくなっていそうである。そこでもサバイバル "競争" は激化していて、当事者たちに何かと揺さぶりを掛け続けているとかである。
 きっと、そうした競争激化の過程は、規模が大きく、ネームバリューを持って上層に君臨する少数の弁護士事務所と、業界の底辺で無数に存在している小規模な事務所群というような階層分化をも推し進めたはずである。当然、仕事依頼の頻度や依頼案件のグレイドも、階層の位置と相関しているのであろうことは容易に想像される。なおかつ、個人自営業規模の事務所では、なかなか新しい人材を迎え入れてゆく余裕もないはずであろうから、「イソ弁」だ、「ノキ弁」だという事情も当然発生したりするのであろう。

 いや、別に法曹界の動向にことさら関心を向けようとしているわけではない。要は、弁護士というような "輝かしい資格" を持つ者たちでさえ、 "口を糊する" のがラクではなくなっているのがこの時代の現実だという点を再確認しているのである。
 弁護士たちが、どこに潜んでいるかわからない潜在的な依頼主に関心を向けるごとく、あらゆる業種の経営関係者たちは、自分たちにとっての顧客像をどんなにか描き込み、描き尽くしてきたことであろうか。
 しかし、余程幸運にも、 "売り手市場" 的なポジショニングがとれる業種を除いては、限定された "買い手" を奪い合うような "競争" が避けられないものであろう。まして、何がしか新規の需要が増大するような時代環境ならばいざ知らず、需要が "シュリンク(縮小)" して当たり前の景気低迷期にあっては、環境は "買い手市場" であることをじっくりと認識した上での対応がことさらに必要となりそうである。
 でき得ることならば、 "売り手市場" 的なポジショニングがとれるような技術要素なり、プロダクツなりを両手に携えて、向かうところ敵(競合)なし、を振る舞いたいものであるが...... (2008.04.03)

 今日は、タイプの異なる "営業" 関連職の人と話す機会があった。一人は、大手IT機器メーカーの若手セールス・エンジニアであり、もう一人は熟年の銀行マンであった。
 いずれも "飛び込み" の営業ではない。前者は、事前の電話で若干の "相互認識" を深めたパターンであり、後者は、いわば "お馴染さん" としての定期的な来社であった。

 最近は、もちろん相手の "品定め" をさせていただいてからのことではあるが、営業分野の来訪者とは可能な限り会って話すことにしている。ネットを通じての情報入手は、それはそれとして、やはり状況のビビッドな情報を感じ取るには、やはり "生身" の人の口から漏れてくる言葉に優るものはないと思えるからである。

  "お馴染さん" の方は、銀行マンを定年退職後、嘱託的なステイタスで融資向けの顧客対応活動をしておられる。さすがに経験豊富で、人柄も温厚な人なので定期的にお会いしたりしてきた。また、かつてその方を通じて融資を受けた経緯もあった。
 弊社はつい先ごろ、その銀行からではなく別のルートからの条件の良い "特別融資" を受けたばかりであったため、今日はその方のご要望には応えるには行かず、あれやこれやと世間話をすることになったものである。
 そんな中には、 "足" で得たこの状況下での顧客サイドの情報が聞こえてきたものだった。「状況はかなり厳しいようですね......」という前置きで語られた地域企業の苦しさは、やはり重苦しい印象のものであった。
「今年は、やはり経済的情勢に否定的材料が多過ぎるので、どこの企業も尋常ではない苦戦を強いられるのかもしれませんよね......」と、自分も実感をこめて口にしたものだった。

 こうした雰囲気とはまるで異なった展開となったのが、若手セールス・エンジニアとの顔合わせであった。
 この間、とある事をきっかけにして、そのIT機器メーカーは、定期的にカタログ集を送付してくれていたのであった。弊社としても、そのIT機器を主力の仕事で組み込んで顧客に納品するという実情もあった。
 が、今回、そのメーカーが性能の良さそうな製品をリリースしたとの情報を得たこともあり、場合によっては "逆営業" が掛けられるかもしれないと感じ取ったのであった。つまり、その新製品販売の周辺に、弊社側が得意とするシステム技術を提供する可能性があるやもしれない、と推定したのであった。要するに、業務提携的な可能性ということなのである。
 事前の電話でのやり取りでも、当のご本人がそうした可能性が多々あるということであったので、それではこちら方面に来る機会のある時に来社してください、ということになったわけなのである。
 まあ今後のことはどうなるか未知数ではあるが、相互にとってメリットがありそうな点は確認し合えたのではないかと思う。

 とにかく、ちょっとした未曾有の経済危機状況の中で、いずれの企業も概して消極的な活動スタイルになりがちかとうかがえる。とは言っても、企業は生産活動を停滞させることや立ち止まることができないわけなのも事実だ。その動きに対してどう喰い込んで行くのか、どう関与させてもらうのか、そこに熱い眼差しを向けることとなる...... (2008.04.02)

 朝方の雨まじりの天候が嘘のように、春本番の陽気となった。
 人々の胸の内、頭の中には、春にふさわしくない沈鬱なものが渦巻いている。経済情勢の悪化に、生活を圧迫する値上げラッシュ、そしてこうした惨憺たる状況しか用意できない時の政府の不甲斐なさ......。
 まあ、それでも、春の明るい天候が、日がな一日、窓の外に広がっていると、気分が救われるというものか。

 春が本番となり、輝かしい新年度となった今日のような日は、願わくば人々はもっとそれにふさわしいことに目を向けたいものだったのではなかろうか。
 確かに、アホらしくも転がり込んできたような観がある "暫定税率期限切れ" ガソリンに熱い眼差しを向ける気持ちは良くわかる。しかし、もっと "憤りの眼差し" をこそ向けていいのは、国民生活をバカにし切って勝手放題をやってきた官僚行政であり、それを司って来た政治のあり方だと言うべきなのではなかろうか。
 この間指摘されてきたように、 "暫定法" が何の疑問もないかのように30年以上も引き摺り、加えて "道路財源" と称した言語を絶する "ムダ使い" がなされて来たというのは "異常" なこと以外ではなかろう。
 しかも、この異常な推移の過程で、世間の空気が、「じゃあ地方財源に穴を空けていいのか」とか「地方を困らせていいのか」とか、挙句は一連の問題を抜本的に正そうとする野党の動きまでを揶揄するかのように持って行く(一部のマス・メディアにはこのスタンスが窺える)のは、 "ねじれ国会" どころか "ねじれ言論"、"ねじれ空気" だと言いたいところだ。

 これに関連して、バカバカしいにも程があると思えたのは、<「ガソリン暫定税率維持」は温暖化対策>( 日経ネットPLUS 2008-03-31 )だとまで、 "御用提灯" を掲げての見当はずれの議論まで出てきたことである。

<土居丈朗慶大経済学部准教授は、道路特定財源の暫定税率について「経済学の立場からみると、地球温暖化対策のために暫定税率は維持する必要があり、道路整備費は厳しく精査し抑制することが重要だ」と説く。......>

 <地球温暖化対策>について本当に接近するのであれば、後ろに引用する "ゴア氏" のようにアプローチすべきなのであって、取って付けたような辻褄あわせのような言い草は当面の問題を紛らわしくさせるとともに、<地球温暖化対策>自体の間違ったアプローチを促進させることになりかねないと思えた。つまり、<暫定税率>という強制的な税金的発想、しかも、大量CO2 排出主体たる企業への措置以前に、なぜ一般国民の生活に直結するガソリン代高騰が追認されなければならないのか、まったく理解できないのである。
この視点に立つならば、原油ファンドの暗躍による原油高高騰もまた、<地球温暖化対策>に資すると強弁するつもりなのだろうか。
 まさに、「ガソリン暫定税率維持」に向けた "為にする議論" としか思えない。<地球温暖化対策>というような国民的課題の問題は、「ガソリン暫定税率」なんぞの問題の文脈からは切りはなされたオープンな土俵で仕切り直されて然るべき問題であろう。
 大体、こうした訳知り顔でものをいいつつ、国民自身が真剣に考える機会をはぐらかすという "姑息" なスタンスが、現在の有識者たちの特徴であり、マス・メディアでもあると見えてしょうがない。

 そこへ行くと、以下のような記事こそが "春爛漫" なのだと確信させられる......

<ゴア氏が大キャンペーン 温暖化防止へ300億円
 【ワシントン31日共同】ゴア前米副大統領は31日、今後3年間に約3億ドル(約300億円)をテレビコマーシャルなどに投入し、地球温暖化防止を訴える大規模な啓発キャンペーンを始めた。AP通信などが伝えた。
 温暖化防止の運動を、人類初の月面着陸などに例えて歴史的意義を強調するコマーシャルを近く放映する。
 ゴア氏が創設した環境保護団体「気候保護同盟」が運動の中心となる。ゴア氏は「米国民が大きな声で(温暖化対策に消極的な)政策の変更を求めれば、政治家も耳を傾けるだろう」と運動の狙いを述べている。
 広告費や活動費は、ゴア氏主演のドキュメンタリー映画「不都合な真実」からの収益や著作の売り上げ、ノーベル平和賞の賞金や寄付などで賄う。同団体を通じ既に約100万人が運動に協力しているが、1000万人まで拡大するのが目標という。>(2008/04/01 12:03 【共同通信】)

...... (2008.04.01)

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