最近は台所に立つことが多くなった。家内が実家の母親の介護で不在となることが増えたためである。学生時代にアパートで一人暮らしをしたこともあり、自分の食べるものを自分で作ることをさほど苦手とはしていない。
とはいっても決して料理が得意だという訳なんぞではない。おそらく、過去に何かの拍子で料理というものに "入れ込む" 機会があったとしたなら、それはそれで他人に自慢できる料理のいくつかも作れたのではなかったか、と勝手なことを考えてはいる。決してこの種の作業に苦手意識や、嫌いな要素があるとは思えないからである。
それはともかく、現時点で得意技があるとすれば "段取り上手" ということになるのかもしれない。まぁこれも単に自画自賛でしか過ぎず、誰もがやっていることなのかもしれないが......。
ただ、現時点のような "境遇" 、ギリギリ空腹にならなければ台所には向かわず、何がしかの料理が出来上がらなければ空腹が満たせない、というような切迫した事情にあると、あっという間に "でっち上げてしまう" という類の技は、結構、実用的なのである。
それも、作る段取りだけではなく、作りながら、不要となった食材や道具類の片付けをも同時並行的に処理するので、 "でっち上がった" 時には、後は食べるだけというような "段取り上手" なのである。これとても、ただ単に、食後にバタバタとはしたくない、という思いがそうさせるだけのことなのであろう。
現在、"言語力"の低下問題が、人気スポーツのサッカー・トレーニングでも注目され、 "戦力強化" のために<言語力の育成>が課題視され始めていることを、一昨日書いた。
TVの報道関連番組、<「"言語力"が危ない~衰える 話す書く力~」/NHK『クローズアップ現代』NO.2822/2009.11.25>が興味深く伝えていたのである。扱われたテーマは、蔑(ないがし)ろにできない重要な課題だと思えるので、再度、取り上げておこうかと思う。
もとより、この問題は、スポーツのジャンル以前に、現在のわれわれの日常生活上の広範囲の分野で懸念されている問題だと思われる。
上記番組はなかなか良くできていたので思い出せるかぎり振り返ってみると、つぎのようになろうか。
安いものを買えば "デフレ" が深まるのかもと懸念しつつも、久々に "100円ショップ" に立ち寄った。自分が使う、あればあったに越したことはないというようなものが念頭にあったので、 "100円ショップ" で買えばいいかと思ったわけだ。
相変わらずの大繁盛ぶりであった。昨今は客層が多様になったかのような気がした。老いも若きも、おばちゃんも子供も実にさまざまな人たちが立ち寄っている。
特に目につくのは、子供連れの親子である。親は親で何か探し物をしているようでキョロキョロとしており、その間、子供は子供で目につく多彩なものを手当たり次第手にしている。こうしたショップでは、親も子供に注意する必要を感じないのであろう。仮に粗相があったとしても大事にはならないはずだからだ。だから子供ものびのびと商品をいじり回し、思いっ切り好奇心を満たしている様子である。
考えてみると、こうした大しておカネの掛からない "安心できる" 空間というのは意外と少ないのかもしれないな、と思った。
確かに、 "デフレ" 傾向はあらゆる商品の価格を押し下げてはいる。しかし、それに伴って庶民の "懐具合" もますます心もとなくなっているに違いない。さして事情は変わらないわけだ。
やはり、日本社会は、グローバリズムのうねりを迎えるのにあまりにも準備不足、あるいは準備が杜撰だったのかもしれないなぁ、と痛感させられた思いだ。
「構造改革」のスローガンで問題にされたのは、もっぱら経済や財政の構造の問題であり、もちろんそれらも重要ではあったが、グローバリズムの世界を支える "人間の能力" についてはあまりにも無頓着過ぎたようだ。
"思考力" と "コミュニケーション力" が、グローバリズムの時代にあってどんなに重要なものかという認識が希薄であり過ぎたようだ。
"思考力" といえば "理数的知識" だと取り違えられ、また "コミュニケーション力" といえば "語学力" だと短絡された嫌いがあった。
"思考力" と "コミュニケーション力" とは、実は "コインの裏表" なのであって、 "切り離せない" もの、 "不可分" なものであるはずだろう。
この道理を、 "言語力" の問題なのだと言い切り、その不足が今大きな問題となっている、としたTV番組があった。
<「"言語力"が危ない~衰える 話す書く力~」/NHK『クローズアップ現代』NO.2822/2009.11.25>である。
毎日歩いているウォーキングコースだが、カメラを携えて歩くとまた気分が変わる。
今日は久しぶりに良い天気だったので、デジカメを持ち出してのウォーキングとなった。毎日これといって変わりばえがしない歩き方をしていると、後で思い起こすとほとんど何も覚えていない様なこともあったりする。我ながら愕然とするのであるが、記憶力がどうのこうのというよりも、決まったコースを決まったように歩くと何の注意力の思考も必要としないのだから何も覚えていなくて当然なのかもしれない。
これが、"思考のエコノミー"というものなのであろう。つまり、考える必要のないことは考えないで済まし、余計なエネルギー消費を抑えるという脳の"サボり"すなわち脳の"活動節約(エコノミー)"だと言える。
これはこれで意味のあることなのだが、歳を重ねると"度を越す"ようになるから始末に負えない。これではマンネリ感が募るばかりとなっていくぶん寂しい気分となる。だからと言って、ルーチンワークをしているのにいつもハラハラドキドキしていたのでは身が持たないことも確かだ。
久しぶりに、かつて使っていた「音声入力ソフト」を再び使い始めている。
特にきっかけがあったわけではない。むしろ、せっかく使い始めたのにも関わらずいつの間にか途中で止めたのが、惜しいくらいであった。
振り返ってみると、中断したにはそれなりの理由があったようだ。こんな日誌を書く際に、この「ソフト」を使おうとすれば、わけのわからないことを口にしなければならない。当人は良いとしても、これを耳にする周囲の人間は、いったい何をモソモソといっているのかと、不審に思うに違いなかろう。
そう思うと、気恥ずかしさが先に立ってしまう。そして周囲に人がいないのを見計らっていたりすると、いつの間にかキーボード入力の方が、手っ取り早くてラクだと思ってしまったのかもしれない。
そもそもこのソフトに注目したのには、二つの動機があった。
その一つは、不測の事故などで手だとか目だとかの怪我をして、キーボード入力がかなわなくなった時、音声だけで入力できれば、これ幸いだと思えたことである。そんなケースは、あまり考えたくは無いわけだが、たぶん、そんな時にこそこうした日誌を書きたくてうずうずするに違いないと思われた。
二つ目は、前向きの発想であった。キーボード入力よりも、「音声入力」の方が言うまでもなく効率的だと思えたからである。音声にした言葉が即座に文書化されてしまうのだから、それは効率的に決まっていよう。
ただし、そうなるためにはかなりの訓練が必要とはなる。相手はコンピューター(プログラム)である。そのコンピューターに、思い通りのことをさせようと思えば、様々なことを教え込まなければならないわけだ。
いよいよ "デフレ" が深刻さを深めているようだ。
昨今では、 "モノの安さ" をイージーに持ち上げてきたメディアも、ようやく事の深刻さに気づき始めたのか、 "デフレ" 化で過激化する "安売り" を警戒の姿勢で捉えるようになってきた。つまり、消費者たちも安穏とはしていられない現象としての "デフレ・スパイラル" に至る可能性のことだ。
こんな時期であるから、 "モノが買われる事情" という問題がいつにも増して注目されていいはずだ。
しかも、 "安いから買われる" という視点とは異なる事情があるとするならば、その事情こそが注目されていいと思われる。
これに関してこの何日か眼を向けてきて、二つの点に着眼してきた。
そのひとつは、 "買うための大義名分" が用意されていることが重要ではないか、という点であり、もうひとつは、 "買い易さ" という買うための "利便性" を高めるという点であった。
実を言えば、これらの点に気づかせたのは、とあるTV番組 ―― クローズアップ現代 直売所が農業を変える ~大ブームの舞台裏~(NO.2820)11月19日(木)放送 ―― だったのである。
<農産物直売所>とは、一見、何でもない "ビジネス・モード" のようなのだが、これが意外と当を得ており、モノが売れない時代の問題点とその打開の方向を良く示していると思えたのだ。
今日は久しぶりのよい天気であったため、庭の一角に設置した "テント張り物置" の整理・点検をした。設置して、とりあえず膨らんだ荷物を詰め込んで、もう3~4ヶ月となった。
その間、気にはなっていたものの、当初は夏の暑さ真っ盛りで汗をかきたくなくて "敬遠" していた。その "敬遠" は残暑の期間も引き続き、やがて、雨天だので "敬遠" することになり、そして近頃では寒いからと "敬遠" してきた。
途中、どうしても取り出す必要に駆られたこともあったが、逆にその必要性を "敬遠" することで、結局、延々と3~4ヶ月も手をつけずにここまできたのだった。
到底、快適な作業だとは思えなかったので "敬遠" してきたわけだ。詰め込む際には、その収容力だけを気にしていたため、取り出して使うことまで配慮できなかった。
だから、整理・点検となると、個々に重量のある荷物の大半を引っ張り出さなければならず、思うだに大掛かりな作業となることが眼に見えていたわけだ。
夕刻になって、何がきっかけだったか、とあるターム(言葉)が思い出せずにもどかしい思いをしていた。
昨今は、どうもこんなことが頻発してイジケテいる。いわゆる "度忘れ" ということなのだが、寄る歳波には勝てないということなのであろうか。やはり次第に脳が "劣化" しているのかと思うと、イジケルとともに、なにくそっ、と "反発心" も起こる。
どう "反発" するのかというと、先ず、多少時間がかかってもその "隠れている言葉" を徹底的に追跡するのだ。まあ、 "整形手術" をして隠れているわけでもないから、こちらが襟を正して集中するならば何とか "逮捕" に持ち込めるものだ。あまり愉快な作業ではないが、これまでも、何度もその轍(てつ)を踏んできた。
今回もその構えになった。 "ウォンティッド" の言葉は、 "要点把握" あるいは "要約" という "容疑" (意味)であった。もう十年も昔に使っていた言葉で、自分はなぜかその言葉が気に入ってもいた。それが悔しくも思い出せない。おまけに、確か半年ほど前に一度失念に気づき、その時は何とか思い出せたのだった。が、何と、 その"容疑者" を "取り逃がす" ことになってしまった。つまり、その際にしっかりと記憶しておくべきだったところをいい加減に流してしまったのだ。そして、今回再び "再捜査" を始めなくてはならない羽目になってしまったのである。
かねてから、モノが売れるのは "価格の安さ" からだけではなかろうと思い続けてきた。だから、過激な "価格競争" へと突き進む現状を、一方では了解しつつもどこか違和感を禁じ得ない面もあった。
もちろん、 "デフレ" への突入という最悪の事態に対する懸念もあるが、そもそも "安ければ買う" という心理が信用し切れないのだ。安く買ったとしてもそのモノに "満足できない" となれば意味がない。また、かつてのような "モノ不足時代" であれば、ひとに譲って喜ばれたり、抜け目のない人ならば "再販" で利ざやを稼いだりすることもできたかもしれない。
しかし、今は違う。商品はその価値をどんどん目減りさせているのだから、まるで "ババ抜き" のババのようにあるいは "不幸の手紙" のように、一刻も早く "手放したい" 、そんな対象と成り果てているかのようだ。
だから、 "よほどのモノ" でない限りは背負い(しょい)込みたくはないという空気が支配的であろう。たとえば、不況の際には繁盛すると言われてきたリサイクル・ショップでも、売れないリスクをたっぷりとカウントして買取(仕入れ)価格は極端に引き下げているのが現状のようだ。
"対話" について思いをめぐらせると、どうしても "価値観" の相違という事態に行き当たらざるを得ないのではなかろうか。
ちなみに、 "対話" というテーマを視界に入れる人たちの多くは、やはり "わかりあえる" 人間関係をどうにかして作りたいと望む人たちなのであろう。ただ、 "わかりあえる" 人間関係を望む少なからぬ人たちが知らず知らずのうちに思い込んでしまっている誤算は、 "価値観が同じにならなければわかりあえない" という点であるのかもしれない。本当にそんなものなのだろうか? いや、別な表現をするならば、 "わかりあえる" 人間関係とは、 "価値観が等しい" ことを指すのだろうか? "価値観が等しい" という条件が揃わなければ、 "わかりあえる" 人間関係は成立しないのだろうか?
では、相手側が自分側の "価値観" と等しくなったかのような状態を作り出せば、 "わかりあえる" 人間関係が成立したと思えるのだろうか? "ビミョー" な問題だ。
この問題に進む前に、 "対話" の "リアリズム" の中には、現実世界では当たり前の事態である "価値観" の相違を、巧みに、いわば "荒業" で乗り越えようとするケースがあることに眼を向けたい。 "対話技法" とか "ディベート" とかを思い浮かべるとわかりやすい。
たぶんそこでは、 "わかりあえる" 人間関係という一般的に想定されるイメージは "置き去り(?)" にされてしまいがちだ。
にもかかわらず、そうした "対話" の "リアリズム" の側面をも見つめておかないと、 "わかりあえる" 人間関係は文字通り "青い鳥" になりかねないのかもしれぬ。
昨日の話題の続きになる。昨日は、<わかりあえない時代の......>という言い回しが、この時代環境で生きる人々の心の奥底で響く、まるで "通奏低音" のようなニュアンスを持っていそうだと書いた。誰もが、口には出さなくとも大なり小なり感じ続けている、そんな重苦しい気分ではないか......、と。
そんな状況だからであろうか、 "わかりあえる" 人間関係が、 "青い鳥" のように追い求められもする。が、もともと "青い鳥" のようなものであるがゆえに、その先には苦い挫折感が待ち受けていたりもする。
いや、 "青い鳥" だと決めつけるのは問題もありそうだが、それほどに困難さが潜んでいそうだということである。
現代という時代は、 "価値観" が多元化し、錯綜し、いわば "神々の争い" 状態となっていそうであり、また個々人の趣味嗜好も炸裂したかのように多岐に渡っている。しかも、生活環境自体が止まることのない "個人化" 傾向を推し進め、生活スタイルもその傾向に大半が染め上げられている。
かつての家族集団が保持していたような "共通の生活体験" が、家族の中でも希薄になっているのが現代の否定できない傾向のはずであろう。実はその "共通の生活体験" こそが、かつてのわれわれがお互いに "わかりあう" ことに大いに貢献していた事実だったはずである。
さすがに週刊誌などの編集者は大したものだと思った。掲載記事の "見出し" の付け方がうまい。 "コピーライト的センス" とでも言うのだろうか。記事の主題と読み手の関心の在り処(ありか)とをまるで "スパーク" させるがごとく結びつけるその感性が実に巧みだと思える。
<わかりあえない時代の「対話力」入門/悪意の対話者に対抗するには
◆ 北川達夫・日本教育大学院大学客員教授/>( 週刊東洋経済 [11月21日号] )
北川達夫氏と "対話" 問題については聞き及んでいたが、この<わかりあえない時代の......>という "言い回し" が、とにかく自分の心の琴線に共鳴した。
ちなみに、 "コピーライト的センス" について先に書くと、このセンスこそ対話やコミュニケーションの "効率的・効果的プロトコル" (c.f.通信プロトコル)なのではないかと思っている。あるいは "スーパー・プロトコル" とでも言えるか。多少、送信機・受信機の機能に何らかのズレが存在しようと、肝心なメッセージだけは決してはずすことなく運んでしまいそうだからである。
きっと、このセンスの果たす筋道は、受信側では、もどかしくも状況が言葉に熟し切れていないにもかかわらず、 "ヘルプ・ミー" さながらに受信スタンバイOK状態が継続中のところ、そんな状態に向けて、実にスンナリと "当該の言葉" が送り出され滑り込んでゆくということなのかもしれない。
つまり、その "当該の言葉" はまるで "暗号" のような役割を果たすのであり、その言葉ひとつでもってその周辺の関連事実の多くが語られ、了解されてしまう、とでも言えそうか。あるいは、発信側、受信側の双方において、ワンセットの暗黙の共通感覚や共通認識が横たわっていて、それらが "当該の言葉" を "合図、口火" にして瞬時に "解凍" され、展開される、というようなイメージとでも表現されようか。
ついつい購入手続きをしてしまう衝動を抑えるならば、良い刺激になる情報源だと思う。 "Amazon" の書籍通販サイトのことである。時間つぶしを兼ねて街の書店内をぶらつく感じだが、立ち疲れということもなく新刊本の情報が得られるのでありがたい。
そんな "情報" のひとつに、『はじめて講師を頼まれたら読む本』[大谷 由里子 (著)]という新刊本があった。
かつて、自分も幾度か仕事関係や商工会関連での講演をさせられたことがあり、その都度、講演というものの難しさを感じ続けてきただけに、関心を向けてみたのだ。
今思うと、 "講演(講師)" の眼目というのは、誤解を恐れずに言えば、たとえ専門的に込み入ったテーマであろうが、いかに "聴き手を熱狂させる" かに尽きるのかもしれない。 "聴き手第一主義" 以外ではなかろう。間違っても、 "難しいことを教えてあげるんだかんね!" と気負わないことだ。 "人を使うは使わるる" (人を使おうとすれば、いろいろ気を遣ったりして気苦労をする。)に通じる深慮遠謀が必須のようである。
子どもに無理やりクスリを飲まそうとしたって、ウムと口を閉じられてしまっては万事休すであろう。それと同様に、どんなに講師側が重要なこと、聴いてためになることだと思い込んだことにしても、聴き手が "耳を閉ざす"、"聞き流す" 姿勢に終始したならば何の意味もなくなってしまうことになる。
よく、学校での大昔の授業などでは、そんな時教師が頼る方法といえば、 "これから話すことはテストに出るよ" という脅しのセリフだったかもしれない。が、今どきの市民生活ではそんな "脅し" のネタは何一つ転がっていない。 "美味しさ" で勝負する以外には何の手もないのである。
昨日の寒さとは打って変わって今日は寒さがない。陽射しもあるし、正午頃の気温は20度を超えて、湿度も80%を上回っている。北側に低気圧が配置して、南風が吹いているための天候なのであろう。悪くはない感触の天候だ。
庭では、山茶花がそろそろ開花を一斉に始めて、見応えのある光景を作り出している。その紅色に咲いた山茶花の花々の向こう、やや距離を置いた背景には、橙色のいかにも重そうな実を付けたお隣の庭の柿木が覗いて見える。ほかにも、赤い実の房を付けた南天や、黄色い実の穂を慎ましやかに付けた千両といった庭木が眼を惹く。
秋深まるこの時期、まだ庭木は緑を多々残してはいるものの、概して殺風景となりがちな光景に、そうした色づいた花や実の出現というのはうれしいものである。
ふと今気づかされたが、これこそ殺風景な姿、下半分はまるで電柱のようになってしまったような梨木の幹に、黄緑色の新芽の若葉が吹き出していた。グレーの電柱にイナゴかなんぞが留まっているかのような不思議な光景だ。
可愛そうにこの梨木には手入れが行き届かず、数メートルの高さまで伸び放題にさせた後、大胆な剪定をしてしまったため、木の下半分にはまるで枝がなくてまさに電柱さながらの格好となっていたのである。
そんな "電柱" 部分に、ひょっとしたら手頃な枝へと育っていくのかもしれない新芽の若葉が現れただけに、ほおー、やるもんだな......、と思わざるを得なかった。
こう寒いと調子が狂ってしまう。今日の気温は、12、3度にまで下がっている。曇天の上に小雨までパラついているので終日気温も下がったままだ。
身体を動かしている分にはどうということもなく、ウォーキングなどはむしろ快適でさえあった。だが、じっとしてのデスクワークとなると足元に暖房器具が欲しくなる。
この何日かこんな冷えた天候だということもあってか、風邪気味のような冴えない気分が続いている。
新型インフルエンザが猛威を振るっている時期だけに、たとえその種のものではなく季節性の風邪でも紛らわしいのでなりたくないものだと用心をしている。
しかし、 "用心をする生活" というのは "中途半端な気分" で嫌なものだ。力(りき)んでがんばってはいけないようで、かといってラフな気分となればとことんダラけて身を持ち崩すよう(?)でもあり、その頃合を窺うというのが煩わしく鬱陶しいわけだ。
ところで、よくよく考えてみると、この時代状況自体が "中途半端な気分" で充ちているような気がしないでもない。芳しくない経済状況に対して "用心" することが欠かせず、皆が "竦(すく)む" 構えとなっている。かといって、 "降りる" わけにもゆかない。
"模様眺め" 、 "様子見" といった力(りき)むわけでもなく休むわけでもないという、まさに中途半端な姿勢を取り続けさせられているのが大方ではないかと......。
天皇陛下は即位20年の記念式典に先立つ記者会見に臨み、戦争に至った歴史が風化することへの懸念を示し、平和への思いを強調されたそうだ。
<日本の将来への心配を問われ、陛下は「私がむしろ心配なのは、次第に過去の歴史が忘れられていくのではないかということです」と切り出して、第2次世界大戦に至る昭和前半の道のりを回顧。「昭和の六十有余年は様々な教訓を与えてくれます。過去の歴史的事実を十分に知って、未来に備えることが大切と思います」と締めくくった。 >( asahi.com 2009.11.12 )
<「私がむしろ心配なのは、次第に過去の歴史が忘れられていくのではないかということです」>と危惧された点に、ともに心を痛める国民は少なくないと思う。
あまりにも、 "忘れっぽい" 国民だと恥じ入るばかりだ。
戦争の悲惨さを身体が覚えていることはあったとしても、なぜそんなことになったのか、何に眼をつぶってしまったがゆえにそうなってしまったのかとかという、頭や心がしっかりと刻むべき事実をすっかり失念してしまっているかのようだからである。
たぶん、 "歴史" という人間ならではの知的産物とは、まさに "頭や心がしっかりと刻み込む事実" だということのはずではなかろうか。
玄関から最も遠い、庭の隅、お隣との境界近くに佇むため、これまでもさほど眺めることもなかった山茶花(さざんか)の樹。
今年は数多く紅花を咲かせる気配だ。すでに、二、三個が開花している。注意深く眼で追ってみると、葉に見え隠れしたかなりの数のつぼみが控えている。
庭の反対側の位置で存在感を増した柚子の樹と並び、これから眼を楽しませてくれそうである。
今日は朝から天気が崩れ、この後何日かはこんな天候が続くらしい。この時期のこうした天気の崩れを、山茶花梅雨(さざんかづゆ)と呼ぶらしい。
物の本によると、立冬を過ぎる頃にふる雨のことで、梅雨といっても長くはなく、山茶花の咲き始める頃に降り、春の菜種梅雨に対して呼ばれる "冬を告げる雨" 、だそうだ。この山茶花梅雨が終わると、いよいよ本格的に冬になるそうな。
だが、春の "菜種梅雨" といい、この秋の "山茶花梅雨" といい、昔の人たちはなんとも風情(ふぜい)のある物言いをするのかと感心させられてしまう。
ヒト、モノ、カネ、情報の "動き" が、ボーダレスに地球規模で交錯する事態のことを "グローバリゼーション" と言うのだろう。しかも、その "動き" をもたらす原動力は、博愛精神なんぞであるわけがなく、言うまでもなく "経済・金融的価値(収益)の追求" ということになろうか。
こうしたグローバル状況での最大の問題は、とかく自然(市場)の成り行きで "アナーキー(無政府的)" となりがちなことであろう。この間の "世界金融危機" はその象徴であったに違いない。
そして、 "アナーキー" な状況が帰着するのは、いろいろな観点での "不均衡" (複数の物事の間に、力・数量・程度などのつりあいがとれていないこと)ということではないかと思える。
今朝の朝日新聞の社説、<世界経済―新たな不均衡に警戒を>( asahi.com 2009.11.10 )は、抑制的な論評ではあるものの、この時期の世界経済の勘所をはずしていない。
身体に良かれと思ってのウォーキングでも、自然と眼に入る光景から社会変化の一端を見出すことがある。昨日は、唐突にも、クルマ社会の裾野に陰りが生じているのではなかろうかと書いた。
今日は、農地(畑地)の宅地転用が進んでいるかのような気配について書きたい。あくまでも、ウォーキングのコースで眼にする範囲内での話でしかない。
今年になってからのことかと思うが、二ヶ所の区域で農地(畑地)が宅地化されているのを眼にした。もともと、市街地のただ中に残されたかのような農地(畑地)であったため、やがてはそうなるのだろうとは想像していたが、いざ、分譲に向けた土木工事が始まったり、分譲販売の立て札が立ったりすると、そうかやっぱりなぁ、と何事かを考えることになる。
片方の農地(畑地)では、農作業に勤しむ所有者たちの姿を久しく見続けてきた。さほど多くの種類ではない野菜類を育てていた。作業をしていたのは、高齢の夫妻だったかと記憶している。それも、連日というふうではなく、ばらついていた。
従って、覇気のある農作業風景だったという印象は残っていない。やむを得ないことなのだろうが、概して沈んだ重っ苦しい空気だけが漂っていたようだった。
そんなことを振り返ってみると、事ここに至った理由が何はともかく "継続従事者" がいない! という一点に尽きるのだろうと了解できる。
仮に広大な農地であっても、家族などの後継者が農業を営み続けて "回してゆく" には大変なリスクを背負うとも聞いているが、さほど広くはない農地だとしても年老いた夫婦のみで運用してゆくとなると、肉体的苦痛の方が先に立ってしまうのだろう。
これは眼に入った身近なひとつのケースでしか過ぎない。レア・ケースであれば幸いだと思うが、ひょっとしたら、大多数のケースの典型であるのかもしれない。
このところクルマを利用することがほとんどない。あまり放置しておくとバッテリーが上がってしまいそうで、時々走らせる。まるで、犬に散歩をさせる感触だ。
そういえば、クルマ関連の業種も冴えない模様のようだ。
長い間、クルマのメンテを依頼し続けてきた馴染みの修理工場も、良心的であるというセールスポイントだけでは太刀打ちできないようで、どんどん目減りしてゆく顧客数を嘆いている。
近所に、クルマのメンテを個人経営的に営んでいた業者がいた。ウォーキングのコースの途中にあったため、見るとはなく眼に入っていた。よくはわからなかったが、一般のクルマのメカ修理というわけでもなく、塗装というわけでもなく、どうなんだろうか、クルマ好きなユーザーが持つ愛車の特殊な依頼をターゲットにしているような、そんな感触であった。
店舗の壁には、そこが扱った客のクルマのプロフィール写真がベタベタと貼られていたもので、いかにもクルマが趣味だという客層を相手にした "ニッチ" 業でやっているという印象を受けた。
もはや領域を選ばなくなった "弱肉強食" という言葉を英訳すると、 "the law of the jungle" (ジャングルの掟)となるらしい。
つまり、この国の現在は、残念ながら領域を問わず "ジャングル" になってしまったということか......。
つい先ほど、わが家で飼っている "外猫" の一匹が、 "例の凶暴な野良猫" に追い回されていた。それも、そいつは、自分の眼が届く庭の中をぬけぬけと横切るようにして追い駆けて走り抜けた。で、少し離れた方向から、 "外猫" の一匹のものと思われる鳴き叫ぶ声が聞こえてきたりした。
ほどなく、 "外猫" の一匹が庭に戻ってきて、幾分上気したような顔を見せた。
「だいじょうぶだったか?」
「......(しばらく来ないんでほっとして油断していたら、また性懲りもなくやって来ましたよ......)」
「あいつは、 "ジャングル" しか知らないものわかりの悪いヤクザだからね。逃げるが勝ちなんだよ。」
「......(アタシは、ほかに取得は何もないけど逃げるのだけは速いからだいじょーぶ)」
「あいつも、最近はここに来ても "残り餌が片付けられて何もない" もんで、苛立ってるんだな。いくらものわかりが悪くても、 "喰いものの道理" にだけは勝てないから、まあじきに来なくなるさ。腹ごなしと思ってせいぜい素早く逃げ回ることだな。うんと相手を疲れさせてやって、採算に合わない(ペイしない)ことを思い知らせてやるしかないんじゃないか......」
TVのCMに対する "不快感" については先日も書いたばかりだ。まあ、どうということもない問題であり、嫌なら視なければいいだけのことかもしれない。
ただ、視聴者たちの生活気分が浮かない状態であるに違いないこの時期に、あまりに遊離して能天気でアホくさい雰囲気を醸すのはどうにかならないものだろうか、と感じていた。一体、TV各局のセンスはどんな現実に棹差しているのか......と。
だが、ようやくTV各局も現実の厳しさに直面せざるを得なくなったようだ。
<民放CMじり貧>と題された記事( 朝日新聞 2009.11.06 )は、民放在京キー局の経営が曲がり角を迎えている現実を伝えていた。
<5日出そろった在京キー局の09年9月中間決算は、収益の柱だったCM収入が軒並み大幅に減少。......不況のせいだけではなく、インターネットにおされて広告媒体としての地盤沈下も進んでいる。CM頼みの限界を見てとった各局は、新たな収益源確保に本腰を入れ始めた>(同上)
今朝はあえて "朝寝坊" をしてみた。理由は、 "本当の疲労" を除去するには睡眠が一番だと聞かされたからだ。
どこから聞かされたかというと、<NHK番組『ためして ガッテン』>(2009年11月04日放送「世紀の大発見!頑固な疲れの原因"物質F"」)であり、それですぐに "ためして" みる自分の単純さには恐れ入る。
この番組で知らされた興味深い点は、「疲労感」と「疲労」とは異なる、という点である。通常、われわれが "疲れ" という場合、どうも「疲労感」のことを言っているようなのだ。つまり、 "脳" が判断した "疲れ" だということになる。
この感覚が "疲れ" にあらずということではないようだが、この感覚、信号だけで済ましてはいけない、いや、 "危険" だというのである。この "危険" の中には、 "突然の過労死" も除外できないというので、はぁーそうか! と合点した次第なのだ。
要するに、 "疲れ" というものは "二重" に出来上がっているようなのである。真の "正体" と、脳を介した自覚情報としての "影" とでも言うべき "二重性" 。
で、その真の「疲労」の "正体" とは次のように説明される。
もう11月ともなると、 "今年を振り返って......" という視点の "ランキング" などが登場することになる。
不況で "内需低迷" が叫ばれ続けた今年としては、そんな中で一体何が売れたのだろうかと、誰しもが関心を持つところだろう。
ひとつ例を挙げて "検証(?)" してみたい。
<「2009年ヒット商品ベスト30」>(「日経トレンディ/12月1日号 」日経BP社)という企画が眼についた。
「売れ行き」「新規性」「市場創出性」「影響力」などの観点から、同社が独自のランク付けを行ったものだ。
ちなみに、10位までを参照すると以下の通りとなる。
<
・1位/プリウス&インサイト-価格破壊がユーザーの度肝抜く
◆トヨタ自動車「プリウス」、ホンダ「インサイト>
・2位/キリンフリー-世界初「完全ゼロ」が新市場を築いた
◆ キリンビール「フリー」、ビールテイスト飲料
・3位/ドラゴンクエスト9-500万本を突破する勢い
◆「ドラゴンクエスト9・星空の守り人」、ニンテンドーDS
・4位/抗インフルエンザグッズ-未知の恐怖が備え喚起
◆ユニ・チャーム「N95マスク」、健栄製薬「手ピカジェル」
・5位/国宝阿修羅展-東京・九州に165万人詰めかけた
◆東京国立博物館「国宝・阿修羅展」、奈良県「興福寺」
・6位/-ドット入り罫線ノート-点を入れただけで2千万冊
◆コクヨS&T「ドット入り罫線シリーズ」、文房具
・7位/ウーノ・フォグバー-ポストワックス掲げ市場浸透
◆資生堂「ウーノ・フォグバー」、マンダム「ギャツビー」
・8位/ポメラ-発売即完売したメモ取り専用マシン
◆キングジム「ポメラ」
・9位/蒸気レスIH-味よりもスタイル提案した炊飯器
◆三菱電機「蒸気レスI・NJ-XS10J」、炊飯器
・10位/990円ジーンズ-年間100万本に情報修正
◆ ファーストリテイリング、ユニクロ、ジーユー、中国製デニム
>(上述書より)
一足先に "正月" を迎えたかのような、 "冬晴れ" のすがすがしい天気であった。冬型の気圧配置が成立したものと思われる。北風で雲も吹き飛ばされたのであろうか、雲ひとつない青空であり、そこから冬場に特有の控え目な陽射しが降り注いでいた。
そんな慎ましやかな陽射しであってもサンルーム内に燦々と届いてくれるならば実にありがたいことなのだが、生憎と陽射しの元である太陽の高度がこの時期は思いのほか低い。要するに、我が家の庭は "陽当たりが悪い" というわけである。
したがって、サンルーム本来のメリットである、冬場の "暖かさ" とは行かない。その代わり、太陽の位置が高い夏場は "申し分なく暑い" という、まるで銀行との関係(晴れた時に傘を貸したがり、雨が降るとそれを取り上げたがる......)を彷彿とさせるものがあるわけだ。
"ひとのせいにする" というこの時代で最も "メジャー" で、流行ってもいる振る舞い方がが気になる。
漢字で記すと "他人の所為にする" となるもののようだ。 "所為(しょい。したことの意。)" が変化して "せい" となったと言われている。また "ひと" と言っても、もちろん「函館の女(ひと)」のような「女」でないことは誰でもわかる。
中には、 "ひと(女)のせい" だと言ってはばからないほどに女性から手痛い仕打ちを食らった御仁がいるのかもしれないが、呆れるだけだろう。それとて、いわば "身から出た錆" 、 "自業自得" に落ち着きそうで、要するに、自身の愚かさを棚上げにして、諸悪の根源をもっぱら "他人" に帰着させようとするその "せこさ" を覆い切れないだろう。
それにしても、昨今は "ひとのせいにする" 面々が多い。もっとも、その "面々" の中には、自分自身をもエントリーせざるを得ないとは承知している......。
ちなみに、ストーカーまがいにある人の一日の振る舞いを観察したとしたら、何十回となく "ひとのせいにする" 言動、行動を目撃することになりそうだ。
横断歩道の前に立っているんだから停まればいいじゃないか、クルマは! と "ひと=他人" のせいにして、自分はというと意思表示のボタンを押し忘れていたりする。
バスに並んだら並んだで、何だってこんなに混むんだ、みんな(他人)ギリギリまで寝てて飛び出してくるからラッシュになるんだ、と言いながら自分を棚上げしていたりする。
駅で改札を入ろうとしてカードをあてがうと、改札ドアが開かない。何だってこんな時刻に故障するんだ! と駅員に噛み付いたりすると、お客さん、カードが切れてますので更新してください、と咎められたり......。
まあ、こんな具合に、それこそ "自己責任" に帰着するに違いないトラブルのその矛先をただただ "ひと=他人" 様に向けようとする。それもほとんどが反射的ともいえるスピードでのリアクションだったりする。
相変わらず、TV録画したものを編集をしてDVDに焼くというマメなことをやっている。一頃ほどに熱心ではなくなり、よほどの番組でない限りしなくなってはいる。
かつて録画したものが未処理のままHDDに溜まっていたりするという理由もある。DVD焼きをしたものは、DVDラベルまでオリジナルで印刷したりしていたため、そこそこ手間が掛かる作業となってしまうからというのが主たる原因だろう。
この作業で今さらながらストレスを感じるのは、編集過程でCMなどを削除することかもしれない。もっとも、民放番組の録画はほとんどしない。
が、たまに "開局何十周年記念番組" なんぞという物々しい番組を録画して、録画した以上は "所定通り" の処理をしてしまおう、という愚かなことをしたりする。
今日も成り行きでそんなケースをこなすことになった。
事前から了解してはいたのだが、問題はやはり "CMカット" 、 "コマーシャル・フリー" 作業なのだ。
土台、自分は現在のTVコマーシャルは大嫌いである。単に嫌いというよりも、不快感をさえ催すことになるので "生理的嫌悪感" がある。だから、民放ではなくNHKをしかたなく観るという流れもあるくらいだ。
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