2009年10月 アーカイブ

 夏場に "木陰" を作ってくれる樹木であるが、現金なものでこの時期になると "陽射し" を遮るという表現となってしまう。小さな庭の樹木のことだ。
 毎年、あざやかなピンク色の花をまさに華やかに咲かせる "サルスベリ" の樹が、ただでさえ陽当たりの悪い庭から陽射しを遮っていた。
 見るたびに何とかしなくてはならないと思い続けてはきたものの、手をつければ大掛かりなことになりそうだったのでそっとしてきたのであった。

 で、今日の午後、思い立ってその "サルスベリ" の樹の "剪定" をすることにした。きっかけとなったのは、その "サルスベリ" の樹の下の "健気(けなげ)" な "柚子" の樹であった。
  "日陰" に育ちながら、今年は数え切れないほど、と言うのは大袈裟だが、20個位はまともな実を実らせていたのである。例年は、当然とも言える様子で "いじけて" いたのか、二、三個の貧弱な実をつけるだけであった。
 ところが、今年はどうがんばったのか、あるいは暗い宿命の中で気を持ち直したのか、何かで発奮したのか、 "豊作" を成し遂げたのである。その "不屈" の姿を見せられてしまうと、これは何とかしてあげなくてはなるまい、と思えたのだ。 "義侠心" がくすぐられたのかもしれない。



















 時々、日常生活というルーチンからドロップし、いわば "正気に返る" と突然のごとく "寡黙" となってしまう。未だにそんな青臭さを引き摺っている。
 そして、そんな場合には、こうした日誌、文章をしたためるということがとてつもなく "難題" に思えてしまうわけである。
 いかに、日頃の自分は "正気" の自身から "幽体離脱(?)" でもしていて、戯言(ざれごと)三昧で流しているか......、と気づかされざるを得なかったりする。
 これまでも幾度となくこんなシチュエーションにぶつかっている。そして、そんな時には必ず、<こうして「日誌」もどきを「公開」のかたちで書くということの意味は何であろうか。>なんぞとアホな自問をしている。
 以下は、<「意味」を問えない人間たちを生み出す現代の病理!......>と題して書いていた、過去のそんな一例である。
 まるで子どもの玩具かリモコンの模型船のように見えなくもなかった、転覆して赤い腹を見せて漂う小さな漁船。にもかかわらず、その船体から奇跡的に三人の乗員が救出された。良かった良かったと思わざるを得なかった。
 上空から写された、荒々しい紺碧の海で無残にも真っ赤な腹を見せて転覆している漁船の光景は、生存者を抱えていたという何ものにも代え難い点を加味すれば、よくやった! と大いに誉めてやりたい衝動に駆られるものだった。専門家のコメントでも、こうしたケースは稀有であり、まさに "奇跡" ではなかったか、と。

 それにしても、台風20号の通過を挟み4日間も船内で耐えてきた海の男たちの、その逞しい生命力に感服せざるを得ない。必ず救助隊が助けに来る、と信じる気持ちだけが彼らの気力を支えたのであろう。実にあっぱれな精神力、忍耐力だ。
 交信が途絶えて行方不明となっていた時から気になっていた。なのに、その後、台風が南方で急旋回して北上を始めてしまった。だから、今回の台風に関しては、列島への上陸は免れても、八丈島近海で行方不明中のこの漁船に少なからぬ打撃を及ぼすであろうと推測させ、何とも気が晴れなかったものだ。
 知り合いがいるとかいないとかの問題ではない。 "働く漁船" とその甲板で身体を張ってがんばる男たちが、とにかく無事でなくてはならない、とただただそう思えたのだ。
 そして、台風の進路が八丈島近海を通過すると示された時には、これでは助かるものも助からなくなってしまうのではないかと危惧せざるを得なかった。

 もう何年ぶりになるだろうか。ホントーに久しぶりで "感動の名曲(名演奏)" を聴くことができた。哀愁、哀切に満ち、まさに心が洗われる想いとなった。
 チプリアン・ポルムベスク (1854~1883/ルーマニア)の「望郷のバラード」(原曲:BARADA)である。バイオリンの奏者は、この曲を日本に紹介したご本人、天満敦子で、そのCDを家内から借りたのだった。

 ちなみに、CDの解説は以下のようになっている。

<ポルムベスク:望郷のバラード  19世紀末、29歳の若さで薄幸の生涯を閉じたルーマニアの鬼才、チプリアン・ポルムベスクの作になる《望郷のバラード》である。愛国者であったポルムベスクは、オーストリア=ハンガリー帝国に支配されていた母国の独立運動に参加して逮捕投獄の憂き目に遭う。曲は獄中で故郷を偲び、恋人に想いを馳せながら書き上げた哀切のメロディーであり、ルーマニアでは誰知らぬもののいない懐しの名曲であるが、エクゾチシズム濃厚の故であろうか、国外では知られることが少ない、文字通りの "秘曲" であった>(Balada Atsuko Temma / 2003 King Record Co,. Ltd.)

 今日のような天気を "台風一過の晴天" というのだろう。大気の "塵(じん)" も吹き飛ばされてしまったようで、濁りのない紺碧の空が広がった。
 朝から陽射しも良好で、ウォーキングの際には心地良い眩(まぶ)しさに見舞われた。
 こんなふうに、人の心も人の世も、日毎、パーフェクトな "リフレッシュ" が徹底されたならば、どんなにか喜ばしいことだろうか......、と、ふと思った。

 近頃の自然は、人間が姑息さを束にして甚振(いたぶ)り続けるものだから、かなり神経質で癇癪(かんしゃく)持ちになってしまったようだ。動物虐待による動物たちに現れた異変と変わらない。
 もとより "意思のない自然" であるから、善し悪しにかかわらずその仕業の大半は人間の仕業に帰着すると言うほかないのであろう。
 次第に猛威を振るうようになった昨今の台風にせよ、人間の仕業以外ではない地球温暖化現象に起因していると見なせば、自然のせいだ、として知らん振りを決め込むわけにはゆかないはずだ。
 しかし、そんな "被害者" の位置にあるような自然であっても、癇癪を起こした後には今日のような "非の打ち所のない" 天候をもたらすのだから、何か、自然の "ノーマル" さを思わずにはいられなかった。
 おそらく、この国の人間たちは、こうした亜熱帯の自然の概して穏やかで人の良い(?)振る舞いに馴染み、自分たちの穏やかな "気質" を作り上げてきたに違いない、とそう思ったりした。

 最近、やや "根気" が薄れたかと思い立ち、再び "面打ち" を始めることにした。
 振り返ってみると、思い立ってから10年位は経っているような気がする。継続させていれば、今頃は "面打ち教室" でも開かせていただいていたかもしれない。
 実は、5年前にこの日誌で "面打ち" に関して書いていた。<夜店の裸電球に照らされた「般若」の面の木肌...... ( 2004.05.05 )>
 読み返してみると、現在の心境のほぼ大半がそこにあった。そんなわけで、ちょっとその文面をなぞってみようかと思う。

< 変わった趣味といえば、もう何年も前に「面打ち」をやり始めた。「面打ち」といっても剣道ではなく、能面の木彫りなのである。「翁」の面の三、四分がたの彫りかけと、「般若」の面の木材下拵え済みを、ほこりが被るほど長らく放置してきた。どうも、木材の材質を選ばずに、あり合わせの硬いものを使ってしまったため、骨が折れ過ぎていやになるまま放置してきたというのが実情であった。
 が、ここ最近、急にまた始めたくなってしまったのである。......>(同上)

 今現在の心境は、この "5年前の心境" と寸分違わない。そして、再びその<「般若」の面の木材下拵え済み>を彫り始めたのである。
 また、動機その1では次のように書いている。
 今日は肌寒い一日となった。小雨に加えてわずかに風も吹いていてる。戸外の樹木の葉が風で小刻みに揺らぐのが眼に入るが、それらがまたまた薄ら寒さを誘う。
 この寒さだと "外猫" たちもさぞかしこたえていようかと気遣っていたら、例の玄関前の "猫小屋" に二匹して入り背を丸めていた。なるほど、と安堵させられた。
 つい最近まで、無頼のオス野良猫がその "猫小屋" にまで襲ってきたため、二匹はしばらく寄り付くことができなかったという事情があった。しかし、今日のように冷え込んでくると寒い冬のことを思い出してのことか、以前のように二匹で身を寄せ合うように収まっている。
 もうしばらくしたら、また例年のように "湯たんぽ" の投入が必要になりそうか。

 こうして、 "戸外で過ごす" 猫たちが傍にいると、戸外で生活をする "ホームレス" の人々のことが咄嗟に思い起こされる。さぞかしこれからの夜半は辛いものになるはずだ。
 最近のウォーキングのコースでは、とある広い公園を横切ることにしているのだが、ちょっと以前の、さほど気温が下がっていない頃には一人、ふたりのそれらしき人を見かけることになった。
 そこには、水道もあり、また昨今見かけなくなった "公衆トイレ" も斬新な建物で付随していた。 "ホームレス" の人たちにとっては、一応着目する居場所となるのだろう。
 最近、彼らは "自転車" を生活の一助としているようだ。紙袋やバッグ以外にもあって当然の身の回り品が嵩むし、移動の際には役に立つからなのであろう。
 昨晩は大事を取って早寝と多目の睡眠を心掛けた。おかげで "喉の異常" は緩和したようである。
 また寝る前に、念のため寝室にタオルなどの "洗濯物" を湿ったまま干し、部屋の湿度を高めるというような裏技(?)まで施した。これは、冬場の旅行で暖房が効き過ぎ、室内の空気が乾き過ぎたホテルの部屋などで試してみたところ意外と良かった覚えがあった。
 どうやら天候の方もお湿りがありそうな気配だが、このところ晴れの日が続き、空気は乾き切っていたようである。
 この時期に晴れが続くことは小春日和という感触で有難いのは有難いが、なにぶん、 "新型インフル" が猛威を振るっているだけに、そっちの方が気になる。
 新聞でも、久々に、<インフル注意報・警報、24都道府県に>( asahi.com 2009.10.24 )という記事が報じられた。
<国立感染症研究所によると、18日までの1週間に全国の医療機関を受診したインフルエンザの患者は推計で約83万人で、前週より約19万人増えた。ほとんどは新型インフルとみられる。7月上旬以降の累積患者数は約317万人と推計されている。......>( 同上 )
 やはり、メディアは定期的に "騒ぎ続ける(?)" べきなのであろう。もはや、現代のわれわれは "メディア空間" を現実空間だと見なす習性がついてしまっている。メディアが報じないことは現実の事実ではないと見なされかねないからだ。
 風邪をひくことに警戒しているが、昨晩夜半に眼が覚めた際、妙に "喉がおかしく" て心配させられた。
 今のところ、鼻もすっきりとしていて、別段、風邪という症状を自覚しないが、声だけは太い声になってしまった。
  "新型インフル" は相変わらず "猛威" を振るっているとかだが、どうも今ひとつ緊迫感を欠いている、世間も自分も......。
 一頃、周りが大騒ぎしていた頃には外出時には必ず "マスク" を着用したものだったけれど、現在は思い出した時だけという怠けぶりだ。こういう状態の場合こそ、まんまとしてやられそうな気がしないでもない。
 といっても、ほとんど人ごみには近づかないようにはしている。ちょっとした買い物でスーパーなどを覗く程度であろうか。
 とにかく、今日は "喉のおかしさ" を警戒すべしというところか。体調も決して悪い方ではないので、ムダな心配をしないでも済むように片付けてしまいたい...... (2009.10.23)
 今さらのように "多様化ニーズ" への対応という経営のあり方が、 "時代の課題" なのかと考えさせられた。別な言い方をすれば、簡単に言って "専門特化" 路線ということになるのであろうか。
 従来からの発想で言えば "ニッチ" 路線ということにもなるし、あるいは "ロングテール" 戦略ということになるのかもしれない。ただし、ネット環境、しかも "検索" 環境が十分に機能していることが大前提のようだ。
 もしこれらの路線が現実的に功を奏するのであれば、中小零細規模経営を刺激することにもなり、この不況状況に違った局面がもたらされるのであろうか......。
 久々に "SEO(検索エンジン最適化)" の話題を取り上げる。
  "SEO" の手法のひとつに、サイトへのアクセス状況を統計的に分析してみる、という方法がある。無料のツールでもそこそこの傾向値が掴めたりする。
 自分も、" Googleウェブマスターツール/Google Analytics " を利用させてもらっている。その中に、自サイトへのアクセスが、 "どんなキーワードでの検索でアクセスされているか" を統計数字で表示するという興味深いものがあったりする。
 ちなみに、この日誌の "ブログ形式" のモードのものをその手法で覗いてみると、いろいろなことに気づかされる。
 そのひとつ、思いもよらなかったのだが、「不況に」というキーワードが結構 "効いていた" ようなのである。
 そのことに気づかされたのは、<「不況に強い業種・企業は何か?」という "命題" が徘徊する昨今 ......>(2009.01.23)というものを書いた時であった。このタイトルの「不況に」という部分がユーザ側での検索ワードの対象として引っ掛かったようなのである。別に、そんなことを意図したわけでもなかった。自身が身につまされていただけのことだったのである。
 ウォーキングの際にしばしば出くわす "大柄な男" がいる。もう髪も全体が白いところを見ると、年齢的にもご同輩といったところだろう。
 あまり顔色が良くないこともあり、悪い想像を誘う。そして、もし病気にでもなったりしたら "介護" をするご家族は大変かもしれないな、と不吉なことを考えたりもする。
 というのも、あの "大柄" では80キロ、90キロはありそうで、そんな "大男" を "介護" で日常的にサポートする(動かす)となると、これは大変だなと......。

 こうした "領域" の出来事や光景が、もはや決して他人事では済まなくなっているのがシビァな現実だと思われる。
 精々自分も "スリム" となっておき、周囲の "重荷" にならないようにしなけりゃマズイかな......、と考えないわけではない。まあ、モバイルPC並みの "持ち運びに便利" なサイズとなるのはムリとしても、女の細腕でもまずまず難儀しない程度の "軽量化" 、イメージ的にはノートPC水準の扱い易さとなるべきかな、と。
 以前は、誰が扱うにせよ "重ったい!" というような、イメージ的にはタワー型PCの類であったはずだ。が、まあ、昨今は70キロ前後をウロウロしているので、今ひとつの "軽量化" が望まれるといったところか。
  "老い" に "哀れさ" なんぞが微塵もないことを、一匹の飼い猫、 "クロ" が教える。
  "クロ" はもう十数歳を超えるのではないかと思う。確かに、身体の "老い" は隠せなくなった。体力や運動神経での、ムリはもはやしないと悟っているかのようである。
 しかし、その分、長い人生経験(?)で培った "知恵" とでもいうものを存分に発揮しようとしているし、そうしている。また、その "読み" がなかなかのものであるため、ふむふむ、なるほど......、と感心させられる。
 だから、 "老い猫" の "哀れさ" という通念なぞはさらりと払拭し、人間さまもこうあるべし、とでも教えているかのように見えたりする。 "老い" によってやむなしと見定めたことについては、 "年寄りの冷や水" と揶揄されるまでもなく自重しつつ、 "歳の功" ともいえる領域においてしっかりと対処して、忍び寄るハンディを埋めて余りある、そんな動きをとっている。そうした "知恵" を生かした生きざまが見事だと思えるのだ。
 最近は、台所に立つことが少なくなくなった。家内が高齢の母親をケアするために実家に出向き留守が多くなったこともある。また、遅ればせながらの節約志向という世知辛い動機もある。が、まあ、決して悪いことではないと感じている。
 最初は、自分が使った食器類を洗うことから始まった。そしてご多分に漏れず、厄介感が拭い切れないでいた。が、いかに動作にムダなく手際良くこなせるかという観点を導入してみると、セイノー! でスタートして、我ながら感心するほどの短時間で済ませるようになった。
 昨今では、食器洗いのみならず、自分で口にするものを料理することも厭わなくなったものだ。といっても大したことをするわけではない。残り物の食材でチャーハンを拵えたり、味噌汁が好きなものだから、適当な野菜を見繕ってあっと言う間に作ったりする。
  "サンルーム" の脇に残った小さな庭には、時折 "野鳥" たちが来てくれる。
 そこで、もうだいぶ以前に使ったことがある野鳥用の "餌入れ" (筒状のもの)を、適当な木の枝にぶら下げてみた。ヒエやアワといった野鳥用の餌は、封を切らないままで残っていた。厳密に言うならば "賞味期限" なんぞはとっくに過ぎているのだろうが、まあ勘弁してもらうことにした。以前、自宅近辺にスズメが多く飛来した頃に買って、しばらく与え続けていたものだった。
 ところが、近所の家に "スズメ嫌い" のお宅があり、ちょっとした "抗議" を受けて中断したのであった。スズメ(の糞)くらいまあ良いではないかと思えたが、念のため止めておくこととした。
 後日、わかったことだが、そのお宅の屋根の隙間に、嫌われたスズメたちは "巣" を作っていたのである。そのお宅の住人からは見えないところであった。偶然、窓からそのありさまを目撃したのである。皮肉なもんだなぁ......、とひとり薄ら笑いをせざるを得なかった。
 どうしても "効率、効率" と囚われてしまう "クセ" が抜け切れない。そんな時代に生まれ育ち、時代環境が、周囲が、自分が、そして "落ちこぼれる恐怖" なんぞがこぞって束になり、尻を叩き、何事につけても "効率アップ" を促してきたのだから、そう簡単に "脱皮" できそうにもないのだが......。
 正直言って、矛盾にまみれた自分がいることに気づく。
 最近、総じて、生活ペースの "効率" が落ちてきたなぁ、と嘆く自分が一方にはいる。
 また他方で、頭では、直感では、もうここいらで "豹変"・"チェンジ" しなければマズイぞ! と叫ぶ自分がいたりもする。まあ、そう叫ぶ自分の脳裏に "効率だけを追っかけていたのでは、効率が悪い(?)から......" という、何のこっちゃ、とでも言わなければならない愚かしさもあったりしそうだが......。

 先日来、 "覚せい剤" 事件が世間を騒がし、賑わせていたものだ。自分は、この種の "薬物依存" という現象には、なぜだか無関心ではいられないできた。
 いやいや、心配はご無用で、決して手を出すつもりなんぞはない。ただでさえ、タバコ依存、ニコチン依存と縁を切るのに七転八倒してきたのに、これ以上 "依存性" の強いモノで撹乱されるのは真っ平御免である。
 問題は、それじゃあ "崇高な人間" は、 "依存物質" と無縁な "純粋意志" の存在であるのか? という点である。あるいは、 "パブロフの条件反射" の犬を蔑めるほどに香り高き精神だけの存在か、といぶかるのである。そんなワケはなかろう。
 改めて "ボーダレス" 時代なのだと意を強める。まあ、そんなに意を強めることもないようだが、強まってしまう。
 何がといって、 "プライベート" 空間と "公共" 空間との "ボーダー" の壁が踏み倒されてしまい、 "ボーダレス" 空間がのっぺりと出来上がっていると......。
 先日、電車の中でうとうととしていると、えっ、自分はどこに居るんだっけ? と錯覚するような "音" が聞こえてきた。陽当たりの良い縁側あたりでうとうととしているのかと錯覚してしまうような "音" 、そう、パッチンパッチンという "爪切り" 特有の "音" だったのである。
 一瞬、辺りを見回してしまった。確かに、ウイークディの私鉄の下りともなれば、座席に座る乗客はまばらであった。視線を巡らすと、数メートル離れて、サラリーマン風の男、40前後といった男が、ビジネス・バッグを抱えるようにして座り、妙に念入りに "爪を切っていた" のである。
  "爪" を格納する作りの爪切りかどうか、飛び散るはずの "爪" をどう防いでいたのかいなかったのかは確認できる距離ではなかった。
 そんなことよりも、電車の中= "公共" の空間でそうした "プライベート" な作業をすることに驚いてしまった。ま、外見まともなサラリーマン風の中年男性であったからということもある。

「千歳飴でも噛んだんですか?」
「いや、ガムなどをちょっとね」
と、 "言い逃れ" をしたものの、 "千歳飴" とはズバリご明察であった。まあ、その時期ではないのでそのもの自体ではなかったが、 "千歳飴" としても販売されている "ミルキー" だったのだ。

 先日、スーパーの菓子売り場をうろついていた時、あの "ペコちゃん" の屈託のない顔がプリントされた "ミルキー" の飴袋が何故だか眼に入った。
 懐かしいなぁ。これって、確か一個一個が "蝋紙(ろうがみ)" (この表現は未だ死語にはなっていないのかな?)で捻って包まれているアレなんだろうな。味は至極シンプルなミルクっぽい甘さのアレなんだ......。と、そんなことを思い出したりしていたら、いつの間にか右手はそれをカゴの中に放り込んでいたのである。
 そのアレを、大人しく舐めている分には問題ないものの、いざ噛みはじめたりすると、やたらに歯にまつわりつき、自分のような "治療歯" には至って禁物であることなぞはどこ吹く風で忘れていた、その時には......。
  "記憶" というものは実に不思議なものだ。さらに、それと "夢" とが絡み合うとなおさら不思議度が増すかのようである。脳の、記憶のどこにそんなイメージが格納されていたのかと不思議がらざるを得ない。昨夜の "夢" を思い起こすと、そんなことを考えてしまう。
 その書店は、旧街道に向かって上る坂の突き当たりにあった。当時の自分は子ども――小・中学生、そして高校生――であったためによくは覚えていないが、確か向かって右の一角でタバコも販売していたようなそんな書店である。その旧街道の両側には、木造の古い店舗が肩を寄せ合うように並んでいた。場所は北品川、もう何十年も前に住んでいた懐かしいところである。
 当時の個人商店の書店というものはそんな小さな規模が当たり前であった。そして、店内の照明も、現在のように多くの蛍光灯がこうこうと照らすような明るさではなく、概して薄暗い。その薄暗さと新刊書籍が漂わせる印刷インクの匂いが書店独特の雰囲気をかもし出していた。
 10月も半ばに向かうとさすがに涼しくなった。今日あたりは涼しいというよりも薄ら寒い気配でさえある。
 また、陽が暮れるのも早くなった。5時を過ぎると薄暮という感じとなる。こうして、次第に秋が深まって行く。

 それにしても、 "時の過ぎる" のが速まったような感覚となって困ったものだ。
 加齢によるものとわかってはいても、あまりしょうがないことだとは思えずにいる。たぶん、単位時間当たりの仕事量が減っていること、しかも、とかく行動のプロセスが "エコノミー優先" となって新しい経験を排除しようとしているから、 "滑る" がごとくに "時の過ぎる" 印象を持つのであろうか。
 難しいのは、 "どうするか?" ではなくて "何をするか?" ということなのかなぁ、と思う。
 いや、いつもながらのことだが、何がどうというのではなくて "茫漠と" そう思うのである。
 自身の日常的な次元の話にしても、 "何をするか?" がとりあえず決まると、あとの "どうするか?" の段取りやプロセスはあっという間に時間が過ぎるほどに作業や事態は進展してゆく。
 情けないのは、 "何をするか?" の決め手を欠き、そのレベルでうだうだと思い悩み躊躇している場合であろうか。自分はバカではないか、自分は存外老いてしまったのか、と静かに落ち込み、沈み込んでゆくのもそんな時である。
 オバマ米大統領への "ノーベル平和賞" 授与を、世界の大方の人々が歓迎している。<核なき世界>を世界中の人々がどれだけ望んでいるかの証しだと思われる。
 だが、他方では実績がないにもかかわらず "期待" という観点に偏り過ぎている、という批判的な受けとめ方をする人々もいるようだ。

<反オバマ派が平和賞決定に批判 「足かせ」との指摘も
 【ワシントン共同】オバマ米大統領へのノーベル平和賞授与が決まった9日、大統領との対決姿勢を強めている共和党や保守派からは早くも「何も成し遂げていないのに」と批判が噴出。アフガニスタン情勢やイラン、北朝鮮の核問題に対峙する米国の指導者として、軍事行動などの厳しい対応を迫られる際の足かせとなる可能性を指摘する声も出ている。
 スティール共和党全国委員長は声明で、オバマ氏の「スターとしての力」が、平和や人権の分野で地道に努力し、実績を積み上げている人の存在をかすませてしまったと非難。 ......
 保守派論客のラッシュ・リンボー氏はノーベル賞委員会が「自らに自爆テロを仕掛けてしまった」と述べ、賞の権威が下がったと主張。ブッシュ前大統領の副報道官を務めたフラット氏も、実績のない段階での授賞は「ノーベル賞委員会の意図を疑わせる」と語り、ブッシュ氏への批判が背後にあると不快感を示した......>(【共同通信】2009/10/10 )

  "努力が報われない時代" という表現をよく耳にする昨今である。
 確かに、個人努力では済まない構造的な社会矛盾が個人にのしかかっている、そんな環境が目立つ。
 先日、とあるTV番組で、ある国民性をひとつの対象とする研究者が次のように発言していた。
 現代の国家は、 "富の再配分" を決定する機関であり、そのプロセスは政治のあり方によって決まるもの。だから諸外国の国民は、当然の権利として政治参加に強い関心を持つ。なのに、日本ではその辺の動きが実に大人し過ぎる......、と。
 ようやく、政権交代が実り、新政権は現在、 "富の再配分" の要ともいえる国家予算の "再編成" に着手している。じっくりと注視し、 "再配分" のあり方が国民一人ひとりの生活に大きな影響のあることを実感すべきであろう。

 ところで、 "努力が報われない時代" 環境というものは、もちろん、さらなる個人努力を強いるという無策ぶり、あるいは無謀さでは何ら問題は解消されない。 "自由競争" という美名のもとに "個人責任" だ "個人努力" だ、そして "競争" だとまくし立てていても空々し過ぎる。これらの言葉の大半が荒っぽい事実認識によって構成されて(でっち上げられて)いるために、非現実的だからであろう。
 これでは、あたら、自己清算(自殺)を選んでしまう者を増やすだけなのかもしれない。そう懸念する人は、決して少なくないのではなかろうか。

 今回の台風、関東地方はさほどでもなかったようだが、全国的にみるとやはり "あなどれない威力" を示したようだ。
 以前にも書いたが、とにかく "地球温暖化" が顕在化して以降、自然現象の荒ぶれ方は尋常ではなくなった。いわば、程度の差というよりも "フェイズ" や "次元" の相違へと突入してしまったような感触を受ける。
 こうなると "ディフェンス" 側は、従来の延長線上のスタンスでは防御し切れないのかもしれない。未知の "フェイズ" や "次元" での現象の現れ方をスタディして早急に防御策に組み込まなければならないようだ。少なくとも、 "高を括る" ことはできなくなったか。

 「土方殺すにゃ刃物はいらぬ、雨の三日も降ればよい」と聞いたことがある。それにしても、<土方>たちがまるでジェノサイド(集団殺害)されるほどに雨天が続いている。おまけに明日辺りには台風18号が上陸し列島を縦断するとかである。  日本列島に到来する台風は、 "地球温暖化" に伴って "大型化" の一途を辿っているらしい。台風の "成長" には "海水温度" が条件となっているようで、高ければ高いほどに "上昇気流" が強くなり、その分、台風は増強されるとかである。つい先日も、目ざといメディアが、こんなことをテーマに取り上げて世間を震撼させていたかのようだ。  だが、このところ幸いにも列島への "上陸" はなかった。ということもあってか、ほぼ上陸が "当確" 扱いとなったような今回の台風18号は恐れられている。メディアは連日この話題を流し続けている。  列島を "縦断" するコースを歩んだ台風のひとつに、 "2004年10月の台風22号" があったという。ちなみに、 その時のこの日誌 を振り返るという "気の利いたこと(?)" をしてみると次のようであった。
  "どこの誰" という点が気になってしょうがない時代、絶対に外せない時代環境というものもあったわけだ。
 あの有名な、 "誰もが知っている" ところの "月光仮面" (1958年のテレビドラマ)の時代がそうだろう。

<♪どこの誰かはしらないけれど
誰もがみんな知っている
月光仮面のおじさんは......♪>(「月光仮面 ~月光仮面は誰でしょう~」/作詞:川内康範,作曲:小川寛興)

  "どこの誰" という点への疑問に応えることが言わば当然であり、常識であった時代環境だったからこそ、<月光仮面は誰でしょう>というサブタイトルが活きて輝きもした。
 まあ、今でも、別に週刊誌ではなくとも人が他人の "氏素性(うじすじょう)" という "属性" を知りたがるのは変わらないといえば変わらない。
 ただ、困ったことに、人はその行為や言動でこそ評価されるべきにもかかわらず、 "どこの誰" という "属性" をもって筋違いもはなはだしく足を引っぱる者も少なくない。
 近代現代は、行為や言動、すなわち "業績・能力" の軸によって人は評価を受けて処遇
される時代であろう。
 そんな判断が根底にあってのことか、現代という時代は "属性" 的な事柄をさり気なく対処することが一般的となった。まずは、当たり前のことであろう。
 この何日か、ウォーキングの際に気になっていたことがあった。河川に沿ったウォーキング道の途中、住宅地に接した袋小路の方からウォーキング道に向かってとある "旗" が立てられているのだ。そこは、大通りではなくウォーキング道なのであるから、通過する人足とて限られているだろう。そこにもやや引っかかったりする......。
  "旗" といっても、もちろん直江兼次の戦旗でもなければ、日の丸の旗でも赤旗でもない。そこは静かな住宅地であるために、新発売!何とかかんとかという商店用の旗でもない。
 ややそれに近いかもしれないが、 "理容店......" という "旗" なのである。あの "赤・青・白" という特有のコンビネーションを背景色にして、この近辺に "理容店" があるので "利用" してください、とでも言っているようなのである。
  "店名" があるわけでもないし、 "開店" という文字を見つけることもできない。その袋小路を覗き込んでも、あの特有の "ねじりん棒" を見つけることもできない。
 しかし、ウォーキング道のそこを通過する時に、嫌でも眼に入るのだ。一体、何を訴えているのだろうかと、そんな風に気になっていた。
 今日はまあまあの秋晴れの天候だから、ほっとしていたに違いない。町内の秋祭りのことである。
 つい今しがた、何回目かの山車の行列が旧街道を通って行ったようだ。自宅に居ても、笛、太鼓といった囃子の音だけはよく伝わってくる。さすがに人のざわめきまでは届かない。もともと、 "行儀が良過ぎる" ほどの静かな祭りなのだ。
 そういえば去年は町内会の年次当番であった。といってももっぱら家内に肩代わりしてもらっていたのだが、家内が "子ども御輿周辺の管理" とかの役目であったこともあり、自分も一応 "現場" まで足を運んだりしたものだった。
 その "現場" というのは、決して "神社の社" なんぞではなく、町内会の詰め所というかセンターがそれなのだった。
 その事情は去年も次のように書いた。
< 未だによくはわからないし、まあ、深く詮索するつもりもないのではあるが、祭りの本家である神社がちょいと遠いのと、にもかかわらず、この町内がその神社のいわゆる氏子であることから、町内会のセンターを仮設の神社と見立てて、執り行なっているという仕組みのようである。
 そして、本家の神社施設がないままに、祭りの付帯施設、御輿や山車であったり、奉加を記した掲示板とか、そして、香具師たちが仕切る夜店などだけが、とにかく祭り風景をかもし出しているのであった。>
 医者に行ってクスリを貰うと、その安堵感もあってかそれだけでよくなった気がするものだ。まして、 "痛み止め" であったり、 "抗生物質" を含むクスリだと即効性があるためそんな錯覚を誘う。
 といっても、そんなことがあったことを書こうとしているわけではない。現時点での経済動向についてなのだ。
 冷静に世界を見回せば、これといった抜本策が講じられたという形跡は見つけにくい。目につくのは、各国がこぞって膨大な資金を投じての "景気刺激" 策を行ってきたことであろう。つまり、人の病気にたとえれば、 "痛み止め" や "抗生物質" を矢継ぎ早で投じてきたということだ。
 それがそのまま愚作だと言うつもりはない。だが、 "対症療法" はそれとして、今回の深刻な状況に見合うような方向性がそろそろ具体化されても良さそうだ。もう、 "世界的金融危機" から一年以上経過したのだ。
 これが "秋の梅雨" なのであろうか。鬱陶しい。この先もしばらくこんな天候が続くとのことだが、それを思うとなおさらのこと意気消沈してしまう。
 相変わらず "サンルーム" を愛用している。しかし、こんな天候では小雨に煙る薄ら寂しい戸外の光景が透けて見えるだけ、そして妙に涼し過ぎるため "サンルーム" の名が恨めしく思える。
 晴れていると多少気温が低くとも、陽射しで部屋の中は悪くはなく、また周囲の樹木や植木の緑が眼をいやしてもくれる。野鳥たちもその樹木に寄ってくるので、思わぬバードウォッチングができたりもする。

 ところで最近、 "外猫" の一匹が妙に親しげになったのもこの "サンルーム" のためかもしれない。この部屋の周囲をよく徘徊しており、何をしているのか知らないけどここに居るんだな......、としっかり認識しているようである。ガラス越しにこちらから観察できるのだが、猫の方もガラス越しに居ることを確認しているわけだ。
 ここで作業をするまでは、 "外猫" との接点は、玄関口以外はなかった。そして、玄関のドアは、もちろん内と外とを遮断しているため、こちらが外に出て行かない限りは双方が、居るのか居ないのかさえわからない状態だった。
 ところが、この "ガラス張り" の環境というものは、 "外猫" たちにしてみれば、餌を "陳情" できる主の姿が十分に確認可能なのだ。

 今日は、安直に "コピペ" で往なそうかと......。
 実は、昨日の朝一、実に久々に "閃輝暗点(せんきあんてん)" に見舞われてしまった。
 洗面所で、鏡に映る自分の顔の像の中央部が何となく歪んで見える感触を受けた。あぁー、来たな! と直感せざるを得なかった。
 いつも、 "閃輝暗点" 症状に見舞われる初発には、こうしたちょっとした "視覚異常" が立ち上がってくる。このことを知らない昔は、眼の異常かと思い手で擦ることもあった。が、実のところ、これはそれ自体が問題であるよりも、その後に引き続く症状の方が辛いという代物であり、これはその辛さの、言ってみれば "オープニング・セレモニー" 、あるいは "表紙" でしか過ぎないものだったのである。
 つまり、やがて、じわじわと "閃輝暗点" 症状の "本体" がはじまり、進行し、そして、この "本体" そのものがまた次のボリュームある "続編" の "オープニング・セレモニー" の役割を果たすのだから厄介なのだ。
  "閃輝暗点" 症状 ⇒ "偏頭痛" という "一大イベント" が連鎖的に執り行われるのである。一頃は、後半の "偏頭痛" が二週間も続くという悲惨な時代もあったりした。
 まあ、最近は "偏頭痛" の方は比較的軽く、まったく生じないというケースも続いていた。今回もどうやら "表紙" のみで終わりそうではある。だが、何となくパッとしない気分が寄り添ってはいるが......。
 で、この際、この "閃輝暗点" についての情報を引用しておこうと思い立ったのである。以下の解説は、症状の実態をかなりうまく描写しているようだ。

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