2008年3月 アーカイブ

 地球温暖化現象のために、極北のシロクマたちも大いに被害を被っているという。海が氷結しなければ、氷上を渡ってアザラシなどが泳ぐ海に出られず、そのため獲物を得ることができず、飢えに苦しむことになるのだという。最近は、こうした事情を伝えるTVドキュメンタリーもしばしば見かけるようになってきた。
 通常500キロはあるという大人のシロクマたちが、哀れにも100キロ台の飢餓状態で陸地地域を彷徨ったり、挙句には人里に近づく危険まで冒すらしい。
 人里に近づいたシロクマたちは、野生動物保護員たちに捕獲され保護管理されることになるらしいが、その際、どんなに弱っていても、人間からの餌付けは "ご法度" となっているという。捕獲と保護の目的は、人里での事故を防ぐことと、海が氷結した時に氷上へとリリースしてやること以外ではないのだという。
 人間からの餌付けに手を染めると、それに味をしめ彼らに人里に近づく習性ができてしまうことや、彼ら自体から "野生" が失われてしまうのだと言う。もちろん、前者も恐ろしいことではあるが、野生動物保護員たちが、しっかりと後者の問題性をも見つめていることが頼もしいと思えた。野生動物たちが、その "野生" を放棄したり、失ったりするということは、結局、遅かれ早かれ絶滅への道を急ぐことになるのであろう。
 そして、それはまた、その周囲の "生態系" を突き崩して行くことに直結して、より大きな自然環境のバランス破壊をも促進させることになるものと思われる。
 こうした生態系のメカニズムについては、これまでにも多くが語られてきたところだ。しかし、ここに来て地球温暖化現象の加速などによって、いよいよシリアスな様相を呈してきたのが現状なのかと思われる。

 ところで、上記の、人間からの餌付けによって野生動物たちが "野生" を失うという事情を再認識してみた時、妙なアナロジーになってしまうが、現代人たちが、好ましくない "餌付け" 的な文化や風潮によって、いわば "腑抜け" な生きざまになって行くというようなことを感じたのである。いくら何でも "野生" を失うという表現はおかしいということになろう。
 特にこの文脈で想起したことというのは、日常生活における "危機意識" の欠落だと言えるのかもしれない。 "平和ボケ" という表現は好まないが、それにしても、政治・経済をはじめとした日常生活環境の安逸さがことさら "演出" され続けてきたことによってか、いろいろな意味での "危機" に立ち向かう毅然としたスタンスが希薄になっていそうだと感じるのである。いや、まずは自身のことだと言っておくべきなのではあろう......。

 今、時代環境は、さまざまな意味合いでの "行き詰まり状況" に直面している。これまでの、概して "右肩上がり" のなだらかなスロープ的景観は嘘のようになってしまった。そして、こんな "危機" 的状況の中では、 "危機意識" というか、 "危機対応力" というか、 "野生" にも似たそんなものを内に秘め続けてきた者たちだけがしたたかに生き続けるのではないかと予感する。
 今必要とされているのは、鋭利で奇麗事のパワーであるよりも、その多くの部分を忍耐力で構成した "野生" 的な生命力であるのかもしれない。何によらず "システム" が事を運ぶものと錯覚する者たちがいち早く散逸するのであろうか...... (2008.03.31)




















 桜は今が満開だとわかっていながらの今日のような天気は、まことにもったいないと思わざるを得ない。このような天候のことを "花冷え" と言うのだろうか。

  "恥も外聞もない" という雰囲気や空気が蔓延しているのが、残念ながら現状の世相の特徴であり、人々の日常感覚の、これまたひとつの特徴であるのかもしれない。確かに、経済状況、財務状況の深刻さが、国家レベルから個人レベルに至るまでの生活主体に揺さぶりをかけてきている。暢気に構えることを許さないようなシビァな空気があちこちに漂っていると実感できる。
 しかし、だからと言って、 "恥も外聞もない" というような "没・美意識" の水準に滑り込んでよいということにはならないはずであろう。そこが、 "動物以上神未満" としての存在だとされる人間の美徳だと思えるからである。とは言っても、自身が究極の危機状況に追い込まれた時、 "恥も外聞もない" アクションを拒絶し続けられるかどうかについて自信を持っては明言できないところが恥ずかしいところとなるのであろう。

 昨日のTV番組の話、 "ダンディー、ダンディズム" の件である。
 なぜ今 "ダンディー、ダンディズム" なのかということでは、うまく説明はできないけれど、その必然性は十分にあると思われてならない。いろいろと分析的に述べてみることも面白いかとは思うが、それはまた別の機会にする。
 とりあえず、現代という時代環境は、男たちから "ダンディー、ダンディズム" を遠のかせている気配があるという点だけを唐突に書いておこう。

 で、昨日の番組(今夜決定!?世界のダンディ30人 BShi 3月29日[土] 午後8:00~11:00)をちょっと振り返っておく。
 どんな "水準" の企画なのかは、次の出演者たち面々で想像はつきそうであろう。
<出演】姜尚中,鹿島茂,高橋源一郎,佐野史郎,ピーター・バラカン
【司会】奥田瑛二,中越典子>
 先ずは、姜尚中氏の "真面目" さによって、基調が形成されていたかと思われる。そして、
<番組では自らの意志を曲げない生き方とスタイルを貫いた20世紀を代表する"ダンディー・ベスト30"を選び出す。映画、音楽、芸術、文学、政財界、ノンジャンルの6部門からそれぞれの分野の専門家、ないしはその部門にふさわしい審査員が、"20世紀最高のダンディー"を厳選して5人ずつ選ぶ。それぞれのプレゼンを受け、"ダンディズム"とは何なのか? それに値する男とは?身だしなみやマナー、こだわり、哲学や生き方を掘り下げる。>(NHK BSオンラインより)
とある。
 ちなみに、各分野で決定された者たちは、以下の5人であった。 "マイルス・デイヴィス" 、 "マルチェロ・マストロヤンニ" 、 "サルバドール・ダリ" 、 "エドワード・サイード" 、 "金子光晴" 。そして、特別部門で "植木等" 。
 なお、最終投票で世界ナンバーワンとして選ばれたのは、パレスチナ問題などの分野で世界に向けて発言した "エドワード・サイード" (パレスチナ系アメリカ人の文学研究者、文学批評家。主著の『オリエンタリズム』でオリエンタリズムの理論とともにポストコロニアル理論を確立した。 )であった。この "ハイブロー" な結果からも、この番組が単なるスタイリストとしての "ダンディー、ダンディズム" が問題とされていたのではなかったことがわかろうというものである。
 遅ればせながら、サイードの著作『戦争とプロパガンダ』とか、『オリエンタリズム』などの大作に嵌ってみなければならないようである...... (2008.03.30)

 今朝は、通常の勤務日と同様の時刻に起床し、ウォーキングも通常どおりに実施した。さすがに、身体の調子の方も復帰したようである。ウォーキング・コースの途中で見かけた桜の樹は、いずれもが満開であり、潤いを秘めたその迫力に圧倒されたものだった。

 これを書き始めるや晩御飯の時間となり中断することとなった。
 その際、とあるTV番組を観たのだが、すっかり惹きこまれてしまい、結局、8時~11時の3時間に及んでしまった。
 その番組とは、『今夜決定! 世界のダンディー 男の美学・生きざま』と題されたものであった。常日頃、何とはなしに関心を持つとともに、特に現代という荒んだ時代にあっては意を向けられてもいい、と感じていた "ダンディー、ダンディズム" がテーマとなり、各界で一体誰がそれに値するのかを、結構存在感のある者たちが出演してトークし、おまけに即興で投票までするというものなのであった。
 そもそも、 "ダンディー、ダンディズム" とは何なのかという点自体が議論百出だと思われはする。だが、それにもまして、 "美意識" とは無縁の社会現象ばかりが肥大化する昨今にあっては、こうした趣向が持つ意味は決して小さくなかろうと共感したのであった。 この詳細について書くのは明日に持ち越そうかと思う。なんせ "3時間も鑑賞" してしまい甚だ疲れてしまったことと時間が無くなってしまったからでもある。
 あらかじめひとつだけ書いておくと、 "ダンディー、ダンディズム" という視点は、決してファッションの問題(だけ)であるどころか、人間の生き方、生きるスタイルの中心部分と深く関係を持ったものだということ...... (2008.03.29)

 何だか "因縁" めいたものを感ぜざるを得なかった。

 今日は、念のためと思い、事務所近くの総合病院で診てもらうこととした。
 ヘンな逆説だと思えたが、病院へ行くというのはいくらか元気になってから可能となるもののようだ。本当に具合が悪いと、病院に向かったり、そこで順番を待ったりすることとてできない。その煩わしさに抗して病院へ行くというのは、やはり体力がそこそこ回復してきたからということなのかもしれない。
 また、この後こじらせないための "つっかえ棒" 的な気分もあった。結局、ほとんど別条のないところまできているとのことで、まずは安堵した。

 そんなことよりも、若干驚いたのは、その病院の待合室で待ちながらTVに目を向けていた時のことであった。臨時ニュースとしてスーパーインポーズで流された地名が "妙に懐かしいもの" であったからだ。

<大阪市東住吉区矢田の大和川河川敷......>

 そこは、自分が10歳の時東京に出て来る直前まで住んでいた地域だったのであり、また<大和川河川敷>という場所も、親の目を盗んでは悪童同士でしばしば遊びに行った所だったのである。夏場などは、 "命知らず" にも子どもたちだけで川原の浅瀬で泳いだりして、そうしては爽快な気分を味わったものであった。
 ところが、この "妙に懐かしい地名" は、何とも悲惨な事件が起きた場所として報じられていたのである。

<小6男児、「基地ごっこ」の穴に埋まり死亡 大阪
 27日午後11時10分ごろ、大阪市東住吉区矢田7丁目の大和川河川敷で、近くの同市職員※※※※さん(41)の長男で市立矢田小学校6年の※※君(12)が土中に埋まっているのを、「子どもが帰ってこない」と家族から110番通報を受けて捜索していた東住吉署員らが見つけた。※※君は病院に運ばれたが、死亡が確認された。この日の朝から「基地ごっこ」で掘り進めていた穴に埋まっていたといい、大阪府警は土砂が崩落して生き埋めになった可能性があるとみて調べている......>( asahi.com 2008年03月28日 )
 このところ、どういうものか<小6男児>にまつわる悲惨な事件が報じられる結果となっている。冒頭の感想、「何だか "因縁" めいたもの」というのは、そんなことや、自分にとっての "妙に懐かしい地名" が飛び出したことからきているのかもしれない。
 しかし、こうした事件を通して痛感することは、現代という時代環境は、日常生活というものが、実に "危うい場面と隣り合わせ" とさせられていそうだという点である。
 いや、日常生活の環境というものはいつの時代もそうであったのかもしれない。ただ従来は、同時に、結構、伝統的な "柔軟な仕組み" のようなものが、埒外な悲惨さを上手く回避させて来たようにも見える。
 例えば、今回の事故にしても、ひとつ思うのは、その点なのである。もし、少年たちが地域で遊び仲間の集団というものを、年齢的に縦横両方向で形成していたならば、今回のような遊びの危険くらいはコントロールされていたのではなかろうか。
「おいおい、こいつは崩れてきそうだぜ!」
と警戒する年長の仲間がきっといたと思われるのだ。自分の少年時代を振り返る時、そんな記憶が蘇ってくるのである。
 ところが、昨今の日常生活の環境は、どうもヘンである。その "近接した危うい関係" をうまく往なしてしまえないでいるような硬直した、そんな環境が、次々ととんでもない悲惨さを生み出しているような気がするのである。
 これは、 "生活文化の崩壊" とさえ呼べるような事態が進行していると言えるのかもしれない...... (2008.03.28)

 このところ心して毎晩 "早寝" をするようにしている。それで眠ることができてしまうのだから、やはり体調が今一歩ということなのだろう。言う人に言わせれば、如何にしつこいインフルエンザだといっても、 "一ヶ月" に及ぶというのはどんなものか? ひょっとしたら他に原因が潜んでいるのかもしれない......と。まあ、そうかもしれないし、そうではないかもしれない。
 しかし、振り返ってみると、所詮 "風邪" だと "初動捜査(?)" が甘かった嫌いをなしとはしない。というのも、 "風邪" の自覚症状以外では絶対に行かないことになっている近所の "個人医院" に転がり込み、その上、回復の兆候が見えないために、まるで悪い博打(?)に嵌まり込むような流れで、効きもしない抗生物質をもらい続けてしまったのだ。だから "捜査方針(?)" なんぞあったものではなかったようである。
 もともと、ウイルス性のインフルエンザの場合には、抗生物質なんぞは効く効かないというレベルの問題よりもほとんど "無意味" だと言う医者もいるくらいだ。まあ、ここまでダラダラと来てしまった自分がバカであったことだけは確かなのだろう。

 とは言うものの、悪化しているという感触はなく、確実に "善処" されているようではある。もっとも、昨今の政治やら役所の仕事に即して使われる言葉としての "善処" であり、そのまどろっこしさは拭い切れない。
 まあ、つべこべ言っていないで、今日はこれくらいで手仕舞うこととしよう...... (2008.03.27)

 やはり、 "生命" や "死" に関する教育に徹底的なメスを入れてゆかなければいけない。この現状はあまりにも悲惨過ぎる。多分、人間の文化にとってのエッセンスであるはずの、 "生命" や "死" に対する基本的な感性メカニズムとでも呼べるものが社会的に、時代的に破壊され尽くそうとしているのではなかろうか。
  "殺すのは誰でも良かった" という感性が頻繁に立ち上がってきたり、また、あまりにも唐突に "自死" を選びとってしまうような風潮が、若年世代や子どもたちにまで浸透しているかに見える現代は、何はさておいても強く警戒されなければいけない。
 こんな当たり前の事実を再確認しなければならないところに、この時代の最大の "誤り" があるのだと先ずは決めつけておきたい。

 昨日、 "小学6年" の子どもの事件に目を向けたのには、ヘンな表現だがまだ多少の "余裕" がなくもなかった。しかし、今日伝えられた事件は、何と痛ましいことか。まさに絶句してしまうような悲惨さである。
 <卒業式、「大好き」「大嫌い」言い違う? 小6飛び降り>( asahi.com 2008年03月26日 )として報道されている事件である。

 <......同校の校長によると、卒業式の「門出のことば」で、男児が「大好きな(○○小学校)」と言うところを、「大嫌いな」と言ってしまった。式後、校長が「何であんなことを言ってしまったの」と尋ねると、「緊張していて間違ってしまった」と答えたという。校長は「しかってはいない。男児は成績や交友関係は良好で、いじめの認識もない」としている>(前述同)

 ここで、事実の詳細は不明であるし、同校長を責める気にはなれない。校長ならずとも、そうしたハプニングを訝しく思い、質問してみるのは、言ってみれば自然な対応だったかと思う。
 やはり、問題は、子どもの思考や感性、そして判断において、あまりにも短絡的に "死" への行動が選び取られてしまった、ということであろう。 "死" への行動を阻む壁があまりにも脆弱過ぎたということではなかろうか。
 この点は、その子どもの周囲の誰がどうだというような簡単な責任問題に還元できるものではなさそうだ。ざっくり言えば、現在の初等教育にしわ寄せを喰らわせている時代と社会全体の問題なのだと言わざるを得ないのではなかろうか。

 かわいそうでならないその "小学6年" の子が、果たして次の言葉を知っていたかどうかはわからない。が、知っていて欲しかったと悔やまざるを得ない。
 「命あっての物種」(すべてのことは命があるからこそできるので、死んでしまってはどうにもならない。だから、命にかかわるような危険なことはなるべく避けて自重せよということ。――学研故事ことわざ辞典)
 現在の小学生(中高生)たちに何としても教えなければならないのは、この一事に尽きるのかもしれない...... (2008.03.26)

 一体、この風邪気味の感触はどうなっているのかと、不気味な感じさえしてきた。もう、そろそろ一ヶ月になろうとしているのだ。
 ここ二、三日落ち着いてきたような雰囲気ではあるものの、時として突然、咳に見舞われるし、何よりも気分がシャキッとしなくていけない。もう、こうやって自覚症状を書くことさえ疎ましくなっている。まさに、この執拗さというのはこれまでに経験したことがないものである。せっかく長年気に掛けてきた "禁煙" に踏み切ったというのに、体調の崩れがこうでは、まるで "禁煙" が災いしているような錯覚にさえとらわれてしまう。情けないことである。

 しかし、春に向かう天候とともに、少しづつ気力が立ち上がってきているという実感がないではない。尤も、そうでなくては困りものである。このご時世、どこをどう見ても、問題含みだらけであり、弱気な足取りでは簡単に足元を掬われてしまいかねない。気丈夫に構えてみて、ようやく、環境がはらむ諸々の攻撃性と対峙できるといった感がありそうだ。それほどに、マス・メディアが報じてくる環境自体の異様な立ち腐れ状況は尋常ではなさそうだ。

 殺伐とした犯罪事件が多々ある中で、今日、ふと目についたのは、次のような、何と評していいのかわからなくなるような事件であった。

<小学6年「父ちゃんが好きだから、泥棒を手伝った」
 小学6年生の長男にマンションの壁を伝わせて部屋に侵入させ、内側から鍵を開ける手口で空き巣を繰り返したとして窃盗と住居侵入の罪に問われた土木作業員の男(36)=北九州市小倉北区=に対する判決公判が25日、福岡地裁小倉支部であり、重富朗裁判官は懲役2年6カ月(求刑懲役3年)を言い渡した。
 判決によると、男は昨年10月28日午後1時ごろ、同市小倉南区のマンション5階の部屋に侵入し、現金約4万円などを盗み出すなど計4件の空き巣を繰り返した。長男と2人で玄関先まで行き、長男に壁伝いに鍵のかかっていない出窓から中に入らせ、玄関の鍵を内側から開けさせていたという。
 検察側が明らかにした供述調書などによると、男は「自分一人では恐ろしくてできず、長男を利用した」、長男は「お父さんが好きだから十何回か泥棒した」と話していたという......>( asahi.com 2008年03月25日 )

 自分は一瞬、 "江戸時代" の "かわら版" を読むような心境に引き込まれてしまった。尤も、相変わらず昨今でも "鬼平犯科帳" のDVD鑑賞を、ビタミン剤を服用するごとく続けている自分だからなお更のことだと言うべきか。
 とんでもない親だと罵ることや、そんな父を慕う子どもに憐憫を感じることは容易い。しかし、袋小路の奥の暗闇に追い詰められてしまったかのような親子の姿は、とても現代という "スマート" な時代に似つかわしくはない! そのことに意を払いたい。
 やはり、あまりにも弱者にとっての生きる "すき間" というものが、根絶やしにされ尽くされてしまっているのだろうか。
 と同時に、こうした "反社会的" な当事者たる親子の間に通う、 "眩しいほどの情感" とでもいうものに、人知れず嫉妬する者たちも少なくないのではなかろうか...... (2008.03.25)

 社会的に何か不祥事が起こされると、記者会見で当事者周辺の者たちが "謝罪" もどきを行うのが常となっている。
 しかし、その "謝罪" もどきが与える印象は、 "逆効果" であることの方が多いようである。被害者ならずとも、一般国民でさえ不快感と苛立ちを刺激されるだけというのが、どうも一般的であるような雰囲気ではなかろうか。
 つい先日も、土浦で発生した凶悪事件で、警察当局が記者会見を行っていたが、これなぞは、当局による "謝罪" もどきにすらなってはいないと感じられた。完璧な "官僚作文" を平然と読み上げることによって、無内容なメッセージ(?)を形式だけで押し通そうとする姿は、まるで化石かシーラカンスでも見るような思いがしたものであった。

 今どき、こうした場面が通用すると平然として信じられているということが、非常に奇異に感じられたということなのである。多分、警察当局の日常的な組織実態にあっては、何ら奇異なことではないのかもしれない。むしろ、ごくごく自然なことなのであろう。
 一切の人間的、個人的な感覚を押し殺して、毒にも薬にもならないような "官僚作文" 的会話をするということが、何ら違和感を与えない、そんな組織環境がそこに現存しているに違いないと推察させられたのである。それらは、 "法律的厳密性" の課題とは似て非なるものであろう。
 そして、それが、現代のマス・メディアの中で唐突に露にされると、まるで、古い地層の断面に露出する化石のような、そんな印象を与える......、ということになるのだろうか。

 ただ、こうした人間的会話の形骸化は、何も警察や自衛隊といったような規律重視の組織だけに限られたことでもなさそうである。これに関してすぐに思い浮かべることができるのは、言うまでもなく毎度辟易とさせられる "国会答弁" だということになろう。
 この間も、ガソリンの暫定税率問題を巡っての国土交通省の官僚の答弁を見聞することになり、上記の実情とまったく同様の感想を抱かされたものであった。よくもまあ、冷静さにかこつけて "能面" かぶりで "能" を演ずるかのような仕草ができるものだ、と驚嘆したものであった。
 そして、さらに問題であり情けないのは、現在の福田内閣が、紛うことなくこうした官僚たち、官僚機構によって徹頭徹尾、 "操り人形化" させられている、ということなのではなかろうか。多分、今日あたりも報じられていた、低迷する内閣支持率という世論調査の結果が語っているのは、ほとんどパーフェクトな形で官僚機構に呑み込まれているこの内閣の情けなさに対する国民の危惧ではないのかと見える。
  "ねじれ国会" によって何も決められないのがどうのこうのと、評するマス・メディアもあるが、実はそうではなく、官僚機構の意向を何の努力もなく "垂れ流す" かのような国民不在の内閣運営が、国民の不快感を刺激しているのではなかろうか。
 正直言って、国民の目から見える現在の官僚機構(防衛省、厚生労働省、国土交通省 etc.)は、問題点が露呈される度に、信頼感が損なわれ、もっと厳しい "監視" こそが必要なのだと国民に痛感させているとしか見えない...... (2008.03.24)

 つい今しがた "朝青龍" が "白鵬" を降した。その逆を期待した相撲ファンが多かったのではないかとも思う。自分も、どちらかといえばそうであったし、 "朝青龍" がことのほか喜ぶ表情を見せる時、今場所あたりは、泣いてもらった方が良かったのではなかろうかと、勝手なことを感じたりしていた。
 ただ、今日の "白鵬" の攻め方は、 "白鵬" らしからぬ、性急さが前面に出過ぎた観があったかに思えた。その点、勝負慣れする "朝青龍" は、その "白鵬" の性急さだけの意気込みをうまく読み切ってしまったというところであろうか。
 当然といえば当然かもしれないが、勝負というものは、その付随的条件や状況はまさに、 "状況証拠" にさえならず決め手とはなり得ないものであり、勝敗を決するものは実質的な別なところにあるとしか思えない。 "白鵬" は、 "朝青龍" の手練(てだれ)とスピード感とをもっと徹底して研究すべきなのかもしれない。

 もう、インフルエンザ・ウイルスはほぼ撃退したとは言えそうだが、それでも、身体の一部にしぶとくへばり付いている感触が残っていそうだ。喉の奥の違和感やら何とはなしのだるさがそれである。本当に今回のウイルスはしたたかであったと言うほかない。
 今後は、こうしたウイルス事情の事実認識に立って、健康増進やら予防対策に意を払うべきなのだろうと痛感している。
 ところで、聞くところでは、これまでそんな症状とは無縁であった人が、突如 "花粉症" に見舞われるといような怖いケースもあるとかである。身体の変調と何かのきっかけが引き金となるらしい。幸い、自分の場合そんな悲惨な状態にはなっていないが、これとて、無縁だと思い込んでもいられないのかもしれない。
 いずれにせよ、せっかく "禁煙" という、決して小さくはない生活習慣改善に踏み切ったのであるから、この際、積極的な健康増進策に目を向けて行こうかと思っている...... (2008.03.23)

 ウォーキングで汗をかいたのは久しぶりのことだ。風邪で体調を壊していたり、天候が不順であったりして、春の明るい陽射しの中を歩くのは何日ぶりであろうか。本当に気分が悪い時には、やはり一時間程度のウォーキングでさえも拒絶するような心境になってしまうということだ。
 今日あたりは、 "さぁーて、出掛けるか......" といった気負い方に変わり、また、歩いている際にも春めいた光景のひとつひとつに目をやる余裕も生まれていた。
 禁煙をすると、呼吸がラクになるというようなことがどこかの本に書いてあったかに覚えているが、まだそうした効果を期待するのは早過ぎるのかもしれない。しかし、二、三ヶ月も続けるならばきっと手応えのある効果が感じられるようになるはずである。それを楽しみに、タバコのことは黙殺するようにしたいと思っている。

 一定のコースをウォーキングをしていると、コース周辺の景観の変化にいろいろと気づかされるものだ。これまで畑地であったところが急に "宅地造成" されたりする、というような変化である。
 さほど長いコースではないにもかかわらず、何箇所もそうした現場を見てしまうとやや気になるといえば気になる。
 というのも、畑地に盛り土をしての宅地造成というのは、よほど地下深くにコンクリートの基礎を打ち込まないと、後々深刻な建築問題を引き起こすと言われているからである。TVドキュメンタリーでも時々、そんな酷い建築の "被害者宅" が紹介されたりもしている。要するに、不規則な地盤沈下が発生して、家屋が信じられないように傾いてしまうのである。

 長い間、畑地として使われていた箇所というのは、いくら盛り土をしてブルドーザーなどで整地をしたところで、急には宅地に適した地盤の固さになるものではなかろう。
 ところが、結構、短期間に宅地造成と建築がこなされてしまっているような印象を受けるのである。少なくとも、自分がウォーキングの際にたまたま目にすることになった光景は、いずれも "短期間" の出来事のようである。
 確かに、 "造成工法" として、コンクリートの長い杭を各所に打ち込みさえすれば、安定した地盤を確保したことになるのではあろう。しかし、それは同時にかなりのコスト高にもなるはずであろう。
 造成された土地の状態が観察できる時から付き合った注文住宅であれば、そうした一連の事情も確認できるのであろうが、いわゆる "建て売り住宅" の形態だったりすると、目の前で輝く新築住宅の陰や過去に一体どんな事情が潜んでいたか、わかりようがないと思われる。こうなると、 "偽装" もへったくれもないことになる。

 最近、いろいろな商品の "偽装" がマスコミを賑わしている。確かに、その原因の大半は、消費者を欺くたちの悪い業者たちの仕業であるに違いない。
 しかし、今ひとつ気になるのは、消費者が簡単に騙されてしまうような、そんな仕組み自体が現存しているということなのではなかろうか。
  "味" にせよ、 "毒物" にせよ、製造過程の "工法" にせよ、素人の消費者にはわからないことが多過ぎるのが現代である。そして、そこを代わって精査するのは、 "公的機関" ではないかと、改めて痛感するのである。
 とすれば、 "偽装" の多発という風潮は、悪人が増えたというよりも、まともな役人が減ったということにはならないか...... (2008.03.22)

  "底を打つ(Bottom out)" という株式用語がある。同様な用語に "底をつく"、"底入れ" という表現もあり、要するに "相場が下がるだけ下がり、大底が確認され、相場が下げ止まったことをさす" ということのようだ。
 今、経済に関心を持つ者であれば誰もが、米国経済の成り行きに関心を持ち、 "リセッション" に入ったのかどうかはともかくとしても、米国株価が、いつ "底を打つ" 状態になるのかが気になってしかたがないところであろう。
 それというのも、日本の株価にしても、現在、ほとんど "底値" に近い状態にありながらも、米国株価の有り様によっては、さらにまたいつ "底割れ" してしまい、 "二番底" へと転落するかわからない、そんな疑心暗鬼状態にあると思えるからである。

 ところで、 "底を打つ" 状態にことさら注意が払われるのは、株というものが、 "底値" であると確信されると今度は一気に "買い" に見舞われ、あっという間に "上昇" 気運を形成してしまうもののようだからなのである。
 まあ、多少の "利益確定売り" が現れたとしても、一度 "底を打つ" 状態が市場で共通認識されると、要するに "上昇トレンド" が力強く維持されて行くようである。
 そうしたことを考え合わせてみると、この二、三日の米国ダウの推移や、東京市場の推移は一体どうなのかということになる。まあ、素人が偉そうなことを言うべきではなかろうが、あくまでも素人の感想としてでしかないが、現状は決して、 "底を打つ" 状態になんぞなってはいないし、だからこそ、多少大きな上げ幅の "反発" が見受けられたとしても、それらはまったく "楽観的読み違い" の動きでしかないのではなかろうか。だから、おそらくは、来週週明けのダウや日経平均は再び下げに転じて行くと予想される。
 この先、何度かの大幅の "反落" に見舞われ、まさに惨憺たる "底値" となり、米国政府が、巨額の "公的資金" を事態収拾のために注入せざるを得ないと決断した時、その時こそが"底入れ" と ダイナミックな "リバウンド" へと転じる契機なのであろう。 "信頼筋" による読みは、どうもそのようである。

 今日、こんなことを書こうとしたのは、大前研一氏が<衰退する米国経済にマネーを呼び戻す方法>( nikkeibp.co.jp 産業突然死時代の人生論 第120回 )という表題で、面白いとともに、実にリアルな展望を語っているのを目にしたからなのである。
 同氏は、<ドルの衰退=ドル離れ=ドル安>はもはや避けられない事態となっていると見る。<サブプライム問題、およびその背景にあるウォール街のハイテク加工商品(デリバティブなど)に対する自信過剰>がその原因であったが、この事態は、決して楽観視を許さず<「今後行くところまで行く」「さらに悪化していく」>と推定する。
 そして、こんな状況にあっては、あえて早く "底を打つ" 状態に持ち込むことこそが必要ではないのかと、まるで "外科医" のような提言をしている。
 <落ちるところまで落ちれば米国経済の回復も早い>と、米国経済の底堅さを睨みつつ次のように述べている。

<だから、わたしがブッシュ大統領、あるいはバーナンキ議長であれば、米国経済をなるべく早く、落ちるところまで落としてしまう。そして回復できそうもないくらいの急激な下げ、いわゆる「ガラ(全面的かつ大幅な下げのこと)」を来させる。
 そうなればしめたものだ。今度は世界中の余ったお金が「落ちきったから、今度は上がる番だ」「今が買い時だ」と米国に集まってくるだろう。13年ぶりのドル安という現在でも、ドルを買い時だと見ている人はいるのだ。ガラを演出することができれば、相当なお金が集まってくる......>

 ただ、<レイムダック(影響力を失った政治家)になっているブッシュ大統領にそれができるのか。あるいはおどおどしているバーナンキ議長はどうか。わたしから見れば「二人とも力不足」と言うほかない>と嘆き、<米国政府の中でそれが実行できそうな人材として、わたしはポールソン財務長官を挙げたい>とも述べている。

 大前研一氏のこうしたダイナミックな立論に接する時、複雑で深刻な問題で込み入った現代社会にあっては、鋭利な論理的視点と、大胆な英断とで臨む、まさに "外科医" 的な判断こそが必須なのかと考えさせられたものである。この国、日本もまったく同様のはずであろう...... (2008.03.21)

 春分の日だというのに、まるで冬に舞い戻ってしまったかのような寒々とした陽気である。この辺の "急変" が最近の気候のヘンなところだと思ってしまう。
 それにつけても、同様の "急変" という印象で思い至るのは、現在の世界経済、株価の全く異常な乱高下だと言うべきか。
 もはや、一昨日のニューヨークのダウ平均の "反発" がそのまま維持されるとは誰も考えなくなっていたはずではあるが、案の定、昨日は、すかさず "大反落" に転じた。FRBによる "金利引下げ" 措置の効果が、三日天下ならぬ一日天下のようでしかないことが白日のもとに曝け出されてしまったわけだ。こうして、小出しに打たれる対策が次々と "無効" とされて行くのであろうか。

 せっかく風邪も治り始めて、ヨーシと構えてみるとこんな天気となってしまい、いささかがっかりしている。まあ、もうちょっとの間ムリをしなさんな、ということなのかと思い、今日は一日無為に過ごすこととした次第である...... (2008.03.20)

 ようやく今日あたり、体調と気分が戻ってきたような感触なのでホッとしている。まだ油断はできないが、それでも自身のことなのでわかるといえばわかるのだが、そろそろ立ち上がってきたようだとの感触を得始めている。
 とにかく今回の風邪=インフルエンザは長かった。よくはわからないが、よほど性質の悪いウイルスが忍び込んできたのであろう。インターネット・ウイルスも同じことが言えそうだが、 "悪" の成長もまた目覚しいものだと認識せざるを得ない。

 ところで、もう何度も書いているが、この間の災いの中で、 "転んでもただは起きぬ" のしたたかさがあったとすれば、それは "禁煙" であっただろう。今回のような喉の痛みに襲われなかったら、まだまだダラダラと喫煙を続け、ひたすら老化を速める愚を犯し続けていたに違いない。それを思えば、今回の風邪=インフルエンザは災い転じて福となす良いきっかけだったのかもしれない。そう思うことにしている。
 ただ、安心し切っていてはいけないのが、この種の悪癖なのだろうと警戒はしている。一応、禁煙というリハビリで最もきついと言われる、3日、一週間、10日をクリアして、もはや二週間を突破しつつある。
 最近では、禁煙外来という治療もあるようで、そこでは "ニコチン・パッド" という禁断症状緩和の治療法があるとかだ。要するに、皮膚から少量のニコチンを吸収させて、ニコチン禁断症状を緩めるというもののようである。
 今回は、それとて援用することもなく、採用した方法は、市販の "禁煙ガム" を噛む方法であった。このガムにはまだ依存していて一日に2、3個は噛んでいる。これもやがては止めることになるはずだが、そろそろその兆候も出始めている。
 と言うのも、元々がガムを噛む習慣がなかったものだから、最近はあごが痛くなり始めているのだ。とにかく無用なことを長続きさせないという点では、人間の身体というものは良くできているものだと感心してしまう。

 さてさて、ここは速やかに健康回復を図り、漸次、エネルギッシュに積み重なる課題に挑戦しなければならないと考えている...... (2008.03.19)

 しつこいインフルエンザにほとほと参っている。もうこれ以上ダラダラやっているわけにもいかないので、今日は再度医者に診てもらうこととし、思い切って自宅で静養することにした。お陰で、微熱もおさまり、だいぶ気分が改善されてきたかのようである。
 また、とにかく滅入る気分を晴らすことも必要かと思い、昼食時には散歩がてらに "春真っ盛り" の戸外へと出てみた。
 風邪のため嗅覚は狂っているが、それでもタバコを止めているせいか、戸外の春めいた空気の香りが感じられる気がした。

 それはそうと、一昨日<ウォーキングのコースの "カイドウ" (?)の並木が一気に紅色の満開状態となっていた>と書いて気になっていたのだが、やはり "カイドウ" ではなかったようだ。緋寒桜(ひかんざくら)と呼ばれる桜の樹の一種のようで、沖縄・台湾・中国南部に自生するもののようである。ただ、ダジャレレベルでしかないのだが、この桜の名称は、 "ひかんざくら" と呼ぶよりも "緋桜(ひざくら)" と呼ぶ方が無難なのだろうな、なぞと思ったりしたものだ。
 それほどに、現在の世界全体の空気は "悲観的" であるかのように見えてしまうからだ。
 ちなみに、<サブプライム損失78兆円 米景気後退で危機深刻化も>(2008/03/18 【共同通信】)という報道も然りだし、この米国発のマイナス要因を打ち消すべく目されていたはずの中国経済自体が雲行きの怪しい動向を見せ始めてもいる。

<上海株、大幅続落・8カ月ぶりの安値
 【NQN香港=早川亜美】18日の中国株式市場で上海株式相場は大幅に5日続落。上海総合指数は前日比151.151ポイント(3.95%)安の3668.897と、2007年7月5日以来、約8カ月ぶりの安値を付けた。5日続落は07年1月30日―2月5日(5日続落)以来。インフレ進行や先行きの中国景気に対する警戒感を示した温家宝首相の発言が投資家心理を冷やし、ろうばい的な売りが広がった。
 温首相は18日の全国人民代表大会(全人代、国会に相当)閉幕後に行った記者会見で、「現在の最大の困難は、急速な物価上昇と通貨膨張圧力、経済の潜在的な動揺リスクだ」と発言。インフレ加速への強い警戒感を示す一方、世界的な景気減速観測を背景に「今年は中国経済にとって最も困難な1年となる可能性がある」とも述べた。......>( NIKKEI NET 2008.03.18 )

 特に、中国経済は、ここに来て "チベット騒乱" 事件という、北京五輪というポジティブなイベントを帳消しにしかねない波乱含みの事態を招いてしまい、世界情勢はますます不透明さを増していそうな気配がする。
 グローバリズム経済が必然的に引き起こしているのであろう様々な矛盾と軋轢が、一気に "満開" 状態となりつつあるのが、この一年ということになるのであろうか。
 そんなただ中で、翻弄されながらもわれわれは生き延びて行かなければならない。せめて、体力、気力くらいは培っておかないとどうにもならないようだ...... (2008.03.18)

 今年一年は、精神的にも肉体的にもとことん "タフネス(toughness)" が要求されそうな予感がしている。いや、予感どころではなく、現にそうした洗礼を受けているとの実感がある。
 言うまでもなく、現時点での予断を許さないような経済的危機のことである。
 今日あたりの為替相場は、1ドル=95円台という "円高・ドル安" 水準で、12、3年ぶりのことだという。日経平均株価も、450円以上の下げとなり1万2000円をあっさりと割り込んでしまった。こうした水準の数値は、これからの経済状況の惨憺たる事態を容易に想像させるものであろう。
 よほどの強気な材料を持ち合わせている経営者でない限り、こうした凍りつくような数字を前にすると、気分が萎縮するのは避けられないのではなかろうか。
 だから、 "タフネス(toughness)" こそが要求される環境だと思うわけなのだ。

 よく、ビジネスは、 "合理的な係数把握" を第一としなければならないと言うが、昨今のような環境にあっては、ややもすれば "合理的な係数把握"自体は、ただただ "悲観視" だけを誘うことになりかねない。そもそもが、数字に長けた連中がアウトプットする株価や為替相場自体が、負のスパイラル効果に巻き込まれてパニック的な様相を呈しているわけだ。
 従って、それが可能であるかどうかは別なのだが、一定の距離を置くなり、独自な視点に立つなりしながら、可能な限り "冷静さ" を確保しなければならない。 "タフネス(toughness)" というのは、何も華やかなエネルギッシュさを言うのではなく、その "冷静さ" に向けたしたたかさだと言うべきなのかもしれない...... (2008.03.17)

 陽気はめっきりと春めいてきた。買い物に出た際、ジャンパーを羽織って出たら汗ばんでしまった。
 また、昨日、今日とウォーキングを控えている間に、ウォーキングのコースの "カイドウ" (?)の並木が一気に紅色の満開状態となっていた。
 自宅の門扉の脇の "ジンチョウゲ" も薄紅色の花を咲かせ、ふくいくたる香りを放っているのに気づかされた。

 インフルエンザの症状は、悪化している気はしないものの、相変わらず一進一退の "足踏み状態" のような感触である。何とも、 "苦戦" を強いられているといった印象が否めない。それでももはや半月に及ぶのだから、今週こそは元気を取り戻し、 "反撃" に転じたいものだ。

 唯一明るい出来事は、 "禁煙" が腰砕けせずに継続されていることかもしれない。せめてこの点だけは "過大評価" して、マヌケな話ではあっても、自身を褒めて褒めて大いに持ち上げておこうかと思う。
 考えてみれば、35年にも渡る習慣を断ち切っているのだから、他人が何と言おうと、 "大事業" であることには違いなかろう。もちろん、健康面で順次実質的なメリットが戻ってくるに違いないし、精神面でも、何がしかの意志の強さを確認することもできようというものである。

 体調が芳しくないこともあり、この日誌もこのところ精彩を欠くことはなはだしいが、まあやむを得ないと言うべきか...... (2008.03.16)

 米国経済の悪化と "連動" なんぞしたくないものだが、現在のインフルエンザの症状は妙に "連動" してしまっているようだ。一向に回復できないでいる。
 昨夜も早く床に就き、今朝は疲れに任せて昼近くまで眠っていたが、それでも、一皮剥けたような回復というわけにはゆかなかった。
 一応、自宅に居ても気が滅入るだけなので事務所に出てはきた。しかし、いつもならありがちな、仕事をしているうちに気力が立ち上がってくるというような気配もなく、次第に元気が萎えてさえくるような感触である。

 目にしたくないような次のような記事まで目に飛び込んできたりすると、体調の悪さの足を引っ張られる感がある。

<米経済は深刻なリセッションに陥る恐れ=NBER所長
 [ボカラトン(米フロリダ州) 14日 ロイター] 全米経済研究所(NBER)のフェルドスタイン所長は14日、米経済はリセッション(景気後退)の状態にあり、今後深刻化する恐れがある、との認識を示した。
 フェルドスタイン所長は当地での講演で「状況は非常に悪く、悪化しつつある。非常に悪くなるリスクがある。今年と来年が非常に困難な年となることは間違いない」と語った。
 質疑応答では、景気低迷が第二次大戦以降で最悪となる可能性があると指摘した。
 金融政策については、フェデラルファンド(FF)金利が現行の3%から2%水準へと向かっているが、景気回復という観点では、クレジット市場の流動性が不足していることから、金利を引き下げても効果は限定的との見方を示した。>(2008年 03月 15日 10:09)

 変わり映えがしない体調であるが、 "横車を押す" ように面倒見い見い一日をこなした。調子が悪いからといって手作業の手を緩めてボケーッとしているとさらに悪化するようなので、ことさらテキパキとやるべきことをこなすようにしてきたつもりだ。
 相変わらず "禁煙" は遵守、堅持し続けている。今回、インフルエンザだというのにいつものようにタバコををスパスパとやっていたとしたら一体どうなっていたであろうか。おらは死んじまっただ~、と相成っていたかもしれない。そんな弱気になるほどに今回はダメージを受けている。きっと、長らくのストレスの蓄積もあって、 "免疫力" が低迷していたのではないかと推測したりもしている。
 とにかく、この一番勝負を、憎々しくも "朝青龍" なみにかっ飛ばしたいものであるが、それが無理なら、 "高見盛" ふうでもいいかと思ったりしている。あまりスマートではないけれどギンギンバリバリのブリキ・ロボットふうでも何でも、しつっこいインフルエンザを投げ放ってやりたいものである。

 昨日も、一昨日も、帰宅して食事もそこそこに、午後九時には就寝し、朝まで寝入るといった処し方をしている。睡眠が何よりだと思うからである。だが、よくもそんなに眠れるものだと不思議に思ったりするが、現にそれができてしまうのだから恐れ入る。たぶん今晩も、そのパターンとなりそうである...... (2008.03.14)

 やはり、 "風邪" というより "インフルエンザ" とか "流行性感冒" とかと表現すべきなのであろう。症状が執拗で、少しも "可愛げ" というものがないからだ。
 昔ふうの "風邪" といえば、ちょいと寝冷えをして寒気の末に被ってしまったとか、生姜湯とか卵酒を飲んだりしたら幾分気分がよくなったとか、随分とあっさりしたものであったようだ。
 ところが、今の "風邪" ときたら、そんなに性質が良いものではない。言ってみれば、"良性" と思しき "風邪" は少なく、大体が、性質の悪い、 "悪性ウイルス" によるものである場合が多いようだ。抗生物質とのいたちごっこが懸念されても、それらに頼らざるを得ないのが残念ながらの現実であるようである。
 ということで、そうした症状のものを、心安く "風邪" なんぞと呼んではいけないのだと思うわけだ。はっきりと、 "インフルエンザ" と名指しし、いや、名指ししたからと言って何がどうなるものでもなかろうが、少なくとも警戒度を高め、また対策も手ぬるいものであってはならないようだ。

 振り返ってみると、今回感染した "インフルエンザ" は、罹り始めたかの感触があってから、早、二週間になろうとしている。一連の風邪特有の症状もさることながら、やたらに気分が滅入っていけない。
 気分が滅入るといえば、思い切って "禁煙" しちまおうと跳ね上がってみたことも、悪い気分に輪をかけることになっているようである。これで、 "インフルエンザ" も吹き払い、 "禁煙" 関連症状とも縁が切れた暁(あかつき)には、文字通りに活気ある春を迎えることになるはずであろうが、今現在は、株価と同様に、惨めなボトムそのものである。
 株価と言えば、まるでひとつの世界の "カタストロフィー" のうよに不気味な経済情勢(1ドル=100円を突破し、99円台をつけた!)もまた、低迷する気分を翻弄して引きずり回すかのようだ。

  "オイル・マネー" のみが高笑いをしているようなグローバルを、 "地球温暖化問題" の視点を決定的な梃子にして覆すことなくして地球の明日はない! と熱っぽい頭がほざいていたりする...... (2008.03.13)

 どう考えたって、この国、日本の "労働力需給バランス" は正常な見通しを持たないようだ。ようやく、海外からの労働力を当てにし始めているようだが、もちろんそれは妥当な政策だと思われる。爆発的に増加する高齢者層、そしてその多くが福祉のケア作業を必要とするであろうことを想定するならば、年金制度や福祉コストの増大もさることながら、一体、誰がケア作業に当たるのかを考えるならば、背筋の寒い思いがする。
 福祉のケア作業以外にだって、社会的に必要不可欠な労働力は多々想定させるはずであろう。海外からの労働力人口はもちろん織り込み済みなのであろうが、今ひとつ大きなブロックとして考えなければならないのが、 "シニア・パワー" だということになろう。

 次のような新聞記事が目に止まった。

<EU、シニア就業率高まる・成長維持へ労働力確保
 【ブリュッセル=下田敏】欧州連合(EU)で高齢労働者(55―64歳)の就業率が高まってきた。急速な少子高齢化をにらんだ各国が雇用促進策を進めたため、全体では最近5年間で38%から44%に上昇した。EUは2010年までに就業率を50%に引き上げる目標を設定。雇用延長などで労働力不足を補い、年金や医療など社会保障制度の安定性を高める方針だ。
 EU加盟国は13日から首脳会議を開き、経済成長と雇用政策を協議する。欧州委員会が提出する報告書によると、高齢者の就業率は直近の06年で44%に上昇。英国や北欧、バルトなどの9カ国ではEUの数値目標である50%をすでに超えた。>(TITLE:NIKKEI DATE:2008/03/11 )

 以前、TVのドキュメンタリー番組で、ヨーロッパの各国が、習熟度の高い労働力を有効活用するために、官民こぞって知恵を出し合う動きのあることに接した覚えがある。その番組は、ひとえに勤労人生で積み上げられてきた貴重な "職務ノウハウ" をむざむざと廃棄してはならない、というような空気に満ちていたかに思えた。そこには、ニュー・テクノロジーの援用だけが仕事をこなすわけではない、とする仕事への深い洞察もあったかに覚えている。

 日本国内の事情がどう変化してきているのかは不勉強ながら掌握していない。同様の傾向であることを期待するが、もしそうでないとするならば、この国は、産業の持続的発展に関してあまりにも杜撰だと言うほかないのかもしれない。
 一頃、 "団塊世代の大量退職" が問題視された際、同世代の仕事師たちが培って保有している "無形のノウハウ" を遅滞なく若い後継者たちに引き継がれるべきだという妥当な論調があったかと思う。
 まさか、そうした百年の計にも匹敵するような課題がぞんざいにやり過ごされたはずはなかろうと思う。だが、考えてみると、この同時期に労働力人口に関して表れた特長的な事実のひとつは、 "正規社員" 比率に対する、テンプ・スタッフなどの "非・正規社員" の圧倒的比率増ではなかったか。人件費コストの構造的圧縮である。その甲斐あってか、経営収益の数字は飛躍的に増大した。
 まさか、蛸が自分の足を食ってその場を凌ぐようなことはしていないだろうとは思われるが、業務上のノウハウの継承の良否は、きっと一定の時間を経た後に何らかの形で染み出してくるという筋合いのものかもしれない。

 他の産業分野のことは措かざるを得ないが、事、ソフトウェア業界(IT業界)についてこの種の問題を考えてみる時、われわれの眼から見える将来展望は、決して楽観的なものとは思えないでいる。
 いや、むしろこの業界は、技術、プロダクツ、人の三つ巴で、超高速で激しいスクラップ&ビルドが繰り広げられて来ただけに、ハイエンドの先端部分、前線状況にはスポット・ライトが照射されても、累々と積み重ねられてきた既存システム(レガシー・システム)はほとんど衆目を集めないかのようである。そして、突然に注目を浴びるとすれば、あの旧 "社保庁" の年金システムのような信じ難い様相となるのかもしれない。
 この様相が、悲劇でしかないのは、いわゆるレガシー・システムというものは、既に担当技術者群はとっくに離散していることと、当該システムの構造や仕様に関するドキュメント類はほとんどあてにならない状態にあることだと思われる。たぶん。こうした惨憺たる状況は、年金システムに限られたものではなく、古く巨大なレガシー・システム一般に言えることではないのだろうか。

 だが、もはやレガシー・システムなどというものが、加速化する現代にとってほとんど無関係となりつつあるのならば、とやかく言うこともないのかもしれない。そして、 "老兵" たちも静かに舞台から引き下がればよいことになりそうだ。
 しかし、過去からの継承を希薄にさせた者たちだけでの舞台の上での開発というものは、果たしてクリエイティブであることができるのだろうか...... (2008.03.12)

 戸外の陽気は爽快だが、体調は芳しくない。風邪の症状は改善しているようではあるものの、すっきりしない。最近の風邪はいつまでもだらだらと尾を引くような感触であり小憎らしい。
 禁煙の方の進捗は、今日で丸一週間というところであり、多分、体内のニコチンやその関連物質も大方が排出されたのではなかろうか。ここまで来ると、喫煙衝動も希薄となり始めているようである。ただ、風邪薬との相乗効果か、やはり相変わらず頻繁に眠気が襲ってきたりする。
 これでこのまま、この世にタバコなんぞが無かったかのように振る舞えるようにならなくてはいけないわけだ。果たしてできるだろうかと不安なしとはしない。

 喫煙衝動というのは、いろいろなケースと一体化しているものだが、そのひとつに "根を詰める" という場合がある。過去を振り返っても、仕事の作業でも、読書でも、ちょいとした手作業でも、はたまたTV鑑賞でもそうなのだが、 "興に乗る" 状態になると、おもむろにタバコを咥える仕草に連なるのであった。これは一体何なのだろうか。さあーてどうしてくれるかな、とでもいうところなのであろうか。
 今のところ、風邪気味気分だからかさほどエキサイトしないためにこうしたシチュエーションに入ることは少ない。いや、ないわけではなかったが、黙殺できる規模であった。しかし、気分が元気となった場合、うまく往なせるのかどうかについてはさほど自信があるわけではない。

 『碁どろ』という落語がある。馬生(ばしょう)のものが好きでしばしば楽しんだものである。筋や落ちは、どうということはない。碁に熱中して見境が付かなくなった者たちの家に泥棒が入り、背に大きな荷を作ってずらかろうとするのだが、その際、奥の部屋から "ピシッ"  "ピシッ" という碁を指す音を聞いてしまう。この泥棒がまた碁には目が無かったのである。そしてその音に引き寄せられて、とうとう碁盤に顔を突っ込むところにまでしゃしゃり出てしまうことになる。さらに、 "いや、その手はまずいでしょうな" なんぞと、口まで差し挟む。碁に熱中し続ける者たちは、この泥棒に無頓着で、碁を指しながら上の空で "黙って見てる分には構いませんが、口を出してはいけませんよ" なんぞとたしなめる。そして、これまた上の空で、石を打つ調子に合わせたりしながら、 "ところで、一体あんたは誰なの?" と問う。で、泥棒も、これまた上の空で、 "へぃ、泥棒です" とつぶやく。すると、碁を指している連中は、しばらく奇妙な間を置くのだが、 "あ、なんだそうか、泥棒さん、良く来たねッ" とねぎらう......。
 で、わざわざここまで解説することもなかったのであるが、要するに、この馬生の噺のまくらには、碁の好きな登場人物二人が同時にタバコも好きだという設定が出てくるのである。
 碁に夢中となって、タバコの火の粉を撒き散らかしてしまい、部屋の絨毯の下の畳を水玉模様(トラ模様?)になるほど焦がすところから、家人から止めるよう苦情が出されるのだ。それでも、碁は打ちたい、タバコも吸いたいで、いろいろと妙案を探る。その挙句、 "碁は碁、タバコはタバコ" と、両方を分けて行えばいい、部屋を分ければいい、と取って付けたような弁解策を打ち上げるのである。
 家人はそれで一応納得するのではあるが、そんな方法に現実味があるわけがない。
  "碁は碁、タバコはタバコ" なんぞと、二人して調子を合わせて唱えながら碁をはじめる二人であったが、やがて、碁の進捗が "興に乗る" ようになってくると、
突然、家人に向かって叫ぶようになるのである。
 "おーい、火がありませんよ" と...... (2008.03.11)

 若干工夫を要する箇所を積み残していたことと、ビジネス・スタイルの詰めの作業を残していたために、とあるウェブ関連のシステムを一年以上も "寝かし" 続けてしまった。やや手が空きはじめたこともあり、再度レビューを手掛けはじめている。
 通常、自分としてはこんな悠長なことはしないのであるが、どういうものか、このシステムについてはのんびりとしてしまった。
 詳しいことはこんな場で公表すべくもないので控えるが、ウェブ上で少なからず役立つと思われるある種のビジネス情報処理システムなのである。しかも、自営業者や小規模サービス業にとっては、喉から手が出るほど欲しいと思える便利なものであろう。

 思うに、一年以上も "寝かし" 続けた理由は、未だに定め切れない "ビジネス・スタイル" にあるのかもしれない。
 もしこのシステムをリリースした場合、 "アフター・フォロー" の負荷が結構大きなものとなりそうだと予想せざるを得なかった。また、採算面を睨む場合、そこそこの数のユーザを "スケール・メリット" 的に確保しなければなるまい、とも思われた。となれば、なおのこと "アフター・フォロー" の負荷は膨れ上がることになるに違いない。
 自然に推測されるこの辺の事情に思いを巡らせるならば、技術的には気の利いたシステムであると評価しつつも、今ひとつ "二の足を踏む" 思いが避けられなかったというわけなのである。
 臆する姿勢がないとは言えないのは自覚する。しかし、ビジネス・メリットやデメリットというものを冷静に掌握して掛かることは必須だと思われる。
 簡単に言うならば、もし "アフター・フォロー" などが十分に予想されるならば、ビジネスの間口はあまり広くすることは間違いであり、 "アフター・フォロー" が苦にならないような価格水準にもしなければならないだろう。
 また、最初から "スケール・メリット" を志向するのであれば、そもそも "アフター・フォロー" などが極少化するような、そんな "手離れの良い" 製品を構築すべきだということになるはずなのである。

 こうした不都合な問題点が潜んでいたことにより、冒頭の "とあるウェブ関連のシステム" はリリース直前にまで完成度を高めたのだったが、 "寝かす" というか "お蔵入り" の扱いを続けてきたのであった。
 さてさて何かいい手はないものかと、思案を始めているのだが...... (2008.03.10)

 久々に、ホームセンターで "道具" に類するものを買った。そんなことをあえて書くのは、本来、本当に必要だからではなく、 "自己満足" で買ったからだ。
 少しばかりデザインの良い、サイズ調整可能な "スパナ" なのである。一般的には、柄を含めると長さが20センチくらいはあるものだが、こいつはまともな強度を持っていそうでありながら、柄の部分が合成樹脂の短いグリップとなっており、全体で10センチというコンパクトなサイズなのだ。それが実にスマートで "魅力的" なデザインと見えたものだった。
 いかに、 "道具マニア" といえども、当面何の使用目的もないものに目が向くわけもない。今日はたまたま、水洗トイレのタンク周りの不調を家族から指摘されていて、その修理部品を探しに来ていたのだった。

 自分は、今までにも、数多の日曜大工道具類を買いあさって(?)いた。それらをここでラインアップしてみるのは、考えるだけでうんざりしてしまうほど多岐にわたる。しかも、その中には、同種類のものも "重複" しているはずであろう。
 なぜそんな "重複" まであるのかというと、ほんのわずかでも "新しい工夫" が凝らされていて使い勝手が良さそうだと納得させられると、それを入手しないではいられなくなってしまうからなのである。一体、どういう了見なのか自分でもよくはわからない。
 とは言っても、いずれも何百円かの小物道具類の話である。時々は、何千円もするものを長く躊躇した挙句にショッピング・カートに入れるものもあるにはある。
 思うに、ホームセンターなどで、気の利いた道具類を入手するというのは、自身の何らかの能力がその道具類によって上乗せされるかのような錯覚を伴い、それが心地よいということなのであろうか。
 最近の新製品市場では、この手の販売アプローチの商品が少なくないようにも思える。これが最も多いかと思えるが、洗浄力抜群と銘打った汚れ落とし剤であったり、あるいは、万能接着と銘打った接着剤であったり......。

 こうした、ユーザ側の "操作万能感" を刺激するかのような販売アプローチもさることながら、 "グッドデザイン" 志向というのか、商品のデザイン性を売りにするものも着目に値しそうだ。いや、こんなことは言い古されたことのようにも思えるが、自分が着目しているのは、実質機能優先であるはずの日曜大工道具類や工具類にまで、この視点が広がっていそうだという点なのである。
 たとえば、最近のこの種の販売コーナーを覗くと、ドライバーにしても、スケールにしても、ペンチ類にしても、非常にカラフルで華やかになっているのだ。そして、ちょっとしたアイディアも付加されていて、思わず手に取ってみたくなったりもする。
 確かに、プロの職人たちが使う伝統的で燻し銀のような道具類は、実用一点張りの路線が踏襲されていてさほどの変化は見受けられない。
 要するに、家庭でも使われたり、日曜大工でも使われたりするであろう道具類が、メーカーの戦略によって一般人の好感度を高めるべく、いろいろとデザインが施されるようになって来たということなのだ。

 今日、自分が購入した "スパナ" はまさにその典型ではないかと思われる。本来ならば、クルマ整備の汚れた黒いオイルが付着して、無骨に道具箱に放り込まれているはずの "スパナ" なのであるが、こいつは、キッチンのテーブルや、書斎のデスクの上に置かれていたとしても十分に絵になるようなそんな斬新なデザインなのである。だからそれがどうしたと言われれば返答に窮するが、とにかくどこか妙に魅力的であることは間違いないような気がする。
 一体、メーカーの製作・販売の意図はどこにあるのだろうか。まともに、 "スパナ" としての実直な機能が求められるTPO向けだけに、素面(しらふ)で提供しようとしているとは思えないのだ。本来の "スパナ" の機能とは関係なく、生活の中の "飾り" としてテーブルの上などに転がるイメージを、メーカー側の誰かが密かに抱いていたとするならば、それはリスキーではあるが、ちょいとおもしろいことだと思うのである。
 と言うのも、今時、こんなものは売れっこない、と思われるようなものも、 "一種のデザイン" として一考するならば思わぬ歓迎を受ける場合もあるのかもしれない、と類推するからなのである...... (2008.03.09)

 風邪はまだ治り切らない。ただ、これまでのように、それでもなおタバコを吸うという愚を冒してはいないだけに、次第に喉の方も悪い感触ではなくなりつつある。
 フワフワとした浮遊感のある気分なのだが、これが、風邪薬服用のせいなのか、それとも只今禁煙中のためかは定かではない。
 どっちにしても、積極的に外出をしようとまでは思えないので、日課のウォーキングを済ました後は、自宅にこもっている。

 禁煙の進捗はと言うと、一応、最初の関門だとされる "三日間" をやり過ごすことができ、次は "一週間" という節目を目安にしようとしている。
 昨日までの "三日間" は、風邪の症状と向き合い、また風邪薬服用で症状を抑えていたものだから、禁煙による "禁断症状" だと思われるような症状はさほどなかったかもしれない。強いて言えば、やたら眠気に襲われたことであろうか。
 今日、四日目も、それほどに喫煙衝動が首をもたげてきているようでもない。ただ、相変わらず眠気を催している。まあ、休日でもあるため、TVなんぞを観ながらうつらうつらしている。

 考えてみれば35年間も続けて来た悪習のタバコである。それを突如として止めるのに、頭や身体が、ハイそうですかと何の抵抗もなく済むはずはなかろうと察している。まして、喫煙は "ニコチン依存症" を引き起こす上に、その裏腹の関係でしつこい "禁断症状" を引き起こす性質の悪い悪習である。
 ところが、どうも今回の "禁断症状" は予期していたよりも軽度であるような気がしている。これまでにも、何回か禁煙に挑んだことがあったが、記憶をたどれば結構苦しかったかと思い起こす。抑えがたい喫煙衝動が突き上げてきて、ついにはそれに抗し切れなくなり、ついには "投降" してしまったわけである。

 今のところ、喫煙衝動は大したことはないようだが、高を括るのは早すぎるかもしれない。確かに、体内のニコチンやその代謝物質は一週間ほどで消失してしまうらしい。そうすれば、生理的な禁断症状は喚起されなくなる。
 しかし、そうした生理的な反応とは別に、日常行動の習慣性というものがバカにならないはずである。朝起床とともに口にする一服、食事の後に何気なく吸った一服、何か考え事をする際に火を付けた一服など、何かにつけて条件反射的に吸ってきた習慣というものが、決して小さくはないと思えるのである。
 何せ35年間も放置してきた習慣なのだから、頭や身体にとっては、行動のその流れは文字通り "自然" さを帯びていることになる。そこへ持ってきての禁煙とは、その無数の "自然" さに対してひとつひとつ "逆らう" ことになるわけなのだから、スムーズに進行するはずのものではなかろう。
 杓子定規に言えば、タバコに付随してきた生活上の振る舞い、行動の、その習慣のすべてを再度仕切り直さなければならないだろうと考えたりしているのである。思えば、今年に入ってから、午前中を禁煙にしていたのは、意味があったと感じている。 "起き抜けの一本" 、 "目覚ましコーヒーに伴う一本" というような習慣は、結構、強豪(?)な誘惑のはずであり、これをあらかじめ遠ざけておいた点は、先見の明があったかと、そう思ったりするのだ。
 しかし、まだまだ喫煙衝動を刺激するような生活習慣は多々あるわけで、それらを一巡してしまうまでは、リスクにさらされていると言わざるを得ない...... (2008.03.08)

 ようやく風邪は出口が見えるところまで来たようだ。喉の痛みは残るものの、咳も治まり、気分も正常化してきた。ただ、風邪薬を服用し続けているため、妙に気分が "穏やか" である。きっと、精神を "沈静化" させる成分でも含まれているものかと思われる。

 妙な表現だが、喉の痛みが続いていることが幸いしてか、止めているタバコを吸いたいという衝動には駆られないでいる。何日か前に、最後にタバコを吸った際、とんでもない痛みを伴ったのが、 "三下り半" の役割を果たしているようである。タバコはうまい! にあらず、タバコは痛い! というような悪印象が、奏功しているのかもしれない。
 毎朝、掛け声を掛けるべしであろうか。 "今日も元気だ、タバコが痛い!" と......。

 このまま、今日で三日目の禁煙をを難なくやり過ごしたら、一週間に持ち込み、さらに一ヶ月へと踏み込んで行くことができるであろう。
 ところで、見回してみると世間では "タバコ退治" の空気が満ち満ちている。公共交通とその施設はもちろんのこと、喫茶店でさえ喫煙 "可" の店が満員になるほど "不可、お断り" の店が一般化してしまっている。また、戸外だからといって、街角の路上で吸うのも難しくなった。こうして、 "喫煙者" を "非国民" 扱いしてパージする傾向が次第に強まっている。
 ということは、喫煙者側に立つならば、肩身の狭い思いをすることになるとしても、いざ禁煙を始める者にとっては、環境は至る所支援者ばかりで、追い風的状態にあるということになりそうだ。これで挫折する者は勝手にせい、ということか。
 まあ、この際、もはや人生を "煙に巻く" ことは止めて、クリーンに生きようかと思う次第である...... (2008.03.07)

 陽気は春めいて来たものの、気分は冴えず。
 出勤前に医者に寄って診てもらい念のためレントゲン写真まで撮ってもらったところ、風邪が嵩じて "気管支炎" へと進行しているとのこであった。とにかく咳がひどく、微熱、全身倦怠感、頭が重い等の症状を自覚している。タバコを吸いたいとも思わないのがヘンだと思っていたが、なるほどこんなことになっていたのかとちょっとしたショックであった。
 タバコにこだわるようだが、もうこんなことにまでなるのだとしたら、ここいらが "潮時" だと言うほかあるまい。元々、喉や気管支が丈夫な方ではないと感じていた。それに加えてのへビィ・スモークとなれば、いつかこんなことになったとしても不思議ではなかったのかもしれない。
 それにしても、 "外圧" によっての "是正・改革" というのはみっともよくないことこの上ない。
  "わたくし、健康への害やら、環境汚染、そして他人への迷惑を鑑み、この正月元旦より禁煙を決意します" とでも振る舞いたかったわけだが、何とも無様であり、袋小路に追い込まれ万事休すとなった野良鼠そのものでしかない。
 でも、今後のことを考えれば、たとえ既に肺の中にはヤニが蓄積してはいるのだろうけれど、血管の環境を改善して種々のメリットが復活することであろう。

 思えば、喫煙を始めたのは、25の時であった。どちらかと言えば、それまでの思春期、青年期こそが興味本位で喫煙したりするのであろう。自分はそんな時期には、見向きもしなかった。父親は愛煙家であったが、ちょいといたずらで吸ってみようということも皆無であった。
 大学時代にも、学園紛争で荒れる構内や付近の喫茶店では仲間たちは議論の際、室内をタバコの煙でもうもうとさせていた。が、そんな時にも、友人からの勧めにも応じることはなかった。

 ひょんな転機が訪れたのが25の時であった。当時、自分は、いわゆる大学院浪人という不安定な立場にあり、生活費はアルバイトで捻出するしかなかった。で、そのアルバイトとして、叔父が営んでいた小さな鉄工所の仕事を手伝ったのである。単なる肉体労働ではなく、電気溶接やらガス溶接など、多少の技術が必要であったことが、研究心旺盛な自分をその気にさせたのだった。好きこそものの上手なれ、のたとえどおり、設計作業以外の大抵のことはできるようになったものだった。
 作業は、叔父と、これまた親戚関係にある中年の人と3人で進めることが多かった。工場内での溶接作業のほかに、中堅の建築施工会社からの下請け作業もあり、それは最終的には現場への出張となった。
 そんなある日、作業の区切りでみなが休憩している時であった。叔父が、わたしの方を見て、
「タバコはやらないのかい? 職人さんなんだからタバコくらいやればいいよ」
と声を掛けたのだった。
 思えば、この何気ない言葉が、その後今日に至るまでJTに対して総額何百万円と貢ぐことになったきっかけだったのである。
 その時にタバコを口にしたのは、多少の興味心と作業による身体の疲れや倦怠感であったかもしれない。しかも、嫌ならにいつだって止めればいい、という埒外な見当もあったはずだ。
 ところが、最初は、叔父のタバコ盆から "ハイライト" を拝借して吸っていたのが、やがて自分で "ショートホープ" を買うことになってしまった。当時、 "ショートホープ" は10本入りの小箱で50円だったかと思う。その手軽さが、ズルズルと自分を引き込んで行った。

 その後は、どんな喫煙家もそうであるように、意味もなくただただ日常的所作のひとつとして煙にまみれ続けた。
 禁煙の誓いならば、何度も行ったものである。吸い始めて一年と経たない頃にも、タバコとは縁を切ろうと決意したこともあった。タバコ銭にも事欠くことがあったりしたからであろう。
 そんな時、友人から映画に誘われたりした。当時の下等な映画館では、館内でも喫煙が黙認されていたかと思う。その煙の匂いは、とりあえず我慢して往なした。が、スクリーン上のとある画面で、 "ジャン・ポール・ベルモンド" が、両切りのタバコを粋に吸う場面が到来したのだった。
 こうなると、もういけない。自分は、友人からタバコを引ったくり、待合室へと飛んで出たのであった。友人は、ニヤニヤと笑いながら付いて出てきた。そしてこう言ったのだったかと思う。
「ねっ、ムリなんかすることないのよ。タバコを止めるチャンスなんか、これからだっていくらでもあるんだから......」
 その通りには違いない。タバコを止めることに限らず、この表っ面は公明正大以外ではない世間には、ありとあらゆるチャンスが "目次" としては用意されているわけである。しかし、そのチャンスに付されているであろう "但し書き" の量の多さときたらたまらない。それはそのチャンスが事実上不可能であることを慇懃無礼に暗喩しているのかもしれぬ...... (2008.03.06)

 もうそろそろ "出口" に近づいたかと思いきや、昨夜は一晩中の咳込みで惨憺たる状態であった。
 この咳の激しさでは、職場の者たちに風邪を広げるだけになりそうなので、やむなく自宅謹慎を選んだ。

 それにしても今回の風邪は執拗かつしたたかである。ウイルス側は、予定して目論んだ "フル・コース" の攻撃を貫徹するまでは撤退すまい、と布陣しているかのようである。 攻撃のオープニングは、喉の奥、気管支であった。特に咳が出ることもなく、ただ、怪しい感触の痰がからみ、これは "只者" ではなさそうだ、という警戒心を呼び起こしたものだった。
 喉が痛むとか、鼻水が出るとか、あるいは咳が出るとかといった、 "外堀" を巡るバトルではなく、 "本丸" とは言わないまでも、いきなり "内堀" 近辺に侵入されてしまった感があった。だから、こいつは "北風小僧" と五十歩百歩の "北風邪無宿" なんぞによる流しの犯行ではなく、それ相応に武力装備したウイルス性組織犯罪に違いないと睨んだのだった。

 案の定、気管支上部には、そんな執拗な連中がどっかと居座っているごとくである。その様子は、不良債権物件のビルの一室にその種の命知らずの男たちが居座り続けている光景を想像させる。
 命知らずの連中は百戦錬磨で鍛え上げているのであろうか、どんなネゴシエーターが訪れても簡単に立ち退こうとはしない。
 この間医者が薦めた "抗生物質" の風邪薬がさほど効いていないような様子は、何だかそんな不良債権物件での居座り事件を連想させるのだ。

 しかし、自身の不摂生が招いた結果だとは言え、まったく迷惑千万な出来事であることに違いはない。
 そこで、転んでもただでは起きない自分は、この惨めったらしい数日を、輝かしい転機へと塗り替えてしまおうかと考えている。
 つまり、しつこい風邪との闘病(?)を、そうは見なさずに、 "禁煙" 活動をしているのだと置き換えてしまうということである。
 幸い、今日で丸二日の禁煙が成し遂げられている。身体が不調のためか、さほど喫煙欲が出てこないでいる。このドサクサに紛れて、いつの間にかタバコと縁を切っていたということに持ち込めたらと望んでいる...... (2008.03.05)

 昔からそうであったが、風邪などをひき、治りはじめて日常生活に戻ると、妙に新鮮な気分となる。まあ、すがすがしいとは行くはずはないが、これまで引き摺っていた "水垢" のようなマンネリ気分がとりあえず取り除かれるからなのかもしれない。眠気を誘うはずの風邪薬を服用し、そのためか睡眠時間は増える。そんな二、三日を経ると、どうしたって気分が変わってしまうというものなのかもしれない。望むらくは、旅行にでも行くことで気分転換が果たせればそれがベストなのだろうとは思う。が、何によってではあれ、 "水垢" のような気分が払拭されたのは悪くはなさそうである。

 今ひとつ注目すべきは、 "禁煙" の継続である。とうとう、と言うべきか、まだ、と言うべきか、今日は朝から夕刻の6時現在まで完全にタバコを遠ざけている。確かに、若干の辛さを感じるが、そんな時は、あえて "喉の痛み" を思い起こすことにしている。一昨日なぞは、痛みを堪えてまずいタバコを吸っていた。ああなると、今までついぞなかったタバコへの "嫌悪感" とでもいう自覚が促されてしまうようだ。

 以前、 "禁煙香" とかという禁煙支援剤があった。試しに使ってみたが、タバコを吸う前に、その小瓶の香りをかいでおくと、吸うタバコがとてつもなくまずくなる、というものなのであった。タバコへの "嫌悪感" が確かに生まれて、こいつは良いアイディアだと思った覚えがある。
 しかし、結局、それは続かなかった。タバコを吸う際に不快感を催すというのは、確かに喫煙を遠ざけることにはなる。だから、そのプロセスだけを嫌というほど繰り返していたら、タバコは不快なものという実感的認識が定着してしまうのかもしれない。
 だが、そのプロセスの前段にある吸いたくなったら、元々が臭い "禁煙香" をかぐという "前工程" にはムリがあったような気がしている。
 実に "理性的に判断" できる時にだけ、その "後工程" は意味を持つのであって、 "理性もへったくれもない" という生理的動物に堕ちた喫煙愛好者は、美味いに違いないと想像するタバコを、わざわざ不味くするために、不快な匂いをかぐというワンクッションの段取りを承認しなくなるものではなかろうか。現に自分はそうした体たらくに終わったものだった。

 が、タバコを吸ったら強烈に喉に痛みが走ったり、むせったりするという反射的な風邪の症状は、人為的にではなく否応なく発生している。犬や猫ではないが、この食い物は危ない! というほどの条件反射が、 "幸いにも" もたらされているのである。これを "活かす" ことがあっていいのではないかと、バカなことを考えているのである。
 だが、この風邪が治ればいずれ喉の痛みも忘れ去られることは眼に見えている。だから、今は、 "タバコ、イコール喉の痛みプラスむせり" という "コンコンの公式" を深層心理に叩き込むべし、と考えたりしている...... (2008.03.04)

 風邪についてであるが、初動捜査ならぬ引きはじめを上手く制御しかねると、結局は、クスリ依存といった最悪パターンを繰り返すこととなる。今回は、残念ながらそのパターンにはまり込むこととなってしまった。
 つい先ほど、二回目のクスリをもらいに近所の医院へと出向いた。今日は、ますます症状が酷くなるような気配であったので、ムリをしても事務所の者たちにうつすだけのこととなりそうだったので休暇をとることとした。
 いよいよ春到来という季節で、ならば気分を入れ替えて仕事に励もうと構えた矢先、風邪ごときで足元を掬われて何とも無様なことである。

 今回の風邪の引きはじめは、それなりに用心したつもりではあった。しかし、やはり昨今の風邪は大体がウイルス性、しかも新薬とのいたちごっこで生き延びたウイルスが引き起こすもののようなので、半端な身体のおやじごときでは歯が立たなかったようだ。
 最大の敗因は、何と言っても "喫煙癖" であったと思われる。 "喫煙" はどうしても日常的に喉を痛め続けるし、おまけに体内のビタミンCを壊し続ける。自分から、屈強なウイルスに下駄を預けているごときなのかもしれない。
 だが、昨日あたりから、意地汚くタバコを口にすると、喉は痛くなるし即座に咳き込むこととなるにおよび、いくらなんでも控えざるを得なくなった。
 つい先ほども、医者から言われたものであった。
「咳を抑えるクスリを出しますが、もちろんタバコは控えておられますよね」と。そして、歯切れ悪く嘘をついたものだった。
「ハ、ハイ。そりゃぁ勿論です......」
 が、今日はこの夕刻まで、一本も吸っていない。このまま、 "禁煙" 街道まっしぐらと言い切ることはさて置いても、先ずは、今回の風邪をクリアできるまではタバコを遠ざけざるを得ないようだ...... (2008.03.03)

 風邪の症状は一進一退というところか。いや、昨晩の咳の出ようからすればやや悪化した感触がないでもない。
 おかげで、十分な睡眠時間をとったつもりであったが、奇妙な夢ばかりを見ていた。
 そのうちの "一編" だけは奇妙でありながらも感じの良いものであった。
 いつも書いていることであるが、夢というものは、何らかの感情がトリガー(引き金)となっているようで、ストーリーや筋はまさに取って付けたような、そんな構成であるかのようである。どうしてそれが発生するのかは不明であるが、喜び、悲しみ、憤りの感情がきっかけとなり、その感情をまるで後づけで "言い訳" するかのような光景が連なって出てくるというのが夢の特徴なのかもしれない。もちろん、その夢を見ている間は、そうした状況や推移を理性的に鳥瞰視するような自分はおらず、ただただ光景にとことん巻き込まれた当事者として右往左往しているものである。おそらく、理性を司る脳の部分がまさに眠っていて "職務放棄" をしているという状態だからなのであろう。

 そうした "舞台裏" がわかっていても夢というものは興味深いものだ。トリガーである感情自体がどうした文脈で生じたのかという点にも関心が向くが、その感情を "視覚的に構成" する脳の "演出力" が、おもしろいと言えばおもしろい。自分の脳内での出来事でありながら、自分自身(の合理性)とは無縁であるかのような "演出" を仕出かすのが、興味深いのである。
 覚えている夢を振り返る時、どこかに自分らしい運びが感じられて、なるほど "自分の作品" (?)だと印象づけられても良さそうに思うのだが、それがないように感じる。夢をプロデュースしている者は、あたかも自分以外の誰か他の人格ででもあるかのような感触が不思議であるし、おもしろいのである。

 それはともかく、やはり、夢というのは何らかの感情がトリガー(引き金)となっているようで、まさに "初めに感情ありき" の構成物であるような気がする。しかも、ひとつの感情とは限らず、いくつかの感情の塊が団子状になって連なっているかのようである。そして、それらの感情が変化して行く時系列で、取ってつけたような光景が繋ぎ合わされるというような構造なのかもしれない。
 だからということもないが、夢を思い起こす時には、逐一の光景にこだわるのではなく、一体どんな感情が支配していたのかという点から注目する必要がありそうだ。
 これは、音楽でいうところの "コード" (Dm,G7etc.)とメロディとの関係に相当するとたとえてもよさそうか。夢は明らかに、感情の要素とも言うべき "コード" が組み合わさって、まとまった感情を表出しているようで、メロディに値するそれぞれの光景はどちらかと言えば方便的な位置づけにあるのではなかろうか。

 夢は、それを自覚した直後が最もリアリティに富む。つまり、怖い夢を見た時などはその夢でうなされて(?)目が覚めた直後が、その鮮明なリアリティを持っているということである。そして、日が高くなった日中に、親しい者にそれを話そうとしたりすることがあっても、怖かったという記憶は蘇っても、今一その鮮明さが上手く伝えられないというようなことがあったりする。
 要するに、夢というのは、その構成部分の9割ほどが感情のようなのであり、しかもその感情は、夢に見た光景から発したものではなく逆なのであり、光景の方が従属変数的に取って付けられたもののようであるから、夢を起動させた自身の感情の方が沈静化してしまうと、幻のようなものに萎んでしまうのではなかろうか。いくら、光景のほうの記憶を並べ立てたところで、当人自身も疎遠に感じるし、まして他人には一向に伝わらないと思われる。
 いや、それ以前に、睡眠中の感情の起伏が沈静化して消え去ると、それに引き回されて一時的に動員(?)されていた光景群は、暫定的なものであったがゆえに記憶には残されずに忘れ去られてしまう、というのが一般的であるのかもしれない。

 では何のために、高等動物は夢をみるのか? という興味津々たるテーマにたどり着く。これぞという説得力旺盛な解明は未だなさそうだが、結局 "感情浄化" 機能という説明が一番妥当性を持つような気がしている...... (2008.03.02)

 風邪気味で、相変わらずベスト・コンディションとは言えない状態だ。身体の方にさしたる変調はないが、風邪薬を飲んでいるせいか、やたらに眠気が伴い、気分がすっきりとしない。
 それでも、今朝はウォーキングには出掛けた。それが身体にだるさがないことの良い証拠だと思われる。

 今朝は、陽射しのある天候だったせいか、遊歩道で中高年のアマチュア・カメラマンを二人目にした。いずれも、300 mm 程度の嵩張った超望遠レンズをたどたどしく扱っていた。そいつは、例えるなら家庭にある魔法瓶程度の嵩であり、重量も同じくらいであろうか。何十万円もする高価なレンズなのである。
 観光地などでも時々そうしたアマ・カメ(?)に遭遇する。概して中高年の世代のようである。そして、概して、その "高価で嵩張る道具" に振り回されている観があったりするのだ。
 自分は所有していないが、さほど欲しいと考えたことはない。高価であることもさることながら、その性能や、それを使うことで得られる効果をそれほどに評価しないからであり、むしろ、そんなものを携えると扱い勝手に困ってしまいそうだと常々考えてしまうのである。

 プロのスポーツ・カメラマンのように、スタジアムの報道関係者の席に陣取り、重く頑丈な三脚の上に大砲よろしく設えて、シャッターチャンスを窺うというのであれば話はわかる。また、池に飛来し、所定の枝などに止まることが周知の事実となっているそんなカワセミでも撮ろうと待ち構える野鳥カメラマンのケースも納得できる。
 しかし、 "魔法瓶程度の嵩" のある望遠レンズをカメラに装着して、散策しながら野鳥などを狙おうというのは、如何にもムリがあり過ぎると思えた。買ってはみたものの、大事にし過ぎて、ほとんど活用せず、それでは気が済まないと思い、今日のような強い陽射しの休日に、比較的安全だと思える近所の遊歩道に持ち出してみた......、というような雰囲気がマル見えのように感じたのであった。
 そこまで言っては失礼も度が過ぎるかもしれないが、だからねっ、そんなものを買うんじゃないの、と囁きたくもなるのである。

 まあ、今朝のウォーキングの場合は、風邪気味ということもあり、いくら陽射しがつよかろうがカメラまで持ち出そうとはしなかった自分ではある。しかし、仮にそうしたとしても、自分なら散策しながらのショットの場合はできるだけ軽量のレンズを持参することになろう。超望遠の場合でも、筒の長いものは敬遠し、比較的軽くて扱い易い "反射鏡レンズ" の500 mm を携えるはずだ。野鳥などを撮る場合は、レンズの性能より何よりも、自身のアクションのスピィーディさが肝要であり、大砲のようなレンズに振り回されていたのでは、野鳥から "バーカ" と詰られるのが関の山となろう。
 でもまあ、今朝のような春めいた陽射しとなると、人はみな、何でもできてしまいそうな、超望遠ならぬ超楽観的になってしまうのかもしれない。
 二人の中高年の方々に、傲慢にもいろいろとアドバイスをして差し上げたい気持ちもないではなかったが、何となく鬱陶しい気分でもあった。なんせ、風邪気味で身体はしゃんとしていても、気分の方は今一、今二であったものだから...... (2008.03.01)

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