2008年2月 アーカイブ

 先日、とある同業他社の社長と話す機会を得た。ちょっと自分側に誤解があって、妙な期待をかけてしまったのだが、話して行くうちに、期待外れであることがわかり、がっかりしてしまったのだった。別に、その社長が悪いというわけではない。まあ、精力的で立派な経営者だと言うべきであろう。むしろ、特別なイメージを勝手に抱いてしまった自分側のミスであったということになる。
 ところで、あまり大声では言えないが、このソフト業界の経営者と話しをすることを自分はあまり好まないできた。はっきり言っておもしろくないからなのである。よほど独自な経営観を持っている人でない限り、大体が特色もなければ、人間的な魅力もない方が多い。それでいて、 "売上額増大" にだけは異常に関心を向けておられる。
 まあ、自分自身をその外に置いているつもりはなく、自身を含めての話となる。で、その原因は何かと言うと、概して、この業界の企業が長く馴染んできてしまった "派遣業体質" ということになりそうな気がする。

 派遣業種の枠が緩められたこともあり、昨今では他業種でも "派遣業" を営む企業が増えてきたようだ。中には、人手不足の風潮を追い風に、脱法経営に走り、荒稼ぎをする業者も少なくない。こうした現象の基盤には、産業界からの強い要請で "派遣法" が改変されたという契機があったものと思われる。この "派遣法" はもともとが、労働者の立場という点でかなり微妙な問題を含んできたはずであり、一方的に産業界からの要請だけで改変されるならば、いろいろな問題が起こることは十分に予想されたはずであろう。
 そして、案の定、大手派遣会社の脱法的経営が白日のもとにさらされることになった。しかし、問題はそれに止まらず、今や誰でもが知ることとなっている "格差社会" 的傾向の極端な深まりそれ自体が、 "派遣法" の改変実施と軌を一にしていたことは認識せざるを得ないはずである。この何年かの間の大手企業における飛躍的な収益向上もまた、この動きと重なっていることも知られて良いのではなかろうか。

 前述の社長も奇しくも言っておられたが、ソフト会社が順調に運営されて行くには、多少とも "派遣業務" に依存せざるを得ない、という現実は、よくわかる。いわゆる "請負業務" を間断なく確保して、会社経営に必要な売上を上げて行くことは並大抵のことではないからだ。技術力と営業力とをフル回転させ、なおかつ運にも助けられて漸く実現するかしないかという難問だと言わざるを得ないだろう。
 したがって、決して少なくない "請負業務" 志向のソフト開発会社が、やむなく "派遣業務" で埋め合わせをして来たし、しているものと推定できる。
 ところが、こうした成り行きの過程で、次第に "派遣業務" の比重が高まり、やがては "派遣専門会社" へと変貌して行く傾向がまま見受けられる。悪貨は良貨を駆逐すると言うべきか、水は低きに流れると言うべきか、そうなってしまいがちなのである。
 それは、経営的な負荷(リスクも)が小さく、それでいてカウント可能な売上が見込めるという "経営的メリット" が伴うからなのであろう。初期のソフト業界の急速な立ち上がりは、ほとんどこの "メリット" が先導したものだと言ってもよさそうである。

 しかし、同時に、 "派遣業務" 依存のソフト会社が問題含みの企業体質から抜け出せなくなることも重々認識されて良さそうである。
 先ず、埋め合わせのつもりで依拠したはずの "派遣業務" は、本来メインとしたかったはずの "請負業務" を可能とする社内体制を、まるで "歯槽膿漏" の歯茎のごとく蝕んで行くのではなかろうか。ソフト開発が本来的に秘めている "辛いけれど充実する実感" というものが技術者たちの間で希薄となってゆくならば、ソフト開発の学習・教育の空気は日毎に薄まって行くだろう。そして、言うまでもなく、これが無くなるならば、どんな小さなシステムと言えども自前で開発することは困難となって行くに違いないわけだ。
 こうした濁った空気は、社内の優れた技術者ほど早く察知することになるであろうから、会社としての技術力は時を経るごとに低下して、やがては、まさに派遣スタッフだけの派遣会社へと変貌してしまうわけである。

 ところで、この間、経済情勢全体は、急速な "構造改革" のうねりの中で、先ずは "低コスト競争" をあぶり出し、その流れの中で、人件費の圧縮を至上命題とさせ、 "低コストのテンプスタッフ" を注目させて来たはずである。
 この陰には、 "人材の質の劣化" 問題にはしばし眼をつぶるという企業の構えがなかったとは言えまい。だがしかし、各企業は眼をつぶり続けることが可能なのであろうか。
 まして、ソフト開発業界にあっては、コンペチターは、むしろ中国やインドという国々となり、既に "アウトソーシング" 方式で力作業は海外勢に、という動向が現実化しているようである。
 となれば、製造業界と同様に、国内でのソフト開発は、より高度な水準の開発に収斂して行くという現象が必然化するのではなかろうか。そして、大手企業はすでにそのねらいで、より高度なソフト開発技術をどう培い、継承して行くのかに着目しているのだと思われる。昨今、一頃の荒っぽい "成果主義" の人事制度を再度見直して、文字通り優秀な技術者たちの発掘と育成に眼を向け始めているのもそんな兆しではないかと読めそうである。

 経営という局面はもちろん重要である。が、業種、業種が秘めた独自なエッセンスに常に熱い視線を向けて行くことを忘れたくはない、と相変わらず暢気なことを考えている...... (2008.02.29)




















 一昨日あたりから風邪気味の気配で危ぶんでいたが、どうも怪しい雰囲気となってきたようだ。喉が痛み、意識の方も集中力を欠くようで、熱っぽい感触である。
 ここまで、寒さを耐えて事無きを得てきたのだから、今回も寝込まないでも済むように押さえ込みたいものだと願っている。いまさら泥縄ではありそうだが、サプリメントなんぞでせっせとビタミンCを摂取したりしている。

 そう言えば、30代の頃、ちょうど今頃の季節であったが、富士の山麓で行われていた2週間に渡る "合宿セミナー" に参加し、聞きしに勝る "過激な訓練" を経験したことがあった。
 寒さがどうのこうのと言っていられる水準ではなかったが、それでも人並みに風邪をひいてしまった。もともと、喉が潰れ、血が出るほどの発声訓練も組み込まれていたのだが、そこへ持って来て風邪をひいたとなれば、惨憺たる状況は言うまでもない。ほとんど声も出ないようなボトムのありさまとなってしまった。
 しかし、声が出ないのでは "課題" がクリアできないため、何とか必死で堪えたものであった。主催者側は、風邪薬なんぞという気の利いたものは提供しない。その代わり、食堂で "数センチ" に刻んだ "ネギ" を用意していた。喉がおかしくなった者は、それを調達して、喉に貼るべし、という "親心" だったようである。
 自分も、その該当者となってしまったので、眼に沁みるような刺激のある "ネギの開き" を喉に貼り、手ぬぐいを首に巻いて応急手当てをしたりした。
 それが奏功したのかどうかは怪しいが、どうにか潰れた声ながら声が出るようにもなったのは不思議である。そして風邪の症状も払拭することができてしまったのである。
 思えば、あれこそ、 "気合い" で風邪を吹き飛ばしてしまったという経験ではなかったかと振り返る。ふらふらと取り付こうとした風邪の方が、取り付く島がないといった格好で退散してしまったかのような成り行きだったのだ。
 今思えば、そうした経験も、その "合宿セミナー" が提供した "貴重な教訓" だったかと振り返っている。

 かなり "非科学的" な匂いの強い話ではあるが、たぶん、 "気合い" というか "気力" の高揚が "免疫力" を高めて、風邪の症状を追放したという生理的現象だということになるのであろう。しかし、否定できない経験的事実であることは疑いようがない。
 抗生物質の投与などは、ウイルスとの関係で "いたちごっこ" の連鎖を作り出す危険があると言われている。自身の体内の "抵抗力" や "免疫力" を高める技をこそ会得できればそれに越したことはなさそうである。
 こうしたことを口にすれば、 "精神一到何事か成らざらん" などというような黴の生えた "精神主義" だと決めつけられそうではあるが、そう見なす一般的な発想の側は、意外と、 "産湯を捨てて赤子を流す" という愚を仕出かそうとしているのかもしれない...... (2008.02.28)

 久しぶりにウェブページのメンテナンス作業を行った。
 弊社のようなスモール・カンパニーは、可能な限りウェブページを活用すべし、と常々考えている。だが、ここしばらくは、すっかりご無沙汰して遠ざかっていた。まあ、この "日誌" だけは毎日せっせと書き続けてはきた。
 大体、ウェブ関連作業は嫌いな方ではない。もともと画像処理関連が好きであることから、多少手が掛かかる作業であってもほとんど苦にはならないようだ。むしろ、画像処理ソフトの "Photoshop" などを開き、 "ビジュアル" な作業をしているとどういうものか気分が穏やかとなり、安らぐ。好きなジャンルというのはこうしたものかなと実感したりしている。

 振り返ってみると、見よう見まねでウェブページを作り始めてはや十年となる。
 当初、こんなことは若い社員にまかせてはどうかというアドバイスもいただいた。まあ確かに、ウェブサーフィンなどに時を惜しまない若い世代の方が、多くのページを眼にして眼が肥えているので、斬新な感覚のページを作り出す可能性はあろうかと思った。
 ただ、当時、自分が思ったことは、会社のウェブページというものは、会社にとっての重要な "プレゼンテーション" の場だということである。さしたる営業力もない会社にとっては、この場を最大限活用しない手はなかろう、と直感したわけであった。
 となれば、会社における営業および渉外の責任者たる自分がしっかりと関与することが至極当然だと思えたのである。まして、ウェブ関連作業は敬遠すべきほどの難易度があるわけでもないし、また "好きこそものの上手なれ" ということもあるだろうから、自分でやってみっか、と決めたわけなのである。

 こうした経緯が良かったか悪かったかは定かではない。ただ、良くも悪くも、往々にして頓挫しがちな自社ウェブページが十年以上継続してきたのは、 "担当者" が変わらずに "しがみついてきた" と言うか、 "面倒を見てきた" からかもしれない。もちろん、その分、他の有能なスペシャリストが担当してきたならば得られたかもしれない "期待効果" が得られなかったという面も考慮しなければならないだろう。
 しかし、 "もし......" という仮説の議論は味気ない。仮説は仮説を呼び、空疎な議論を果てしなく引き摺るだけだ。

 とは言っても、会社のウェブページを "更新なし" 状態で長く放置しておくことが許されていいわけがない。誰が担当者となろうが、もっと "きめ細かく" 対応しなければならないと感じている。
 多分、これに徹してゆくならば、 "更新なし" となってしまうような原因のひとつが、変化のない社内業務状況にこそあるというフィードバック効果も現れてくるのかもしれない。
 物事は "きっかけ" や "トリガー" というものが左右しがちであり、今回の "更新" 作業を良い "きっかけ" とでもして、有意味なウェブページへと少しでも変身させてゆければと思っている...... (2008.02.27)

  "創造性" の発揮についての問題は、これまでも何度となくアプローチしては途中で断ち切れとなっていたような覚えがある。それだけ、掴み所がないテーマだということなのだろう。
 ただ、ますます意を強める感があるのは、 "創造性" の発揮という脳活動は、脳活動は脳活動であっても、一般的に理解されている言語中枢的領域やそのレベルに限定された活動ではないのではないか、という点である。
 むしろ、もっと情動や感情をつかさどる脳の部分や、さらに言えばそれらと密接な関係を取り結んでいるとされる身体の各部、内臓もそうであろうしさまざまな神経系さえ含むかたちで関係しているのではないかと予感する。
 もうだいぶ以前になるが、 "暗黙知" という考え方に関心を寄せたのも、おそらくは同じ予感からなのだったかと振り返る。また、 "夢" というものへの関心も、たぶん同じ文脈にあるのだろうと推測している。
 要するに、 "意識" と "無意識" という二分法に沿って考えるならば、どうも "創造性" の発揮についての問題は、予想以上に "無意識" の領域やレベルに深く根ざしているのではないかと思われる。

 たとえば、 "夢" を引き合いに出すならば、誰もが一度や二度は経験していると思えるが、目覚めている日中にいくら考えてもパッとしたアイディアが浮かばない時、そんな日々を悶々と過ごしていると、 "夢" の中でちょっとしたアイディアが、まるで神の啓示(?)のごとく現れることがあったりするものだ。
  "夢" というものは、脳における "自動メンテナンス" だというようなことが言われたりしているが、この脳における "自動" 的というか無意識にというか、そんなふうに展開される生理(整理)活動というのが実に興味深いと思える。
 脳活動における最も高度な活動、 "創造性" の発揮なぞはそれに値する活動であろうが、こうした活動は、 "意識的" には制御し切れず、どちらかと言えば "無意識" の活動にかなりの部分、依拠しているのではなかろうか、と思ったりするのである。
 こうした "神秘主義" 的な考え方は、 "実証性" を重視する科学の立場からすれば甚だ他愛のない発想だということになるのだろう。
 しかし、最近の脳科学がこうした問題にかなり果敢に立ち向かおうとしているのも事実なのではなかろうか。

 まあ、そんな関心から、素人なりの問題意識を膨らませているわけなのだが、仮に、人間における "創造性" の発揮というものが、脳活動における "無意識" の領域や、あるいは情動や感情という、現代にあってはどうしても "蔑まれる" 領域に少なからず依拠しているとするならば、時代環境はかなり間違った方向へと突き走っていると言えないこともなさそうだ。
  "情報化時代" としての時代環境や、その立役者であるに違いない "インターネット" 環境というものが、その前向きな威力は威力としつつも、 "創造性" の発揮という大きな課題から見てどうなのかと検証されてもいいのかもしれない。
 活用の仕方の問題だと言えばそうなるのだろうが、ネットへの依存度がますます高まりこそすれ、相対視されにくくなっている現状で、人間はさまざまな貴重な活動をスポイルしていないとは限らないのではないかと感じている...... (2008.02.26)

 IT環境を日々の仕事の大前提としていると、有意味な情報というものは常に "外から" やってくるものだという錯覚に陥りがちである。まして、 "ネット検索" という便利なツールに恵まれると、貴重な情報はいつも "ネット上" にあるものだとする錯覚が生じがちなのかもしれない。
 かつて、TVが驚異的に普及した当時、誰もが、TVに大きな影響を受けて、そのうち日常生活において意味ある情報の大半はTVから来る、というような錯覚に陥っていたようである。家族や身近な人たちが自身の体験から語る言葉よりも、TVが報じた言葉の方が信頼できるものだと思い込んでしまったのかもしれない。
 子どもたちにしても、 "だって、TVで言ってたもん" と口にするようになり、身近なところで無様に失敗も仕出かし続けている信頼性乏しきオヤジの発言よりも、TVが報じる内容をこそ信頼しようとしていたのではなかろうか。きっと、現在でもこの風潮は続いていそうである。

 そして、こうしたTVという存在に加えて、今や、インターネットという情報メディアが "孤独な人々" にとって頼れる貴重な情報源となっていそうな気がする。この傾向は、PCかケータかイという違いにこだわらず、またウェブサイトのページかメールによる情報提供かの違いにもこだわらず、広がっているように見える。
 それはそれで良いし、こうした便利な環境があるからこそビジネスをはじめとしたあらゆるジャンルにおいて情報伝達工数が圧倒的に合理化されたはずである。そして、そうであるがゆえに、ますます、インターネットというツール環境は "信徒" を増やし続けているのであろう。と同時に、ネット詐欺などの被害者の数も増えこそすれ減る兆しは見えないようであるが。

 ところで、もはやインターネットを通じたコミュニケーションは現代生活にとって、とくにビジネスにとっては必要不可欠だと言える。
 ちなみに、弊社ではやっと "インターネット電話" を、遠隔地のサテライト・オフィスとの間で活用することにした。もちろん、コスト削減のための活用である。遠隔地との市外通話は、その頻度と使用時間が嵩むと結構な出費となるものである。これが、インターネットを通じての通話となれば、ほとんど "ただ" に近いコストで済むのだから活用しない手はない。必要があれば、USBカメラを添えて、テレビ電話風の仕掛けとすることも十分可能である。
 まあ、こうして、コスト圧縮の面でインターネットが果たす威力は想像を絶するものだと思われる。まさに利用しない手はないどころか、却って、利用しなければムダなコスト負担をしているという非合理なことになりそうである。

 だが、そうだからといって、インターネット万能主義にまで心を許すべきかどうかは別問題でありそうだ。いや、この点は、インターネット環境にだけ向ける懸念ではなく、いわゆる便利なツール全体に対して向けるべき問題であるのかもしれない。
 今、マス・メディアを騒がせている自衛隊の艦船が民間船と衝突してそれを沈めてしまった事故にしても、便利さこの上ない "自動操舵での航行" システムが、完全に裏目に出てしまったが故だと言えそうである。便利なツールというものは、決して全ての用途に対して効果があるように開発されたものではない。用途を絞込み限定して、科学的成果を最大限に生かし、加えてコスト的にも無難なものとして実用化して提供されているはずなのであろう。これは、当然のことであるのだけれど、これを、ややもすれば "万能視" してしまうユーザ側の "怠惰" が大きな問題となるわけなのではなかろうか。
 インターネット環境にしても、この種の問題が十分に潜んでいるとみなければならない。とくに、事務作業やコスト削減という視点で見ると威力を発揮するインターネット環境も、人間の "創造性" の問題に着眼した際には、かなり由々しき問題を秘めているような予感がしないではない。
 この点については、後日に回すことにしたい...... (2008.02.25)

 昨日、今日と、 "春一番" が吹き荒れて、とんでもなく寒い。
 陽射しはまあまあなので近くの自然公園の "梅" でも見に行こうかとしたが、表に出ると強い風に加えて、空の一角が薄茶色の砂埃(風じん)で曇っていたりした。これでは、 "梅" 見物どころではなさそうだと、早々、家の中に舞い戻ってしまった。(後でニュースなどを見ると、この強風はあちこちで荒れ狂い、いろいろな被害をもたらしていたようだ)
  "三寒四温" や "春一番" といった現象は、訪れる春への避けられない通過点のようだから何とも致し方ないと言うべきなのであろうか。
 もう日の出時刻も、 "6時十何分" とかになってきているようで、まさに春、目前ということになる。

 先日、この春には身の回りの自然風景をじっくりと観察したいものだと書いた。その点に変わりはないが、ただし、浮かれた気分になろうとしているのではない。いや、なろうにもなれないというのが正確なところかもしれない。
 いろいろと(経済)環境は "厳しく" 、そんな中でサバイバルしてゆくには、まさにうかうかとはしていられないということなのである。と同時に、こんな厳しさだからこそ、何としても生き抜いてやるぞ、という闘争心も刺激される。
 実のところ、自社のような零細企業は、その過去を振り返った時、一時たりとも "磐石さ" を感じさせてくれた試しがあったとは言えない。常に、売り上げをはじめとした何らかの不安がつきまとい、それが自分たちの業態、生き様の基本条件なのだと悟らされてきたと言ってもいい。
 昔、知り合いのベンチャー企業の社長が、 "だれか社長を代わってくれたらどんなにありがたいかと思うよ。資金繰りから、銀行対応から、すべて代わってやってくれるというのなら、いつでも席を空けたいよ......" と冗談混じりで吐露していたが、かなりの真実味のある発言である。

 世の中には、いざ、やってみなければわからないこと、というものがいろいろとあるが、社長職というのもそれに匹敵するのではないかと実感する。特に、零細企業の社長というのは、 "不確かさ" ばかりを束ねて座布団を作り、その上に座らされて、文句や愚痴も言えるようで言えないという極めて特殊なステイタスであるに違いない。
 ある人が、 "責任のない者ほど自由に文句が言える" と言ったそうだが、その通りなのかもしれない。とかく、 "責任" とは無縁の場所で "暮す" (生きるではなく)ことを処世術としたがる時代にあって、仮にも社長という立場は、 "責任の塊" 以外ではなく、だからこそ関係者たちに無作法なかたちで文句を言うこともままならないわけだ。天に唾す、ということわざがあったかと思うが、文句のひとつひとつがすべて自身に跳ね返ってくるという道理が、言葉を飲み込ませるからなのであろう。
 そんなこんなで、社長という立場は、引き受けられる者とそうでない者とがはっきりと分かれる、リトマス試験紙のようなものではないかと思うこともある。

 社長の立場の話はともかく、(経済)環境が "厳しく" なればなるほど、求められるのは実質的な意味における "創造性" なのだろうと予感している。
 気合いだ、努力だと言ってみたところで、それらは空転すること、自己満足に終わることという嫌いが十分にあり得る。それらを空転させないためにも、ターゲットとなり得る新たなコンセプト(アイディア?)をクリエイトする必要が大だと思われる。
 元来、情報化時代だ、知識社会だとか言われてきた環境の本命の狙いはそのことにあったはずであろう。発想の転換と言われ続けてきたのもそのことであったはずだ。しかし、騒がれて来た割には、いろいろなレベルやジャンルにおいてその成果は望まれるほどの水準に至っていない、というのが残念ながらの実情ではなかろうかと推定するのである。

 逆を言えば、人間がもたらす "創造性" とはこんなものなのか? と考えるがゆえの推定なのだ。と言うのも、ザックリとした感覚的レベルで言えば、現代の現時点において、この国、この世界の人間たちは、他に望むものがないほどに現状に満足し、幸福感に浸っているのか、という疑問なのである。全くそうではないだろう。
 社会矛盾に苦悩し、社会経済の危機に慄き、地球環境の将来に希望が抱きにくくさえなっている。そして、それらの不安材料が個々人に押し迫り、大多数の個々人を不幸な気分で満たしているかのようである。
 当然、こうした "ホープレス" (ホームレスではなく、希望を抱きにくくさせている状況のこと、を勝手にこう呼ぶ)の背景には、無数の原因が潜んでいよう。しかし、押しなべて言ってしまえば、 "問題解決能力" = "創造性" が "立ち遅れている!" ということ以外ではないのだと言い切りたい。人々の気合い不足、努力不足のせいにするだけでは話にならないだろう。もし、それを言うならば、気合いや努力というものの中身を暗黙視せずに、その内的構造を "創造的に" 再構成すべきであるのかもしれない。

 どうも、一部のサイエンスの成果や、誇大広告がなされるIT新製品の触れ込みなどによって、現代は "創造性" が躍動する時代でもあるかのような錯覚に、われわれは陥っているのではなかろうか。あるいは、現行の市場主義経済内部に矮小化した形での "創造性" のみに目を向けているのかもしれない。それは十分に考えられることである。
 それは、止むを得ないといえばそうかもしれないが、ただし、 "創造性" を発揮しようとする人間側の "脳活動" そのものに、果たして "市場主義経済" という定数的な条件が内在しているのか、という点である。そんなものは有りはしないであろう。 "創造性" のプロフェッショナルであろう科学者たちや、芸術家たちにしても、決して "市場主義経済" 内有効性を持つ "創造性" のみを発揮しようとして熱くなっているとは想像しがたい。

 どうも、書こうとする動機を追ってゆく(野放しにする)と、 "そもそも的発想" が話を遠回りな長話にさせてしまうようだ。
 今日書こうとしたのは、状況が厳しい時ほど、人は "創造性" の発揮に意を注ぐべきであり、状況の厳しさにおいて確実に残された "ホープ" は、 "創造性" の発揮以外ではない、ということであった。 "創造性" の発揮という希望のみが確実に残されている、ということである。
 こう言い切れるのは、人間の脳による "創造性" というものは、意識のレベルの言語的理性が途方に暮れたその水面下で、したたかに培われ、そして浮上して姿を現す機会を虎視眈々とうかがっているような代物だと見なせそうだからである。
 ただし、そうあらしめるためには何がしかの "条件整備" が必須なのだろう。その辺の問題を手探りしたいものである...... (2008.02.24)

 知識・情報を頼りにして生活するということが、 "霞を食って生きる" というふうであってはもちろん間違いだろう。 "霞を食って生きる" というのは極端な表現ではあるが、言いたいことは、知識・情報は今や手軽に手に入る時代環境となっているが、それはそれでしかないということだ。 "知識・情報以前" とも言えるかもしれない自身による営為、試行錯誤などが体験的に積み重ねられなければ、何も "手堅いもの" は生まれてくるはずがないような気がしている。
 そもそも、こうやって毎日文章を綴っているのも、知識・情報は知識・情報であって、それらと向き合う自身側の "固有性" を確認するがためだとも言える。その "固有性" は当然一般的普遍性を持つとされる知識・情報やその体系との間にズレを持っているはずであろう。そのズレは、往々にして "固有性" の側が遅れをとっていたり、貧弱であったり、はたまた矛盾だらけであったりすることが多かろう。しかし、そんなことは知識・情報側に軍配を上げる理由にはならない。いや、軍配がどうのこうのという筋合いの問題ではないということでもある。
 自身が生きて、社会や時代という集合体に参画するということは、一般的普遍性を特徴とする知識・情報の、その体系にどっぷりと浸かり、自身側の "固有性" の隅々までを知識・情報色とやらに染め上げてしまうことではないはずである。両者の間の緊張関係を保持しつつ試行錯誤していく必要が当然あると思われる。
 本来、知識・情報というものは、そうした緊張関係において発展するのであろうが、知識・情報が持つ一般的普遍性は時として現行社会の保守勢力と妙な形で結びつくことで、既成概念としての保守性をまとい始めるものであろう。そして、自身の姿を押し付けて、諸々の人々の "固有性" を蔑ろにしていく傾向も秘める。
 まして、知識・情報こそが時代の主役なのだと妄信する場合には、人々は、自身の "固有性" を自主規制的に抹殺して、知識・情報のみを追いかける "追っかけ" のスタイルこそがノーマルなのだと妄信することにもなる。

 まあ、いつもながらの内容を、いつもながらの抽象的な口調で書いてしまった。
 で、今日書こうとしているのは、マス・メディア批判でも、官僚主義的組織批判でもない。もうそんなことを書くのはほとほと飽きが来ている。よほどのバカではない限り、飽きがくるほど同じ事を繰り返すものではなかろう。
 もっと "現実的なこと" 、 "実効性のあること" を書くべきだろうと考えている。いわば、時代環境が後生大事にしている知識・情報の体系を活性化させるためには何をすべきか、というような視点の事柄なのである。
 と、大上段に構えるとこれから書くことを臆することになるが、要するに、自身の "固有性" を自主規制的に抹殺することを回避できるためにはどうすべきか、というような、言ってみれば平凡なテーマなのである。

 そのうちの一つ、これまた平凡な課題なのであるが、 "自身の体験" を原点にする、という点に意を向けたい。こう言うと、 "経験主義" には狭隘な視野という重大な欠陥があると聞こえてきそうだが、それは違う。
 この時代にあって最も由々しき問題というのは、視野が狭い、広いというようないわば十分条件的問題ではなく、とかく知識・情報という信頼性もどきに下駄を預けて済ますのが一般的となっているがゆえに、自信、信念、決断、責任といった、人間社会にとって本来的に価値のある次元の事柄が実に空虚なものとなってしまっていることであろう。それがなくては事が成立しないという意味での必要条件的問題そのものが頓挫していること、これが最大最高の問題のはずではなかろうか。( "官僚主義的弊害" の問題なんぞについては、書きたくもなくなったと言ったが、この問題にしても、自信、信念、決断、責任といったものと相即の "個人の顔" が、頓挫している官僚組織だからこそまかり通っているのだと思われる......)

 自身の "固有性" というと、誤解されやすいのは "個性" という言葉であり、はたまた "自分探し" というような見当違いの発想であるかもしれない。そうではなく、自身の "固有性" とは、簡単に言えば自身の "固有な体験" ということになる。象徴的に言えば、人生という登山において、命懸けでどんな岩場にどんなふうに "ハーケン" (岩登りの際、安全確保・手がかりのために岩の割れ目に打ち込む釘。頭部の穴にカニビナをかけ、ザイルを通す)を打ち込んで来たのか、ということになりそうか。
 こんなふうに考えると、自分自身には、ろくな "ハーケン" 打ち込み経験もなく、 "固有な体験" もなく、だから自身の "固有性" の自覚が希薄なのだと気づかざるを得ない。まあ、 "固有性" のコンテストでもないのだから、中身はともかく、これが原点だという自覚だけは見失わないようにしたいものである...... (2008.02.23)

  "デジタルフォトフレーム" という製品があったんですねぇ。新製品については目がない自分、しかもフォト関係については興味対象だと自認していた自分であったが、こんなものが発売されていたなんてついぞ知らなかった。
 別に大したことではないと言えばそうとも言えるが、自身の、 "新製品情報サーチ力" が低迷していたことに気づかされたようで、うかうかしてはいられないぞと感じた。
 というのも、フォト好きな自分は、こうした製品のアイディアについてはチラリと考えたことがあったから、 "ああ、こんなのが欲しかった" と単純に喜べるというよりも、 "先を越された!" という苦々しい思いとなるのである。
 ちなみに、もはやこの製品は、フィルム・メーカ、家電メーカ、メモリ・メーカなど数社がそれぞれのスペックで発売している。そのうちの一社の製品( 価格 \16,200 )の広告記事には、次のような説明があった。

<商品の説明
メーカーより
 ※※※※※のデジタルフォトフレーム、○○○○はスタイリッシュなデザインに7インチの高解像度液晶ディスプレイを搭載しています。
 お気に入りの画像をバックグランドミュージック付きで楽しむことができます。また、1GBの内蔵メモリも備えています。
 フォトビューイングだけでなく、カレンダーや時計も表示できるのでリビングルームやオフィスなど、様々な場所でのディスプレイに最適です。
商品紹介
 7インチの高解像度(480 x 234) フルカラーTFT液晶/コンパクトなリモートコントロール/1GBの内蔵メモリ/SD, SDHC, MMC, MS, CF カードに直接対応、アダプタ経由でminiSD, microSD, MS Duo, MS Pro Duo, M2 に対応/USBメモリとPC接続にはUSB 2.0 対応/横位置と縦位置に対応>

 また、ある著名なゲーム・メーカが、この種の製品の廉価版( 価格 \3,675 )をこの3月に発売するとのことだ。<......超小型・軽量なので、持ち運び自由自在。家族の写真・お気に入りの絵画やアーティストの画像を楽しめるほか、プリクラ手帳代わりに友達の写真を保存したり、覚えておきたい情報を写真メモとして持ち歩くなど、楽しみ方が可能です。通常1~2万円以上するデジタルフォトスタンドが、お買い求めやすい価格で購入できるため、プレゼントとしても最適です。>とアピールされている。

 かつて、アップル社の "iPod" が登場した際、こいつはイケそうだな、という予感がしたものだったが、案の定、爆発的な人気者になってしまった。こうした、時代環境の潜在的ニーズに呼応する新製品とその周辺事情に敏感となっておくことは、いろいろな意味で重要なことに違いないと考えている。特に、それがニューメディアのジャンルであるならばなおさらのことだろうと思う。できれば、いち早くこうした製品アイディアを形にして布石を打ちたいものだと思う。
 この現代という時代環境では、IT関連領域をはじめとして、モノ作りのパワーと水準は、かなりの程度 "アウトソーシング" 可能な状況となっている。問題は、それらをインテグレイトして方向づける "製品アイディア" ではないかと思える。
 確かに、 "製品アイディア" だけで事態が自動展開して行くと考えるのは楽観的に過ぎるだろうが、この部分がいまひとつ希薄なのが実情であるとの印象を受ける。その部分とも言うべき中心部が、まるで真空状態のようになったドーナツ形状が現状であるのかもしれない。

 つまり、前述した "デジタルフォトフレーム" という製品がどうのこうのということではないのであり、まさに、神経を張り巡らせて時代の "空気を読み" 、ビジネス・チャンスに敏感となって行かなければならないということなのである...... (2008.02.22)

 暮れなずむ空を背景に、数羽以上のムクドリたちが電線におとなしく留まっている。事務所の窓から表を見上げると、あれっ、と思う感じでそれらが目に入った。スズメよりもやや大きくボリューム感があるため、まだ明るい空を背景にして、つぶつぶの黒い影が否応なく目に入ってくるのだった。
 ちなみに、広辞苑では次のように解説されている。

<スズメ目ムクドリ科の鳥。ツグミくらいの大きさで、灰褐色。嘴(くちばし)と脚は黄色。日本各地の人家付近の樹木や田圃(たんぼ)に群棲し、果実や昆虫を食う。夜間には大集団で共同ねぐらをなして眠る。鳴き声が甚だ騒がしい。林縁・疎林にすみ、地上で昆虫などを食う。ムク。白頭翁。>

 この、ムクドリの異名<白頭翁>、つまり白頭の老人というのが何ともおかしい。確かに、顔あたりは白斑があって、<白頭>と言えなくもない。ただ、<翁>と見なされるのがどこから来ているのかはちょっと解せない。
 地上に降りて餌を探す時の歩き振りにのこのこという雰囲気があることはあるので、その辺から来ているのだろうか。先ほど電線に留まっていたムクドリたちも、妙に落ち着き払った様子であったが、その落ち着きぶりを<翁>と見るならば、なるほどと思えなくもない。

 暢気そうに見えるムクドリたちを見て、何を暢気なことを書いていると言われそうである。確かに、刻一刻と "景気後退" のさざなみが押し寄せて来ている気配がある。加えて、以下のような動向は、あたかも "川に落ちた犬に石をぶつける" がごときつれなさと言うべきか。

<貸し渋り、世界で影響拡大・サブプライム問題
 【ロンドン=吉田ありさ】米国の信用力の低い個人向け住宅融資(サブプライムローン)問題に端を発した世界的な貸し渋りの影響が拡大してきた。米国ではニューヨーク・ニュージャージー港湾公社の借換債の調達コストが急騰、ミシガン州学生ローン公社は新規ローンの停止に踏み切った。英国ではインターネット銀行が一部顧客にクレジットカードの利用停止を通告。こうした動きが広がると、個人消費や投資の低迷につながる可能性がある。......>( NIKKEI NET 2008.02.21 )

 そして、この動向が、決して対岸の火事だとは言えないところに不気味さがある。次のような報道がこれを裏書きしているかのようである。

<金融相、国内金融機関サブプライム損失拡大「十分予想される」
 渡辺喜美金融担当相は15日の閣議後会見で、国内金融機関の米国の信用力の低い個人向け住宅融資(サブプライムローン)関連の損失額について、「今後さらに増えることが十分予想される」と述べた。金融庁は13日、国内金融機関の損失額が昨年12月末時点で6000億円に達するとの調査結果を発表している。渡辺金融相は昨年9月末より損失が拡大した点や、サブプライムに直接関係のない金融商品にも影響が広がっている点を指摘し、「警戒を怠らずに引き続き、監視していく」方針を強調した。
 福田康夫首相から中小企業の年度末の資金繰り対策について指示を受けたことも明らかにし、来週中までに対応策を検討する考えを示した。>( NIKKEI NET 2008.02.15 )

  "晴れた日に傘を貸し、雨の日にそれを回収する" というのが銀行だと揶揄されてきたものだが、ただでさえ厳しい環境にある銀行が、サブプライムローン問題で追い討ちをかけられれば、<貸し渋り>や引き剥がしという自己防衛策に打って出ることは容易に想像できるところだ。
 零細企業としては、まさに不気味なご時世到来が気になるところである。
 世知辛い現世を超越しているかのような<白頭翁>たちから、とっておきの知恵でも授かりたいところである...... (2008.02.21)

 ちょいと気分転換にと思って、 "ジャンク(無保証、ガラクタ)" のPCを仕立て上げようとして、とんだ目にあってしまった。
 気分に余裕がある際には、こうしたことに手を染めるのは、パズルでも解くように結構楽しめるものだ。だが、今日は月次の〆日でもあり気持ちも急いていたし、さほど愉快な気分でいたわけでもなかった。だからこそ、短時間でやつけるならばちょいとした気分転換にでもなろうかと思い着手した。
 ところが、さにあらず次から次へと厄介なことに遭遇して、すっかり苦労をして、しっかりと気分を害してしまった。PCパーツの "ドライバー" にしても、メーカのサイトにでも行けば簡単に入手できるはずだったが、それも予想に反していたし、そのサイトを探している最中にも、中国系の "悪相サイト" に遭遇して、結果的には引き回されるような羽目に陥り、十分に苛立ちを刺激されてしまった。
 また、何とかなるだろうと高を括っていたことがらについても、 "配線図" などを正確に入手していなかったこともあり、結局、部品をひとつ壊してしまい、その件に関しては目をつぶることにしてしまった。

 思うに、 "ちょいと気分転換に" というイージーな発想で事を処すのは、結構、危険なことのようである。要するに、中途半端な姿勢で臨むということだが、それは、下準備も疎かなままにただただラッキーな成り行きだけを期待するようなものだから、往々にして失敗やトラブルに突っ込みやすい、ということなのであろう。そして、手を染める動機が、欲張りにも期待することが小さくなかったりするだけに、思うようにならないとやたらに腹立たしい気分にさせられてしまう。仮に首尾良く行ったとしてもさほどの感激があるわけでもないのだから、どっちに転んでも後味は決して良いとは言えない。

 ただ、こうした経緯を白々と振り返ってみると、日常生活の過程では、意外とこんな調子の行動パターンが少なくないようにも思えてくる。
 じっくりと腰を据えて準備をして、おもむろに刈り取り作業をするといった正攻法で事に処すよりも、万事、成り行きと運に任せてフワフワとした心境で事に当たってしまいがちなのが、日常の実態ではなかろうかと思える。
 こうしたイージーさは、一見、肩肘を張らないがゆえにエネルギー消費の少ない、実にスマートな行動様式のように見えなくもない。いや、できればこんなスマートさで、人生を勝ち続けられれば言うことはなかろう。それは、映画やドラマに出てくるカッコイイ主人公たちのスマートさだとも言えようか。ところが実際は、そうしようとしながらそうは行かないでギクシャクするために、却ってストレスを貯めてしまうのが実情のような気がする。

 実際、現実というのは、そんなにスマートなレベルで済むものではなさそうだ。たとえ、傍目から見てそう思われるような場合も、実は、当事者は人目のつかないところで水面下のあくせくした努力を重ねていたりしているようである。まさに、水鳥たちが、涼しげに浮遊するかのような姿の足元、いや水面下で、忙しく水をかいているのと同じであるのかもしれない。スマートに事を進めているかに見える、一流のプロや仕事師ほど、水面下での努力の量やこだわりが人一倍だというのは時々知らされることではある。
 要するに、結果だけをスマートに刈り取ろう、刈り取れるとする現代の風潮にあっては、実のところ、物事の正確な因果関係が了解されていない、と言うべきなのかもしれない。まあ、そのことに気づいたとしても、スピード感が著しい時代環境の中で、尋常には対処し難いという側面もありそうではある。
 しかし、どうも皆が、そして自分が、 "前につんのめる" ような姿で、進む方向をも問題視せずにただただ急いているのは何とかしたいものだ...... (2008.02.20)

 ユーゴスラビア連邦の "コソボ自治州" が再度の独立宣言をして、ヨーロッパ周辺諸国に不穏な空気が漂っている。 "コソボ問題" とは、スラブ民族の "セルビア人" と、コソボの大半を占める "アルバニア人" との民族間対立だと言われており、いわゆる "民族問題" である。
 イデオロギー対立を基軸とした東西冷戦世界が過ぎ去って以降、イデオロギー対立の下で埋もれていた民族間対立の問題が世界各地で表面化している。
 その最も大きな対立は、西欧文化圏とイスラム文化圏ということになるのであろうか。グローバリズムという "経済的世界の統一化" の趨勢が展開している現在であるが、その大きなうねりの中にも、無数の民族間対立の問題が見え隠れしているのが実情なのであろう。
 こうした "民族問題" を考えようとするならば、この問題の複雑さと大きさ、そして奥の深さによってたじろいでしまう、というのが実感だろうと思う。

 ところで、グローバリズム傾向が急速に世界各地に浸透したことが、逆に、民族主義的傾向やナショナリズムの傾向を刺激しているとも言われたりしている。この国日本においても、そんな空気が漂っていないとは言えない。
 了見が狭く、他を排斥するような民族主義やナショナリズムは、もちろん現代の良識(国際世論など)との間に大きなズレをもたらし、自身を国際的に孤立させることになるだろう。したがって当然望ましい方向ではないはずである。
 しかし、かと言って、世界各地の固有の文化を揺さぶり、あるいは呑み込んでしまうかのようなグローバリズムの趨勢が、それだけで人間が生き生きと暮らせる望ましい環境を自然に作り上げてゆくだろうとは、到底想像できないところではなかろうか。いや、それはグローバリズムの成熟度の問題なぞではなく、本質的、原理的な問題でありそうな気配を感じる。

 昨晩、またまたあるTV番組で、ある種、啓発された思いと、意を強める思いとにさせられた。
 グローバリズムの趨勢は、もちろん近代化・現代化という趨勢を前提としており、それは日本の場合、幕末・明治から西欧に倣えの掛け声で突貫工事がはじめられたことに端を発していたのだろう。そして終戦後、米国の占領下で弾みがつけられて戦後復興が成し遂げられ、その流れに乗って高度経済化状況が生み出さるや、世界にも例を見ない程の "超近代国家" を建設してしまったわけだ。それはまるで、 "新幹線" の走行のように "エクスプレス" の様相であったと言えそうだ。だが、現時点に到着した国民の思いは、まさに "悲喜こもごも" だと言うのが実情のようだ。
 昨夜のTVの語り手である84歳の建築家・池田武邦氏(<HV特集 日本の風景を変えた男たち▽廃虚から超高層ビルそして池田武邦が語る戦後> 同氏は、東京の名だたる超高層ビル「霞ヶ関ビル」などを設計してきたとともに、長崎の "ハウステンボス" の設計者でもある)は、若き日に出兵して苦しい戦中を過ごし、戦後は復興のために遮二無二働き、高度経済成長期以降は最先端の近・現代建築の仕事に邁進してこられた。まさに、この国の歩みと歩調を合わせた人生を送ってきたわけだが、ある時、この近代化・現代化という趨勢そのものに大きな疑問を抱くようになったのだという。

<日本最初の超高層ビル「霞ヶ関ビル」を設計し、超高層建築の第一人者となった池田武邦(84歳)は、今、かやぶきの家に住んでいる。池田は、あるとき、超高層ビルに居住する人間の世界に違和感を持った。そして、環境に調和し、自然に溶け込んだ建築を目指すようになった。なぜ、自ら生み出した建築物に疑問を持つようになったのか。池田が、日本各地の昔ながらの暮らしに触れる中で、自らの変遷の軌跡を語る。>(NHK番組表より)

 こうした池田建築家が語る言葉は、実に多彩かつ深い現実を踏まえた強い説得力を伴ってものであった。中でも、強烈であったのは、二つの事柄である。
 ひとつは、時代の変化や発展は、その基盤に "文化" がなければ磐石ではないという信念。この点に関して同氏は、日本という国が近代化・現代化を急ぐあまり、日本文化の集大成とも言える江戸文化を台無しにした、と批判されていた。
 そしてもうひとつは、建築家の都市観から言っても、都市や地域社会は "文化" とともにある "自治" こそが重要であること、また人為性よりも遥かに勝る "自然" との、その "共生" の方向こそがベストである、ということであった。
 これらは、まさにグローバリズム趨勢謳歌の風潮が、決定的に等閑(なおざり)にし続けている事柄だと見て間違いなかろう。また、 "自然"・"自治"・"文化" というエッセンスへの着目は、冒頭の "民族問題" への視点にもどこか光を射し入れるかのようで、深く考えさせられたのであった。
 再度、じっくりと耳を傾けたいと思える番組であった...... (2008.02.19)

 いよいよ "野鳥" たちが活発に動き回りはじめたようだ。
 今日は、社内の古いIT機器を馴染みのリサイクル解体屋に運び込むため、レンタカー・ショップで小型トラックを借りた。事務所の前で、社員と一緒にその荷台に機器類を搭載している際、街路樹の枝ではヒヨドリらしき野鳥がさえずって騒ぎ、また人懐っこいセキレイが道路上を尻尾を上下に振り振り近寄ってきた。スズメたちも、陽射しの中で甲斐甲斐しく動き回っている模様だった。
 空気はまだ冷えているものの、陽射しが確実に強くなっているからなのだろうか、野鳥たちの羽ばたきは実に忙しそうになってきたかに見える。
 昨日は、自宅の庭の樹にコロコロと太ったメジロたちが飛来し、枝に刺した蜜柑を突き回していたものだ。その光景を、内猫たちが、ガラス窓の内側から凝視し、小さな唸り声を上げたりもしていた。
 緑が少ない都会であっても、生命力のある野鳥たちは、どっこい生きているようである。そして、そんな姿は、都会人たちの潤いのない心を多少ともくすぐってくれるようである。自分なぞは、そうした野鳥たちに出会うことをことさらに好む方である。
 中には、路上に散らばる野鳥たちの糞に憤慨する人もいるようだが、そうした人が喜ぶのは路上に散ばる紙幣だけなのであろうか......。

 以下のニュースが眼にとまり、嘆かわしい気分とさせられた。

<鳥類の30%が絶滅か   温暖化の進行で今世紀末に
 地球温暖化や開発による生息地の破壊で、今世紀末には地上にすむ鳥の30%が絶滅する可能性が高いとの解析結果を、米スタンフォード大とデューク大の研究チームが18日までにまとめた。
 温暖化が鳥類の生息に及ぼす影響に関する初の詳細なコンピューターシミュレーション。気温が高いほど、同じ1度の上昇でも絶滅する種の数が多くなることも判明。
 絶滅種には、日本のライチョウなど高山帯に生息する鳥や、熱帯周辺にすみ大きなくちばしが特徴のオオハシ、ハチドリの仲間といった観光客らに人気の鳥も含まれているという。
 グループは、気候変動に関する政府間パネル(IPCC)の温暖化予測や、開発など人間活動による生態系の変化に関する国連研究チームの予測など、さまざまなシナリオに基づき今世紀末までの環境変化を予測。約8400種の鳥の生息可能条件と突き合わせ、生息地がなくなって鳥が絶滅する可能性を推定した。>( 【共同通信】 2008/02/18 )

 気になったため、他の新聞社のニュースにもあたってみると、次のような詳細な叙述もあった。

<...... 今世紀末に気温が6・4度上昇、開発も大規模に進む最悪のシナリオの場合、約30%に当たる2498種が絶滅、2650種に新たに絶滅の危機が生じるとの結果が出た。
 グループのケーガン・シケルシオグル博士は「生息地破壊が深刻だと、温度上昇が2・8度でも、400-550種の鳥が絶滅することになるなど、温暖化が鳥類に与える影響は大きい」と話している。

 温暖化と生物絶滅-地球温暖化が進むと、生息環境の変動に適応して、生物の分布域も変化する。だが、温度上昇の速度が生物の適応能力を超えていたり、新たな生息地が得られなかったりすると、生物の絶滅の可能性が高まるとされる。温暖化による生物絶滅の危険性は、高山帯や極域の動植物で特に高い。気候変動に関する政府間パネル(IPCC)は、20世紀末以降の温度上昇が2度を上回ると地球上の30%の生物で絶滅の危険性が高まると予測している。>( 産経ニュース  2008/02/18)

 地球の長大な歴史の過程では、天体変動などによる自然変化で生物の多くの品種が絶滅したこともあったわけだ。しかし、たった一種でしかない人間という種の仕業によって、過激な自然変容がもたらされてしまい、その結果、人間以外の他の生物の種が絶滅するという事実は、たとえようもなく寝覚めの悪いものであるに違いない。
 科学者たちに指摘されるまでもなく、種の多様化の、その逆行は、さまざまな面で人間自体の生存可能性をも着々と切り刻んでいるに違いなかろう。何が、この趨勢に楔(くさび)を打ち込むのであろうか...... (2008.02.18)

 今日は、朝ウォーキングで外出した以外は、一日中書斎で過ごすこととなった。この間に録り貯めてしまったTV録画の、そのDVD化作業に一日中かかり切りになってしまったのだ。
 何となくバカバカしい気分もよぎったが、かといって、放置しておくと時間が経つにつれてわけがわからなくなり手に負えなくなってしまう。また、備え付けのHDDの限られたスペースも埋まってしまうため、やむなく処理せざるを得なかったのだ。

 しかし、ふと考えてみると、発信側のTV局はよくも次から次へとコンテンツというか情報というかを、制作し、流し続けるものだと思う。それらをただ単にリアルタイムで観ている分にはそんなこととて感じることもなさそうだが、自分側がやや手間の掛かる保存処理などをしていると、番組制作の労力について余計な想像をすることにもなる。
 民放の、いかにも手抜きで粗悪な番組なぞは、明らかに刹那的消耗品だと解釈できるが、NHKの然るべき分野の番組は、一過性の視聴だけで終わらせるには "もったいない" という印象を受けたりする。それだからこそ、録画への衝動が生まれもする。
 まあ、最近のNHKは、注目される番組に関しては、頻繁に "再放送" も行っているし、また "DVD製品" に仕上げて商品化するという "再利用" をしっかりと実施したりなどしているため、 "もったいない" と見なされる余地はなさそうではある。
 また、近い将来には、ネットを通じて "ビデオ・オン・デマンド方式" の有料サービスも行われるようであり、番組は単なる一過性のコンテンツから抜け出しつつあると思われる。いずれにしても、粗製濫造ではなく、 "作品" なのだとするステイタスが望まれよう。

 TV番組が、芸術作品のように何度観ても色褪せないようであれとまでは言わないにしても、複数回の視聴に耐えられる程度のまともさは保ってもらいたいものだと思うわけである。貴重な時間や労力を要するのは、提供側だけではなく、視聴者も同様なのであり、そのことを了解するかしないかが番組作りの分水嶺なのかもしれない。
 自分は、 "NHKアーカイブス" のドキュメンタリーを楽しむ方であるが、 "現代の映像" などの当時のものでも、単に懐古趣味的に味わえるだけではなく、心の琴線に触れる作品もあり、名だたる映画作品の重さに勝るとも劣らないと感じることがままある。
 確かに、ナレーションなどについては時代環境に縛られた古さを感じさせないわけではないにしても、その時代から切り取られた映像が、制作者たちの洞察力あるセンスを潜ってきたものは、何がしかの説得力やしみじみとした感情を掻き立てたりするものだ。
 つい先日も、同番組で60年代に放送された公営住宅の厳しい抽選で当選した家族の様子を綴った番組、 "三十三か三分の一の幸運" とかという番組であったかを、感動にも似たものを覚えながら鑑賞したものであった。
 劣悪な住宅事情の下でただひたすらに抽選に当たることだけに希望をつなぐ人々の生活を温かく見つめた秀作であった。毎日、銭湯通いをしていた家族が、 "内風呂" に巡り合うことになったのを喜ぶ様子はジーンとくるものがあった。銭湯通いにいつも片道30分も掛かっていたため、末っ子の幼い子などは、途中で寝てしまっていたらしい。その子が、うれしそうに湯船に浸かっている場面が映し出され、次のようにナレーションがなされていたのだった。
  "何々ちゃんは、「お風呂が近くにあってよかったね」と言うのだが、どうも、自分の家の風呂だとは理解できていない様子である......"

 こんなふうに、40年も前の秀逸なドキュメンタリー映像は、ほんのわずかなシーンだけに限っても、その時の状況情報を溢れるばかりの叙述力で伝え切ってしまうのだから大したものなのである...... (2008.02.17)

 最近の自分の部屋は、書斎のつもりではあっても、足の踏み場もないほどにガラクタが溢れてひどいありさまとなっている。いかに何でも、もうそろそろ大片付けでもしなければ、まともに利用できなくなりそうである。いや、ありていに言えば、とっくにまともな居心地ではなくなっていそうである......。
 ただ、 "デスク上のパソコン周辺" だけは "機能的" な状況に設えてある。と言うのも、ここしばらくの間の書斎利用の大半がパソコン関連に限定されているからでもある。もし、この部分の空間をはずすならば、いわば "物置" 同然と言うべきであろう。
 ところで、今日も、この空間だけは使い勝手を改善しようと "手を施した" 。
 実は、 "この部分的空間" には、この間もそこそこの労力を投入してきたのである。まあそれも必要に迫られて、ということではありそうだが。
 その必要と言うのは、PCによるTV録画と編集、DVD化をするために機材の配置や配線、そしてメンテを行うためには、相応の整理をしておかなければままならなかったからなのである。
 そこで、室内の他の空間はさておいて、 "この部分的空間" だけは、いろいろと工夫をして、その挙句に、可能な限り "立体配置" をすることにしたのだった。要するに、出窓部分を生かして(採光の上では "殺して" となりそうだが......)、機材を、棚の活用による "立体階層" に配置したのである。そして、今日もまたその構造に "増築" をしてしまったのである。強い地震でも来たら大変なことになるだろうな、と不吉なことを考えながらも、その反面、デスク周りが "コックピット" 化 (?) していくことにまんざら悪い気はしないのであった。

 こんな事を書いているのは、 "コックピット" がどうのこうのではないのである。そうではなくて、とかく "まあ、いいか" と現状追認、現状維持の怠惰の度が増してゆくようでもある昨今の自分が、久しぶりに "腰を上げた" こと、やや面倒なことに労を惜しまない挙動に着目しようとしているのである。
 昨日は、 "闘うリハビリ" というちょっと "輝きのあるテーマ" について書いたが、そのテーマが放つ警告は、自分にとってもまんざら無縁ではなさそうに感じているのである。と言うのは、この歳になると、何かにつけてマンネリ気分が漂い、マンネリ症状も悪性のかたちでこじれ気味に至っていそうだと感じないわけではないのである。
 そして、この傾向は、生活すること、生きること自体のポテンシャリティをジリ貧状態へと引き込むような気がしないではない。これは、身体自体の老化以上に、由々しき老化なのではなかろうかと、そう慄然と感じるわけなのである。ことさら脳にフィジカルな損傷を被らなくとも、こうした、気分におけるジリ貧を放置し続ける姿勢が、脳をしてマンネリと怠惰とへの後退を確実に追認せしめることとなり、本格的な老化への道を露払いして行くに違いない、とそう懸念するわけなのである。

 まあ、やや大袈裟な表現となってしまったが、あながちはずれてはいないのではなかろうか。過ぎ行く日常生活の一時一時を無自覚に流して行くならば、敏感に察知する脳の働きは、縮小再生産、ジリ貧という方向へとやむなく舵取りし、その速度を速めてしまいそうな予感がする。あたかも "闘うリハビリ" をするかのごとく、生きることに "挑戦的" にならなければならないはずである。
 と、力(りき)む気持ちも確かにありそうである。が、その前に、 "まあ、いいか" というような生活上の悪癖を、ひとつひとつ潰して行くのが先決なのかもしれないと思うわけなのである。 "億劫がらずに動く" という定石のことである。
 そのための戦術としては、精神論に陥って継続できないのでは意味がなかろう。ここは、何であれ前向きな "意欲" を、その欠片でも生じた時にはそれを見逃さずに応じて行くというのが効果的ではないかと......。 "どうせ......" とか、 "何のため......" といったような、いわば "意欲殺し" に値する対応は百害あって一理なし、と言うべきなのであろう...... (2008.02.16)

  "脳" と "身体" との密接な "相互関係" という問題には以前から関心を寄せていた。つまり、両者の関係は "一方的な上下関係" や単純な "指示・指令(支配)関係" ではなく、未知の部分をも含めると、 "相互関係" とか "ネットワーク関係" と呼ばれるものではなかろうか、と推定したりしていた。
  "脳" が "自律的" であり、他の "身体" 部分が "脳" に対して一方的な "依存的" 関係にあるのではなくて、 "脳" も他の "身体" 部分をコントロールし切れない側面を持っているはずだし、他の "身体" 部分も "自律的" に機能する側面を持っていそうだ、という視点なのである。
 これは、 "脳" というものを、 "身体" 全体の "支配者" (?)だとも思い込みがちな見解に対する疑問から発しているのだが、現に、 "脳" 、とりわけ意識や意思では何ともし難い側面がいろいろと思い当たってみると、 "脳" が "身体" 全体を司っていると考えるのはかなり無理がありそうだと思うわけなのである。
 人間の意識にしたところが、脳の中枢とも言える "意識層" とその周辺部の "無意識層" とがあるわけだし、 "身体" には、脳の意識的活動とは区別された "自律神経系" が重要な働きをしていたりもするわけだ。
 しかも、 "脳" を代表するかのような "意識層" の "意識" 、言語的思考の機能は、 "感情" などという "こころ" のあり方に、どう考えても大きな影響を被っていそうである。
 確かに、人間の生命や生活にとって、 "意識" のあり方や、 "意思" のあり方が重要な役割を果たしていることは否定しようがない。しかし、その部分にだけスポット・ライトを当てて対処しようとするのは、やはり大きな間違いではないかと思わざるを得ない。
 こうしたことにこだわるのは、確かに、 "脳" の機能と構造にとめどもない興味と関心を抱くからだと言えるが、それ以外に、さまざまな現象(自然現象、社会現象 etc.)が、この "相互関係" という視点によってこそ妥当に説明されそうに思えるからなのである。人間が織り成す社会現象、政治現象などは、とくに "相互関係" の視点がフィットしており、とにかく "一方的な関係" という視点は破綻しつつあるとさえ思えたりする。

 さて、前置きが長過ぎてしまった。
 こんなことを書き始めたきっかけは、昨晩、録画しておいたTV番組を観たことなのである。それは、<闘うリハビリ 第1回 あなたはここまで再生できる ~脳がもつ可能性~>( NHK 2008年2月10日[日] 午後9時00分~10時14分 総合テレビ )というドキュメンタリーなのであった。
 高齢化する現代にあっては、脳溢血や脳梗塞という脳損傷がめずらしくなくなっている。そして、それらに対する治療法も隔世の感があるほどに発展している。そんな状況下で、 "リハビリテーション" の持つ意義が注目されているのは実に自然なことのようである。
 番組では、このテーマに関しては、あの、知らない者がいないほどに有名になった "長島元巨人軍監督" の "リハビリ" の実態が象徴とされていた。それは、現在の "リハビリ" が、まさに "闘うリハビリ" なのだと称される実情を見事に照らし出していたかに思えた。
 長島氏は、インタビューに答えて、 "自己との闘い" だと述べていたものだが、確かに、辛さや惰性やその他諸々の点で現状を許してしまう、そんな自己を振り切ってトレーニングをしなければ効果が現れないという点では、まさに "自己との闘い" 以外の何ものでもなさそうである。
 ただ、今一歩踏み込んで考えると、もっとより崇高な "闘い" であるように自分には感じられた。と言うのは、不幸にも脳損傷に遭遇してしまった人間の脳とその身体は、一方では、再び元の状態を取り戻そうとする内在的な自己修復・復旧力とその傾向を持ち、他方では、より安逸な現状維持へと向かう傾向という両方を持っているらしいからなのである。前者は果敢な生命力の方向であり、後者は臆病とは言わないまでも安逸な生命力の方向となるのであろう。そして、もちろん、前者は、生命体自体にとっても、安定化へと流れ込む別な傾向と対峙した激しい "闘い" 以外の何ものでもなさそうなのである。だから、当人は、この "闘い" に加わるのかどうかということになりそうで、長島氏が述べた "自己との闘い" の実相とは、実はそうしたことなのだと思えたのである。

 これらの紹介が極めて "感動的" であった別の理由は、次の点にあったと思われる。

<リハビリは、これまで、身体の運動機能を回復させるものだと捉えられてきたが、実は、リハビリが、損傷した脳内の回路を再構築したり、脳に再学習を促していることが解明されたのだ>(NHKオンラインより)

 つまり、手足などを動かすという "身体の運動" 自体が、 "損傷した脳内の(神経)回路を再構築したり、脳に再学習を促している" という、いわば "逆方向" の作用が脳内で展開しているということなのだそうである。これこそが、 "脳" というものの驚くべき "自律性" だと言うべきである。また、それを促すのが、末端の "身体の運動" による神経を伝わって行く刺激信号だというのだから、眼から鱗が落ちる事実である。
 生命体、それも神によって造られたとさえ言われるほどの人間の身体というのは、何と素晴らしいパワーを秘めているものなのかと、ただただ驚嘆したわけなのである。
 自分は、コンピュータ・システムでの "ネットワーキング・システム" に至るコンピュータ技術の変遷やら、あるいはまた唐突ではあるが、地方自治体と中央政府との関係という世知辛い問題をも思い浮かべたりもしていた。
 これが、冒頭の< "一方的な上下関係" や単純な "指示・指令(支配)関係" ではなく...... "相互関係" とか "ネットワーク関係">という思いであったわけだ...... (2008.02.15)

 米国大統領選挙の予備選で、民主党のオバマ氏が次第に優勢を示しはじめているのは、何となく心地よい。たぶん、人種問題の壁に果敢に挑んでいる点がとにかく応援してみたくなるひとつの理由なのであろう。
 オバマ氏が米国大統領になれば何がどう変わるのかは、未だ定かに推定できないところではある。だが、ワーストと思しき現職大統領を頂く米国民にとっては、また深まる格差社会に喘ぐ米国庶民や若い世代にとっては、 "ケネディの再来" と受けとめたい期待があるのだと思われる。あるいは、 "破格の改革者" を期待したいのであろう。それらは十分に共感できそうであり、米国民の少なくない部分が、エスタブリッシュメントに対して、もういい加減にしてくれ、と憤りたい気分が鬱積しているのかもしれない。
 現状の米国民の少なからぬ部分は、あの "サブプライムローン" での被害者となっているのかもしれない。せっかく入手できたマイホームを、手放さざるを得ず、その上借金だけを背負わされた低所得者層の絶望感は、想像以上に傷が深いのかもしれない。そしてここは、とにかく "救世主" 的存在を期待したいと望んだとしても不思議ではない。

 そのオバマ氏に関して二点ほど書きたいが、そのひとつは、 "明" の部分。以下のように掲げた同氏の "経済政策" は、極めて妥当性がありそうでなお一層の共感を呼ぶのではなかろうかと思われる。

<オバマ氏、22兆円の経済対策発表・700万人の雇用創出
 【ワシントン=丸谷浩史】米大統領選で民主党のトップに立ったオバマ上院議員は13日、景気不安に対応するため総額2100億ドル(約22兆6000億円)の経済対策を発表した。環境事業などで新規雇用を700万人創出することが柱で、経済政策での政権担当能力を誇示する狙いがある。......
 オバマ氏はウィスコンシン州の演説で、今後10年間で実施する対策の概要を明らかにした。環境関連事業に1500億ドルを投じ、500万人の雇用を生み出す。同時に高速道路や橋、空港などの公共事業に600億ドル拠出し、200万人を雇用するとの内容だ。
 「変革」を掲げて波に乗るオバマ氏は上院議員を一期しか務めていないため、経験不足との評がつきまとう。緊急景気対策法が成立した日に経済対策を発表したのは、もう一段の経済テコ入れの必要性を強調するとともに、こうした懸念を払拭(ふっしょく)する狙いがある。>( NIKKEI NET 2008/02/14 )

 この<雇用創出>という言葉ほど、米国のみならずこの日本においても "魅力的" な言葉はなさそうだ。しかも、そのターゲットが<環境関連事業>だというのだから、より共感を呼ぶものだと推測できる。
 同じ "緊急経済対策" にしても、現職大統領が打ち出した、高所得者層に有利だとされる減税政策に比べて、波及効果の持続性が大きいのではないかと思える。
 たぶん、こうした政策立案は、オバマ氏の(若い)ブレーンたちが担ったのではないかとも思えるが、そこにも新しい米国の一面が垣間見えるような気がする。

 もうひとつは、オバマ氏をめぐる "暗" の部分である。これも、以下の報道を引用しておく。

<オバマ氏、当選すれば暗殺される=英ノーベル賞作家のレッシング
【ストックホルム9日AFP=時事】2007年のノーベル文学賞受賞者の英女性作家ドリス・レッシングさん(88)はスウェーデン紙とのインタビューで、米大統領選挙で民主党のオバマ上院議員(写真)が大統領に選ばれれば、きっと暗殺されるだろうと述べた。
 レッシングさんは9日付のターゲンス・ニュヘテルに掲載されたインタビューで、米国史上初の黒人大統領を目指すオバマ氏について、「黒人の大統領はきっと長くは続かない。彼は暗殺されるだろう」と語った。
 レッシングさんはその上で、オバマ氏と民主党の大統領候補指名を争っているヒラリー・クリントン上院議員が米国初の女性大統領に就任した方がいいのではないかと思うと語った。レッシングさんは、「ヒラリーは非常にシャープな女性だ。オバマではなく、彼女が勝った方が事態はより穏やかだろう」と述べている。 〔AFP=時事〕>

 これは、オバマ氏を "ケネディの再来" と感じる者が同時に背負わされてしまう不吉な予感であるのかもしれない。
 米国には、いつも、色濃い "明" と "暗" の空気が漂ってきたことを振り返れば、楽観的には見過ごせない懸念でもあるのだろう。
 しかし、もしそんな "テロ" があるとすれば、世界の "テロ" 撲滅を大義名分としている米国の威信のすべてが、国際社会から侮蔑されることになる...... (2008.02.14)

 昨夜は窓の戸や雨戸がガタガタと音を立てるほどに寒そうな北風が吹いていた。これでは明日も随分と冷え込みそうだと予想したものだったが、案の定、今日は陽射しはあったもののの、気温は上がらず冷たい風が身にしみた。
 午後遅く、自宅から電話があり何事かと思ったら、家内がどうも風邪に見舞われたようで発熱や吐き気があると言ってきた。夕飯の支度ができそうもないとの連絡だったのである。まあ、そんなことはいいとして、自身が懸念していたのは、 "インフルエンザ" ではないかという点であった。今日は、ちょうど、市の無料健康診断が近くの病院で行われるからそれに行くのだと、自分が朝出かける際に言っていたが、そこで2、3時間も待たされて、帰宅したら気分が悪くなったのだと言っていた。よくある "院内感染" かとも思えたが、そんなに短時間で症状が出ることはなさそうなので、寒い待合室で長時間待たされたことが引き金になったのかもしれない。

 都会の病院は、市民の無料健康診断が行えるところをみると、先ず先ずの経営状況のようだが、これが、地方の病院ともなれば "惨憺たる状態" のようだ。
 昨日も、NHKのTV番組、 "クローズアップ現代" で、地方の公営病院が軒並み "財政難" と "医師不足" とのダブルパンチで住民たちを不安に陥れているとの報道があった。
  "財政難" の方の原因は、かつて国による音頭とりによって "箱モノの一新" を行ったそのツケが回ってきているという実情があるらしい。
 病院経営も、結局は訪れる患者たちの数によって決まってしまうわけで、建物や設備が一新されても、その数がままならなければ "赤字経営" は深刻さを深めるだけのようである。
 また、現在のこの国では、全国的に "医師不足" が懸念されているが、言うまでもなくここにも "地域格差" が色濃く現れていて、地方都市は病院経営を揺さぶるほどの影響が出ているようである。
 また、現在、病院の再建策として、全国的に "病院再編" という動きがあるようで、地方に点在する病院群を、 "中核都市" の大病院と、まさに地方の小規模な病院とに "再編" すべし、という施策のようなのだ。どうも、合理化を目指す一連の "市町村合併" の動きに沿うもののように受けとめられる。
 経営の理屈としてはわからないわけではないが、やや偏狭な地域に住む住民たちにとっては、 "心細いことこの上ない" と言うべきではなかろうか。

 高齢化して健康状態に不安を抱く市民が増えるこの時期に、 "年金" 問題では致命的なボロを出して不安を増大させ、地域生活でもいざという場合の病院のあり方で不安を抱かせ、もちろん、地方経済の行く末は誰もが想像するとおりの悲惨さでもある。
 つくづく思ってしまうのは、こんな状況を迎えているというのは、この国には尋常な政治というものがなかったからではないのか、ということに尽きる...... (2008.02.13)

  "集客力" をどう高めるかに悩まない経営者はいないだろう。
 と考えれば、現時点での "外国人投資家" たちの "ジャパン・パッシング" は大問題であるのかもしれない。
 現在の日本株の株価低迷ぶりは誰もが知るところである。そして、アナリストをはじめとして、マス・メディアもこぞって、 "サブプライムローン問題" の余波でそうなっていると解釈しているようだ。
 しかし、このところの "外国人投資家" たちによる投資動向を参照してみると、明らかに "売越し" 傾向が強まってしまっており、二、三年続いていた株価高の時期の特徴であった "買越し" の継続がパタリと止んでいる。
  "ジャパン・パッシング" という言葉が飛び交う中で、この数字の事実ほど情勢のシビァさを物語るものはないのかもしれない。 "サブプライムローン問題" はいよいよ深刻化と長期化の様相を見せているが、そうした推移の中で、 "またまた" この国の経済は、問題の核心を見失って行く気配が濃厚のようだ。
 以下、少し長くなるが、シャープな切れ味の大前研一氏の読みを引用する。

<日本株が下がった本当の理由
 それにしても日本人の状況理解の能力の低さは何だろう。
 わたしは「日本株が下がった理由は何か」とよく質問される。この答は「日本株が上がった理由」を考えればいい。それは明快だ。外国人投資家が日本株を買ったからではないか。であれば下がった理由も簡単だ。外国人投資家が日本株を売ったからである。彼らは日本株から逃げていっているのだ。
 日本株は、日本人だけが市場で売り買いしていたら、9000円から1万2000円の間を推移するだけだと、わたしはことあるごとに言ってきた。しかし、7900円と低迷していた株が、小泉政権となり、改革が本物かも知れないということで外国人投資家が好感を持って買い進めてくれた。だからこそ、急激に伸びた。そこに日本人の買い手がついてきた。
 ところがそのことを忘れて、日本だけの力で回復したと信じている人がいる。そしていまは、サブプライムローン問題(すなわち米国発の金融危機)のあおりを受けて日本株まで下がっていると解説している人もいる。それは明らかな間違いだ。
 いま世界のお金は、日本から逃げて、ベトナムなどほかのところに流れている。だから、日本株は昔の値段になっているに過ぎない。昨年も、1年を通したら買い越しになっているが、去年の夏以降だけを見れば売り越し状態だ。
 特に、経済産業省が閉鎖経済を続けていたら、外国人投資家が舞い戻ってくるはずもない。経済産業省は「ブルドックソースは外国人が買ってはいけない」「鉄は命をかけて守る」「(民営化しておきながら)Jパワーは国家の基幹産業」などと、信じられないような鎖国主義的発言を続けている。
 単純なことだが、株は、外国人が来なくなれば下がって当たり前。「上がった理由も外国人、下がった理由も外国人」なのである。それを忘れてはいけない。>( TITLE:世界経済の行方と日本の株価 / SAFETY JAPAN [大前 研一氏] / 日経BP社 DATE:2008/02/08 )

 明らかにバブル経済と言わざるを得ない中国そしてインドの状況を見ていたりすると、急速な株価上昇をクールに観る必要も感じる。しかし、株価の "成長" を有力な経済指標とすることを目論んだはずのこの日本経済にとっては、やはりこの間の国による采配に "整合性" を欠くところが多い点に気づかされる。
 グローバリズムの是非についてはおくとするが、現実に走っているグローバリズム金融にあっては、 "外国人投資家" たちをどう "集客" するのかに策は尽きるというのが、とりあえず内在的ロジックの流れのはずであろう。なのに、 "顧客" たちの心境を逆撫でしたり、不安がらせたりする気配に敏感でないのは、やはりまずかろう。 "やり方" がまずいという気がしないでもない。
 大前氏は、 "信じられないような鎖国主義的発言" と述べているが、まさにそうした "表層レベル" での振る舞いが下手であるようにも思える。もし、国益につながる核心的課題があるならば、もっと実質的なところで "先手" を打っておくべきなのであろう。昨今の "外国人投資家" たちの中には、 "政府系ファンド" の動向も重要視されるようになっているのだから、法規制も含めて "先手先手" で基盤を固めて "お客さん" たちにあらかじめ公明正大に周知徹底させておけば、済む部分は済むはずなのだと思える。
  "ドロナワ" 的対応、その際の "はらわた丸出し" 、さらには "ミス・タイミング" というような稚拙さが "お客さん" たちには嫌われる点なのではなかろうか。
  "ミス・タイミング" と言えば、同様に深刻な経済問題が、国の施策自体によって引き起こされたとささやかれている。いわゆる "官製不況" (※)のことである。これにしても、実施時期が、サブプライムローン問題や原油高騰問題と "見事に重なる" 形でしか選択できなかったのかと訝しく思えるのである。
 まして、建築基準法の全面改正を行った1998年の際には、今回の問題点はどう扱われていたのかが気になるわけだ。どこか、 "官" による "ドロナワ" 的対応と、その結果の "ミス・タイミング" が気になってならないのだ......。

※ <国内の住宅着工数が昨夏から激減している。これがGDP(国内総生産)を押し下げる主要因の一つになっているのだ。この現象の背景には、改正建築基準法の施行に伴う規制強化が関係しているという。官による法運用の厳格化や混乱などが、昨夏以降の建築不況を生み出しているというのだ>( Nikkei BP net 2008/02/5 時代を読む新語辞典 「官製不況」)

 政治と官僚機構との関係で、もし後者に期待するものがあるとするならば、 "移ろい易い" 政治動向に対して、 "長期的、専門的" な視点で国策を立案できるという点ではなかろうか。それが官僚機構の存在意義なのだと思われる。が、残念ながら、現状の官僚機構はあまりにも "近視眼" 的であり、かつ "空気の読み損ね" が多過ぎるようだ...... (2008.02.12)

 今日は陽射しもあり、暖かい天候であった。午後、その陽射しにつられて表に出てクルマや自転車の清掃、整備をした。陽射しを背にしていると、温もりどころか暑ささえ感じられたのがうれしかった。まだまだ、気持ちを萎縮させる寒さが続くはずではあろうが、確実に春は接近しているとの印象を受けた。
 そういえば、庭の樹々にしても街路樹にしても、寒々とした枝の姿とは裏腹に、枝の先端にはプックリとした新芽をふんだんにつけ始めている。加えて、見るからに春を予感させるような緑色のメジロなどが飛び交ってもいて、春到来のカウントダウンが始まった気配である。動植物などの自然は、確実に伸びている日照時間に促されるかたちで春到来に向けた最終調整をしているかのようである。

 今年の春は、そうした自然の変化をじっくりと享受させてもらおうかと思っている。別に、観光地へ行くだけが自然と付き合う方法ではなさそうであり、要は、身近な風景に埋め込まれた自然にどれだけ目を向けることができるかだろうと思っている。観察しようとする意思や愛着さえ持つならば、自然の光景は饒舌に語ってくれそうな気がする。
 人間界の状況は、言わずと知れた "凹み" であるに違いなかろう。どう考えても、人々に勇気を与えるような展開は望めまい。勇気は別なリソースから調達する以外にはなさそうである。そして、そのひとつが、自然の光景であると思われる。

 <「知る」こと>と<「感じること」>という対比に関心を持ち続けている。対比とまで言うこともなさそうであり、<「知る」こと>に劣らず<「感じること」>と位置づけるならば語弊がなかろう。
 いずれにしても、<「感じること」>をどう復権させるのか、何によってそれは叶うのかをもっと真剣に考えてみたいと思っている。
 その際、ありふれた発想ではあるが、自然との接触を回復させることが重要なのだろうと予感している。こう書いていると、どういうものか自身がどこか病んでいてその治療法に思いを巡らせているかのような感触を持つ。が、まさにそうであるのかもしれない。
 何がどうだと特定するには至らないが、この時代の外界の環境の腐敗ぶりに匹敵する程度には、自身の内面もまた十分にまともでなくなっていそうな気がしてならないわけである。

 現代特有の<「知る」こと>の路線上で、振り回されてみたり、罠に嵌ったりすることがいかにも多い気がしている。妙な表現をすれば、<「知る」こと>とはまさに "別個の基準軸" を持ち、その領域で自重の幾分かを背負ってもらわなければ、やはり身が持たないのではないかと感じることがある。それが、<「感じること」>の分野への思い入れを高めているのかもしれない。
 ところで、<「感じること」>と言う場合、人間にあっては、<「知る」こと>との境界はかなり不鮮明であり、<「知る」こと>の産物により多くが方向づけられている点に留意すべきかと考えている。これはプラス、マイナスの両面がありそうだと想定するのだが、マイナス面にあっては、当人が<「感じること」>の分野の "感情" であると思っていても、実は、<「知る」こと>の産物により撹乱された "感情もどき" でしかないこともありそうではないか。
 つまり、何が言いたいのかと言えば、<「感じること」>という領域は、<「知る」こと>の産物によってかなり毒されてもいそうであり、先ずは "耕したり、整地したりする" ことが必要なのかと、そんなことを想像するわけなのである。
 動植物などの自然に対する思い入れとは、意外とこんな文脈に基づいているのかもしれないと推定している...... (2008.02.11)

 昨夜の降雪は、結局、さほどのものではなかった。その降雪は、一時、雨に変わったかと思ったら、夜半には、一時の勢いを見る影もなく失って、まるで "売り切れ御免、品切れ状態" とでも言わぬばかりに衰弱して行った。
 こんな書き方をするのは、胸の内のどこかに "ホーラ、ネッ" と言いたい心境が潜んでいたからなのかもしれないが、結果的には、それで良かったのだ。今日の陽射しで、その大半が溶けてしまい、市民生活にほとんど影響を及ぼさない出来事に丸く収まってしまい、良かった、良かったということである。

 朝のうちはまだ歩道などに雪が残っていた。そんな中を、特にやめる理由もなかったため、自分はいつもながらのウォーキングに出掛けることにした。 "チェーン" の件の代わりというわけでもないが、念のため "トレッキング・シューズ" を履いて出たりするところが自分でも恐れ入る。
 残雪の白色が、家々の屋根といわず川の中州といわずあちこちに見受けられる中、川の流れの淵に白い鳥、二羽の姿が目に入った。冷たいであろう川面に足を浸しているコサギとチュウサギの二羽であった。そのうちのコサギの方は、川の流れの淵ぎりぎりのところで、小魚を狙っている様子である。
 ところで、先日も同様の様子を観察することとなったのだが、その時に奇妙な動きに気づいたのである。川の流れを歩むコサギの動きは実に緩慢であり、忍足さながら、ゆったりゆったりと歩を進めるのであるが、水面下に覗けるコサギの黄色い足指だけは、小刻みに震えているのである。空腹の上の、この川水の冷たさからなのかと推測したり、まさか、緊張があまってのことや、武者震いというわけではなかろう、というように多少訝しく感じたものであった。
 そうしたことがあって、今日もまたまったく同じ振る舞いをしているのに気づかされたというわけなのである。なお、その直後に、すばやく首を水中に突っ込み、何やら小魚らしきものを捕獲して飲み込む模様が続いてもいた。
 こうして度重なって、奇妙な同様の仕草を目撃した自分は、その "足指の震え" 、これはコサギのひとつの "習性" ではないのか、と思わざるを得なかった。そこで、自宅に戻ってから、野鳥図鑑で調べてみることにした。と、案の定、次のような説明書きが目に入ったのである。

<小型のシラサギで川、水田、池、干潟、海岸などに生息し、都会を流れる川や池でも見られる。浅瀬に入り足をふるわせて、ものかげから魚を追い出してとり、カエルや水中昆虫も食べる。......>

 自分が観察したコサギたちは、決して寒さや神経質であるがゆえに "黄色い足指を震わせ" ていたのではなかったのである。要するに、餌を得るための "生得的な技" のひとつであったようなのだ。足指だけが黄色で目だっており、それが小刻みに震える格好というのは、まるで "ヒトデ" などが暴れているようにも見えるだろうし、さぞかし小魚や水中昆虫たちなぞは慌てふためくこと必定だと思われた。
 それにしても、コサギのような野鳥にも、しっかりと "進化論" 的な形跡が蓄積されていたのかと思うと、都会の自然現象も仇や疎かに見ていてはいけないと、ふと感じたものであった。
 生きものたちだけではないのだろうが、今、この時に目にするものの一切には、過去から累々として積み上げられて来たヒストリーが隠れているのであって、そうした存在を了解しなければ "ものの意味" を十分にわかることにはならないのかもしれない、と感じさせられたのである...... (2008.02.10)

 きっと今夜降り続くらしい降雪は、明日には大雪となっていることだろう。雨にでも変わらない限り、夜間に降り続く雪は溶けようがないだけに予断を許さない。
 今回もまた、クルマには前もってのチェーン装着に余念がなかった。天気予報に耳を傾け、そのまま信じるに足るかどうかを見極めた上で、どうも油断はできないと判断し、今回もまた事前に手当てしておくことにしたのである。
 別に、外出などの当てがあってのことではない。ただただ、何か急用が発生してから凍える冷たさの下であくせくしたくないだけのことなのだ。
 が、ものの見事に大雪になり始めると、 "ホーラ、ネッ" と事前準備をしたことに他愛無く自慢気となるからおかしい。これで、雪道を走らなければならないような用事でも発生しようものなら、ますます "ホーラ、ネッ、言わぬことじゃない" と胸を張ってしまうのであろうか......。
 ただ、今回は雪にこだわるもうひとつのワケがあった。先日の降雪で使用した従来からのチェーンがとうとう破損してしまい、結局新しいものを購入したのであった。その購入の際、当然、今年はまだ雪が降るのかどうかが気になった。が、自分の "勘" は、まだ二、三回、いや場合によっては三、四回は降るようだと結論づけたのだった。まともな根拠が決してあるわけではない。この異常気象環境ではそんなことがありそうだと感じただけの話なのであった。
 ところが、何をどう申し合わせてか、先週に引き続き土日の降雪となってしまった。しかも、ほぼ積雪は疑いようもない状況となったのである。 "ホーラ、ネ" と、言ってしまうわけなのである。もっとも、こんなことでその気になっていてどうするの? という自嘲の声も聞こえてはくる。

 ところで、 "勘" と言えば、もともとがこうしたことには人一倍興味を抱く自分である。知識に基づくロジカルな推論はもちろん重要視するが、ロジックを超えてというか、ロジックを担保するかのような "非ロジカル" な文脈とでもいうものを蔑視できない自分なのである。
 だから、知識、知識とまるで鬼の首を取ったかのように、知識や客観性を誇示し、何ら羞恥心を隠そうとしない人たちや光景には、やや違和感を感じたりもしている。羞恥心はともかく、 "100% 正しいとまではいいませんが......" くらいの謙虚さは示してほしいものだと思ったりするのである。

 <私は、しばらく前から、「知る」ことよりも、「感じること」のほうが大切なのではないか、「感じること」のほうが、裏切らないのではないかという思いを抱いている。世の中には、知っているつもりでいて、そのくせ十分に感じられていないことがたくさんあるのではないか、そんな気がしている>(茂木健一郎『生きて死ぬ私』2006.05.10 ちくま文庫)

 自分が茂木氏に興味を持つのは、最先端の "脳科学者" でありながら、 "クオリア" というテーマのような、近・現代科学の盲点に "正しくこだわっている" その真摯さというか、近・現代科学の喉元に "匕首" を宛がい続けている半端ではない根性に惹かれるからなのかもしれない。
 いや、まあこうした "人種" は、正統派の小説家にはめずらしくなさそうだが、知識や客観性の重視を飯の種にする学者、科学者が臆面なくこうしたテーマについて叙述するのは貴重であり、あの湯川秀樹氏以来ではないかとさえ思っている。

 この現代という時代の不思議さというのは、いろいろとあろうが、そのひとつは「知る」ことを "偏重" している点であろう。通りの良い言い方をすれば、 "知識偏重" ということになりそうだ。
 ちなみに、 "知識偏重" と言うと、その後に "道徳軽視" という言葉をつけたがる輩も多いが、それはいただけない。というのも、 "道徳" というものさえも "知識" のカテゴリーに仕分けられる "固定的観念" なのであって、「感じること」よりもいわば道徳律を「知る」という筋合いの精神活動でしかないはずである。もし、この辺のことを妥当に表現するならば、むしろ "倫理" と言うべきなのかもしれない。こちらには、個々人が生に「感じること」をベースにしようとするまともさがありそうである。
 それはともかく、 "知識偏重" はもはや単なる傾向なぞではなく、もはや一般常識となり切っているようだ。 "知識" に基づかないで発言する者は、 "歩行喫煙" と同様に罰金でも取られそうな風潮だとさえ言えよう。
 この "知識" 重視のすべてが悪だなぞと言うつもりはない。が、往々にしてこの風潮が足元で、「感じること」に対する評価を低めていそうな点が気になるわけなのである。

 また、「知る」ことというものは、「感じること」よりも "簡易処理" が可能である、その点がクセモノなのではないかと推測している。だからこそ、まともな教育ではなく "知識切り売り" という「知る」ことモードの "教育もどき" が一般化するのであろうし、「知る」ことのレイヤー(層)でコミュニケーションがを賄えると妄信するマス・メディアが闊歩しているのであろう。
 ただし、この風潮は、それをマクロに仕掛ける側だけに原因があるのではなく、知識の受け手である「知る」ことを進める個々人側にも問題がありそうだ。こちら側も、 "手抜き" 生活をしているのだと思われる。
 本来、「知る」こと、「感じること」などが何のために発動、起動するのかと考えると、それは差し当たって「わかること」なのではないかと言えるかと思う。図式的に言うならば、
<「知る」こと> ⇔ <「感じること」> ......→ <「わかること」>
と表現できそうだ。<「知る」こと>がきっかけとなり、<「感じること」>が発動、起動して、漸く<「わかること」>に至ったり、あるいは<「感じること」>がきっかけとなり、<「知る」こと>を媒介にして、漸く<「わかること」>に至ったりするというのが雛形なのではなかろうか。
 ところが、<「知る」こと>もそれを苦手とする者にとっては "厄介" なことなのかもしれないが、<「感じること」>やそれをそれとして試行錯誤の末に自覚するという "内的プロセス" は、もっと内的エネルギーを要するプロセスではないかと考えられる。その "内的プロセス" のことを、ひょっとしたら "悩む" と言うのかもしれないが、いずれにしても避けて通ろうとするプロセスであるように思えるのである。
 たとえ、自分なりのいわく言いがたい「感じること」があったとしても、それを<「感じること」>レイヤー(層)で温めることを避けてしまい、<「知る」こと>レイヤー(層)で調達した通りの良い知識で置き換えて、それですました顔をするというのが常識的スタイルであったりするのかもしれない。

 これでは事の真相をすべて素通りさせていることになる。しかし、<「知る」こと> "偏重" の風潮というものは、万事これで "すまし顔" をしているのである。
 これらが、<「感じること」のほうが大切なのではないか、「感じること」のほうが、裏切らないのではないか>という茂木氏の思いに、大いに共感を覚える理由なのである。また、現代という時代環境が背負っている人間間のコミュニケーションに関わる数多くの問題は、その手法がどうのこうのと言うレベルから、一見ナイーブ過ぎると受け取られるかもしれない<「知る」こと>、<「感じること」>と言ったテーマにまで、潔く遡る必然性があるのかもしれない...... (2008.02.09)

 今、社内にあるPCなどのIT機器類の入れ替え作業を進めている。IT機器類は、かなりのハイエンドのものでも随分と低価格化が進んできた。この間、そうした新鋭機器類をそこそこ導入することができた。ということで、それらを導入すると、性能が低い機器類は、 "気の毒な感じ" ではあるのだが、嵩張って場所を占めるだけで、正直言って邪魔者扱いとならざるを得ない。
 いや、そればかりか、廃棄するにもコストが掛かるご時世であるため、条件が揃った時には潔く処分してしまうしかないわけなのだ。

 それにしても、いざ廃棄しようとなるとその物量の大きさに眼を見張ってしまう。
 あっと言う間に性能が陳腐化してしまったPC本体や、ブラウン管方式のモニターなどがそれぞれ10台以上も廃棄対象となってしまったのである。
 もともと、仕事柄、NECの98シリーズも活用したり、キープしておかなければならない状況があったこともひとつの理由で、そうした "化石" と化したような機器類も少なからず潜んでいたのである。
 現に、しばらく前までは、顧客にリリースしたシステムの関係で、PCメーカがすでにサポートを打ち切った古い機器類を "ストック" しておかなければならない事情も存在していた。中古でもいいから、これこれのPCは手に入らないか、というような顧客からの切実な要望が存在したのであった。おそらくは、今後とて、同様の要望が無いとは言えなかろう。まして、経済情勢が下降気味のこんな環境であってみれば、顧客側とて、新システムの発注でコストが嵩む選択はしにくいであろう。現行システムを補修してでも、低コストで賄いたいと想像するのが順当かもしれないからである。
 しかし、そうした要望に応えて行きたくはないと言うのではないが、それを引き受けて行くのは当方側としてもかなりリスキーであろう。また、顧客側にとっても、決してビジネス的に安定した選択とは言えないように思われる。
 仮に、たまたまストックしてあった機器を提供させていただいたとしても、その機器がどこまで耐久性を持ち続けるのかは定かではない。しかも、メーカがサポートを打ち切った機器類は、その部品を入手することとてままならない状態となっている。時間とともに劣化が避けられない、いわば消耗品としてのPCの類は、その "代替製品" が無くなる状況というのを最大限警戒しなければならず、場合によっては致命的だと見なす必要もありそうではなかろうか。

 ところで、当社社内に、古い世代の機器類がそこそこあり続けた原因は、そうした仕事の都合という点も確かにあったのだが、それに加えて、わたし自身の "性分" も大いに関係していたかもしれない。モノを大事にすると言えば聞こえはいいが、要するに、 "モノにこだわる" という "悪癖" が災いしていたのであろうか。モノ不足やモノの有り難さを感じて育ってきた団塊世代の特徴でもありそうか。
 特に、PCショップ経営なんぞという経緯を持ったこともひとつの根拠となっているのかもしれない。PCのハードに馴染んだり、PCパーツにこだわる "オタク" たちと接したりしてきたりしたことで、一般の人よりもPCのハードに対する思い入れが強化されてしまったようなのである。
 モノを大事に使って、さらに、不具合が生じたなら自らあれこれと工夫をして修理してしまうこと、これは今なお悪いことだとは考えられないでいる。むしろ、いろいろな意味で "資源枯渇" が叫ばれる折、こうした観点は保持されて然るべきではないかとさえ思っている。
 しかし、それとは裏腹に痛感することは、やはり "コスト問題" なのである。手間を掛けて、古い世代の製品に愛着を持つことが、現状の経済状況にあっては、逆に "コスト高" となってしまうような傾向が無きにしもあらずである。そんな傾向を生み出して、 "資源のムダ使い" をしてどうなる! と叫んだところで、さほどの "有効性" があるとは思えないのが現状のようである。

 まあ、釈然としない気分が渦巻いたままではあるが、来週には大量の古い機器類を、処分することになる。ウエットな表現をするならば、 "姥捨て山" へと向かわざるを得ない農夫の心境とでもいうことになりそうである...... (2008.02.08)

 現代は、 "レバレッジ[てこ(lever)の作用]" の時代だと言われる。その典型のひとつは、 "金融活動" の領域で色濃い姿を表しており、<投資において信用取引や金融派生商品などを用いることにより、手持ちの資金よりも多い金額を動かす>という "lever" が駆使された現象なのであろう。
  "サブプライム問題" とて、この文脈の中で発生したものと見なせるのだろうが、この問題に撹乱されている昨今の株式市場の動向も、凄まじい様相で無数の "lever" が暗躍して、株価の動きは方向性すら失っているようである。株価が毎日3%,4%も変動することを、<株価のボラティリティー(変動幅)が著しい>と言うのだそうだが、やはり異常な雰囲気を感じる。
 今日あたりの動きに関してある金融筋の人間は、<「決算を材料にしてカラ売りなどを仕掛ける短期筋のマネーばかりが市場に出入りし、ロングの投資家や個人投資家が手を出せない状況となっている。......」>(2008/02/07 ロイター日本語ニュース)と述べていた。
 確かに、決算を控えたこの時期なので、収益の "下方修正" をした企業銘柄などが、それを口実にされて、海外勢のヘッジファンドなどによって激しく叩き売られ(カラ売りされ)ているような露骨な空気なのである。日中のチャートの動きを、自分なんぞが垣間見ても、これはこれは......、というような異様な感じであった。600円台の下げ幅を記録した昨日はもちろんであったが、その反発があって当然とも言える今日でさえ、こうした "lever" を掛けての "売り圧力" は衰えていない雰囲気であった。
 妙な表現をするならば、瀕死の重傷を負った者( "サブプライム問題" 被害ファンド?)が、なりふりかまわず、カラ売りという最後のカードに身を託し、いわば "地獄への道連れ" 作りに狂乱しているかのような異様さを禁じえなかったのだ。
 いや、何が書きたいのかといって、別に、手玉に取られているかのような "東京市場" の惨憺たる状況でもないのである。多分、こうした海外勢による "lever" の掛かったカラ売り旋風がしばらくの間は続くのだろうと思う。それは、波状攻撃のように現れ、日経株価平均の水準がやや回復し、多少の安堵感が広がるたびに展開されるのではなかろうかと、不吉な予感を持ったりする。

  "レバレッジ[てこ(lever)の作用]" を、ひとつの鮮やかな特徴とする現代は今、金融領域において、いわばその "裏目" を被っているわけだが、 "レバレッジ" という点でもっと単刀直入に現代人が思い起こすべきは、いうまでもなく "IT(科学技術)" ということのはずであろう。そもそもが、金融領域での動向にしても、本を正せば "IT" の爆発的発展があったればこそだったはずである。金融関係の数式にせよ、その計算にせよ、圧倒的な "lever" の掛かったパワーで処理をするコンピュータが介在しなかったならば不可能であったに違いなかろう。また、急速、かつ飛躍的に発展を遂げたインターネット環境がなかったならば成立しなかったはずである。
 こうした事情は、何もグローバルな金融領域での出来事だけではなく、現時点で世界中で起きている社会現象、その良いことも悪いことも、言ってみれば "IT(科学技術)" による "レバレッジ" で結果しているわけなのであろう。

 ところで、こうした "IT(科学技術)" の "バクハツ" (芸術はバクハツだぁ~! どころの水準ではない)的展開に対して、その賛美はもちろんのことであろうが、そのほかにもいろいろなことが評されていそうだ。特に、 "遺伝子工学" などの分野については、シリアスな問題点も指摘されたりしているようだ。
 こんなマクロな問題領域について、自分なんぞが口を差し挟む筋合いではなさそうであるが、ひとつ気になり続けているのは、次の点なのである。
 上述したように、 "IT(科学技術)" の成果が、人間世界にもたらしていることを一言で言うならば、これまでにない規模での "レバレッジ環境" を人間たちに提供した、ということのように思えるのである。
 そして、それはそれとした事実認識をしたとしても、巨大な規模での "レバレッジ環境" のただ中で生きる人間たち、もっと言及するならば人間たちの "脳" は、それをそれとしてまともに了解できているのだろうか、という点なのである。
 ここ何日か、 "生の体験" というキーワードにこだわっているわけであるが、もし、脳化学者たちが言うように、 "脳" の働きというものが、もっともフィットするのが人間における "生の体験" であるとするならば、現代における生活環境は、いろいろな意味合いにおいて "非・生の体験" 的世界環境となっており、しかも、その在り様は、 "生の体験" からただただ遠ざかる方向に向けて "lever" が効いた "レバレッジ環境" となっているだろうからなのである。
 どう考えればいいのかという視点の問題も含めて、関心を寄せて行きたい問題である...... (2008.02.07)

 例えば、この日誌の素材にしても、 "生の体験" ではない、各種メディアからの "加工情報" に依存することが多いわけだ。いつぞやも書いたとおり、どんなに些細なことであっても、できれば "生の体験" であるとか、自身の身の回りで生じた出来事などを素材にして、自身でなければ書けないことを書きたい。また、そうあるべきなのだろうと思っている。新聞社のサイトのニュース項目をサーチしたところで、何となく "ゴミ箱漁り" をしているかのような印象が拭い切れない。
  "ゴミ箱漁り" というのも強烈な皮肉となるが、少なくとも、退屈嫌いな "脳" からしてみれば、新規性の観点から編集されていると思しきニュースであっても、 "退屈なゴミ" 以外ではなさそうである。
  "脳" がワクワクしたり感動したりして姿勢を正したり、身構えたりさせられる対象というものこそを求めなくてはいけないのだろう。そしていわゆる、 "生の体験" と目されるものには、そうしたチャンスの可能性が満ちているのであろう。
 だから、日誌にしても、そうしたことを素材とするならば、想像するにちょいと手間がかかりそうな気はするが、緊張感や充実感をもって書けるのだろう。そうでありたいものである。

 さらに "ゴミ箱漁り" という表現にこだわってみるならば、ゴミ箱の中にあるものは、素材そのものがゴミでしかないのに加えて、素材への加工処理方法(表現方法や編集など)もまたゴミのように実に魅力に乏しい。こう言って語弊があるならば、 "とおりのよい紋切り型" に徹していると言うことができる。 "紋切り型" の処理とは、とにかく抵抗感なく受け手に受容されることを目指しているわけだから、本来的な "脳" にしてみれば、退屈な表現以外ではなく、嘗めんなよ~! との叫びを引き出すような "ゴミ" パッケージでしかないわけだ。
 振り返ってみると、情報化時代に生きるわれわれは、朝起きてから寝るまで、本来的な "脳" が起動しなくて済んでしまうような "ゴミ" 環境に取り囲まれ、結局、 "ゴミ箱漁り" の一日に終始する生活をさせられているのかもしれない。新聞・雑誌・TV・ネットなどのマス・メディアに接することは、少なからず "ゴミ箱漁り" に動員させられているかのような雰囲気である。

 また、ショッピングなどに出かけたとて、こうした事情はさほど変わらないのではなかろうか。今やわれわれは、モノを買う時でさえ、モノの "生の姿" を吟味することなぞほとんどなく、煌びやかで "紋切り型" の口調、コピー(宣伝文句)で埋め尽くされたパッケージと向き合い、勝手な納得をしてそれをカートに放り込んでいるような気がする。
 ところで、例の "農薬入りギョーザ" 事件の際、TVニュースでは、関連商品の煌びやかな各種冷凍食品のパッケージをゾロリと並べて映し出していたものである。それを眼にした時、他のことを考える前に、とあることを感ぜざるを得なかった。
 つまり、当たり前のことなのだろうが、われわれ消費者は、ギョーザというモノを "生の体験" 的に吟味した上買っているわけなんぞではない、ということ。ほとんど "紋切り型"パッケージという危うい "間接的" な記号群に身を託して、平気で買っているのであろう。
  "食品偽装" という問題がにわかに注目されるようになった昨今であるが、この問題は、結構、根が深くて、文明もしくは情報化時代の "必然的な陥穽(かんせい。落とし穴)" を照らし出しているのかもしれない。
 実体のモノを見定める "生の体験" レベルのチェック方法もなければ、いや、それ以前にそんな "脳" 力もどこかに置き忘れてきたかのような現代人にとっては、この種の問題を一体どのように氷解できるというのであろうか。
 まあ、公的機関その他のチェック機関による厳重なチェックや取締りを強化すること。 "紋切り型" ではあろうが、それしか対策はなさそうなのかもしれない。しかし、そうした体制が甘かったり、無かったりしたわけでもなかろうと想像すると、ウームと唸ることになってしまいそうだ......。

 犬や猫たちは、古風にも未だに、クンクンと嗅覚を働かせて "生の体験" レベルのチェックで難を逃れているようである。いっそ、そこまで "バック・トゥー・ザ・フューチャー" としますかね...... (2008.02.06)

 <遭難のスノーボーダー、7人全員救出 廃屋で夜明かし>( asahi.com 2008.02.05)というニュースに胸をなで下ろす人は多いだろう。都市部で生活している者たちにとっても、ここ二、三日の冷え込みと積雪には参っていたはずだから、雪山で二日も行方不明となっていた事件の推移を決して楽観的には想像しなかったと思われる。
 ところが、
<「廃屋発見、まるで映画」命つないだ幸運 7人生還
遭難した7人の命をつないだのは、廃屋だった。
 「廃屋を偶然見つけるなんて、まるで映画のような話だ」。雪崩事故防止に取り組む長野県白馬村のNPO法人「アクト」の元村幸時理事長(45)は驚く。......>(同上)
というように、まさに "奇跡" のような事情で助かったのだそうだ。

 <たとえ標高が低い山でも、雪が降れば『魔の山』になる。......偶然が重なり、救助されたまれなケース。......廃屋が見つからなければ危なかった>(同上)と話されるとおり、決して自然を侮ってはならないということであるに違いない。万事、ハッピーエンドとなるよう仕切られた "人里" (文明)の論理や感覚を、自然世界に横滑り(スノーボード?)させてはまずかろう。

 ところで、自然を "見くびるな" と強調した上でのことなのであるが、自分は逆に、こうした "奇跡" とも、あるいは "セレンディピティ" とも言える、そんな寛大な可能性を今なお残してもいるのが自然というものなのかもしれない、とそんなことを考えたのであった。
 簡単な話が、もし、あらゆる環境が "文明化(=人工化=市場経済化)" されてしまった大都市のど真ん中であったなら、雪に凍えそうになった者を寛大に迎え容れる "廃屋" なんてものが残されているだろうか、ということになる。大都市は、そんな、誰彼となく出入りを許容するような "廃屋" なんてものを許しはしない。ホームレスたちのダンボール小屋とて許していない。
 それどころか、救急車で運ばれる救急患者でさえ受け容れが拒絶される現実のあることに気づく。全然事情が違うではないかとも言われそうだが、結局は、 "人里" (文明)の硬直したシステム論理がなせる業という点では括れる事象ではなかろうか。

 唐突な視点で書いていることを自覚しているが、要するに "許容力を欠いてしまった文明世界" と "拒むことをしない自然世界" というような "対比関係" のようなものに着目しようとしているわけなのである。
 これは決して新規性のある問題なんかではない。ありふれた "人工世界 vs. 自然世界" とか "デジタル世界 vs. アナログ世界" というような対比のテーマだと言ってもいい。あるいは、久々に思い起こすことになるが "脳化社会(=都市化社会) vs. 自然世界" (c.f.養老孟司)だと言ってもよさそうだ。いや、このテーマは、 "脳" の働きの次元で考えてみることが最もふさわしいのかもしれない。

 何の著作であったか、養老孟司氏が "幼児虐待" の風潮について書いていたことを思い出す。同氏によれば、 "幼児" という存在は、いわば "脳化(=都市化=人工化=文明化=情報化=知識化 etc.)" される以前の "自然存在" なのであって、都市に住み、過度に、偏重して "脳化" されてしまった "大人たち" からすれば、その "制御" が完全に苦手な対象なのではなかろうか。だから、苛立ちだけが募る対象となり、彼らが無抵抗であるだけに簡単に暴力をもって報いることになるのではないか、とそんな意味の解釈をされていたかと思う。まさに正鵠を得た洞察だと思われた。
 それでは、昔はどうだったのだろうか、という点に当然関心が向くはずだ。あるいは、現在でも "上手に"  "幼児" たちを養育している大人たちはどうしてそうあれるのかという点にも眼が向くことになる。
 養老氏がその点をどう説明していたかを定かには覚えていないが、要するに、そうした大人たちは、 "幼児" たちの "自然性" を寛容に受け容れることができる "脳" の構造や働きを獲得していたということなのであろう。
 と言っても大それた事ではなく、 "人工化" された環境に慣れるだけではなく、 "自然" 環境にも精通していて、 "自然" 環境というものが人間の "割り切った思考" だけでは包み切れない "余剰物(不可解さ、ノイズ etc.)" をたっぷりと含んでいることを了解していたからではないかと思える。だから、 "幼児" たちの "自然性" を別段不思議だと感ずることなく寛容に寛容に対処したし、するのでもあろう。

 茂木健一郎氏(『それでも脳はたくらむ 』)によれば、 "脳" の働きにとって "生の体験" は重要かつ必須なのだそうだ。それは、 "生の体験" というものが、ひとつは "脳" と密接な関係にある身体全体を駆動させるからだそうだ。とともに、 "生の体験" というものは、編集され閉じられてしまった情報・知識(上述した "脳化社会" は、これらで構成されている!)とは異なって無数の "ノイズ" を秘めており、 "脳" をして、水を得た魚のごとくアドリブ的に必死で意味を探ることを仕向けるからだそうだ。
 そして、 "生の体験" は、 "脳化社会" のただ中の対話や対人関係でも十分に行えるわけだが、 "生の体験" の真骨頂は、まさに自然環境と向き合う時なのだそうである。確かに、自然環境は一々 "取扱説明書" を添付しているわけではないがゆえに、裸一貫、丸腰で対処しなければならず、まさに "脳" の活動の桧舞台だと言ってもよさそうな気がしてくる。

 今日書いたことを煮詰めてゆくならば、この情報化時代における "創造性の問題" にもつながりそうだし、また逆に "高齢者の認知問題" にも十分関係しているであろうし、さらに情報化時代における事故や事件についても示唆的なのではないかと感じている。情報化時代、情報化社会はその功績とともに、回避できない "トラップ" を用意してしまっているのかもしれない...... (2008.02.05)

 グローバリズム経済という "戦車軍団" が轟音を立てて突き進んでいる。とても拍手を送る気になれるものではない。 "戦車" のキャタピラの下に踏み固められて行く累々とした名も無き "歩兵" たちの姿がとても他人事とは思えないからであろうか......。
 できれば、 "コンバット" や "ギャラントメン" 、いやちょっと古過ぎるなら、アフガンを舞台とした "ランボー" でもいいが、そんなヒーローよろしく、 "歩兵" としてのあらん限りの意地を見せ、火炎瓶(またまた古風となってしまった)なり、対戦車砲なりで前線の流れを変えられないか......、とまあ過激な話になってしまった。

 あくまでも現代の現時点での世界経済の "心象像" なのである。
 当面、このグローバリズム経済が怒涛のうねりのごとく進行する趨勢については誰も否定することができない(かのようである)。特に、 "蛇に睨まれた蛙" のような構図に嵌まり込んだこの国、日本にとっては、個人的な思いとは別に、この "歴然たる" 事実を踏まえずしては何も始まらないのだろう。
 そして、悠長なことだとの見方もあるだろうが、この "歴然たる" 事実を事実として、その全体像を凝視し、一刻も早くその正体、ないしは本質(可能性と限界)を体得してしまうことが、とりあえずこんな時代に遭遇することとなってしまった現代人たちの差し迫った課題なのであろうか。

 ところで、マス・メディアを嫌悪し続けている自分ではあるが、同時にまた "TVオヤジ" としての性向が抜けきらない自分は、何だかんだと言いながら、TVを観ている。
 と言っても、観るものは限定されており、ますます "ドキュメンタリー" が大半となっている昨今である。
 中でも、 "NHKスペシャル" という番組は、かなり "波長が合う" ようでよく観ることになっている。だから、この日誌でもしばしばその感想を書いたりしている。
 もちろん、 "マス・メディア嫌悪派" を隠さない自分は、この番組、 "NHKスペシャル" といえども、あえて "批判的" に、 "距離" を置いて観るよう心がけている。それは、別に相手がNHKだからということよりも、メディアに対して "批判的" 姿勢で接することは、 "メディア・リテラシー" の "いろは" だからである。

  "NHKスペシャル" という番組のこのところの視点は、やはり、じわじわとこの国の国民に迫ってきている "グローバリズム" ( "構造改革" 路線問題を含む)という "怪物" に焦点を合わせているような感触を持つ。それは、マス・メディアとしてはかなり "的確" なアクションのような気がしている。
 まあ、この辺の事情を別な角度から言えば、視聴者である国民自体が、ますますこの "グローバリズム" の正体を知りたがっていることへの "呼応" なのだと言ってもいいはずである。
 昨晩も、この "NHKスペシャル" を興味深く観てしまった。
 この間、『日本と米国』というテーマで3回シリーズが放送されている。まさに、 "グローバリズム" の趨勢の "要" に位置する問題のはずだと思われる。昨晩は、<第3回 日本野球は"宝の山"~大リーグ経営革命の秘密~>(ちなみに、<第1回 深まる日米同盟><第2回 ジャパン・パッシング "日本離れ"との闘い>であった)ということで、日本人選手獲得に蠢くレッドソックス経営陣の動向が密着取材されていた。
 これは、日本のプロ野球界の変わり映えのしない動向に対して、これぞ "グローバリズム" の経営手法なのだと言わぬばかりのレッドソックス経営の凄みが溢れていて、何がしかを考えさせられるに足る映像であった。
 例えば、マーケティングや球場改修による観客動員作戦や、日本人選手獲得戦略は非常に "なるほど感" が刺激されたものであった。特に、松坂大輔選手のような看板スターの巨額な契約金を賄うためにも、割安な契約金で実質的にチーム貢献度が高いであろう選手を掘り出すことに注力し、そのために新たな "実力評価計算式" を採用するという合理的な貪欲さなどは、頭が下がる思いにさせられたものであった。

 この "NHKスペシャル" という番組ではかつて、 "ワーキング・プア" (格差問題!)といういわば "グローバリズム" 経済の "闇" の側面に対して手厳しい視線を向ける番組が報じられ、多方面から共感の声が寄せられたと聞く。自分自身も、その番組構成を大いに評価したものであった。
 それが、 "グローバリズム" 経済の影響による国内の "闇" を照らし出したとするならば、今回のシリーズ『日本と米国』は、対外的な関係における実態解明への一石という意味合いを強く感じた。そして、ここでは、先ずは米国が主導する "グローバリズム" というもの推進のされ方をリアルに認識しようとするような意図が読み取れた。
 もちろん "したたかさ" に貫かれた戦略戦術に満ちており、こうした事実を踏まえなければ "有効性" のある対応ができないのではなかろうか、と感じさせられたのである...... (2008.02.04)

 先日、久々にタクシーに乗り、これまた久々に運ちゃんと世間話をした。
 話のきっかけは、タクシー料金の値上げ以降、利用客はどんなもんですか? というわたしからの投げかけであった。
 既に伝えられているように、めっきり客数は減っているとのことであった。何をやってるんですかねぇ、という批判めいた口調で継がれた言葉は次のとおりであった。
「それでいて、深夜料金は下げたんですよ。やることは逆じゃないですかね......」
 詳しい実情はよくはわからないが、通常利用=一般客、深夜利用=特殊客だと想定するならば、利用比率が高いとともに利用自粛の可能性も高いであろう前者を "値上げ" して "裏目" に出てしまったのは、やはり判断が妥当ではなかったようだ。加えて、深夜料金の "値下げ" という目論みも今ひとつ了解しにくい。
 話は、勢い、 "公的政策" の採られ方がとにかく理解しにくい、という言外に運ちゃんの主張が伝わってくるのであった。
 話題は当然、 "ガソリンの暫定税率" の問題につながって行くのだった。
「まるで、ガソリン税を下げると地方の道路建設がストップして、地方の人たちの生活が困るというような空気が作られていますよね。あれもおかしいと思いますよ。何故って、地方の人たちこそ、公共交通の手段が乏しいから、一家で3台、4台のクルマを利用していたりして、その分ガソリン代で汲々としているんですからね。それが下がれば大助かりのはずなんですよ。そうした人たちの声がほとんどTVなんかでも取り上げられなくて、地方が困る地方が困ると吹聴されてるわけですよ......。
 道路環境が未整備だとかも言われてますけど、わたしなんか、郷里の秋田に帰ったら、高速はいつだってガラガラだし、建設が未着工だと言ったって、現状で何の不自由もなくビュンビュン走れて用が足せますよ。
 今更、道路整備でもないんじゃないですかね。医者も少ないし、足りないものはほかにいくらでもあるように思いますよ......」
 一々もっともな話だと感じ、もっぱら相槌を打つ自分であった。ほどなく、次のような言葉が飛び出したのであった。
「みんな、ずいぶんと大人しくしてるもんですよね。そう思われませんか。個人的なことではわけのわからない犯罪をやるほどにキレる割には、政治なんかのおかしいことに何も言わないようでね。どうなってるんですかね。そこ行くと、ホラ、つい先ごろあったマ※※※※※の店長が裁判を起こしたっていうのは偉いと思いますよ。できることじゃないですよね。だって、名前も出てるわけだし、これから先、就職では敬遠されちゃうのは目に見えてますもんね。古い話ですが、江戸時代の捨て身での "直訴" っていうやつですかね......」
 多少飲んでいたこともあり、自分は、相槌どころか拍手でもしたくなるような共感を覚えてしまうのだった。

 タクシーを降りたあと、自分が思いを巡らせていたのは、やり切れないような政治環境の現実の酷さというよりも、それらの主たる原因が共通の認識とならないように蠢いているに違いない巨悪のしたたかさであったかもしれない。
 いろいろな人間が、さも目新しそうにいろいろな視点を繰り出してこの時代の現状分析をしているわけだが、それらによって、一向に変わらない巨悪のなしている事実が、免罪よろしく霞んで見えにくくされているとするならば、これほどにバカバカしいことはないと......。
 確かに、現状の人間世界の矛盾や苦悩はシンプルさを欠き、何かひとつの視点からの改革で事が済むというふうではなくなっているはずであろう。終わり無き継続的な改革ということになるのだろうが、だからこそ、 "構造的" な形を秘めていると思しき矛盾にこそ先ずは注目すべきなのではないかと思う。
 「小異を捨てて大同につく」という言葉があったが、残念ながら現代は、全くの逆現象、つまり「大同を捨てて小異に固執する」という袋小路に迷い込んでいる印象を抱く。これが、ポジティブな方向での "多様化" の現実なのであろうか。命を奪い合う必然性が何もないのに、ただ最も身近な存在であるというだけのことで場違いな感情の発露と残酷な結果が生じてしまうのは、あまりにも惨め過ぎる。
 自分自身にしたところが、もし「小異を捨てて大同につく」という言葉が、「自己を捨てて......」であるのならば、当然聞く耳を持たないだろう。しかし、今どきそんなことを要求しているのは、 "規制" という名によって官僚機構による支配の透明性をひたすら高めようとしているサイドの者たちだけなのではなかろうか。

 「地獄への道は善意で敷き詰められている」という言い古されたことわざがあるが、確かに、「地獄への道」は "鬼たち" に取り囲まれた道なんぞではなかろう。 "善意" が敷き詰められた道とまでシニカルにはなり切れないでいるが、何か "心地よい姿" をまとった、 "ビリーバブル" な要因によって誘われるのであろうことだけは了解できそうだ。
 また、それは個別の何かという対象が問題だというよりも、 "それらしく魅了されてしまう" ような "受容スタイル" にあるのかもしれないと推測できる。ちょうど、夢の中での認知が、何をという対象はどうということもないにもかかわらず、やたらに感情の振幅だけは尋常ではないのと似ているのかもしれない。
 少なくとも、そのことわざに秘められている "逆説的" な意味合いのパラドックスが現実世界に浸透していることだけは間違いないと思う。妙な比喩で言えば、トーマス・マンの『マリオと魔術師』の世界が現に出来上がっているのだとも言える。
 そんな "魔術" を超えるためには、 "セルフ" を超えた "セルフ" = "メタ・セルフ" を構築しなければならないところではあるが...... (2008.02.03)

 明日は一日中の降雪だというので、先ほど、早手回しにクルマにチェーンを装着した。毎年こんなことを書いているような覚えがあるが、寒い朝にそんな装着作業をするのは考えるだけで厄介な気がしたため、エイッと気合を入れて済ましてきたのである。
 これで、明日は、朝からどんなに雪が降ろうとも気苦労する心配だけは回避できるというものである。
 こんな積雪対策のように、忍び寄る景気後退の経済環境に対してそこそこ "有効性" のある経営対策なんぞが施せたらどんなにいいだろう、とため息混じりに考えてしまう。おそらく、全国各地の数多の経営者が大なり小なり胸につっかえさせている懸念であるに違いない......。

 今日はその "有効性" という視点にちょっとこだわってみようかと思う。
 すぐに思い浮かぶのは、 "有効性" のある経営対策なぞと涼しい顔をしている場合ではない、とにかく動き回るべきだ、犬も歩けば棒に当たる、というではないか、という反論ではないかと思う。それも一理あるだろう。理屈に傾きがちな者や机上の空論をこね回してばかりいる者に対してはまさに多少の "有効性" はあるはずだろう。
 よく言われてきた口調に、ちょいと気が利く若い世代の者たちや、情報化社会の中で耳年増(みみどしま)となりがちな現代人たちは、行動する前に、入手情報から推定した "有効性" にこだわり、先ず行動してみるという実践性に欠ける、という言い方があったかと思う。確かに、「論より証拠」とか「瓢箪から駒」ということわざもあったわけで、さらに言えば「当たって砕けろ」もあれば「ダメ元で動け」もあり、つべこべ言う前に行動を起こせ! という指摘に説得性のある時代はあったかとは思う。それは多分に偶発的に果実が掴めた時代の話だったのかもしれない。しかし、現代という時代環境は、この辺に関してはやや異なってきているかに思われる。

 他愛無い例を出そう。骨董品ブームが続いているようであるが、一昔前には、ちょいと足を伸ばし、地方に出掛けると鄙(ひな)びた地方の古びた民家や、壊れかけた土蔵に足を運ぶと、何がしかの掘り出し物があったと言われている。
 しかし、昨今ではこうした目の付け方で行動することの "有効性" が希薄となっているというのである。それは、『何でも鑑定団』というTV番組が全国放送されてからのことらしい。
 つまり、 "均質の情報が巷に行き渡るような時代環境" となると、「瓢箪から駒」というような偶発的な幸運に出会えることは極端に減ってしまうということなのである。「駒」の認知とそれへの群がり方は一気に広がってしまい、見過ごされた「駒」に巡り合うことは不可能ではないにしても、とてもペイするものではないのかもしれないわけだ。
 逆に言えば、行動優先、実践優先の方策に説得力があった時代というのは、生活環境の場の中に、さまざまな<バラツキや偏在性>が残されていたり、許容されていた時代なのではないかと考えざるを得ないのである。極論するならば、 "セレンディピティ" を典型とするように偶発的発見があるからこそ重視される行動や実践というものが、 "均質の情報が巷に行き渡るような時代環境" にあっては、あたかも封じ込められているかのように感じられるのである。 "均質の情報が巷に行き渡るような時代環境" では、全国津々浦々に、 "わかり切ったかのような空気" 、 "やらないでもわかり切ったかのような空気" がジワーッと充満するかのようではないかと思える。

  "とにかく動け" という掛け声が説得力を失い、 "有効性" という視点が、行動や実践を呪縛しているかに見えるのは、以上のような事情がありそうな気がするのである。 "均質の情報が巷に行き渡るような時代環境" となり、それらが大掛かりにインテグレイトされ尽くしてしまうと、様々な個々の行動や実践というものが、やる前から半ば透けて見えてしまうという状況だとも言えそうか。そんなことはないという議論それ自体が、 "有効性" を剥奪されているかのようにも見えてしまうのだ。
 ただこれではあまりにも "悲観主義的" でしかないわけだが、とりあえず、ベースとなっている時代環境の現実はそれほどにシビァな構造を持っていることだけは自覚しておきたいわけなのである。
 それで、その上で "有効性" のある(経営的)行動や実践にどう迫れるのかというリアルな課題に直面しなければならない。

 これが簡単に書き表せるならばうだうだと悩むことはないわけであり、とてもスタンバイOK状態ではない。
 ひとつ考える指針として挙げておきたいのは、上記のような "均質の情報が巷に行き渡るような時代環境" を大前提にして、それを "自身の土俵とする" 、つまり、自身の戦略の前提条件のごとく活用させてもらうこととか、あるいは逆に、この時代環境の "必然的盲点" 探しを積極的に進めることなどである。こうした指針は、現にこれに沿って成功に至っているケースがあると考えられる。
 いずれにしても、この時代環境での(経営的)行動や実践は、行動や実践に託されがちな偶発性に頼ることを極力排し、 "意図性" をかなりの程度濃縮して(力をためて)臨むスタイル以外にはあり得ないはずだ。こう言ってしまえば、何の変哲も新規性もない指針となってしまうが......。要するに、現在の(経営的)行動や実践というもの七、八割は、調査・研究・企画という思考過程に割り当てられるべきだと考えている...... (2008.02.02)

 常にそうだと言えばそうなのだが、書こうと意図していることを、的を射る矢のごとく小気味よく書き表すということができないでいる。
 実は。昨日も "まともなセンス" というキーワードで展開したかったことがあったのだが、どうもその "的" にあたる部分を書き損ねていた気配がありそうだと感じているのである。
 文章を綴るという行為は、隔靴掻痒(かっかそうよう)的なまどろっこしいところがあるもので、頭の内部で見え隠れしている微妙な何かを書こうとする場合には、それを的確に表現しし尽くすことはむしろまれなのではないかと思う。大抵は、その周囲でまごついている間に、文章化作業に伴う独自の流れに左右されてしまい、無縁ではないにせよ今ひとつ違うと感じざるを得ない結果に行き着いてしまいがちなのである。
  "文章化作業に伴う独自の流れ" というのは、より説明的になろうとしたり、言葉を選んだりすること、そしてそのために若干の時間を掛けたり、迂回したりをせざるを得ないということである。それはそれでいいのだが、こうした事情により、書こうと意図していること、大体それは自分の場合、頭の内部で見え隠れしている微妙な何かでしかない場合が多いのだが、それが時間経過や、他のことに注意を向けている間に、 "埋没" して行かないとも限らないのである。
 この推移は、ひょっとしたら他人の家を訪問するシチュエーションなぞと似たところがあったりするかもしれない。訪問の動機が一目瞭然の明瞭さがあれば別であるが、顔でも出してみるか、という程度の漠然としたものであった場合なぞ、挨拶をしてみたり、旧交を温めるべく他愛無い世間話をせざるを得なかったりして、いわば "必要経費" 的なクッションを挟んでいる間に、一体、自分は何を話しに来たのだかがますます不明瞭になってしまう、というような事情のことである。
 こうして書いていながら、またまた、横道に逸れていきそうな雰囲気を感じているのだから、何とも文章化作業というものは厄介なものだ。

 昨日、 "まともなセンス" というキーワードで注意を向けようとしたのもこの辺の事情と関係していた気配がある。
  "まともなセンス" という言葉を使ったのだが、ひょっとすれば "単刀直入な思い" と言った方がよかったかもしれない。もっと言えば、 "生活実感的な思い" とでも言うべきか......。あるいは、 "直感" でもいいのかもしれない。
 昨日は、 "腑に落ちない" という感触についても書いたはずだが、そもそも、この "腑に落ちる/落ちない" という "腑" というのが、この "直感" であったり、 "生活実感的な思い" であったり、 "単刀直入な思い" など、つまり "まともなセンス" のことではなかったかと感じている。こうしたものとしっくり馴染むところに、"腑に落ちる" という実感が立ち上がってくるのであろう。
 で、こうした "実感的なもの" をこそ大事にして、これに基づいて人は時代を生きるしかないと考えているのである。特に、膨大な情報が溢れ、新しさを看板とした事象が次から次へと勃発している現代にあっては、 "客観的とされる知識情報" を後生大事にすることも尊重はするものの、何よりも重視すべきは、自身の "まともな実感" 以外ではないだろうと決め込もうとしているのである。

  "客観的とされる知識情報" をあまり妄信すべきではなかろうと考えている。そもそも、 "客観的とされる" その "され方" に問題はないのかという点にも関心が向くし、 "客観性" 万能の風潮に乗り、その周辺に、 "偽装" さえまかり通らせている "不透明な" 人間わざが否定できない現状にあっては、 "客観性" なるものをもそこそこ "割り引いて" 向かい合っていいのではなかろうか。
 また、 "客観性" 万能の風潮のもとで、処理し切れないほど膨大になった情報に振り回されて、一向に "自分なりの考え" というものを立ち上がらせようとしない現状の風潮も大いに気になるのである。これは、 "思考停止" と同値ではないのかと訝しく思わざるを得ない。
 そして、その代わり、 "実感的なもの" を大いに再評価していいのではないかと思うとともに、これを "基点" とした思考法を練磨し、復権させるべきではなかろうかと思うのである。
 これは決して容易いことではなさそうだが、そういうことでもして行かないかぎり、この "時代環境の愚劣な風向き" は変わりようがないのではなかろうかと感じているのである...... (2008.02.01)

2021年4月

        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30  














関連サイトへのリンク


  • 電子書籍(eBooks)制作にフォーカスしたサイト
  • 明けない夜はないことを確信するサイト
  • Green(地球環境改善)にフォーカスしたサイト
  • ソフトウェア技術者やSEのための評価と育成、人事考課制度を考えるサイト
  • さまざまな業種・業態でご利用可能なモバイル活用の予約システム!
  • 創作小説『海念と保兵衛』のサイト
  • 創作小説『かもめたちの行方』のサイト
  • 当ブログ推奨の商品を展示したAmazon ストアー!
  • 当AdhocBlogブログの過去のエントリー
  • 株式会社アドホクラット当時のサイト

★売れ筋! No.1!
家庭用"放射線測定器"

日本通信 bモバイルWiFi ルータ+1 ヶ月定額SIM BM-U300W-1M
価格:¥ 20,208
国内配送料無料 Amazon





このアーカイブについて

このページには、2008年2月に書かれたブログ記事が新しい順に公開されています。

前のアーカイブは、
 2008年1月
です。

次のアーカイブは、
 2008年3月
です。

最近のコンテンツは、
 インデックスページ
で見られます。

過去に書かれたものは、
 アーカイブのページ
で見られます。

年月別アーカイブ