2008年5月アーカイブ

 忙しさにかまけてしばらく放置していると、PCを介して予約で録り貯めたTV番組があっという間にHDDを埋め尽くしてしまう。
 300GB~500GBの複数のHDDも、録り貯めた番組をDVDに焼き込むなりして消し込んでゆかないと、塵も積もれば何とやらで、やたらに量がかさんで手に負えない始末となってしまう。
 一頃、面白がってやっていた頃には、何でもかんでも録画予約するというバカげたことをやっていた。が、そんなことをしていたのでは、後処理が忙しくてかなわないと自覚するに及び、予約自体を "精選" するようになったものだ。しかし、それでも、トコロテンのように消し込む作業なりをして "押し出す" ことを怠ると、いつの間にかHDDは満杯状態となり、新規録画不可の状態となってしまうわけだ。

 おまけに、今ひとつ厄介なことが起きる。自分の場合、DVD焼きという作業もちょいと自己流の特殊な処理(地上デジタル番組の録画プロテクトに関する処理や、4.7GBディスクへの圧縮焼き込みなど......)をしているため、放置し続けるのが長期間にわたるとあろう事かその作業手順を忘れてしまいそうになってしまうのだ。歳のせいだけでなく、PCやエレクトロニクス関連のちょいと込み入った作業というものは、頻繁に行っているとどうということもないわけだが、長らく関与しないと、エーッと、これをやってから次に何をするんだったっけ......、というような戸惑いに直面するのだ。いろいろなハード、ソフトのツール類を組み合わせて処理を進めていると、頭の中にかなりムリのあるイメージ連関が作り出されるからなのかも知れない。

 以前、<現在のIT環境の諸々は、やはり "体感" 的に認識しなければならない ......>と題することを書いた。(c.f.2008.04.19)
 その理由めいたものは次のように了解していた。<現在のIT環境の諸々は、やはり "体感" 的に認識しなければならないようだ。まあ、そもそもPCというものが理屈や理論だけではアプローチし切れない存在であったことの延長だと思えばいいのだろう。理論的認識が不必要となったと言っているのではない。理論的認識の水準だけではない、感覚的要素、行動的要素が、システム空間で重い比重を占めるようになったために、多様な能力を駆使して、まさに "体感" 的に認識してゆかなければ事実全体を了解し切れないのかもしれない>と。
 この点には相変わらずこだわり続けている。IT環境以前の日常的な物理的空間、環境というのは、目に見えて実感的に納得できる因果関係があることによって、行動も記憶も相応に単純だったかと思える。別に難しい "知識や理論" の装備がなくとも、その場その場で事態の推移が掌握でき、また手軽に管理することもできたはずだ。
 しかし、IT環境というものは、幾重もの "知識や理論" の層によって "ブラックボックス" 化されているため、人間の動作としてのインプットと、IT機器、環境が吐き出す処理結果としてのアウトプットとの間を、従来の人間の感覚や想像力で橋渡しをすることが極めて難しくなっていそうである。この点は、たとえ "知識や理論" を相応に身につけたとしても、避けられない問題のように思えるし、そもそも、それが一般的なユーザに要求されるというのはかなり非現実的だとも思える。
 この辺の事情が、<多様な能力を駆使して、まさに "体感" 的に認識してゆかなければ事実全体を了解し切れないのかもしれない>と想定した理由だったのである。

 「習うより慣れろ」という表現はいかにもイージーな響きを伴う。が、しかし、無数の "ブラックボックス" パーツで打ち固められた現代の日常環境にあっては、「習うより慣れろ」の指針を避けることは不可能であるのかも知れない...... (2008.05.31)

 ホォーと思った新聞記事が目に入った。
 <「オバマ氏は健康、禁煙続行に努力」 健康診断リポート公表>( NIKKEI NET 2008.05.30 )である。今、自分もまた "禁煙ガム" を噛みながら感心しているのである。はや、苦節3ヶ月の "禁煙" を達成しつつある状況なのである。

 <......オバマ氏は大統領選出馬までは喫煙者で、それまでに何度も禁煙を試みたものの、失敗したと告白。出馬表明後は禁煙しており、今回のリポートでは禁煙ガムを使ったたばこ断ちは「成功」していると記した。......>( 同上 )

 もちろん "禁煙" だけでオバマ氏を賞賛するつもりはない。だが、さすが大統領候補に打って出る者は違うと思えた。その激しい選挙戦、しかも、足元にはヒラリー氏が執拗に "すがりつく" という、あまりある苛立ちの心境が十分に想像される状況で、果敢にも "禁煙" を続けているというのはまさに立派の一言である。

  "禁煙" を敢行する者にとっての "伏兵" は決して少なくない。どういうものか視界の片隅に滑り込んでくるうまそうに紫煙をくゆらせる者たちの光景、これまたどうして? と言いたくもなるようにどこからとなく漂ってくるタバコの甘美な香り......。見るもの嗅ぐもの、想像するものことごとくが誘惑の手先に変貌するのだからたまらない。
 しかし、もっとも手ごわい "伏兵" はと言えば、獅子身中の虫のごとく、自身の心自体が乱れ、 "苛立ち" が増幅されてしまうことであるに違いなかろう。確かに、食後のほっとしたひと時にも、タバコへの誘惑は立ち上がってはくる。が、これは往なそうと思えばそんなに難しいことではない。
 何が難しい誘惑かといって、何にせよ思い通りに事が進まないで、どこからやってくるのか "苛立ち" が、心と言わず、頭と言わず、あたかも "煙" で包み込むかのように襲って来た時、その時こそがアラームだと言うほかなかろう。

 それもそのはずであろう。長らく喫煙に馴染み、ニコチンに依存してきた者たちは、ほっとした時の "一服" よりも、当然、やり切れない "苛立ち" の心境時にこそライターをカチャカチャさせ、チェーン・スモーキングにのめってきたに違いないのだ。その条件反射行動を何十年も続けたならば、 "苛立ち" が生まれない世界へでも行かないかぎりは、条件反射の "業" から逃れられないかのようである。
 自分も、何度も "禁煙" に失敗し、いつぞやは、紫煙をくゆらせながらバカな思いにふけったことがあった。 "禁煙" 成就のためには、 "苛立ち" とは無縁の土地(?)に転地療養で赴くしかないか、あるいは意図的に無人島にでも漂着するしかないか......と。もちろんそんなことは、 "フーテンの寅次郎" が映画のイントロの夢場面で展開する絵空事でしかない。

 がしかし、やってできないことではなさそうである。わがままを自認する自分が、3ヶ月という "危険水域" を泳ぎ抜けようとしているから言うわけではないが、 "信念がどうのこうの" と大層に力むこともなさそうである。要するに、如何に自身の "身体の習性" を騙していくのか、という戦略、いや戦術的見地に立てばいいだけのことではないか。
 今のこのご時世は、人を騙すことが日常茶飯となっていそうである。それはまずかろう。しかし、みすみす "身体に毒、財布に害" とわかっている悪癖から自由となるためには、自身をとことん騙し切ることは推奨されてよかろう。その騙しの手先として加担してくれる "ワル" たちには事欠かない環境もある。 "禁煙" ガムもあれば、 "禁煙" パッチもある素晴らしい時代なのである...... (2008.05.30)

 「下手の考え休むに似たり」(よい知恵もないのにいくら考えても、時間がたつばかりで何の効果もない......)とはよく言ったもので、今日は、 "休むに似たり" のような空白の時間を過ごしてしまった観がある。
 この冴えない天候のせいもありそうだ(低気圧は良くない!)が、このところ睡眠状態が芳しくなく、昨夜も切れ切れの睡眠、それはまるで各駅停車に乗ったかのような感じでさえあった。これではただでさえぱっとしない脳活動のボルテージが上がるわけがなかろう。おまけに、バカバカしいことなのだが、昨夜食事中に、歯に被せた金属がポロリと取れてしまい、今朝は、急遽、歯医者に出向かざるを得ないというハプニングまで加わった。まさに、出鼻をくじかれたふうでもあった。

 やろうとしていること、やらなければならないことが片方には山積しているにもかかわらず、 "休むに似たり" のような "思考もどき" に入り込むと、我ながら惨めな気分にさえ陥ってしまう。それで、こんな愚痴めいたことから書き始めて、何かきっかけを得ようとしている按配なのである。
 こんなことならば、余計な "思考もどき" になんぞ入り込まずに、黙々と "力仕事" に身を任せ、ついでに頭の方も任せればよかったかと悔いたりしている。

 以前に読んだ養老孟司氏のある著書で、脳という器官は、生物(移動する生物)が必要に迫られて構成しはじめたものであるとともに、通常の神経系が持つことのなかったいわば "余裕" (?)を持つに至ったことで、観念や妄想をも生み出した......、というようなくだりがあったかと記憶している。
 はじめてその叙述に出くわした際には、養老孟司氏も随分と "シニカルな表現" をされるものだと、やや抵抗感を覚えたものであった。しかし、その後、この表現を記憶し続けているところをみると、自分自身でも半ば了解していたのかもしれない。
 自分なりに茶化した言い方をすれば、脳の一面には、 "二階に厄介" であわせて "十回" の身の居候(いそうろう)のような、どこか "余計な存在" という側面がないでもないのかもしれないと......。

 つまり、とかくわれわれは、脳とか脳の働きというと、永い生物史の過程で培われてきたものであるだけに、その存在を全面的に擁護してしまいそうである。脳や脳の働きには生物の生存を最適に導く "羅針盤" のようなものが埋め込まれていて、またムダなものもないはずだと信じてしまいそうである。
 確かに、そうした驚異的な構造が埋め込まれていそうだと痛感することもないではない。たとえば、睡眠における "レム睡眠" と "ノンレム睡眠" の分化や、また "夢" を発生させる機能、そして、さまざまな "脳内物質" が脳や心の機能をつかさどる仕組みなぞは、文句なく感動に値する出来栄えだと言うほかない。
 しかし、果たして脳とその働きは、全面的に擁護し尽くされてよいものなのか、と "シニカル" な疑問を持つこともあってよさそうだと思ったりするのである。
 こう書くと、いやいやそれは、個体性の問題であり君の場合がそうだということであって、一般的には全面的な擁護に値する存在であるはずだ、と言われそうでもある。

 そう言われればそうであって、要するに、自身の脳の "運用・管理" のあり方に掛かっているのかもしれない。ちなみに、昨今は、脳をどう管理するのかというようなハウトゥ本も数多く出版されているようだ。みんな、お金の "運用・管理" だけではなく、自身の脳の "運用・管理" のあり方に多々悩んでいるのかも知れない。
 まあ、それはそれとしても、今一歩踏み込んで、そもそもの脳の働きというものをシラーッと見つめてみることもアリなのかも知れない。つまり、脳という個別器官にすべてを任せっきりとしようとするのではなく、トータルな身体全体の働きを通して、それで脳の働きを見つめるということになりそうか...... (2008.05.29)

 さすが "コピーライター" の言葉は、単刀直入で、かつ、的を射る以外の無駄弾は打たないな、と改めて感じた。
 <選ばれないアイディアは、ないのと同じ>ときた。まさに仰せごもっともである。(山本 高史著『 案本 「ユニーク」な「アイディア」の「提案」のための「脳内経験」』,インプレスジャパン,2008/3/28 )
 今や、 "あのクリエイティブディレクター" は......、と注目されるように頭角を現した著者は、自身の職業的スタート時の拙い体験を踏まえつつ、自画自賛と自己満足に過ぎなかった<ユニークな提案>が、とにかく<選ばれない>という憂き目に行き当たり続けた経緯を縷々振り返ることから叙述を始めている。

  "選ばれること" の恍惚と不安、我にありではなく、 "選ばれること" がどんなに "難問" であるかを、日ごと人々が痛感し尽くしているのが、この現代という時代状況の大きな特徴のひとつではなかろうか。
 決して、この "難問" を重く感じとっているのは "コピーライター" ばかりではなさそうだ。広告業界関係者だけでもなく、モノが売れない時代の生産者やベンダーだけでもなく、 "選別の嵐" とでも表現される日常に身を置く "普通の人々" も、また確実に巻き込まれているはずであろう。それが、 "高度過剰情報化" 時代の宿命なのかもしれない。
 若年世代は早くからこの "基本ルール" に敏感となり、 "選ばれること" を目指してのことであろう、 "とにかく目立つ" という点に行動を収斂させてきたかのようである。選ばれるために、とにかく目立ちたい、と。
 そして、今や、かつては "人知れず" 世間の片隅で......、を標榜し "時代遅れの男になりたい" なんぞとさえ見栄を張っていたいい大人たちまでもが、 "選ばれること" の「得」と "選ばれないこと" の「損」とを "人知れず"痛感しはじめていそうである。

 言うまでもなく、この時代現象の足元には、 "市場原理主義" 経済が爛熟し、これと手を携えて驀進する "高度過剰情報化" 社会がヒートする現実があり、さらに今ひとつ、 "インターネット検索" という技術環境の急速な普及が加わっているのだと推測される。
 象徴的な事実を言うならば、今日、消費者によって商品なりサービスなりが "選ばれること" のためには、先ずは "ネット検索" によって上位3位程度のランキングに "選ばれること" が必須だとされているわけだ。それほどに、消費者の "ネット検索" 行動は普及し、その傾向はますます深まると予想されている。
 冒頭の、<選ばれないアイディアは、ないのと同じ>の前段には、シニカルに言えば "ネット検索" によって<上位3位程度に選ばれない商品は、ないのと同じ>という冷酷な現実が、じわじわと立ち上がりつつあるような気配ではなかろうか。
 だからこそ、 "SEO( "Search Engine Optimization" 、サーチエンジン最適化)" というネット技術への熱い視線が向けられているのかもしれない。確かに、システマティックな "SEO" 対策は、自社サイトの検索ヒット度合いを高め、かつ露出度(アクセス数)を高めることにも繋がるようではある。

 しかし、もちろんこの "SEO" 対策といういわば "機械的な" 情報技術レベルの対応・対策だけで、最終的な "選ばれること" が成就される、と短絡的に考えていいほど市場は甘くなさそうでもある。
 当然のこと、自社製品の実質が、消費者から "選ばれること" にふさわしい品質に到達していなければ話にもならないだろう。
 また、そればかりではなく、 "SEO" 対策それ自体においても、統計的視点を含んだとしても "機械的な" 情報技術レベルの小手先だけでは、今ひとつ思ったように奏功しないという厳しい現実もありそうだ。
 そこにこそ、極めて "ヒューマンな技(わざ)" である "コピーライター" などの活躍の空間がしっかりとありそうに思えるのだ。<経験>、しかも<脳内経験>という人間技(わざ)は、現時点のような技術環境であっても決して "時代遅れ" なんぞであるわけがないのだ...... (2008.05.28)

 先週、脳科学者の茂木健一郎氏が<「総合」苦手な日本の知識人>(茂木健一郎 クオリア日記 2008/05/23「総合」苦手な日本の知識人および、 "「総合」苦手な日本の知識人" 『日本経済新聞』2008年5月21日 夕刊)を、ご自身のブログで紹介されていたのに対して、自分は "トラックバック" をさせていただいた。
 同ブログでは、ご自身がチェックされた上でトラックバックを公開するかどうかを決めるという賢明な方針を採られていたから外されても仕方はなかろうと考えていた。が、一応、紹介していただくこととなった。
 それはともかく、<「総合」苦手な日本の知識人>という批判的視点は、自分もかねてより強い関心を寄せていただけに、 "わが意を得たり" とばかりに "トラックバック" に及んだのであった。

 自分自身も、何十年も以前の研究生活(大学院)時代には、学者・研究者たちのいわゆる "蛸壺" 状況を骨の髄まで痛く感じていただけに、他人事ではなかったわけである。
 とともに、現代日本のまるで袋小路に入り込んだような "閉塞的" 問題状況を鳥瞰し、つたなくも考察しようとする時、まったく同じ問題構造に気づかざるを得ない。
 アカデミズムの "蛸壺" は、潜ってみるならばその出口は、アニメ映画『イエロー・サブマリン』(ビートルズ)の一場面ではないが、あるいはドラえもんの "どこでもドア" でもあるまいし、通り抜けてみると現代の諸悪の根源とも言えそうな "縦割り官僚機構" の "蛸壺" へすんなりと直結しているかのようではないか。
 そして、この "縦割り官僚機構" の "蛸壺" こそが、社会現象の "不透明化" をもたらすとともに、問題解決型の組織体制をなし崩しにし、事態を混迷させている張本人ということにはならないだろうか。
 要するに、<「総合」(が)苦手>で、 "蛸壺" 好みとなってしまうのは、この国、この社会にあってはとてつもなく "根深い習性" だと思えるのである。

 ところで、この "蛸壺" 状況の "罪悪" や "被害" というネガティブな面に目を向けると、いろいろと懸念すべき点が列挙できる。が、象徴的な表現をするならば、 "悪貨は良貨を駆逐する" ということに尽きそうではないか。
 つまり、アカデミズムのジャンルでも、行政の領域でも、 "専門性" という "ぱっと見" 説得性のありそうな立論がわが物顔で闊歩するということなのである。これを否定したり軽視したりするつもりはないのだが、とかく、 "専門性" という通りのいい名を響かせながら、まるで "虎の威を借る狐" のごとく横柄に振舞う者たちも少なくなさそうだからである。そして、現実的な問題解決が往々にして必須とするはずの "総合" 的視点を棚上げにしつつ、そればかりか、そうした視点に挑もうとする者たちを揶揄したり、蹴散らしたりする低次元のことまでしているのではなかろうか。
 だから "悪貨は良貨を駆逐する" と言ったまでだが、もっと性質(たち)が悪いのは、 "専門性" を裏付けるとする情報を、とかく積極的に公開しようとしないで、隠匿に至ることもあり得るという点であろう。
  "縦割り官僚機構" の下で、もし情報公開が機能不全に陥るならば、まさに社会全体領域での最適選択が頓挫することは明白だ。 "部分最適" は "全体最適" に至るとは限らず、というシステムの鉄則が想起されるべきなのである。

 で、最近、ちょいと気になるのは、度し難いのはプロフェッショナルの "蛸壺" 族たちだけではなく、巷のオピニオンたちまでが、まるで "蛸壺" 族たちの配下であるようなみっともない発言や振る舞いを平気でなさっていることなのである。
 もっと "庶民感情" に立脚して自身の生の感覚を発露させたり、庶民ならではの立論で迫ればいいじゃないか、と思う。地球温暖化問題じゃないが、事態の悪化は想像以上の速度で驀進していそうである。色とりどりに添えられたもっともらしい数字で足元を取られてもならないし、特殊なインタレストが塗り込められた客観的論調に惑わされてもなるまい。
  "庶民感情" に真理が宿っているとまで言い切る自信はないにせよ、 "蛸壺" の中で思考停止状態に固まった方々の感性よりかは、はるかにまともな将来を見通す足場となるのではなかろうか...... (2008.05.27)

  "後期高齢者" という役人用語には、役人たちの "発想の貧困さ" が嫌というほど染みついている。高齢者も "後期" と呼ばれる段階に踏み込めば、医療費を無為に取り崩すだけの "穀潰し(ごくつぶし)" だと決めつける、そんな "底意地の悪い判断" が見え隠れしている。
 もし、 "後期" という段階を問題視するならば、官僚人生の "後期" をこそ白日の下に曝さねばなるまい。言うまでもなく、度重なる "天下り" によって、巨額の退職金を掠め取り、その結果、公の財政を蝕んでいる度し難い現実である。
 こうした臭気芬々たる闇の現実を温存しつつ、財政難だから応分の負担を、とぬけぬけと立論するところが、 "発想の貧困さ" であり "底意地の悪い判断" だと言わざるを得ないわけだ。

 それにしても、冒険家、プロスキーヤーの三浦雄一郎さん(75)は、絶好のタイミングで、 "後期高齢者" というアホな用語とイメージを粉砕してくれたものである。
 この間の、官僚たちの言いたい放題、やりたい放題によって打ち沈むことになっていたかも知れぬ全国のお年寄りたちも、きっと何がしかの溜飲を下げたのではなかろうか。
 三浦雄一郎さんは、その意味では、 "8848メートル" の天空からお年寄りたちに希望と勇気とを降り注いだということになるのかも知れない。
 もちろん計量は不可能だが、この事実によって、お年寄りたちのメンタルな部分が活性化され、健康状態に幾分かの改善が見られたとするならば、あるいは、その効果の今後への継続をも読み込むならば、医療費逼迫に対して小さくない支援がなされたとも言えるのではなかろうか。

 本来、お年寄りたちにこのような精神的、文化的支援を積極的に行うこと、つまり予防的健康法の実施によって医療費支出の圧縮を目指すことだって、官僚・役人たちは必死で行えばいいではないか。聞くところでは、逆に健康診断料の負担まで新たに追加しようというのだから、話になるまい。
 要するに、持続的な観点での知的な方策作りが乏しく、ただただ無策の現状を延長するだけの "数字合わせ" をしようとしているに過ぎない、と見える。そんなことならば、彼らが常々見下している民間の、どんな人材にだって肩代わりができそうではないか。
 いやはや、 "鈴も付けられていない猫たち" の鼻っ面から大事な鰹節を取り上げなければ、いや、それが無理ならば、 "鈴" なり "発信装置" なり、彼らの "ガンバリぶり" が手に取るようにわかる、そんな仕組みを一刻も早く作るべきではなかろうか...... (2008.05.26)

 自宅近辺の町田街道沿いは、食べ物屋に事欠かないというおかしな特徴、ありがたい特徴がある。だから、仮に、ふいに、遠方から、いや別に遠方からでなくともいいのだが、友なり知人なりが訪れた際にうろたえることはなさそうである。その訪問客の顔と、近辺の食べ物店のラインナップとをうまくマッチングさせれば、まずまず途方に暮れることはなさそうだと、高を括っているのである。おまけに、つい最近では、デパート筋でも有名だとされてきたとある老舗格の和菓子屋さんが、つい目と鼻の先にに開店したりもした。お客さんへのもてなしに自信が持てなかった時には、そこでお土産を調達してお持ち帰り願うという奥の手まで準備してもらったことになるわけだ。

 食べ物店ラインナップの中の店は、何もおもてなし向きの店ばかりではなく、ちょいとランチや夕飯用として足を向ける店も多々ある。今晩、家内と二人で向かってみたのもそうした店、 "食堂" である。
 その "食堂" には、先日、ひとりで訪れたことがあった。その名も "〇△食堂" という、昭和30年代ねらいのネーミングであったため気になったのである。
 どういう "食堂" なのかと言うと、まさに昔、駅前通り商店街などによくあった、カウンターに並べられたおかずの皿を自分で好き勝手に選んで組み合わせて、そして自分のテーブルへ運んで食べるというセルフサービスふうの食堂なのである。
 自身で食べ物を運搬するという "自治権"(?) が保障された上に、おかずの種類の "選択および組み合わせの権利" までが保障されたそんな食堂なのである。と言っても "バイキング" システムではなく、選んだおかず類の皿はとある通過ポイントで "精算" することになる。
 昭和30年代の "〇△食堂" では、客の発する「お勘定!」という言葉でやってくる店の者が、「ありがとうございます。そうしますと、焼き魚と肉じゃがとお新香......、ということで280円になります」と事後処理対応を行っていたところを、前払い方式で行うのが時の流れの違いなのであろう。

 ところで "自治権" (セルフサービス)が保障された食堂というのは、しばしばお目にかかる。企業や大学などの食堂は、大体そんなところであり、 "食券" を購入することによって "自治権" というセルフサービス義務の受け渡しが行われるのが普通であろう。
 そう言えば、大学院生活で名古屋に住んだ頃、大学の学食をことのほか愛用したことがあった。お値打ち価格ということもあったが、大学構内からさほど遠くないところに住んでいたこともあり、時々、家内、幼い子どもとの三人で大学の食堂で夕食まで済ますことがあったのを思い出す。それは、実に合理的な発想だったとの自覚こそあれ、奇妙なことだとはついぞ思ったことはなかった。家内は家内で夕食の手が省けるし、子どもは子どもで、ちょいと目新しい雰囲気を楽しんでいたようでもあった。今思えば、なつかしい思い出ということになる。

 で、今晩は、平成の "〇△食堂" にて、そんななつかしい思い出を再現したかのような夕食をしてきたのだった。自分も家内も、海老茶色の塗りのあるトレー(盆)に思い思いのおかずの皿を載せ、最後に、「ごはんの盛り加減はいかがします? 味噌汁にしますか、トン汁にしますか?」と聞かれるチェックポイントにたどり着くのである。
 テーブルで食べ始めた時、自分が「名古屋では夕飯まで学食に食べに行ったりしたよね」とつぶやくと、家内は、笑って頷いていた。
 それにしても、この "食堂" の雰囲気は心和むようで悪くないなぁ......、と感じていた。遠くに見える厨房内では、白衣で身をかためた元気の良さそうな中年のご婦人たちが、てきぱきと動き回っていた...... (2008.05.25)

 考えてみると、今月に入り、まともに休日をとっていなかったようだ。それで今日は、それが "まともな休日" になるのかどうかはともかく、とりあえず頭の中の継続中の事柄をすべて "強制休止" とすることにした。ようするに、ボケーッとして過ごした。
 身体の方は、幸い、ダルさで参るとかどうこうということはいっさいない。このところ多少、良質な睡眠がとれていないことで、幾分かの疲労感がないではない。しかし、問題は、 "脳や気分の疲れ" だということになりそうである。このまま、 "ON" の状態を続けていると、継続そのものは不可能ではないとしても、気分の磨耗、疲弊がすすみ、それに伴う脳活動の低迷が避けられなくなりそうかと、やや懸念したのだった。

 自分は、どちらかと言うと "休息=リフレッシュ" が下手だと思っている。それが上手であれば、もっと生産的で、創造的なことをしてこれたのではないかと悔やむことさえある。
 要するに、 "休息=リフレッシュ" の意義をきちんと理解してこなかったのかもしれない。とりわけ、メンタルな面でのその意義については結構乱暴に考えてきたのかもしれない。フィジカルな面での意義とて、バタンと倒れる寸前になって、疲労回復、疲労回復と泥縄的にバタバタする愚かしさだったかもしれない。
 フィジカルな面での対応がそんなものだから、メンタルな面での "休息=リフレッシュ" なぞは、 "付録的な位置づけ" でしか考えられず、どちらかと言えば "贅沢品" の範疇だと見なしてきたのかも知れない。
 しかし、実際、メンタルな面を司る脳の働きにとっては、 "休息=リフレッシュ" こそはそのパワーの一方での原動力だとされるほどに重要なものであるらしい。

 この日誌にも、もう何度も書いてきたようだが、脳の働きというものは、当人が自覚する範囲内だけに限られるものではなさそうである。いや、脳内の観念群のより重要な "管理、整理" という働きなぞは、むしろ当人の自覚範囲の外、あるいは水面下でなされるようでさえある。
 ヘンな例えをすれば、ウイスキーなどが人知れない樽の中で熟成するように、脳内の諸々の観念は、当人の自覚的思考が休止する睡眠時や、そして "休息=リフレッシュ" 時にこそ、自由奔放に "交際" し、そして "徒党を組む" ものであるのかも知れない。
 それこそ、頭の中にしばらく "寝かせ続ける" 経緯を設定すると、夢の中でヒントを得たとか、何気ない無関係な行動の最中で閃いたというような経験をしたことは誰もがしているはずだ。

 ということで、 "休息=リフレッシュ" というのは、単に電源をOFFにしてクーリングを行うだけのことではなさそうなのである。脳内に、カルチェラタンかどうかは別にしてちょっとした "解放区" (何なら "特別区" と言っても良いし、古風にも "出島"、"楽市楽座" と言っても可)を作り出す結果となり、生産的、創造的働きが推進される場合がある(無いこともある)ということになる。
 そして、 "レジャー、遊び" という行動などが、こうした性格の "休息=リフレッシュ" の延長線上にあることは容易に了解されよう。さらに、 "芸術鑑賞" なども同じ線上にあるはずだろう。(だから鑑賞中に眠る人もいる?)
 とにかく、ストレス症候群的症状にある現代人にとっては、これらは決して "付録的な位置づけ" の "贅沢品" なんかではなく、持続させなければならない日常生活の貴重な "必需品" となっているに違いない。
 そして、われわれのストレスの強度が増すにつれて、 "休息=リフレッシュ" として期待されるものは、 "芸術鑑賞" のようなより濃度が濃いもの、相応の運動量が伴うスポーツ、そしてさながらストレス症候群患者の "転地療養" パックの観さえある海外旅行などへと人気が移動していくのであろうか。まあ、人それぞれだから何とも言えないか...... (2008.05.24)

 昨日のニュースで、 "サイクロン" の被災で生き残ったミャンマーのある村の小さな子どもたちが、肩まで水に浸かりながら食性の野草を採っている光景、そしてそれらだけの食卓を囲みながら黙々と食事をする光景が報道された。その中の小さな男の子の表情には、悲運に嘆き悲しむものはなく、生きようとする人間本来の率直さが見てとれた。それを観ていて思わず目元が熱くなった。
 たとえ、食卓とは言えないような貧弱な食べ物でしかなくとも、遺された者同士でそれらを囲む人間としての「文化」とでもいうものが、生きる姿勢をしっかりと支えているように見えたのだった。
 同じニュースでは、四川大地震で被災した子どもたちの姿も報じられた。肉親たちを亡くしながらも、運良く生き残った者たち同士で助け合っている光景である。
 遥か遠方の国々での出来事であっても、ハイビジョン映像のような現代のハイエンドなメディア技術は、その出来事の悲惨さはもとよりそこでサバイバルしようとする者たちの張り詰めた表情までを "リアル" に伝え尽くす。
 確かに、こうした自然災害だけではなく、地球上で頻発している悲惨な出来事を "リアル" に受けとめてゆくことはこの上なく辛いことでもある。空間的な距離にかこつけて、それらの事実性を黙殺してしまおうとする "衝動" も生まれなくはない。
 いやむしろ、自分も含めて、こうした "衝動" を野放しにしつつ、自身がよって立つ世界の "同時代性" の側面から眼を逸らそうとしているのが、残念ながら一般的現実なのかもしれないと思えた。

 グローバリズムという言葉を口にしながらも、それはエコノミック・アニマルにとっての経済環境の土俵に関しての了見の狭い話でしかなさそうである。このグローバル(地球)や、人類がまさに "同時代的" に迎えている悲惨な出来事をも含む "グローバル時代" の「総合」的視野、視界が、何と貧弱なことかと気づかされる。もちろん他人事ではなく、自分を含む現代の日本人の多くに当てはまってしまう大きなエラーであるに違いない。
 また、そんな「総合」的視野、視界をもって "同時代" を認識することなぞ難解過ぎて不可能だという言訳めいた悲観論も頭をもたげる。しかし、憂うべきは、それ以前にありそうだ。同情・共感や "想像力" といった人間の基本能(脳)力などが "致命的な摩滅" に瀕している恐れが大きいのかもしれないからだ。少なくとも、ハイビジョン映像が届けるリアリティに意味を付与するだけの受け手側の "想像力" が、無残に抜け落ちつつあるのが気になるわけである。

 自分は、常々、脳科学者・茂木健一郎氏の卓抜な視点に魅了されてきたが、同氏の卓抜さの根底に輝くものは、 "分析" 科学の限界に挑むことを辞さない果敢さではないかと合点してきた。他のジャンルではいざ知らず、こと "脳" の神秘に肉迫するためには、まさにその視点が必須だとの素人考えをしてきたのである。
 今日、拝読させていただいた<「総合」苦手な日本の知識人>(茂木健一郎 クオリア日記 2008/05/23「総合」苦手な日本の知識人および、 "「総合」苦手な日本の知識人" 『日本経済新聞』2008年5月21日 夕刊)は、同氏が抱える問題意識のほんの一部でしかないとは思えたが、それでも、核心的な問題指摘だと痛感させられたものである。
 常々感じ続けてきたことではあるが、われわれ日本人にとっての不幸のひとつは、この国この社会を知的にリードするはずの「知識人」たちが、まさに狭い了見でうつつを抜かしてその役割を放棄し、そればかりか、マスメディアを "占有" して人々の自由な "想像力" の足を引く傾向さえ持っていそうな点である。

<......「総合的な視点」に乏しい。それは科学界で日本人がレビュー(解説)を書くのが下手と言われることと通じる。ある研究成果が、例えば脳科学という分野で、さらには人間の知の営み全体の中でどのような位置にあるのかを議論するのが苦手ということだ。>
<世界的に評価されうる知や文化が日本にないわけではない。かつてフランスの哲学者ベルグソンがノーベル文学賞を受賞した。その水準で考えると、文芸評論家、小林秀雄の著作は早く英訳されていればノーベル賞をもらっておかしくなかった。本丸にかかわる部分で理解されるべき日本の良さはある。ぬるま湯を脱して世界の舞台に立つことから始める必要がある。>(同上より引用)

 確か、小林秀雄もまた、当時の近代科学や、文壇を<ぬるま湯>に浸った無様さだと批判していたはずであった。彼はまた、民俗学の創始者、柳田国男がその著作で触れた<木こりとその子供たちの悲惨な運命>を紹介しつつ、<きっと子供たちの魂はどこかにいますよ。ぼくがそういう話に感動すれば、きっとどこかにいるな。(「信ずることと考えること」)>(茂木健一郎著『脳と仮想』より)と、 "想像力" (仮想)の持つ意義を確信していたようである。
 茂木健一郎氏は、この小林秀雄を高く評価されているが、人間の "脳" の働きというものが、 "想像力" (仮想)とは不可分であることを凝視してのことかと推察している。
 いずれにしても、現代という時代環境は、時代の技術的成果によって、リアリティが超然として聳え立つこととなったが、その受け皿の重要な側面であるべき "想像力" を事もあろうに駆逐する気配さえ見せている。その結果、 "総合的な視界" (「総合的な視点」)の基盤がますます頼りないものとなっているのかもしれない...... (2008.05.23)

  "ミスリード ( mislead )" という言葉が気になる。
 現在の時代状況の "えげつなさ" を言い当てているようだから気になるのである。ちなみに、『広辞苑』ではその意味を次のように説いている。
 < ① 誤った方向に導くこと。誤解させること。 ② 新聞・雑誌などで、見出しが記事内容と違うこと。>
 これら二つの意味は、もちろん区別されてよい。前者は "指導・先導" の "リード ( lead )" から来ており、後者は "新聞記事などの前文" という意味の "リード ( lead )" から来ているからだ。
 しかし、何かとストレスの多いこのご時世にあっては、両者が "両輪" となり、あるいは "一体" となって庶民を愚弄しているかのような感触を抱くのである。

 前者の意味での "ミスリード ( mislead )" に関して眼を向けざるを得ないのは、大前研一氏が先鞭をつけ指摘し続けているところの<「官製不況」>という言葉ではないかと思う。
 元来、市場原理主義、グローバリズムの経済ではあっても、いやそれだからこそと言うべきかもしれないが、 "官" (役所・官僚・政治家)の果たすべき役割は小さくはなかろう。市場における "民" の動向を、マクロなレベルで適切に "リード ( lead )" してこそ市場が持つ潜在的な健全さも発揮されるというものであろう。

 確かに、この間<ライブドアショックのような企業の不祥事、産地偽装、耐震耐火偽装、年金不祥事、二極化、格差、ワーキングプア‥‥。>(大前研一「産業突然死」の時代の人生論 第129回「日本を襲う官製不況(1)」nikkeibp.co.jp 以下引用箇所は同じ)など、看過できない社会問題が頻発した。
 その結果、世間にはこれらを是正してくれる "ホワイトナイト(白馬の騎士)" のような存在を期待する空気が醸成されたかもしれぬ。 "官" による対策についても何らかの期待が寄せられたかもしれない。ただ、そうだとしても "民" が望んだのは、 "副作用" ばかりが表面化するような取って付けたような "官" による "規制" ではなかったはずである。
 時があたかも危うい景気状況であるだけに、 "副作用" というよりも、 "産湯を捨てて赤子を流す" かのような愚に至りかねない、そんなリスクへの警戒心が当然あっただろう。ここでこそ、額面どおりの適切な "リード ( lead )" こそが、 "官" に望まれたわけである。

 ところが、大前研一氏が鋭く指摘するごとく、 "官" は、恙無く "ミスリード ( mislead )" へと驀進してしまった観が否めない。
 <不祥事を誘発する真の要因 ・官の肥大、怠慢 ・政官財の癒着、・官の肥大を許すマスコミ、国民>には眼をつぶり、<表向きの対策 ・消費者保護、・投資家保護、・労働者保護等 弱者保護を名目に規制強化へ>と "ミスリード ( mislead )" したのだと見えてならない。
 その結果、<経済的な視点から見れば、高コスト化、需要減退、認可遅れ(=機会の損失)、中小企業倒産――などにつながる>危うい経済情勢、つまり「官製不況」を着々と仕上げつつあるのではなかろうか。
 <消費者保護とコンプランアンス重視をを打ち出した一連の法改定は、業界不況をもたらし、特に貸金業法の改定は中小零細企業の資金繰りを悪化させ倒産を加速させる結果となった>との叙述とともに、近年ますます増大する倒産件数の棒グラフを目にするならば、やはり "官" による一連の規制強化策は "ミスリード ( mislead )" 以外ではななかったと思えてならない。

 しかし、何故こうした展開が安直に(?)進んだのであろうか?
 ここで、 "ミスリード ( mislead )" の後者②の意味を思い起こすのである。大前氏も、前述のとおり<・官の肥大を許すマスコミ、国民>と指摘しているが、マス・メディアによる社会問題に関する報道のあり方が、 "官" による政策選択に大きく影響を与える点を見過ごしてはならないだろう。
 <新聞・雑誌などで、見出しが記事内容と違うこと。>という露骨な "ミスリード ( mislead )" は稀だとはしても、トータルな社会的現実と、報道される記事の "リード" 文の内容やニュアンスが、微妙に "ミス" っていることは決して少なくないと思うのである...... (2008.05.22)

 ふと振り返ってみると、 "還暦" の言葉を耳にしてから、急にいろいろと忙しくなった気がしている。 "還暦" というものが、人生 "双六" のそれなりの "上がり" だなぞとは到底思えない。
 まあ、世の中には、そうした環境の方もいらっしゃるのかもしれない。羨ましいかと言えば、そう言えなくもなかろう。ただ、痩せ我慢でもなんでもなく、否応なくフル回転せざるを得ない現状は決して悪くはないと感じている。そうした現状が、安逸をむさぼればきっと老化の速度を速めるに違いない "傾斜角度" を、有難くもなだらかにしてくれているような感触を抱くからである。

 こんなことを考える時、念頭に置いているのは、いうまでもなく "脳" の働きの "したたかさ" についてである。多分、 "脳" の働きというものは、自身の置かれた環境状況に対して驚くほどに敏感かつ正直なのだろうという気がしている。他人を騙すことができたとしても、自身の "脳" の働きについては、意外と偽れないのかも知れないと感じたりしている。
 確かに、 "脳" は不自然なプレッシャーを受ける状況では、十分な働きを損ねる可能性がありそうだ。しかし、逆に、言ってみれば自身の心のどこかに(これもまた脳内の働き以外ではないが) "余裕" めいたものを居座らせているならば、きっとそれをいち早く察知するのが、 "脳" であり、その結果、ベストを尽くす必要はない、と了解するのではなかろうか。

 大体、生物の身体というものは、自己保身に優れていて、そのためにエネルギー保全(?)という基本対策の維持を遵守しているものと思われる。しかも、生物の身体の中で極度に発展した結果の "脳" の場合は、もちろんこの傾向もさらに強いはずに違いない。
 裏返した表現をするならば、 "脳" は思考において大きく深いパワーを発揮するとともに、ヒマさえあれば手抜きをして "余力" を残そうとする才能も優れているようだ。
 これをどう了解するか、ということなのである。 "余力" を残すといえば聞こえはいい。しかし、 "余力" とは、何か本命の遂行課題があってこそ意味を持つはずだ。いつか、そうしたものが出現するだろう、そうしたものに遭遇するだろう、と安請け合いしているうちに、多くの人がその機会を逸したり、あるいは "脳" のマイナス面でのしたたかさに引き摺られて、むざむざボルテージを下げ続けるのかもしれない。
 簡単に言えば、大多数の人間は、この "余力" の名のもとに、 "脳" に対して驚くほどの "過保護" となり、挙句の果てに、使用期限や可能性を残したままに、 "棺桶" や "墓場" へと持ち込んでいるのかもしれない。

 自身の "脳" を管理したり鍛えたりするのもまた自身の "脳" だという悩ましい関係を背負い込んでいるのが、人間というものなのだろう。
 時として、時代環境や身辺の環境は、本人が望むこととは裏腹な状況を人それぞれに与えるものだ。そんな時、いろいろと感想を持つことになるが、できれば、ここが自身の "脳" の働きを飛躍させる好機だと粋がってみるのもいいのかもしれない。少なくとも、あたらたっぷりと可能性を残したまま消滅させるのは、如何にも惜しい...... (2008.05.21)

 昨日の "ブログ" サイトのメンテナンスにおける "わけのわからない" 不具合( "Movable Type 4.1" での、「再構築」という更新機能のエラー)は、どうにか自分なりに解消させた。
 結局、サーバ処理能力に大きく依存するブログシステムというものは、データ量(エントリー数)が膨らむと、どうしてもシステム更新処理などにおいて負荷が大きくなり、ギクシャクしがちであるようだ。
 しかも、コスト安の "レンタル・サーバ" という環境では、どうしても "共同住宅" のような窮屈さが発生してしまい、こんな不具合も不可避のようである。となれば、その環境に見合った利用の仕方をするしかない。そんなことで、サーバへの負荷軽減となりそうな方策を自主規制的にとることとしたわけである。

 とかく自分は、一般的なアプリケーション・ソフトを活用する場合でも、 "気に入る" と "度を越した使い方" をして、いわゆる "ヘビー・ユーザ" となってしまう。その結果当然のごとく何らかの不具合に遭遇し、ベンダー側に問合せをすることとなる。
 そうすると、大抵は、 "そこまで負荷を掛けるお客様は少ないわけでして......。さし当たって次のような対策を講じられてはどうでしょうか......" というような回答をいただいたりする。
 もう大分前のことになるが、簡易型のデータベース・システムを、これまたかなり "ヘビー" な使い方をして不具合っぽい状態となり、ベンダに問い合わせたところ、 "そうした向きでの使い方をされているお客様ははじめてでして......" とたしなめられたこともあった。

 ソフトも含めて、いわゆるツール類というものは、その適用におのずから "範囲" とでもいうものがありそうだ。最も効果が上がる、得意な対象があったり、活用上において、前提となる環境条件があったり、さらには、不得意どころか適用するならば "危険" だというような場合だってあるに違いない。
 で、大人しいユーザであれば、これらのツール類を、極々一般的な範囲、範疇で使い、ことさら特殊な不具合に遭遇することがないのかもしれない。
 ところが、自分なぞはその部類に属するのであろうが、中には、自己流であれこれと使い勝手を拡大解釈してまでツール類を使い込もうとする者もいないではない。いや、昨今は、 "こうした輩" が増えつつあるのかもしれない。道具を使うのは自分なのだと意気込む輩や、それどころか、道具本来の状態を "改造" してまで突き進む者もいそうではないか。

 もちろん、 "こうした輩" たちがメーカやベンダの "サポート" を享受できないのは当然のことであろう。それこそ、 "自己責任" を前提にしつつ、勝手にお励みください! との話となるはずに違いなかろう。
 どちらかと言えば自分なぞは、万事が "こうした輩" ふうであり続けてきたようだ。メーカやベンダの "サポート" を信用しようとしないと言い切るわけではないにせよ、実際的には、 "自前で対処" せざるを得ないことが多いはずだ、と暗黙のうちに了解してきたように思える。
 現に、残念ながら、これまで "サポート" と称するものを心底有り難いと思った経験も少ないし、昨今ではその傾向が年を追うごとに強まってきているとの実感もある。
 要は、何であれツール類を使う際には、先ずは自身が使いこなせるのかどうかに強い関心を向けるべきなのであろう...... (2008.05.20)

 立ち上げ中で腐心している "ブログ" サイトのメンテナンスで、朝から、 "わけのわからない" 不具合に遭遇してしまった。
 もっとも、当該システムへの精通度が芳しくない状況であるため、 "わけのわからない" ことが発生したとしても止むを得ないと言うべきなのかもしれない。
 しかし、妙な思い入れをして立ち向かっているためか、甚だ機嫌の良くない心境にはまり込んでいる。とりあえず、関係サイトに問合せメールを出すことにした。
 まあ、付き合い始めたばかりの友人が、こちらの過剰な期待に沿わなからといって腹を立てているようなものであり、そう性急にならずもっと相手のことを良く知るために時間を設けて学習をすべきなのであろう。

 新しい(システム)環境などに立ち向かう時、当然、首をかしげることにいろいろと遭遇する。大体は、先へ進むにつれて自ずから判明することが多いものだ。だから、疑問に思うことひとつひとつに目くじらを立てずに、往なしながら進んで行くことも必要だと合点している。枝葉末節に拘って進捗を滞らせることが、結局、当初の意気込みを台無しにすることにもなりかねないからだ。
 ただ、その辺の按配というものは微妙であり、ほとんど勘で判断するしかない。想定どおり、わずか先に進んだところで、何だ、そういうことだったのかと了解できることもあれば、疑問が疑問を呼び、やがて手に負えないほどに混迷の度を深めてしまうことだってあるわけだ。
 よく、知らない土地へ行って道に迷った時に同じようなことを経験するものである。とりあえず、不可解さに拘らずに先へと進んでみると、自然に了解可能な地点に辿り着いている場合があったりする。かと思えば、ちょっとした思い込みに引き摺られて思いのほか見知らぬ地域へと入り込んでしまい、ほとほと見当のつかない場所へと突き進んでしまうこともある。それゆえに、この辺の判断の按配というものは微妙だと思える。

 まあ、概してこの辺の対応は、その人その人の物事への対処スタイルから来るものであるのかもしれない。自分の場合は、できるだけ "木を見て森を見ず" の愚をおかさないようにしている。そして、新規なシステムなどに接する場合には、わかる範囲内において自身が望んでいる成果を可能な限り多く手にしてゆくこと、それによって、親近感と有難さを感じ取り取りながらマスターして行く、というのが常套手段となっている。
 ということで、現在直面しているところの"ブログ" サイト用システムについても、 "したいこと" を明確にしながら、それらの実現に焦点を合わせてトライしようとしているのである...... (2008.05.19)

 若い頃の好きな言葉のひとつに、 "ファナティック [fanatic]" というものがあった。もちろん意味は "熱狂的" ということである。
 とかく、自身の持ち前の行動スタイルにもそんな傾向が滲んでいると察知していたが、この言葉に依拠しようとした行動は、どちらかと言えば、物事の探求面ではなかったかと振り返る。
 まあ、ちょっと格好をつけ過ぎという嫌いもあるが、疲れをさほど自覚しなかった若い頃には、とりわけ知的研究面では、結構、 "ファナティック" に対処して、自身でもそこそこ満足できるアクションをした覚えがないではない。集中力と体力にものを言わせて、一気に何事かの知的作業を完遂させる......、というようなことなのであった。
 よく、人には、 "短距離スプリンター" タイプと "長距離マラソンランナー" タイプとがあると言われたりするが、自分は明らかに前者のタイプに近い。事実、実際のスポーツの好き嫌いでも、同じことが言えそうであった。

 昨今、この歳となりながら、とかく身辺に課題山積の状況の中にあって、気持ち的には再び "ファナティック" なアクションの出番だと痛感はする。しかし、積年の怠惰な習慣が災いしてか、今ひとつ、思うようには対処できない自身の情けなさを感じたりする。そして、やはり歳のせいなのかと尻尾を丸めそうにもなる。
 が、どうも、歳のせいとかという言い訳を持ち込もうとする "そうした弱気" こそが最大の敵であるのかもしれないと気づいたりするのである。
 確かに、プロスポーツのプレイヤーなどには、歳による肉体的限界というようなものがありそうだとは思う。ただ、それでも一般的な "年齢限界説" にチャレンジしているプロも決して少なくはない。そこには、対処の仕方の可能性やら、当人の意識面でのパワフルさを感じさせるものが大いにありそうだ。

 思うに、一般的な "年齢限界説" なんぞを簡単に信じたり、それを厳密に検討することもなく、歳のせいだから......、と弱気に雪崩れ込むのはどうかということなのである。
 もし、それを言うならば、われわれは、昔の人々のようにある一定の歳となったならば、それなりに悟るものを悟り、大人げのある人格形成を達成してきたのか、ということになる。
 つまり、「子曰く、吾十有五にして学に志し、三十にして立ち、四十にして惑わず、五十にして天命を知る。六十にして耳順(したご)う。七十にして心の欲する所に従いて矩(のり)を踰(こ)えず。」【孔子 論語より】という、古人の人生の "ものさし" どおりのことをやってきたのか、ということなのである。
 そんなことはどこ吹く風の体たらくでありながら、体力・気力・努力に関する振る舞いだけは、いや、歳のせいで......、と怯(ひる)むというのは、実に勝手な言い訳、弱気に対する言い訳でしかないということになりそうではないか。

 てなわけで、古人とは、 "年齢のものさし" において別様なものを適用せざるを得ない現代のわれわれにとっては、 "四十、五十ははなったれ(洟垂れ)、六十からがまともな勝負!" とでも言うべきなのかもしれないわけだ。
 六十からが、 "ファナティック" な挑戦だとほざいてみたいものである...... (2008.05.18)

 つい先日、本格的(?)な "ブログ" サイトを立ち上げた。
 以前から "公開日誌" はこうして綴ってきていたのだが、これはCGIスクリプトでいわば "自前" で作った形式である。
 今回立ち上げたのは、先日も書いたとおり、<定評のある "高性能ブログ・システム( Movable Type 4 )" >を活用させてもらってのブログ・サイトなのである。しかし、 "自前版" であろうと、 "定評版" であろうと、ウェブブラウザからの要求に応じて、サーバサイドでのプログラム処理を行い、その結果をウェブサイトに表示するという点での基本構造に変わりがあろうはずはない。
 強いて言うならば、 "定評版" の方は、種々の機能が、スマートにコンポーネント化されていて、必要に応じてそれらの機能を援用することによってカスタマイズすることが可能だという点であろうか。大体、ウェブ上で実施したいことや、し得ることというのは限られているため、 "雛形" 的な構造スタイルもほぼ決まってしまうわけだ。あとは、見た目のデザインの選択肢ということになりそうである。

 まだ、 "定評版" のブログ・システム:" Movable Type 4 " についての学習が不足しているので詳細な感想を述べることはできない。が、やはり結構ありがたいと思っているのは、いろいろと自動処理してくれるコンポーネントが含まれており、何がしたいのかをユーザがはっきりさせさえすれば、カスタマイズが比較的容易だという点であろうか。
 と言っても、バカチョン的にカスタマイズができるというほどに自動化されているわけではない。ウェブページを構成するHTMLのスクリプトや、タグ(" Movable Type 4 "は、 "XML" というHTMLよりも高度で複雑な言語をベースにして構成されている)の知識と活用が前提となっている。これらは追々に習得していかなければならない。

 ところで、やはり "定評版" のブログ・システムで注目すべきは、 "トラックバック【track back】" 機能ということになろうかと思う。
 いわゆる "ブログ" がこれほどに関心を集めている理由のひとつは、比較的簡単に日誌などがアップロード、公開できるという点もさることながら、 "ブログ" 同士が、その記載内容の関係性の観点で "リンケージ" を張ることができるからなのかもしれない。
 つまり、ある人が "ブログ" である事柄やテーマについて何かを書いた時、既に、それらについて別な人の "ブログ" が何かを言及していた場合、双方が知らぬ顔をして無関係な状態でいるよりも、互いに "参照し合える" つながりを形成した方が有意義なはずであろう。それが、ネット本来の可能性に添うものだとも言えそうである。
 こうしたケースでの、 "相互認知" を形成するのが、 "トラックバック" というもののようである。もう少し、整理された説明を以下に引用しておく。

<トラックバック 【track back】
 ウェブログ(ブログ)の機能の一つで、別のウェブログへリンクを張った際に、リンク先の相手に対してリンクを張ったことを通知する仕組みのこと。
 ウェブログ作者が別のウェブログの記事を参照して自身のサイトにコメントを掲載するような場合、元の記事へのリンクを張るのが一般的だが、単にリンクしただけでは元の記事の作者はどこからどうリンクされているのか容易に知ることはできない。トラックバックはリンク元サイトに「このような記事からリンクを張った」という情報を通知する仕組みで、リンク元記事のURLやタイトル、内容の要約などが送信される。トラックバックされたサイトはこの情報を元に「この記事を参照している記事一覧」を自動的に生成することができる。
 相手に送信されるトラックバック通知のことを「トラックバック・ピング」(trackback ping)と呼び、通知の送信先を「トラックバックURL」(trackback URL)という。多くのウェブログの記事には隅に「この記事へのトラックバックURL」が記載されている。>(「IT用語辞典 e-Words」より)

 自分の "ブログ" サイトは、現在 "工事中" であり、意図的に公表する段階ではないのだが、それでも、テスト的な意味合いで、とあるブログ・サイトに "トラックバック通知" をさせてもらった。後ほど確認してみると、確かに、そのブログ・サイトの一角に、自分のブログ・サイトのその日のブログ記事のリンクを張ることができていた。他愛ないことではあるが、なるほど、こうなるワケだと合点したのであった...... (2008.05.17)

 38年も前の事を急に思い出せ、と言われても困るものだ。
 <昭和45年の7月頃に......>と、急に問われることになったのである。といっても、警察にではない。だから、何らかの刑事事件のアリバイ調査でも、参考人関連でもない。問い合わせは、同じ官庁関係からではあるが、 "社会保険事務所" からなのである。
 この間、60歳に相成るにおよび、もらえる人はもらえるらしい「特別支給の老齢厚生年金」(自分の場合は現役で収入があるためもらえない!)の「年金請求書」の書類手続きだけは進めることになっていた。
 そのやりとりの中で、大学時代にアルバイト先で加入することになった厚生年金履歴3ヶ月分が抜け落ちていたらしいのだ。今、 "社会保険事務所" 側は、いろいろな不祥事で顰蹙(ひんしゅく)を買っているためであろうか、こうした瑣末な点についても、逐一問い合わせを行っているようなのである。

 帰宅して、郵便物で確認した当局からの問い合わせは以下のとおりであった。
<S.45.7 頃 3ヶ月間 新宿区の会社に勤務したことはありませんか? ......>
 もちろん、咄嗟にそんな古い記憶を呼び覚ますことはできなかった。
 何だ、これは? と不審に思い、とりあえずは夕食前のビールに手をつける。
 自慢ではないが、学生時代に行ったアルバイトは無数にある。まあどちらかと言えば、年金徴収なんぞとは縁のないいい加減な類がほとんどであったため、まともそうなものを記憶の中でざっとサーチしてみる。
 すると、二、三、該当しそうなものが浮かび上がり、その内、 "新宿区で" という条件によって、あー、あれか! と思い当たったのであった。
 新宿の "とあるビル" の "夜警" なのである。おそらく、即今のように物騒な時代であれば、とりあえず "夜警" といえば "3K" 中の王者のような危険な職なのでパスしたに違いなかろう。
 が、当時は、今現在と比べれば世の中の危険度も高が知れていたし、何せ、当人こそが最も危険(?)であるような血気盛んな年頃でもあった。そう言えば、1970年であるから、学園紛争の嵐はひとまず収束してしまい、ヘルメット・角材・投石騒ぎを掻い潜った者としては、怖いものなんぞは何もない(♪ ただ、あなたの優しさだけが怖かった......♪ )、来るなら来い、といった調子だったのかもしれない。
 加えて、 "夜警" というのは、危険は危険なのだろうと推定したが、通常のバイトよりも単金が良かったし、また、 "巡回" 以外の時間は "詰め所" で読書などが可能である点が魅力だと思えた。確かに、随分と充実した読書をさせてもらったとの記憶がある。

 ところで、 "そのビル" というのは、ちょいと曰く付きのビルなのであった。今回、記憶を新たにすべく、例によってネット検索をしてみたところ、偶然に下記のような記述を見つけることになった。

<新宿の区役所通りを行くと通称職安通りに突き当たる。西北ビルはその少し手前の右手にある住宅公団の10階建てのビルの名称だった。
 西北ビルとは何となく早稲田を連想させるが、それもそのはず、このビルのオーナーは早大出身の田村泰次郎氏。終戦直後のベストセラー小説「肉体の門」の作家である。
 ビルの1階から3階までは貸店舗になっており4階から上が公団住宅になっている。地下には大きな高級クラブがあった。昼間は変哲も無い通りだが、夕方になると100名近い夜の蝶たちが姿を現し、西北ビルの前は忽然と華やいだ繁華街に一変する。>(日刊ブログ新聞 ぶらっと! 「人間蒸発と西北ビルの頃」より)

 今現在、このビルがどうなっているのかは知らない。40年近くも経てば、現存している方が珍しいかもしれない。
 <区役所通り><通称職安通り>といえば、今はどうかは知らないが、当時は、その種の女性たちがウロウロしていた場所である。現に、出勤途中の夕刻、あるいは明けて帰宅しようとする道すがらで、何度も「ねぇ、お兄さんどこ行くの......」と声を掛けられたことがあったものだ。
 ところで、上述の引用文中の<地下には大きな高級クラブがあった>という箇所には、そうそう、と思わず相槌を打ってしまった。
 このビルの "夜警" は、<1階から3階までの貸店舗>と<地下の大きな高級クラブ>とが警備範囲だったのである。そして、 "夜警" の "巡回" は、<貸店舗>それぞれを、確か部屋の中までチェックしたはずだった。真っ暗な部屋の中を懐中電灯だけでチェックするのは多少気味が悪かった。確か婦人服関係の店舗もあり、マネキン人形がちらほら佇んでいる部屋なぞは緊張した。
 そして、最後に、地下に向かって、ボイラー室での空調関係の操作を済ませ、そして<高級クラブ>の地下通路をチェックしながらビルの外回りに出たと記憶している。この地下通路のチェックだけが、唯一の "役得" であったかもしれない。というのは、高級クラブのショーの舞台で "脱ぎまくった" 夜の蝶たちが、そのままの格好で地下通路に飛び出して来て、着替え室に向かうのがお定まりだったからなのである。
 この "夜警" のアルバイトを始めた時、交代メンバーの先輩がとある事を教えてくれていたのである。 "巡回" 時刻は多少ズレても構わない。けれど、地下通路のチェック時刻は、23:**近辺となるようにすべきだ! と。統計的に言って、その時刻が、 "その出来事" がほぼ毎日繰り返される時刻であったわけなのである。まさに "その出来事" は、<小説「肉体の門」の作家>田村泰次郎氏のビルを夜な夜な徘徊するしがない貧乏学生 "夜警" への、心尽くしの "大入り袋" だったのではなかろうか...... (2008.05.16)

 今日は、とにかく目一杯働くこととなった。
 たまたま、今朝は、5時半に目が覚め、結局6時には起床してしまった。昨日までの冴えない天候であれば後1時間位は寝ていたはずだが、今日は久々に良く晴れ、明る過ぎて眠ってはいられなかったということだ。

 おかげで、7時には出社し、そのまま溜まっている作業課題に没頭した。その後の10時間は短時間の休憩はとったものの、ほぼ一貫して作業にあたり続けた。
 そんなことが可能であったひとつの理由は、当面の作業課題が、いわゆる "力仕事" であったからかもしれない。つまり、悩ましく考え続けなければならないといった課題ではなく、比較的慣れているPC・IT作業の項目的な課題なのであり、それらを次から次へとこなすという経緯だったのである。
 とかく、悩ましく考え続けてみても成果がえられにくいことにまみれていると、こうした "力仕事" で忙殺されるのはある意味では心地良いとも言える。
 ただし、それだけで仕事をやっているつもりとなれるものではない。こうした "力仕事" の積み重ねが切り拓いてゆく道の先に、何を見出すか、それにぶち当たってゆくことこそが本命の仕事なのだと自分にも言い聞かせている。

 以前にも書いたが、IT関連のジャンルの作業課題というものは、実際に手を染め、手を下してみないと、なかなかその価値が評価しにくいものだと思われる。昔、プリンの味は食べてみないとわからない、というようなコピーフレーズがあったかと思うが、まさにそのような意味合いであるのかもしれない。こうした脈絡には何が潜んでいるのか、それを考えてみることは、興味深い問題かもしれない。
 その辺の事情を、荒っぽく、 "経験" の問題なのだと言ってしまうことも不可能ではないと思われる。 "情報" というものは、抽象的レベルに吸い上げられ、加工されて後に、人々の目に触れ、脳内を駆け巡るものではあろうが、元々は、 "体感的" に捉えられ、そのレベルで切磋琢磨されてきたものであるに違いない。
 そして、そうした "体感的" に捉えられる可能性が並存していた環境にあっては、その環境自体が "情報" の内実を理解させる橋渡しをしていたのかもしれない。人が、ちょいと小難しい理屈などに遭遇した際、いや、言ってみれば何々のようなものさ、と実体験のアナロジーに頼ったりするのは、その例だとも言える。

 しかし、現代の "情報" 環境、IT環境は、過去の牧歌的とも言える環境と比べれば、雲泥の差がありそうだ。つまり、過去の人々が、実生活の "体感的"、"体験的" 環境から得たものによって、とかくわかりにくい "情報" 環境に迫ったのに対して、現代の生活環境からは、そうした "体感的"、"体験的" 環境面が圧倒的に削り取られているような気がする。そして、 "情報" による人工的な環境が大半を占めてしまい、極論するならば、抽象的な "情報" によって同種の全体環境を推測、認識しなければならない構造となっていそうである。
 この辺の事情から、現代のIT環境にあっては、そうしたIT環境や高度な "情報" 環境を、それ自体として肌身で "体験" してみなければ、事の実相には迫れないと思われるのである。プリンのような、それまでの自然食からの推理を阻む食感の食べ物の説明(認識)に手を焼いた人々が、結局は、食べてみないとわからない、と言いのけたことが、今また、IT環境は "体感的" に活用してみなければわかりようがない、と言いのけようとしているのではなかろうか...... (2008.05.15)

 もう8年目になるほど毎日 "駄文" の日誌を綴っていると、どんなバカでも、ある種の閃きや悟り(?)に到達するものであろう。自分も、その点では御多分に洩れず、それに似た自覚だけはしている。
 それは何かと言うと、書きたいことや書くべきだと感じたことを、できるだけ "シンプル" に表現し切ってしまう、ということなのである。
 もともと文章化をするという行為は、他者に対してにせよ自身に向かってであるにせよ、いずれにしても、記憶に留められ、できれば反芻されて、さらに贅沢を言うならば、他者であろうが自分自身であろうが、それが原因となるようなアクションが促進されるならば言うことはない。

 ところが、往々にして、そうではないケースが多くなってしまい、またまたやってしまったと凹むことが少なくない。言ってみれば、書くために書いたというような正真正銘の "駄文" に終わるということである。我ながらあきれてしまうこともあるが、ひどい場合には、書き終えてさほど時間が経過しないうちに、エーッと何を書いたのだったっけ、という恥ずかしい体たらくとなることもないではない。
 確かに、 "下手な鉄砲も数打ちゃ当たる" ではないが、長期に渡って文章化作業を習慣づけると、文章の体裁だけは一応つくろう状態となるのは事実であろう。
 しかし、自分がこうして毎日書いているのは、何も "官僚作文" の極意を得ようとしているからなんかではない。むしろそうしたものを最も嫌悪している。そうした、形はあるけれど内容はナイヨウ! という類のメッセージが巷に溢れるからこそ、時代と世の中が立ち腐れ状態となるのだと確信してもいる。

 と言って舌の根の乾かぬうちに、あーだこーだと書きながらじわじわと "長文駄文" へと嵌りつつある予感がしている。
 いつであったか、議員さんたちの会話の中に、「その説明では国民にはわかりにくい。もっと "シンプル" に表現すべきだ」というような言葉があり、それを捉えて、とある有識者たちが「物事をそう単純化すべきではない」と批判したことがあった。
 その際、自分もまた頷いたのではなかったかと記憶している。社会問題や政治の争点を、やたらに "単純図式化" したのでは、客観的な事実認識をミス・リードすると思ったからなのである。かなり危険なことだとも感じたわけである。この点なぞについては、今でもこだわり続けている自分である。
 ただ、この主旨を尊重したとしても、やはり、文章やメッセージというものは、 "簡潔明瞭" さを目指さなければならないのだと思われる。
 とにかく、われわれの日常生活にあっては、メッセージやその他諸々の情報が溢れかえっているわけだ。その結果、いわゆる、 "情報アパシー" と呼ばれるような症状が社会に広がっているのだと指摘されてもいる。ということもあって、一方では、より "簡潔明瞭" なメッセージや情報が期待されることになるのであろう。

 今日、こうしたことを書いたきっかけはというと、いわゆる "マーケティング" のジャンルにおいて、『ポジショニング戦略[新版]』(アル・ライズ、ジャック・トラウト著、川上純子訳)というちょっと興味を惹くものに遭遇したからであった。この著書の詳細については言及する余裕がなくなってしまったが、 "マーケティング" ジャンルの古典(初版1972年)だそうであり、現時点での "情報アパシー" 状況にあっては、再度この "ポジショニング" という概念に回帰すべきだということらしい。
 ちなみに、そのエッセンスをちょっと引用しておく。

<何であれ、情報社会で成功するためには現実に即していなければならない。「現実=リアリティ」とは、「消費者の頭の中に既にあるもの」だ。
 ポジショニングの基本手法は、「消費者の頭の中に既にあるイメージを操作し、それを商品に結びつける」というものだ。誰の頭にもない新奇なイメージをつくりだすことではない。......
 人は、とてつもない量の情報が押し寄せると、本能的にそれらの情報を払いのけ拒絶する。一般に、頭脳は、過去に得た知識や経験に合致するものしか受けつけない。>

 不況という状況も重なって、現在はますますモノが売れない事態となっていそうだ。そんな中で、否応なく "マーケティング" がクローズアップしていそうである。そして、 "シンプル" な表現とか、その別表現でもありそうな "ポジショニング" という概念あたりが、有効性を発揮しそうな感触なのだろうか...... (2008.05.14)

 最近は、 "持続する......" という視点や切り口を耳にすることが多くなったように思う。最も頻度が高い言葉は、 "持続する経済(成長)" ということになるのだろうか。
 ちなみに、この "持続する" という言葉をキーワードにしてGoogleのネット検索をしてみると、以下のようなサイト情報が飛び出してくる。

<持続するガム><持続する企業成長の秘密><"満腹感"を長く持続する素材><持続する急成長の秘密><吸引力が持続する紙パック式掃除機><熱が出る - 熱が持続する 主な症状から探す 家庭の医学><「持続する成長力」に向けて><楽しく持続する「ダイエットの技術」><セクシーな夫婦関係を持続するには><最大36時間効果が持続する※※治療薬><持続する未来を目指して><持続する循環社会><通商白書2006 『持続する成長力』に向けて>......

 このまま、<持続する の検索結果 約 1,190,000 >を追いかけるほどヒマではないからやめよう。
 言うまでもなく、 "持続する" が省みられたり、注目されたりするのは、そもそも "持続しにくい" 時代環境の広がりが跋扈(ばっこ)してきたからなのかもしれない。あるいは、もともと "持続する" べくもない事柄があって、そこに現代における人々の過剰な期待感や欲望だけが増大して意識させられている場合もあろうか。

 やはり、現代のわれわれに最も強い印象を与えているのは、<持続する循環社会>ではないが、 "持続する(はずの)自然環境" が危機に瀕しているという緊急事態なのかもしれない。ここから、人々の意識に、 "持続する......" という視点や切り口が悲観的に刻印されているのかもしれない。
 また、 "持続してきた経済成長" が破綻し、その影響で、企業経営が行き詰まったり、(終身)雇用慣行が破綻したりする痛々しい状況が、 "持続する......" という状態への切望感、渇望を掻き立てているとも言えそうだ。現代の社会経済は、 "持続" よりも "変化" をこそ選び取った観がありそうだ。

 しかし、考えてみると、これだけサイエンスやITが飛躍的発展を遂げている現代において、こうした "持続する......" という状態への願望が、まるで歴史の過去における人々が生命の永続としての "不老長寿" に憧れたように、切なく意識されるというのもヘンと言えばヘンな話なのかもしれない。過去の時代に比べれば、現代のわれわれは、はるかに多くの "持続する" モノ群に取り囲まれて生活しているに違いないからである。
 もっとも、苦痛さえもが "持続する" ような仕組みも発生させてしまい、それから逃避するかのようにみずから死を選ぶという人々の存在も視界に入ってくるご時世でもあるが......。

 きっと、何が "持続する" べきであるのか、何を "持続させる" べきであるのか、その対象を選び損ねたのだろうと思われる。 "持続するもの" の象徴であり、お手本でもあったに違いない "自然環境" を、人為的に改造し過ぎたことが、 "持続する......" という視点に、今、われわれが囚われている原因なのかもしれない...... (2008.05.13)

 今日、とあるメルマガの記事の表題に次のような格言めいたものが記載されていた。

<「努力する人は希望を語り、怠ける人は不満を語る。」(井上靖)>

 現状のような時代環境では、<希望を語る>というのは至難の業であろう。ややもすれば、口を衝いて出てくる言葉は、 "絶望" へと傾く言葉ばかりであるのかもしれない。また、 "不平" と "不満" そして "愚痴" などは、湯水のように流れ出てきそうだ。
 そんなおおかたの現状にあって、<希望を語る>ことができる前提には、<努力する>という条件が潜んでいると言われると、意表を突かれる思いとなる。そして、『あすなろ物語』の著者である文学者・井上靖の言葉ともなれば大いに納得もさせられるというものである。

 一見、この格言めいたフレーズは、 "何をおっしゃるウサギさん" とでも言って茶化したくなるような "楽観性" を漂わせているようでもある。
 しかし、そう言うのであれば、 "希望" という観念それ自体が、命を持って生きる存在の本性である "楽観性" と無縁ではないと言うべきなのかもしれない。
 つまり、 "命を持って生きる存在" は、本来的に "楽観性" そのものでありそうだ。身の回りの動植物の姿を見ていても、ただひたすらに現在という瞬間を生きる様子は "楽観的" な印象そのものであり、今一言言い添えるならば、 "希望" に満ち満ちた様子だとも